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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2026年2月22日
受難節第1主日
聖書 マルコ福音書 13章14-27節
讃美歌21 464、352
「 終わりのしるし 」
今日の箇所は、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という意味深な言葉から始まります。祭司しか入ってはならない神殿の聖域に、破壊者が立つ、とても恐ろしい光景です。マルコ福音書の最初の読者たちは、ここでユダヤ戦争を否応なく思い起こします。わたしたちの感覚で言えば何が近いのかな?と思います。やはりウクライナやガザでの出来事でありましょうか。
御存知のように、ユダヤ戦争はガリラヤとユダヤの全土がローマ軍に蹂躙され、エルサレム神殿が炎上して終わります。廃墟となったエルサレムにローマの軍人が立つ姿が、この言葉の第一の情景です。
またヨセフスに依れば、ユダヤ戦争が始まる時、エルサレム神殿は反乱を率いた「強盗」たちに占領されておりました。ローマの軍人が立つ前に、ユダヤ人かもしれないけれども、祭司ではない、従って神殿の聖域に入る資格を持たないはずの暴徒たちがそこに立っていたのです。それがこの言葉の第2の情景でありましょう。この2つがマルコの読者が思い描く出来事です。
歴史的には、イエスと同時代の人たちが思い浮かべたのはマカバイ戦争でありました。「憎むべき破壊者」という言葉は、直接には(マカバイ戦争と同時代の)ダニエル書からの引用です。マルコ福音書の黙示録とされるこの13章には、ダニエル書からの直接間接の引用が他にもあります。
どの戦争を思い浮かべたにせよ、その時には、戦争や内乱に関わることをせず、すみやかに逃げなさい。神殿が汚され、ユダヤ全地が戦乱に巻き込まれるような苦難は必ず起こる。しかもその時には、偽メシアや偽預言者が何人も現れるだろう。彼らに惑わされてはいけない。とイエスが語ります。
このマルコ13章の預言は、イエスの神殿崩壊預言を受けて、世の終わりは何時来るのですか?その時にはどんな徴がありますか?と尋ねた弟子たちの問いから始まっています。サラリとこの箇所を読みますと、「憎むべき破壊者」の出現が世の終わりの徴と思いますが、偽メシヤの話が始まりますと、惑わされるな、彼らを信じるな、気をつけよ、と何度も念押しをされてしまいます。
振り返りますと、5節と9節でも「気をつけなさい」という言葉が繰り返されています。「惑わされるな」という警告も5節と22節で繰り返されます。これらの言葉に注目しますと、神殿が破壊されるような一連の苦難は世の終わりの徴のように見えるけれども、決してそうではない、ということでありましょう。
そう思って読みますと、今日の冒頭14節の「読者は悟れ」という、おそらくはマルコ自身によるイエスの言葉への割り込みも、世の終わりの徴ではないことを悟れという意味を含ませているらしいと読めます。
考えてみますと、キリスト教の2000年の歴史の中で、人々が、これはいよいよ世の終わりか?と思うような戦争や内乱や地震や飢饉は何度もありました。その混乱に乗じて、偽メシアや偽預言者が現れたこともあったはずです。わたしたちの知るところでも、たとえば、大きな震災、阪神淡路の1.17や東北の3.11の時には、様々なデマが飛びました。天罰と言って顰蹙を買った人もいます。しかし世の終わりが来ることはなく、歴史は続いてきたのです。人間として見てはいけないモノを見てしまった、と思うような光景であっても、世の終わりの始まりではなかったのです。
では、世の終わりの徴は何か?という弟子たちの問いが残ります。これらの苦難そのものではないとしたら、いったい何が徴なのか?そこで24節以降の言葉が示されます。
「太陽は暗くなり、月は光を放たず」。日食や月食は古代社会では一般に不吉の徴と言われておりました。むしろ、それ以上に、昼と夜を象徴する太陽と月が全く失われることなのでしょう。
「星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。原文は複数形です。ポツンと流れる流れ星ではなく、次々に落ちてくるイメージです。これはあるいは、何百年に一度というような大流星雨の記憶が語り継がれているのかもしれません。
所詮は人間が起こしている戦争や内乱のようなものではなく、天地創造の秩序が崩れてしまうような、最初に天と地に分けられたこの世界が再び「混沌・カオス」に戻ってしまうような、それほどの出来事が起こった時が終わりの始まりと言いたいのでありましょう。その時、栄光と共に現れる人の子、すなわちキリストの再臨する。それこそが世の終わりの徴だ。とイエスは語ります。
一方で興味深いことには、イエスの再臨が語られ、選ばれた人が呼び集められる、と記されておりますものの、ヨハネ黙示録と異なり、地獄絵図が語られるわけでもなく、きらびやかな天国の様子が語られるわけでもありません。ヨハネ黙示録が世の終わり=最後の審判として語られるのに対して、マルコ福音書の黙示録は世の終わり=再臨であることに強く注目します。
以来2000年、いまもってキリストの再臨は起こっておりません。元を正せば、パウロもイエスも、もっと早いと思っていたのです。しかし、まだ、起こっておりません。徴を探したり、徴を恐れたりするのでなく、しかしながら、いつ起こってもいいようにキリストの再臨を信じて歩んでいきたい。大切なのは、いつ起こるかではなく、起こったときに、しっかりと神を見上げて生きているかどうかなのです。
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主がわたしたちと共に居てくださいますように
苦難の時にそばに居てくださいますように