聖霊降臨節 2022年度(後半)の礼拝説教要旨
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年10月30日
降誕前第8主日
聖書 ミカ書 2章12-13節、創世記 28章10-22節
讃美歌 527、377
「主の牧場へ」
ミカは北王国が滅亡する前後に南王国で活動しております。北王国がアッシリアの強い圧力を受け、領土を次々に奪われ、おそらくは、捕囚も部分的に始まっていた様子を見ていたと思われます。同時に、南王国もアッシリアの圧力を受け、国力をどんどん失ってゆきます。エルサレムも一度は包囲されます。北王国の宮廷も南王国の宮廷も右往左往することになります。そのような情勢をよく見ておりました。
ただ、イザヤのような宮廷に影響を及ぼす発言力や地位を持っていた預言者とは異なり、あくまでも在野の預言者として、王朝、神殿、貴族、大土地所有者などの行いを「ヤコブの罪」として厳しく批判し続けます。エレミヤ書(26:16-19)には、ミカがその預言によって捕らえられ、処刑されそうになったことが記されています。その出来事自体はミカ書には記されておりません。ですから、エレミヤまでの100年近い間、ミカが捕らえられた事件は人々の語り伝える出来事として残ったようです。それほどに正しい預言を語った預言者として覚えられていたのでありましょう。
ミカ書にはミカの預言だけではなく、バビロン捕囚の時期に、そして捕囚から解放された後の時期に、名前を残すことのなかった他の預言者たちの預言も記されます。ミカ書の分量こそ少ないものの、その点ではイザヤ書と似ております。
2章12-13節は捕囚からの解放後に書き足された箇所とみられます。もっとも、その預言が他ならぬミカ書に付け加えられたということは、元来のミカの預言に通じるものがあったからでありましょう。この先もミカの言葉として読み進めます。
ミカ書の1章と2章はイスラエルへの厳しい裁きを語ります。ミカは、権力者たちが民の貧しい人々を顧みることなく搾取し、あるいはまた、神ヤハウェをないがしろにし、異国の神々にすがろうとする状況を批判します。そして、イスラエルの神ヤハウェの裁きのあることを語ります。
それを受けて、語るべき裁きを語り終えた後、その裁きの先にある救いを語るのが12節と13節の部分です。神の裁きは異民族による政治的圧迫や、あるいは軍事的な侵略として具体化します。それらの出来事に神の裁きを見るのは士師記以来の信仰でありました。ミカはその信仰を受け継ぎます。
強制的な捕囚だけではなく、戦争難民としても多くの民がイスラエルの地から逃げ、あるいは国が傾くに連れて自発的にイスラエルから出て行った人々も多くいたことでしょう。
その人々の中には、アブラハムの子孫であることを忘れ、神ヤハウェへの信仰を失った人もありました。一方、イスラエルの民であることを忘れなかった人もまた多くいたのです。その人々をミカは「イスラエルの残りの者」と呼びます。国を失っても信仰を残した者と言いたいのでありましょう。後の時代にはディアスポラ、離散の民、と呼ばれるようにもなります。
ミカはその人たちに「ヤコブよ」と呼び掛け、神が人々を呼び集め、神が守る牧場に導き入れることを謳います。神の牧場に導かれた人々は、次にはそこから打って出て、イスラエルに害を為す異民族を打ち破るのです。その先頭には、主なる神が立って民を導きます。神こそが王であり羊飼いでありました。
その時にイメージされているのは、呼びかけに使われたとおり、ヤコブの時代でありました。ダビデやソロモンの時代ではなく、さらに遡ったヤコブの時代、すなわち、約束の地に落ち着くまで、旅を繰り返したヤコブの時代でありました。アブラハムの孫であるヤコブこそ、後に神からイスラエルと名付けられます。
ヤコブはアブラハムへの約束があったにも関わらず、定住の地がなく、各地で居留者として生きることを強いられます。その事態を招いたのはヤコブ自身の行いもありましたが、幾分かは神御自身が強いたことでもありました。それでもヤコブは、じょじょに財産を殖やし、家族を増やします。子孫や財産が多いのは神の恵みであると思われていた時代です。その基準からいえば、ヤコブは神に祝福され、神に守られておりました。羊の群れのように神に守られていたのです。羊飼いは神御自身でありました。
ひるがえってミカの時代、イスラエルは敵国に囲まれ、自由を奪われます。そこでも神の守りはあり、囲みは破られ、解放は始まる、とミカは訴えます。興味深いことに、そこに王や王朝の名前は記されません。ダビデでもソロモンでもなく、神御自身が散らされた民を集め、民を苦難から導きだしてくださる、というミカの信仰が現れています。
ヤコブの時代には、敵から身を守る城壁はありませんでした。羊に食べさせる青草や飲ませる水も常に目の前にあるとは限りません。それでもヤコブは神を信じ続けました。青草も水も命を養ってくださる神からの恵みであり祝福でありました。ヤコブと同じように、神を信じ続け、命の源である神の祝福に触れ、神への信頼と感謝を深めることをミカは求めているのです。
ミカのそれらの言葉は、直接的には預言者の目の前に居る民に向かって語られたものです。同時に、ミカの預言は、時代を超えて、わたしたちに向かっても語り掛けてきます。苦難の時や、先が見えない時にあっても、神を信じ続け、神の慰めをいただき、神の祝福に触れて、神への信頼と感謝の日々を歩みましょう。その日々こそが神の牧場の内にある日々となることでしょう。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年10月23日
降誕前第9主日
聖書 サムエル記 下 7章1-17節
讃美歌 394、412
「ダビデに告げた」
ダビデ王朝の永続を告げたナタン預言として有名な物語です。ダビデはナタンに、神殿を建てる相談を持ちかけます。ナタンは以前からダビデの側近預言者であり、後にはソロモンを跡継ぎにするために重要な下ごしらえをします。ナタンは即座に神殿建設計画に賛同します。ところがその夜、ナタンの夢に神が現れ、神殿建設計画を阻止します。実際のところは神の声ではなく、民の声・民の評判がナタンに届いたのでありましょう。
サムエル記は、ダビデがペリシテの圧力をはねのけ、イスラエルとユダの支配を確立し、ペリシテ以外の周辺民族も打ち破って退けた(7:1)、と記します。これは莫大な戦費が必要です。今まさに続いておりますウクライナでの戦争も膨大な費用が大きな問題の一部であることはよく知られているとおりです。しかもダビデはすでにレバノン杉で造った宮殿に住んでおります(6:11)。レバノン杉は当時の最高級品です。日本で言えば総檜造りの御殿になるでしょうか。これの建築費用も半端な金額ではありません。
実際のところ、ユダとイスラエルの民は、この時点ですでに経済的に疲弊していたのかもしれません。意地悪く勘ぐるならば、疲弊する民を見て、一発逆転危機打開の策として神殿建設計画が持ち上がったのかもしれない、と考えることもできます。
結局のところ、神殿はソロモンの時代に建設されます。経済的な条件を別にしても、ダビデの神殿建設に民が反対した別の大きな理由が思い浮かびます。ダビデの生涯が戦いを繰り返すものであり、ゴリアトを倒して(上 17)サウルの家来となって以来、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌われるほどにペリシテを倒し(上 18:7、29:5)、サウルに追われてペリシテに亡命したときも、ユダとペリシテの周辺にある多くの村を全滅させ(上 27)、サウルの息子イシュ・ボシェトとの間にも内戦を続け(下 3:1)、いわば両手が血にまみれた(上 25:26.31、下 16:7-8)人物であったことをサムエル記は容赦なく描きます。ナタン預言の後にも三男アブサロムの反乱(3:3、14:23-19:1)があります。そのようなダビデに聖なる場所である神殿を建てさせたくない、と民衆が考えたとしても不思議ではありません。
サムエル記の著者は、ダビデ王自身や王朝という制度に、一方では飲み込まれながらも、また他方では批判的な視点を持っていたのでありましょう。サウル即位をめぐっても、サムエルは民に向かって厳しい王制批判を語ります。もっとも、元来のヤハウェは出エジプトに際してエジプト軍を打ち破った戦いの神でした。しかしながら、その戦いのリーダーであったモーセは約束の地であるカナンに入ることを許されませんでした。ダビデの神殿建設計画が阻止されたことに通じるものを感じます。
ナタン預言の後半はダビデ王朝の永続による神の国の実現を語ります。ダビデ王朝はその後、おおよそ400年21代にわたって続き、古代の西アジアにおいて比類ない長さを歴史に残します。そして、バビロン捕囚の時代を経て、救い主であるメシアはダビデの子孫から出る、と言われるようになるのです。イエスをメシアと理解した弟子たちが、イエスをダビデの子と呼び習わし、福音書や手紙にもそのように伝えられることになります。
ただ、この預言を丁寧に読みますと、イスラエルの神ヤハウェの性格が大きく変わることが読み取れます。ヤハウェ信仰やイスラエル各部族の起源については、今も不明点が多いのですけれども、元来のヤハウェ信仰が、出エジプトの神、奴隷を解放する神、他民族に抑圧された人々を解放する神であったことは間違いないでしょう。少なくとも、士師の時代を経てサウル王の時代まで、イスラエルの神ヤハウェはペリシテの圧力をはねのけるために12部族を結集させた神でした。ところがこのナタン預言を経て、ヤハウェは王朝を支える神となります。周辺民族を支配するダビデを善しとします。そしてダビデ王朝歴代の王の支配の実態は、後の時代のわたしたちが思うような意味での神の国の実現ではありません。それは預言者たちの言葉によって批判され続けます。中でもアモスの厳しい言葉が残されています。
サムエル記の著者は批判的な精神を持って時代を見つめていたと言えましょう。その批判精神の根底にあったのが預言者としての信仰でありました。後の時代の預言者たちにも通じる信仰でありました。ヤハウェの思いを私利私欲のために捩じ曲げない信仰でありました。その信仰が、聖書全体の大きな流れである救済史・救いの歴史・救いの約束を一つ一つ積み重ねていったのです。
その救済史の大きな転換点が、メシア・イエスの登場でありました。律法の根底にある精神をイエスは厳しく問います。イエスをキリストとするわたしたちは、聖書の律法の一つ一つの定めをではなく、神が求めておられる生き方を、聖書の言葉を頼りに、日々自分自身の中に問い続けることを求められています。
ダビデの生涯は間違いだらけでした。それでも神ヤハウェは、そのたびにダビデの間違いを正しつつダビデと共に歩む、とナタンは語ります。わたしたちの人生も、おそらく神の目から見たら間違いだらけです。聖書の言葉を頼りにしていても、読み間違えることもあれば、分かっていても実行できないこともあります。それでも、神はわたしたちと共に歩んでくださる。そのために御子イエスが現れた。そう信じて、信仰の日々を積み重ねていきましょう。その先にこそ、御国の実現があるのです。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年10月16日
聖霊降臨節第20主日
聖書 サムエル記 下 6章12-23節
讃美歌 7、202
「おどるダビデに」
エルサレムに神の箱が運び込まれます。町中が喜びに溢れる中、ダビデも大喜びして踊り回ります。きちっと振り付けをしたダンスではなく、体の中からあふれ出る喜びのエネルギーを爆発させた踊りであったのでしょう。それを見ていたミカルは「王とした者がはしたない格好で踊った」と言ってダビデをなじります。
ダビデは優れた戦略家でありました。イスラエル北部の部族から頼まれて即位しました時、彼は2つのことを計画します。エルサレムを手にれること。エルサレムに神の箱を運び込むこと。
ユダ部族の王としてダビデが住んでいたヘブロンは、あくまでもユダ部族の首都です。統一王国の行政や軍事を考えると実務的にも南に依りすぎです。なによりも北イスラエルの部族たちの気持ちを考えれば、これはきっと面白くはないだろうとダビデは気付きます。かと言って北イスラエルのどこかに都を移すことはユダ部族が承知しないでしょう。そこでエルサレムです。
エルサレムはユダ部族と北イスラエルの境目にあります。しかも、その時はまだエブス人という先住民たちの町でした。ユダの町でもイスラエルの町でもないからこそ、ユダとイスラエルの統一王国の首都として、どちらからも文句が出にくいのです。
エルサレムを攻略したダビデは、エルサレムに神の箱を運び込もうとします。これによって、政治だけではなく、宗教的な実権を手に入れようとしたのです。古代社会のことですから政治と宗教は分離できません。ダビデとしては、北イスラエルの部族もヤハウェの民である以上は当然計画すべきことの一つでした。
しかしその計画は簡単には進みませんでした。1回目は途中で事故が起こります。神の箱を載せた荷車が傾き、支えようとしたウザという人物が死んでしまいます。聖なる神の箱に祭司以外の人が触れた、といって神が怒るのです。理不尽な話にダビデも怒ります。そのため、エルサレムへの搬入を中止しますが、神の箱を預けた家が繁栄するものですから、あらためてエルサレムに運び込みます。都合のいい話と思いますけど、先に進みましょう。
ダビデはようやく新首都エルサレムに神の臨在の徴である神の箱を運び込みます。政治的な思惑を別にしてもヤハウェを信じる民の代表者として、やはりダビデはうれしかったのでありましょう。周りの人目も忘れて踊り回ります。ダビデが身につけていたエフォドは祭司の服装の一部として律法に記されます。イメージとしてはポケットがいくつもついた前掛け、エプロンです。ポケットの中には祭司が持つ道具が入っていたりします。
ダビデが祭司の前掛けをしていたというところが疑問ではあります。祭司以外の前掛けもエフォドと称したのかもしれません。あるいは神の箱の搬入式典の長として祭司同様の服装であったのか、それとも律法の規定がまだ本格的には定まっていなかったのか。モヤモヤしますが先に進みましょう。
エフォドはつまりは前掛けですから、それ以外の服はどうしたのかと思います。踊っている間に脱げたのでしょうか。だとすれば、服が脱げたのも気にならないぐらいに神の箱の搬入がうれしかったのでありましょう。
その様子を見ていたミカルは「王が人前で裸になって踊るなんて」と厳しく批判します。たしかに、それは律法の規定がすでに整備されていたとしたら大問題です。律法の規定は人前で素肌をさらすことを非常に嫌います。聖書のロジックでは、それはすなわち神が嫌っているということを意味します。あるいは律法を横に置いても、エプロンつけただけの姿で王が喜んで踊り回っているのは見たい景色であるとは思えません。いくらダビデが歴戦の勇士であって、そしてそもそも最初に神がダビデを選んだときからすでに、立派な体格を持ち、なおかつ見た目も(もう中年のオジさんになっているとしても)美少年であったととしても、民衆が見て喜ぶとは考えにくいところです。
もっとも、喜びに踊っていたのはダビデだけではないでしょう。ダビデの取り巻きや各部族の代表者たちも喜びを爆発させていたことでありましょう。それでもやはり悪目立ちしたのだろうな、と思います。優れた戦略家であるダビデとしては大きな欠点になりかねない出来事でありました。
しかしながらサムエル記は、そのダビデの姿をおそらくは好意的に描いています。肌を人目にさらすことを嫌う神ヤハウェも、神に出会った喜びを示したダビデを見て、まぁいいかと思って苦笑していたのかもしれません。
まさかに人前で裸踊りをすることもないと思いますが、わたしたちもまた、特別な時に、あるいは日常の何でもない時に、さらには主日の礼拝の中で、神に出会った感動を素直に表現したいものです。その表現は人によって様々にあるでしょう。身近な表現は、歌うこと、手を叩くこと、平和の挨拶。時と場所を選びますが、足を踏み鳴らすことだって音楽や踊りの一種としてあるかもしれません。聖書には竪琴や角笛が何度も出てきます。今日の物語でも角笛が吹かれています。詩編(150編)や歴代誌(下 5:12)には、太鼓、シンバル、ラッパが記されます。ハンドベルもあります。讃美歌の歌い方も一つではありません。ユニゾンであるかと思えば3部や4部になることもあります。クリスマスの讃美歌もいつのまにか誰かが輪唱で歌っていたりします。そしてダビデだけではなく詩編の人々も神殿で踊ります(149編)。
方法の押し付けにならいように気を付けつつ、主を賛美する信仰を、様々な方法によって素直な気持ちで表現し、主をほめたたえる日々を送る毎日でありたいと思います。
*****
聖書 サムエル記 下 6章12-23節のもう一つの視点
ダビデは北の諸部族から即位を求められた時、ミカルを取り戻すことを求めます(下 3:14、上 25:44)。 神の箱がエルサレムに搬入された時、ミカルは再びダビデの妻でありました。ところがこの箇所ではミカルは繰り返し「サウルの娘」と記されます(6:16、20、23)。そしてミカルは子を得ることがなかった、と記されてこの段落が終わります。おそらくダビデはミカルと床を共にすることがなかったのでありましょう。ダビデにとってすでにミカルは王位継承のための「サウルの娘」でしかなく、ミカル自身もそれを分かっていたのでありましょう。
上巻19章でダビデを暗殺から守った時のミカルと、下巻6章でダビデをさげすむミカルとは対照的です。ダビデが即位の条件としてミカルを取り戻したとき、ミカルの夫パルティエル(神はわが救い)はミカルを奪われて泣きながら追って来た、と記されます。ミカルとダビデの最初の結婚も政略結婚の面が強くあります。権力者に翻弄された女性とその家族の姿が描かれています。サムエル記はそのようなダビデの姿を容赦なく描くのです。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年10月9日
聖霊降臨節第19主日
聖書 サムエル記 下 5章1-5節
讃美歌 14、459
「ダビデに油を」
誰もが名前を知るダビデ王でありますが、歴史学的には実在が立証されておりません。とはいえ、ダビデをめぐる聖書の記述の価値は、ダビデが歴史上実在したかどうかではありません。アブラハムやモーセ、また、サウルやソロモンと同じく、彼らの人生を聖書が記す意味は、信仰上の価値にあると言えましょう。歴史的な様々を無視して読むことはできませんけれども、基本的には聖書の物語に即して、その出来事が伝えようとしていることを読み取りたいものです。
サウル王に取り立てられたダビデは、ペリシテとの戦いで大きな勝利を次々に収め、やがてサウル王から疎まれるようになります。一度はペリシテに亡命したのちに故郷に戻ります。サウル王の支配する地域と、ダビデが実質的に支配する地域とで、内戦状態になっていたとみるべきでしょう。
すでにダビデはユダ族の王として即位しておりました(サムエル下 2:1-4)。おそらく、ユダ族以外の部族の地域はペリシテやシリアの強い影響下にあったのでしょう。そこで、民の長老たちは、かつてサウルの部下であり、亡命前にはサウルの娘ミカルの夫であり、ペリシテに対して何度も勝利したダビデを頼り、イスラエル全土の王となることを求めます。
民の長老たちはダビデに向かって、わたしたちは元よりあなたの部下でした、今もあなたと敵対するつもりはありません、と告げます。彼らは、ダビデを王とする神の言葉を伝えます。サムエルが最初にダビデに油を注いだ時のことを知っています、と伝えるのです。その出来事を読者にも思い起こさせます。
サムエル記の上巻では、エッサイのもとを訪ねたサムエルは、サウルに代わる王としてダビデに油を注ぎます(サムエル上 16章)。ユダ族限定の王としてではありません。興味深いのは、この時、民の長老たちがダビデに油を注いだことでしょうか。神の選びに加えて人々の選びがあった、ということなのでしょう。旧約聖書的には本来は神の選びが全てに優先するはずです。ここで鍵になりますのは、ダビデと民の長老たちが神の前で契約を結んだとことです。契約があったことを前提に思い起こしますと、アブラハムと神の間にも契約があり、モーセに率いられた民と神の間にも契約がありました。契約は旧約聖書の重要な信仰の一部分です。そしてまた、王や指導者を羊飼いに見立てることは旧約聖書の伝統であり、それはメシアすなわち救い主を羊飼いに見立てることでキリスト教にも受け継がれたのです。
このあと、ダビデの王国は古代イスラエルの歴史の頂点ともいうべき統一王国となり、豊かさと繁栄を享受します。また、ソロモンの後に南北に分裂はしますものの、南王国・ユダ王国を合わせればダビデの王国は400年以上も続きます。
もちろん、ダビデの王国の実態は理想的なことばかりではありませんでした。ダビデの時代だけを見ても、バテシバ事件をまず挙げることができますし、ソロモンへの王位継承に当たっての内紛もありました。その後もアッシリア、バビロニア、エジプトといった国々に翻弄され、バアル信仰に走り、貴族ばかりが裕福な暮らしを享受し、預言者たちから何度も厳しい批判を受けます。
旧約聖書の面白さはそのようなダビデたちを容赦なく描くところにもありましょう。王国を成立させた強さや賢さだけではなく、ダビデの人間的な弱さが次々に記されるのです。
イエスの時代はダビデからおよそ1000年後のことです。それは、ダビデがペリシテの圧力をはねのけたように、ローマの支配をはねのけてくれるメシアの登場が待たれていた時代でした。神によって立てられたメシアがダビデの王国を再現してくれる、と強く信じられていたのです。ところが、そのようなメシアのイメージとは全く異なるメシアとしてイエスは世の人たちの前に現れました。イエスがメシアであるのは、民の長老たちとの契約によるものではなく、何よりも神の思いによるものでした。民の長老たちによってではなく、神御自身によって油を注がれたメシアでありました。それは神の救済計画の大きな前進でありました。
イエスの直弟子たちも当時のメシアのイメージから抜け出すことができません。強いメシアを求めつつ、自分たちは強いばかりではない人たちでした。最後まで弱さを抱えながらイエスに従っていったのが弟子たちでした。御受難と御復活の物語を読むと、一度は逃げた弟子たちが、再び集められ、立ち上がる様子が記されています。そこに働く御復活の主の力を思います。その弟子たちの系譜の末にわたしたちもつながっていることを思います。
ダビデも、イエスの直弟子たちも、自らの弱さに目をつぶっておりません。様々な弱さを自覚しながらも、その弱さも含めて神に従い、イエスに従って、信じる者の歩みを続けます。現代を生きるわたしたちは、キリスト者がマイノリティである社会の中で信仰者としての日々を重ねます。摩擦や誘惑に押しつぶされそうな時、強いばかりでなかったダビデたちを思い起こすことで、信仰者としての歩みを重ね続けることができるように思えます。
わたしたちは、神に出会い、神の子メシアであるイエスに出会った者たちです。そして、イエスに従って生きていくことを大切にして人生の歩みを重ねております。イエスに従うという約束を神との間に結んでおります。その約束を、最後まで神が導いてくださいますように。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年10月2日
聖霊降臨節第18主日 世界聖餐日
聖書 詩編 100編1-5節
讃美歌 411、375、81
「裂かれたパンを」
10月の第1主日は世界聖餐日と言われます。とはいえ実際には世界中の教会で守られているわけではありません。
世界聖餐日を教会行事として守ることは、第2次大戦中にアメリカの教会で始まった、と伝えられております。回りくどいところから話を始めますと、聖餐式は教派によってその理解に非常に大きな幅があります。誰がそれを司式するのか、誰がそのパンと杯に与るのか、パンと杯とは何であるのか。
カトリック教会ではプロテスタントの信徒はパンと杯に与ることはできません。正教会(東方教会)でも同じです。正教会だとカトリックの信徒でも与ることはできません。プロテスタントの中でも、教派が違えば同じ聖餐に与れないことはしばしばあります。
パウロはコリント書の中で「わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と書いておりますが、実際には聖餐式の歴史を振り返りますと聖餐理解が教会の分裂を繰り返す原因となり続けていたことが示されています。
これは本当はやはり変なことです。聖餐式のルーツは、最後の晩餐とも5000人の給食の奇跡とも言われます。5つのパンと2匹の魚が分けられて配られた5000人の給食の奇跡において人々がそのパンを受け取るための条件は、突き詰めれば彼らがそこに居た、ということです。あるいはまた、最後の晩餐においてはイスカリオテのユダも一緒に食卓に着いておりました。ユダがいつイエスを売り渡そうと思い至ったのか、福音書の記述にはそれぞれズレがありますけれども、すでにそのことに気付いていたイエスが、いわば「敵」「裏切り者」であるユダをも食事の席に居らせたことは4つの福音書が共に記すことです。そのことは、世界聖餐日に平和への願いを込める時、忘れてはならないことの一つでありましょう。主に出会った全ての人が、主の声を聞こうとした全ての人が、共に主の食卓に着くのが聖餐式である、と福音書の物語は示しているのです。
世界聖餐日という名前でもって、特別な聖餐日が、第2次世界大戦の最中に、アメリカの教会で、守られ始めたことには大きな意味があります。アメリカという国の成り立ちにも様々な問題がありますが、ヨーロッパにルーツを持つ人たちに限れば、信仰の自由を求めて逃げてきた、あるいは追い出されてきた人は少なくありません。そしてヨーロッパでは、敵味方の双方が神を掲げて自らの正義を主張した戦争が歴史上何度も繰り返されています。
それゆえに、逆説的に主の食卓が一つであることを思い起こそうとしたのが世界聖餐日の始まりであったのでしょう。そこに平和を求める祈りがあり、戦争の時代にも主の食卓が一つであることを訴え、一つの主の食卓を通して、世界の平和の願う思いのあったことは、想像に難くありません。
以来、80余年を経て、今また世界が2つに分かれているように見えます。ウクライナを巡る戦争がどのように決着が付くものやら、全く見えない状況であると言って良いと思います。それだけにわたしたちは、今、かつてアメリカの教会が、ユダを招いた主の食卓を通じて平和への思いをいたそうとしたその信仰を身近に感じることが出来るような気がします。
先ほど読んでいただいた詩編 100編は、元々はエルサレム神殿での礼拝に入るための入場歌であったと考えられています。そして詩編として集められた時の配置としては、93~99編(ヤハウェ=王と歌う)の締め括りの詩となっております。詩編 100編は、全地が、つまり全ての人が、神を賛美するように促します。
詩編 100編は、主の食卓を直接に歌う詩編ではありませんけれども、わたしたちが主の民であり、主に養われる民であることを歌います。主の食卓において分けられるパンが主の慈しみであることを伝え、その慈しみが時間や回数の期限を伴うものではなく、とこしえに続くものであることを歌います。
このあと共に歌います讃美歌 375番は、主が共におられる食卓を歌います。1節は主の晩餐へとわたしたちを招きます。喜びの祭であることを歌い、パンを裂いて準備されたのが主であることを歌います。2節は主の食卓に集まることにおいてわたしたちが一つであることを歌います。3節はうたがいの世にも主は共にいます、と歌います。ウクライナを巡る情勢はもとより、わたしたちは今、ウソかホントか分からない様々なニュースが押し寄せる時代を生きています。大きな社会情勢だけではなく、身近なところでも、新型コロナを巡る何を信じて良いのか分からないニュースがあり、電話やメールを使った詐欺があり、まさに疑いの世でありましょう。どれが本物かを見極める目を持つことはとても大事ですが、一方でこの賛美歌は、疑うことに疲れそうになった時にも主が共にいてくださると歌います。
この賛美歌は、主の食卓が一つであることを歌うと共に、主の食卓に載せられたパンが、分けられたパンであること、裂かれたパンであること、そして、そのパンをわたしたちが、言い換えれば、キリストを信じる共同体としての教会が、いただくことを歌います。その食卓とは、他ならぬ主こそが、わたしたちを招いてくださる食卓であることを歌います。軽快なメロディーと相俟って、キリストに繋がることの希望を歌います。平和への祈りと希望を持って主の食卓に繋がりましょう。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年9月25日
聖霊降臨節第17主日
聖書 使徒言行録 17章26-34節
讃美歌 141、502
「神は近くに」
マタイ福音書冒頭のイエスの系図はアブラハムから始まります。ルカ福音書の記すイエスの系図(3:23-38)は、イエスから遡り始めて「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」と記されます。それぞれの福音書の背景がよく分かります。マタイ福音書はアブラハムに始まる神の民の歴史を土台に据えてイエスを語り、救済預言の成就を強調します。ルカは天地創造以来の歴史の転換点としてイエスを語ります。その歴史観を信仰の基礎として使徒言行録という続編を記します。
ルカのその特徴が、今日御一緒に読んだパウロの言葉の中に出てきます。パウロはアテネに来ております。そして、アテネの知識人たちを相手に「あなたたちが知らずに拝んでいる神の正体を知らせよう」と言ってイスラエルの神ヤハウェについて語り始めます。その時、ギリシャ世界の知識と聖書の神との共通点をうまく使ったりしてアテネの人たちの関心を引き付け続けます。
このパウロの演説は、速記録のあるはずもなく、パウロはアテネでこんな話をしたけど結局受け入れられなかった、という情報が誰かの記憶するところとしてルカに伝えられ、かなりの部分をルカが書き足しているとみられます。
パウロは「われわれは神の中に生き」ている、「われわれも神の子孫である」というギリシャ詩人の言葉を引用します。もちろん、その言葉が本当に意味するところは、アテネの人々とパウロ(そしてルカ)との間に大きな違いがありますが、表面的には合意できる言葉でした。イエスの系図を「アダム。そして神に至る」と記したルカとしても、これは書いておきたい言葉であったのでしょう。(詩人はクレタ人エピメニデスとキリキア出身アラートス)
「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」にも、ルカの思いがよく出ております。
そして「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」も如何にもルカらしいと言えましょう。
ルカ福音書は、神の正義を求め続けなさい、ということを何度も書いております。失われたものが探し出される15章の3つの譬え話が思い浮かびます。100匹の羊から1匹がいなくなった話、 10枚の銀貨から1枚が失われる話、2人の兄弟のうち弟がいなくなる放蕩息子の物語。様々な読み方がありますが、いずれも、諦めずに探し求め続けなさい、と語る譬え話です。
ルカは他にも、不正な裁判官(18:1-9)の譬え話や、主の祈りの教えに続く譬え話(11:1-13)でも、諦めずに神に求め続けなさい、と記します。羊の譬え話だけはマタイ福音書にもありますが、それ以外は全てルカ福音書だけが記す物語です。その流れの中で、ルカは探し求めて神を見い出すことをパウロに語らせるのです。
そう考えていきますと、アレオパゴスの演説が時を超えてわたしたちに近付いてきたような気がしないでしょうか。神を探し求めなさい。自分の心の中に造った偶像(地位とか名誉とかお金とか…)に振り回されずに天地を創造した神を見い出しなさい。偶像に捕らわれずに天地を作った本当の神に立ち返りなさい。と福音書と使徒言行録を通じてルカは主張しています。
その神についてパウロはいよいよ大事なところを語り始めます。
神が選んだ「一人の方」というのはもちろんイエスのことです。この辺りまで来ますとアテネの人々はパウロの「新しい教え」を聞いている気になったことでしょう。神が一人の人を選んで世を裁くという発想はギリシャ・ローマの神話世界にはありません。もっとも、世の終わりに正義と悪の戦いがあるという世界観は知っていたと思われます。聖書が記すところの世の終わりのイメージはペルシャのゾロアスター教の影響を受けています。ゾロアスター教のことはアテネの知識人たちであれば知っていたことでしょう。
そして世の終わりの裁きを語るには、どうしてもイエスの復活と死者の復活を語らねばなりません。ところがルカはこう記します。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞くことにしよう』と言った」。最後の部分は「考えときますわ」と言って関西人が誘いをやんわりと断るのと似ているような気がします。
結局のところパウロの「新しい教え」は最重要ポイントである死者の復活がアテネの人々にとっては全く受け入れ難い思想でありました。そのために、このアレオパゴスの演説・伝道説教は人々の賛同を得ることは出来ませんでした。
為すことなくパウロはアレオパゴスを立ち去りますが、何人かはパウロの説教を聞いて「彼について行った」のです。その人たちがパウロの言葉をルカに伝えたのでありましょう。
使徒言行録を書いたルカは、人は神を求め続けなければならない、人は心して神を見い出さねばならない、と主張します。パウロの伝道旅行は、神を求める人を探す旅であった、人々に神を求めることを気付かせる旅であった、と読むことができます。わたしたちも日々の生活の中で神を求め続けたいものです。「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはいない」(27節)とルカはパウロに語らせております。近くに居られるのであれば、なおさらのこと、探し求めたいと思います。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年9月18日
聖霊降臨節第16主日 創立44周年記念礼拝、敬老礼拝
聖書 マタイによる福音書 4章12-22節
讃美歌21 458、472、120
「 大きな光を見た 」
イエスはガリラヤのナザレに育ち、ヨセフの跡を継いで大工となり、そののち洗礼者ヨハネの元に参じます。ガリラヤ地方は度々大きな反乱があり、町や村が何度も破壊されます。若い大工としてのイエスが復興作業に奔走したことは間違いないでしょう。
イエスの宣教活動の最初のメッセージは洗礼者ヨハネと同じく、「悔い改めよ、天の国が近づいた」でありました。原文には、天の国はすでに近づいていて、ガリラヤの人々のそばにある、現に存在している、というニュアンスがあります。「天の国が近づいているから」と訳すものもあります。これはルカ福音書で「神の国は、あそこにあるとかここにあるとか言えるものではない。実にあなたがたの間にある」(17:21)と語ることと符合します。
一人でも多くの人に「天の国は近づいている、だから御心に適う生活に戻れ」と伝えたいのであれば、洗礼者ヨハネにしても、イエスにしても、エルサレムの神殿の近くで語る方が多くの人に語りかけることができます。しかし、どちらもそうしなかった。ヨハネは、人々に授ける人生1回限りの洗礼(浸礼)のためにヨルダン川から離れません。
そしておそらくイエスがエルサレムではなくガリラヤを宣教活動の場所とした理由は、ガリラヤの民の現状がイザヤの語る「闇の中の民」であることを見抜いていたからでありましょう。
エルサレムのあるユダヤ地方から、北にサマリア、さらに北にガリラヤ、その北はもうシリアです。ガリラヤは、かつてのイスラエル王国・北王国の地です。北王国がアッシリアに滅ぼされたあと、多くの人が遠方に連れ去られた一方で、アッシリアに征服された別の民族の人々が連れてこられて住み着きます。その人たちは当然ながら他の国の神々を祭る人たちです。北王国に残された人たちのヤハウェ信仰は、異民族の人たちの様々な影響を受けて変容してしまうのです。
そのため、南王国の人たち、自分たちは純粋なヤハウェ信仰を守っていると思っている人たちからは「異邦人のガリラヤ」と言われて低く見られていました。ところが、その後の数百年の歴史(その間に、バビロン捕囚、ペルシャ時代、ヘレニズム時代、ローマの支配と続きます)を経て、イエスの時代にはむしろエルサレムの人たちよりもピュアなヤハウェ信仰を持つようになっておりました。ローマ軍がエルサレム神殿に偶像を持ち込もうとしたとき、命を張って抵抗したのはガリラヤの農民たちでありました。それでも相変わらずガリラヤ地方は低く見られておりました。
だからこそ、エルサレムの神殿ではなく、ガリラヤの町や村で「天の王国は近づいている」とイエスは語り掛けるのです。そこでマタイが引用したイザヤの預言(8:23-9:1)は、北王国が滅ぼされ、ガリラヤがアッシリアの支配を受け、南王国もその圧力を受けていた時代に語られました。その状況下でイザヤは、ゼブルン、ナフタリ、というガリラヤ地方の地名を挙げて、闇の中に居るガリラヤの人々は、救いの光を見る、と預言するのです。
イザヤの預言は、このあとすぐに、有名なメシア預言へと続きます。クリスマスに読まれる「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」(9:5)という預言です。その預言は「(神の)王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(9:6)と告げられます。異邦人のガリラヤが闇の中に光を見る、と語り始めたところから一続きの預言でありますから、闇の中に光を見ることもまた、万軍の主の熱意によるのです。
マラナ・タ教会は昨日、創立44周年の記念日を迎えました。現代の日本が暗闇であるのかどうか、少なくともイザヤが見たような意味での暗闇ではないでしょう。そして若き日のイエスが大工の棟梁として心を痛めたような意味でのガリラヤでもないでしょう。ただ、たしかに、福音の光が日本の隅々にまで届いているとは言いがたくはあります。
その日本の一角にある枚方の地で、マラナ・タ教会は福音の光を灯し続けてきました。大きな灯りではなかったかもしれません。九州におりましたときに、教区互助委員として九州教区の中でも本当に小さな教会を訪問する機会が何度もありました。まさに小さな灯りでありましたが、それぞれの地にともされた確かな神の灯りでもありました。そのそれぞれの地を、教会が大きくならないから暗闇の地であるとはとても言えません。どの教会も先人たちのともした灯りを守り続けておりました。一つ一つの教会の建てられた事情は様々であるわけですが、わたしたちもまた、枚方の地で、福音の灯りをともし続けてきました。先人たちのともした福音の光を受け継ぎ、灯し続けて参りましょう。
今日の礼拝は創立記念礼拝であると共に敬老礼拝でもあります。創立以来のマラナ・タ教会の歩みの中に、信仰の先達である方々のその信仰を記念し、その信仰への神の祝福を願う礼拝です。
「神の国はすでに近づいている」と聞いたペトロたちは、「人間を取る漁師になれ」と言われてイエスについて行きます。2000年前にすでに近づいていたのなら、今も近くにあるはずです。今を生きるわたしたちが福音の光を灯し続けるのは、わたしたちの勝手な思いに依るものなのではなく、主の熱意に加わって、近くにおられる主と共に光を届けることであるのです。主の恵みを受けて人生の日々を、そして信仰の日々を、歩み続けて参りましょう。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年9月11日
聖霊降臨節第15主日
聖書 使徒言行録 17章16-25節
讃美歌21 502、405
「 知られざる神に 」
当時のアテネは既にローマ帝国の一地方都市にすぎません。しかし学問や文化の中心としての地位は保っておりました。そして街中には神々の神殿や祭壇がいくつもありました。
パウロは「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見つけます。発掘で実際に見つかったのは「知られざる神々に」という祭壇でした。パウロもしくはルカが単数形にしたのでしょう。もちろんそれは、ヤハウェを語るためには複数形であっては困るからです。
ギリシャ・ローマ神話の世界は多神教の世界です。それもとても多い。その神々の仕事にはそれぞれ分担があります。これは各地の部族がギリシャ人としてのまとまりを形成する中で、各部族の神がギリシャ神話にまとめられていった歴史を反映しています。その中で自分たちの知らない神々にも犠牲を献げることで厄災を招かないようにしようと人々が考えたのでしょう。
その祭壇を話のタネにしてパウロはアテネの人々に語り始めます。パウロがユダヤ教の会堂・シナゴーグでヤハウェを知る人に語るだけなく、町の広場でユダヤ教に無関係な人々を相手にイエスについての話しをするのは使徒言行録では初めてのことです。それだけに、戦略を練って話し始めたのです。
パウロは当時の錚々たる哲学者たちとも議論した、とルカは主張いたします。その哲学者たちの中に、パウロのことを「外国の神々を宣伝する者らしい」と思った人があり、パウロをアレオパゴスに連れて行きます。ここまではパウロの作戦どおりです。ただ、なぜ複数形なのかといえば「パウロがイエスと復活について」福音を語っていたからです。ヨーロッパ系の言語では名詞に男性・女性・中性の別があります。結局は活用形(語尾)の違いなのですが、イエスはもちろん男性名詞です。そして復活はアナスタシス(ここでは与格のアナスタシン)という女性名詞なのです。アテネの哲学者たちは、ギリシャ神話では珍しくない夫婦神のイメージがあったからでしょうか、イエスとアナスタシスを夫婦神と間違えたのであろう、といわれております。
アテネの人々はパウロに言います「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、その意味を知らせてくれ」。アテネの市民たちが信仰心だけではなく好奇心にも富んだ人々であることは、当時のローマ世界の一つの常識であったようです。当時の旅行記にもにもそのように書かれております。たしかに、ローマ社会もギリシャ社会も、都市の市民階級は実際的な労働を奴隷に任せて自分たちは政治や学問や社交に時間を使っておりました。
パウロはまず人々の信仰心を持ち上げます。それが「知られざる神に」という祭壇の話しでした。パウロは「知られざる神」とは自分が語っている神のことである、というロジックで語り始めます。パウロはアテネの人々が受け入れやすい話しから始めます。神が世界を作った。神は神殿には住まない。人間から何かを貰わないと生きていけないような神ではない。これはギリシャ・ローマの神々にも当てはまることです。アテネの守護神であるアテナにせよ、主神のゼウスにせよ、神殿は各地にあっても普段住まいの場所はオリンポスの山の上です。また農業や農作物の豊穣を司る神々もおり、その守護のもとに毎年の豊作が約束されます。乱暴にいえば、その意味ではヤハウェに対する信仰と同じく収穫は神からの恵みであるわけです。
25節の後半になるとアテネの人々が違和感を感じます。パウロの神は「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる」。ギリシャの多神教の世界からイスラエルの一神教の世界へとパウロは軸足をずらします。25節前半までと似たことはストア派もヘレニズム化したユダヤ教も言います。アテネの人々も聞いていて特に違和感を覚えなかったでしょう。ところが彼らは突然に再び「奇妙なこと」を聞かされるのです。ここはイザヤ書(42:5)を下敷きにした言葉です。また「生命と息」は天地創造物語からアダム創造の場面(2:9)も意識しています。言葉遣いも思想も、ここでいきなり聖書に飛んでおります。パウロにすれば、ここまででアテネの人々との共通理解を作った上で、いよいよ本題である「知られざる神」の説明の中心部分に取り掛かったわけです。しかしアテネの人々にとって、パウロの語る「知られざる神」は受け入れがたいものでした。とはいえ、この時点ではまだ人々はパウロの語る外国の神々の話への興味を失ってはおりません。パウロの話はまだ続きます。
今日の物語の冒頭部分では、パウロは町中至るところにある偶像を見て憤慨します。一方で、アレオパゴスに連れてこられたパウロは冷静でした。そして、知的な好奇心に飛んだアテネの人々に届くように工夫した語りかけを始めます。アテネ伝道はここで人々を説得できるかどうかに掛かっている、という心持ちで、聖霊の力を受けながら語り始めたのでありました。わたしたちは、パウロが伝道に掛けた強い気持ちとそのためのエネルギーをここから読み取っていきたいと思います。
2000年後のわたしたちも、キリスト者として、キリストを証しする人生を送ろうとしています。パウロのような、2000年後に語り継がれる伝道者にはなれませんが、神が創造されたこの世界に生きる者として、神との出会いを、キリストの示された道を、聖霊の後押しをいただきながら語り継いでまいりましょう。わたしたちの生きる姿が神を賛美し証しするものになりますように。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年9月4日
聖霊降臨節第15主日 振起日
聖書 使徒言行録 17章10-15節
讃美歌21 6、419
「 御言葉に養われてこそ 」
テサロニケの町でパウロを告発した人たちは「世界中を騒がせた連中がテサロニケにも入り込んでいる」と主張します。世界中にとは全く言い過ぎですが、しかし一方で、確かにどこの町でもパウロ一行は騒ぎに巻き込まれています。その意味では彼らの言い分は半分ぐらいは当たっているようでもあります。
そしてパウロの代わりにヤソンと数人の「兄弟」が捕まります。イエスを信じる人たちは「直ちに夜のうちに」、おそらくは人目を避け、夜の闇に紛れて、パウロを送り出します。
ベレアはテサロニケから西へ約25キロ離れた山裾の川沿いの町です。川沿いの町という点ではわたしたちと似ております。枚方市駅から25キロを地図で見ますと、淀屋橋では少し足りません。土佐堀の向こう、昔の川口居留地あたりまで行きます。テサロニケからの夜道を歩けば5時間か6時間というところでしょうから、ベレアの町に着いたのは夜明け前ぐらいになるのでしょうか。
パウロはいつものように会堂・シナゴーグに行って人々に語りかけます。ベレアのユダヤ人たちはとても熱心かつ素直な人たちであり、パウロの話が聖書の通りなのか、これはわたしたちの言う旧約聖書のことですが、熱心に調べた、とルカは主張します。
イザヤ書のメシア預言以外にも、イエスのことを書いていると読める箇所はいくつもあります。パウロは手紙の中で自分はパリサイ派の教育を受けたと書いておりますから、相当に聖書を勉強しております。ですから縦横無尽に(旧約)聖書の言葉を引用し、自分の伝えるイエスこそメシアである、と語ったわけです。
パウロたちはベレアにしばらく滞在したようです。ベレアの人々は自分たちで熱心に調べて確認します。ただ、当時は書物は貴重品です。値段も高ければ場所も取ります。ですから巻物となった聖書が会堂に1セットあるだけでありましょう。ベレアの人たちが会堂に集まり、手分けして聖書を読んで確かめる情景が思い浮かびます。そしてメシア預言の箇所を見つけては、互いに「おい、この部分を読んで見ろよ」とか言いながら回し読みしたのでありましょう。
テサロニケでは「彼らのうちのある者は信じ」た、と書かれておりますから、信じた人が多いようには書いておりません。それに対して、ベレアでは「多くの人が」信じた、と書いてあります。
ここまでですとパウロたちのベレア伝道は成功を収めたように見えますが、ベレアにパウロが居ると知ったテサロニケの町の人々がベレアまで押しかけてきます。
そこで、騒ぎが大きくなる前にベレアの教会の人々はパウロを海岸地方経由でアテネに送り出します。テモテとシラスだけなら大騒ぎにならないだろう、と考えたようです。
今日の物語の中心部分は、11節、ベレアの人々が熱心に聖書を読んで調べていたことでありましょう。ある新約学者が興味深いことを言っております。ベレア伝道の記事とテサロニケ伝道の記事はよく似ている。あるいはテサロニケのコピーかもしれない。しかし大きな違いがある。テサロニケの記事ではパウロの立場から、聖書を引用して論じ合い、説明し、論証した、と書いてある。しかしベレアの記事では語りかけられる立場から、人々が自分たちで毎日聖書を調べた、と書いてある。
語る立場と語りかけられる立場の両方の物語をルカは描こうとしている、というのです。そう考えますと、よく似た出来事がすぐに2回繰り返される謎が解けます。さらには、使徒言行録がテオフィロ閣下にキリスト教の何であるかを伝えようとしていると共に、テオフィロ閣下に、聖書にもっともっと親しんでもらいたい、とルカが思っていたことをうかがわせます。
テサロニケ教会にせよ、ベレア教会にせよ、パウロとの繋がりはおそらくこの後もずっと続きます。テサロニケ教会へ手紙が送られたように、ベレア教会にも本当は手紙を送っていたかもしれません。一方で手紙の必要はパウロの不在によるものです。パウロを標的にした騒動が起こることを避けて、あるいは次の町を目指して、パウロ自身は居なくなってしまいます。その状況の中で人々が教会、すなわちイエスを信じる人たちの集まりを維持できたのは熱心に聖書を読んでいたからでありましょう。
ベレア教会のその後は知られておりません。しかしパウロの第3回伝道旅行の途中にベレア出身のソパトロが同行しております(20:8)。ベレアに教会があったことは確実なようです。
わたしたちの日々の生活が、これらの初代教会の時代のように、騒動の標的となることは考えにくいことです。一方で、現代社会特有の日々様々な誘惑や、仕事や趣味、近所づきあいや親戚づきあい、などと共にわたしたちは生活しております。その中で日々聖書の言葉に親しみ続けたい。御言葉によってわたしたちは養われていくのです。
9月の第1主日は振起日とされます。厳しい夏もようやく終わりが近付き、あらためて信仰を振るい起こす主日です。たしかに、時折涼しい日があるようになって心身共に夏の疲れが出る頃です。日没の早まることも夏の疲れをさらに感じさせます。そしてそのような時には信仰のエネルギーも弱まりがちです。日本では読書の秋とも言います。あらためて御言葉に親しみ、御言葉に力を与えられながら、待降節に向けて信仰の日々を重ねて参りましょう。
*****
マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年8月28日
聖霊降臨節第14主日
聖書 使徒言行録 17章1-9節
讃美歌21 227、463
「イエスという別の王が」
今日はテサロニケの町が舞台です。「テサロニケの信徒への手紙」は、第2の手紙が疑似パウロ書簡である一方、第1の手紙は真正パウロ書簡であり、新約聖書最古の文書といわれております。
今日の物語で興味深いのはヤソンという名前です。これはギリシア語名であり、ヘブライ語ではヨシュアです。当時のユダヤ人にはよくある名前の一つであったようです。イエスもヘブライ語に戻しますとヨシュアです。深読みが過ぎるようにも思いますが、パウロの身代わりになったのは実はイエスであった、とも読めます。と言いますのも、この第2回伝道旅行の中で、パウロの言葉としてイエスがメシアであること、そしてなによりも、メシアが苦しみを受けること、をルカが初めて記しているのが今日の物語なのです。
パウロたちはフィリピにしばらく滞在した後に、海岸沿いの町を辿りつつ、テサロニケに行きます。テサロニケはマケドニア州全体の首都でもあり、総督の居住地であり、交通の要所にある都市でした。フィリピと同じように、パウロとしては是非とも福音を伝えなければならない町でありました。
そのテサロニケで、パウロは「三回の安息日にわたって」シナゴーグに集まる人々と語り合います。そしてパウロは「メシアは必ず苦しみを受ける」と語ります。有名なイザヤ書の言葉を思い浮かべていたことでしょう。そこまでは、シナゴーグでパウロの話を聞く人々も共感して聞いていたはずです。そして「メシアは復活する」「そのメシアは自分が出会ったイエスだ」と言い出したあたりから、なるほどと思う人や、半信半疑になる人、信じない人、に分かれていったようです。そして3節にあります「このメシアは私が伝えているイエスである」は、どうやら非常に古い信仰告白の形を伝えているらしいと言われています。
4節を見ますと、ユダヤ人だけではなく神をあがめる異邦人もイエスを信じたと記されます。そして、使徒言行録では毎度ながらというべき事ですが、パウロの言葉を信じる人々が増えたのを見て、一部のユダヤ人が騒ぎ始めます。今回は彼らは町のならず者を雇ってテサロニケの町を混乱させます。彼らはパウロとシラスの代わりにヤソンと数人の「兄弟」を捕まえます。ヤソンという人物についても他に情報がないのでよく判りませんが、テサロニケでパウロの教えを信じた人々の中の一人でありましょうし、後のテサロニケ教会の中ではよく知られた人物、中心的なメンバーの一人であったのでしょう。
騒ぎを起こした人たちは、パウロとシラスがヤソンの家に隠れていると思ったようです。しかし見つけることができず、そこにいたヤソンたち数名を捕まえて、町の治安を預かる役人の所に連れて行きます。そして、こう言い立てます。「世界中を騒がせてきた連中がここにも来ています」。この時点では贔屓目に見ても、初代教会の勢いはローマ世界全体に広まっているとは言えません。しかしあるいは、これを深読みすれば、いずれは世界中に広まる、というルカの思いの反映であるのかも知れません。
彼らはさらにヤソンたちが皇帝とは別にイエスという王がいると主張している、と言い立てます。元来、メシアとは「油注がれた者」、すなわちイスラエルを他国の支配から解放する王を意味していました。その意味では、皇帝とは別の王についてパウロが語っている、そのことでユダヤ人の共同体を騒がせている、ひいてはローマ帝国を騒がせている、という主張は、彼らの時代背景を考えると、とてもリアルな言いがかりでありました。その主張がテサロニケの町の役人たちにとって、とても油断ならない指摘であることは百も承知でその部分を突いてきたのです。
町の人々や役人たちは彼らの思惑通りに慌てます。ローマ帝国にとって、ユダヤは何度となく反乱を繰り返した極めて扱いにくい地方です。そのユダヤに、皇帝とは別の王がいるという話しを広めているヤツがいる、と聞いては放っておけません。おそらくはヤソンたちを厳しく取り調べたことでしょう。そして、ヤソンたちが言っているメシアは王のことではないのだ、という供述にある程度納得したようです。
9節を見ますと、ヤソンたちから保証金を取って釈放した、とあります。ヤソンたちがメシア(=別の王)に関する教えを広めない、という保証金だったのではないか、といわれています。皇帝以外の王がいると主張している、という告発を役人たちが文字通りに受け取って信じたとすれば、保証金程度ではすまなかったことでしょう。ここの部分についても、テサロニケの町の当局者からヤソンたちが寛容な扱いを受けた。キリスト教の扱いはそうあるべきだ、というルカの主張が見えてくるようです。
この騒ぎを受けて、パウロとシラスは出発します。この騒ぎによってテサロニケを逃げ出したのだと考えるならば、テサロニケの町におけるパウロの伝道は、途中で終わってしまった、尻切れトンボになってしまった、と考えることが出来るようです。しかし、テサロニケにはその後確かに教会が存在していきます。だからこそパウロはテサロニケの教会の人々に手紙を書くことになるのです。パウロはテサロニケの人々に(他にも色々なことを書き送っていますが)神の守りを信じて生活しなさい、と指示しております。
わたしたちも神の守りを信じて日々を重ねてゆきましょう。
*****