2023年度 降誕節の礼拝説教

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2024年2月4日     
降誕節第6主日 主日主題:奇跡を行うキリスト  
聖書 ヨハネ福音書 6章1-15節  
讃美歌21 198、56、81
 「十二のかごに 」
 5つのパンと2匹の魚の奇跡は4福音書全てに描かれます。ヨハネ福音書は過越祭が近付いていた頃のできごととして記します。ヨハネ福音書の最後の晩餐では告別説教と言われるイエスの教えが語られます。一方、ヨハネ福音書の最後の晩餐では、パンを祝福して裂き、弟子たちに分ける行為が描かれません。過越祭を前にしてパンを祝福して分けるところに注目するならば、今日の物語はヨハネ福音書における聖餐制定の物語でもあります。
 身軽に動いて町や村を訪れるのがイエスの宣教スタイルです。イエスが来たと聞いて三々五々、人々が集まるのです。集まった人たちの多くが弁当を持たないのは不思議ではありません。共観福音書の記事では、イエスの話しが長引いて夕方の食事時になり、困った弟子がイエスに早く解散させましょうと進言します(マルコ 6章、マタイ 14章、ルカ 9章、4000人の給食は少し違う)。一方、ヨハネ福音書の記事では話しが長引いたことを思わせる書き方ではありません。むしろ食事時にも関わらず弁当を用意できない人が集まってきたと読むべきなのかもしれません。
 そのような当時の貧しい人々にとって、イエスの話すこともすることも、何もかもが大変に魅力的であったのです。
 現代とは異なり、古代は書物が大変に高価な貴重品でありました。当然ながらガリラヤの農民や漁民は聖書を持っておりません。聖書の物語は読むものではなく聞くものでした。律法学者たちを遙かに上回って、イエスの語る譬え話も食事の席上でのテーブルトークも、あるいは律法学者たちとの議論も、聞く人々を沸かせたのです。娯楽の乏しい時代、噂に聞く若き神の人イエスが来ることは村を挙げての一大イベントでありました。力強くてエンターテイメントなイエスの話を聞こうとして人々は集まります。
 集まった群衆の多さに困惑したフィリポは 200デナリオンのパンでも足らないだろうと言って頭を抱えます。1デナリは一般的な労働者の一日の賃金でした。現代日本の物価に直すとどうなるのでしょうか。割り算しやすいように一日1万円としておきましょう。200デナリオンなら200万円です。弟子たちの財布にそんな大金が入っていたとは思えません。どうしたらいいかと言われたフィリポが困り果てるのは当然です。
 200万円を5000人で割ると一人400円です。男だけで5000人というのですから、とりあえず倍にして全部で1万人居たとしましょう。1万人として割り算しなおしますと1人200円の見当になります。興味深いことに、案外に現代と変わりません。
 どうやったら5つのパンが200デナリオンのパンに増えるんだ、と考えてしまうとそこで現代人は思考がストップします。本当はみんな弁当にするパンは持っていたんだ。男の子がパンを差し出したのを見て隠し持つのが恥ずかしくなったんだろう。だから分け合ったら満腹したんだ。という説明があります。実際のところはそうだったのかもしれません。
 ところが、そうやって無理のない説明をしてしまったら、この物語を4人の福音書記者が揃って書き残した理由が、かえって分からなくなります。福音書記者たちは、この出来事に何を感じたのでしょうか。
 ここで視点を変えて聖書の中から食べ物を巡る似たような物語をいくつか思い起こしてみましょう。
 預言者エリヤの物語には、王から指名手配を受けて逃亡したエリヤをかくまった親子が、飢饉の間ずっと毎日の小麦粉と油を与えられた奇跡物語があります(列王記上 17:7-16)。
 エリヤの弟子であり後継者でもあったエリシャも食べ物を巡る奇跡物語をいくつか持っております。その中にパンの奇跡があります(列王記下 4:42-44)。20個のパンが100人を越える人々に分け与えられたのです。イエスはこのエリシャの物語を当然知っていたでしょうし、その奇跡を思い起こしながら、自分も手に持ったパンを次々に裂いていったのでしょう。
 新約聖書に目を移しますと、荒れ野の誘惑の物語があります。40日の断食を経てイエスは悪魔に誘惑されます。おまえにその力があるのなら石をパンに変えてみろ、それを食べれば満腹できるじゃないか、と唆されるのです。御存知のように、この時イエスはその誘いをはねつけ、「人はパンだけで生きるのではない」という重要な教えを残します。
 それなのに今日の物語では、イエスは集まった人々にパンを配ります。
 ヨハネ福音書を少し戻りますと、ヨハネだけが記すカナの婚礼の奇跡物語があります。カナの婚礼では、すでにもう客たちが酔っているところに大きな水瓶6杯もの上等のぶどう酒ができてしまいました。4世紀の教会指導者であるヒエロニムスは言います。あのぶどう酒を飲みきることはできなかった。だからこそ、わたしたちは今もなお毎日そこから飲んでいる。
 ヒエロニムスの言葉がわたしたちが言うところの聖餐式を意識していることは間違いありません。今日の奇跡物語についても、ヨハネ福音書の視点から見て同じように考えることができます。十二の籠にいっぱいになったパンくずは、今もなお、わたしたちを養い続けているのです。わたしたちはキリストが祝福して分けられたパンを、今もなお聖餐式のパンとして毎月そこから食べているのです。そのパンと杯がわたしたちを真に養ってくださいますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2024年1月28日    
降誕節第5主日  主日主題:神の民の誕生   
聖書  ヨハネ福音書 3章1-15節  
讃美歌21 476、502 
 「 ニコデモの誤解 」
 ヨハネ福音書だけに登場するニコデモの描かれ方はいささか微妙です。イエスを弁護したり(7章)、葬りの準備をしたり(19章)、重要なシンパのように描かれる一方で、12章では名指しこそしませんけれども、イエスを信じたと公言しないのは神の栄光よりも人間の栄誉を重んじている、としてニコデモは批判されます。19章にも「以前にイエスを夜訪れたニコデモ」とあります。昼間に堂々と来るべきだ、というヨハネの批判を感じます。
 しかし、ニコデモはファリサイ派の一員であって議員の一人です。イエスはすでに神殿の権威を真っ向から批判する事件を起こしています。ニコデモにすれば、いくつもの奇跡を起こした在野の預言者の話をじっくりと聞きたい。しかしファリサイ派としてのプライドもある。神殿で暴れた危険人物の所に出入りする様子を見られると議員としての地位を追われる危険もある。悩んで迷った挙げ句に、ある夜、人目を避けるようにしてニコデモはイエスの許を訪れます。ニコデモの迷いと、それでもイエスを訪ねたニコデモの勇気とを見ることができます。
 19章に至って、イエスの死を見たニコデモの信仰は一段飛躍します。アリマタヤのヨセフと共に、危険を承知でイエスの埋葬を行うのです。イエス復活後の彼らの消息が伝えられていないのは残念です。どんな信仰生活を送ったのでしょうか。なかなか飛躍できず、悩みや迷いを抱えたままイエスを信じていたニコデモの姿は、わたしたちの現実の信仰生活に訴えかけるものがたくさん有っただろうに、と思います。
 ニコデモは何をしようとしてイエスを訪ねたのでしょうか。具体的なことを言い出す前に、イエスが「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言い、どこか噛み合わない会話が始まってしまうのです。
 新しく生まれるという言葉をニコデモは文字通りに解釈したようです。そんなことができるとは思えないのですが?といぶかるニコデモに対し、イエスは「それは水と霊によって生まれることだ」と謎掛けのようなことを付け加えます。ニコデモはますます混乱してしまいます。
 ところが、ヨハネ福音書を冒頭から一連の物語として読み進めますとヒントが見えてきます。今日の物語も、水、霊、生まれる、風、音、といった単語が創世記の天地創造物語を連想させます。天地創造物語の最後には人間に命が与えられます。創世記のギリシャ語タイトルであるゲネシスは生まれるという意味です。
 わたしたちには風が直接は見えないのと同じように、神の霊である聖霊の働きも見ることはできません。しかし聖霊は間違いなくわたしたちのそばで働いていて、わたしたちを新しく生まれ変わらせるのです。カナの婚礼の奇跡物語も、水がブドウ酒に変わったように、弟子たちも作り替えられて新たに生まれる、という寓意が含まれているのでありましょう。
 今日の物語では、水と霊によって生まれることの具体的な状況は語られません。洗礼者ヨハネのキリスト証言では、自分は水で洗礼を授ける、そして自分の後から来る人(イエス)は聖霊によって洗礼を授ける、と言っております。洗礼と訳されるギリシャ語バプティゾーは、水の中に漬け込んで溺れさせて引きずり出す、というぐらいのニュアンスを持ちます。ヨハネの洗礼は実際に全身をヨルダン川に漬け込むようなものであったと考えられています。水と霊によって生まれる、と書かれているのは、実際に水の中に放り込まれてそれまでの生き方を終わらせ、そしてイエスの弟子として新たな命を与えられて水の中から引き出されてくることを意味しています。
 ファリサイ派であるニコデモであれば、聖書のことも神のこともよく知っているはずなのに、イエスの言葉を創世記の物語に結びつけて理解せず、イエスから呆れられます。イエスはモーセの故事(民数記 21章)を語ります。出エジプトの旅の途中、人々が神に逆らった時に、神が送り込んだ蛇が人々を噛み殺します。執り成しを祈ったモーセが神に命じられて青銅の蛇を作り、それを高く掲げますと、仰ぎ見た人々は命を得ます。
 復活のイエスは40日目に天に昇ります。弟子たちはその様子を仰ぎ見て見送ります。天に昇ったイエスを信じることが命を得ることだ。それが神の国に入ることであり、永遠の命である、と福音書記者ヨハネは主張します。
 ニコデモはイエスの言葉を誤解しただけなのでしょうか。むしろ、新しく生まれることの難しさを知っているからこそ「どうしてそんなことが起こり得るのですか?」と聞き返したようにも思えます。ニコデモも新しく生まれたいと思っているのは間違いないでしょう。そのニコデモに対してイエスは、聖霊によって新しく生まれることができる(7節8節)、新しく生まれなければならない、と断言するのです。目に見えないけれども、聖霊の働きが人を新たに生まれさせる、と語りかけます。
 聖霊といい、永遠の命といい、わたしたちの日常の言葉では理解できないものです。しかし神の力がわたしたち一人一人に働いているのは間違いありません。神の力を受けて、イエスを信じて、イエスの弟子として、永遠の命を目指して、神の民として、与えられた命の日々を生きて参りましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2024年1月21日    
降誕節第4主日  主日主題:最初の弟子たち  
聖書 ヨハネ福音書 1章35-51節 
讃美歌21 516、552
 「いちじくの木の下に見た」 
 ヨハネ福音書はアンデレを含む数人の弟子が元々は洗礼者ヨハネの弟子であった、と記します。ヨハネの弟子の中からイエスの弟子となった人が居たのは本当のことでしょう。初代教会以来、キリスト教会は洗礼という儀式をとても大切なものとしてきました。人生でただ1回限りの洗礼という考え方は、ヨハネの洗礼を受け継いだものと見られます。当時の預言者イエスの集団が、イエス自身を含めて何人かがヨハネの弟子であったとすると、洗礼という儀式の背景を無理なく説明できます。
 また、イエス自身が元はヨハネの弟子であり、その宣教活動を発展的に継承したのだとすると、弟子仲間の中から同志を募るのは自然なことです。神殿が独占する罪の赦しを批判し、世の終わりが近付いたから神への正しい信仰に立ち返れ、と叫ぶ点では、ヨハネとイエスは同じです。あきらかにその点ではイエスはヨハネの継承者です。一方で、洗礼者ヨハネの宣教活動は、あくまでもヨルダン川密着です。荒れ野でヨハネが叫び、この声を聞いた人々が町や村からヨハネの元に集まるのです。対して、イエスは弟子を連れて町や村を巡ります。あるいは、イエスはヨハネの弟子の中でも広報宣伝グループであったのかもしれません。そうすると、元々イエスはガリラヤ中を回って神の国が近づいた、と宣言していたことになるでしょう。
 ヨハネ福音書が弟子のリクルートの記事を残した理由としては、福音書記者ヨハネの教会の周りには、まだ洗礼者ヨハネの弟子たちの教団が活動を続けており、そのため、ヨハネ自身が自分の弟子に対して「イエスに着いて行け」と指示したように書く必要があった、と考えられています。
 今日の物語の前半では、弟子がイエスに「ラビ、あなたはどこに泊まっていますか?」と質問します。そして彼らはイエスに着いて行き、同じ所に泊まります。3回繰り返される「泊まる」は留まると訳すこともできます。場所だけではなく、考え方や社会的な地位についても使えます。
 その直後に、アンデレがペトロに会って「メシアに出会った」と告げているところをみると、ヨハネの宣教活動に留まるのか?ヨハネの宣教活動から一段飛躍したところに留まるのか?というニュアンスを持っていると読めます。アンデレたちは夜を徹してイエスと語り明かしたのでしょうか。結果、イエスが目指すのと同じ考え方で、すなわち町や村を巡って宣教活動を始めることで一致し、イエスの所に留まり、イエスの弟子となるのです。
 次にイエスはフィリポに出会います。とても無造作に「わたしに従いなさい」と言います。徴税人マタイ召命の物語を思い起こします。フィリポもマタイも言われてすぐに着いて行きます。只者ではない雰囲気をイエスが持っていたのでしょう。フィリポは友人に出会い、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いたその人に出会った」と伝えます。これはアンデレがペトロに言ったのと同じことです。「私たちはメシアに出会った。それはナザレのイエスだ」と言っているのです。
 洗礼者ヨハネが「私もそれが誰であるのか知らなかった」と語るメシアが、ヨセフの子、ナザレのイエスである、と次第に明らかにされます。イエスがメシアであり、神の子であることの証言が、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、ナタナエル、そしてイエス自身、と積み重ねられます。フィリポによってイエスに引き合わされたナタナエルはこう証言します。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。それを受けてイエスが語ります。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り下りするのを見るであろう」。創世記28章ヤコブの梯子を思い起こさせます。
 一連のキリスト証言の最後にイエス自身が語る言葉は、イエスが神の子として天と地を結び合わせる梯子となる、神の働きがイエスの働きを通して見えるようになる、と宣言しているのです。このイエスの宣言によって、フィリポがナタナエルに言った「来なさい、そして自分で見なさい」という簡潔な言葉が力を持ち、ナタナエルは考えを改めてイエスに会いに行います。
 「はっきり言っておく」はイエス独特の言葉遣いです。原文は「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」です。アーメンを文章の最初に2回重ねることで、今から私の言うことに間違いはない、と断言して宣言しています。洗礼者ヨハネが預言者の言葉遣いの伝統に則して「見よ、神の小羊」「神はこう言われた」と語るのとは対照的です。イエスがヨハネを遙かに超えた存在であることを、福音書記者ヨハネは一連のキリスト証言を締めくくるイエスの言葉によって示しているのです。
 ヨハネ福音書の描くところでは、最初の弟子たちは洗礼者ヨハネと共に最初の証言者であり、そして最初の目撃者でもありました。わたしたちは、イエス御自身の姿を直接見ることはできません。イエスの示した奇跡を直接見ることもできません。それでもわたしたちは、福音書に記されたイエスの言葉や働きを読むことによって神の業を見ます。今日の物語に記されたイエスの最後の言葉は、「あなたは見る」から「あなたたちは見る」に拡張されています。ナタナエルが見るだけではありません。福音書を読むことでわたしたちがイエスを見るのです。
 わたしたちの心に、イエスのイメージが豊かに与えられ、イエスに従う者であり続けることができますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2024年1月14日    
降誕節第3主日  主日主題:受肉の秘義  
聖書 ヨハネによる福音書 1章19-34節 
讃美歌21 286、280、81
 「 証言者ヨハネ 」
 洗礼者ヨハネは、その言葉使いからも、そしてまた世の人々に向かって神に立ち返れと叫ぶことからも、旧約聖書に記された預言者の系譜に繋がる人物です。
 ヨハネ福音書にはイエスがヨハネから洗礼を受ける場面は描かれません。4福音書を読み比べますと時代が下がるに連れて洗礼の場面を記さなくなります。2000年後のわたしたちは、イエスが元はヨハネの弟子であったと聞いても特別に具合悪いこととは思いませんが、初代教会にとっては大問題であったようです。
 それでいて4人の福音書記者は、洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていたことと、ヨハネがイザヤの預言が示すところの荒れ野で叫ぶ声であるということは、書かないわけにはいかなかったようです。特にヨハネ福音書では洗礼者ヨハネの弟子たちが身近なところでまだ活動していたようだと言われています。だからこそ、来週読みます物語に描かれているように、ヨハネの弟子がイエスの弟子となった、と特に強調する必要があったと考えられます。古い流行語を持ち出せば、イエスがヨハネから洗礼を受け、ヨハネの弟子であったことは、初代教会にとってまさしく「不都合な真実」でありました。
 ヨハネの洗礼は他の福音書では罪の赦しが強調されています。イエスの時代のユダヤでは罪の赦しはエルサレム神殿で献げ物をすることで祭司によって認定されます。貧しい人には手が届かない仕組みです。だからこそヨハネの元には多くの民衆が集まり、エルサレム神殿の当局は慌てて調査団を派遣してヨハネを尋問させたのです。ヨハネ福音書の記事を信用すれば、調査団の祭司やレビ人はファリサイ派ですから地位の高い祭司ではありません。祭司の中にも地位の高低があり、貴族階級の祭司はサドカイ派、ファリサイ派の祭司はいわゆる中間層あたりになります。また洗礼はヨハネの洗礼とはニュアンスがかなり異なりますけれども、サドカイ派よりもファリサイ派が重視する儀式でした。ヨハネの説教ではなく、この尋問風景が描かれるのもヨハネ福音書の特徴です。おまえはいったい何者なのか?と問われたヨハネは、自分はメシアではない、キリストではない、と答えます。では何者なのか?と重ねて問われたヨハネは、イザヤの預言を返します。
 祭司たちは調査の核心に踏み込みます。おまえは何故洗礼を授けているのか?神殿の権威を無視するのはけしからん。おまえに罪の赦しを宣言する権限はあるのか?民衆を惑わすな。返答によってはタダじゃおかんぞ。という含みを持つ質問です。
 その質問に対してヨハネは、自分よりもっとすごい預言者が後から来る。その預言者のことは、まだ誰も知らないと答えます。20節に「彼は公言して隠さず、言い表した」と書かれています。
ヨハネの答えは神殿からの調査団に対する公式の返答であり、調査団の複数の人物と、そしてヨハネの弟子や一緒にいた民衆たちもその答えを聞いていた、と福音書記者ヨハネは主張します。新共同訳の小見出しにあるように、これは洗礼者ヨハネの証言です。実際のヨハネの答えは判りません。しかし福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネのことをキリストについての最初の証言者であり、最高の証言者である、として描いているのです。
 翌日、洗礼者ヨハネはイエスを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。翌日には同じことをヨハネ自身の弟子に対して言いますから、今日の箇所では民衆に向かって言ったのでしょう。20節と同じように人々の前で公言・証言したと読むべきです。興味深いことに、ヨハネはこの証言の中で2回に渡って「自分はこの人を知らなかった」と語ります。しかし聖霊の降るのを見てヨハネは気付きます。これはヨハネ福音書のよくあるパターンです。次週読みます最初の弟子たちの物語でも徐々にイエスの正体が明かされていきます。洗礼者ヨハネは言います。自分の後から来るという預言者が誰であるのか、人々も知らなかったし、ましてや神殿から派遣された調査団の人たちも知らない。そして自分も知らなかった。しかし、その人が洗礼を受ける時に聖霊が降ってくる、と自分は神から聞かされていた。そしてその通りのことが起こった。自分はそれを確かに見た。だから、イエスこそキリストなのだ、と自分は証言する。
 新共同訳の小見出し「洗礼者ヨハネの証し」の部分は調査団の問いに答える証言であるのに対して、「神の小羊」の部分はヨハネの自発的な証言として描かれます。
 この証言は、これが預言者の言葉であることを意識した作りになっています。神の言葉を預かる預言者によって語られた、間違いのないキリスト証言である、と福音書記者ヨハネは主張します。
 キリスト教は、神について、またイエスについて、言葉で表わして証言することを最初から大切にしてきました。自分の信じたことを心の中に収めるだけではなく、言葉に表して伝えることは今も大切な信仰の一部です。わたしたちは「見よ、あの人こそメシアだ」と声を上げることはないでしょう。しかし、ヨハネが指し示したメシアとはイエスのことであると知っています。ナザレのイエスはただの人ではなく、神の子キリストであり、キリストが神の栄光を現し、神の恵みと真実はキリストによって私たちの目に見えるものとなったことを知っています。わたしたちの信じるそのことを、自分の言葉によって、あるいは賛美の歌によって、語り伝える者であり続けることができますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2024年1月7日    
降誕節第2主日  主日主題:東方の学者たち
聖書  マタイによる福音書 2章1-12節
讃美歌21 208、278、81
「 キリストの光に 」
 新年のご挨拶と公現のお祝いを申し上げます。教会暦では昨日6日が公現日または顕現日と呼ばれる祝日でありました。
 3つの献げ物から3人の博士とされる彼らは、新共同訳では占星術の学者たちとなっております。ギリシャ語では複数形のマゴイです。英語のマジックと同じルーツをもつ言葉でありましょう。その名詞形です。直訳すれば「魔術を行う人、魔術師」となります。おそらくはペルシャ地方の祭司を意味しています。古代社会において祭司は読み書きに通じたインテリであり、多くの宗教では星占いなどの占いの術にも長じておりました。
 旧約聖書でもエジプトに売られたヨセフの物語(創世記)やダニエル書の中に、夢の読み解き・夢占いの記事があります。夢を通じて神が語りかけ、それを読み解くのは許容されたようです。
 ルカ福音書もマタイ福音書も、初代教会がユダヤ教の枠組から離れて異邦人伝道を中心に据えた歩みを始めた時代の書物です。マタイは福音書冒頭に、異邦人であり他宗教の地位も身分もある祭司が、キリストの誕生を祝うためにはるばると幼子の元を訪れたと書くことで、イエスの救いはユダヤ教徒だけではなく、イエスの元に馳せ参じる全ての人に及ぶこと、そしてキリストの救いは他の宗教よりも一段高いものであると示そうとしております。
 「占星術の学者たち」はユダヤのメシアについて聞き知っていたからこそ、その誕生を祝いに来たのです。星の徴だけではなく夢のお告げも受けていたのではないでしょうか。
 彼らの旅は3人だけの旅ではないでしょう。おそらくは、召使いや荷物運びのラクダやその世話係など、多くの人を伴う旅でした。旅の途中の安全にも不安がありますから護衛も連れていたでしょう。そしてようやくエルサレムにたどりつきます。ユダヤの地を目指すとなればエルサレムを目指すのは当然です。しかしエルサレムに到着しても彼らを導いた星はその上にいない。星の導きとは違った場所に着いてしまったのではないか?ここでよいのか?彼らは不安を感じます。エルサレムの人々に、新たに生まれた「ユダヤ人の王」の居場所を尋ね始めます。
 問われてエルサレムの人々は怪訝な顔をします。やがて博士たちのところに、ヘロデ王が不安を覚えているという噂が聞こえてきます。ヘロデ王の権力欲の強さ、粛正を繰り返した政治についても彼らはすでに知っていたことでありましょう。そこに身内ですら次々に処刑したヘロデ王が不安に駆られている、という噂が彼らの耳に届くのです。
 不安なのはこっちだよ、と彼らは思います。自分たちの地位も身分も無視されて、危険な噂を持ち込んだ連中としてヘロデに暗殺されかねません。その可能性に気付いてゾッとしたことでしょう。ヘロデの呼び出しを受けた時、やっと情報が手に入ると思うよりは遺書でも書きたい気分だったような気がします。
 エルサレムからベツレヘムまでの旅は、追手や待ち伏せを警戒して常に緊張を強いられます。その一方で、彼らが東の地で見た星が再び現れ、彼らをベツレヘムに導きます。聞かされた預言者の言葉と星の徴が同じ村を指します。暗殺の危機があっても彼らはホッとしたことでしょう。
 彼らは「喜びにあふれた」と記されます。「喜びに喜んだ」という訳もあります。自分たちの苦しい長い旅は間違っていなかった。探していた新しい王の親子に会えた。携えてきた献げ物も献げることができた。そのことを喜びます。それまでの不安が大きかっただけに、一瞬は我を忘れるぐらいに喜んだのでしょう。
 ところが、その喜びに水を差すような不安な夢を見てしまいます。「ヘロデのところに立ち寄るな」というお告げでした。彼らが殺される夢だったのか、あるいは16節からの幼児皆殺し事件の夢だったのか、夢占い師でもある博士たちが朝起きるなりお互いの不安な表情を見てますます不安になり、召使いをテントの外に追い出してヒソヒソ話をしている様子が目に浮かびます。テントから押し出された召使いも、昨夜の喜びとは打って変わった博士たちの様子を見て不審に思ったことでしょう。彼らはヘロデの目をかすめて東の国に帰ります。メシアが世に現れる時(公現)を待ちながら国に帰っていったのです。
 彼らのメシア訪問の旅は、その頂点では喜びに溢れたものでしたが、旅全体では多くの時間が様々な危険や危機の中にあり、どうしたらやり過ごせるか、と思うような不安が続くものでありました。しかしそれでも彼らは旅を続けます。その中で、エルサレムの人に訊くという間違いをしても最後まで神が彼らを導き、彼らはメシアに会うことを許され、その喜びを祝います。彼らのその歩みは、わたしたちの歩む姿でもあります。
 キリストの光に導かれ、それでも様々な危機や危険に遭い、不安を感じ、時に危機を増幅するような間違いをしでかし、それでも結局は光に導かれて辿り着く。神様はなかなか優しくは導いてくれないけれども、それでも私たちに道を示してくださる。判りにくい光であることも多く、時にはその光が隠されることもあるけれども、やがてまた光が現れて再び導いてくださる。ついにはキリストの住まう家に入り、キリストに会える。
 その希望をこの物語は語ります。新しい1年、様々な危機や危険の中でも、神の導きの必ずあることを忘れずに日々の歩みを重ねてまいりましょう。

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わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。