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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年10月26日
降誕前第9主日 主日主題:恵みへの忠実
聖書 マタイ 25章14-30節
詩編 31編15-21節
讃美歌21 363、536
「 蒔かないところから 」
今日の譬え話の3人目の家来は、預かった1タラントンを銀行に預けることもせずに土の中に埋めておいた、と言って主人から批判されます。
少し後の時代となりますけれども、4世紀の教会指導者であるニュッサのグレゴリウスが、高利貸し批判の説教を残しております。ですから当時は銀行の他にも高利貸しが存在したのは間違いないところです。その説教でグレゴリウスは、利息が利息を生むことで逃亡したり自殺したりする人が居る、と批判しております。具体的な数字はともかく、相当な利率であったことでしょう。
1タラントンを倍にするのはどれぐらいの時間が必要だったのでありましょうか?当時の銀行が複利計算をしていたとすると、5%なら15年、10%で7年、20%で3年半、家来に金を預けた主人がどこに旅行していたかは分かりませんが、銀行に預けておいてくれたら、と言いたくなる気持ちは分かるような気がします。
5タラントンの家来は、たしかに商売をしておりました。2タラントンの家来も同じ言葉で褒められておりますから、やはり何がしかの商売をしていたのでありましょう。
では、1タラントンの家来が銀行に預けたかもしれないのと同じ時間で、5タラントンを2倍にすることはできたのでありましょうか。できたようです。古代社会においても、このようにまとまった資金があった場合、リスクを取ってでも大きくもうける、というための仕組みや働き方が既にありました。
福音書よりもさらに1500年ほども前の話になります。アッシリアとヒッタイトの資料をつなぎ合わせますと、直線距離で800キロ、実際には1000キロを超える道のりが必要な両国の町と町の間で、定期的な交易ルートがあり、決済のための法的な決まりが取り交わされて粘土板に記されておりました。
途中には砂漠超えや山越えの道もあり、さらには盗賊の危険もありますので、リスクは高いのですが儲けも大きかったようです。品物によっては2倍3倍の値段になったことが分かっております。大きな儲けのためには大きなリスクを取らねばならないのは現代と同じでありましょうか。ついでながら、共同投資や投資信託のような仕組みも既にありました。
ローマ時代には有名なローマの軍用道路が各地に整備されますから、元手のお金さえあれば、大儲けのできる旨味のある交易(商品)は各種いろいろとあったことでありましょう。
そして、この譬え話の聞き手であった人たちは、自分自身がそのような大がかりな商売に関わるかどうかは別にして、その時に失敗するリスクのあることまで含めて知識としては知っていたことでありましょう。
今日の譬え話の1タラントンの家来にもどりましょう。
この家来は、リスクを怖れるあまりに自分で商売をすることも無く、さらには銀行に預けることすらしていないのです。
ところで、この家来は主人に対して興味深いことを言っております。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」というのです。
今日のこの譬え話はタラントンの譬えです。わたしたちの誰もが承知しておりますように、聖書の中ではタラントンとはわたしたち一人一人が神から託された賜物のことです。そして、この譬え話が、託された賜物を仕舞い込まずに使いなさい、という教えであることも間違いありません。
ただ、そうしますと、この1タラントンの家来の申し開きが文脈から浮いてきます。譬え話の教えにもう一点、追加する必要が出てきます。それはおそらく、賜物を用いる場所や方向性を間違えてはいけない、ということでありましょう。間違ったところに蒔いてしまうと、蒔いた覚えの無いところから刈り取られてしまうのです。
1タラントンを銀行に預けたとしても、当時の銀行ならば銀行の経営状態は大丈夫か?と常々気にするのも大切なことでありました。その間に、自分なりの元手でなにがしの商売をしていたのならなおさらです。ところがこの家来は、銀行の経営状態を見ることが蒔いたところからの収穫になるにも関わらず、1タラントンを隠して恐れることに賜物を使ってしまいました。
わたしたちは託された賜物が何であるのかと考えることはよくあります。ただそれに加えて、託された賜物をどこで使うのか、そこまで意識しないことも多いような気がいたします。
意識せずともフィットすると一番よいのはもちろんです。とはいえ、どこで使おうか、と悩んだり迷ったりしても良いような気がします。自分で思うところの賜物の活かし場所が、神の思いとはズレていることも多いのです。ここでいいのか?と迷い悩みながら賜物を働かせたのであれば、本当は少なからずズレていても「蒔かない所から刈り取」られるようなことにはならないのでありましょう。
今日の主日の主題は「恵みへの忠実」でありました。託された賜物という恵みについて言うならば、賜物をどこで活かすのかを神に問い続けながら活かすことが、恵みへの忠実に当たるように思えます。蒔かれた賜物からの収穫を目指して信仰者の歩みを重ねたいものです。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年10月19日
聖霊降臨節第20主日
聖書 マタイ福音書 22章15-22節
詩編 52編:3-11節
讃美歌21 16、355
「 神のものは神に 」
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」大変有名な言葉でありましょう。話を先回りいたしますと、この出来事をわたしたちは税金の話だと思って読んでしまいます。情景設定はその通りなのですけれども、「神のもの」は律法が定めた献げ物という意味ではなく、神から与えられたすべて、という意味でありましょう。税金のことだけでしたら、「皇帝のものは皇帝に」の部分だけでよいように思えます。とすると「神のものは神に」という部分こそが重要な意味を持つ部分と思えてくるのです。
この時、ヘロデ派とファリサイ派が一緒になって、イエスに罠を仕掛けてきます。物語の中には記されておりませんけれども、イエスがどう答えるのか、周りに居た民衆もドキドキしながら見ていたことでありましょう。「皇帝への税金を払いなさい」とイエスが言えば、つい数日前にあれほど熱狂的にイエスの到着を迎えた民衆が離れてゆきます。一方、「払わなくてもよい」と言えば、民衆は喜びますけれども、ローマの支配に反対して民衆を扇動する者としてローマ軍に通報することができます。どちらとも答えることができません。
そのように答えさせるためには、ファリサイ派とヘロデ派というのは、なかなかに良い組み合わせではあります。ヘロデ派とはヘロデ一族の支配を良しとするグループです。エルサレム周辺はローマ帝国の直轄地ですが、ガリラヤの領主はヘロデ・アンティパスです。過越祭を控えたエルサレム神殿にヘロデ派が居るのはおかしくありません。
福音書を見ておりますとヘロデの一族はろくでもない事ばかりやらかす支配者です。歴史的にはヘロデ一族は建設事業大好き支配者です。建物というよりも町そのものを造ってしまいます。そこにはやはり様々な利権があります。
おそらくヘロデ派の人たちも、内心では、ローマの支配も面白くないでしょうし、ヘロデ一族のような、生粋のユダヤ人とは言いかねる支配者のことも面白くはないでしょう。それでも利益を生む方につく、良くいえば現実的な人たちです。
実はファリサイ派にも現実的な一面があります。福音書に描かれるファリサイ派は、律法を形ばかり大事に守る人たちです。実際のファリサイ派は、現実の社会の中で律法をどのように適用するのか、と工夫する人たちです。多くは手に職を持つ職人たちであったといわれております。
パウロも元来がファリサイ派であり、何よりもテント職人でありました。パウロの手紙を見ておりますと、律法の食物規定をどのように守るのか、各地の教会が悩み、パウロもずいぶんと考えた様子が記されております。現代ほどではなくとも、2000年前でも、律法を文字通りにそのまま守るだけでは、周りの人と衝突するばかりで、まともな社会生活を送ることの難しかった様子が見えてきます。元に戻って言い換えれば、ファリサイ派は、律法と現実との折り合いを考えて工夫する人たちでありました。
そのような、ヘロデ派とファリサイ派が揃ってやって来ました。彼らであればデナリオン銀貨はいつも身近なところにあったことでしょう。もちろん、ヘロデ派の財布の中には入っております。ファリサイ派もそのぐらい持ち歩いておりましょう。
最後の審判とこの出来事との関わりを考えるとき、ヘロデ派やファリサイ派にとってデナリオン銀貨は特別な物ではなかったことがポイントです。ヘロデ派のことは横に置きましょう。「皇帝のものは皇帝に」という言葉も横に置きましょう。
ファリサイ派にとって、では、神のものとは何か?と考えますと、神から与えられたものすべてです。自分の命や家族、衣食住のすべて、財産のすべて、職人として持つ技術、ファリサイ派としての名声やプライド、どれもこれも神から与えられたものです。それゆえに、ファリサイ派にとって律法を守ることは日常そのものでありました。
「神のものは神に」には、神のために使いなさい、という含みがありましょう。そのように使っているか?自分のものにして満足していないか?皇帝のために使ったりしていないか?とファリサイ派は問われたのです。ドキッとしたはずです。
最後の審判そのものは特別な時です。ただ、その時に問われるのは、神に出会った者、あるいはキリストに出会った者としての日常であるはずの、信仰の持ちよう、信仰者の生き方、賜物の活かし方、でありましょう。ファリサイ派にとっては、律法に即して生きることは、信仰そのものであり、そしてそれが日常そのものでありました。
2000年の時を経て、わたしたちも一見なんでもなさそうな日常の中に信仰者として生きてゆく日々があります。それは何も肩肘張って毎日特別なことをする、という意味ではなく、何気ない日々の中に信仰者としての立ち位置があり、積み重ねる歩みがある、という生き方でありましょう。今年は読みませんが、それでいて何度も触れておりますマタイ25章の譬え話のとおりです。あの譬え話の人たちは王様だから助けたのではありませんでした。それはつまり、彼らの何気ない毎日の中に現れ出た信仰の態度でありました。わたしたちも、何ほどでもない毎日の中に、信仰者としての歩みを表すことができますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年10月12日
聖霊降臨節第19主日 主日主題:信仰による生涯
聖書 マタイ福音書 21章18-22(-32)節
詩編 31編22-25節
讃美歌21 461、472
「 主のいつくしみに 」
聖霊降臨節の終わりに近づいて最後の審判に関わる譬え話を読み続けております。では、最後の審判はいつ起こるのか、と言いますと、これは分かりません。福音書の中では(Mt 24:36、Mk13:32、Lkなし、Acts 1:7)、イエス自身の言葉として、それがいつ起こるのかは分からない。自分も知らされていない。天使たちも知らない。神だけが知っている。と記されております。いつ来るかは分からないけど備えていなさい、ということです。
福音書が記された時代はイエスの復活と昇天から40年ないし60年ほどたった頃です。最後の審判がなかなか起こらないことが教会の中でかなり大きな問題となっております。終末遅延と言います。露骨に言えば、来るはずの終末・最後の審判がなかなか来ないからこそ福音書という書物が必要になっていくのです。
そして2000年経ってしまいました。明日にも最後の審判が始まるかもしれない、と本気で思いながら生きている人は少ないと思います。だからこそ誰しもが、仕事とか、老後とか、財産とか、相続とか、そういうことに気を揉むわけです。それでも本当は常に備えておかなければならない。
さて、ようやく、今日の福音書に入って行きます。話がどこに行くのかは、既にお気づきでありましょう。
今日のマタイ福音書の奇跡物語は非常に奇妙な奇跡です。イチジクの木を見たら実がついていなかった。そこで腹を立てたイエスが、「おまえにはこのさき実の成ることはない」と言い捨てますと枯れてしまった、というのです。いつもならばイエスの奇跡は社会的なマイナスをプラスに変えます。いつもであれば自分のためではなく他人のために行います。それなのにこの奇跡は自分がおなか空いていたものだからイチジクに八つ当たりして枯らしてしまうのです。
イエス自身の評判にとって、とてもマイナスな出来事に思えます。福音書にわざわざ記す必要はあるのでしょうか?信仰とか祈りの大切さを語るにしても、何某もっと違った出来事によって示せるように思えます。その点についての結論を先回りしますと、マタイ福音書の文脈においては、これは奇跡物語ではなく譬え話なのではないでしょうか。
最後の審判についての教えや譬え話は、おおむね宣教活動の最初の頃と最後の頃に集中します。この奇跡物語もマタイ福音書の21章ですから、エルサレムに既に到着しております。
すなわち、この奇跡は受難週の中の出来事として記されております。宣教活動の最初の頃のイエスは、「神の国は近付いた」と語ります。ところが最後の頃になりますと、「いつ来るか分からないから備えておきなさい」と語ります。
なかでもマタイ福音書は「備えておきなさい」という教えを他の福音書よりも強く言う傾向があります(ただし Mk 13:36)。分かりやすいのは25章に記された「十人のおとめ」の譬え話でありましょう。これはマタイ福音書だけが伝える譬え話です。そしてこの譬え話は、「いつ来るか分からない」ことと同時に、「備えておく」ことを明らかに強調しております。
今日の奇跡物語も、マタイとしては前後の一連の譬え話の中に記していることで最後の審判を語っていると考えていいのでありましょう。イエスが突然近寄ってきたのは突然に始まる最後の審判。実をつけていないイチジクは最後の審判の準備ができていなかった。そのように読めます。
その上でマルコ福音書と読み比べてみますと、この読み込みがしっくりくるのです。マルコ版は物語後半で祈りの大切さを語ります。マタイ版は祈りよりも信仰がキーワードになります。そして物語前半を見ますと、マルコ版では翌朝に通り掛かると枯れているのを見て弟子たちが驚きます。一方、マタイ版ではイチジクが「たちまち枯れて」しまいます。やはりマタイ福音書では、この奇跡物語に突然始まる最後の審判への備えを語らせているとみていいでしょう。
ところで、最後の審判への備えと言われても、実際のところ何をすれば良いのか、と思います。むしろ、何をすればいいと決まっているものではないのでありましょう。キリスト教はイエス以来2000年にわたって続いてきました。それはキリストの教えが真実であるからなのはもちろんでありますが、それと同時に、キリスト教あるいはキリストを主と信じる人たちの信仰行動が時代に即して変わってきたからでもあります。
今の時代に、わたしたちが何を神の御心と思い、どのように生きていくことが最後の審判への備えとなるのか。自分自身の生き方だけではなく、世界を神の国とするためにはどのように生きるべきなのか。それを考え続け、問い続けるのが、キリストに出会った者としての生き方なのでありましょう。そしてまたその時に、その問い掛けへの答えを示してくださることが、今日の詩編に記された神の慈しみである、と言えるのではないでしょうか。
世界の創造者でもある主なる神が、慈しみによって、御心にかなった生き方を、神の平和をもたらす生き方を、わたしたちに示してくださいますように。その慈しみの中で信仰者としての歩みを重ねて行くことができますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年10月5日
聖霊降臨節第18主日、世界聖餐日 主日主題:労働の意味
聖書 マタイ福音書 20章1-16節
詩編 90編13-17節
讃美歌21 514、375、81
「 この最後の者にも 」
今日のマタイ福音書では、かなり奇妙な譬え話が語られます。今日の物語にすぐに共感できる人は少ないでしょう。
当時、農園労働者の1日の賃金が1デナリでありました。ですから、朝から働いた人の賃金としては妥当な金額です。ところが最後の人は1時間しか働いていないのに1デナリもらった、と聞きますと、誰もが何かおかしいと思います。
しかしながら、ある意味では雇い主の行動は間違っておりません。なぜなら、朝の最初から働いている人には、1日1デナリという約束をしているのです。旧約聖書の世界は契約や約束を大事にします。実際、この譬え話の中でも、農園の主人は文句を言う人に対して「お前とは1デナリの約束をしたじゃないか」と言い返しております。旧約聖書の考え方からいえば、1デナリの契約なのですから、それより少ないのも多いのも契約違反です(cf.出エジプト記 23:2-3、23:6、22章の同害刑法、など参照)。
だとするとこの譬え話は、契約通りに払っているんだからそれでいいじゃないか?となるのでしょうか。でもそれでは旧約聖書のもう一面、小さくされた人たちの保護、社会的弱者の保護、という部分とはかみ合わない気がいたします。この点もまた、譬え話の最初の聞き手以来、2000年、この譬え話を聞いたり読んだりした人の多くが、腑に落ちないと思った部分でありましょう。
旧約聖書の様々な教えや定めの中には、社会的な弱者の保護、ということが強く言われます。有名なのが、落ち穂拾いの規定でありましょう。御存知のように、畑の麦を収穫するとき、落ちた穂を拾ってはならない。それは収穫の後に貧しい人が来て拾うために神が落としたのだ、という規定です。ルツ記の背景にそれがありました(レビ記 19:9-10、申命記 24:19-21)。一般に落ち穂拾いと言いますけれども、申命記の規定では、穀物、オリーブ、葡萄、について残しておくように指示されています。
夕方になって雇われた人たちにも1デナリを払うのは、考えようによっては落ち穂拾いの規定の延長線上にある考え方だと言えるでしょう。貧しい人には落ち穂拾いが許されている、とはいえ、それはやはり人聞きのいい生活ではないでしょう。
その日の仕事を掴むことのできなかった運の悪い人も、朝から晩まで働くだけの体力がない人も、働きこそ少なくても明日の一日を飢えてはならないのだ、と農園の持ち主が考えたのであれば、1日分の賃金を払ってもおかしくはありません。
さて、現代人であるわたしたちは、このような労働者の集め方をすれば明日から人集めに苦労するだろう。明日は夕方まで誰も働きたがらなくなるだろう、それでは農園は困るはずだ、と思います。おそらく、これもまた譬え話の最初の聞き手である人々も同じように思ったことでありましょう。
ここにもカラクリがあります。わたしたちは先日来マタイ福音書の13章や18章を読み継いでおります。いずれも最後の審判を語る譬え話でありました。今日の譬え話は「天の国は次のようにたとえられる」と始まり、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と締めくくられます。これは明らかに最後の審判を意識した譬え話であることを示します。何やらごまかされたような気になりますけれども、最後の審判ですから、この譬え話の農園では明日また労働者を集める必要はないのです。
最後の審判を語る譬え話が、それでは2000年後のわたしたちに何を語りかけるのでありましょうか。ひとつには、神に呼ばれたら従いなさい、ということでありましょう。呼ばれたら、立ち上がり、神と共に働きなさい、ということです。それはどのような働きなのでありましょうか。具体的な働きの内容としては、人それぞれ異なるはずでありますが、共通していることは、神の創造されたこの世界を、キリストの弟子として神の国に近付け、キリストの平和が世界の隅々にまで及ぶような働きを託されている、ということでありましょう。
今日は10月の第1週でありますから、今年の世界聖餐日の礼拝でもあります。この後の讃美歌は世界聖餐日の賛美歌である375番を選びました。昨年も375番を歌いました。この賛美歌は「賜物と歌を主の前にささげ」ようと歌い始めます。わたしたちは一人一人がそれぞれに神から託された賜物を持っております。賜物を預かっている、とも言います。その賜物をキリストの弟子として使いなさい、と今日の譬え話は語りかけてきております。
それに加えて今日の譬え話は、その働きが多いか少ないかは問われないであろう、と言っているようでもあります。神に呼ばれたその時が、人生の始まりに近いときであろうと、終わりに近いときであろうと、長い時間をその賜物を用いたから、あるいは、たくさんの成果を上げたから、たくさん褒美をもらえるということではないよ、と釘を刺しているようにも思えます。たくさんの働き、たくさんの成果を上げたことを、神に向かって自慢してはいけないのでありましょう。そうではなく、託された賜物について、忠実にそれを用いなさい、と語りかけているように読めます。
わたしたちが、託された賜物を用いて、神に従う働きをなす者となれますように。キリストの弟子として働く者であり続けることができますように。その働きを喜びとできますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年9月28日
聖霊降臨節第17主日 主日主題:隣人
聖書 マタイ福音書 18章21-35節
詩編 15編
讃美歌21 17、425
「 決済を始めようとして 」
1タラントンは、6000デナリです。安息日を働かないとすれば、農園労働者の約20年分の賃金です。1万タラントンは約6000億円の借金です。この譬え話では、そんな無茶な金額と思わせることで、後半の100デナリに聞き手に共感をもたせます。おそらく、 100デナリの借金を抱えた人であれば、そして、その100デナリを返せないがために、牢に入れられたり、土地を取られたりした人であれば、思い当たる人物が誰しも身近に居たのでありましょう。
現代人の読み手としては、王の最初の判断は、ちょっとぐらい返させても仕方ないし、ここで家来に恩を売っておこう、であったように見えます。ただ、この譬え話は家来の借金を帳消しにした理由をそのような計算には求めません。家来の必死の願いを聞いた王が心を動かされたからだ、と記します。譬え話の前半に出てくる「憐れに思い」と後半に出てくる「憐れに思い」は原語のギリシャ語では別の語です。王が最初に家来を「憐れに思う」のは福音書の奇跡物語で何度も使われる語です。ある日本語訳は、この語を「断腸の思い」と訳します。元のギリシャ語でも内臓を意味する言葉から来ております。それに当てた日本語訳の「断腸の思い」もピッタリの訳語でありましょう。
王はこの時、この家来が有能であろうと平凡であろうと、そのようなことには関係なく、必死の思いで決済の延期を願う家来の態度に心を動かされたのです。
今日の聖書日課では主日主題は「隣人」です。「赦し」ではないのか?と思いそうになります。今日のこの譬え話が「隣人」を主題としているなら、王の言葉の最後の部分に大きな焦点が当たります。王は言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。
隣人と言われるとキリスト教では隣人愛とつながります。今日の譬え話もその視点から読むことができます。マタイ福音書のイエスは、山上の説教の中でこう語ります。05:43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 05:44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 05:45あなたがたの天の父の子となるためである」。マタイ福音書の描くイエスは、人々が律法を守って隣人を愛している、と言いつつも、愛する対象を隣人に限ることを批判して、敵を愛せ、完全な者となりなさい、と語ります。敵を愛せないことは百も承知の上でイエスは敵を愛せと語るのです。
今日の譬え話も同じ文脈で読むべきでありましょう。王が1万タラントンの借金を帳消しにしたのは、計算ずくの話でもなく、王にとっては端金だったからではなく、その家臣が有能だったからでもないのです。無理筋の出来事であるのは承知の上で、王が隣人として実行したことを語り、譬え話の聞き手に向かって、完全な者となりなさい、神の子となりなさい、と語りかけてきているのです。
譬え話に入る前にペトロの問いに対して「7の70倍」と答えているのも同じです。つまり490回赦せばよいのかといえば、もちろんそういうことではありませんし、無限に赦せというのもわたしたちのできるところではありません。無理を承知でイエスはその様に命じています。
ではわたしたちはどうすればいいのでしょうか。今日の譬え話も、王は「決済をしようと」しているのですから、これは最後の審判です。この先は先週と同じでありましょう。先週も引用いたしましたところの、25章の譬え話を、今日またもう一度引用いたします。「25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」。「25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。
このような行いが、「25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」という祝福に繋がるのです。
今日の譬え話の鍵になる言葉に戻りましょう。王は言います。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。つまり、100デナリを帳消しにするという、1万タラントンに比べれば何でもない小さなように見えることを行いなさい、と神である王は言うのです。わたしたちにとっては100デナリといえども小さな金額ではありませんけれども、その金額が問題なのではないでしょう。人生を賭けて行うような大きなことではなく、わたしたちの身の回りにある、小さなことに心を配り、小さくされた人に心を動かしなさい、とマタイのイエスは語ります。それこそが、神の祝福を受ける日々である、とマタイ福音書は語ります。三者三様の家来はいずれもイエスの弟子でありましょう。告げ口をした家来も心を痛めたからこその行いでありました。
わたしたちが、小さな信仰の行いをこそ、日々に積み重ねることができますように。
合わせて読みたい 創世記 45:1-15、ヤコブの手紙 2:8-13
マタイ 7:12、7:21
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年9月21日
聖霊降臨節第16主日 主日主題:創立記念礼拝&敬老礼拝
聖書 マタイ福音書 18章10-14節
詩編 147編1-3、10-14節
讃美歌21 409、419、81
「 最良の麦を 」
今日御一緒に読みましたのはマタイ福音書の有名な譬え話です。ルカ福音書にも同じような譬え話があります。
ルカ福音書の譬え話の方も振り返っておきましょう。ルカ版では、失われたものを探し出したり見つけたりする譬え話が3つ続きます。その一つ目が失われた羊です。そして、失われた銀貨、失われた息子(放蕩息子)と続きます。失われた羊の譬え話だけが、ルカとマタイで共通しております。
細かく見ますと、ルカ版では羊は「見失われ」ます。そしてマタイ版では羊は「迷い出」ます。迷子のイメージでありましょうか。どことなく、ルカ版よりもマタイ版の方が、自分から出て行った、あるいは、何かに夢中になっている間に仲間とはぐれて違う場所に行ってしまった、という感じがあります。
ルカ福音書のクリスマス物語によく表されておりますように、当時、多くの場合、羊飼いは雇われた立場でありました。ところが、この譬え話では羊はその人の持ち物です。その人もまた羊飼いでもあったのかもしれませんが、多くの羊飼いとは異なり、羊たちは彼の持ち物でありました。おそらく、羊たちはただの持ち物ではなく、家族同然、一匹ずつの顔や声を覚えていたのではないでしょうか。その羊たちの中から一匹居なくなってしまった。ひょっとしたら、あ~、あいつまた出て行った、と言われるような、脱走常習犯の羊であったのかもしれません。羊ではなくロバとなっておりますが、サムエル記上9章のサウル召命物語では、サウルは居なくなったロバを探しに行きます。譬え話というのは、聞き手がなるほどと思える状況情景を語る必要があります。ガリラヤ地方の人々にとって、居なくなった羊を探す羊飼いというのは、有り得ない話しではなかったのでありましょう。
羊の飼い主は99匹を残して捜しに行きます。この譬え話を見ますと、99匹をほっとくのか?とわたしたちは思います。ところが、今日読んでおりますこの譬え話が、ルカ版ではなくマタイ版であるということを意識して読みますと、実は残りの99匹は安全な場所にいることが分かります。
マタイ福音書では、山の上という場所は神の国を象徴する場所なのです。有名な山上の説教は文字通りに山の上で語られます。福音書の中で、マルコやルカが「神の国」と記すところを、マタイは「天の国」と言い換えます。神を「天の父」と記すのもマタイは他の福音書と比べると飛び抜けて多く、20回ほどもあります。復活のイエスが最後に弟子たちに会うのはイエスがあらかじめ指示していた(とされる)ガリラヤの山の上です。マタイ福音書ではその山からイエスは天に昇ります。こうして見ますと、天に近い山の上は、マタイ福音書の中では特別な場所と考えられるのです。
ルカ版でもマタイ版でも、迷子の羊は神によって探し出され、仲間の99匹と同じ群れに戻ります。そして迷子の一匹を見つけたことを神は喜びます。マタイ版では「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と語られます。いかにもマタイ福音書らしい言葉遣いです。「滅び」という言葉から、この譬え話も最後の審判を意識していることが分かります。マタイ福音書の中で最後の審判を描く譬え話としてよく知られているのは、25章(25:31-46)にあります「最も小さい者の一人にしてくれたのは、わたしにしてくれたこと」と王が語る譬え話です(小見出しは「すべての民族を裁く」)。その譬え話とは異なり、今日の譬え話では、神は積極的に迷子の羊を探しに行き、見つけ出し、助け出そうとします。
最後の審判を言いながらも、すべての人に救いをもたらす神が、マタイ福音書の神なのです。マタイ福音書の描く神は、共にいてくださる神であり、迷い出た羊を連れ戻そうとする神です。
詩編に移りましょう。
今日の詩編147編が描き出す神は、悲しむ人、苦しむ人をこそ救おうとする神です。先週の詩編では、詩編の詩人は、人生は70年、健やかな人でも80年、それは労苦に満ちている、と語りました。それが現実であっても、それで人生が終わるわけではない、神とは「追いやられた人々を集め」「打ち砕かれた心の人々を癒やし その傷を包」んで救おうとする方である、と詩編147編の詩人は歌います。マタイ福音書の譬え話で言えば、迷い出たこと自体がその羊の傷でありながらも、その傷を癒やすのがイエスである、ということになりましょう。迷い出た羊が見つけられ、傷が癒やされることが、羊にとっても飼い主にとっても平安であるのです。
さらに詩編の詩人はこう歌います。神は「あなたの国境に平和を置き、あなたを最良の麦に飽かせてくださる」。ここで平和と訳されている言葉はシャロームです。シャロームには様々な訳語が当てられます。それだけ広い意味を持った言葉です。
ここは国境に置くのですから平和でありましょう。一方で、神が与えてくださるシャロームには平安や平穏の意味があります。さらには詩編での使われ方を見ると、健康、無事、満ち足りている、あるいは、それらが増えてゆく、という動的な意味合いがあります。だからこそ、満ち足りて飽きるまで最良の麦を与えてくださる、と語られるのです。
本日の礼拝は、わたしたちのマラナ・タ教会の創立47周年を祝う礼拝であり、それとともにこの9月までに75歳を迎えた方々の長寿お祝いの礼拝でもあります。長寿の方々の健康が守られますように、心身の不調に癒やしがありますように。シャロームがありますように。そして、わたしたちマラナ・タ教会という教会共同体にシャロームがありますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年9月14日
聖霊降臨節第15主日 主日主題:忍耐
聖書 マタイ福音書 13章24-30節
詩編 90編1-12節
讃美歌21 430、509
「 刈り入れの日まで 」
ある人が畑を持っておりました。この人はかなり大きな畑の持ち主です。家族だけでは耕せず、家のことや畑のことをする僕・使用人が居ります。当時のガリラヤ地方では珍しいことではありません。当時は様々な理由で貧富の差が激しくなっており、一方で畑を手放さざるをえない人があり、もう一方には、その畑を買い取って自分の畑をドンドン広げていく人が居りました。
それがイエスがガリラヤで活動した時代の社会背景です。広がる経済格差に対して、人々がどうしようもない不満を持っているところにイエスは「神の国は近付いた」と語りかけます。
今日の譬え話では大きな資産を持つ人物が畑の主人として出てまいります。季節が来ましたので、僕たちが畑に麦を蒔きます。ところがいつのまにか敵が来て毒麦を蒔きます。商売敵がいたのかもしれません。なによりも資産家というだけで恨みを持たれても不思議ではない時代でもありました。
毒麦を蒔かれてすぐに気付かないのだろうか?と思ってしまいそうになりますが、日本の水田風景とはそこが違います。マタイ福音書のすぐ前を見ますと種蒔きの譬えがあります。あれは文字通り種を蒔くから起こるのです。今日の譬え話も同じです。
しばらくは誰も気付かなかった。ところが、麦が育ち、花が咲き、実がつき始めると、毒麦が混じっていることに僕たちが気付きます。これでは毒麦を蒔かれてから、ずいぶんと時間が経っております。報告を受けた主人は「それは敵の仕業だ」とすぐに言いますけれども、では誰が怪しいのか、時間が経ちすぎていて主人も見当つけにくいのではないでしょうか。譬え話の中では、わずか1行で済ませておりますけど、実はそれほどに長い時間が過ぎております。
主人は言います。「刈り入れの時に区別しよう。先に毒麦を集めて焼いてしまい、良い麦だけ蔵に入れよう」。これが最後の審判に関わる一連の譬え話のひとつである、と考えますと、刈り入れの時とは最後の審判のことです。良い麦も毒麦もどちらもが最後の審判を迎える人間のことです。麦であれば良い麦と毒麦は蒔かれた時からどちらと決まっていますが、人間であれば人生の中で時によって良い麦であったり悪い麦であったりします。
一生のすべてを良い麦であり続けるというのは理想ではありますが、それはなかなか難しいことでありましょう。一方、生涯を毒麦として生き続けるのも珍しいことでありましょう。
今日の聖書日課の主日主題は「忍耐」です。誰がどう忍耐するのか、どのような忍耐があるのか、と考えながらこの譬え話を読みますと、なるほど人間のありとあらゆる生き方を見ながら、畑の麦のすべてが良い麦になるようにと神が忍耐しておられる、そのような忍耐のありようが浮かんでまいります。
今日の詩編の詩人はこう歌っておりました。
「人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません」。
人生は70年、長生きしてもせいぜいが80年だ、と詩人は語ります。2000年も3000年も前にそんなに長生きしたのか?と思われるかもしれません。よく間違われるのですが、統計で言うところの平均寿命とは0歳の赤ちゃんが何歳まで生きるだろうか、という平均値です。昔は乳幼児死亡率がとても高かったわけですから、大人になるまでにたくさん死んでいます。ですから平気寿命はとても短いのです。一方、それを生き延びた大人であれば、60歳70歳まで生きる人はけっこういたのです。
そのような人生を見通した詩編の詩人は、こうも歌います。
「千年といえども御目には
昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。
「あなたは人を塵に返し
「人の子よ、帰れ」と仰せになります」と。
わたしたちの人生が良い麦であるようにと願うのは、わたしたち自身の願いでもあるわけですが、同時に、それは造り主である神の願いでもあり、わたしたちの日々が良い麦となるように、「知恵ある心を」持つことができるように、神は長い目をもって、忍耐をもって、わたしたちを導こうとしておられるのだ、と詩編の詩人は語り掛けてきております。
詩編の詩人が見通したように、そしてイエスが譬え話で語ったように、最後の審判の時に良い麦であったと認められる生き方をしたいものです。譬え話では畑の主人は刈り入れの時まで待とう、と言います。わたしたちが人生の中で神に出会うことで、わたしたちの人生は良い方へと変わるという信頼が、イエスの譬え話の背景にあります。
長い人生の中で、信仰が揺らぐとき、神を忘れるとき、必ずあるのですが、そのような時に、あいつは一度あっちへ行ったから毒麦として刈り取ってしまえ、とは言わないのがイエスが示した神の姿です。そのような時があるたびに、神に出会い直して、神に近づく歩みをさせてくださる、と信じて信仰者の日々を重ねてまいりましょう。
合わせて読みたい マタイ 13:24-43、ローマ 8:18-25、
ハバクク 3:17-19、詩編 90:1-12
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年9月 7日
聖霊降臨節第14主日 主日主題:振起日
聖書 マタイ福音書 10章1-15節
詩編 71編14-17節
讃美歌21 394、405、81、91
「 恵みのみわざを 」
9月の第1主日は振起日です。19世紀から20世紀の初めに掛けての日曜学校運動の中で広まった教会行事のひとつです。近年は振起日を覚える教会が減っていると聞きます。教会の外を見ても、子どもたちの夏休みも8月末で終わるとは限りません。週報のコラム欄に振起日の解説をコピーいたしましたが、「長い夏休みの終わりに」「秋のおとずれ」と解説されても腑に落ちません。
今日のマタイ福音書は、弟子たちの中から12人が選ばれて、悪霊を追い出す権能を与えられ、派遣される場面です。「使徒」に特別な意味を込めるのはルカです。マタイやマルコは、ほとんどの場合に「12人」と記します。マタイやマルコが「使徒」と記すときは、その単語の元々の意味である「派遣された人」という意味に使われます。今日のマタイ福音書もそうです。
裏返して読みますと、イエスには12人を超える弟子が居たことになります。使徒補充の記事(マティアの選出、使徒 1:1)では、ペトロは、イエスの宣教活動の最初から一緒に居た弟子の中から1人を選ぼう、と言います。12人以外にも、ごく初期から行動を共にした弟子がいたようです。福音書の中にも、12人以外の弟子がいたように記されている箇所が何カ所かあります。
12人のうち何人かはイエスが洗礼者ヨハネの弟子であった頃の仲間でありましょう。それ以外の弟子が選ばれた基準は不明です。使徒言行録を見ても、ペトロ以外の弟子の活動はほとんど記されておりません。つまり、弟子たちの活動から、12人の一人一人について、イエスからどのような才能を見込まれて選ばれたのか?と推測することはできないのです。これまた裏返して見れば、元が14人だった場合は、派遣した12人以外に、イエスが手元に残した2人は何者だったのか?興味深いところがあります。それこそ、秘書として有能な人物だったのでしょうか?
今日の福音書のイエスの言葉を見ますと、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」とイエスは言って弟子たちを派遣しております。
ところが、弟子たちがそのような奇跡を起こしたのは、今日の物語に続く、派遣からの帰還報告を別にすると見当たらないように思います。使徒言行録を見ますと、ペトロが起こした癒やしの奇跡が数件伝えられますけれども、他の弟子については使徒言行録5章にチラリと記されているだけです。
そもそも福音書にも弟子たちの活動らしい活動は記されておりません。あるいは福音書記者たちにとって、書き記したいのは、イエスのことであって、弟子たちがイエスから受け取った力を使って起こした奇跡は書き記す必要がない、と思っていたのかもしれません。
このように、弟子たちについては、イエス自身について以上に、よく分からないことだらけです。しかしながら、弟子たちが、イエスの思いを受け継いで、『天の国は近づいた』と語り続け、イスラエルの地を飛び出しても語り続けたことは間違いありません。弟子たちについて、後の時代に残るような記録として文字に記され、伝承された活動はごくわずかです。正式な記録として文字に残されることのなかった伝承を含めても、弟子たちについては、わずかなことしか伝わっておりません。
あるいは、弟子たちについて詳しく記されていないこと自体が、逆説的にではありますけれども重要であるのかもしれません。教会は信仰共同体である、とよく言われます。エクレーシアである教会は、そこに集まる一人一人の信仰が集まったものです。祈りの言葉にも「教会の信仰を顧みてください」と祈ることがあります。その中で、世界の各地に広まった一つ一つの教会(各個教会)は、その教会に関わった人たちの名前を記憶し続けます。わたしたちも11月の永眠者記念礼拝では、マラナ・タ教会に繋がる永眠者の方々を覚え続けます。一方で、全体としてのキリスト教会では、代々のキリストの弟子たちは、過ぎ去った歴史の中に名前を埋もれさせてゆきます。ペトロ以外の11人の名前が使徒言行録の中にいつの間にか埋もれていったように。
名前が残ることがなくとも、代々の弟子である信徒も教役者も「神の国は近付いた」と語り続け、「平和があるように」と挨拶し続けて来ました。あるいは、イエスのような癒やしの奇跡を起こすことはできなくても、医療や福祉や教育に多くの働き手を注いできました。それらの行いのすべてが信仰を受け継ぐということであった、受け継ぐことであり続けた、のではないでしょうか。
振起日の起源は信仰を奮い立たせる日であるわけですが、奮い立たせる、ということ自体が現代的ではないようにも思えます。むしろ、振起日に合わせて、2000年受け継がれてきた信仰を、わたしたち一人一人が振り返る機会としたいものです。そして、その振り返った信仰を糧に、次の主日までの7日間を、「平和があるように」と挨拶して、神の救いと祝福の御業を伝えるべく、わたしたちもまた派遣される者であり続けたいと思います。
合わせて読みたい
マタイ 9:35-10:16、 使徒 9:26-31
ヨナ 3:1-5、 詩編 71:14-19
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8月31日は聖書朗読と賛美の礼拝のため礼拝説教はありません。
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