降誕前節 2020年度の礼拝説教要旨

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年12月13日  
 降誕前第2主日、待降節第3主日
聖書 サムエル記 上 2章1-10節      
讃美歌21 235、175、262
「神の正義を歌う」
 サムエル記は、サムエルの誕生物語から始まり、王国の成立、サウル、ダビデ、ソロモンへの王位継承までの出来事が記されます。その中で、サムエル自身については、考古学的な証拠はないものの、実在の人物と見ていいようです。
 出エジプトの後、イスラエル民族はカナン地方に住み着きます。周辺諸国は早くから王国でありましたが、イスラエルは12部族連合としてヤハウェを支配者とする国の仕組みを採ります。それはおおよそ200年続きました。その頃の指導者が士師です。士師と王との大きな違いは、士師は世襲ではないことでした。士師記を見ていきますと、王になることを求められたギデオン(士師 8:22-)はそれを断ります。その時にハッキリと世襲を断るのです。
 ところで、士師の時代も後半に入りますと、ペリシテという強敵が現れます。ペリシテはイスラエルの天敵と言っていいでしょう。そのような時代に生まれたのがサムエルでありました。
 サムエル記に描かれるサムエルの姿は、祭司であり、士師であり、預言者でありました。サムエルの働きは、サウルを見い出して油を注いで王とし、次いで、ダビデを見い出して同じく油を注いで王とします。メシアの元来の意味は「油注がれた者」でした。これは必ずしも王を指す言葉ではなかったわけですが、サウルにしてもダビデにしても、ペリシテに蹂躙されて民族の滅亡の危機にあるとき、それに立ち向かって民族を救ったという意味ではたしかにメシアでありました。
 サムエルの父エルカナには2人の妻がおりました。ハンナとペニンナです。それぞれ意味深な名前です。エルカナは「神は創造する」、ペニンナは「真珠」、ハンナは「恵み」です。ペニンナには複数の子どもがおりましたが、ハンナには子どもが生まれませんでした。そのことでペニンナはハンナに辛く当たります。
 当時、神殿への献げ物には何種類かの献げ方がありました。サムエル記冒頭に描かれているのは「和解の献げ物」と呼ばれる方法です。献げた牛や羊は、一部を祭壇で焼いて神にささげ、一部は祭司の取り分となり、残りは献げた家族で食べます。これは私たちの聖餐式のごく古いルーツの一つと言ってもいいでしょう。
 さて、ある年、献げ物の食事のあと、ハンナは席を立ち、あらためて神殿(本殿)に向かいます。御存知のように、当時、子どもが生まれることは神の恵みであり、子どもが生まれないことは神の恵みから外されていることを意味しておりました。そうしますと、「真珠」には子どもがたくさん居るのに、「恵み」には子どもが居ない、「真珠」は恵まれていて、「恵み」は恵みから外されている、という皮肉な状況があったわけです。
 ハンナはそこで一心に神に祈り、子どもが与えられるならば、その子をヤハウェに献げます、と誓い、生まれた子どもをサムエルと名付けます。サムエルとは「神の名前」という意味です。
 サムエルが3歳になった年のことであろうと言われております。ハンナは乳離れしたサムエルをいよいよ神殿に連れて行き、祭司のエリにサムエルを託します。その時にハンナが歌ったとされるのが、先程読んでいただいたハンナの賛歌です。
 1節と10節の「角」は力、3節の「岩」は不変、確実、安心の象徴、10節の「王」は原文ではヤハウェの王です。サムエル記の編集者にとっては、王とはヤハウェの建てた王であり、それゆえにメシアでありました(含意はメシアでなければならない)。
 ハンナの賛歌には、サムエルの誕生を直接に感謝したり、サムエルの行く末を予言する言葉がありません。内容的には、サムエル記全体を俯瞰的に歌う、サムエル記全体の序章と言えましょう。
 富める者と貧しい者の逆転を歌うところもあるのですが、それはあくまでも神が行うことであり、人間が行うことではありません。そして、逆転ばかりが歌われているのでもありません。むしろ8節では貧しい者を高貴な者と「共に座に着かせ」ます。重ねて「栄光の座」と書かれておりますから、王座と考えていいのでしょうけれども、5節との関わりを見ますと、共に食卓に着く、という含みもあるように思います。
 正義が行われるのも、人の力に依るのではなく神の行いです。9節「人は力によって勝つのではない」と3節「人の行いが正されずに済むであろうか」が対応しています。これは人の力による正義の実現を放棄しているのではなく、神への全幅の信頼です。
 現代の私たちにとってハンナの賛歌とは何でしょうか。私たちは、クリスマスを前にしてハンナの賛歌やそれに強く影響されたマリアの賛歌を、読み、また歌います。神の正義の実現を歌う、神の救いの実現に全幅の信頼を寄せる歌を、私たちも共有するのです。逆転に留まらず、あるいは復讐を願うのではなく、救いの中で共に居るような救いがそこでは語られるのです。
 ハンナの賛歌は、子どもを得た喜びではなく、メシアの来臨によってもたらされる救いを歌います。ですからこれは救いの告知です。救いの先取りです。サムエルの誕生は、彼女の個人的な願いの成就ではなく、神の正義・神の救いを表す象徴的な出来事なのです。ハンナの賛歌はハンナの祈りでもあり、そしてマリアの賛歌もまた同じく、逆転ではなく、人々の苦しみを取り除くことこそが神の正義であると歌い、そして祈ります。
 そこにあるのは神の救いの実現に向けた全幅の信頼です。私たちもまた、キリストでありメシアであるイエスの誕生と再臨を待つ日々の中で、神の救いの実現に全幅の信頼を寄せ、その信仰を共に歌うのです。神の力による救いこそが実現しますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年12月6日  
 降誕前第3主日、待降節第2主日      
聖書 イザヤ書 40章1-11節
讃美歌21 235、247、401、81
「荒れ野に道を備え」
 12月6日は聖ニコラウスの祝日です。プロテスタント教会は基本的に聖人を敬って祝日を定めることをいたしませんのですけど、これは豆知識としても知っておきたい祝日の一つです。
 ニコラウスは4世紀の小アジア(現在のトルコ)、ミュラという街の司教でありました。悲しむ人、苦しむ人、貧しい人、困難な状況にある人々を助け、励まし、援助したことで知られています。ニコラウスとはギリシャ語で民衆の勝利という意味です。
 イザヤ書40章は第2イザヤの預言の冒頭です。イザヤ書の中でも親しまれた箇所の一つで、第1イザヤの9章、11章と並んで特にアドベントの時期によく読まれます。(以下、第2を略)
 イザヤはバビロン捕囚の終わりが見え始めた時期に活動します。世界情勢の変化に彼はエルサレム帰還の期待を持ちます。おそらくイザヤだけではなく、一定の自治権を持っていた捕囚の民の指導者たちも同じように考えて期待したことでありましょう。
 バビロン捕囚を客観的に見れば、吹けば飛ぶような小国であったユダ王国がバビロンに反旗を翻したことへの罰として征服占領された出来事です。預言者たちは、それは以前からの裁きの預言が実行されたのだと解釈します。イザヤもそのように解釈しています。その上で、神の裁きによる罰はすでに充分に受けた。捕囚の時は終わり、解放の時は近づいていると語ります。
 「慰めよ、わが民を慰めよ」という神の命令をもって預言が始まります。命じられているのは、おそらく天使たちです。神の使いである天使が命じられているのですから、この慰めの言葉はかならず実現することになります。しかも、神ヤハウェにとって、今もってイスラエルが「わが民」であることが語られています。
 神の命令に応じて天使の一人が起ち上がり、語り始めます。「荒れ野に道を備えよ。神のために、広い道を整備せよ」。バビロンとエルサレムの間の荒れ地を越えて広い道を整えよ。その道は、エルサレムの神殿、ヤハウェの神殿に向かう参道となる。語り掛けられているのはエルサレムですが、実際にこの預言を聞いているのはバビロンに住む人々、捕囚の民でありましょう。神から、天使と預言者を経て、民衆へと言葉が伝えられていきます。
 後半、6節の「わたし」はイザヤ自身でありましょう。ここからは天使ではなくイザヤが、神の呼び掛けに応えて捕囚の民に語りかけます。枯れた草、しぼんだ花とは失われた南王国のことでありましょう。イスラエルの民は、出エジプトの神、先祖の神であったヤハウェから離れたことで国を失います。ダビデ・ソロモンの栄耀栄華が咲き誇る野の花であり、それを失った捕囚の民は枯れた草でありましょう。
 しかし、神の言葉は天地創造のはじめから、あるいはアブラハムとの約束以来、一時として失われてはいない、と宣言されます。
 そして、「良い知らせ」すなわち捕囚からの解放とエルサレム帰還がエルサレムに伝えられます。それはエルサレムだけではなく、かつての南王国にあった町々、ユダの町々に知らされ、その知らせによって、ユダの町々に残された人々は慰められ、再び神の栄光を見ることになる、とイザヤは語ります。
 このようにイザヤは捕囚からの解放を預言します。この預言がアドベントの時期に読まれる理由は明らかです。捕囚からの解放は神の救いの実現であるからです。クリスマスすなわち主の御降誕がなぜ祝われるのか、それは神の国の実現に向けた、神の救いの実現に向けた、歴史の大きな転換点であるからです。
 イザヤは、解放を語る預言者、すなわち解放の先駆けでありました。キリストの先駆けは誰であったか、と思い起こしますと、洗礼者ヨハネでありました。福音書を見ますと、4つの福音書は4つともがイザヤのこの預言を記します。荒れ野に主の道を整える役割はイザヤやヨハネで終わったわけではありません。キリストによる救いはまだ完成しておりません。それはキリストの再臨の時に完成します。その時まで、救いを語り、わが民を慰めよと語る神の言葉は、とこしえに立ち続けます。
 情報化社会と言われてから長い時間が経ちました。今年はアメリカからフェイクニュースという言葉が飛んできました。コロナについて、何が正しいのか分からない話が次々に流れてきます。パソコンのブラウザを開けると怪しい儲け話がたくさん表示されます。
 そのような時代にあって、神の言葉は今も生き続けています。神の言葉は、今も力を持ち、朽ちることも、しぼむこともありません。神の言葉がとこしえに立ち続けていることが私たちを力付けます。そして力付けられた私たちは、その良き知らせを語って、祝福を分かち合うのです。聖ニコラウスがサンタクロースになったのは、彼が神の祝福を分かち合ったからでありましょう。
 神の言葉を伝えるのは預言者の働きです。その働きを見れば、洗礼者ヨハネは預言者でした。ニコラウスも働きによって神の言葉を実現した預言者と言えましょう。主の代々の弟子たちは、キリストの救いを語り伝え、神の御心を行いで示し、神の祝福を分かち合ったことで、預言者の働きをなしました。私たちもまた主の弟子です。キリストの救いを語り伝え、神の御心を行いで示し、神の祝福を分かち合うことで、私たちもまた、預言者に、そしてキリストの再臨の先駆けとなるのです。
 私たちは、出エジプトの神、バビロン捕囚からの解放の神、御子キリストを世に遣わされた神が、神によって造られたこの世界に、平和と正義を実現しようとされる約束を信じる信仰に生きております。その約束の祝福によって、私たちは預言者として、また荒れ野に道を備える先駆者として、世に遣わされてゆくのです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年11月29日
 降誕前第4主日、待降節第1主日      
聖書 エレミヤ書 36章1-10節 
讃美歌21 394、240、157
「魂を生き返らせる神の言に」
 エレミヤの活動した時期は、南王国・ユダ王国の終わり頃です。北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされておりますが、その時、南王国はアッシリアの属国となって生き延びます。アッシリアの勢いが落ちた頃に南王国に即位したヨシヤ王はある程度の独立を取り戻します。政治改革、宗教改革を行い、律法を整え、エルサレムの神殿からアッシリアの神像を取り除きます。しかしそれは長続きせず、次のヨヤキム王の時代以降、南王国はエジプトの支配下に入り、次いでバビロニアの支配下に入ります。
 南王国最後の王ゼデキヤの時代は、バビロニアの支配に服従するか、エジプトを頼りに反抗するか、政治が揺れた時代でした。エレミヤは、バビロニアはヤハウェの裁きを体現していると言って、その支配に服従することを勧めますが、国の方針はバビロニアへの反乱を選びます。その結果はバビロン捕囚です。
 今日の預言はエレミヤのおよそ40年にわたる活動の中頃の出来事を記します。ヨヤキム王の第4年になってエレミヤはバルクに命じてそれまでの20年間の預言をまとめさせます。それが現在のエレミヤ書のどの部分であるのか、聖書学者の意見はまちまちなのですが、具体的にどこと確定できなくても、それが現在のエレミヤ書の大きな部分を占めていることは間違いないようです。
 エレミヤが預言をまとめようとした理由はエレミヤに命じた神の言葉の中にあります。人々が神に立ち返ることを、神は期待しているのです。聖書のいう「罪」は、犯罪に当たるような事柄も含むのですが、より大きな含みとしては、神から離れることを指します。ですから神に立ち返ることが求められるのです。
 エレミヤ書の26章では、ヨヤキム王の即位から間もない頃、エレミヤが神殿で災いの預言を語って殺されそうになっております。今日の36章の物語でも、続きを読んでいきますと政府の高官たちは王と側近が巻物の内容を聞けばエレミヤは命を狙われると考えて姿を隠すことを勧めております。まとめられた預言には4年前の預言も入っていることでしょう。それ以来、エレミヤは神殿立ち入り禁止となっていたのかもしれません。
 今日から、今年のアドベント・待降節が始まります。先々週の週報のコラムにも書きましたように、教会暦のそれぞれの期節を表す色は典礼色と呼ばれます。待降節を象徴する色は紫です。私たちも紫のロウソクを使います。典礼色として礼拝の中で象徴として使われる紫には、神の尊厳、人の悔い改め、主の待望、といった意味が込められています。
 アドベントの期節は、主の御降誕を待つ時であり、同時に主の再臨を待つ時でもあります。これが主の待望です。
 紫が尊厳を表すというのは直感的に分かることでありましょう。その神の尊厳に対しては、人の悔い改めが置かれます。悔い改めという言葉は教会の中でよく使われる言葉の一つであり、普通に一般的な意味で辞書に載っている言葉であると同時に、そこにキリスト教が独自のニュアンスを含めた言葉でもあります。それは今日の物語で使われる立ち返りという言葉に置き換えることができます。
 36章の物語では、エレミヤがあらためて巻物に記させた預言の言葉はほぼ間違いなく、人々や王や貴族の行いを厳しく批判したものでした。しかし同時に、その預言の言葉は、人々の神への立ち返りを期待して語られ、また記された言葉でありました。
 バルクは神殿に集まった人々に向かって書記官の部屋から語り掛けます。自分の部屋を使わせたというのですから、書記官のゲマルヤは巻物の内容をあらかじめ読んでいたでありましょうし、だからこそこれは人々に聞かせなければと思っていたのでありましょう。また、少なくとも内心ではエレミヤの言葉を預言者の言葉すなわち神の言葉と思い、それが神への立ち返りを求める言葉であると理解していたのでありましょう。
 36章の続きを見ますと、政府の高官たちはバルクを呼んで、あらためて自分たちにその内容を語るように求めます。そして、これは自分たちが聞くだけではなく、ヨヤキム王にも聞かせなければならない、と考えます。ヨヤキム王が反発することを予測しながらも、高官たちもまたエレミヤの預言が神への立ち返りを求めるものであることを理解し、自分たちの国が神への立ち返りを必要としていることを理解するのです。
 神殿で聞かされた人々もおそらくは同様でありました。断食の布告を聞いて神殿に集まるような人々ですから、自分たちの国のありようが神ヤハウェを100%満足させているものでないことは、おそらくどこかで気付いていた人々でありましょう。その彼らにとって、エレミヤの言葉は痛いところを突かれた言葉であると同時に、神に立ち返ることによって厳しい国際情勢の中でも自分たちが出エジプトの民であり、神が共に居てくださり、自分たちを守り導いてくださることを思い起こさせてくれる神の言葉でありました。それは国際政治の閉塞状況の中で魂を生き返らせる言葉でありました。
 私たちが今、神への立ち返りを必要としているのかどうか、簡単には言えないでしょう。しかし同時に、私たちの社会が、また、私たちの日常が、神を100%満足させていると考えてしまうことは、思い上がりのそしりを免れないことになりましょう。
 神の言葉によって魂を生き返らせられる信仰を持ち、その信仰によって主の再び来られる日を待ちながら、神の国の完成を待ちながら、アドベントの日々を重ねていきたいものです。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年11月22日  
 降誕前第5主日    
聖書 イザヤ書 51章1-11節
讃美歌21 394、241、236
「シオンに語り掛ける神の声を」
 イザヤ書は新約聖書への引用回数も多く、クリスマスやアドベントに礼拝の中で読まれることも多い預言書です。イザヤ書は少なくとも3人の預言者によって3つの時代に渡って語られた預言が集められたものです。51章は第2イザヤの預言の一部です。第2イザヤはバビロン捕囚の終わりが近付いた頃に、捕囚からの解放、イスラエルの救済、メシアの登場を語ります。
 バビロニア帝国が没落するとペルシャ帝国が代わります。ペルシャの王キュロスを第2イザヤはメシアと呼びます。キュロスはバビロンの多くの民族に帰還を許可する勅令を出します。
 第2イザヤは、イザヤ書の中でも密度濃く聖書日課に使われます。それは彼がイスラエルの救済を語る預言者であるからです。今日の預言も天地創造以来の神の業を巧みに思い起こさせながら神の救いを語ります。今日はこの先は、彼のことを単にイザヤと申しましょう。
 今日の預言では、1節2節と、4節から8節がヤハウェの言葉です。神はイザヤの口を通して、「わたしの民よ」「わたしの国よ」と言って、シオン、すなわちイスラエルに語り掛けます。
 ヤハウェの語り掛けの中で4回繰り返されている言葉があります。1節の「正しさ」、5節の「わたしの正義」、6節の「わたしの救いの業」、7節の「正しさ」の4つです。これらはいずれもヘブライ語のツェデーク(変化形を含む)、神の正義という旧約聖書のキーワードの一つです。
 さて、今は降誕前節、来週からは待降節・アドベントです。私たちはちょうど1ヶ月後にクリスマスを迎えようとしております。クリスマスは1年の中でも夜が一番長い冬至の時期に重なる祭です。また、アドベントの時期は日没の一番早い時期でもあります。
 毎週の主日礼拝は朝の光の中で行われる一方で、アドベントは夜の暗闇を感じる時でもあります。そして冬至を越えて再び昼が長くなるように、クリスマスは闇の中に光が灯り、その光が見えてくる時であり、アドベントの期節はその光を待つ時なのです。来週からは礼拝の始まりにロウソクが灯されていきます。それは闇の中に光が近付いてくることを象徴しているのです。
 イザヤの状況を見ていきましょう。バビロン捕囚がいつ終わるのか、それとも永遠に終わらないのか。それはエルサレムから連行された世代の人たちにとって大きな心配であったことでしょう。エレミヤは、捕囚は70年続くのだから(29:10、25:11.12)、手に職を持ち、家族を作り、神に祈ってその時を待つように(29:4-7)、と預言します。イザヤは両親あるいは祖父母から聞かされた、エルサレムへの思い、神ヤハウェへの信仰、強く受け継いでいきます。エレミヤの預言のことも聞かされていたでありましょう。
 イザヤにとって、ペルシャ帝国が力を付け、次々に周辺諸国を打ち負かし、いよいよバビロンを窺う情勢になってきている、という知らせは、捕囚の暗闇の中で解放の灯りがかすかに見えた時でありました。ペルシャ帝国が寛容な支配政策を採っている、という情報もすでに伝わっております。エレミヤの預言が実現する時ではなかろうか。そのような期待をイザヤはもつのです。
 そしてイザヤは、「神の正義は近い」「その時は近付いた」と語り始めます。神の正義であるツェデークは、法律上の正しさよりも広い概念です。法を犯した者を厳しく裁くというようなことではなく、社会の中で貧しくされた人や不当に罪を着せられた人への公平な審判と救いを意味します。社会的弱者への救いと言ってもいいでしょう。
 バビロンの地において、捕囚の民は一定の自治権を持ち、職業、居住地、財産、結婚、神への信仰、などに一定の自由を持ってはおりました。しかしながら彼らは社会的弱者です。2級の市民であり、元来のバビロニアの国民からは見下されており、おそらくは彼らの居住地をバビロンの神々の祭が練り歩き、なによりも、エルサレムに帰る自由は与えられておりませんでした。
 捕囚の地での生活は、出エジプトの民が置かれた奴隷状態ではないにしても、約束の地から遠いバビロンに住まわせられていることだけで、それは闇の中の不当な暮らしでありました。そこに神の正義が働き、約束の地に帰る希望を彼らは見いだします。
 イザヤの預言は、アドベントの時に神の正義が近いことを語り掛けてきます。主の御降誕を待つということは、神の正義であるツェデークがイエスによって示されたことを、そして神の正義が実現する時の来ることを、信じることです。
 また、アドベントの時は、主の再臨を特に意識して待つ時でもあります。私たちの信仰は主の再臨を常に待っているのでありますけれども、御降誕を待つことと、再臨を待つことには、「待つ」という大きな共通点があるのです。お手元の『讃美歌21』では、それぞれの讃美歌のタイトルの上に、簡単な分類が着けられております。アドベントの讃美歌の分類に待降と再臨とが合わせて書かれているのは、「待つ」ことの共通点を示しております。
 主の再臨の時、それはツェデークが実現する時、神の正義の預言が成就する時です。私たちの身の回りがそれほどの闇であるのかどうか、簡単には言えないことでありましょうけど、現代の社会が様々な闇を潜めていることもまた明らかです。クリスマスを待つ時を、シオンに語り掛ける神の声を聞き、現代の闇に気付き、神の正義の実現を信頼して待つ時としたいものです。
 私たちが主の御降誕と共に主の再臨を待つことは、神の正義の実現を信じて待つことです。その信仰は、「主と共に生きる」祝福へと私たちを導き入れてくださることでありましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年11月15日
 降誕前第6主日     
聖書 出エジプト記 6章2-13節
讃美歌21 394、227、392
「あがなう神を」
 贖い(あがない)は聖書のキーワードの一つです。旧約聖書の時代には贖いは第一に法律用語でありました。借金のために奴隷となった人や売り払った土地を、親族が代わりに借金を払って買い戻す、という意味を持ちます。聖書の中では、神と人間との関係の中で使われる大切な言葉となってゆきます。
 出エジプト記の3章でモーセは神からイスラエルの民をエジプトから連れ出すように、と命じられます。モーセが尻込みいたしますと、神が常にモーセと共にあることを強調し、ついにモーセを動かします。そこからファラオとの交渉が始まります。
 6章に入りまして、神はあらためてモーセに語り掛けます。実際には3章の命令の繰り返しになります。モーセにしてみれば、嫌だと言ったのに神に無理矢理説得されてファラオのところに行ってみれば、ファラオから「ヤハウェとは何者か?そんな神のことはオレは知らない」と言われてしまうのです。そこでモーセが神に文句を言い立てますと、神は、いやいや最後にはおまえたちはエジプトから追い出されるから、と言い出します。神からすれば、これは念押しが必要と思ったのでありましょう。
 アブラハムと神との契約は、その基本は祝福を与えるということでありました。具体的には子孫を与える約束と、定住する土地を与える約束でした。その約束はなかなか実現しませんでした。一世代が12人になるのは曾孫の世代、しかも彼らは飢饉を避けて約束の地を離れてエジプトに移住することになります。
 やがてアブラハムの一族はエジプトの地で奴隷とされます。これは債務奴隷ではなく、むしろ戦争捕虜に近い立場でありましょう。出エジプト記の冒頭部分を見ますと、彼らが敵と通じて反乱を起こすことを恐れて奴隷として管理下に置いた、と読めます。
 6章と3章の神の命令を読み比べますと、導き出す、救い出す、は両方で使われておりますけど、6章になりまして、贖うという言葉が加えられます。奴隷として管理下に置かれているイスラエルの民を奴隷の立場から解放することが一層明確に語られます。債務奴隷ではなくても奴隷ですから買い取ることができるわけです。奴隷ではなく自由な民として、先祖の神を誰にも邪魔されずに礼拝することができるようになる、と神が約束するのです。
 その神の再びの約束を、モーセも再びイスラエルの民に伝えます。ところが4章の物語ではモーセの話を聞いて信じた人々が、6章では聞き入れませんでした。1章からずっと読んできますとファラオとの交渉失敗という現実があったから信じなかった、となるわけですが、6章の元資料だけを見ておりますと、ここでは民の不信仰が指摘されていることになります。
 ここでもモーセは尻込みいたします。「唇に割礼がない」は興味深い表現です。普通は口下手であると解釈しますけれども、自分の言葉は聖別されていないから力がない。だから民やファラオを動かすことができないのだ、と言っているのかも知れません。
 3章と6章を読み比べますと、もう一つ重要な言葉が付け足されております。同じことを言うにしても2回目は一言付け加えなければ、というのはよくある話です。この一連の物語でもモーセをもう一押しする必要がある、と神は判断したのでありましょう。
 7節にこう記されます。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」。イスラエルが神の民となるのは、なにかイスラエルが特別に神に忠実であったとか、特別に信仰深かったからであるとか、そういう実績を評価されたからではなく、一方的な神の働きかけによるものであることが語られます。
 アブラハムとの契約もそうでした。アブラハムが特別に神に忠実であったからカナンに行く命令を受けたわけではありません。しかも約束が契約に格上げされる時、契約であるにも関わらず、アブラハムは深い眠りの中にあって何もできない状態でした。
 今日の物語でも、イスラエルを神の民とするのも、アブラハムとの約束を思い起こしてエジプトから導き出すのも、それは神の行いなのです。贖うというキーワードも神の一方的な行いを示します。普通の意味で使われる贖いの場合、土地や奴隷となった人を買い戻す親族にすれば買い戻す資金は自分の持ち出しです。借金が返せないからこそ奴隷になるわけですから、買い戻した身内が後々にその分を自分に返してくれる可能性など現実にはほとんどないでしょう。それでも親族として買い戻すのです。
 イスラエルをエジプトから贖うことでも、その後の歴史を見ればイスラエルが必ずしもヤハウェの忠実な民であり続けたわけでないことを私たちは聖書の物語で知っております。贖うという言葉を使った以上は神ヤハウェはそのことを予見できたはずです。それでも神はイスラエルを贖います。
 モーセも民も完全完璧な信仰を持つ人々ではありませんでした。出エジプト記の先の方まで読み進んでも、彼らは度々神に向かって不平を言い、時に神への不信感まで持ちます。一方で、彼らは神への信仰をすっかり失ってしまうこともありませんでした。3000年後の私たちも同じでありましょう。
 そのような彼らの信仰の行く末を予見しなかったわけではないでしょうに、それでも神は強い御腕でもって彼らを奴隷の境遇から救い出します。
 今年のクリスマスまであと約40日です。今年はクリスマスも世界的なコロナ蔓延の影響を受けざるを得ません。私たちにとって、神の救いの約束とは何なのか。そのことを改めて考えながら、贖う神の救いの約束が実現する時を心に刻んで待ちたいものです。 

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2020年11月8日
 降誕前第7主日 
聖書 創世記 15章1-18a節 
讃美歌21 394、459、510、81    
「導く神を」
 アブラハムは古代イスラエル民族の伝説的な御先祖です。実際のところは何世代もの民族のリーダーの姿がそこに投影されていると思われます。考古学的にアブラハム個人の実在を確かめることはできませんが、カルデア地方あるいはその周辺からカナン地方に移住してきた人々のいたことは間違いないことでしょう。
 アブラハム物語を細かく読んでいきますと、彼は遊牧民であったり農耕民であったりします。彼に着いてきた甥っ子のロトも、遊牧民であったりソドムの街に住む人であったりします。このような食い違いも、アブラハムもロトもそれぞれ何人も居たのだ、と考えますと簡単に説明が付きます。
 アブラハムの父テラの時代まで一族はカルデラのウルに住んでおりました。アブラハムはウルで生まれますが一族の移住によってハランに移り住みます。ある時、アブラハムは神の声を聞きます。一族の家を出て、神の示す土地に移住せよ、というのです。その声に従って、アブラハムは妻のサラ、甥のロト、財産である羊の群れ、羊飼いたち、を連れて出発します。物語の表面に登場することが少ないので見落としがちですが、羊飼いや召使いの数も少なくなかったようです。アブラハムは父の家を離れた時点からすでに相当の財産を持っておりました。
 ハランを出発するときに「あなたを大いなる民としよう。あなたを祝福してその名を大きくしよう」と神が言います。これが神がアブラハムに与えた基本的な約束です。そしてカナンに着いたとき、神は「この土地をアブラハムとその子孫に与える」と約束します。土地を与える、子孫を与える、という約束はその後も繰り返されます。ところがこの神の約束はなかなか果たされません。
 アブラハムにとって後継者は大きな問題でした。子どもが居ないからこそ甥のロトを連れていったのに、ロトとはすでに分かれています。ですから今日の物語の冒頭、神が「恐れるな」と語り掛けた時、アブラハムはすぐに言い返します。「財産を継ぐのは息子ではなく、エリエゼルです」。アブラハムにとって、何が恐れであったのかが見えてくる遣り取りです。しかし神は言葉を続けます。「あなた自身の子供が家を継ぐことになる」。そしてテントの外に出て星を数えることを求めます。
 続けて神はあらためて土地の約束を繰り返します。アブラハムはこの時も言い返して今度は約束の証拠を求めます。すると神は何やら意味ありげな儀式を求めます。エレミヤ書(34:18-20)にはよく似た儀式が契約締結の儀式として記されます。契約を破ったらその者も破られると説明されます。
 同じ日のことと明記されてはおりませんけど、星空を見上げたのと動物を切り裂いた儀式とは一続きの出来事と見ていいでしょう。儀式を行うのにどれぐらいの時間が掛かったのでしょうか。再び夜が来ます。まだ夕方というのに、ハゲタカを追い払った疲れでしょうか。アブラハムは深い眠りに落ちます。この深い眠りという言葉は天地創造物語のエバの創造の箇所でも使われている言葉です。尋常の眠りではありません。
 いよいよ日が沈みますと、最初に幻の中で語り掛けた神が再びアブラハムに語り掛けます。深い眠りの中にいるのですから今度はアブラハムは何も言い返しません。アブラハムが神の言葉を聞いて何と思ったかも分かりません。神の一方的な語りかけが始まります。神はアブラハムの子孫たちのエジプトでの苦しみと出エジプトを語ります。
 いよいよ日が沈みますと「突然、煙を吐く炉と燃える松明が」現れて切り裂いた動物の間を通ります。もちろん、これもまたアブラハムの見た幻でありましょう。そして神はアブラハムに土地を与える約束を繰り返します。今度は単に語り掛けるのではなく契約であると記されます。契約というからにはアブラハムもサインしなければなりませんけど、おそらくアブラハムは深い眠りに落ちたままです。そうしますとこれは無力な人間に対して神が一方的に宣言する契約でありました。
 今月は教会暦では降誕前節です。降誕前節には天地創造から始まる神の救済の歴史を急ぎ足で読み進みます。今週はアブラハム、来週はモーセです。今日の物語で神がアブラハムに語った出エジプトの物語も、イスラエルの民が自分たちの力でエジプトを脱出したのではなく、無力な人間に対して神が一方的に働きかけて実現します。
 アブラハムの歩みも出エジプトの出来事も神の導きによるものです。しかしアブラハムへの約束の実現には長い時間が掛かりました。今日の物語の後も、アブラハムにすれば約束はどうなったんだと思うであろう場面が続きます。モーセにしても、なんでファラオと10回も交渉しなければならないんだ、と内心何度も思ったでしょうし、荒野の40年の放浪も一世代以上の時間でした。
 預言者たちの語ったメシアの出現までも長い時間が掛かりました。イザヤから数えれば約700年、マラキから数えても約500年の時間が掛かっています。イエスが弟子たちに約束された主の再臨も、以来2000年まだ実現していません。
 主の御降誕を祝うクリスマスが今年もあと一月半でやってきます。クリスマスは神の救済史の重要ポイントです。
 神の導きには私たち人間とはスケールの違う長い時間が必要なのでありましょう。それでも、歴史の大きな流れは神の国の実現へと向けた神の導きの中にあります。神が私たちを導いてくださることを信じて日々の歩みを重ねてまいりましょう。

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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