2025年度 聖霊降臨節(前半)の礼拝説教

私たちの日々が神の恵みのうちにありますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年8月24日
聖霊降臨節第12主日
聖書  マタイ福音書 12章46-50節
創世記 24章54b-61節
讃美歌21 463、206
「 祝福を受けた歩みを 」
アブラハムたち古代イスラエルの御先祖について、後の時代に「わたしたちの先祖は滅び行く1アラム人でありました」と語られているのとは異なり、彼らの一族が、実はかなりの大家族であり、相当な財産を持つ家族であることが分かります。イエスの時代の羊飼いが、雇われる立場の貧しい人々であったことを考えますと、アブラハムは羊を飼う者であった、と言っても、実際の立場が全く異なるものでありました。
そして、アブラハムの一族に足りないものは、往々にして、跡継ぎの息子でありました。その中で、今日の創世記はアブラハムが息子イサクに妻を迎えようとした場面の一部です。出来事の全体を振り返るところから始めましょう。
アブラハムは息子イサクが成長したところで、イサクに妻を迎えることを計画します。その時、自分の家の使用人のリーダーである僕に、自分たちの故郷であるハランに行き、一族の中から条件に合う女性を連れてきてくれ、と頼みます。僕がハランに着きますと、早速に条件を満たした女性、リベカに出会います。
彼女の家に行って事情を話し、話がまとまった次の朝の出来事が今日の創世記の場面です。リベカの家族は引き留めますが、アブラハムの僕は、すぐに帰りたいと繰り返して主張します。あるいは家族の思いとは異なったのかもしれませんけれども、リベカは出発に同意し、家族一同、リベカを祝福して旅立たせます。
彼らは言います。「わたしたちの妹よ あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように」。これは、結婚を控えて家を出る若い女性に対する一般的な祝福の言葉であろう、と言われておりますが、一方で、跡継ぎ問題に苦労するアブラハム物語の大筋に即した祝福の言葉となっております。
当然ながらこれは民族の起源を語る古い物語であって、現代人が思う意味での歴史記述ではありません。とはいえ、むしろそれだけに、すぐに出発するかどうか、リベカに選択権があったように書かれているところは大変に興味深いところです。
もちろんある程度地位のある女性に限られるのでしょうけれども、女性に何の権利も無かったような社会ではないことが分かります。創世記や士師記(ex.士師記4:17-、ヤエルの物語)を見ておりますと、リベカの記事の他にも、一家の妻たる女性が管理するテントには、夫を含めて他人は勝手に踏み込めない、という状況を前提にした物語が描かれていたりもしております。
話を祝福に戻しますと、ユダヤ教は様々な場面で人が人を祝福します。祝福の祈りがたくさんあります。キリスト教にも祝福の祈りがたくさんあります。
マタイ福音書に移りましょう。ガリラヤの各地を回って、神の国を伝え、癒やしの奇跡を起こすイエスと弟子たちの元に、イエスの母と兄弟たちが訪ねてきます(父のヨセフはおそらく既にいない)。訪れたイエスの家族にすれば、わざわざ会いに行って、しかも久しぶりに顔を合わしたのに、「わたしの家族とは誰か?」「わたしの家族はここにいる人々だ」、なんて言われてしまうのです。かなり腹立たしい、あるいはあきれかえる言葉のはずです。一方、弟子たちや群衆にとっては、これは祝福の言葉であったのではないでしょうか。
というのも、当時の状況として、貧しい人は神の祝福を受けていない、神の国には縁がない人々だ、と思われておりました。安息日を守らない、決められた献げ物を神殿に持って行けない、そんな人たちは神の国に入れない、と言われていたのです。
ところがイエスは、当時のその常識を引っ繰り返します。貧しい人たちこそ神の国に近いのだ、と言い出します(マタイの山上の説教5:3「心の貧しい人々は幸い」よりもむしろルカの平地の説教6:20「貧しい人々は幸い」の方が元々のイエスの言葉に近い)。
イエスは、ガリラヤの各地で、病を癒やす奇跡を起こし、貧しい人でも神の国に入れると宣言し、反論しようとした律法学者たちをことごとく言い負かしています。その場に居合わせた群衆にすれば、そのイエスから、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言ってもらえたわけです。
イエスを神の子・救い主(キリスト、メシア)とするのはキリスト教の信仰です。イエスの時代の群衆にそこまでの信仰はありません。せいぜいが、イエスは若くて力のある預言者、と思っています。それでも、貧しい人こそ神の国に近い、と主張していた若くて力ある預言者イエスが、自分たちを兄弟だ姉妹だと呼んでくれた。俺たちはイエスと一緒に神の国へ入れるんだ、と人々は思います。これは大きな祝福の言葉であったことでしょう。
2000年後の時代のわたしたちの思いからしても、イエスがこの場面で、神の御心を行うならば、神の子イエスから兄弟姉妹と呼んでもらえる、と語っておりますことは重要です。教会の中でお互いを、兄弟、姉妹、と呼び掛ける根拠となっています。今日のマタイ福音書で読みましたイエスの言葉は、イエスの目の前にいた群衆だけではなく、2000年後のわたしたちにとっても、大きな祝福となっております。
イエスからの祝福を受けてわたしたちは今を生きている、イエスの祝福の中を生きている、そのことを心に留めて、与えられた命の日々を重ねてまいりましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年8月17日
聖霊降臨節第11主日
聖書 マタイ福音書 10章16-20(16-25)節
詩編 57編1-6節
讃美歌21 209、532
「 心を確かにして 」
先週は終戦80年と日航123便事故40年とが重なる週でありました。
123便に話を絞りますが、40年にして初めて御巣鷹山に登った人や、40年にして初めて話し始めた元自衛隊員の話がありました。40年たってようやく少し心の整理がついた部分がある一方で、40年たった今もまだ終わっていない、ということなのでありましょう。わたし自身、阪神淡路大震災30年、いろいろなことがまだ終わっていない気がしております。
『先祖の話』で柳田国男は、日本人は、亡くなってから33年もしくは50年の時を経て、故人の個性を失い、御先祖と呼ばれる家の守り神になる、と記します。後代の批判も何かとありますが、これは故人を直接に知る世代が居なくなる頃合い、という年数かと思われます。そのように考えますと、逆説的でありますけれども、123便から40年、今、語っておかなければ、と思う人が出てきても不思議ではないのかな、と思います。
語り伝えなければ忘れられてしまう。という思いは、ある意味で、人間として見てはいけないモノを見てしまった人が共通して持つ思いであるのかもしれません。戦争、災害、事件事故、どれにも当てはまる気がいたします。
キリスト教が、思い起こす、記念する、忘れない、ということを大切にしているのも、イエスが殺されて復活したことで弟子たちが大きな衝撃を受けたからでありましょう。だからこそ、キリスト教は礼拝の日を土曜日から日曜日に変えたわけです。
さて、ダビデがサウルに仕えるようになった経緯については、2つの物語が伝えられます(サムエル記上 16:14-23、17:1-58)。
16章には、竪琴の名手として仕えるようになった、と記す短い物語が記されます。17章は3ページ半に渡って、ダビデがゴリアテを倒してペリシテ軍を潰走させた物語を記します。
その後、ダビデは、いったんはサウルに重用されますものの、手柄を立てすぎて疎まれ、サウルに殺されそうになって逃げ出します。逃げたダビデをサウルは執拗に追いかけます。その途中、ダビデが洞窟に隠れた、という出来事が何回か記されます。
詩編57編がそのうちのどの出来事を意識しているかは、解釈が分かれています(22章:略解、岩波。24章:ATD)。「滅ぼさないでください」という副題からは、ダビデを援助した人たちがサウルによって殺されてしまった、というサムエル記上22章の出来事を意識しているのかな、と思います。
サウル王から逃げているにしても、そして、自分を助けてくれた人が殺されたという知らせを聞いても、あなたに対する信仰は揺らぎません、とダビデ(を想う詩人)は歌います。8節にある、「心を確かにして」の原語は、わたしたちが毎週の礼拝の最初に唱えております詩編51編の言葉と同じです。51編では「新しく確かな霊を授けてください」と唱えております。
ダビデは、サウルが何をしようとも、確かな心、揺らぐことのない信仰で、神への賛美を歌うことを約束するのです。
マタイ福音書に移りましょう。
マタイ福音書の10章を始めから見ていきますと、弟子たちの中から12人が選ばれ、その12人をイエスがガリラヤ各地に派遣します。その時に、イエスが弟子たちに語ったのが、諺にもなっております「蛇のように賢く、鳩のように素直に」でありました。
この時点では、弟子たちが迫害を受けながら異邦人の前で信仰を告白するとは考えにくいところです。それは明らかに、もっと後の時代、使徒言行録以降の時代の状況を、マタイがここに書き込んでいるとみられます。
ただし、弟子たちが独自の活動をするようになった時代に、弟子たちを受け入れない人がおり、弟子たちが迫害される、その時に聖霊(父の霊)が助けてくださる、ということ自体は、マタイの教会にとっても、実際に経験したことでありましょう。
マタイ福音書とルカ福音書が、マルコ福音書に様々な資料を付け加えた福音書であることは明らかです。マルコから20年、あるいは、イエスの処刑から60年、マタイにしてもルカにしても、マルコ福音書に書かれたことだけでは不充分と思ったから書き足した福音書を作るわけです。それに加えて、新しい資料が手元にあったからこそ書けるわけです。思い起こす、記念する、というキリスト教のおそらくは最初からあった信仰スタイルと共に、今、まとめておかなければ、という思いもあったのでしょう。さらにいえば、イエスの処刑と御復活からかなりの時間が経って、何十年という時間が過ぎて、ようやく語り始めた弟子もいたのだろうな、と思います。それがマタイやルカにとっての新しい資料であったのでしょう。
わたしたちも、言葉にできるイエスとの出会いがあり、言葉にできないイエスとの出会いがありましょう。言葉にできるまでに時間が掛かることもあります。
弟子たちから2000年、ダビデから3000年、どのような時にも、心の内に信仰を持ち続けたいものです。どのような時にも、賛美の歌を歌い続けたいものです。そのわたしたちの信仰と賛美を、神の聖霊は後押ししてくださることでありましょう。その信仰と賛美は、わたしたちを力づけ、日々に新たな一歩へとわたしたちを導き、平和と平安へと近づかせるのです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年8月10日
聖霊降臨節第10主日   主日主題:生活の刷新
聖書  マタイ福音書 7章15-21(15-29)節
エレミヤ書  7章1-7節
讃美歌21 458、505
「 正義の旅路へ 」
エレミヤの言葉として一番に思い当たりますのは、受難週のエルサレム神殿で「ここは祈りの家であるべきなのに強盗の巣にしてしまった」というイエスの言葉の後半です。前半はイザヤの言葉なのですが、後半はエレミヤです。その言葉は今日のエレミヤ書のすぐ後に出てまいります。今日のエレミヤ書の中にも「お前たちの道と行いを正せ」という厳しい批判の言葉が出てきます。その続きで「神殿を強盗の巣にした」と語るのです。
今日のエレミヤは「神殿の門」に立って語ります。後代のシナゴーグとは異なり、安息日の礼拝のために集まる場所ではありません。礼拝と祈りの場所であることは同じですが、律法に定められた献げ物をするために行く場所です。神殿に献げ物に行く人たちは、行って献げようという信仰と共に、献げ物ができる経済力の、その両方を持つ人たちでありました。
ところがその人たちの信仰は正しくない、「道と行いを正せ」とエレミヤは言います。続いてエレミヤは「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と語ります。契約を交わすときに神殿で献げ物をすることで神に誓う、となっていたのではないでしょうか。
「むなしい」と訳されている言葉は、嘘、偽り、とも訳されます。主の神殿という言葉そのものがむなしいとは思えません。「主の神殿」と言っているお前たちの言葉は本物ではない、とエレミヤは言うのでありましょう。エレミヤ書の全体を通して読みますと、エレミヤのこだわりの一つが「むなしい」の対語となる「真実」です。口先で主の神殿と言って値段の高い献げ物を持ってきているけれども、一歩神殿を出れば、そこでお前たちは何をしているか、とエミレヤは問い詰めます。お互いの間では正義を行わず、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げ、無実の人の血を流し、異教の神々にも従っているではないか、お前たちが「主の神殿」と言っているその言葉に真実はない、と詰め寄るのです。
エレミヤの預言としてもうひとつ、新しい契約を与える、律法は心に刻まれる(31:31-34)、と語ったことがよく知られております。神殿の門に立って語った、という今日の預言とは異なる場面ではありますけれども、新しい契約が心に刻まれる、という預言は、後にキリスト教の始まりに大きな影響を与えます。石に刻まれた律法は多くの人が忘れた顔をしているけれども、心に律法が刻まれることによって、それは忘れられることがなくなるのです。 今日の預言ともつながります。今日の預言では、人々が律法を守ったような顔をしながら実際には破っている、と批判します。その状況を見ているからこそ、心に刻まれることで、破られることがなくなる、と語るようになったのでありましょう。
マタイ福音書に移りましょう。
口先で「主よ、主よ」と言う人ではなく、御心を行う人が天の国に入る、とイエスは語ります。わたしたちが預言者になる可能性はないと思いますが、一方、「主よ」という言葉が口先だけで行いが伴わないというのは、エレミヤが指摘した人々の場合とよく似ておりますし、それであれば、わたしたちが陥る可能性のある、耳の痛い指摘でありましょう。
今日のマタイ福音書のイエスの言葉はルカ福音書(6:43-45)にもあります。イエスは、行いだけではなく言葉そのものがその人の心と信仰を表す、と言っているのですから、エレミヤよりもさらに厳しく、耳が痛い指摘となりましょう。
その中でわたしたちはどう生きようとするのか、が問題になります。イエスの言葉に戻りますと、「すべて良い木は良い実を結び」とあります。原文では、良い実も悪い実も複数形です。良い木と悪い木は単数形です。一つの良い木に繋がることができれば、たくさんの良い実を結ぶことができる、と読めます。イエスにしっかりと繋がっておれば、思いも言葉も行いも、自然と良いものになる、とイエスは言っているのではないでしょうか。
わたしたちがイエスにしっかりと繋がっていること、イエスにしっかりと結ばれていること、これは間違いなく福音書記者たちの信仰でありました。マタイ福音書で最初の弟子たちにイエスが呼び掛けた言葉は、「ついてきなさい、人間を獲る漁師としよう」です。イエスがリアルに目の前に居た弟子たちにとっては、イエスと一緒にガリラヤを宣教する旅についていくことが大事でした。文字通り、それは人生の旅路でありました(マルコも同じ呼びかけ。ルカは後半のみだが使徒言行録のマティアの選出ではイエスと共に居たことを重視。ヨハネの弟子召命物語は全く異なるが、イエスはぶどうの木と教えるのはヨハネ)。
そこから2000年を経たわたしたちにとっては、イエスと共に歩む旅路ということは概念的なことになっておりますけれども、それだけに、聖書に記されたイエスの姿を思い浮かべ、イエスの言葉を心に刻みつつ、人生という旅路を、神の正義に従う真実な旅路として歩み続けたいものです。
その先にこそ、2000年にわたって主の祈りに祈り求め続けた御国が実現するのです。わたしたちひとりひとりにできることが小さくても、神の造られたこの世界が御国へと近づくような歩みを続けることができますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年8月3日
聖霊降臨節第9主日  主日主題:異邦人の救い、平和聖日
聖書  マタイ福音書 8章5-13節
創世記 21章:14-21(9-21)節
讃美歌21 58、514、81
「 革袋に平和を 」
アブラハムは古代イスラエルの民の御先祖です。アブラハムに対して、神は土地を与える、子孫を与える、と約束します。この約束が、その後の3000年近い歴史を経て現代のイスラエルという近代国家に結びつきます。
話を3000年前に戻しますと、その約束はなかなか実現しません。アブラハムの妻サラは実現しない約束に焦り、自分の奴隷であるハガルによってイシュマエルという息子をえます。ところが、その後になってサラにも子どもができてしまった。それが聖書の中でアブラハムの息子として物語を繋いでゆくイサクです。英語読みするとアイザックです。
イサクが生まれますと、もう一人の息子はサラにとって邪魔になります。しかもそっちが長男です。アブラハムも頭が痛かったことでありましょう。ついに追い出すことになりました。追い出されてしまったのだけど、神はそこに手を差し伸べて親子を助けた、というのが今日の創世記です。
追い出された母親であるハガルに対して、お前の息子も大きな民族になるだろう(16:10、以前にも一度逃げ出している)と神は再び約束します。大きな民族になる、という約束の部分はアブラハムに対する約束と同じです。
マタイ福音書の奇跡物語に移りましょう。この奇跡のポイントは2つあります。ひとつには、当時のユダヤを支配していたローマ帝国の現場指揮官である百人隊長が、イエスの権威を認めて部下の癒やしを求めてきたことです。現場指揮官ですから、ユダヤ人の側から見れば怨嗟の対象、逆に百人隊長からユダヤ人を見れば手を焼かせるやっかいな民族、お互いに相手は大嫌いであっても仕方ない関係ですのに、彼はイエスを信じて癒やしを求めます。「権威に従う者」云々という遣り取りは、彼がイエスを強く信じていることを語ります。「来てくれるまでもなく、癒やしてあげよう言ってもらえれば充分です」という彼の言葉にイエスが感動して、これがもうひとつのポイントになるのですが、寝込んでいる部下に会うことなく、イエスが癒やしの奇跡を起こします。
今日の主日主題は「異邦人の救い」(外国人や他民族の救い)であり、8月第1主日は平和を祈り合う平和聖日です。旧約聖書の元々の信仰では、救われるのはアブラハムの子孫だけでありました。もっとも、旧約聖書の信仰でも一部には(ヨナ書など)すべての人が救われる、としたものもあります。
考えてみれば、聖書の神が世界を造った創造主である、と主張するのであれば、救う民族と救わない民族があるのも変な話です。しかも、旧約聖書の教えの一方には、神は虐げられた人たちの味方である、という信仰があります。その神が一方では救わない民族を造った、となりますと本当は矛盾します。
その中でイエスは、信じる人すべてに救いが及ぶ、と主張するのです。律法の根底にあるところを徹底的に追求したイエスだからこそ言えることです。マタイ福音書の奇跡物語では、イエスを信じた百人隊長の部下が癒やされます。ユダヤ人から見れば虐げる側にある、まさに敵であるローマ人であっても、イエスを信じれば部下が癒やされる、救いの内に入る、と語りかけてきています。異邦人の救いという主題に直接結びつきます。
創世記の物語に戻りましょう。追放されたイシュマエルは異邦人ではありません。しかし、物語の続きを読みますと、イシュマエルの子孫は明らかに異邦人扱いされてゆきます(37:25-28、イサクの息子ヨセフがエジプトに売られる場面、など)。
神はイシュマエルの泣き声を聞いて母子を助けます。近くの泉に気付かせ、なくなった水をもう一度革袋に満たし、イシュマエルが大きな民族になる約束を繰り返します。
旧約聖書の神は虐げられた人の味方であるという信仰は、ここでは追放されたハガルとイシュマエルの母子に当てはまるのです。続く20節には「神がその子と共に居られた」と記されます。
後には子孫が異邦人扱いされてゆくわけですが、それでもイシュマエルは神の祝福のうちにありました。創世記の続きを読み進めますと、イシュマエルには12人の子どもが生まれ(25:12-18)、それぞれに一つの民族となってゆきます。イシュマエル追放の原因となったもうひとりの息子イサクは、彼の孫の代になってようやく12人の息子をえます(35:22-28)。興味深いことに、イシュマエルの方が約束の実現が一世代早いのです。
平和聖日という主題に戻って終わりましょう。そこから3000年を経た現代、イサクの子孫を自認するイスラエルと、イシュマエルの子孫を自認するアラブ系諸国と、現代社会においては絶えず揉め事が続いています。イスラエル周辺だけではなく、世界各地に紛争や戦争の絶えることはありません。カミサマあなた何を考えているんですか?あなたの造った世界でしょ?と思うこともしばしばです。わたしたちには権力も権威もありません。わたしたち一人一人の上げる声は小さく、声を上げたところで目に見える効果の無いことが現実です。考えれば考えるほどに無力感に襲われます。
しかしながら、その無力感の中にあっても、わたしたちは平和を祈ることができます。新しい革袋には平和を、古い革袋にも平和を、と。平和を特に意識するこの月、わたしたちの日々の祈りの中に、平和を願う祈りを祈り続けたいものです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年7月27日
聖霊降臨節第8主日   主日主題:祈り
聖書  マタイ福音書 7章7-12節
詩編 143編1-6節
讃美歌21 493、440
「 渇いた大地のような 」
主日礼拝の最後に行われる祝祷は、神からの祝福をわたしたちがいただく、神の祝福を受けて次の主日までの7日間を世の中へと出て行く、という意味を持ちます。祝祷の時の司祭や牧師の所作として古来より多く取られるのは、両手を挙げる、ラテン語でオランスと呼ばれる所作です。
その祝祷の時、会衆はどういう姿勢(所作)が多いのか?と思って見ておりますと、以前は、手を組んで頭を垂れるスタイルが圧倒的に多かったです。もちろん、これはスタンダードな祈りの姿勢でありますし、祝祷が祈りである以上は、共に祈るスタイルとして決して間違っては居りません。近年は司式者を見る人が増えました。また、祝福を全身で受け止める、とばかりに体を正面に幾分開いた形で祝祷の瞬間を持つ人もいます。キャッチボールではありませんけれども、両手を開いたオランスに対して、その祝福もらったぞ、という感じでありましょうか。
今日のマタイ福音書をもう少し前に戻りますと、6章に「主の祈り」が記されます。マタイ福音書の主の祈りは、わたしたちが必要とするものを神は既に御存知である、というイエスの言葉に続いて記されます。「主の祈り」よりも後に今日の「求めなさい」の教えを置いたのはマタイの編集であるわけですが、6章から7章に掛けてのイエスの教えは、わたしたちの必要を与えてください、と主の祈りで祈った後、わたしたちが、では何を求めるのか、あるいは、御国の実現のために、わたしたちが何をするべきなのか、いくつかの具体例が記されているように読めます。
その上で、黄金律「人にしてもらいたいことを、あなたも行いなさい」となります。そして黄金律に続けてイエスは言います。「これこそ律法と預言者である」。言い換えますと、人にしてもらいたいことをあなたも行いなさい、神もまた同じようにあなたにしてくださるのである、という教えとなりましょう。神が同じようにしてくださる、と信じるところがあればこそ、「求めなさい」という教えに実感が伴うわけです。
ところで、マタイに限りませんが、福音書を見ておりますと、どのような姿勢で祈るのか、立つのか座るのか、手を組むのか広げるのか、イエスは特に指示しておりません。祈るときにどのような信仰をもって、どのような言葉で祈るのか、いわば魂の姿勢として、それは、たとえば主の祈りの中に充分に示されておりますけれども、物理的な姿勢としては示されておりません。
譬え話の中でも姿勢(所作)まで記されることは少なく、ファリサイ派と徴税人が神殿で出くわした物語(ルカ 18:9-14)の中で、徴税人が「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈った、と記されているぐらいです。イエス自身についても、一人で山の中に入って祈った、というような記事がいくつかありますけれども、祈りの時の姿勢について記されることは少なく、ゲッセマネの祈りの場面で、マルコとマタイは「地面にひれ伏し」と書き、ルカが「跪いて」と書いてあるぐらいでありましょう。
ただし、祈りだけではなく、礼拝全体についても当時の様子は部分的にしか分かっておりません。様々なスタイルの祈りの所作があり、祈りの言葉があったようです。
では旧約聖書にはどのように記されているのかと言いますと、これまたいくつかの所作が、しかしながら断片的に残されております。手を挙げた、手を広げた、跪いた、ひれ伏した、両手を真っ直ぐ伸ばして挙げた、というような記事が残されております。
今日の詩編に戻って締めくくりましょう。
詩編143編は、ダビデの歌となっております。多くの詩編は実際の状況通りでダビデが歌ったわけではなく、ダビデのその時の心情を思った詩人が後の時代に作ったものとされます。143編は、長男アブサロムの反乱に依ってエルサレムから都落ちしたダビデが、神との関係の回復を願って歌ったものとされます。一時的とはいえ神の祝福が途切れておりますので、イエスの言葉とは異なり、わたしの祈りを聞き届けてください、と願うところから始まります。そして最後のところでダビデは歌います。「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂を、あなたに向けます」。祈りの姿勢(所作)が描かれております。
ダビデは、今、自分の魂はあなたの恵みを失って渇いています。あなたの恵みをたくさん受け取りたいので、両手を広げて待っています、と歌っているのです。わたしの祈りを聞き届けてください、と言って祈り始めるところはイエスの教えとはいささか異なるように見えますが、一方、自分の魂が渇いた大地である、だから神の恵みをいくらでもたくさんいただけます、と祈るところは「求めなさい」と語るイエスの教えと重なります。ダビデが神に求める気持ちが良く表れています。
わたしたちはダビデのような権力者ではありませんけれども、現代という複雑でストレスの多い社会の中で、「渇いた大地のような」魂の渇き方をすることはしばしばでありましょう。そのとき、神に向かって、キリスト・イエスに向かって、わたしは今、あなたの恵みが必要です。わたしの渇いた魂はあなたの恵みをたくさん受け取ることができます。と、すなおに願って求める者であり続けたい。「求めなさい」と語る神は、必ずやその願いに応じてくださることでありましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年7月20日
聖霊降臨節第7主日   主日主題:主にある共同体
聖書 マタイ福音書 6章25-27(25-34)節
イザヤ書 49章16-18(14-21)節
讃美歌21 361、392
「 民はすべて集められ 」
「空の鳥を見なさい」は田中忠雄が好んで書いた主題のひとつであり、何度も描いていたことが知られております。
今日のイザヤ書はバビロン捕囚の終わり頃に活動した第2イザヤの預言と言われております。ペルシャ王キュロスに期待を掛けた第2イザヤは、キュロスをメシアと呼びます。しかしやがて、第2イザヤの目から見て、あれはメシアじゃない、ということになってゆきます。この先は単にイザヤと呼ぶことにいたします。
イザヤは、キュロスに対して疑問を抱きつつも、世界の各地から、ヤハウェを神と信じる人たちがエルサレムに帰ってくる、という幻を見ます。諸国の民がエルサレムに集まり、さらには天地や山々という、神の被造世界全体が神を賛美すると語ります。
今日の主日主題は「主にある共同体」です。イザヤの預言には、神殿だけがヤハウェの居るところではない、という信仰を感じます。それは神ヤハウェを信じる人の居るところに神は居られる、ということであり、イザヤはそこに神の救いの広がりを見ようとしております。それが、主にある共同体です。
それを言い換えますと、聖餐式にいつも言っております「信仰共同体としての教会」でもあります。わたしたち、一人一人の信仰は、細かいところでは必ず違いがあります。一人一人、それぞれ違った聖書との出会いがあり、それぞれに違ったキリストの出会いがありました。イエスをキリストと信じる、その一点でわたしたちはキリストに繋がり、主の食卓に繋がるわけです。
ところで、毎年のことですが、大阪教区総会は開会礼拝がなかなか始められずに信仰告白をめぐって一悶着します。教団成立の歴史を見ますと、教団は、さまざまな教派の寄り合い所帯です。その寄り合い所帯の中で、教区総会では、みんなそれぞれに肩肘張って自分のスタイルで開会礼拝をやりたい、と主張します。言い方まで同じ遣り取りが毎年繰り返されるのを見て、人間てつまらない存在だなぁ、と思います。もっとも、繰り返しますけれども、信仰を告白すること自体に反対する人はおりません。その一点で大阪教区のキリスト者は繋がっている、といえましょう。
教会が信仰共同体であることは、集められた人々がイエスをキリストと信じることです。わたしたちはイエスの語った言葉によってキリストの再臨を待ちます。わたしたちの教会名である「マラナ・タ」の意味は「主よ、御出ください」です。これはまさに、主の再臨をわたしたちは待ちます、という信仰の告白です。
教会が信仰共同体であることの一つの姿が使徒言行録に記されます。教会に集まる人々は、食べ物や着る物を持ち寄り、共有して、必要に応じて分配していた、とルカが記します。元々、ユダヤ教の律法では、やもめや孤児や寄留者が生きていけるように援助しなさい、施しを行いなさい、と定められております。それをエルサレム教会は守っていた。それどころか、さらに一歩進んで、財産の共有をしていた、と使徒言行録は語ります。
もっとも、ルカの描くエルサレム教会の姿は理想化された姿です。教会のあるべき姿として、ユダヤ教の律法の規定を上回るような施しによって、生活が困難な人が誰も居ないようになる、それが主にある共同体の目指すところである、とルカが考えていたのです。施しや共有に留まるものではなく、生活を共に担い合うことで、生活を巡る様々な不安の分散にもなり、不安の分散だけではなく、喜びや楽しみも、共有することになります。イエスをキリストと信じる、というその一点で繋がった、キリストに繋がる共同体であればこそ、不安も喜びも楽しみも、そしてときには悲しみも、分かち合うことになります。
イエスは「思い悩むな」と語ります。「空の鳥を見なさい」、「野の花を見なさい」、「何を食べようか」、「何を飲もうか」、「何を着ようか」と言って思い悩むな、と言います。なぜなら、それらのものが必要であることを神は知っておられるのだから。イエスは、「まず、神の国と神の義を求めなさい」と語ります。
律法の一点一画も廃れることはない、というイエスの言葉を残したマタイが、「神の国と神の義を求めよ」と記すとき、それは祈るだけではなく、具体的な行動を含んでいたはずです。
現代日本の教会において、ルカが描いたように、持ち物のすべてを共有するということは現実的ではありません。ルカ自身も、無理を承知だからこそ、理想をエルサレム教会に投影したのでありましょう。一方、教会に集まる一人一人がそれぞれに抱える重荷を、分かち合い、担い合うことは、キリストの教えにかなうことです。イエス御自身が、共に担ってくださるという信仰、そして、イエスに倣うものとして、わたしたち一人一人が、共に支え合う、それは信仰共同体としての教会の、あるべき姿でありましょう。
教区の互助も同じだなと思います。担い合い、支え合うことが、これからの教区の歩みとして本当に大切になります。わたしたちのマラナ・タ教会が、ひとつの信仰共同体であるように、大阪教区という信仰共同体がある。その中で、わたしたちは共に信仰者として集められて歩み続け、共に信仰生活を送っている。そこにキリストが共に居られる。神が共にいてくださる。
集められた者として、キリストの救いを信じて歩みを重ねてまいりましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年7月13日
聖霊降臨節第6主日   主日主題:世の光としての使命
聖書 マタイ福音書 5章13-16節
イザヤ書 60章19-22節
讃美歌21 55、509
「 主はとこしえの光 」
先週日曜の午後に、いずみ教会の就任式に列席させていただきました。いずみ教会は阪和線で天王寺から約20分の信太山の駅前、阪和線ですから山手寄りの地域にあります。
いずみ教会は教会用語で言うところの小さくされた人たちと共に歩むことを伝道の大きな柱としております。今日のマタイ福音書が、地の塩、世の光、という有名な箇所であったもので、来週のメッセージは世の光だな~と思いながら列席していただけに、いずみ教会が世の光であろうとする働きをつよく意識させられる就任式でありました。
今日のイザヤ書は第3イザヤと呼ばれる預言者の言葉です。第3イザヤはバビロン捕囚が終わってからさらに少し時間が経ってからの預言者です。数え方にも依りますけれども、バビロン捕囚は解放までに50~60年掛かっております。バビロンに連れて行かれた人々の世代が変わっております。
バビロンで生まれ育った世代の人にすれば、エルサレムはリアルな故郷とは言い難い場所でした。バビロンに生まれ育ち、バビロンには仕事もあれば友人もいる。親戚の中にもバビロンに残るという人が出てくる。あれやこれやでエルサレム帰還の許可が出ても帰らなかった人も多いのです。裏返せば、それなのにエルサレムに帰った人たちとは、エルサレムへの思いが強かった人たちであったわけです。
そして、実際のところ、エルサレムでの生活は大変でありました。エルサレムに帰ると早速に始めたはずの神殿の再建も途中で一度放棄され、完成までには20年以上の時間が掛かりました。旧約聖書の中では、ハガイ書、エズラ書、ネヘミヤ書、がこのあたりの事情を記しております。後に第2神殿と呼ばれますところの、再建された神殿は、ソロモンの神殿とは比べるべくもない、実にささやかなものであった、と伝えられております。
そして、第3イザヤは、おそらく、その第2神殿がようやく完成した頃の時代に活動していたようです。そのため、第3イザヤの預言は、バビロン捕囚の間に浸透・定着したところの、律法によって神と繋がる、という信仰生活のあり方を強く意識したものとなってゆきます。
この先は第3イザヤを単にイザヤと呼びましょう。
今日のイザヤ書の前半部分(19-20節)は、ヨハネ黙示録の中でも最後の審判の後の世界を描いております「新しいエルサレム」(21:3-4、21:22-23)の場面描写に大きな影響を与えております。
「21:22わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 21:23この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」
また、イザヤの言葉は天地創造物語をも思い起こさせます。天地創造の始まりに、神は「光あれ」と言って昼と夜を分けます。興味深いことに太陽と月が造られるのは第4日です。第1日以降、第2日と第3日には、それぞれ、昼があり、夜があったのに、まだ太陽は造られておりません。太陽でも月でもなく、神の存在そのものが光となる、とするところは、天地創造物語の始めと今日のイザヤ書で共通しております。そう考えますと、この光は、太陽に照らされたときのような、一方に影のできる光ではなく、空全体が万遍なく光るようなものであるのかもしれません。
それと比べますと、マタイ福音書が記す「ともし火」はとても小さなものです。燭台の上に置かなければ家全体を照らすことはできません。升の下に置いてしまえば、そこしか照らせないでしょうし、そもそも消えてしまうかもしれません。しかしながら、小さくても、繰り返しになりますが、それは燭台の上に置けば、「家の中のものすべてを照らす」ことができます。
今も昔も、と言っていいのだと思いますが、現代社会において、特に日本のようなキリスト教が少数派である社会において、教会が、あるいは教会に繋がる人々が、社会の中で果たしうる働きはマタイに記された「世の光」なのでありましょう。
ただ、それはやはり小さな光です。日本の社会の「すべてを照らす」ことはできません。一方、闇の中であれば小さな光でも遠くまで見えて道しるべとなります。古い話ですが、アポロ7号に乗った宇宙飛行士のシラーは地球周回軌道(地表から200km以上ある)から夜のベトナムの戦火を見た、と語ります(『宇宙からの帰還』、p.255)。シラーの場合は道しるべとして見たのではありませんけれども、夜に自動車を運転するとき、室内灯を消すのは外の小さな灯りを見逃さないためであるのは、わたしたちの誰もが心得ていることでもあります。
小さな教会には小さな教会の果たすべき役割がある。そのことを頭に入れながら、わたしたちもまた、この枚方の地で、小さくとも世の光としてあり続けてまいりましょう。とこしえの光である主が、わたしたちを照らし、また、わたしたちを世の光として輝かせてくださいますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年7月6日
聖霊降臨節第5主日
聖書 マタイ福音書 5章33-37節
申命記 26章1-11節
讃美歌21 2、210、81
「 籠を取って 」
聖書の世界を世界史の一般的な地域名でいうと西アジアあるいは東地中海世界になります。西アジアの歴史を語るときに、重要な名前の一つとしてアレキサンダー大王の名前があり、その後の時代をヘレニズムの時代といいます。ヘレニズムの時代以降、西アジアの広い地域でギリシャ語が共通語となります。新約聖書がギリシャ語で書かれたには、そのような時代背景がありました。
イエスと弟子たちの話し言葉としては、もっぱらアラム語が使われていた、と言われております。もっとも、ヘブライ語とアラム語は同族の言語ですから、単語も文法もよく似ております。旧約聖書の一部もアラム語で書かれています。
福音書を丁寧に読みますと、イエス自身の言葉としてアラム語の単語がいくつか記されます。一例を挙げれば、マルコ福音書では、イエスはゲッセマネの祈りの冒頭で神に「アッバ」と呼び掛けます(14:36)。アッバは、家庭の中で小さな子どもが父親を呼ぶときに使う言葉です。イエスの語る父なる神とは、どこか遠くに居る神ではなく、本当に身近なところに居られる神である、ということです。他には、12歳の少女を生き返らせたときの「タリタ・クム」(5:41)、同じく癒やしの奇跡の「エッファタ」(7:34)、何よりも十字架上の言葉の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(15:34)がアラム語で記されます。
福音書からパウロ書簡まで話を広げますと、ようやく、わたしたちの教会名である「マラナ・タ」が出てまいります(1コリント 16:21)。話をアッバに戻しますと、マルコだけではなく、パウロも、当時の教会で使われていた言葉として、ローマ書(8:16)とガラテヤ書(4:6)に「アッバ、父よ」と記しています。やはり、イエスが語った言葉としてそのまま残されたのでありましょう。
さて、先ほど読みましたところの申命記の言葉の中に、「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」と記されております。これは、古代イスラエルの人たちの、重要な信仰告白の言葉の一つです。創世記に依れば、アブラハムはウルを故郷とし、ハランで育ったのち、カナンの地へと旅立ちます。細かい話を抜きにしますと、ハランで話されていたのがアラム語の中でもヘブライ語に近い方言でした。そして、イサクもヤコブも、ハランに残った親戚筋から妻を迎えます。
申命記の信仰告白は興味深いことを語ります。
アブラハムが神の声を聞いてハランを出立し、自分たちが神の民とされたのは、アブラハムの一族が強力な民であったからではない。むしろその逆で、自分たちの先祖は滅びを目前にした弱い一族であった、と語るのです。
「滅びゆく一アラム人」は「放浪する一アラム人」とも訳せるのですが、アブラハムもイサクも、土地を与える、子孫を与える、という神からの約束がなかなか果たされず、その点では綱渡りの人生でありました。3代目のヤコブは12人の子どもを得ますが、飢饉に際してはエジプトへ逃れざるをえません。ヤコブの時代にも彼らはまだ「滅びゆく一アラム人」であり「放浪する一アラム人」でありました。
そしてようやくエジプトで時を経て大きな民となった、と申命記は語り、出エジプトを振り返ります。カナンの地を神の約束の地として、その土地から得た収穫を籠に入れて主の祭壇に供えよ。その時、かつて自分たちがエジプトで寄留者、すなわち土地を持たないヨソ者であったことを忘れず、自分たちの「中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」と命じます。
旧約聖書では神と人の契約ということが何度も繰り返して語られます。また、創世記に描かれた、アブラハム、イサク、ヤコブ、の族長物語を見ますと、人と人の契約も同じように重要なものとして記されます。
それなのに、福音書の中でイエスは「誓ってはならない」と語ります。マタイ福音書の5章は「しかし、わたしは言っておく」という言葉で、当時の常識をイエスが揺さぶります。今日の申命記と重ねるならば、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」という言葉がポイントでありましょう。
神がアブラハムを選んだのは、アブラハムの力で勝ち取ったことではありませんでした。同じように、誓いを立てたことを実現できるかどうかは、最終的に神の力が働くかどうかである、とイエスは言うのです。これは一つ間違えれば人間の側の責任放棄につながりかねないのですが、一方、人間の側の自分は何でもできるという思い上がりにストップを掛ける言葉でもあります。
わたしたちの日々には様々な場面で神の力が働いている、とイエスは語ります。申命記は、自分たちが選ばれたのは自分たちの力ではない、と語ります。
わたしたちの身近な日常を見回しても、あるいは世界各地の紛争や事件や事故を聞いても、その全てが神の御心、と言ってしまうには大きなためらいを感じることがしばしばでありますが、世界の造り主である神が、ゆっくりとした歩みの中でも世界を御国へと導こうとしておられることを信じて、日々の歩みを重ねてまいりましょう。わたしたちの籠には何が入っているでしょうか。その籠には神を信じる心を最初に入れたいものです。

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マラナ・タ教会主日礼拝 2025年6月29日
聖霊降臨節第4主日
聖書朗読と賛美の礼拝:詩篇を歌う

聖  書  詩編  23編
讃 美 歌  120「主はわがかいぬし」
聖  書  詩編  42編
讃 美 歌  132「涸れた谷間に野の鹿が」
聖  書  詩編  90編
讃 美 歌  141「主よ、わが助けよ」
聖  書  詩編  121編
讃 美 歌  155「山べにむかいて」
聖  書  詩編  124編
讃 美 歌  157「いざ語れ、主の民よ」
聖  書  詩編  133編
讃 美 歌  161「見よ、主の家族が」

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年6月22日
聖霊降臨節第3主日
聖書  マタイ福音書 3章1-6節
エゼキエル書 18章21-32節
讃美歌21 430、505
「 正義と恵みに 」
洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と人々に語りかけます。イエスの初期のメッセージが洗礼者ヨハネを受け継いだものであったことは間違いありません。洗礼者ヨハネについては、旧約聖書の預言者のスタイルを色濃く受け継いだと語られることが多いです。旧約聖書をじっくりと振り返りますと、預言者たちの言葉は、たしかに裁きの預言が多いのですが、バビロン捕囚以降の預言者たちは、イスラエルの回復を預言するようになります。洗礼者ヨハネも裁きを語ると同時に、悔い改めて洗礼を受けよ、というところは、預言者の伝統としての、裁きの後のイスラエルの回復の預言に繋がると言えましょう。
先ほど読みましたエゼキエル書は、明らかに、悔い改めによる赦しを語りかけております。ここでは「立ち返れ」と訳されています。同じように、ホセア(12:7)やエレミヤ(3:22)も、神への立ち返りを主張します。ここでエゼキエルは、興味深いことを語ります。
18章全体を見ますと、当時の諺である「父が酸い葡萄を食べれば、子の歯がうく」(cf.出エ 20:5、エレミヤ 31:29)、つまり先祖の罪の結果を子孫も受ける、という考えに対して、それを強く批判しています。そして、すべての人が、一人一人神に向き合うことが大切である、と説きます。そうして、邪悪な者であっても、神に立ち返るならば、神はそれを認めてくださる、とまで語ります。(cf.エゼキエル 33:11-20、ゼカリヤ 1:2-3 )
エゼキエルと言えば、捕囚時代初期の預言者であり、元はエルサレム神殿の祭司でありました。バビロン捕囚の時代はユダヤ教がユダヤ教となるための様々な試練の時期であった、と考えられています。例えば北王国の終わり頃に活動した預言者であるホセアやアモスの預言には、安息日という言葉がほとんど出てきません。安息日を守ることが極めて重視されるようになるには、エルサレムの神殿を失い、異国の地に連行されたバビロン捕囚という社会的背景がありました。それがバビロン捕囚の時代に今に残るような律法として整えられて行くことに繋がり、律法として纏められた神の掟を重視するユダヤ教へと繋がるのです。
祭司であり、捕囚の民の一人であり、おそらくは、捕囚の民の中でも、ある程度指導者的な役割を果たしていたエゼキエルも、神殿を失ったことをどう理解するべきか、真剣に考えたのでありましょう。
当時、先にも申しましたように、先祖の罪の結果を子孫も受ける、と考える諺がありました。捕囚の民の間では、バビロン捕囚を先祖の罪のせいだ、と考える人が多く居たわけです。自分たちの境遇を運命として諦めて受け入れていた、とも読めますし、あるいはまた、ある種の責任転嫁とも読めます。
エゼキエルとしては、バビロン捕囚を先祖の罪の結果としないことは、今日御一緒に読みました預言でも明らかです。そして、エゼキエルは、一人一人が神に向き合うべき、と主張いたします。もっとも、エゼキエル書全体として見ますと、民の一人一人が神と向き合うことを通じて、民全体が神の掟に従うことを求めます。その上で、しかしながらイスラエルの回復は、イスラエルの裁きと同じく、神の思いによるものであって、自分たちの力でできるとかできたとか思ってはならない、と釘を刺します。
エゼキエルは過去ではなく今を見ます。昨日や一昨日ではなく、今日を見ます。その今日の積み重ねが、立ち返りの日々の積み重ねであることを求めます。
エゼキエルの考えていた、「正義と恵みの業」は、やがて律法として纏められてゆきます。洗礼者ヨハネも、その律法を受け継ぎます。ただしヨハネは、エゼキエルからの数百年を経て、貧しさの故に律法を守り切れない人に、「神の国は近付いた」と呼び掛けます。ヨハネの言う悔い改めと、エゼキエルの言う立ち返りは同じものです。エゼキエルは言います。「罪がお前たちをつまずかせないように、新しい心と新しい霊を造り出せ」と。11章では、神が新しい心と新しい霊を与える、となっています。新しい心とは、神に立ち返り、神の正義と恵みの業に即して生きようとする心です。新しい霊とは、正義と恵みの業を求める神の御心に即して生きる命です。
エゼキエルは、同じ時代を生きた捕囚の民に向かって「お前たちは立ち返って、生きよ」と語りかけます。キリストの先駆けである洗礼者ヨハネも、同じ時代を生きた人々、中でも、律法を守り切れない人々に向かって「神の国は近付いた」と語りかけます。
キリストであるイエスもまた、律法の救いに届かない人々に向かって、神を信じよ、生きよ、と語りかけ、癒やしの奇跡を重ねます。イエスに至って、ついにその語りかけは、時代を超え、国を超えて響くようになったのです。2000年後のわたしたちの人生の中で、具体的に何が神の正義と恵みの業であるのかを一言で言い表すことはできません。一言で言えるものではないがゆえに、それを実行することもまた、簡単ではありません。
それでも、わたしたちは、諦めずに、神の御心を求めて、そして、わたしたちの日々が、神の正義と恵みの業に通じる生き方であるように求めて、歩んでまいりましょう。御心を求める日々の中にこそ、それは示されるのです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年6月15日
聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)
聖書  マタイ福音書 11章25-30節
イザヤ書 6章1-8節
讃美歌21 529、419
「 見よ、これが唇に 」
旧約聖書の中にはセラフィムはイザヤ書のこの箇所だけに記されます。新約聖書では、ヨハネ黙示録にセラフィムと同じく6枚の羽を持つ別の動物が記されております。実はセラフィムはヘブライ語では蛇の複数形です。エゼキエル書や出エジプト記では、神の玉座の周りに居るのはケルビムです。ケルビムは一対の羽を持ち、また蛇ではありません。実際のところ、イザヤが見たセラフィムについては想像しきれないわけですが、イザヤ書を読む限り、セラフィムとは、天使の一種であり、神と人の仲介をするものであることは確かです。
今日のイザヤ書は、いわゆる預言者イザヤの召命物語です。イザヤが、神に呼び出されて預言者として立てられる場面を描きます。イザヤはこの幻をおそらく神殿で見たのでありましょう。イザヤについて、元々はしかるべき地位の祭司であったと考える人もおります。
セラフィムは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と呼び交わします。セラフィムの力強い賛美の声によって神殿は揺れ動きます。おそらくイザヤは恐れて座り込んでいるのでありましょう。恐れと驚きのあまり、セラフィムの賛美にイザヤは声を合わすことができませんでした。イザヤは言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる」。当時、神を見たものは死ぬとされておりました。神の絶対的な聖性によって、イザヤは死の予感を感じます。加えて、イザヤはセラフィムの賛美に声を合わせられなかったことにも恐れを感じます。イザヤは言います。「わたしは汚れた唇の者」。
その時、セラフィムが、祭壇の炭火を取り、イザヤの唇に触れさせます。祭壇の火でありますから聖なる炎です。お気づきのように、これはイザヤが祭壇で献げられたことを意味します。神に献げられたイザヤは預言者として立ち上がるのです。
今日のマタイ福音書の前半部分は、まるでヨハネ福音書のようです。神に向かっていささか興奮して語り掛けているように読めます。28節以降の後半は、一転して弟子たちや民衆に語りかけます。口調も変わります。興味深いことに、わたしたちの誰もがなじみ深い、イエスのこの言葉はマタイ福音書だけに記されているのです。しかしながら考えてみれば、インマヌエルというマタイの信仰にピッタリと合う言葉でもあり、マタイがどうしてもこの言葉を書き記しておきたい、と思ったのもよく分かります。
今日はイザヤ書との関わりの中で、前半のマタイらしからぬ表現のところを見ておきましょう。
イエスが語るところの、隠されていた「これらのこと」が何を指すのか、諸説あってわかりません。ただ、イエスから見て大切なことが、「知恵ある者や賢い者」には隠されていた、と言います。「幼子のような者」にこそ示された、と言うのです。
マタイ福音書のクリスマス物語を思い返しますと、なるほどと思えます。キリストの誕生を告げる星は、空を見上げれば誰もが気付くであろう徴であったにも関わらず、エルサレムの祭司長や律法学者たちには隠されておりました。
そして、律法の上では何重にも救いの外に居るはずの、異邦人の占星術師にこそ示されます。占星術の学者というのですから、「賢い者」ではありますけれども、それは律法の目から見るならば意味の無い知恵でありました。その点で言えば、占星術の学者たちは知恵ある者とは言えず、むしろ何も知らない幼子と同じである、とマタイは考えたのでありましょう。
マタイ福音書に限りませんけれども、福音書はファリサイ派や律法学者に対して親和的ではありません。知恵ある者であり賢い者であるはずの彼らが、洗礼者ヨハネを認めず、そしてまたイエスを認めなかった、という状況が実際にあり、そのことが弟子たちの間で語り継がれていたのでありましょう。
イザヤに戻りましょう。イザヤが祭司であったのなら、イザヤは神殿に関する知識や律法に関する知識をよく知る「賢い者」でありました。しかしながら、イザヤが預言者として立てられたのは、彼が持つ知識や、王に対してすら面会して意見できる地位に依ったものではありません。神殿の中で幻に見たとは言え、圧倒的な神の力に出会ったからであり、セラフィムが差し出した炭火によって咎が取り去られ、セラフィムの賛美に声を合わせられなかった罪が赦されたからでした。
セラフィムのその行いと、その言葉によって、イザヤは力付けられました。そして、神の呼びかけに応えるのです。神と共に歩み、その歩みは、預言者の多くがそうであったように、多くの場合、王や貴族に対する批判、場合によっては、民衆に対する批判、となって、特に、貧しい人たちや弱い立場におかれた人と共に歩むこととなったのです。
わたしたちにとって、イザヤに与えられた祭壇の炭火に当たるのは、目には見えませんけれども、代々の弟子たちに連綿と与え続けられてきた聖霊の力でありましょう。神と共に、キリストと共に歩むことは、聖霊によって日々に力を与えられる歩みでもあります。聖霊降臨祭の日々を、神の息吹である聖霊と共に重ねてまいりましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年6月8日
聖霊降臨節第1主日 聖霊降臨祭  主日主題:聖霊の賜物
聖書  マタイ福音書 12章14-21節
イザヤ書 42章1-4節
讃美歌21 346、406、81
「 灯心を消すことなく 」
聖霊降臨のお祝いを申し上げます。
聖霊降臨祭・ペンテコステは、キリスト教の3大祭のひとつであり、教派を問わずに祝われる祭でありますけれども、クリスマスやイースターに比べますと、地味で影の薄いお祭りであると言えましょう。クリスマスとイースターは、全ての人に救いがもたらされたことを祝う祭です。たしかにそれに比べますと、聖霊降臨祭は弟子たちに聖霊が降ったことの記念です。全ての人ではない。しかしながら、弟子たちに聖霊が降ったことによって、彼らはキリストから託された宣教の業に踏み出します。それなくして、全ての人に福音を届けることができなかったのでありますから、実はやはり非常に重要なお祭りであるのです。
今日は式次第を少し変えまして、主の祈りを聖餐式の中で祈ります。使徒言行録に記されておりますところの聖霊降臨の出来事では、様々な国の言葉で、しかも同時に語られているようです。国際会議の同時通訳音声が混線してしまったような状態を考えれば、当たらずとも遠からずでありましょう。
それに対して今日は、複数の翻訳による主の祈りを、すべて日本語で、しかも順番に祈ります。これは情景としては随分と異なります。使徒言行録に記された情景では、異なった言語が同じ福音を語ります。一方、わたしたちは、異なった翻訳がそれぞれに思い起こそうとしている微妙なニュアンスの違いを受け止めようとしております。いくつもの日本語訳があることは翻訳の難しさでもありますし、また、複数の日本語訳で祈ることは、おそらくは、口に馴染みすぎた結果、ことさらに一つ一つの言葉を吟味することがいつのまにか無くなっているであろう主の祈りの言葉を、あらためて心に留めようとする行いでもあります。
さて、今日は聖霊降臨の出来事を直接に描く使徒言行録2章ではなく、マタイ福音書と、そこに引用されているイザヤ書の言葉を、御一緒に読みました。キーワードは今日の説教題にもいたしましたとおり「灯心を消すことなく」です。イザヤ書の時代も、福音書の時代も、夜の灯りと言えばランプでありました。ランプを使い続けるためには、折々に油を足さないといけません。そして灯芯を常にメンテナンスしないとうまく燃えません。
マタイがイザヤの預言を引用したのは、お気付きの通り、イザヤがここでメシアの登場を預言しているからです。イザヤの預言の中で語られる「わたし」は神ヤハウェ御自身です。
そして、ヤハウェに選ばれた「彼」こそが、メシア・救い主です。救い主には神の霊が与えられ、正義を実現するであろう、とイザヤは語ります。マタイは、イエスこそ神の霊と共にある救い主・キリストである、と主張いたします。
イエスの癒やしの奇跡を目の当たりにした群衆は、イエスこそイザヤの預言した救い主ではないか、と思います。ところが、居合わせたファリサイ派は(ファリサイ派がどのような人たちであるのかの説明を今日は省略いたしますが)、いや違う、あれは悪霊の頭領が起こした奇跡だ、と言い出します。もちろん、ファリサイ派は間違っておりました。マタイの考えの方が正しかったわけです。
ところで、聖霊降臨祭によく読まれる聖句の一つに、ヨエル書3章の預言があります。ヨエルは神の言葉としてこう語ります。「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」。では何故今年の聖霊降臨の祝日にマタイを読むのか、と思われた方も居られましょう。ポイントはここです。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」。
マタイ福音書の元々の意味では、神の霊を受けるのはキリストであるイエスでありました。ルカが記す聖霊降臨の出来事と重ね合わせるならば、イザヤが語り、マタイが引用したこの箇所で、神の僕としてその霊を受けるのは、キリストに従って歩んだ弟子たちでありました。弟子たちは、神の霊・聖霊を受け、異邦人を含むすべての人に福音を伝えようとして、立ち上がり、歩み始めるのです。
代々の弟子たちは、どのような時代にあっても、神の霊である聖霊を受け、聖霊によって力付けられ続けます。弟子たち自身は、時に信仰の灯が消えそうになることもありました。それは現代を生きるわたしたちも変わりません。しかしながら、どのような時代にあっても、信仰の灯は粘り強く燃え続けます。信仰のランプの、油を足すことも、灯芯をメンテナンスすることも、神の聖霊御自身がしてくださるのです。
現代社会は情報が洪水となって溢れて流れる時代です。その中で、わたしたちが伝えようとしているキリストの福音は、ともすれば埋もれてしまいます。届かせたいところにこそ、なかなか届きません。それでも、わたしたちは、言葉を吟味し、聖霊の力を受け、キリストに出会った者として、キリストの弟子として、福音宣教の歩みを続けてまいりましょう。その先にこそ、イエスの語る神の国があるのです。

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わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。