2025年度 降誕前節の礼拝説教

*****

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年12月7日    
降誕前第3主日、待降節第2主日 主日主題:主の来臨の希望
聖書  イザヤ書 51章4-11節 
讃美歌21 242-2、241、231、81  
 「 救いは代々に 」 
 先週を聖書朗読と賛美の礼拝でありました。待降節の第1主日を、聖書を聞くことと賛美を歌うことに集中する礼拝の形にしたのは、わたしたちが聖書そのものに聞き、賛美する、そのような信仰生活の原点に近づく礼拝であったのかもしれません。
 待降節について、ひとつ思い起こしてからイザヤ書に入りましょう。わたしたちは何を待つのか。『讃美歌21』の項目名のようにわたしたちは、キリストの降誕と再臨の両方を待っております。
イザヤ書は3つの時代の預言者たちによって記されます。その中で、今週の51章と次週の40章は第2イザヤ(40-55章)と呼ばれる人物の預言です。イザヤ書の中で第2イザヤの預言はアドベントで一番多く読まれます。
 第2イザヤの時代背景をもう少し続けましょう。第2イザヤは、バビロン捕囚の終わり~初期のエルサレム帰還の頃に活動します。第2イザヤの信仰については、預言の言葉から読み取れるわけですが、それ以外にはほとんど不明です。名前すら残っておりません。どこに住んでいたのかも分かりません。
 第2イザヤの預言全体の前半では、メシアがまもなく現れる。そうするとバビロンからエルサレムに帰れる、と預言します。第2イザヤの後半(49章以降)では、荒廃したエルサレムを見て落胆し、神殿再建の元気を失った人々に向かって、神への信頼を失うな、と呼び掛けます。彼はバビロンからエルサレムに帰った初期の人々の1人であったのかもしれません。
 預言者の語る言葉は、一面では、預言者自身の社会的政治的経済的あるいは歴史的な洞察から来ております。アンテナを立てているからこそ神の声が聞こえたのでしょう。バビロン捕囚の最初に、それが70年続く、バビロンで生活の基盤をつくれ、と預言したエレミヤもそうでした。まもなくバビロニア帝国の時代が終わり、捕囚の時も終わる、と見通した第2イザヤもそうです。この先は単にイザヤと呼びましょう。
 ところが、一方では、それらの言葉は、預言者自身の言葉ではなく、文字通り、神から預かった言葉である、とされます。今日の預言の冒頭、イザヤは「わたしの民よ、心してわたしに聞け」と語り始めます。この「わたし」はイザヤのことではなく、神ヤハウェのことです。
 聖書以外の歴史資料を見ますと、人々がバビロンにいる間も、エルサレムを含むカナン地方との間で人の往来はありました。エルサレムが荒れ果てている、という情報は入っていたはずです。
 しかも、エレミヤの言葉のように、バビロンで生活の基盤をつくって住み着いてしまい、捕囚の時が終わった後も、エルサレムに帰らなかった人が多かったことも分かっております。
 ということは、エルサレムに帰った人々は、エルサレムが荒れ果てていることを知りつつ、それでも帰ろうとした人々、あるいは、それだからこそ帰ろうとした人々でありました。ダビデ王国の再建を目指して、エルサレム神殿の再建を目指して、エルサレムの復興を目指して、エルサレムに帰った人々です。しかしながら、その状況は想像以上にひどかったのでありましょう。
 その人々に向かって、イザヤは、神の救いはとこしえに続き、神の恵みの業が絶えることはない、と語りかけます。
 9節からは、突然にイザヤ自身の言葉となります。神に対して、「あなた」と呼び掛け、神が救いの力を振るうことを求めます。イザヤは語ります。「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ。 奮い立て、代々とこしえに」。「救いは代々に永らえる」と語った直後に、「奮い立て、代々とこしえに 遠い昔の日々のように」と続けるのです。見事に対応しております。
 しかも、神の大きな力が働いた出来事を語り、それを為したのは「あなたではなかったか」と2回も繰り返します。神の言葉として「救いは代々に永らえる」と語りつつも、その救いが現実化しない状況の中、イザヤには焦りがあったのではないでしょうか。
 救いが現実化しない状況への焦りがイザヤにあったのならば、それは現代を生きるわたしたちにも通じます。わたしたちの身の回りのことから世界情勢まで、神の救いが実現しているとは言えない状況はいくらでもあります。
 焦りを覚えつつも、イザヤは預言を語り続けました。それがイザヤの信仰であり、預言者としての祈りでありました。わたしたちもまた、神の救いと恵みの業の実現について、焦らずには居られませんけれども、焦りの中にも祈り続けたいものです。その祈りこそがわたしたちのアンテナであり、その祈りの中でこそ、わたしたちは神に近づき、主の平和の実現、神の救いの成就、そのためにわたしたちに何が託されているのか、示しが与えられることでありましょう。そしてわたしたちは、その託されたことを行いつつ、キリストの再臨の日を待つのです。
 今は未完成であっても、神の救いが完全に実現するときがかならず来る、というその知らせそのものが、2000年にわたるキリスト教の歴史の中で、代々の弟子たちの救いでありました。わたしたちもそこに連なるキリストの弟子として、アドベントのこの時期、クリスマスの知らせを待ち続けましょう。

*****

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年11月23日   
降誕前第5主日   主日主題:救いの約束
聖書 出エジプト記 6章2-8節、 詩編 77編5-16節
讃美歌21 149、357  
 「 あなたたちの神 」 
 出エジプト記を前から順番に振り返りますと、3章でモーセは神に出会い、あの有名な神の名前「あってあるもの」を聞かされます。これは実に不思議な名前でありまして、本当はどういう意味なのか、現代でも解明されておらず、むしろ様々な解釈があります。何故その様なことになるのかと言いますと、一言で言えば、原文のヘブライ語では3つの単語の繋がり方が文法的には尋常ありえない形なのです。
 そしてモーセはエジプトに帰り、ファラオと最初の交渉を行います。ところが全く相手にされず、しかも、イスラエルの民はさらに厳しい労働を命じられ、モーセは言わば踏んだり蹴ったりの状態になります。おそらく、モーセはガックリしたのでありましょう。
 元々3章で、わたしには無理です、と言ったのに、神ヤハウェが無理矢理に押しつけた役割です。ひょっとしたら、内心で無理と思っていただけに、モーセの交渉には迫力が足らなかったのかもしれませんけれども、それでもモーセにしたら、エネルギーを使い果たしたような気持ちになっていたのでありましょう。
 そこで神ヤハウェが、もう一度、モーセにその役割を押しつけたのが、6章の前半、1節から13節の部分です。その中から今日は2節から8節までをご一緒に読みました。すぐに目に付きますのが、「わたしは主である」が4回出てまいります。「主」の原語がヤハウェです。神はここで「わたしはヤハウェである」と名乗っているのです。「主である」と言ってしまうと、受け取るイメージがいささか変わってしまいます。3節にあるとおり、ここはヤハウェが名乗っているのです。
 原文ではおそらく韻を踏んでいるのでありましょう。どの日本語訳を見ても、よく似た言葉が繰り返されております。そしてこの中で、神ヤハウェが「わたし」と言っております回数が13回あります。
 2節から8節の中では、6節以下がモーセに対してイスラエルに言うべきことを教えている部分であり、5節まではモーセをあらためて説得しようとしている部分、といえましょう。
 そうしてみますと、興味深いのは、アブラハム、イサク、ヤコブ、という主要な3人のご先祖について、神は「彼ら」と言っております。一方、モーセが説得すべきイスラエルの民に対しては「あなたたち」と言っております。7節では「あなたたちの神」という言葉が続けて2回出てきます。
 6節から8節の、モーセが伝えるべき言葉の部分に限りますと、わずか10行ほどの中で、「わたし」が7回、「あなたたち」が8回です。これほど繰り返して記されるということは、つまるところ、神とイスラエルの関係をわたしとあなたの関係として規定しようとしております。神とイスラエルは、3人称の関係ではなく、2人称の関係なのです。
 2人称の関係だからこそ、神はイスラエルに対して「あなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」と宣言するのです。2人称の関係だからこそ、救いの宣言がなされます。「購う」の元来の意味は「買い戻す」です。なるほど、だから「奴隷」から救い出すのは「贖う」ことになるのか、と思います。
 もうひとつ興味深いのは、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」という契約の言葉です。少々ややこしいことを申しますと、この2-8節は聖書学者が祭司文書と呼ぶ部分のひとつです。祭司たちが自分たちの心覚えのために記した資料を元にして、モーセを巡る物語として編集された部分です。
 その祭司文書の中では「あなたたちの神となる」という契約の言葉は、他にも数回記されるのですが(祭司文書以外にもある)、ここでは「あなたたちはわたしの民となる」が付け加えられております。前後で語られていることと併せて考えますと、ヤハウェの民となることが、神の働きによるものであることを強く強調している、と言えましょう。
 「わたしが主である」と繰り返す神は、モーセを通じてイスラエルを「あなた」と呼び、買い戻して救い出し、自分の民と宣言する神です。この神と人の2人称の関係、「わたしとあなた」の関係は、出エジプト記の時代には、あくまでもイスラエルの民と神の関係でありました。
 その関係は、後にイエスが神を「父」と呼ぶことで再確認されます。そしてヨハネ福音書は、イエス御自身だけではなく、イエスをキリストと信じる人は誰しもが神の子である、と記すようになるのです。
 クリスマスは、神を父と呼んだキリストの誕生を記念する祭りです。来週からわたしたちは待降節に入ります。今月も既に降誕前節として、旧約聖書からキリストへと繋がる、その連続性を心に刻み直す時を過ごしております。
 「わたしは主である」と呼び掛ける神にわたしたちが繰り返し毎日出会うことができますように。救いの約束が最終的に実現するとき、その中にわたしたちが居ますように。
 あわせて読みたい
  マルコ福音書 13章5-13節、ヘブライ書 11章17-29節

*****

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年11月16日   
降誕前第6主日  主日主題:神の民の選び
聖書  創世記 15章5-8(1-18節) 
讃美歌21 472、507  
 「 約束の呼び出し 」 
 さて、今日のタイトルにはいささかの言葉遊びを含めております。主日主題はアブラハムを指しております。聖書箇所もアブラハムに対して神が約束をするところです。その後どうなったのか、アブラハム物語と呼ばれる一連の出来事の流れはわたしたち誰もが承知しております。見方を変えますと、今日の創世記箇所は、預言者の召命と同じように、アブラハムの召命でもあります。アブラハムの召命が、アブラハムの呼び出しが、約束されている、そのような聖書箇所と読むことができます。
 日本語で召命と訳される言葉は欧米語では呼び出しです。アブラハム召命の記事はアブラハム呼び出しでもあります。土地と子孫の約束は、アブラハム召命という約束でもありますが、言葉遊びとしては、アブラハムに土地を与えるという約束が呼び出された、という含みを持たせております。言葉遊びをこれ以上聞かされてもややこしいだけかもしれませんので先に進むことにいたします。
 今日の聖書箇所は、本当は1節から18節までです。今日は短くいたしました。その中で興味深い言葉は、「アブラハムは尋ねた」であろうかと思います。
 アブラハムは、神から「天の星を数えてみよ」と言われて外に連れ出されます。書かれておりませんけれども、外に出たということは、とにもかくにも夜空を仰いだことでありましょう。
 その夜空は、わたしたちのような街中に住んでいる現代人が知る夜空とは全く違っております。街明かりなどない、本当に真っ暗で、その暗さに慣れた目が見上げれば、まさしく満天の星空であったはずです。わたしたちであればキャンプでしか見たことがないような、天の川の流れがハッキリと分かるような星空であったはずです。
 その星空を見てアブラハムは神の言葉を信じます。見たから信じられる、というものではないように思えますが、アブラハムは信じます。そして神はそれを良しとされます。
 ところが、そのあとでもう一度アブラハムは神に尋ねます。「何によって知ることができましょうか」。さっき信じたんじゃないのか?と思います。話の流れとしては不思議な気がいたしますけれども、裏読みをすれば、尋ねてもいいのです。
 アブラハムに尋ねられた神は、おまえ本当は信じていないのか、と怒るのではなく、この後に、ではこうしなさい、と言って、いわば証拠開示をいたします。
 その証拠開示も、これで証拠になるのか?と思うようなことではありますけれども、いずれにせよ、少なくとも神は、今更何を質問するのだ、と怒ったりはしておりません。
 ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、一方には、何事であれ、神の御心のままに、と言って従う信仰があります。同時に、神に対して、それはダメでしょ、と食い下がる信仰もあります。アブラハムの場合で言えば、ソドムとゴモラの物語がそうでありましょう。悪のはびこる町だから滅ぼす、と言い出した神に対して、アブラハムは、正しい人がもし50人いたら、というところから10人まで値切りに値切ります。それに対して神は、神の決めたことに口を出すな、と言って拒絶するのではなく、アブラハムの交渉にギリギリまで付き合うのです。
 ヨブ記のクライマックスもそうでありました。ヨブの友人たちは、ヨブ自身が何か自分では気付かないところで神の機嫌を損ねたのではないか?としつこく問いますが、ヨブには覚えがありません。友人たちとヨブの対話が終わりますと、どこからかエリフという人物が現れ、ヨブに向かって厳しく問い詰めます。ヨブがエリフに反論している場面は描かれませんけれども、間違っているのは神の方だ、という態度を示し続けたのでありましょう。ついに神が答えます。
 預言者の中で分かりやすいのはハバククでしょうか。ハバクク書の冒頭で、預言者は神に向かって、正義が行われていないことを嘆きます。すると神が、正義の時は必ず来るのだから待て、と答えます。
 預言書や詩編を丁寧に探せば、このような箇所はいくつも見つかります。
 くりかえしますが、今日のアブラハムも、神の言葉を聞いて、それを信じて、その態度を良しとされた後で、証拠は何ですか?と言い出しているのです。
 わたしたちの信仰生活も同じでありましょう。もちろん、御心に従う生活を心掛けることは第一ではありますけれども、時には、神に問いかける場面もあってよいのです。ある神学者は著書の中でこう記しております(栗林輝夫『シネマで読む旧約聖書』)。「神を信じるがゆえに神を激しく問い詰め、その格闘の中からますます神への信頼を強めていくのが聖書の信仰」である、と。
 わたしたちの日々にも、神の正義を問い詰めたい場面は少なくありません。その中でこそ、わたしたちが、神に向き合い、神と対話し、信仰を深めてゆくことができますように。 

あわせて読みたい 詩編 105編1-15節、マルコ 12章18-27節
          ヤコブの手紙 2章14-26節

*****

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年11月9日    
降誕前第7主日    主日主題:創造
聖書 創世記 2章4-14節 
   詩編 19編1-7節、マルコ 10章2-12節、黙示録 4章1-11節
讃美歌21 363、76、81  
 「 創造から未来へ 」 
 教会暦は降誕前節に入っております。降誕前節は主日聖書日課では旧約聖書メインに読みます。この天地創造物語を読みますと、神話とはいえエデンの園はどこにあったのか?と思います。ヒントはいくつもあります。東の方にあった。多くの木が生えていた。4つの川の源流であった。川から見ていきましょう。
 チグリスとユーフラテスは確定です。アッシュルはアッシリアが帝国になる前の都市国家であった頃からの都市名です。
 第2の川のクシュ地方は一般的には、エジプトの南側、ナイル川の中流域とされます。ただ、カナン地方から見て方角が違うところは気になります。第1の川ピションと流域のハビラ地方については諸説様々です。
 アブラハムの故郷ハランはユーフラテスの支流であるバリフ川に面しております。チグリスとユーフラテスは、中流から下流の乾燥地方の地域を流れ抜けてペルシャ湾に注いでおります。考えてみれば、よほどたくさんの水量がなければ砂漠の中にしみこんで消えてしまうことでありましょう。つまり、源流付近の山の中は相当に雨量の多い地域です。源流の山から平地に出てきてすぐのあたりが「食べるに良いものをもたらすあらゆる木」の生える地域だったのではないでしょうか。そしてエデンでは木の実ばかりが語られますが、エデンを追放されるときにアダムは「地を耕す」(直訳は「地に仕える」)ように求められます。イメージされているエデンを出れば麦もあったのではないでしょうか。
 降誕前節に読むに当たって大切なところに入っていきましょう。
 「主なる神が地と天を造られたとき」とあります。天と地ではないのです。人間・アダムを造るに当たっては天も大事だけれども大地が大事であると神は考えた、と創世記は主張しています。
 その上で大切なのは8節です。「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」。この第2の天地創造物語では、いきなり最初にアダムが造られてしまうわけですが、そのアダムのために、このあとすべてが用意されてゆきます。エデンという場所、すなわち生きてゆくための場所を造り、食べるに良い木を造り、パートナーとするべく、動物を造り、最終的にエバを造ります。第1の天地創造物語とは異なり、神自身が様々に試行錯誤しているところは大変に興味深いです。アダムが必要とするもの、あるいは、必要とするであろうものを、神は次々に造ろうとするのです。
 楽園追放物語まで読み進みますと、アダムとエバをエデンから追い出すに当たって神は皮衣を与えます。ただの追放ではありません。彼らと神の関係は終わっていないのです。
 「 03:23主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 03:24こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」。
 後半では「追放」となっておりますけれども、前半では「追い出し」です。元のヘブライ語でも違う言葉が使われております。そして「追い出し」には、頑張って行ってこい、というような含みがあります。アダムたちは、ただ楽々と楽園に居るのではなく、御心に沿って歩むという新しい人生へと送り出されているのです。
 そのために必要なものを神は与え続けます。土を耕すアダムには季節ごとの食料として大地の実りが与えられます。たまたまですが、今日は収穫感謝祭には少し早い大地の実りを置いてあります。そして、わたしたちは今月の聖餐式を今日行います。聖餐式のパンとワインについて、カトリックの式文では「大地の恵み、労働の実り」と語ります。人が生きるに必要なものです。
 もちろん、その後の神と人の関係は一筋縄ではいきません。洪水もありました。バベルもありました。ギクシャクすることは何度もありましたが、神と人の関係が途切れることはなかったのです。神は人に大地の恵みを与え続けて来ました。必要なものを与え続けて来ました。その延長線上にキリストの誕生があった、と言えましょう。人が神と共に歩み続けるために神が人となったのがキリストの誕生でありました。
 わたしたちは11月と12月の2ヶ月間を、降誕前節として、そして待降節として、キリストの誕生を祝うクリスマスに向けて歩みます。クリスマスの意味、キリストの誕生の意味、それは一言で言えるものではありません。さまざまな意味を持ちます。ただその中で最初に押さえるべきは、神が人となったことです。そのことで、わたしたち人は、それまでよりも一層、神に近づくことができるようになりました。
 アダムに対して必要なものを与え続けたように、あるいは、アダムとエバに対して、約束破りの後も関係を途切れさせなかったように、神は今も人に必要なものを与え続けております。それなくして、わたしたちは、与えられた命を続けることはできません。常に神を見上げて、そして与えられたもの、与えられた恵みのすべてを心に留めて、今日という一日を、そして明日という一日を、神がわたしたちに近づいたように、わたしたちもまた、神に近づくべく、歩みを重ねてまいりましょう。

*****

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年10月26日   
降誕前第9主日   主日主題:恵みへの忠実
聖書  マタイ 25章14-30節 
    詩編  31編15-21節
讃美歌21 363、536  
 「 蒔かないところから 」 
 今日の譬え話の3人目の家来は、預かった1タラントンを銀行に預けることもせずに土の中に埋めておいた、と言って主人から批判されます。
 少し後の時代となりますけれども、4世紀の教会指導者であるニュッサのグレゴリウスが、高利貸し批判の説教を残しております。ですから当時は銀行の他にも高利貸しが存在したのは間違いないところです。その説教でグレゴリウスは、利息が利息を生むことで逃亡したり自殺したりする人が居る、と批判しております。具体的な数字はともかく、相当な利率であったことでしょう。
 1タラントンを倍にするのはどれぐらいの時間が必要だったのでありましょうか?当時の銀行が複利計算をしていたとすると、5%なら15年、10%で7年、20%で3年半、家来に金を預けた主人がどこに旅行していたかは分かりませんが、銀行に預けておいてくれたら、と言いたくなる気持ちは分かるような気がします。
 5タラントンの家来は、たしかに商売をしておりました。2タラントンの家来も同じ言葉で褒められておりますから、やはり何がしかの商売をしていたのでありましょう。
 では、1タラントンの家来が銀行に預けたかもしれないのと同じ時間で、5タラントンを2倍にすることはできたのでありましょうか。できたようです。古代社会においても、このようにまとまった資金があった場合、リスクを取ってでも大きくもうける、というための仕組みや働き方が既にありました。
 福音書よりもさらに1500年ほども前の話になります。アッシリアとヒッタイトの資料をつなぎ合わせますと、直線距離で800キロ、実際には1000キロを超える道のりが必要な両国の町と町の間で、定期的な交易ルートがあり、決済のための法的な決まりが取り交わされて粘土板に記されておりました。
 途中には砂漠超えや山越えの道もあり、さらには盗賊の危険もありますので、リスクは高いのですが儲けも大きかったようです。品物によっては2倍3倍の値段になったことが分かっております。大きな儲けのためには大きなリスクを取らねばならないのは現代と同じでありましょうか。ついでながら、共同投資や投資信託のような仕組みも既にありました。
 ローマ時代には有名なローマの軍用道路が各地に整備されますから、元手のお金さえあれば、大儲けのできる旨味のある交易(商品)は各種いろいろとあったことでありましょう。
 そして、この譬え話の聞き手であった人たちは、自分自身がそのような大がかりな商売に関わるかどうかは別にして、その時に失敗するリスクのあることまで含めて知識としては知っていたことでありましょう。
 今日の譬え話の1タラントンの家来にもどりましょう。
 この家来は、リスクを怖れるあまりに自分で商売をすることも無く、さらには銀行に預けることすらしていないのです。
 ところで、この家来は主人に対して興味深いことを言っております。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」というのです。
 今日のこの譬え話はタラントンの譬えです。わたしたちの誰もが承知しておりますように、聖書の中ではタラントンとはわたしたち一人一人が神から託された賜物のことです。そして、この譬え話が、託された賜物を仕舞い込まずに使いなさい、という教えであることも間違いありません。
 ただ、そうしますと、この1タラントンの家来の申し開きが文脈から浮いてきます。譬え話の教えにもう一点、追加する必要が出てきます。それはおそらく、賜物を用いる場所や方向性を間違えてはいけない、ということでありましょう。間違ったところに蒔いてしまうと、蒔いた覚えの無いところから刈り取られてしまうのです。
 1タラントンを銀行に預けたとしても、当時の銀行ならば銀行の経営状態は大丈夫か?と常々気にするのも大切なことでありました。その間に、自分なりの元手でなにがしの商売をしていたのならなおさらです。ところがこの家来は、銀行の経営状態を見ることが蒔いたところからの収穫になるにも関わらず、1タラントンを隠して恐れることに賜物を使ってしまいました。
 わたしたちは託された賜物が何であるのかと考えることはよくあります。ただそれに加えて、託された賜物をどこで使うのか、そこまで意識しないことも多いような気がいたします。
 意識せずともフィットすると一番よいのはもちろんです。とはいえ、どこで使おうか、と悩んだり迷ったりしても良いような気がします。自分で思うところの賜物の活かし場所が、神の思いとはズレていることも多いのです。ここでいいのか?と迷い悩みながら賜物を働かせたのであれば、本当は少なからずズレていても「蒔かない所から刈り取」られるようなことにはならないのでありましょう。
 今日の主日の主題は「恵みへの忠実」でありました。託された賜物という恵みについて言うならば、賜物をどこで活かすのかを神に問い続けながら活かすことが、恵みへの忠実に当たるように思えます。蒔かれた賜物からの収穫を目指して信仰者の歩みを重ねたいものです。

*****

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。