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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年6月8日
聖霊降臨節第1主日 聖霊降臨祭 主日主題:聖霊の賜物
聖書 マタイ福音書 12章14-21節
イザヤ書 42章1-4節
讃美歌21 346、406、81
「 灯心を消すことなく 」
聖霊降臨のお祝いを申し上げます。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年6月1日
復活節第7主日 主日主題:キリストの昇天
聖書 ルカ福音書 24:44-53
エレミヤ書 10:1-10
讃美歌21 321、564、81
「 離れて、天に 」
おおよそ宗教というものは、本来はすごく身近なものです。元々は、様々な願いや感謝、あるいは大自然への畏敬、それらが根底にあります。一方、どの宗教であれ、理屈を飛び越える部分が必ずあります。キリスト教であれば「復活」が理屈を飛び越えます。生物学的には有り得ないことを信じようとします。ルカ福音書の最後の場面は、復活したイエスが天に昇るという、これまた物理学的に有り得ないことを堂々と記します。
「奇跡」の元のギリシャ語のひとつがミステリオンです。英語のミステリーに繋がる言葉です。まさに、奇跡とはつまりはミステリーなのだ。それは神秘であって、我々の理解を超えている部分があるのだ、ということです。
わたしたちの科学的知識には限界があることを承知で、神が人間に対して、どのように生きてほしいと思っているのか、隣人を大事にしろ、隣人と共に生きよ、と思っておられるのならば、その御心に沿う生き方をしよう、と思うことが信仰でありましょう。
もっとも、現実の社会にはカミサマあなたそれでいいと思っているの?と問い詰めたくなる出来事があふれております。神の御心を、わたしたちは時に疑います。疑わせる現実を見聞きします。
しかしながら、疑いも含めて信仰だとして受け入れてゆくような神への近付き方もあります。映画『教皇選挙』でも、選挙の始まる直前、選挙を取り仕切る主席枢機卿が、集まった枢機卿たちに、信仰には疑いが必要だ、「確信だけで疑いがなければ、神秘(ミステリー)はなくなる。そうなれば信仰も必要なくなる」。疑いを持つ教皇を選ぼう、と語り掛けます。
イエスが弟子たちと共に生活し、「神の国は近付いた」と告げて宣教した1年間の最後に、イエスが弟子たちと離れるときを、ルカはこう記します。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。どのような言葉で祝福したのか、大変に興味あるところでありますけれども、ルカは具体的な言葉を記しません。
ルカが福音書を記したのは、イエスの御復活から60年ほど後です。イエスが「神の国は近付いた」と言ったのに、まだ始まらない。当分来ないんじゃないか、という疑いが教会の中に出ております。そして、ルカの居た教会は、イエスの宣教の場であったガリラヤ地方から離れております。
ルカは、イエスが弟子たちを祝福したのと同じように、それぞれの教会が、その時代と建てられた場所に応じた言葉で祝福するように、と考えていたのでありましょう。
祝福を祈ることは、ルカにとって、キリストの弟子として、キリストの働きを語り継ぐための、大切な働きであったのです。
イエスの御復活と御昇天をどう考えるにせよ、つまり、イエスと弟子たちとの別れがどのようなものであったにせよ、イエスが最後におこなったのは、弟子たちを祝福することでありました。たしかに、キリスト教のルーツであるユダヤ教では、日々多くの場面で神の祝福が祈られます。そして、わたしたちの礼拝の最後も、神の祝福を願う祈りを祈って終わります。礼拝の最後の祝福の祈り・祝祷は普段は牧師が行いますが、実は牧師(司祭、祭司)だけが行うものではありません。
旧約聖書全体で「祝福」という言葉は 284回使われます。そのうち、祭司の制度が成立するよりも前の時代を描く創世記を見ますと、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった民族の御先祖たちが、旅に出る家族を祝福したり、自分の財産を息子に相続するときに祝福する場面が描かれます。祝福の祈りは、元来からして祭司だけが祈る祈りではなかったことが分かります。具体的な回数を言えば、その 284回のうち、アブラハムからヨセフまでが76回にもなるのです。
旧約聖書をさらに先に読み進みますと、ルツ記に記された4回の「祝福」も祭司ではない人どうしで祝福しています。そのうち2回は女性(ナオミ)が祝福します。現代ではなく3000年前の古代社会で女性が男性を祝福します。1回は農夫たちが農園の持ち主(ボアズ)を祝福します。こうして見ていきますと、必ずしも、宗教的・社会的な地位が高い人が低い人を祝福するとは限らないのです。聖書の伝統においては、それが神の祝福を願う祈りである限りは、誰が誰を祝福しても良いのです。
わたしたちの祈りの、感謝と願いの多くの部分が実は神の祝福を願う祈りであることを、もう少し意識してもいいのかな、と思います。繰り返しますが、ルカが、イエスの最後の祝福の言葉を書き残さなかったのは、全ての時に、全ての人が、様々な祝福を、日々折々、様々な場面で、時代と場所に応じた言葉で祝福するためでありました。その祝福こそが、わたしたちに委ねられた、キリストの弟子としての働きであるのです。
キリストが天に挙げられるときに弟子たちを祝福されたように、わたしたちも祝福を祈る人の集まりであり続けたい。祝福を祈るエクレーシアであり続けたい。神の聖霊が祝福を祈るその力を与えてくれると信じ続けたい。その先にこそ、神の国がまだ来ないという疑いを超えた、わたしたちがまだ見ない、神の国があるのです。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年5月25日
復活節第6主日 主日主題:イエスの祈り
聖書 マタイ福音書 6章1-15節
讃美歌21 210、494
「 かくれたところに 」
人前で祈るとき、わたしたちは誰しも緊張いたします。祈りの内容や言葉遣いに冷や冷やしながら祈る経験は多くの方が持っておられることでありましょう。大事なのは祈る心だ、祈りを神に託す信仰だ、と言われつつも、自分の祈りの言葉に、これでいいのかな?と思ってしまいます。プロテスタントは自分の言葉で祈る自由祈祷の伝統を持っておりますから、余計に自分の中で言葉を探してしまいます。詰め込みすぎると何を祈っているのか分からなくなりそうですし、あんまり削ると、これだけでいいのか、と不安になります。祈りは神に献げるものであって、人に聞かせるものではない、と言われても、いろいろ考えてしまうのは、わたしたち人間の本性でありましょう。
話題の映画『教皇選挙』では、当然ながら祈りの場面が何度も描かれます。映画の前半では、コンクラーベの始まる前日に枢機卿たちの集まった会食で新任の枢機卿が食前の祈りを祈ります。その時、彼は教皇選挙の裏方で働くシスターたちへの祝福や貧しい人へのとりなしも祈ります。この祈りは、おそらく映画全体の重要な伏線になっております。
イエスの教えは、当時の人々の意表を突く教えであることが多いです。しかしながら、それは律法について、さらには神と人の関係を、突き詰めたところから出てきたものです。奇をてらったものではありません。
今日のマタイ福音書では最初に施しについて語られます。施しは律法の精神に沿うものです。あるいは律法がどうであるなどと言わなくても、人間の自然な気持ちとしても大切なことです。
ところが当時は、イエスに依れば、自分が律法を守って施しをしていることを周りの人に注目させるような方法で行っていた人がいたのです。イエスは言います。「彼らは既に報いを受けてしまっている」と。言い換えれば、施しを見せびらかすことで、それは神の前で行う施しではなく、人々から賞賛を得るための施しになってしまっている、ということです。
マタイ福音書は、イエスの教えについて極端な方向に寄せる特徴があります。先週の25章の譬え話では、助ける相手は「小さい者」ではなく「最も小さい者」です。先々週の19章の出来事では、金持ちの青年が「律法の教えはちゃんと守っています」と言うのに対して、イエスは「完全になりたいなら」と言って突き放します。今日の教えもそうです。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエスが言います。そんなこと言われたら施しなんてできなくなる、と、逆方向の極端に走ってしまいそうになります。
祈りについての指摘も極端です。会議や礼拝の中で祈るのが益々こわくなる、と思いそうになります。施しについての教えと、祈りについての教えで共通しておりますのは、律法を守っていることを見せつけてはいけない、ということであり、隠れたところを神は見ておられるということです。
当時のユダヤの状況から言えば、隠れたところを神は見ていてくださるという教え自体は、多くの人が納得するところでありました。そもそも最後の審判という信仰が広く取り入れられた背景は、バビロン捕囚の解放から新約聖書までの時代に、律法を守り、信仰を守る人々が、その信仰によって支配者に殺される出来事が何度も起こったからでした。一方、律法を軽んじたり、信仰を捨てた人たちが、権力者にすり寄り、金持ちになり、のうのうと生きている、そんな状況があったのです。最後の審判の時に、強欲な権力者や異邦人の支配者が裁かれ、信仰を守る人が神様から祝福される、そのためには、神様がその人の隠れたところまでを見ていてくれないと困るわけです。
その上で、新約聖書の時代になりますと、ローマの支配下とはいえ、一応の政治的・宗教的な自由がありますから、ある種の信仰の緩みが起こり、最後の審判の信仰を取り入れたときの背景も忘れられ、施しや祈りを見せつける人が現れるようになるのです。
そこにイエスは厳しい批判を突きつけます。隠れたところにおられる神に祈りなさい、そうすれば神が報いてくださる、永遠の命の側に入れてくださる、とイエスは言うのです。
続いてイエスは「異邦人のようにくどくどと」祈ってはいけない、と言います。呪文のような祈りを批判したのでありましょう。そして、主の祈りとして今も祈られ続けている簡潔な祈りを弟子たちに教えます。
祈ることについて、イエスの教えから考えれば考えるほどに、心配になります。それだけに、祈りとは神に献げるもの、という基本だけ抑えれば、どのような言葉であっても、また、言葉にならなくても、それは祈りなのでありましょう。
映画『教皇選挙』の中で、印象的な祈りの場面をもうひとつ紹介して終わりましょう。投票を繰り返した選挙の最後、意外な人物が選ばれます。ところが、新教皇イノケンティウスにも重大な秘密のあったことが、教皇選挙の責任者である主席枢機卿ローレンスに密かに知らされます。ローレンスは新教皇の部屋を訪ねてその秘密について問います。秘密の核心を聞かされたローレンスは言葉を失って座り込みます。教皇は空いていた椅子を持ってきてその前に座り、黙って主席枢機卿の手を握ります。言葉にならない祈りの場面であり、「奥まった自分の部屋」での祈りでありました。祈りの持つ力をよく表す場面でありました。
わたしたちの日常を振り返れば、祈っても聞かれない、と思うことも度々ではありますが、祈りの持つ力を信じて、言葉選びに汲々とすることなく、迷いなく日々に祈り続けてまいりましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年5月18日
復活節第5主日 主日主題:父なる神への道
聖書 マタイ福音書 25章31-46節
讃美歌21 55、505
「 祝福された人たちは右に 」
この物語は最後の審判を描く譬え話の一つであり、福音書の中でも大変に重要かつ、よく知られた譬え話でありましょう。マタイ福音書に限れば一番有名な譬え話であると言ってもいいのかもしれません。教会学校・子どもの教会ではクリスマス劇の定番の一つでありましょう。この譬え話を元に書かれたのがトルストイの『靴屋のマルチン』(原題は『愛のあるところに神あり』)であり、日本でも何度か絵本になっております。
福音書の物語では、最後の審判のとき、すべての国の民が右と左により分けられる、と記されます。読み進みますと、右側に居る人たちは、善い行いをした人たちであり、しかも、それは相手が王であると意識して行ったのではなく、元々がそのような心がけを持っていて、自然にそうした人たちである、と分かります。その人たちは、永遠の命にあずかる、と語られて物語が終わります。
1989年の映画にカヴァーニ監督の『フランチェスコ』があります。アッシジのフランチェスコの生涯を描く映画です。一般的な映画紹介では軽く見過ごされる場面なのですが、フランチェスコの活動に影響された元盗賊が盗賊仲間に「なんとかして、死ぬ間際にはキリストの右側にいるようにしろ」と言います。なぜなら、キリストの右側で十字架についた盗賊は天国に行ったから。
実際の十字架の場面では2人の盗賊のうち片方がイエスをキリストと信じて死んでいきますが、それが右側だったとは、どの福音書にも書かれておりません。おそらく、この元盗賊の台詞の根拠が今日の福音書の譬え話なのでありましょう。譬え話から言えば、死ぬ間際に右側に行くだけではダメなような気もいたしますけれども、十字架の場面から言えば、間際でも間に合うのかもしれません。
左側に居る人たちは違う、とイエスは言います。左側に居た人たちの言うこと、すなわち、王の裁きの宣言に対する言い返しが、これまた興味深いです。彼らは言います。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。おそらくは、「それならば、あなたをお世話しないはずがありません」、と続くのでありましょう。ひょっとしたら、いついつに、あなたをお世話したではないですか、と言い始める人も出てくるのではないでしょうか。すると王すなわち再臨のキリストが言い返します。「最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」。
右側に居た人たちに掛けた言葉とちょうど対になっております。右側にいる人には、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と語り掛けております。右側に分けられた人たちは、「お前たちは世話をしてくれた」と聞かされたとき、「はて、そんなことがありましたか?わたしたちは知りませんよ」と言います。それに対する王の答えが、最も小さい者によくしてくれただろう、それはつまりわたしにしてくれたということなのだ、でありました。
左側に分けられた人たちの言葉を読みますと、王だったら助ける、と考えていたようです。それに対して右側の人たちは、分け隔てなく自然に助けております。それもどうやら、律法の教えを守ろうとして助けた、というようなことではありません。実はマタイは隣人愛ということに、ルカ(良いサマリア人の譬え話が有名)とはまた違った形で非常にこだわっております。この譬え話も、マタイ流にこだわった隣人愛の教えの部分があるようです。さらには、マタイは律法を大切にする一方で、律法を守って善いことを積み重ねる、という気持ちを持つこと自体が、イエスの教えから外れる、と思っていたのでありましょう。今風に言い換えれば、マタイの信仰では、天国に行けるかどうかはポイント制ではないのです。
困った人を助ける、善いことをする、本当に大切なことでありますが、一方、それは簡単なことではありません。日常の中で、助けを必要とする人に出会うこと自体は、多くありましょう。とはいえ、困っている人を助けることもあれば、助けたくてもその力が無いときもあります。時には、理由は様々あるにしても、そっとそばを通り過ぎることもあります。あるいは、出会ったことすら気付かないこともあるでしょう。単純にその回数をカウントされているとも思えませんが、神は私たちのどの姿を見てくださるのだろうか、と思います。
大事なのは、実際に助け得たかどうかではなく、そのような思いを常にもって生きることでありましょう。キリスト教の信仰では、わたしたちが神に近付く以上に、神がわたしたちに近付いてくださるのですが、それでも、わたしたちの側からもまた、神に近付こうとする信仰が必要です。冒頭に取り上げたトルストイの物語では、マルチンは最も小さい者たちをごく自然に助けていたことが見事に記されておりました。今日の譬え話でも、王の右に置かれて祝福され、永遠の命を与えられた人たちは、相手が王であるから、イエスだから、助けたのではありませんでした。イエスとは思えない人々を自然に助けていたのです。それが神に近付く道である、とイエスは主張します。
わたしたちも、それがイエスの教えだから、と身構えて助けるのではなく、自然に手を差し伸べられるような信仰を持つことができますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年5月11日
復活節第4主日 主日主題:イエスは復活また命
聖書 マタイ福音書 19章16-30節
讃美歌21 552、323
「 命を得たいのなら 」
永遠の生命は古来多くの人を惹きつけてまいりました。
現代でいえば、手塚治虫のライフワークとされる『火の鳥』が挙がりますでしょうか。『火の鳥』には、その生き血を呑めば死なないようになる、という台詞が何度も出てまいります。
生き血を求めて火の鳥を追い掛けることで死ぬ登場人物がある一方で、何某の理由で火の鳥から永遠の命を与えられる登場人物もあります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」を手塚は意識していたのかもしれません。
名前を残すことが永遠に生きること、という考えも古今東西に広くあります。日本では武家社会が家名の存続を大事にしたところは日本史の本に多く書かれております。
聖書に記された永遠の命は、これはまたなかなかに複雑です。最後の審判と復活の信仰は、永遠の命の信仰のベースになる信仰として、合わせてユダヤ教から受け継がれたものです。ユダヤ教の元々の信仰は、実はとても現世的な信仰です。アブラハム物語の中で、神ヤハウェは何度となく、土地を与える、子孫を与える、と約束しますが、死後のことの約束はしておりません。ただし、名前を残すという価値観は旧約聖書の中にも見られます。
イエスの時代には、復活信仰はすでに庶民の間では広く信じられるものとなっておりました。この男に対するイエスの答えでは、永遠の命とは何か?は自明の前提になっているようです。
後半の弟子たちとの遣り取りでは、名前を残す、の意味合いが強く出てきます。ローマ帝国の国教となるまでのキリスト教は、迫害と殉教を数多く経験します。殉教は命をかけて信仰を守り切ることですが、ステファノの名前が残されているように、そして他にも多くの殉教者が聖人として名前が残されているように、名前を残すという価値観とも、どこか共通したところがあります。
男との遣り取りに戻りますと、何をすればよいでしょうか?と問われたイエスは十戒の後半部分を答えます。十戒は、前半が神と人の関係、後半が人と人の関係について語ります。言い換えますと、後半は、社会的、倫理的な課題を語ります。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」。時代や文化を越えて、おおよそは普遍性を持つ戒めでありましょう。イエスは続けて、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ 19:18)を加えます。
自分はそれらの律法は守ってきた。まだ何か足りないところがありますか?と男が尋ねます。イエスは彼に対して厳しいことを答えます。施しはユダヤ教の教えの中でも重要なものの一つです。この男性も普段から施しは行っていたことでありましょう。
ところがイエスがここで言う施しは普通の施しではありません。財産を全部施せ、そうして身軽になったところでイエスの弟子となって一緒に行動せよ、と言います。聞かされた彼は悲しみながら立ち去ります。ユダヤ教では多くの財産を持つことは神の恵みです。つまり、神の恵みを手放せ、とイエスは言うのです。金持ちの青年が悲しみながら立ち去るのはユダヤ教的にはおそらく間違っていません。神の恵みを受けた金持ちが律法の定めに従って施しをすれば、復活の時には永遠の命を得る、と考えるのが当時の考え方です。キリスト教的にも、神の恵みを手放せ、と言われますとドキッとします。
その様子を見て居た弟子たちに向かって、イエスは「金持ちが天の国に入るのは難しい」と語り掛けます。ペトロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言います。ペトロたち最初の4人の弟子は漁師でした。舟と網を捨ててイエスに従います。金持ちとまではいかないかもしれませんが、舟も網も安いものではありません。福音書の読者としては、ペトロは今頃何をビックリしているのだ、という気もしますけれども、一面でこれはペトロの本音であったことでありましょう。そこでイエスは、ペトロたちこそ永遠の命を受け継ぐと教えます。
イエスは弟子たちとの遣り取りでいろいろと難しいことを言っております。前半の金持ちの青年との遣り取りと併せますと、神の恵みと思っているものに執着するな。手放してこそ見えてくるものがある、ということでありましょう。考えてみれば、イエスの御復活にもそのような一面があります。キリスト教ではイエスについて、神の子イエスと人間イエスの両面を見ます。
イエスは人間イエスとして、ゲッセマネで苦しみ、悩み、迷い、祈ります。捕まればタダでは済まないことは見えていました。ガリラヤでの働き、人々との関わり、様々な奇跡を思うと、エルサレムで殺されることは理不尽そのものでありました。エリコのザアカイのところに逃げることもできたでしょう。ベタニアのラザロのところでもいいのです。そうすれば、ほとぼりが冷めた頃にガリラヤに戻って神の国を知らせ続けることができるのです。しかし、そうしなかった。そしてユダの率いる群衆の手に掛かります。人間イエスとしての命を手放してこそ、神の子イエスとしての御復活の道が開けます。
現代の日本を生きるわたしたちには、命を張って殉教するようなことは起こらないでしょう。しかしながら、手放したくないものを、特に、神の恵みと思っているものを理不尽に手放させられることは何度もあるのではないでしょうか。その時、その先に何が見えるのか。そこでわたしたちの信仰が問われるのでありましょう。
その時、人間イエスとしての苦しみを経験された神の子イエスが、わたしたちを導いてくださいますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年5月4日
復活節第3主日 主日主題:新しい命
聖書 マタイ 福音書12章38-42節
讃美歌21 327、412
「 ヨナの徴? 」
あるとき、ヨナは神から命じられます。「アッシリア帝国の首都ニネベの罪深さに我慢ならなくなった。滅ぼすからそのことを預言しに行け」。アッシリアからすればヨナは外国の神を名乗る預言者です。そんなやつが滅びを預言する。馬鹿にされ、侮辱され、無視され、それでも預言し続ければ、うっとうしい奴として殺されるでしょう。ヨナとしては、サマリアの罪を指摘しに行って殺されるならまだしも、ニネベなんか滅びたらいいじゃないか。冗談じゃない、と思い、逃げ出します。
ヨナはニネベへ向かう陸路を取らず、地中海を渡って西へ行こうとします。ところが、船が嵐に遭い、ヨナは海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれて、三日を魚の腹の中で過ごし、イスラエルの近くの海岸に吐き出されます。これが「ヨナのしるし」です。そして、神はニネベで預言することをもう一度ヨナに命じます。ヨナはニネベに行き、滅びの預言を行います。すると、ニネベの人たちが悔い改めてしまい、滅びは撤回されます。
ヨナ書は、あまり知られていない預言者の名前を借りて神の救いを語る物語の一つです。ヨナ書の重要なポイントは、旧約聖書の神ヤハウェが、イスラエルだけではなく他の民族も救おうとしたことでありましょう。
マタイ福音書の12章は、安息日をめぐる議論に始まり、罪の赦し、癒やしの奇跡、などを通して、イエスとファリサイ派との対立が深まってゆきます。本来、奇跡はそれ自体が徴であるはずです。ところが、そこに神が律法に定めた安息日が絡むことで、ファリサイ派はイエスに対する不信を深めていきます。
そこでファリサイ派は、あらためて徴を見せてくれるようにイエスに頼みます。ファリサイ派にすれば、安息日を破るような奴が起こす奇跡を本当に受け入れていいのか?という思いはあるでしょう。そこで、イエスの起こす奇跡が本当に神の奇跡であるのか、悪霊の頭に依るものではない、そのことを証明できるような奇跡を起こして見せてくれ、と言い出しているのです。
それに対してイエスは、非常に冷たい言葉を返します。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」。ファリサイ派のことを「よこしまで神に背いた」人たちである、と言い放ちます。売られたケンカはいつでも買うぞ、という姿勢です。
そして、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と付け加えます。福音書はどれもファリサイ派のことをよく言いませんが、ここまで否定的な言い方はあまりありません。
続いてイエスは自分の復活を語ります。ヨナと同じように、自分も3日間、大地の中に居るだろう。自分の復活こそが、この時代に与えられた徴となる、と主張します。そこまでしてもお前たちは信じないだろう、という嫌みが混じっているように思えます。
イエスはさらに追い打ちを掛けます。「裁きの時」である最後の審判の時に、イエスを信じなかったファリサイ派が裁かれるだろう、という警告です。最後の審判の時には、悔い改めて神の救いを信じた異邦人であるニネベの人たちが、復活して「彼ら」すなわち「よこしまで神に背いた時代の者たち」を裁く、というのです。これは、初代教会からのユダヤ教に対する優越感のようなものを感じる、なんとも引っ掛かる物言いです。
続く「南の国の女王」は列王記上10章に記されているシェバの女王のことでありましょう。ソロモンの名声を聞いてエルサレムに来ますが、ソロモンの知恵と栄華に恐れ入ってシェバへ帰ります。彼女も最後の審判の時に復活して「彼ら」を裁く、というのです。彼女はソロモンを試みたものの、驚き入って彼の後ろ盾であった神ヤハウェの力を信じた、ということでありましょう。これまた本来異邦人であるシェバの女王が裁く側に付くのです。
鍵になりますのは、「ここに、ヨナにまさるものがある」と「ここに、ソロモンにまさるものがある」です。物語の流れを素直に読みますと、ヨナやソロモンにまさるイエスがいる、と読めます。ところが、この「もの」は、イエスの語る神の国を指すようです。
「ヨナにまさるもの」が神の国を指しているのであれば、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」は、他の徴を与えるまでもなく、あなたたちの目の前に神の国があるよ、あなたたちは今すでに神の国に生きているのだよ、と語っていることにもなりましょう。
神の国は、あなたたちの中にある、と明記したのはルカ福音書(17:21、ほか)でありますが、マタイ福音書も同じです。弟子たちが御復活のイエスに会えるのは、神殿や王宮のあるエルサレムではなく、弟子たちの生まれ育ったガリラヤでありました。
同じように、マタイ福音書の最初の読者たちにとって、イエスの語る神の国は、自分たちが生活している「ここ」に在るのです。だからこそマタイの信仰ではイエスはインマヌエル(1:23、クリスマス物語)なのです。
2000年の時を経たわたしたちも同じです。主の祈りにもありますように、御心が天において行われるように地にも行われること、それが神の国の一つの姿です。御復活のキリストに出会った者として生きるわたしたちが、御国の実現のために祈り続けるものであることができますように。そして神の栄光と御復活の神秘を賛美し続けることができますように。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年4月27日
復活節第2主日 主日主題:復活顕現
聖書 マタイ福音書 28章11-20節
讃美歌21 326、469
「 山に登った 」
イースターの翌日、教皇フランシスコが帰天されました。歴代の教皇が、世界のキリスト教の動向に強い影響をい持つ指導者であり、信仰の道筋を体現する人物であることには、プロテスタントとカトリックの違いはありません。南米出身の教皇は史上初めてでありました。イエズス会出身も初めてです。彼が選んだフランシスコという教皇名はアッシジのフランチェスコから取った名前です。まさにその教皇名の通りに歩んだ人でありましょう。
次の教皇を選ぶコンクラーベのことが話題になっております。一つには公開中の映画「教皇選挙」です。原題はそのまま“CONCLAVE”。次の教皇はどのような人物が選ばれますでしょうか。
さて、4つの福音書は、復活されたイエスと弟子たちとの出会いの場面をそれぞれに異なって記します。マタイ福音書は、墓の前でイエスに出会った2人のマリアが、天使とイエス御自身の指示に従って、男の弟子たちにガリラヤへ行くようにと伝え、11人はガリラヤでイエスと会った、と記します。ガリラヤでの再会までにどれほどの時間が経ったのか、マタイは記しません。イエスの昇天についても何も記しません。
ガリラヤに帰った弟子は11人でありました。12人から1人減っておりますのはイスカリオテのユダです。主の御昇天を記さないのとは対照的に、ユダのその後をマタイは記しております。イエスに死刑が宣告されますと、ユダは受け取った銀貨30枚を神殿に投げ込み自死してしまいます。ルカが記しました使徒言行録では、ユダは事故死したことになっております。いずれにせよ、イエスの十字架の死からまもなく、ユダは命を落としたようです。
イエスの埋葬の準備を行ったニコデモやアリマタヤのヨセフについても福音書記者たちは記しません。彼らも御復活のイエスに会えたのでしょうか。
11人の弟子たちはガリラヤに帰ります。彼らは元々エルサレムには過越祭の巡礼者として来ているのですから、ガリラヤに帰るのが自然ではあります。そして、どの山であるかは記されませんが、指示された山に登ってイエスと再会します。御復活のイエスは弟子たちに世界宣教を命じます。伝説としてであれば、トマスはインドまで来た、と新約外典が伝えます。
使徒言行録では、ペトロがカイサリアでローマ人コルネリウスに宣教し(10章)、ヤッファではタビタを生き返らせます(9章)。パウロ書簡を見ますと、パウロと衝突したときに(ガラテヤ 2:11-12)、ペトロはアンティオキアに居りました。
ペトロが夫婦で各地を宣教したこともパウロは記します(1コリント 9:5)。ただ、使徒言行録もパウロ書簡も地中海周辺のローマ世界の中のことになります。実際に弟子たちがローマ世界を飛び出すのはさらに後のこととなります。しかしながら、それはたしかに、イエスから弟子たちが命じられたことでした。
マタイは福音書を「世の終わりまでいつもあなたがたと共に居る」というイエスの言葉で締めくくります。マタイ福音書のクリスマス物語は、メシアの誕生を告げる預言者イザヤの言葉としてインマヌエル(神が共に居られる)を語ります。福音書の最後には、これがイエス自身の言葉として語られます。
これは、マタイの信仰としてイエスが共に居られることが如何に大切なことであったか、を物語っておりましょう。マタイ福音書は復活のイエスが天に昇る場面を描きません。マタイにとって、イエスはマタイの時代にも今もなお、共に居てくださる主、インマヌエルの主、であったのです。
わたしたちの信仰においても同じでありましょう。姿は見えず、声も聞こえなかったとしても、今もなおイエスは、弟子であるわたしたちと共に居てくださる主、インマヌエルであることをマタイ福音書は語り伝えます。
今日の一番大事な要点は、インマヌエルであるキリスト、ということでありますが、もう少し話を広げていきましょう。
マタイは、ガリラヤでこそ弟子たちは御復活の主に会わなければならない、と考えております。弟子たちにすれば、エルサレムは神殿のある聖なる都です。ダビデ以来のイスラエルの都です。しかしながらそこは彼らの生まれ育った土地ではありません。彼らの生活の場ではありません。弟子たちが、生まれ育ち、生活の基盤を持つガリラヤこそ、弟子たちにとっての、帰る場所であり、宣教へと旅立つ場所であり、御復活のイエスに出会う神の国なのだ、とマタイは主張しております。
さらに言えば、マタイは、福音書の読者に向かって、エルサレムではなく、あなたが生きているその場所こそが、イエスに出会える場所であり、神の国であるのだ、と語りかけてきているのです。そのことはマタイ自身の思索の結果でもあり、マタイの教会の人たちの信仰のよりどころでもあったことでありましょう。
わたしたちが今を生きる場所こそが、わたしたちにとってのガリラヤでありましょう。今を生きる場所こそが、御復活の主に出会うガリラヤの山なのです。山の名前が記されていなかったのはそのためでありましょう。ガリラヤの山に登って御復活の主に日々出会いつつ、キリストに出会った者としての人生の日々を重ねてまいりましょう。
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主が私たちに平安を賜りますように。