聖霊降臨節 2020年度(後半)の礼拝説教要旨

聖霊降臨節 2020年度(後半)の礼拝説教要旨

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年10月25日  
降誕前第9主日
聖書 創世記 1章31節-2章3節      
讃美歌21 224、141、205
 「それは極めて良かった」
 1981年に公開された『炎のランナー』という映画を覚えておられますでしょうか。1924年(大正13年)のパリ・オリンピックで活躍した2人のイギリス人ランナーの物語です。陸上短距離の花形100mで優勝の呼び声高かったエリック・リデルが、予選が日曜に行われることで棄権し、本国で大騒ぎになります。この映画は神と国家のどちらに従うのかという大変重たいテーマを描きます。十戒は出エジプト記と申命記に記されます。申命記では過越の故事によって安息日が根拠付けられ(5:12-15)、出エジプト記では天地創造物語が安息日の根拠とされます(20:8-11)。
 「光あれ」という言葉で始まった天地創造の業は、第6日の地上の動物と人間の創造、そして、食べ物として植物を与えるという約束、これによって大きな区切りがつきます。一区切りつく毎に、神は造られたものを見て良しとされてから次のステップへと移ります。造られたものはそれぞれに名前が与えられ、同時に、それぞれに果たすべき役割が指示され、与えられます。
 わたしたちの住む東アジアの農業のイメージを西アジアの乾燥気候の地域にそのまま当てはめることは危険ですが、農業を営むには高度なシステムを必要とします。農業以前の経済が狩猟採集経済であったなら、先々を見越して食べ物を保存することはあまり考えないでしょう。むしろ大事なのは次にどこに移動するかです。ところが農業は種籾を残さなければなりませんし、土地柄によっては、そこに土や水の管理、畑や水路の整備、などの協力や分業を必要とする様々な仕事が発生します。
 そのようなことを考えながら第6日を読み直しますと、「支配せよ」という神の言葉が決して大げさな言葉ではないことに思いが及びます。あるいは「神はそれを見て良しとされた」という言葉も、これまた決して大げさな言葉ではないように思えてきます。そして第6日の終わり、全てのものが造られ、役割を与えられ、天地というトータルな世界がシステムとして完成した時、神はそれを見て「極めて良かった」とされるのです。
 新共同訳に限らず、現在の聖書で「神はそれを見て良しとされた」と訳されている部分は、70人訳聖書(LXX)では「神はそれを見た。美しかったからである」となっております。なぜそのように訳されたのかは今となっては分かりません。ただ、第6日の前半までいずれも「美しかったからである」と記されますから、意図的にそう訳されていると見ていいでしょう。あるいはと思いますのは、神が造られたもの、第1日ですと光、第3日ですと植物、第4日ですと太陽や月、それらはいずれも神が見るに価するぐらい美しかったということかもしれません。
 パウロや初代教会(異邦人教会)の人々が読んでいた聖書はヘブライ語聖書ではなく70人訳聖書でした。ですから初代教会の人たちが天地創造物語を読む時には「神はそれらを見た。美しかったからである」と読んでいたことは覚えておいてもいいでしょう。
 美しかったから見たのか、神が良しとしたのか、深入りしないでおきます。いずれにしても、造られつつあった世界が神によって承認されたことが記されます。
 極めて良かったという言葉に戻りましょう。ここだけは「極めて」の一言が付け加えられます。LXXも「見よ、それらは非常に美しかった」と書きます。その世界にわたしたちは命を与えられているのです。夕べがあり、朝となり、第6日が終わります。
 第7日の記事の前半には、「天地万物は完成された。第7の日に、神は御自分の仕事を完成され」た、と記されます。人間を含めて全てのものが第6日までに全部造られております。しかし、そこに安息日が加わってこそ、すべてが完成されるという信仰が書かれているのです。今も昔も安息日は天地創造の7日間の中で欠けてはいけないとても大切な一部分なのです。
 ところで、2章の1節から3節まで、第7日の記事は同じ事が繰り返し記されます。実はこのような表現は聖書に使われているヘブライ語の特徴の一つです。他の箇所では翻訳する時に簡略化することが多いのですが、ここは昔からそのままに訳すことになっているようです。日本語にしてわずか5行の中に第7日という言葉が3回も出てきます。原文でも3回出てきます。それほどに第7日すなわち安息日を覚えることは重要である、と天地創造物語は主張します。第7日は、神が安息され、特別な日として祝福された。だから我々も安息日を守らねばならない、というのは聖書の信仰の根幹をなす事柄の一つです。
 キリスト教は主の復活を記念して安息日を日曜に変えました。安息日という言い方はいたしませんし、律法の規定どおりの安息はいたしませんが、1週間の中に神のために特別に1日を取り分ける時を持つ、という安息日の精神は受け継がれております。
 キリスト教は週の初めの日である日曜日を礼拝のための日としたことによって、主の御復活とあわせて天地創造の始まりの日を毎週覚えます。なかなか気が付かないことでありますが、これはとても大切なことです。天地の始まりを毎週思い起こすことによって、わたしたちは時間が、そして歴史が、世界の始まりから終わりに向けて進みゆくことを思い起こします。その歴史はキリスト教用語でいうところの救済史、神の国の最終的な実現に向けてキリストによる救いが実現してゆく歴史なのです。
 もちろんのこと、わたしたちの生きている現実は、現実の社会は、「極めて良かった」と言えるようなものではありません。しかし、世界の初めには「極めて良かった」神の国が創造され、歴史の終わりには再びその神の国が現実となる。そのことを心に刻みながら、今週も日々を歩んで参りましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年10月18日
聖霊降臨節第21主日 
聖書 創世記 1章27-31節      
讃美歌21 224、79、520
 「すべて命あるものには」
 第1日は光が造られ光と闇が分けられます。神の栄光こそが最初に明らかにされる。天地は神によって創造された、という信仰を私たちは第1日に確認します。以後、順次様々なものが創造され、第6日には動物と人間が創造されます。
 古代オリエント社会では一般に王が神の似姿とされていましたが、この天地創造物語は全ての人が神の似姿であると語ります。神は王や貴族だけの神ではなく、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を導き出して解放した神でありました。第6日の前半は行間に厳しい社会批判を含みます。ルツ記に描かれるような落ち穂拾いの規定は社会的な弱者を救う神の姿を描きます。
 ところで、聖画に描かれた姿として思い浮かべる神の姿の多くは、白髪で髭の生えた年配の男性の姿でありましょう。古くはダニエル書(7:9)にもそのように記されますが、聖画としてはミケランジェロの「アダムの創造」をイメージしますでしょうか。
 歴史的には、たしかにイスラエルの神は男としてイメージされ続けています。万軍の主のイメージはやはり男神でしょう。そして神を意味するエロヒームは男性複数形語尾の単語です。
 キリスト教の文脈の中では、イエスが天の父よ、と祈りの中で呼びかけたことは、今に至るまで神を男性として思い浮かべる決定的な根拠となりました。わたしたちも毎週の礼拝で主の祈りと使徒信条の中で、天の父、父なる神、と呼びかけます。
 王国時代の庶民の感覚でもヤハウェは男神でした。わたしたちの感覚からしますと信じられないような話ですが「ヤハウェとその妻アシェラ」と書かれた石碑が発掘されています。
 しかし、先ほども読んでいただいた27節の言葉を先入観なしに読みますと、男性と女性のどちらもが神の似姿として造られたと読めます。神は男性でも女性でもない、ということをこの箇所は改めて語り掛けているようです。同時に、この箇所は人間が男なり女なりという性別を持つということを、とても具体的にイメージしております。ここで「男と女」と訳される言葉の原語はザハルとネゲバーです。ザハルは人間の男性を意味するだけでなく、動物全般の雄を意味します。また文法用語としての男性形を示す時にも使われます。ネゲバーも同様です。
 第6日までに造られた植物や動物は、いずれも「それぞれ」の種類ごとに造られました。種の名称こそ書かれないものの、外見も役割も異なる何種類もの植物や家畜が創造されたのでした。
 人間の場合も、漠然と人間が造られたのではなく、男性の仕事と女性の仕事とが明白に分かれていた時代に、男と女に分けられて造られたのでありました。
 そして、造られたばかりの「彼ら」、原文もちゃんと複数形になっております。彼らに向かって「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福の言葉が掛けられます。人間への祝福は地を従わせよ、生き物を支配せよ、と続き、さらにはその祝福の内容を具体的に示して「種を持つ草と種を持つ実を付ける木」が与えられます。
 肉食が許可されたのはノアの洪水の後でした。天地創造の時点では、人間以外の動物には青草が与えられます。ところが現実には、麦の種にせよ、ブドウなどの木の実にせよ、人間だけが食べるわけではなく多くの鳥や動物が食べています。
 第6日の前半が権力者の横暴な振る舞いへの批判を込めているのであれば、この第6日の後半に書かれていることも現実の社会の姿を批判的に見ているように思えます。天地創造の時には、造られたものを見て神が良しとされ、祝福された有り様があったのに、現実は違ってしまっている。野の獣たちは他の動物を食べている。畑の作物だって鳥や動物に荒らされている。天地創造の時の秩序は乱されている。そう語ることによって、ひるがえって人間の社会を見た時、王や貴族のような特権階級の人だけがいい思いをする社会は天地創造の秩序から外れてしまっている。全ての人は神の似姿じゃないのか。全ての人に食べ物が与えられたのではないのか。と訴える声が行間から滲み出てくるようです。
 6日間に渡る天地創造は、冒頭には原初の混沌が整理され、後半は季節の徴と共に様々な植物や動物が創造されます。整えられるのであっても造られるのであっても、それは神の言葉・神の命令によるのであり、それはまた神によって様々なものが名前と役割を与えられていく6日間でありました。
 6日間の創造の業の最後に造られた人間は大地と生き物を支配する役割を与えられます。その人間を初めとする動物たちの生命を支えるために様々な植物が与えられます。「すべて命あるものには」与えられるのですから、人間にせよ他の動物にせよ、飢えて死ぬものがあってはいけないという意味合いが含まれるのです。
 現実の社会がそうではないことを百も承知で、むしろ人間の社会に限るならば、貧しさによって満足に食べられない人が大勢居ることを知り抜いた上で、天地創造物語は神の言葉として食べ物を与える約束を語り、神の言葉の通りになった、と記します。その神の言葉、神の約束を実現するために、律法は例えば落ち穂拾いの規定を記します。
 この天地創造物語はただの神話ではありません。当時の世界観や宇宙観を描いているだけでもなく、神が創造した天地の美しさを手放しで喜んでいるだけでもありません。神の偉大さを語り、聖書全体を貫く信仰を宣言し、社会のあるべき姿を示そうとしています。現実を見据えながら、創造の神秘の中に時代を超えた真理を伝えます。それゆえに、それは3000年の時を経て、わたしたちの心に届きます。そして物語は神の国・神の救いを実現する道筋を示します。御国の実現のために働く者でありましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年10月11日
聖霊降臨節第20主日
聖書 創世記 1章24-31節    
讃美歌21 224、7、549  
 「神に似せられたもの」
 第6日の冒頭では「地はそれぞれの生き物を産み出せ」と神の言葉が語られます。「それぞれ」の意味は第3日の植物の時と同じです。細かい種類に分かれて産まれ出よ、それぞれの種類ごとに与えられた役割を果たせよ、ということです。
 そして、神の言葉の通りに、野生の動物、家畜、などが造られます。いずれも、これまた植物と同じように大地から産まれ出ます。ここで一区切りついたのでありましょう。この時点で神はそれを見て良しとされます。明らかにこれは人間が特別な被造物であることを示しております。一方で、人間も動物であるということも強く意識されています。人間に対しては「創造する(バラー)」と「造る(アシャー)」の両方が使われています。原文でも両方が使われています。「造る」は動物に対して、「創造する」は空と海の生き物に対して使われた言葉です。
 「我々に型取り、我々に似せて、人を造ろう」と神は語ります。第1の天地創造物語の神(エロヒーム)は文法的には複数形です。宗教史的に割り切ればイスラエルの神(エル)が神々の一人であった時代の名残でありましょう。この複数形を、神と天使たちと取る読み方もあります。これは明らかに後付けの発想ですが、今となっては無理なくイメージできる解釈であるのかもしれません。
 その「我々」に型取り、「我々」に似せて、人間が造られます。
 現代ヘブル語で「型取り」と同じルーツ(語根)を持つ単語として、名詞ですと影、動詞ですと写真を撮る、などが挙がります。他には、鋳型に金属やプラスチックを流し込むというニュアンスもあるようです。型取りという日本語がうまくはまっています。
 「似せて」も日本語のニュアンスとおおむね同じです。
 創造物語ではどちらもが、外見的な特徴、人間としての中身、という2つのニュアンスを持ちます。ここは「型取り」と「似せて」の細かい違いを考えるのではなく、置き換え可能な2つの言葉が並べられて強調されていると考えていいでしょう。
 人間は神の似姿である、などと言われます。全ての人が神の似姿であるとされ、その考えが近代社会の人権思想、特に平等という考えのベースになっているのはみなさん御存知の通りです。
 ところが古代社会では一般的に支配者である王は神の子孫であり、神の存在を体現するものであり、ひいては、その姿は神の似姿であるとされておりました。
 対して、この天地創造物語を素直に読みますと、王に限らず、人間であれば誰しもが、神の似姿であるとされています。これは古代社会に於いては、画期的な発想であり、支配者にとっては非常に危険な思想でありました。
 古代イスラエルは出エジプトの後もなかなか王国になりませんでした。神ヤハウェはエジプトで奴隷となっていたアブラハムの子孫を解放した神という性格を持ちます。王だけの先祖なのではなく民族全体の解放者ですから、神への信仰と王による国の支配とは元々が対立しやすい要素を持つのです。だからこそ、この天地創造物語でも、王だけでなく全ての人が神の似姿であるとされるのです。どうやらこの物語は、権力を握った王や貴族に対する批判、権力者に対する(ヤハウェ)信仰に基づく批判(エロヒームとヤハウェは置換可能)を行間に含むようです。
 そして「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と神は語ります。ここでも物語は、家畜と共に、自然界の野生の動物たちについて、それは王や貴族や金持ちといった特権階級の専有物ではない、と語っています。俗な言い方をしますなら、下々だって奴隷だって、魚や鳥や家畜や獣に対する権利を持っているのだ、魚や鳥を捕まえたり市場で買ったりして食べる権利を持っているのだ、金持ちだけの食い物じゃない、オレたちにも食わせろ、というところでありましょう。あるいは、権力に任せてオレたちの財産である家畜を取り上げるな、という抗議の声でありましょう。奴隷の解放者である神という性格が大変強く出ているように読めます。
 人間が創造されます。「型取って」「創造」されます。
 そして、男と女に創造されます。現代ではこれが天地創造の秩序というと難しい問題が出てまいります。旧約聖書の描く世界は、古代社会の男尊女卑の世界です。しかし、イスラエルの神が王や貴族だけに都合のいい神ではなかったのと同じように、男尊女卑の現実に対して男も女も等しく神の似姿である、と主張していると読むことができます。そう読む方が、抑圧された者の解放神ヤハウェの本領発揮でありましょう。
 全ての人は神の似姿に造られます。何が「神の似姿」なのか。これは難しい問題です。考えてみれば、創世記が描く神は必ずしも完全完璧ではありません。案外に人間くさい神です。
 ただ、イスラエルの神は、今から3000年も前に、落ち穂拾いの規定を律法に定め、奴隷の解放規定を作り、王だけではなく全ての人は私の似姿だと宣言し、私はおまえたちをエジプトの地から導き出した神である、と自己紹介する神でした。
 当時としては、常識を打ち破る神でした。画期的を越えて非常識な神でした。現代社会は、人口、環境、経済、感染症、様々な問題を抱えて閉塞感を感じています。力を持たない者が生きにくさを感じている時、権力者が横暴の限りを尽くして人々を抑圧し収奪する時、そのような時に、そのような人間の姿を見せつけられる時に、しかしながら混沌を打ち破り常識を乗り越える柔軟な視点と発想を本来は持っているのが、わたしたちが神の似姿であるということの一つの姿であるのかもしれません。困難と閉塞感を乗り越える知恵を主なる神が与えてくださいますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年10月4日    
聖霊降臨節第19主日
聖書 創世記 1章20-27節    
讃美歌21 224、514、225、81    
 「海に満ちるもの」    
 今日は天地創造物語の第5日、気付きますことが2つあります。
 1つは、水の中の生き物と空の鳥について「創造された」と書かれていることです。わたしたちはここで突然「創造」という言葉が使われてハッとすることになります。
 もう1つは、毎日の終わりに「神は見て良しとされた」と語られる基本的な祝福に加えて、造られた魚や鳥に対して「増えよ、満ちよ」と祝福の言葉が掛けられることです。
 第2日の大空と第4日の太陽と月と星は「造られた」となっており、第3日の植物は「芽生えさせた」となっております。第6日の動物は「造られた」であり、人間だけが「創造された」となっています。「創造された」は第1日以来です。
 この物語が文字にされた時代のこれらの言葉の使われ方には、よく判りません。後の時代には明らかに創造の方が重々しくなります。普通なら、大切な家畜の方に重々しい言葉を使いたいところでありましょう。そう考えると第5日の言葉遣いは筋が通りません。そこで発想を変えますと、動物よりも魚や鳥の方が造るのが大変だった、と考えることもできそうです。
 続いて、神の祝福とその言葉を見てみます。天地創造物語では、基本的に作業に区切りのつく度に、神はそれを見て良しとされます。第3日の植物は彼らの食料であるにも関わらず、追加の祝福の言葉が与えられてはおりません。また、第6日に語られる「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福は、直接的には人間に向かって掛けられる祝福の言葉です。動物や家畜には、造られた直後に「これを見て良しとされた」という基本の祝福が与えられています。
 水の中の生き物と鳥に対してだけ。「水に満ちよ、地の上に増えよ」という祝福がなされます。しかもそれが食料になる魚ではなく、大きな怪物やうごめく生き物と書かれます。古代のイスラエルを形成した民族は海に余り縁のない民族でした。どちらかといえば、海は生命を産み出すところというよりも生命を奪うところである、と考えていた節があります。ヨハネ黙示録(20:13)を見ましても、最後の審判のときに、海と陰府が審判の場に死者を引き渡すようなことが書かれております。旧約聖書全体を見ても、「海」という言葉はたくさん出てまいりますけど、海の恵みを語るところはほとんどありません。
 第3日の植物は大地から芽生えます。第6日の家畜も大地から産み出されます。海には大地のような生命力がない、と考えていて「海の水に満ちよ」という祝福を改めて加えなければ継続して生命を産み出す力がない、と考えていたのでありましょう。
 空の鳥も大地が生み出す生き物とは考えられていなかったのでありましょう。こう考えていきますと、増えよ、満ちよ、という祝福だけではなく、第5日に限って「創造」という言葉が使われているのも、大地に比べて海や空は生命を生み出す力が少ない分を神が補った、というニュアンスがあるのかもしれません。
 その他の細々したことも見ていきましょう。
 海の生き物にせよ、空の鳥にせよ、植物と同じく種類ごとに分けて創られています。「うごめく生き物をそれぞれに」「翼ある鳥をそれぞれに」という言葉です。この「それぞれに」が種類を分けるニュアンスを持っています。植物の創造と同じですから鳥や海の生き物も種類ごとに何某の役割を持たされておりましょう。
 海の魚については、旧約聖書には魚の種類名はない、といわれております。もっとも、現在のガリラヤ湖にはおおよそ25種類の魚がいると生物学者は言います。昔はもっと多かったかも知れません。種類ごとに食べ物としての旬は当然あるでしょう。第5日は魚とは書きませんが食べることも意識しているようです。
 第5日の物語では「大きな怪物」や「うごめく海の生き物」と記されます。ヨハネ黙示録(13章)に描かれる怪物も思い浮かびます。旧約聖書の中で他に探しますと、ヨブ記3章に描かれたレタビヤンという名の怪物が、第5日の海の怪物のイメージと重なります。これは詩編74編、イザヤ書27章などにも出て参ります。西アジアから地中海世界の多くの神話では、これは天地創造以前の混沌を象徴する怪物です。最初の混沌の中に怪物などが居ては、全てが神の創造の業によって造られたことにはなりません。聖書の天地創造物語では、その怪物すらが、原初の混沌を整えていく創造の業の中で造られます。
 植物と同じように、水の中の生き物も、空の鳥も、それぞれの役割を持って、それぞれの種類に分けられて造られたことが、第5日には語られます。被造物がそれぞれに、神によって役割を持たされるということは、やがて人の創造のところで重要な意味を持ってきます。さらには、人の生活に役立つわけではなく、むしろ人間に害を与えるものも被造物である、と物語は語ります。
 また、植物や家畜と違って、大地から生まれたのではない魚や鳥には、「産めよ、増えよ」という祝福の言葉が掛けられます。それは生命の再生産を命じる言葉でありました。
 人間の創造に向けて、徐々に世界が形づくられていきます。世界は神の創造の秩序によって整えられている、という確固たる信念が天地創造物語には流れています。その秩序をどう受け止めるのか、現代では難しいところもありますものの、世界が神によって創造され、整えられたという根本のところは、3000年の時を経て、わたしたちの信仰でもあります。神によって造られ、役割と命を与えられたことを心に刻みながら、信仰の日々を重ねてまいりましょう。託された役割を果たし、そのことによっても神の栄光を賛美することに繋がりますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年9月27日 
聖霊降臨節第18主日 
聖書 創世記 1章14-23節
讃美歌21 475、156、224  
 「大空に光るもの」
 天地創造物語の第4日を2つの疑問から始めましょう。
 4日目に太陽と月が創られるのであれば、第1日に「光あれ」と言われた時の光は何だったのでありましょうか。
 2日目に大空が創られ、3日目に植物が創られております。現代人は太陽よりも植物があとなのか?と思います。
 第1日の光から考えていきましょう。この解釈にも問題はあるのですが、どうやら神の栄光が天地創造の第3日までの世界を照らしていたようです。ヒントはイザヤ書、エゼキエル書、ヨハネ黙示録にあります。
 イザヤ書60章はいわゆる第3イザヤの預言です。彼は捕囚からの解放後、帰還した民に語りかけます。ようやく帰ったエルサレムは荒れ果てておりました。意気消沈する人々に向かって、ヤハウェの栄光があなたたちの上にある。さぁ、元気を出せ。エルサレムは必ず再建される。立ち上がれ。と第3イザヤは語ります。第2イザヤの救済預言を受け継ぎ、エルサレムとイスラエルの民の救済を語る中で、「ヤハウェの栄光がエルサレムの人々の上に輝く」と明快に語るのです。
 エゼキエルはバビロンで活動します。40章以降はエゼキエルが幻に見た新しいエルサレムの情景が語られ、43章に至ってヤハウェの栄光がエルサレムの街と神殿を照らす様子が語られます。
 ヨハネも幻を見ます。ヨハネ黙示録の終盤、最後の審判の後に生じる新しいエルサレムが得かがれます。そこでは、新しいエルサレムには夜はない、「太陽も月も必要ではない」(21:23)なぜなら神の栄光がエルサレムを照らすからだ、と記されます。
 神が天地創造に際して最初に語った一言は「光あれ」でした。その結果、昼と夜が分かれたのでした。それなのに、黙示録の最後で夜がなくなります。
 さらにヨハネは「新しい天と新しい地を見た。最初の天と地は去っていき、もはや海もなくなった」と記します。太陽と月、海と陸、天と地、結局、生き物以外の被造物はすべてが消え去り、そのかわりに新しいエルサレムが登場します。つまり、天地創造の第4日から第1日までの創造物が軒並み去って行くのです。
 今日は黙示録が本題ではありませんので詳しいことは省略しますが、ヨハネ黙示録が創世記の物語を意識していることは明らかです。新しいエルサレムを照らしたのが太陽や月ではなく神の栄光であったならば、天地創造の最初に現れた光は他ならぬ神の栄光である可能性は充分にあり得ることだと考えられます。天地創造の秩序は大きく崩されますものの、しかし世界の始まりと終わりをつなぐのが神の栄光なのだと黙示録は主張するようです。 
 新約聖書からもう一箇所探しますと、ルカ福音書のクリスマス物語でも羊飼いたちを神の栄光が照らします。
 次に、植物よりも後から太陽と月と星が創られた謎は、第4日の神の言葉の中に答があります。太陽と月に向かって神はこう命じます。「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」。第3日に創られた植物が種類ごとに異なった季節に実を結ぶ為に、季節が設定されなければならない。ということでありましょう。
 現代でも私たちは旬の食べ物をおいしくいただきます。古代であれば、むしろ旬の食べ物が中心の食生活であったことでしょう。ユダヤの祭りとしての過越祭と五旬祭と仮庵祭はいずれも季節の収穫祭の性格を持ちます。謂われとしては、この3つの祭はどれも出エジプト物語と結び付けられておりますけれども、レビ記に記された献げ物の規定を細かく見ますと、収穫祭と分かります。
 過越祭自体は遊牧民の祭ですが、同時に行われて一体化しております除酵祭(種を入れないパンを食べる祭)は農耕民の祭に起源するようです。五旬祭は過越祭から50日目ですから、出エジプトから50日目として律法の授与と結び付けられておりますけれども、これは元々は小麦の収穫祭であったと言われます。秋の仮庵祭がブドウやオリーブの収穫祭であったことは間違いないようです。
 ついでながら、今年の仮庵祭は今週の後半から来週前半にかけての1週間です(2日早朝が満月です)。
 天地創造物語は行間に当時の庶民の声をにじませます。古代のイスラエル人の多くにとって、季節の変化は旬のおいしいものが食べられるという以上に、次の収穫が巡ってくることで飢えなくてすむ、というのが現実だったのではないでしょうか。そうしますと、季節が進むことは神の恵みであり神の守りでありました。
 第3日の物語について、他の部分の本文を見ておきましょう。大空に2つの大きな光るものが創られます。もちろん、太陽と月です。新共同訳では、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせた」と訳されています。実はここの原文もいささか言葉の重複があってややこしいのですけれども、おそらくこれは明るさの大小と読むべきなのでありましょう。
 まとめに入りましょう。太陽と月が存在することそのものが、神の業であり、神の栄光である。太陽と月が創られ、地を照らしていることについて私たちは神の業を常に感謝しなければならない、と物語は語ります。良い人にも悪い人にも神は雨を降らし、太陽を照らしてくださる、というイエスの言葉を思い起こします。
 また、太陽と月が昼と夜を分担して地を照らしていることは、私たちの人生への、神による日々の見守りあるいは年々歳々の見守りである、と物語は語ります。そう思えない時があるのも現実です。しかしそれでも、季節の徴となり年の徴となるような大きな時間の流れで見た時、神の民が神に見守られていることを聖書は謳います。聖書の民の信仰として、神に見守られていることの平安を信じつつ、日々の歩みを続けて参りましょう。 

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年9月20日 
聖霊降臨節第17主日 
聖書 創世記 1章9-19節
讃美歌21 475、210、457、81  
 「乾いたところを地と呼ぶ」
 天地創造第3日の前半、いつものように神の言葉によって海と陸が分かれ、そのように名付けられていきます。神は言います。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いたところが現れよ。」
 遠浅の海岸から潮が引いていくようなイメージでしょうか。それとも余った水が深淵の中に押し込められ、水が引いていって陸地が出てくる。あるいは深淵の深いところから陸地が浮かび上がってくる。そのようなイメージでしょうか。
 いずれにせよ、第2日が終わった段階での海(大空の下の水)の姿は、天地創造物語の冒頭「地は混沌であって」という言葉がまだ健在であるように思えます。その混沌の状態から、神の言葉によって海と陸が分かれ、そのように名付けられ、神はそれを見て良しとされます。3日目前半までの物語は、混沌を整えて分けることが中心です。確認しておきましょう。
 1日目は光が造られ、光と闇が分けられます。2日目は大空が造られ、水が空の上と下に分けられます。3日目前半は、海と陸が分けられます。おそらく、この時に、海と深淵も海底で分けられています。
 3日目後半からは分けて整えることよりも全く新たに造ることにエネルギーが注がれていきます。3日目後半はその一番手として、地の上に植物が造られていきます。
 植物が動物よりも先に創られたことは、彼らが飼っていた家畜や彼ら自身の食べ物が動物よりも先に創られなければ、ということでありましょう。随分と先回りいたしますが、洪水物語の終盤に肉食が許可されるまで、天地創造のはじめには人間も動物も植物を食べていたことになっております。
 イザヤの11章と65章には、終末の時に神が支配する国の様子が預言されます。終末の時には天地創造の秩序と平和が回復される、という預言です。11章の預言では「牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう」と記されます。これは明らかに天地創造物語を意識しています。
 その植物について、新共同訳では、実を作る草と実を付ける木が創造されたと記します。この前後の本文はいささか読みにくい形になっておりまして、青草と実を付ける草と実を付ける木の3種類の植物が創られたという読み方もあります。その読みの方が家畜と人間両方の食べ物という意味がハッキリするようでもあります。
 3日目後半に造られた植物には一つ一つの名前が付けられておりません。カテゴリー分けがされただけです。第5日第6日を見ても、動物にも個々の種類名は付けられておりません。
 ただ、植物の種類について漠然としているわけではありません。新共同訳では訳文の煩雑を避けて「それぞれの」と略されておりますけど、原文では「それぞれの種類に従って」草と木が芽生えます。草にも木にも細かく種類があることは明確に認識されており、いわば種の秩序のあることが示されています。そしてそれぞれの種類に従って役割を持つことが暗示されます。これは作物によって収穫の季節が異なることがおそらく意識されています。
 ところで、天地創造物語も律法も実際には長い時間を掛けてまとめられていきますが、どちらも基本的なところが出来上がってゆくのはバビロン捕囚の時代と言われております。つまりおおむね同時代のものです。その律法の規定を見ますと神は混ぜ物を嫌います。畑の作物、放牧する動物、織物の繊維(申命 22:9-11、レビ 19:19)。列王記やイエスの譬え話を見ますと、実際には作物も家畜も混ぜていたようですが、思いとしては創造の秩序によって分けられたものを人が再び混ぜてはいけない、と考えるあたりが第3日の物語と律法の規定の間で相通じるところがあるようです。
 さて、大変興味深いことに1日目を別として2日目以降の創造物語は、いずれも「神は言われた」で始まり「そのようになった」「神は何々を造られた」と記されて一区切りつきます。
 3日目はいささか違います。神は言われた、そのようになった、地は草と木を芽生えさせた、となっております。植物の創造は、究極的には神の言葉によるのですが、出来たばかりの大地が神の言葉に従って草や木を生じさせています。
 大地そのものが植物を生み出す生命力を持っていたと考えられていたようです。太陽の光も水も必要なことは分かっていたでしょうけれども、同時に、一見何もないところから草が生えてくる不思議を古代の人はよく見ていたのでありましょう。荒れ地に生える草を見ることの多かった遊牧民族の畏れと驚きが素朴な形で残されているような気もしますし、道ばたに生える雑草に悩まされた農耕民族の思いでもあるような気がします。
 律法の定めでは、動物を殺してその肉を神殿に献げたり人間が食べたりする時、血抜きをしなければなりません。生命そのものである血液を定められた方法に沿って抜いて大地に返さねばならない、とされます(申命 12:13-27、レビ 17:3-14)。
 さらに先回りをいたしますと、第6日には同じように神の言葉によって大地が動物を生じます。原文を見ますと12節の「芽生えさせた」と24節の「産み出せ」は同じ言葉です。
 天地創造物語の最後に、人間は世界の管理を託されます。その世界は創造以前の混沌とした世界ではなく、神によって秩序づけられた世界でありました。
 イザヤの預言を見れば、天地創造の時の世界が御国の姿なのでありましょう。私たちが日々の主の祈りによって実現を願う御国であり、私たちがその実現のために力を尽くす御国です。それは創世記に立ち返ってあるべき世界を目指すことなのです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年9月13日  
聖霊降臨節第16主日   
聖書 創世記 1章6-13節
讃美歌21 475、3、361   
 「水の中に大空あれ」
 創世記の冒頭に記された2つの天地創造物語から、7日間で天地が創造されたと語る物語の方を御一緒に読み進めております。 第2日は、この天地創造物語の中では一番短い物語です。
 古代の多くの民族が、自分たちの頭の上にある大空をドーム型の天井と思っていたようです。イスラエルの人々も同じでありました。古代でありますし、乾燥地域の空ですから、昼間はスッキリと青く、夜は数え切れない数の星がギラギラと輝いていたことでしょう。アブラハムへの約束の場面を思い起こします。日本でも大陸の乾燥した高気圧に覆われた時など、とても透明な青空になることがあります。それが彼らの日常であったのでしょう。
 その大空の上にも水があった、と天地創造物語は語ります。天地創造の最初の水の面は大空の上に行ったのでしょうか。ノアの箱船の洪水物語にも書かれておりますように、古代イスラエルの人々は、天の上にある水が大空にある窓を通して降ってきて雨になる、と考えていたようです。ノアの洪水物語も2つの物語がありますが、その2つめの物語の中には「深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」とあります。
 洪水物語もいずれ御一緒に読もうと思いますが、ノアの洪水は、私たちの感覚で言えば、近年の都市型洪水に近いのかもしれません。都市型洪水は、雨水を排水しきれなくなり、どちらに流れるでもなく前も後ろも右も左もたちまち水浸しとなります。その状況は「深淵の源がことごとく裂けた」という表現に近いのではないでしょうか。
 天地創造物語では第3日になってようやく海と陸が分けられます。第2日の段階では、大空の下の水はドームになった大空の下いっぱいに広がっていたようです。いささか先回りをいたしますと、第3日になって陸と海が分けられ、おそらくはそれに合わせて海に底が造られ深淵の源が閉じられたようです。再び深淵の源が開けられたのがノアの洪水の時であり、その時には天の窓もことごとく開放されて大雨となったのでありましょう。
 さて、第2日だけは「神はこれを見て良しとされた」という言葉がありません。代わりに第3日は第6日と並んで、その言葉が2回出て参ります。
 第6日に2回語られる理由は分かりやすいです。動物の創造が一区切り付いて神が見て良しとされます。引き続き人間が創られます。被造物の中でも人間は特別ということが示されています。
 第3日について言えば、第1日以来、第3日の前半までは、創るというよりは混沌の世界を整えてゆく作業でした。それが一区切り付いたところで、神はそれを見て良しとします。
 第3日の後半は植物が創られます。そのあと、第4日以降、太陽と月、海の生き物、鳥、動物、人間、と創造の業が進みます。
 第3日の前半まで進んで本当は一区切りであるのかもしれません。第2日の終わりは作業途中であった、と考えることができます。だとすると第2日の終わりに区切りの言葉がないのは理解できます。しかしそうすると、なぜ第2日だけ区切りまで作業を進めないままでその日の業を終えたのか?を考えねばなりません。
 第2の天地創造物語の神は、実のところあまり計画的にではありません。土の塵でアダムを造り、植物を造り、そしてアダムのパートナーの必要を感じて土の塵から動物を造るものの、アダムにこれは違うと言われ続け、ようやくアダムからエバを造ります。
 それに比べますと、第1の天地創造物語は、私たちのよく知る近代科学による順番とは違う部分もありますけれども、物語の理屈に則して順序立てて全てのものが造られていきます。それだけに第2日の終わり方の奇妙さが目立ちます。
 ところで、私たちの人生について、あるいは社会の出来事について、後から振り返った時に信仰の目で見て、あ~あれは神の御計画であったのだな、と思える出来事は確かにたくさんあります。その一方で、あれも御計画だったのか?と首を傾げる出来事や、納得いかない出来事も少なくありません。災害、事件、事故、病気、なぜあの人(たち)が苦しむのか、と思います。
 古代の人たちも同じような経験をしたのではないでしょうか。
 神話と言ってしまえばそれまでですが、バベルの塔の物語はどうでしょう。神が全てをお見通しであるならば最初から言葉を分けておくべきでした。言葉の混乱による事故で命を落とすのは、天に届く塔を思い付いた人ではなく、むしろ権力者に命じられて石を運んだ人たちでしょう。それは人々の身近な経験でした。
 洪水物語にしても、滅ぼされた人たちにすれば神に対して一言言い返したかったことでありましょう。
 自分たちの力ではどうにもならない事故や災害や疫病に出会った時、私たちは神に対して複雑な思いを持ってしまいます。それは古代の人たちも同じでありましょう。その思いがこれらの物語の行間に流れているような気がします。
 神のなさることは分からない。実はそのこと自体が私たちの神が生きた神であることの徴でもあります。裏返していえば、第1日から第6日まで全く同じ構造で創造の業が進むなら、それは私たち人間が神の行いに型をはめたことになるのです。そうしますと天地創造の第2日の終わりだけが他とは違う。その理由は私たち人間には分からない。それでいいのかもしれません。
 私たちの神が生きた神であること、天地創造の業によって世界が造られ私たちが造られたこと、そのことを信じながら私たちは大空を見上げます。神のなさること全てを私たちが理解できるわけではないとしても、神を信じ、御心を求め、創造の業をたたえる日々を重ねて参りましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年9月6日 
聖霊降臨節第15主日  
聖書 創世記 1章1-8節    
讃美歌21 475、51、203、81
 「こうして光があった」
 今週からしばらくは天地創造物語を御一緒に読みましょう。天地創造から、バベルの塔、洪水物語までは、古代の地中海世界あるいはオリエント世界の様々な民族の遺した物語と共通するところがあります。アブラハム以前の物語は、後にイスラエル民族と呼ばれる古代オリエント世界でも隅っこに暮らしていた弱小民族の語り伝えた「神話」です。しかしながら神話に託してしか語ることの出来ない真理や神秘を伝えます。天地創造物語は科学の知識とは相容れません。その一方で、わたしたちは、キリスト者の信仰として、神の天地創造の業によって歴史が始まり、そして、やがて来る歴史の完成の時・歴史の終わりの時に向かって、与えられた命の時間を歩んでいると信じています。その創造の神秘について、また始まりと終わりのある時間という真理について、私たちの命、生と死の神秘について、神話という形に託して聖書は私たちに語り掛けてくるのです。
 「初めに、神は天地を創造された」と書き始められています。聖書全体を貫く主題がここで宣言されるのです。理屈とか順序立てた思考などを飛び越えた宣言です。しかしそれだけに、創造の神秘を神秘として受け容れた上で、私たちはどう生きるのか?を聖書の物語が問いかけてきている、と言ってよいでしょう。
 続く第2節は具体的にイメージすることが大変難しいところです。第2日まで読み進みますと、大空の上と下の水が分けられます。裏返せば、第1日の時点では分けられていません。それなのに水に面がある。とりあえず先に進みましょう。
 海の底の暗さは、私たちは知識として知っております。海岸から少しだけ沖に出ますと、海中に岩頭が見えることがあります。その裾を見ますと、段々と暗くなるのが見え、海の底の暗さを感じます。その暗さが海面にまで上がってきますと「闇が深淵の面にあり」という暗さになるような気がします。
 この2節には大変重要な単語が出てきております。「神の霊」です。この言葉は旧約新約を通じて、また天地創造物語の中で、大変重要な言葉になります。
 霊と訳される言葉は、ヘブル語ではルーアッハ、ギリシア語ではプネウマです。どちらも日本語で漢字にした時に、霊の他に、風、息、命、という意味を持ちます。日本語でも風と息と命は通じるものがありますから、これは人類共通の感覚かもしれません。
 この箇所は、神の風あるいは神の息が、水の面を動いていた、と訳すことが可能です。この箇所に限って言えば、神の息が水の面を波立たせていた、と読むのがよいでしょう。真っ暗で波立つ水面を神の息が吹き荒れております。
 その時「光あれ」と神が命じますと、光が創られます。
 日本にも言霊信仰がありました。おそらく古代社会では東西を問わず共通して持っていた考え方でありましょう。発せられた言葉自身が力を持つという思想であり信仰でありました。テレビもスピーカーもなく、遠くまで声を響かせようと思ったら、自分自身が響く声を出すしかなかった時代が古代でありました。それだけに自分が発する声を大事にしたのです。
 もっとも聖書の世界では、人間の言葉ではなく、神が発した言葉だからこそ、そのように成ったという信仰があります。
 神が発した言葉によって造られたものは、神による完成検査に合格します。神が造って良しとされたこの世界に私たちはどう向き合うのか、と聖書は問いかけてきます。先回りいたしますと、天地創造物語は当時の社会に対する痛烈な批判を含みます。全ての人が神の似姿であるのも、全ての人に青草の食べ物が与えられるのも、古代社会においては危険思想でありました。
 そして夕べがあり、朝があります。イスラエルの暦の一日はイスラムの暦と同じように日没から始まります。闇が世界を覆う時間が先にあり、光が充ちる時間が後にある、というおおまかな時間の流れから言えば、天地創造の第1日は日没から始まる一日です。日没から始まる暦は、天地創造以来の歴史を持つ暦なのだ、と聖書の物語は主張します。
 さて、私たちの手元にある聖書は、新約旧約どちらも長い時間を手書きの写本で伝えられてきました。旧約聖書の本当の原本は失われておりますけど、現代では復元された原本が印刷されています。現代ではこれを元に各国語に翻訳されます。
 古いところを遡れば、文字に書かれ始めたのはおそらく王国時代でしょう。ただ、ユダヤ教のしかるべき人たちがオーソライズした正式の本文が確定したのは1世紀の終わり頃と言われております。ルカ福音書やヨハネ福音書とさして変わらない時代です。
 それ(正本確定)以前の状況は日本昔話を思えば容易にイメージできます。時代たち方の違いがあり、語り手の脚色がありました。この創世記第1章の天地創造物語にも複数のバージョンがあったようです(LXX)。地方によっても違ったかもしれません。あるいは、語り手がかなり自由に脚色しても許されたようです(ヨセフス)。
 バージョンが違ったり省略されたり脚色されたりしていても共通して語り伝えることがあります。神が天地を創造されたこと、神の言葉の力によって創造の業が行われたこと、そこから世界の歴史が始まったこと。神の創られた世界が良いものであったこと。私たちもまた神の創造の業によって命を与えられたこと。
 信仰の先達の方々も、そして今を生きる私たちも、天地創造の業の一環として神から命を与えられたのです。それは歴史の終わりの日の復活の時に新しい命を神から与えられる希望でもあります。そのことを心に刻みながら今週も日々を過ごして参りましょう。その日々の中で神の国に近付くことができますように。

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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