2021年度 降誕前節の礼拝説教

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年12月5日    
降誕前第3主日、待降節第2主日    
聖書 ゼファニヤ書 3章14-18節
讃美歌21 242(2)、241、236、81  
「喜びの知らせを」
 旧約聖書の預言者たちは、おおよそは苦難の時代に声を上げます。預言は神からの語りかけですから、カミサマなんて居なくてもじゅうぶんに幸せよ、という時には神の声は聞こえないものなのかもしれません。裁きを語る預言者たちの時代、イスラエルが裁かれる理由は二つありました。ひとつには人々がヤハウェ以外の神々を拝むこと。これはかなり多くの人が批判されるべき対象だったのでありましょう。
 もうひとつには社会の貧富の差が大きくなったとき。資産や権力を持つ人たちにすれば、カミサマなんか居ても居なくても今のお金と権力があれば幸せでありました。そのような時に、神の声を聞こうとしない人に向けて預言者は語り掛けた、ということができるのでありましょう。それは裏返せば、貧しい人にとっては力付けられる語り掛けであった。一応はそのように考えられます。しかし、預言者が声を上げても現状は変わらなかった。そうなりますと、貧しい人たちも預言者の言葉を聞かなくなるようになったかもしれません。あるいは貧しい人たちにすれば、かえって苦しくなる言葉であったかもしれません。
 今日御一緒に読んでおりますところのゼファニヤは南王国ヨシヤ王の時代の預言者です。もっとも、多くの聖書学者は、ゼファニヤ書の中でも3章後半は後の時代にゼファニヤの名前を使って付け加えられたのではないか、と言っております。第2イザヤの影響を強く受けている様子が見えるのでバビロン捕囚の終わり以降であろう、というのです。確かにそう思えます。そのように読んでいきましょう。
 預言者たちの言葉は、語られたその時代背景を抜きにしては理解が十分とならない一面もあれば、時代を超えて真実である一面もあり、また、わたしたちの現実の中で再解釈される一面もあります。わたしたちの今はといえば、やはり昨年来のコロナパンデミックの中で、言い換えれば多くの人が苦難にある中で、預言者の言葉を喜びの知らせとして、また慰めの知らせとして、読みたい時でありましょう。
 ゼファニヤは「娘シオンよ、喜び叫べ、イスラエルよ、歓喜の声を上げよ」と語り始めます。神はあなたへの裁きを終わらせ、敵を追い払った。捕囚のあいだ、あなたたちのそばに居なかったヤハウェは今はあなたたちのただ中に居られる。散らされてヤハウェの祭りを行えなかったあなたたちを神は再び集めてくださる。エルサレムは回復され、ヤハウェを祭る献げ物が行われる。ヤハウェと共にある喜びは、あなたたちの中にある。と語ります。
 礼拝の中では常に福音すなわち良き知らせが語られるのではありますけれども、中でもアドベントからクリスマスに至るときは、様々な知らせが聖書から読まれます。預言者たちが告げた救いの知らせ。ルカ福音書ではザカリアへのヨハネ誕生の告知とマリアへの受胎告知。マタイ福音書でも天使はヨセフに重大な知らせを語ります。
 預言者による救いの知らせは人々が苦しみの中にあるときに語られました。福音書の中で天使が伝えた知らせは福音書の読者にとってはいずれも大きな喜びの知らせの一環を為すものです。しかしながら、考えてみれば、ザカリア、マリア、ヨセフ、誰にとっても、むしろ喜びの中に苦難を投げ込んでくる知らせでありました。ザカリアは祭司としての生涯ただ一度の大役を果たしている最中にガブリエルの訪問を受け、口が利けなくなります。日常生活でも困りますが祭司としての働きにも重大な支障が出ます。マリアもヨセフも婚約中という喜びの時に衝撃の知らせを聞かされるのです。ヨハネが生まれるまで、あるいはイエスが生まれるまで、エリサベトも含めて4人は苦しい思いを持ち続けたようにも思えます。
 神の御心に従って生きること。主の生き方に倣って歩むこと。それはわたしたちの目標でありますけれども、その生き方は平穏で順風な生活とはなかなか結びつきません。義なる神の創られた世界であるにも関わらず、矛盾や不正や不公平が目に付くこの世界に、落胆し疲れ果てることは少なくありません。いやむしろそのような日ばかりが続く、というのがわたしたちの本音でありましょう。それは福音書の時代も預言者の時代も変わりません。
 しかしながら、それでも預言者たちは神の救いを語り続けました。むしろ、そのような時代だからこそ、神の救いを祈り続け、語り続けるのが神の民の役割である、と繰り返して示しました。
 アドベントは、キリストを待つときであり、同時に、キリストの来るその時を告げ知らせるときです。わたしたちが苦難の中に居るのであれば、だからこそ主の救いを告げ知らせようではありませんか。わたしたちが現実の厳しさと重苦しさの中で行き詰まっているのであれば、その時こそ主の救いを告げ知らせようではありませんか。それこそが神の民に託された使命なのです。
 主の救いと主の平和を語り続けましょう。主の救いと主の平和を歌い続けましょう。そうすることで、わたしたちは、闇の中の光であるキリストを先駆けて見つける者となり、キリストに出会った喜びの知らせを世に告げる者となることができるのです。 

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年11月28日  
降誕前第4主日、待降節第1主日    
聖書 イザヤ書 55章1-11節
讃美歌21 242(1)、15、268  
「御言葉のちから」
 今日から今年のアドベントの主日礼拝となります。アドベントはもちろんクリスマスを待つ期節です。さらに言えば私たちの信仰は常に主の再臨を待っているわけですが、再臨を待っていることをあらためて思い起こす期節でもあります。
 クリスマスは喜びの時であり、クリスマスを待つのは喜びの待ち時間です。わたしたちがクリスマスの日を待ち、2000年前のクリスマスを思い起こすことは、メシアの誕生をいつかいつかと待っていた人々の思いと、メシア誕生の知らせに大きな喜びを感じた人々の思いとに、私たちの心を沿わせてクリスマスまでの時を過ごすということでありましょう。
 今日はメシアの登場を待ち続けた預言者たちの言葉からイザヤの言葉を御一緒に読みました。みなさん御存知のようにイザヤ書は旧約聖書の預言書の中でも分量の多い書物です。ところがイザヤ書には3人の預言者の言葉が集められております。一人目が39章まで。二人目が40章から55章まで。56章からは三人目のイザヤとなります。普段は、二番目の預言者を第2イザヤ、三番目の預言者を第3イザヤと呼びますが、今日はこの先は第2イザヤのことを単にイザヤと呼ぶことにしましょう。
 御一緒に読みました55章は第2イザヤの預言を締めくくります。例によって時代背景的なことを最初に申しますと、イザヤはバビロン捕囚の終わりが見え始めた頃に活動を始めます。バビロニアに代わって領土を広げ始めたのがペルシャです。イザヤの初期の預言ではペルシャのキュロス王をバビロン捕囚から解放してくれるメシアと呼びます。たしかにキュロスはバビロニア帝国を倒した後に捕囚の民に帰国を許可します。イザヤが何故そのことを知り得たのか。聖書の預言は、これまたみなさん御存知のように、未来を語る予言ではなく神の言葉を預かる預言です。キュロスが軍を進めるに当たり解放を謳っていたのでしょうか、それともまさに神の言葉としてイザヤに聞こえたのでしょうか。
 いずれにせよ、イザヤは人々がエルサレムに帰ってダビデの王国を再建することを語ります。それは神の国であり、神の恵みに満ちあふれ、神の支配が行き届いた国となるはずでした。
 バビロンを占領してバビロニア帝国を倒したキュロスは捕囚の民の帰国を許可します。イザヤはやはりキュロスはメシアであった、と思います。ところがキュロスはバビロンの神々を礼拝してイザヤをガッカリさせ、イザヤはキュロスに触れなくなります。イザヤの預言は、その後も続きます。
 イザヤは神の国の再建を語り続けますが、捕囚から解放されてもエルサレムに帰ろうとしない人も多かったようです。捕囚は50年以上続いておりますから、イスラエルの民と言えどもすでにバビロン生まれの世代になっております。しかも思い起こせば捕囚の初期には預言者エレミヤが、捕囚は70年ほども続くだろうからバビロンで生活の根拠を築け、と預言しております。バビロンに定着してしまった人も多かったのでありましょう。
 あるいは、捕囚の間にも行き来する人はありましたから、打ち捨てられたエルサレムの様子を聞き、エルサレムの再建の大変さに気付いて腰が引けた人も居たことでしょう。エルサレムまでの旅に不安を感じた人も居たのでしょう。今日の預言の最初の方でイザヤが「銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を求めよ」と語るところを見ると、旅費の工面ができなかった人も少なくなかったようです。
 イザヤの語ったダビデ王国再建の預言は二重に外れ、エルサレム再建の期待は裏切られるのです。人々のイザヤに対する評価も随分と下がったのでしょう。その中でイザヤの預言は、解放されてもエルサレムに帰ろうとしない人々に向けて語られ始めます。
 今日の預言の半ばでイザヤは「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますときに」と語ります。捕囚という軛(くびき)から解放された今こそ主なる神を呼び求めよ、今こそ神は近くに居られるのだから、と繰り返して訴えます。
 その言葉もまた人々に届かなかったようです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない」。雨も雪も神のなさること。雨も雪も大地を潤し、作物を育てるではないか。神の言葉もむなしくなることはない。必ず神の御心は成し遂げられる。エルサレム再建の預言は必ず実現する。と、イザヤは言葉を重ねます。もどかしい思いが伝わってくるような言葉です。
 人々の耳にはなかなか届かなかった預言でありましたが、それでもイザヤは神との出会いを確信し続け、神の救いを確信し続けます。神の救いは「銀を払うことなく穀物を求める」ような目に見える具体的な救いとなることを語ります。
 わたしたちにとって神の救いとは何でしょうか。それは具体的に想像できることでしょうか。わたしたち一人一人、本当に様々な問題や不安を抱えています。繰り返す毎日の中で現実はなかなか変わらず、もどかしい思いを持ち続けます。それでもわたしたちは預言者の言葉に耳を傾け、福音書の記事に力付けられ、御言葉に慰められ、賛美の歌を日々に歌い、神の国の実現を確信し続けます。イザヤは呼び掛けます。主の御言葉に「聞き従って、魂に命を得よ」と。御言葉によって、わたしたちの魂に日々に豊かな命が与えられますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年11月21日   
降誕前第5主日    
聖書 エレミヤ書 33章14-16節
讃美歌21 240、235  
「主はわれらの救い」
 エレミヤの活動し始めた時代はソロモンの死からおおよそ300年後です。サマリアを首都とした北王国はすでにアッシリアに滅ぼされております。その時からも100年ほど経ちます。アッシリア捕囚の時にはエルサレムを首都とした南王国・ユダ王国は滅ぼされることは免れましたものの、アッシリアの属国とされ、政治経済的にも宗教的にも支配下に置かれます。アッシリアが滅びますと、バビロニアがオリエント世界の次の支配者となります。
 エレミヤ書冒頭に記された年代によれば、南王国の最後の40年に渡ってエレミヤは活動し、エルサレムの陥落に立ち会います。
 今日、御一緒に読んでおります33章は、エルサレムがすでに1年以上にわたってバビロニアによって包囲され、陥落寸前となっている状況で語られた預言です。頼みとしたエジプトもバビロニアに撃退されてしまい、為す術の全くない状況です。にもかかわらず、エレミヤは神の言葉として「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る」と語ります。
 イスラエルの家とは北王国のことですから恵みの約束を果たそうにも北王国はありません。ユダの家である南王国も国としての命運は尽きようとしております。エレミヤは早くから、バビロニアへの反乱なんかよせ、早く降伏しろ、と言い続けていたのですが、それは聞かれることなく、この最終局面を迎えておりました。
 エレミヤも彼以前の多くの預言者と同じように、最初はエルサレムへの裁きと災いを預言します。特にエレミヤは祭司の一族であり、エルサレムの神殿にアッシリアやバビロニアの神々が祀られ、王や貴族がイスラエルの神ヤハウェを離れ、町の人々もヤハウェから離れてゆくことを厳しく批判します。アッシリアやバビロニアによる攻撃は神の御心によるものであり、それらはいわば神の道具なのだ、という理屈を語ります。
 多くの預言者と同じく、エレミヤの預言もあるいは聞き流され、あるいは反発を喰らいます。南王国最後の王ゼデキヤは、時にエレミヤの預言に耳を傾けますが、結局はバビロニアへの反乱を主張する側に付きます。エルサレム神殿の祭司たちは、彼らを批判するエレミヤを捕まえて口を封じようといたします。
 ところが、ある時エレミヤは、バビロニアが神の道具であるならば、ヤハウェはイスラエルだけではなく、世界を支配する神である、と気付きます。天地創造を振り返ればもちろんそのとおりなのですが、当時の常識としては、それぞれの国にそれぞれの守り神がいるということになっておりました。
 その常識の枠をエレミヤは突き抜けます。バビロニアの守り神であるマルドゥクではなく、ヤハウェこそがバビロニアを動かしてエルサレムの罪を咎めようとしている、と語り始めるのです。その気付きが、イスラエルの回復の預言でありますとか、神の救いをイスラエルに限定しない預言へと発展します。
 そしてエルサレム陥落を前にして、神とイスラエルの新しい契約を語り、ダビデ王家の回復を語り、エルサレムとユダの町々の回復を語り始めます。言い換えれば、南王国の滅亡を前提として、その先に起こる神の支配の回復を語るのです。
 一度は国が滅ぶのですから「若枝を生え出でさせる」という表現になるのです。これはイザヤ書の預言に通じます。エレミヤ自身もイザヤの預言を意識していたことでありましょう。生え出でる若枝、つまり新しい枝はヤハウェの支配を実現する新しい王です。エレミヤ自身は私たちが思うようなメシアを預言していたわけではなく、あくまでもエルサレムとユダの町々を回復する新しい王を、ヤハウェに従って歩む王を、預言しています。
 したがって、その若枝は正義の若枝であり、公平と正義をもってユダの地を支配します。今日はピンポイントでエレミヤの預言を読みましたが、エレミヤ書の前後を読みますと、律法に反する行い、すなわち正義から掛け離れた行いが、王や貴族によって行われていたことが幾つも記されています。
 神殿ではアッシリアやバビロニアの神々の像も祀られていました。町では一度は解放された奴隷が再び連れ戻されていました(34:8-)。どちらもイスラエルとヤハウェの間に結ばれた契約である律法を破る、重大な契約違反でした。
 それだけに次に生え出でる若枝には公平と正義が期待されるのです。その時、エルサレムは「主は我らの救い」と呼ばれる、とエレミヤは語ります。繰り返しますが、この預言はエルサレム陥落直前のどうにもならなくなっている最中に語られています。付け加えれば公平は公正とも訳されます。
 すべてが終わったかのように見えるその時、それでもなお、神は救いを約束します。正義と公平と公正の実現を約束します。それは2500年前のエルサレムだけのことではありません。私たちの現実においても、周りを見回して不正義や不公平を数え始めればキリがありません。その現実を神は見て見ぬふりをしているわけではない、と今日の物語は語り掛けてきます。その日が来れば、神の国は必ず実現する、と語り掛けてくるのです。
 来週からは今年のアドベントが始まります。クリスマスまでの日々、年末の慌ただしさの中にも、心を静めて神の国の実現を思い、主の再臨を思う時を持ち続け、祈り続けてまいりましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年11月14日  
降誕前第6主日    
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章1-5節
讃美歌21 463、484、81  
「神に倣うもの」
 キリスト教とユダヤ教に共通する戒めの中心は十戒です。加えて言えば、律法の全体を継承しなかったキリスト教が、それでも受け継いだものが十戒でありました。
 ユダヤ教の律法は時代に合わせて再解釈され続けた結果、613の戒律を数えるようになった、と伝えられます。一方で私たちは、戒律の一覧表のようなものを持っておりません。結論的なことを先回りいたしますと、これは私たちが常に十戒とイエスの言葉に立ち返るべきであることを意味しているのです。
 エフェソの信徒への手紙はパウロの名前によって書かれておりますものの、実際はパウロから30年ほども後に書かれたものと言われております。パウロが書いた体裁にするための細かい工夫や言葉使いが随所に見られます。
 その一つが、旧約聖書からの引用を多用していることです。また、パウロが好んで使った言い回しも多く使われます。パウロ自身は「わたしに倣う者になりなさい」と、しばしば語ります。パウロのように、キリストに従う者、キリストに倣う者として歩みなさい、ということです。(cf. 1コリント 4:16、11:1、フィリピ 3:17、1テサロニケ 1:6)
 それがここでは、「神に倣う」と言い換えられております。この言い回しは新約聖書の中ではここだけで使われています。旧約聖書でも、神の導きに従うことは何度となく命じられますが「神に倣う」という表現はありません。エフェソ書の著者はパウロの手紙をよく研究しております。このように言い換えておりますのは、書き間違いではなく、意図的なものであったと見ていいでしょう。
 これは当時のヘレニズム世界・地中海世界で使われていた表現でした。エフェソ書が書かれたと想定されている90年代といえば、すでに多くの教会において、ユダヤ人信徒ではなく、異邦人信徒が中心となっておりましたから、異邦人に伝わりやすい言葉を使ったようです。
 表現は変えられておりますものの、「神に倣う」生き方とは、御子であるキリストに倣い、キリストを模範として生きることを求める言葉です。初代教会において律法とは別に十戒が意識されていたのかどうか調べきれませんでしたが、イエス自身は、自分は律法を廃するためではなく完成させるために来た(マタイ 5:17)、律法の文字の一画がなくなるよりは天地の消えうせる方が易しい(ルカ 16:17)と語っております。当然、律法の根本となる十戒を意識しておりましょう。
 十戒の前半は神と人の関係を示し、後半は人と人の関係を示しております。
 ユダヤ教の今に伝わる律法がいつごろ成立したのか、どこまで遡れるか、ということは歴史的な問題として大きなものがあります。そして、それが実際に実現できていたかといえば、おそらくどの時代にも実現できていなかったことでしょう。
 その現状を預言者アモスが厳しく批判しております。イエス自身も律法を守ることについて、その内面が忘れられていることを厳しく指摘します。それでも、少なくとも理念としては、社会的な弱者を助けるための様々な戒めが律法として定められていたわけです。その戒めの根底にあるのが十戒の後半に示された掟でありました。
 十戒の後半にも様々にあるのですが、神の前に於ける人と人の関係として、律法の時代にすでに示されていたのが、隣人愛というキーワードでした。福音書を見ても、イエス自身の言葉として、神を愛しなさい、隣人を愛しなさい、ということが、律法の中心点として示されます。(マルコ 12:28-31、マタイ 22:34-40、ルカ 10:25-28、申命記 6:4-5、レビ記 19:18、福音書原文は命令形ではなく未来形、伝統的な「自分を愛するように」は意訳)
 言い換えれば、キリストに倣い、神に倣う生き方とは、神が創造されたこの世界のもの全てと共に、隣人と共に歩む生き方であり、それが神の道を歩む生き方でありました。
 イエスの言葉や行動を見ていきますと、一見すると律法を守っていない場面がたくさんあります。しかしながらそれは、ただ破っているのではなく、律法の精神を突き詰めてみたら、現状と合っていない場面でありました。
 十戒をふくむ聖書の御言葉によって生きる道を、どのようなものとして神が求めておられるのか、ある意味では私たち一人一人が自分に問い続けなければいけないのが戒律らしい戒律を掲げないプロテスタントの生き方です。
 神の戒めは、その意味で常に新しく私たちにせまってきます。3000年前の十戒も、2000年前のイエスの言葉も、古びることはありません。神に向き合い続け、神の思いを示した聖書の言葉に耳を傾け続け、「道を示してください」と神に向き合って祈り続けることが、神の戒めと共に生きていくことにつながり、その中で、隣人と共に歩む道が見えてくるのです。
 その歩みを、エフェソ書のパウロは、光の子としての歩みである、と表現します。その光は天地創造の光であり、天地創造の主なる神です。隣人と共に、また隣人のために、善意と正義と真実とを実現する生き方を探し求めて歩んでまいりましょう。それは私たちが主の祈りによって日々に祈り求めている御国を実現する生き方でもあるのです。

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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