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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年4月13日
受難節第6主日 棕櫚の主日
聖書 マタイ福音書 21章1-11節、ゼカリヤ書 9章9-10節
讃美歌21 309、280
「 諸国の民に平和を 」
受難週の出来事として福音書には実に様々な事柄が記されます。イエスが実際に活動したのは、1年もしくは3年と言われております。それがおおよそ1年であったなら、その最後の1週間について、マタイ福音書はおよそ3割のページを使っています。マルコ福音書に至っては4割を超えます。
初期の教会にとって、イエスの御受難がいかに強烈な体験であり、多くのことが語り伝えられていたことを示します。もっとも、十字架の福音に極度に集中したパウロの影響を思えば、それでも福音書の半分以上はイエスの教えや奇跡による救いを伝えている、と考えることもできますが、受難物語が福音書の重要な部分を占めていることには違いありません。
さて、先ほど読みましたマタイ福音書はエルサレム入城の記事す。その中に引用されているのが、もう1箇所読みましたところのゼカリヤの預言です。
過越祭に参加するためにエルサレムを目指してガリラヤからの旅をしてきたイエスの一行でありますが、いよいよエルサレムを目の前に見るオリーブ山に到着します。オリーブ山は高い山ではなく、むしろ、南北に長い台地という方が当たっております。
エルサレムも高台の上にある町です。オリーブ山とエルサレムの間はキデロンの谷と呼ばれます。オリーブ山からキデロンの谷越しに西の方を見ますと、エルサレムの町全体がよく見えるわけです。町全体のその東の端、一番手前に見えているのがヘロデが大きく改築した神殿でありました。現代のエルサレムの写真でも、神殿はイスラムのモスクに変わっておりますけれども、オリブ山からエルサレムの町が見渡せることは変わりません。
一行がオリブ山に来たとき、イエスは2人の弟子にロバの調達を命じます。あらかじめ話を通してあったのでしょうか。誰かが何かを言ったら「主がお入り用なのです」と答えればいい、と指示します。これは過越祭の時の出来事です。エルサレムには各地から多くの人が巡礼に訪れています。そのような時にはロバ泥棒も居たことでありましょう。福音書が記すところの、誰かに咎められたら、おどおどせずに堂々と「主がお入り用なのです」と答えろという指示は、あらかじめ示し合った暗号でもあり、それ以外の人にも、大丈夫と思わせる効果があったのでありましょう。
2人の弟子が、「向こうの村」に行きますと、言われたとおりの出来事が起こります。2人がロバを連れてきますと、弟子たちは、ロバの上に服を掛け、その上にイエスが乗ります。
いよいよエルサレムの町に入ってゆくと、群衆が自分の服や木の枝を道に敷きます。列王記(下9:13)に似た出来事が記されております。預言者エリシャがイエフという人物を訪ねます。そしてイエフに油を注ぎ、次の王はあなただ、と伝えます。それを聞いたイエフの仲間たちが、自分たちの上着をイエフの足下に敷いてイエフの即位を宣言します。
ロバに乗ってエルサレムに入ろうとするイエスの足下に群衆が服を敷くことは、イエスが油注がれた王・メシアであることを群衆たちの意思として表しているのです。その時の群衆の叫びも同じ事を意味しています。「ダビデの子にホサナ」。これはイエスがメシアであることを群衆が認めているのです。
支配者であるローマ帝国としては、これは見過ごすことのできない出来事でありました。過越祭が出エジプトを記念する祭りであるということは、イスラエルの民族としての再出発を祝う祭りでもあります。愛国心が高まる時です。ローマ帝国としては、ガリラヤ地方は何度も大規模な反乱を繰り返すやっかいな地方でありました。ガリラヤから来た預言者が民衆から大歓迎されている、となると極度の警戒態勢に入ることは当然でありました。
ところがその預言者はロバに乗って現れます。群衆が大騒ぎしているように、ローマからの解放を目指す、ローマへの反乱を先導するようなメシアであれば馬に乗らなければなりません。群衆とイエスの思いは大きくすれ違っておりました。
イエスの言葉を丁寧に見ていきますと、「平和ではなく剣をもたらす」という物騒なことを語っている場面もありますが(10:14)、しかしながら、いよいよエルサレムに到着したときには、馬ではなくロバに乗っておりました。ことさらに軍事的なメシアなのではなく、平和を求めるメシアであることを、イエスは分かりやすくその行動で表したのです。
マタイは、イエスのその行いにゼカリヤの預言の成就を見ました。4つの福音書で、この場面にゼカリヤの預言を明確に引用しているのはマタイだけです。これはマタイがそれほどに諸国の平和と諸国の人々の平安を願っていた、ということではないでしょうか。
そうであるならば、わたしたちもまた、ロバに乗るイエスの姿に平和と平安の願いを祈り続けたいものです。キリストによってもたらされた平和と平安が、神によって命を与えられたすべての人に届きますように。
合わせて読みたい(入城ではなく御受難の聖書日課)
哀歌 5:15-20、1コリント 1:18-25、
詩編 118:19-29、マタイ 27:32-56
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年4月6日
受難節第5主日 主日主題:十字架の勝利
聖書 マタイ福音書 20章20-28節、ローマ書 8章11節
創世記 25:29-34、ローマ 8:1-11、詩編 118:1-9
讃美歌21 469、406、81
「 一人は右に、一人は左に 」
ゼベダイの息子たちとは、12弟子の中のヤコブとヨハネの兄弟です。12人の直弟子の中でも最初の4人の中の2人です。
先回りして、その後のヤコブとヨハネについて見てみていきますと、ヤコブは使徒言行録12章に、ヘロデによって殺されたと記されます。このヘロデは大王の息子の一人アグリッパ(1世)です。その記事に依りまして、ヤコブは紀元42年頃、12人の弟子の中で最初に殉教した、と伝えられております。
一方、ヨハネは、ヤコブとはずいぶんと異なった伝承が伝えられております。初期の教会の伝承では、ヨハネは殉教を逃れて長生きした。そして、ヨハネ福音書とヨハネの手紙を記した、とされるようになります。特にヨハネ福音書との関わりから言えば、ヨハネ福音書に特徴的な表現であるところの「主に愛された弟子」がヨハネのこととされます。もっとも、ヨハネ福音書が記されたのは、4つの福音書の中でも一番遅く、早くても紀元90年代、おそらくは2世紀に入ってからと言われておりますので、現代では直弟子ヨハネが著者であるとは考えられておりません。
ヤコブとヨハネは、ペトロとアンデレと並ぶ重要な弟子たちでありました。この2人が、イエスが神の国であるイスラエルを建て直すとき、イエスがその国の王座に就くとき、一番重要な地位を与えてください、と願うのです。
それに対してイエスは「わたしが飲む杯を飲めるか?」と問います。後の時代になって福音書を読む読者たちは、これが主の御受難を指していることが分かっています。「飲めます」と答えたヤコブとヨハネが、この後の成り行きを見通していなかったことも分かっております。マタイ福音書だけではなく、どの福音書も、実は弟子たちはイエスのことを結局はどうやらあまり理解していなかった、というニュアンスで記します。
イエスの言う「杯」についても思い違いをしていたようだ、と分かります。ヤコブもヨハネも、このあとの過越の食事の杯を思っていたのでありましょう。最後の晩餐の言葉を丁寧に読みますと、マルコ、マタイ、ルカ、いずれも杯は単数形です。イエスは一つの杯を取って弟子たちに示し、ここから分け合って飲みなさい、と命じております。過越の食事が全てそうであったかどうかは別として、最後の晩餐の杯は一つであった可能性、つまりイエスと弟子たちが回し飲みをした可能性の方が大きいでしょう。まさに、イエスの杯をみなで飲むわけです。
ヤコブとヨハネが、この後の過越の食事の時の杯をイメージして、「飲めます」と言ったことは、十分にあり得ることです。
イエス自身は、この時すでに自分が十字架への道をたしかに歩んでいることを知っていたでしょうから、ヤコブとヨハネも同じような苦しみに遭うだろう、と考えた上で、「たしかに、あなたがたはわたしの杯を飲むのむことになる」と答えていきます。
大事なのはその続きの言葉でありましょう。イエスは、「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」。それは父なる神が決めることだ、と言います。よく似たイエスの教えを思い起こします。マタイ福音書の24章と25章は、終わりの日についてのイエスの言葉が集められています。その中でイエスは、終わりの日がいつ来るのかは、自分も知らない、天使たちも知らない。知っているのは神だけである、と語ります(24:36)。
その続きでイエスはこうも語ります。「24:40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。
ヤコブとヨハネが、片方は早くに殉教し、片方は12人の中でも最後まで生きて、イエスの教えを語り続けた、という伝承と、妙に符合いたします。
さて、あとの10人が騒ぎ出しますと、そこでイエスが教えを語り始めます。一言で言えば、逆転の教えです。神の国における逆転は、福音書に記されたイエスの教えとして何度も繰り返されております。神の国における逆転の信仰は、ユダヤ教の信仰として、イエスの時代には既に広く信じられておりました。弟子たちが知らないはずはないものです。ただそれが、自分たち自身の身の回りのこととなると、誰がいい地位に就くのか?といった欲目によって覆われてしまう、かき消されてしまう、そのような哀しい現実があったわけです。
神の国における逆転の最大のものは、イエスの十字架の死と復活でありましょう。これは直弟子たちよりもパウロが確立してゆく信仰です。十字架による処刑はローマ帝国への反逆者に対する処刑でありました。本来ならば、イエスの死と共に弟子たちの集団も、イエスの教えも、歴史の中に消えてもおかしくなかったのです。しかしながら、イエスは御復活し、弟子たちも立ち上がるのです。そして、イエスを御復活の主とあがめるキリスト教の歴史が始まるのです。
そこには、マタイ福音書が繰り返して記しますように、神が共に居られる、御復活の主が共にいてくださる、インマヌエル、という信仰なくしては説明できない事柄が起こり続けるのです。
その信仰の系譜に繋がる者として、キリスト共に、4月からの新しい歩みを重ねてまいりましょう。
合わせて読みたい
創世記 25:29-34、ローマ 8:1-11、詩編 118:1-9
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マラナ・タ教会主日礼拝 2025年3月30日
受難節第4主日 聖書朗読と賛美の礼拝のため説教なし
聖書朗読と賛美
聖 書 マタイによる福音書 20章17~19節
讃美歌 394「信仰うけつぎ」
聖 書 マタイによる福音書 22章34~40節
讃美歌 289「みどりもふかき」
聖 書 マタイによる福音書 26章6~13節
讃美歌 120「主はわが飼い主」
聖 書 マタイによる福音書 26章17~30節
讃美歌 79「みまえにわれらつどい」
聖 書 マタイによる福音書 26章36~46節
讃美歌 300「十字架のもとに」
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年3月23日
受難節第3主日 主日主題:受難の予告
聖書 マタイ福音書 16章21-24節、1ペトロ書 4章12-13節
讃美歌21 403、196
「 振り向いてペトロに 」
御一緒に読みましたのは、イエスがエルサレムでの受難に向けて歩み出そうとする場面です。すぐ前にはペトロの信仰告白の場面と、それに続く天国の鍵の場面があり、すぐ後ろには主の変容の場面があります。そのような重要な場面に前後を挟まれる形で、弟子たちに向けての最初の受難予告が語られます。
あなたこそメシアです、と答えたときのペトロは、それまでのイエスの活動を振り返って自信に満ちて答えたのでありましょう。
その直後にイエスは、自分は殺されるだろう、と言い出します。イエスが神の国を伝える宣教活動を行ったガリラヤは、豊かな生産力を持つ一方で、エルサレムやローマからの政治的経済的支配と経済的搾取の対象でありました。当然ながら、その支配と搾取に対する反感は根強いものがありました。
ヨセフスに依りますと、ガリラヤにはエルサレムよりもピュアなヤハウェへの信仰がありました。それが異教徒ローマ人による支配に対する反乱の大きな要因であり、同時にエルサレムの支配者たちへの強い反感をガリラヤの人々は持っておりました。
弟子たちにすれば、それまでにもファリサイ派や律法学者との衝突はあったにせよ、ガリラヤでのイエスの活動は人々に受け入れられておりました。わざわざエルサレムに行って波風を立てることはない、と思っても不思議はありません。ましてやエルサレムに行くことで殺されてしまうのなら、このままガリラヤでの活動を続けてほしいと思ったことでありましょう。
「あなたこそメシアです」と弟子一同右代表で答えたペトロが、今度は、同じく弟子代表として「そんなことはあってはなりません」と言い出します。それに対してイエスは厳しい言葉を返します。ペトロはイエスの行いを邪魔している、というのです。
「邪魔をする者」の原語はスカンダリオンです。スキャンダルの語源です。元々の意味は道ばたの石です。そこから、罠に掛ける、つまずかせる、というように使われ、そこからさらに、聖書の中の意味合いとして、罪に誘う、という含みでも使われます。マタイ福音書を先まで読みますと、18章(6-9節)では、同じ言葉が「つまずき」と訳されています(26:33も)。
ペトロがスカンダリオンである、というのはマタイ福音書だけが記す言葉です。あるいはマタイが付け加えたのかもしれません。しかしながら、躓きの石、邪魔をする、罠に掛ける、罪に誘う、たしかに、そのどのニュアンスも含まれる文脈であると思えてきます。マタイは実に絶妙な言葉をここに残しているのです。
イエスがメシアであるならば、エルサレムに行き、ガリラヤを搾取する権力者たちに立ち向かうのは、当時のガリラヤの状況に鑑みて、辿り着くべき当然の結論であったのでしょう。そして、権力者たちを怒らせれば、そこに命の危険があることもまた当然ながら読めたことでありましょう。
それでも、イエスの使命として、神の御心として、イエスはエルサレムを目指します。神ヤハウェに対する真剣な信仰を持つガリラヤの人たちを現状のままに置くことはあってはならない。それは、神がガリラヤを見捨てることであり、神自身の義しさに背く事柄である、すなわち、神御自身が罪に陥る事柄である、とイエスは判断したのです。
この後、イエスは弟子たちの先に立ってエルサレムへ向かいます。もっとも、実際のところ、今日の場面でイエスがペトロを振り向くのは無理があるでしょう。それでも、この先の受難へと向かう旅を福音書が描くとき、イエスは弟子たちの先を進み、そして弟子たちには自分について来るように、と語りかけるのです。
今日はペトロの手紙も読みました。実際には時代的にペトロが書いた可能性はありません。ただ、いかにもペトロらしい思いが記されていると言えましょう。ペトロは、御復活のイエスから(これはヨハネ福音書が伝えるところに依りますが)、どこまでもイエスについて来るように命じられ、イエスに従うことを返事します。
受難節の最初には荒れ野の誘惑の出来事を読みました。イエスの宣教活動には、その最初から最後まで様々な誘惑がありました。弟子たちも同じです。キリストに従う人生を歩むとき、弟子たちには様々な誘惑や試練がありました。ペトロの時代だけではなく、わたしたちの時代になってもそれは変わりません。
わたしたちがイエスに従う信仰者として歩むとき、スカンダリオンは実に様々な形で、実に様々なときに、わたしたちの目の前に現れます。様々なスカンダリオンに備えておくことはもちろん必要ですが、その時、イエスは共にいてくださるメシア、インマヌエルであるのです。
神の御心を実現するために、エルサレムでの受難へと、あえて歩み始めたイエスは、わたしたちが試練や誘惑につきまとわれるその時、わたしたちと共に居てくださり、わたしたちがキリストを信じるその信仰に応えて、平安を調えてくださることを、わたしたちはいつも思い起こして歩んでまいりましょう。わたしたちが誘惑や試練に遭うとき、先を進まれたイエスは、振り向いて、わたしたちを神の国へと導いてくださるのです。
合わせて読みたい
マタイ 16:13-28、1ペトロ 4:12-19
ヨブ 1:1-12、詩編 86:5-10
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年3月16日
受難節第2主日
聖書 マタイ福音書12章26-28節、イザヤ書35章1-4節
讃美歌21 392、528
「 シャロンのかがやきに 」
天地創造物語で語られたエデンの園が楽園であった理由は、おそらくは、四季折々の果物が採れることにあったのであろう、と想像できます。ヨハネ黙示録の最後に出てまいりますところの、新しいエルサレムも同じです。「年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる」。と、一年を通して収穫のあることが明示されます。
これはやはり、聖書の世界が、乾燥気候の地域であって、人間が採って食べることのできるのは、限られた種類の木であった、ということを背景としておりましょう。
イザヤは、まず、荒れ野、荒れ地、砂漠、に呼び掛けます。そして、花を咲かせよ、と命じます。荒れ地は輝き、それを見た人々は、その輝きに神の栄光を見るであろう、とイザヤは預言いたします。人々が見た神の栄光は、見るだけではありません。人々に向けてイザヤはさらに語ります。「神の業を見よ、あなたたちの神が来て、あなたたちを救うであろう」と。
イザヤがどの時点でこの預言を語ったにせよ、第1イザヤ自身も、何事もない時代に預言を語ったのではなく、南王国の危機の時代に預言を語っております。イザヤは常に、敵を討ち、イスラエルを救う神の来たることを預言しているのです。そうして導き出された民の住む約束の地こそが神の国である、と語ります。
マタイ福音書に移りましょう。あるとき、イエスは悪霊払いの奇跡を起こします。見ていた人々は、「この人はメシアではなかろうか」と言い出すのですが、一方、ファリサイ派の人は嫌みを言います。それに対してイエスは「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなことをしたら、サタンの国は成り立たない」と言って突き放します。
さらにイエスは厳しい皮肉をファリサイ派に返します。イエスの言葉の続きをみますと、「あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出すのか?」と問います。ファリサイ派の中にも悪霊払いをする人が居たようです。当時、悪霊憑きは珍しくない出来事であり、それだけに様々な人が悪霊払いをしていたのでありましょう。
その上で、では、ファリサイ派は、神の力で追い出しているのか?サタンの力で追い出しているのか?と問い返しているのです。ファリサイ派の悪霊払いでありますから、それはもちろんのこと、当然、神の力で追い出している、と認められておりましょう。
そうならば、メシアであるイエス自身の悪霊払いは、ましてや神の力によって行われている、というのがイエスのロジックです。
そしてイエスは、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と語ります。イエスは、癒やしを必要とする人だけではなく、イエスを、批判する、あるいはイエスの奇跡を悪意を持って見つめるファリサイ派すらも、イエスがそこに居る限り、神の国の中に居るのだ、と主張するのです。
出エジプトの時と同じように、民は神に導かれて、約束の地へと帰ってくる。とイザヤは語ります。実際には、北王国も南王国も、預言者たちが語るような神の国とは言いがたいのですが、しかしながら、それでも、約束の地への旅は喜びであり、約束の地は、神の国でありました。それは、神の栄光によって、砂漠の荒れ地に、一面に野の花が咲く世界でありました。
今日のタイトルはイザヤの預言からとりました。「砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と描かれます。
レバノンは上質の木材である香柏が有名です。カルメルは古来からの聖地です。シャロンは肥沃な平地です。イザヤは、神の救いが来るとき、人々はシャロンの豊かさを目にするだろう、政治的にも経済的にも平安が訪れるだろう、と語ります。今日の預言では明言されませんけれども、イザヤもまた、神の御心と共に生きることを人々に求めます。
いつものように、最後にわたしたちに戻って終わりましょう。マタイ福音書は、イエスがインマヌエルであること、すなわち、主が共に居られることを、繰り返して語ります。今日の物語を伝えるマタイは、イエスが共に居てくださることが神の国なのだ、イエスが共に居てくださるという状況が神の国なのだ、と主張いたします。イザヤの預言を聞いた人たちにとっても、神の国とは神が共に居てくださることでありました。
わたしたちは神の国に居るのでしょうか?わたしたちの周りには、悪霊憑きや悪霊払いは、ほとんどありません。イエスの悪霊払いが起こらなければ、そこは神の国ではないのでしょうか。それでは変です。イエスの働きのすべてが、神の霊によるものであると信じること、それこそが、その時、その場所が、神の国であるかどうかの分かれ目である、とマタイは言おうとしております。わたしたちも、イエスを信じる、そのことによって、今という時を、今を生きている場所を、神の国とすることができるのです。
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と語るイエスの言葉を心に置いて、受難節の日々を歩んでまいりましょう。
合わせて読みたい
イザヤ 35:1-10、1ヨハネ 3:1-10、
詩編 130:1-8、マタイ 12:22-32
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2025年3月9日
受難節第1主日 主日主題:荒れ野の誘惑
聖書 マタイ福音書 4章1-4節、ヤコブ書 1章12-18節
讃美歌21 510、377
「 良い贈り物は神から 」
ギリシャ神話の有名な物語に「パンドラの壺」があります。パンドラが持っていた壺の中に、神々から与えられたありとあらゆる贈り物が入っておりました。パンドラという名前自体が、「すべての贈り物」という意味です。しかしながら壺の中身の多くが邪悪な贈り物、人類の不幸を招く贈り物でありました。パンドラは好奇心に駆られて禁じられた壺を開けてしまい、人類の様々な不幸や邪悪な気持ちや行いが世に放たれてしまった、とされます。
さて、先週の水曜日が今年の灰の水曜日でありました。教会暦の期節は受難節に入っております。多くの聖書日課では、受難節の最初の日曜日に、荒れ野の誘惑の出来事を読みます。
40日にわたる断食の後、誘惑する者(悪魔)が来ます。そして悪魔は言います。「空腹なら石をパンに変えたらいいだろう。神の子ならできると思うんだがどうだね。なんで今までやらなかったんだ?」と。しかし、イエスはそれを拒否します。石からパンを作る奇跡は結局一度も起こされておりません。
パンとワイン、と考えるならば、水からワインを作る奇跡もヨハネ福音書に記されたカナの婚礼の出来事だけです。最後の晩餐の時に分けられたパンとワインも買ってきたものでありましょう。
福音書には癒やしの奇跡が数多く語られます。何某の物語として記されたものだけでもマタイ福音書には13ほどあります。そのほかにも、多くの病人を癒やした、とだけ記す奇跡もあります。
当時の状況を考えれば、癒やしの奇跡を必要とする人と、毎日の食べ物がない人は同じぐらい居たことでありましょう。それなのに、パンを増やす奇跡は2回記されるだけであり、パンを作る奇跡は一度も記されません。むしろ、荒れ野の誘惑の記事によって強く否定されます。
イエスの起こした奇跡には、エリヤやエリシャの奇跡物語の影響が強くあると言われております。エリヤやエリシャの奇跡は癒やし系と食べ物系の数はさほど変わりません。ところがイエスは、癒やしの奇跡を彼らよりも多く行う一方で、食べ物に関する奇跡をほとんど起こしていないのです。イエスの時代には、治らない病気や、様々な障害は、罪に対する神からの罰・神からの呪い、と考えられておりました。イエスが食べ物の奇跡の回数よりも多くの癒やしの奇跡を行った背景はそこにありましょう。神が与えるのは呪いではなく、慈しみである。神が与えるのは罰ではなく恵みである。神が与えるのは慰めであり平安である。その時、神の国が実現する。とイエスは考えていたのでありましょう。
今日はこの後、讃美歌21の377番を歌います。歌い継がれてきたルターの賛美歌であり、詩編46編を元にしたルターの説教に合わせて作られた賛美歌です。第2次大戦後のドイツにおける詳細な研究の結果、この賛美歌は、悪魔に対する勝利を歌うのではなく、悪魔の襲撃に苦しむ教会と信仰者に対して、神の恵みとキリストの十字架の勝利を歌っていることが明らかにされています。
その研究の結果、この賛美歌は「慰めの歌」として位置づけなおされ、ドイツの教会の聖書日課では受難節第1主日の賛美歌とされるようになっています。(『讃美歌21略解』1998より)
マタイ福音書に戻りましょう。
イエスの公生涯において、ガリラヤ宣教の時、エルサレムでの受難の時、様々な誘惑が常にあったことは容易に想像できます。ガリラヤでは多くの人が集まります。イエスを王に担ぎ上げようとする人たちも現れます。イエス自身はそれを嫌ってその場を離れますが、弟子たちの中には、その誘惑を免れなかった人が居ます(20:20-28)。エルサレムでの最後の誘惑は、過越の夕食(最後の晩餐)のあと、オリブ山からそのままエリコ(ザアカイ)もしくはベタニア(ラザロ、マルタ、マリア)へと逃げてしまうことでした。
宣教活動の最初に荒れ野の誘惑に遭い、それを乗り越えたイエスは、誘惑の怖さを知っており、誘惑に立ち向かうのに大きなエネルギーの必要なことを知っておりました。そして御自身だけでなく弟子たちにも様々な誘惑があり、誘惑から逃れるのが容易ではないことを知っておりました。その中で、誘惑に遭う弟子たちと、イエスは共に歩み続けました。
2000年後の今も同じでありましょう。イエスの弟子であるわたしたちも、生きている限り様々な誘惑に遭います。そのとき、イエスは共に居てくださるのです。そしてヤコブが実感を持って記したように、主なる神とキリストが、恵み、慈しみ、慰め、平安、という良い贈り物をを調えてくださいます。その先にこそ、神の国があります。
主の御受難を思い起こす受難節・レントの時期が始まりました。主の御受難を思い起こすことは主の弟子としてとても重要なことです。ところが、主の御受難を思い起こすことで気持ちが下を向いてしまうことがあります。そのようなとき、そっと悪魔が近寄ってくるのではないでしょうか。悪魔の誘惑を受けるとき、キリストが共に居てくださること、キリストもまた誘惑を受けて、その怖さを知っておられること、そのキリストが助けてくださることを思い起こしたいものです。そして神の国に至るまで、キリストが共に歩んでくださることを、誘惑を受けたときの支えとしてまいりましょう。
合わせて読みたい。
申命記 30:15-20、詩編 91:1-16
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主がわたしたちと共に居てくださいますように
苦難の時にそばに居てくださいますように