2022年度 降誕前節の礼拝説教

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年12月18日   
降誕前第1主日 待降節第4主日 主日主題:救いの告知  
聖書 イザヤ書 7章1-14節 
讃美歌 242(4)、229、240
 「しるしを求めよ」
 イザヤは王国時代の終わり頃に活動しております。やがて北王国を滅ぼすアッシリアがすでにカナン地方の国々を圧倒しています。北王国をエフライムと呼ぶのは、早くも北王国の一部がアッシリアに獲られたからでしょう。その後、北王国エフライムとその隣国シリアのアラムが反アッシリア同盟を結び、南王国を誘います。南王国のアハズ王が断りますと、シリアとエフライムの連合軍が南王国との国境に集結し始めます。その動きを知って南王国は動揺します。アハズとしては、同盟に加わるか、アッシリアと手を結ぶか、決断を迫られ、戦争への備えとして貯水池の補修や拡大を始めたところにイザヤが現れます。
 これは戦争の準備ではなくヤハウェに従うことを第一に考えよ、というイザヤの思いを象徴しております。イザヤは神に助けを求めればすべてがうまく行く、と楽観的に考えていたわけではありません。今日の続きを17節まで読みますと、結局はアッシリアが北王国だけではなく南王国も脅かし、滅亡寸前まで追い込むだろう、と語っております。
 その一方で、アラムとエフライムのことを4節では「この二つの燃え残ってくすぶる切り株」と呼びます。わたしたちがアドベントの時期に「切り株」と言われてまず思い起こすのが、イザヤ書11章のエッサイの切り株でありましょう。どちらもいわゆるメシア預言でありますのに、片方は切り株からメシアの出現を語り、片方は燃え残りと切り捨てられるところが興味深いです。
 南王国にはダビデ王家の永続を謳うナタン預言がありました。イザヤはヤハウェの預言者ですから、ナタン預言を当然知っております。アハズももちろん知っております。
 アラムとエフライムの同盟がユダを脅かし、ダビデ王家を滅ぼし、新しい王を立てようとしている、といううわさは、ナタン預言と対立します。イザヤは、それは実現しない、と断言します。
 たしかに、ここでナタンの預言を思い起こすことには大きな意味がありました。王国分裂以来、北王国は王朝と言えるほどの長期政権を打ち立てた王がほとんどいないのです。一方で、南王国が様々なトラブルを抱えながらもダビデの子孫が王権を握り続けたのは、やはり南王国の王と貴族と民が、ヤハウェの言葉と力を曲がりなりにも信じていたからでありました。
 7節と8節でイザヤはアラムとエフライムの悪口を言い立てます。アッシリアに勝てるわけもないのに愚かな同盟を考えた連中、ヤハウェを信じない連中、とイザヤは評価しているのです。
 その悪口に続いて、イザヤは「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と言います。原語のニュアンスに即して補えば、「ヤハウェの言葉を信じなければ、あなたがたの王国は続かない」となります。ナタン預言を思い起こさせ、ヤハウェの言葉を信じてきたからダビデ王家は続いたことを逆説的に告げているのです。
 その上でさらに「しるしを求めよ」とアハズに告げます。
 キリスト教的な考えから言えば、神に向かってしるしを求めるなんてとんでもないこと、ただ信じるのみ、と思うのですが、旧約聖書を丁寧に見ていきますと、しるしを求めることで神から叱られる場面(出エジプト 17:1-7)がある一方(申命記 6:16では明示的に禁止される)、士師ギデオンのように繰り返してしるしを求めるのに神が付き合って何度もしるしを与える物語もあります。
 しるしそのものを求めたわけでもないのに、神の方からしるしを見せて説得しようとする、あるいは納得させようとする場面もあります。モーセ召命の場面もそうでしょうし、新約聖書で言えば、ルカ福音書のクリスマス物語も、神が先んじてしるしを提示している、それも繰り返して提示している、と言えましょう。
 アハズはしるしを拒絶します。南王国の存亡を掛けた預言であるというのに、アハズは聞こうとしません。イザヤは自らの召命の時を思い起こしていたことでしょう。アハズが拒絶したにもかかわらず、イザヤはしるしについて語り始めます。これは元々予定されていたしるしであったのだろうか?と思います。不思議に思うところがいろいろあるのですが、結局のところ、アハズが求めなくても、インマヌエルと呼ばれるようになる男の子がしるしとして与えられる、とイザヤは告げます。
 イザヤは「しるしを求めよ」と語ります。しるしは抽象的なものではなく、具体的なものとして与えられる、と言いたかったように思えます。わたしたちキリスト教の文脈で言えば、しるしは御子キリストです。クリスマス礼拝のメッセージの先取りになりますけれども、御子キリストは、人として生まれることで、人としての悩み悲しみ苦しみ、あるいは楽しみ、喜び、すべてを人として具体的に経験されます。何もかもを超越しているだけの存在ではなく、すべてを経験された方が救い主である、というところに、俗な言い方になりますけれども、わたしたちは救いの頼り甲斐を見ているのではないでしょうか。
 キリストの救いがすべての人に届きますように。
 キリストの救いによってわたしたちが支えられ、
 わたしたちもまた誰かを支えることができますように。
 そのことで、わたしたちがキリストの救いを告げる者となれますように。
 合わせて読みたい
 マタイ 1:18-23、ヨハネ黙示録 11:19-12:6、詩編 46:2-12

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年12月11日   
降誕前第2主日 待降節第3主日 主日主題:先駆者 
聖書 イザヤ書 40章1-11節
讃美歌 242(3)、236、248
 「呼び掛けよ」
 バビロン捕囚の始まりから50年経っても、エルサレムへの思いは世代を超えて受け継がれておりました。その人々に向かって、イザヤは、イスラエルの罪は既にもう十分に償われている。あなたたちの神はあなたたちのことを忘れているわけではない。いよいよ祖国に帰る時が近付いている、と語り始めます。この預言は1節から11節までの全体がイザヤの見た幻であろう、と考えますとスッキリします。4つの場面に分けて見ていきましょう。
 最初の場面は天上での会議です。冒頭にある「わたしの民を慰めよ」という命令の原文は複数形です。捕囚の民への慰めを語る役割は複数の天使に託されているのです。慰めという動詞は第2イザヤのキーワードの一つです。エルサレムの咎は既に償われたのだから、捕囚の苦しみから解放されて慰められる時が来た、と神ヤハウェは宣言します。
 第2の場面は3節4節です。バビロンとエルサレムを隔てる荒れ野に視野が移ります。解放の宣言を聞いた天使の一人が、民と共にエルサレムに帰る神のために道を備えよ、と呼びかけます。天使の呼び掛けに応えて、荒れ野に道が通る奇跡が起こります。「主の栄光」であるその奇跡を「肉なる者は共に見る」のですから、イザヤが見た幻の中では主なる神のために道が備えられてゆく様子を捕囚の民が見ているのです。民の様子は驚きであったのか、喜びであったのか、と思います。
 あらためて「呼びかけよ」と命じる声が聞こえます。第3の場面です。この「呼びかけよ」は単数形です。誰が呼びかけられたのか、古い時代の写本や翻訳によって様々です。
 ごく一部の写本では「何と呼びかけたらよいのか」と答えた者を「彼女」とします。彼女であればエルサレムです。その読み方はあとで9節の呼び掛けの言葉に繋がってゆきます。
 多いのは「彼」とする写本です。イザヤは幻を見ているのですから彼とは天上の会議に集まった天使の一人でありましょう。
 第3の場面の最後にある「わたしたちの神」に注目すれば、呼びかけられているのはイザヤ自身でありましょう。幻を見ていたはずのイザヤが突然に物語の中に入ってくるのは、いささか無理があるようにも思いますが、それを含めて様々な可能性を考え合わせながら読むべき預言なのでありましょう。
 第3の場面では、吹き付ける「主の風」によって草が枯れ、花がしぼむことが告げられます。主の風が吹き付けることで枯れるのは何であろうか、と思います。
 一つにはイスラエルでありました。ダビデとソロモンの栄華を誇った時代は過ぎ去り、むしろエルサレムの罪のために主の風が吹き付け、エルサレムという花は枯れてしまった。しかし、神の言葉はとこしえである。そのように読むことで、エルサレム帰還の預言はアブラハムへの祝福の約束が更新されたことを示します。祝福の約束はとこしえに有効な約束なのです。
 もう一つにはバビロニア帝国と読むことです。バビロンの栄華も今や尽きかけています。だからこそイザヤはエルサレムに帰る預言を語っているのです。その読み方を採るならば、バビロニア帝国の勃興と滅亡を越えて、神ヤハウェの言葉はとこしえである、と読むことができます。ヤハウェこそが神なのです。
 9節に入り、新たな場面が展開されます。第4の場面です。再び視野が大きく広がった中で「高い山に登れ」と命じられます。これもまた誰が語り掛け、誰が命じられているのでしょうか。
 多くの日本語訳は「良い知らせをシオンに伝える者よ」と訳しますが、もう一つの可能性があります。「高い山に登れ」と命じられているのは、他ならぬシオンであり、エルサレムである、という読み方です(NRSV.TEV.KJ.ATD.)。
 つまりこうなります。「高い山に登れ。良い知らせを伝える者であるシオンよ」です。次の行も「良い知らせを伝える者であるエルサレムよ」。「声を上げよ。恐れるな。ユダの町々に告げよ」。「主なる神は、咎を償い終えた捕囚の民と共にエルサレムに帰り、神の国を実現される」。その時、神に従って歩む人は、バビロンに対する神の勝利のしるし、神の戦利品となり、償いを終えた民は神の働きの実りとして神の御前を進み、その有様は羊飼いが羊を守るようだ、とイザヤは預言します。
 エルサレムもシオンもアブラハムの子孫である神の民を意味します。償われたという良い知らせを聞かされたエルサレム自身がユダの町々への伝達を命じられているのです。それはユダの町々に残った人々も、捕囚の民と同じようにアブラハムの子孫であり神の民であるからです。ユダの町に残されてた人々もまた、イザヤの見た幻の中では、神ヤハウェの帰還と神の国の実現という救いが成就する現実の中を生きることになるからです。
 わたしたちは今、今年のアドベントの時を迎えています。主の御降誕に始まるキリストの救いを確かに思い起こす時です。イザヤから2500年後の今も神の国の預言は成就したとは言えません。それでも神の救いの計画とその熱情を知るわたしたちにイザヤは呼びかけます。あなたが聞いた良い知らせを町々に告げよ、と。町を歩むすべての人に神は救いをもたらそうと計画しておられる、ということを心に覚えてクリスマスの備えをととのえていきたいものです。わたしたちが、キリストの救いをいち早く見つける「見張りの人」となることができますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年12月4日    
降誕前第3主日 待降節第2主日 主日主題:旧約における神の言
聖書 イザヤ書 59章1-5節、15b-20節 
讃美歌 242(2)、244、231、81
 「熱情を上着として」
 「熱情」は旧約聖書の中で神を表現する言葉や神の自己紹介の言葉の一つです。十戒の中で神御自身が「熱情の神」と名乗ります(出エ 20:5、申命 5:9)。旧約聖書全体を見ますと「熱情の神」は7回、「熱情」だけですと26回使われます。よく使ったのがエゼキエルです。イザヤは、第1イザヤから順に、2回、1回、2回、使っております。先程読んでいただいた59章は第3イザヤが使った2回の内の1回です。熱情と訳されているところは、神の性格や思いを表す箇所とみていいでしょう。
 熱情の原語はカンナーです。「熱心」と訳すこともできます。新共同訳で熱心と訳す時は、熱情とは逆に神ではなく人の行いを語ることが多いようです。「妬み」とも訳せます。これは神と人がだいたい半々でしょうか。人であれ神であれ、熱情と妬みが表裏一体であるのはなんとなく分かります。新共同訳の中で神について語るところでカンナーを妬みと訳す箇所は申命記にあります。
 イザヤ書は39章までが本来のイザヤの預言や行いを記します。これは王国時代の終わりに近い頃のことです。40章からの第2イザヤはバビロン捕囚の終わり頃に捕囚の終わりとエルサレムへの帰還を語ります。40章の冒頭が「慰めよ、わが民を慰めよ」で始まることはよく知られております。冒頭のその一句だけでなく、第2イザヤは全体として慰めや励ましに満ちた言葉を語ります。
 そしていよいよエルサレムに帰った後、しかしながらそこは、バビロニアの軍隊に破壊されたあと、50年以上も計画的な再建がされておりません。一方では荒れ果てており、その一方では、捕囚されなかった人たちが住み続けています。全く何もないところに新たに町を建てるのとはまた違った厄介な状態でありました。住み続けていた人たちと帰ってきた人たちとの間にも様々な軋轢があったでしょうし、その中で、仕事を探し、あるいは仕事を作り、家を建て、町という仕組みを作り、神殿を建てようとして、人々は疲れ果ててしまいます。神殿再建も資金不足で中断します。
 その状態を見て語り始めた預言者が第3イザヤであり、第3イザヤに続いて語り始めたのがハガイやゼカリヤでありました。
 (第3)イザヤは、捕囚から解放され、バビロンから帰ってきてもエルサレムに神の国が実現しないことに心を痛めます。神殿建設中止だけではなく社会の様々な不正にも目を留めます。人の行う悪が神の救いを妨害している。神の国が実現しないのは神の力が足りないのではなく自分たちが悪いのだ、と語るのが先程読んでいただいたところの前半、4節までです。
 5節から15節前半まででイザヤはエルサレムに住む人々の罪を厳しく指摘します。「主の手が短い」という表現は第2イザヤの50章にも出てきます。そこでは、神の嘆きの言葉として、神が呼びかけても誰も答えない。神の手が短すぎて民を救えない、とでも思っているのか?出エジプトの時の様々な奇跡を思い出せ、と語られています。第2イザヤにしても第3イザヤにしても、そのように語る民の嘆きの言葉を聞いていたのでありましょう。
 捕囚以前の預言者であれば罪の指摘に続いて裁きが語られていきます。ところがイザヤは、むしろ、それでも神は民を救おうとされる、と呼びかけていきます。正義が行われていない現状を主は確かに見た。そこで執り成す人がいないことに主は驚いた。と15節後半に記されます。15節前半までの人の行いとは対照的に、15節後半からは主なる神の思いや業が記されていきます。5節から15節前半までに「主」は1回しか出てこないのに、15節後半から20節までは、ほとんどの行に「主」が記されます。
 正義と執り成す人の不在に驚いた神が、こらえきれずに自ら民の救いに乗り出してくるのです。恵みと救いと報復を、熱情と言えるほどの熱い思いを持って行う、とイザヤは表現します。その救いの業は、エルサレムだけではなく、そしてシオンの地だけでもなく、世界の果ての人々におよぶ、とまで言います。
 例によって語られた順番どおりに記されてはいないのですが、第3イザヤの冒頭56章は明らかに異邦人にもおよぶ救いを語ります。そのあともイザヤは神の救いが異邦人におよぶことを繰り返して語ります。今日の19節もエルサレムの救いを異邦人が見聞きしてその証人となるだけでなく、救いそのものが異邦人にもおよび、その救いを異邦人たちが証言する、という含みがあります。19節後半「主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く」は、明らかに天地創造を連想させます。救いの預言を、アブラハムよりもノアよりも前の天地創造に結び付けることは、すべての人のはじまりであったアダムとエバに預言を結びつけ、そのことですべての人におよぶ救いが示されます。
 人々を救おうとする神の思いは熱情です。どうしてでも救いたい熱い思いです。ノアの洪水で一度は滅ぼしたが、それでも神を忘れる人が出てきた。預言者を何度送っても、アブラハムの子孫である民ですら神を忘れることが多かった。罰するだけじゃダメだ、徹底的に救わなきゃ、という思いに至ったのでしょうか。
 その熱情が目に見える姿となったのが、メシアであるイエスの誕生でありました。とりわけアドベントである今の時期に、主なる神のその熱情に応えて、信仰の日々を重ねてまいりましょう。

合わせて読みたい
マタイ 13:53-58、ローマ 16:25-27、詩編 96:1-13 

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年11月27日    
降誕前第4主日 待降節第1主日  主日主題:主の来臨の希望
聖書 イザヤ書 2章1-5節 
讃美歌 242(1)、230、241
 「主の光の中を」
 イザヤ書2章のこのあたりは、イザヤ(第1イザヤ)の中期の預言と言われております。具体的にはアッシリアによって北王国が滅ぼされようとしている時期、同時に、南王国も厳しい圧力の元に置かれている時期、となります。
 異民族に攻撃されたり支配されたりした時に、それは神様の御機嫌を損ねたからだ、と多くの古代民族が思います。多くの場合、献げ物を増やすことになります。古代イスラエルの人々も同じことを考えていたことでしょう。ただしそれに加えて、献げ物とは犠牲の燔祭だけではなく、神を信じる心、神への真心である、と彼らは考えます。神の御機嫌を損ねたのは、自分たちが神の教えに反していたからだ、と考えたのが古代イスラエルの凄いところです。その教えには社会的弱者を守ることが含まれ、民の生活全般に関わる違反が問われてゆきます。したがって、異民族の攻撃は自分たちが神との契約を忘れたことを神から問われている、と結論づけるのが、士師以来の多くの預言者たちの考え方でありました。イザヤももちろんその系譜に繋がります。
 歴史的には最後の審判の思想はバビロン捕囚期以降にイスラエルの信仰に取り入れられます。そうしますと、今日のイザヤの言葉の冒頭、「終わりの日に」が何を意味するのか、実際には難しいことになります。一方で、後のユダヤ教もキリスト教も、これを最後の審判に関わる幻をイザヤが見たものと解釈します。したがって、イザヤの語る終わりの日とは、キリスト教ではキリスト再臨の時を意味します。ユダヤ教ではメシア再臨の時ではなく、メシアの現れる時となります。その時に、神の支配が完成すると考えているところはどちらも同じです。
 その時、主の神殿の山、すなわちエルサレム神殿の建つ場所が、世界のどの山よりも高くなるところからイザヤの幻が始まります。そして世界中の民が、「ヤコブの神の家」すなわちエルサレム神殿へと巡礼に向かう。人々は神ヤハウェの教えに従って生きることを選ぶ、とイザヤは見通します。
 世界中の民が、神ヤハウェの教えに従って生きることで、国々は争うことをやめ、人々は武器を打ち直して農機具に使う、とイザヤは語ります。イザヤは、終わりの日にすべての人が神の教えに従って歩むように、それに先んじて、神の民であるイスラエルこそが、神の教えに従って生きることを促します。イザヤの預言を聞く人たちからすれば、イザヤの言葉は現実離れした夢物語にしか聞こえません。
 おそらくこの時、イザヤの目の前で北王国の領土は既にその大半を奪われ、首都サマリアが陥落するのを待たず多くの人が捕囚されていたはずです。イザヤ自身はそれを南王国の宮廷に近い地位から見ています。南王国も国境を脅かされ、軍事的な圧力を背景に収穫物や財宝を奪われても居たことでしょう。
 また今日の預言の言葉がミカ書にも記されていることがよく知られております。ミカはイザヤと同じ時代の預言者です。同時代の預言者が揃って語るこの預言は、現代を生きるわたしたちにとっても、厳しい問い掛けでありましょう。イザヤの時代から数えると2500年以上経つのに戦争のない世界は実現していません。そのような現実から考える時、イザヤの言葉は、一見しますと、預言者の願いでしかない言葉のようですが、一方で、イザヤのその預言が、現実に流されて忘れ去られることなく、伝え続けられてきた言葉であることが、私たちの心に響きます。
 今日のイザヤの言葉は、イザヤが幻に見たことを語ります。幻は神の思いを伝えますから、記されている言葉自体はイザヤの語ったものであっても、これはやはり預言と言えましょう。そして、言葉そのものはイザヤの言葉でありますから、その預言の最後は、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と呼びかける言葉になっているのです。
 当時の預言者の多くは、イスラエルの罪を指摘し、神の裁きを預言します。イザヤの預言にも神の裁きが語られるのでありますが、裁きから神の救済へと展開されることがイザヤの大きな特徴です。そこに加えて、諸国の民も神を礼拝する、すなわち、神の救済の中に入ることをイザヤは預言します。イザヤ自身の意識の中に異邦人の救いがどれほど確立していたのか、おそらくほとんど意識されていなかったと思われますけれども、それでもイザヤは終わりの日の平和を見通す言葉を残します。
 待降節・アドベントは、キリストの誕生を祝うクリスマスを待つ時です。同時に、終わりの時のキリストの再臨を待つ時です。主よ、おいでください、と祈る祈りを強く意識し直す時です。
 そして主が来られるその時、「起きよ」と呼ぶ声に応えて主の光の中を共に歩みたい。今まさに戦争という闇の中に居る人たちも、その時には主の光の中を歩むことでありましょう。あるいはまた、日々の生活の中のなにがしの闇の中に居る人も、その時には主の光の中を歩むことでありましょう。
 マラナ・タ教会の大切な業として、主よ、おいでください、と祈り続けて参りましょう。

合わせて読みたい
マタイ 24:36-44、ローマ 13:8-14、詩編 24:1-10    

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年11月20日  
降誕前第5主日  
聖書 サムエル記 下 24章1-14節 
讃美歌 440、358 
 「主の慈悲は大きい」
 先日、世界の人口が80億人を超えたらしいというニュースを見ました。古来、人口調査は、政治、行政にとって重要な、そして必要なことでありました。現代であれば行政サービスの計画を立てる元になります。古代であれば人の数に応じて税を掛ける人頭税を取り立てることも多くありました。ルカ福音書のクリスマス物語にも人口調査が記されます。人口調査はその地域の支配者である王によって行われます。ルカ福音書の人口調査も皇帝アウグストゥスの命令によって行われたと記されます。それだけに、と言っていいのでありましょう。聖書の神ヤハウェが大変嫌うことのひとつに、人口調査がありました。イスラエルを支配するのはヤハウェだけである、という信仰です。
 ヤハウェが支配するからこそ、民数記には出エジプトの民がカナン地方に入った時に12部族のそれぞれが、どのような氏族に分かれ、氏族ごとの人数は何人である、と事細かに記されていきます。民数記の場合には民の数を数えるのはヤハウェ御自身の命令でありましたから例外というわけです。
 それほどに王による人口調査は嫌われます。ルカ福音書に記される人口調査も、神の嫌う出来事の中にこそキリストの生まれる意味があった、というルカの主張であるのかもしれません。
 さて、ダビデも何を思ったのか人口調査をしようといたします。実際のところ国を治めるためにはやはり必要なことです。しかもダビデの王国は、サムエル記が記すところを信じるならば、ユダ族の南王国に加えて、北イスラエルの領土を含み、そこにはイスラエルとユダ以外の様々な民族を含み、さらにはペリシテを打ち破ったように、ユダとイスラエル以外の周辺地域にも支配がおよんでいた、ことになります。
 現代的に考えるならば、そりゃぁまずは人口調査と地籍調査(検地)が必要でしょ、と思うわけですけれども、それが神ヤハウェの逆鱗に触れます。ダビデの側近たちも止めるように進言しますが、ダビデは強い命令を下します。実際の調査にあたった部下たちも調査される民の方も、いい気持ちはしなかったことでしょう。
 案の定というべきか、神の怒りが発動します。人口調査を喰らったあげくに疫病の流行を受けた民にすれば、ダビデへの反感が高まったことでありましょう。考えてみれば、ダビデが疫病の流行を選んだことで、せっかくの人口調査も台無しになっております。ダビデの選択が良かったのかどうか、選べと言っておきながら実は疫病を選ぶことも神の思惑どおりであったのではないか。
あるいは逆にダビデは心の呵責を覚えた人口調査の結果をなき物にするために疫病を選んだのではないか、など様々なことが思い浮かびます。本当のところは分かりません。
 もっとも、人口調査を明確に禁じる規定は律法にはありません(出30:12、民1:2、26:2、歴上21:1)。それもまた妙なことではあります。そしてその意味ではダビデの側近が人口調査を思いとどまらせようとしたのは、律法の規定云々ということではなく、純粋に側近たちの信仰から来た思いであることが分かります。
 人口調査が大変な間違いであったことにダビデ自身が気付いた頃を見計らって預言者ガド(サム上 22:5)が神から遣わされます。
 ガドはダビデの罪を指摘し、3つの災いからどれかを選ぶように告げます。サムエル記の続きを読みますと、疫病の収まった後、ダビデはエブス人アラウナの所有する土地を買い取り、ヤハウェの祭壇を築きます。歴代誌では(上 22:1)、その祭壇の場所こそが後にソロモンが神殿を建てる場所となった。かくしてダビデはソロモンの神殿の準備を為した、と記されます。
 ガドの宣告を受けたダビデは「主の手に掛かる方が人の手に掛かるよりよい」と言って疫病を選びます。サムエル記では、良きにつけ悪しきにつけ、神が御自身で手を下す場面は珍しく、だいたいは人の思いや行動を操って歴史を動かします。ここでは主の使いが手を下します。神が直接に行動した数少ない場面の一つと言えましょう。それだけに、神の目から見てダビデの人口調査が大変に重い罪であった、ということなのかもしれません。
 ダビデは疫病を選ぶ理由として「主の慈悲は大きい」からであると述べます。疫病によって殺されるのがダビデ自身ではなく、民であるところが現代人には納得のいかないところではあります。ダビデにとって、多くの民の死は確かに大きな痛手でありましょうけれども、ダビデ自身は「どうかあなたの僕の悪を見逃してください」で済むのだろうか、と思います。阿刀田高はアブラハム物語の解説の中で、旧約聖書の神はかなり依怙贔屓する神である、と述べておりますけど、本当にそのとおりでありましょう。
 とはいえ、一方では、遡って、ノアの洪水にせよ、アダムとエバの楽園追放にせよ、あるいはこのダビデの人口調査に対する災いにせよ、さらには、おそらくは最後の審判にせよ、たしかに、とんでもない災いの中にも神は一筋の救いを用意します。ダビデもまた楽園追放物語や洪水物語を思い起こして、「主の慈悲は大きい」という言葉にかすかな期待を込めたのかもしれません。
 そしてまた、わたしたちの目から見れば、それはキリストによる救いを先取りした言葉に思えます。どのような時にあっても、あるいはまた、どのような災いの中にあっても、主の大きな慈悲、神が準備した救いが、どこかにあることを信じて神に従って歩み続けたいものです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年11月13日   
降誕前第6主日  
聖書 サムエル記 下 12章1-14節
讃美歌 149、403、81
 「主が取り除かれる」
 わたしたちがダビデについて思い起こす物語はいくつもありますが、中でも最悪に近い出来事がバト・シェバ事件です。間違いなくダビデにとっての醜聞ですし、合わせてソロモンの王位継承にもマイナスです。ソロモンの出生にも疑惑がつきまとうことでしょう。そうしますと、この醜聞はサムエル記著者の創作ではなく、実際になにがしの史実がそこにあったのでありましょう。
 ある時、ダビデは水浴びをしているヘト人ウリヤの妻バト・シェバを見つけます。ウリヤはアンモンとの戦いに出陣しておりました。神の箱も戦いの前線に出ております。それなのに王はエルサレムに居る。本来なら有り得ない事柄が、この聞こえの悪い物語の発端として記されております。
 ダビデにとって大変都合の悪いことに、たちまちバト・シェバが妊娠します。ダビデはウリヤを呼び戻しますが、ウリヤは同僚が前線にいる時に自分だけ家に帰って寝ることはできない、と言い張って宮殿の片隅で寝ます。心がけの立派な戦士でありました。困ったダビデはウリヤを最前線に送り込んで戦死させます。
 戦死した部下の妻を後宮に入れることには生活保障の一面があったのかもしれません。それでもバト・シェバの場合は宮廷の人々に後味の悪い思いをさせていたことでありましょう。それを見ていた神ヤハウェも、ダビデの行いを悪と判断します。
 神は預言者ナタンを送り込みます。先月にもナタンの語るダビデ王朝永続の預言を御一緒に読んでおります。ナタンがダビデの側近預言者であるからこそ、ナタンによる裁きの宣告がダビデの心に突き刺さります。先程読んでいただいたナタンの預言は3つの部分に分かれます。
 ナタンはダビデと関係なさそうな、いかにも民の間で聞き込んできたような事件から語り始めます。それを聞いたダビデは、判決を求められたわけでもないのに、その男に厳しい罰を降すべきだと語ります。ナタンがどんな顔をしてダビデの前に現れ、その譬え話を語ったのか、なかなかに興味深いところです。
 ナタンはダビデに、「それはあなたのことだ」と言い返します。ダビデの裁きはそのままダビデに適用されます。もっとも、ナタンの語るヤハウェの言葉はいささか恩着せがましくも聞こえます。神にすれば、それほどにダビデに祝福を与えたのに何が足りなかったつもりだ、と言うところなのでありましょう。7節中頃、二重カギ括弧の前にある「主はこう言われる」は預言者が神の言葉を伝える時の決まり文句です。
 ウリヤは明らかにヤハウェ系の名前です。ヤハウェはわが光という意味です。それなのにヤハウェの忠実な王であるはずのダビデによって殺されてしまいます。とても皮肉な名前でありましょう。バト・シェバの名前では、バトは娘です。シェバには2説あります。ひとつには豊か。露骨になりますけれども「豊満な娘」でありましょう。ダビデは豊満な若い女性の水浴びを見てしまって一目惚れするわけです。もう一つは誓い。「誓いの娘」であれば、これもまたウリヤと同じく皮肉な名前でありましょう。
 一つ目の裁きは「剣はとこしえにあなたの家から去らない」と宣告します。これはソロモン即位までの内紛内乱暗殺粛清のことでもあり、また、後の時代のアッシリアやバビロリアによる侵略を指してもおりましょう。先にダビデ王朝の永続を預言したナタンから、今度はとこしえの災いを宣言されるわけです。
 ナタンはここで一度言葉を切り、あらためて「主はこう言われる」と語り出します。ダビデの妻が奪われるという二つ目の裁きの預言は、長男アブサロムが王位を宣言した反乱(15~18章)の中で成就します。最終的にはアブサロムは戦死してダビデが王宮に戻るのですが、剣が去ることはない、と語られた預言とあわせて、ダビデにとっては厳しい裁きの預言でありました。
 ここまでの災いの宣告でダビデは言葉も顔色も失っていたことでありましょう。ようやく絞り出した言葉が、「わたしは主に罪を犯した」でありました。先にダビデ自身が下した判決に依れば、ダビデは死罪です。(実際の成文化は後代の)律法の規定によっても(レビ20:12、申命22:22)ダビデは死罪です(バト・シェバも?)。
 ところがナタンは「あなたは死の罰を免れる」「しかし、生まれてくる子は死ぬ」と預言します。ダビデの本音を言えば、どちらもホッとしたのではないでしょうか。読者にすれば、ダビデの代わりに子どもが死ぬのは釈然としません。そこにわたしたちが納得できる答えはありません。神ヤハウェは時として理不尽な、理解不能なことをなさる、と思い定めるしか無いのでありましょう。
 ナタンの言葉に戻りましょう。「主があなたの罪を取り除かれる」。キリスト教が罪の赦しを語り、赦されて生きることを語る、そのルーツの一つです。赦されて生きるわたしたちですが、その命の日々の長さについては知らされることがありません。
 イエスの言葉に「空の鳥を見なさい」「野の草を見なさい」「明日のことを思い煩うな」とあります。今日の一日を与えられた命の日として大切にしなさい、の意味です。それが今日の命を許された者の務めでありましょう。漢字が違い英語(欧語一般)でも別語となる2つの「ゆるし」ですが、何か通じるものを感じます。今日を生きることを許されているのは、ダビデが罪の赦しを宣言されて死の罰を免れたことに通じるのです。「ゆるされて」生かされていることを日々心に刻んで生きて参りましょう

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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