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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年4月10日
受難節第6主日、棕櫚の主日
主日主題:十字架への道(エルレム入城)
聖書 ルカによる福音書 19章28-40節
讃美歌21 521、443
「いと高きところには栄光」
受難週の主日を迎えました。御存知のように、この主日はイエスと弟子たちの一行が過越祭のためにエルサレムに到着したとされる日であり、棕櫚の主日とも呼ばれます。ところがルカ福音書の記事にはシュロが出てまいりません。イエスを迎えた民衆がシュロの枝を用意したのはあとの3つの福音書です。後でまた申しますが、ルカ福音書の記事では群衆ではなく弟子たちが声を上げるところも他の福音書とは異なります。
この日から1週間の間に、イエスは神殿で教え、捕らえられ、処刑され、復活します。いささか忙しいと感じます。イエスと弟子たちの一行は1週間ではなくもっと長い期間をエルサレムに居た可能性もあります。ヨハネ福音書では、その過越祭の前の年の秋からエルサレムに居たように読めます。そのヨハネ福音書にしても、イエスの御受難が過越祭のシーズンであったことは他の福音書と共通しております。福音書記者たちが御受難のシーズンを書き換える必要は思い付きません。厳密に言えば1週間に渡る過越祭の中のいつであったのか、という問題はありますけれども、御受難がこの季節であったことは間違いないでしょう。
過越祭とイースターの日程に関しては多くの方が御存知であろうと思いますが繰り返してみましょう。過越祭は春先の満月の時の祭です。ユダヤ暦は太陰太陽暦です。過越祭はその月の上弦の半月から満月までの1週間を期間とし、その最終日を特に大切な祭日とする祭です。そしてイースターはその満月の次の日曜となります。福音書の記事にあるように過越祭の当日が安息日というのは実は毎年のことではありません。また、年によっては閏月の関係で過越祭とイースターが1ヶ月ずれることもあります。
さて、ルカ福音書では、シュロの枝のこと以外にも、民衆が「ホサナ」と叫ぶのではなく、弟子たちが神を賛美するところが他の福音書とは異なります。しかも、その賛美の言葉をルカは微妙に書き換えております。その結果、わたしたちは、これはクリスマス物語で天の大軍が神を賛美して歌った言葉(2:14)と大変よく似ていることに思い至ります。身も蓋もないことを言えば、順序はおそらく逆でありまして、エルサレムに到着した時の民衆の言葉を、ルカが弟子の口に移した上で、クリスマス物語にも入れ込んだのでありましょう。それはルカがこの福音書を記すにあたり、イエスの生涯のその最初から御受難に向けて書き進めようと意図していたことを示しております。
エルサレムが近づいた時、イエスは2人の弟子に命じてロバを連れてこさせます。弟子たちは村に入り、見つけた子ロバを連れ帰ろうとします。弟子を見とがめた人が声を掛けます。過越祭が近付いて巡礼者が増えている時です。巡礼者に混じってロバ泥棒もいたのでしょう。弟子たちに声を掛けた村人の反応はとても自然なものです。弟子たちはイエスに言われたとおりの事情を答えます。「主がこのロバを必要としています」。弟子たちの話す言葉ガリラヤの言葉・ガリラヤ弁でありました。この村人は過越祭の巡礼のためにガリラヤから来る預言者イエスの噂を聞いていたのでありましょう。ロバの使用を許可します。
弟子たちは上着を脱いでロバにかぶせ、イエスを座らせます。平和の王がエルサレムに来る時、戦場では役に立たないロバの子に乗ってくる、と預言したのはゼカリヤ(9:9-10)です。群衆は、シュロの枝ではなく、彼らの上着を道に広げて出迎えます。これは王を迎える時にすることです(列王下 9:13)。群衆にはガリラヤからの巡礼者も多かったことでしょうし、彼らも咄嗟にゼカリヤの預言を思い起こしたのでありましょう。
ロバに乗る預言者に群衆も興奮したのでしょうけれども、弟子たちは群衆以上に興奮したに違いありません。それまでに経験したイエスの様々な奇跡を思い起こして、神を賛美し始めます。
実際のところ、この弟子たちの言葉はたしかに弟子たち自身の言葉でもありましょうけど、元来は、マルコとマタイ、そしてヨハネが伝えるように、むしろ民衆の叫んだ言葉でありましょう。ルカは何を思って神を賛美するこの言葉を群衆ではなく弟子に叫ばせたのでしょうか。その理由は、ルカ福音書の冒頭にあるテオフィロ閣下への献呈辞や、使徒言行録の冒頭でマッテヤが12人の一人に選ばれた記事を見ると分かります。群衆の一人一人はイエスの働きのごく一部しか見ていません。弟子たちであればイエスの働きを最初からずっと見ております。ルカに依れば、メシアを遣わされた神を賛美する言葉は、イエスの働きをその最初から共に居て見ていた弟子たちにこそ語らせなければならないのです。
「天には平和。いと高きところには栄光」。これは弟子たちの心からの賛美であったと同時に、今もわたしたちの賛美の祈りでもあります。
わたしたちは、2000年前の出来事を自分の目で見ることは出来ません。しかしながら、ルカを始めとした福音書記者たちによって、イエスの働きをその始めから終わりまで読むことが出来ます。聖書の御言葉を通して、主に捕らえられ、主に呼ばれて、その御姿を胸にしながら、神を賛美し、主に従って歩み続けてまいりましょう。
合わせて読みたい ゼカリヤ書 9:9-10、詩編 118:25-26、
ルカ 1:14、使徒 1:21-22
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年4月3日
受難節第5主日 主日主題:十字架の勝利
聖書 ルカによる福音書 20章9-19節
讃美歌21 11、443
「ぶどう園の跡取りを」
イエスが神殿で民衆に教え、また、福音を告げ知らせている時に、祭司長たちが割り込んできます。そこでイエスと洗礼者ヨハネについての権威問答があり、祭司長たちが遣り込められた後、今日の譬え話が語られています。イエスも洗礼者ヨハネも福音として「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」と語ります。ここでも民衆に神の国の接近を語っていたのでしょう。
その民衆とは祈ったり献げ物をしたりするために神殿に集まる人たちでした。しかも過越祭を目前にしたシーズンです。イエスと弟子たち自身がそうであったように、時間とお金を掛けて集まる巡礼者たちが含まれます。彼らはイスラエルの神への信仰をしっかり持つ人たちでありました。あるいは別の言い方をしますと、神殿に入ることを許されない人たちではありませんでした。
割り込まれたイエスも、聞いていた民衆も、少なからず気分を害したのではないでしょうか。元々民衆は割り込んできた祭司長たちのことをあまり快く思っておりません。その時、民衆に向かって教えを中断して語ったのが今日の譬え話でありました。
伝統的にこの物語は、ぶどう園をイスラエルの国と民、ぶどう園の持ち主を神、そこで働く農夫たちを祭司や王や貴族たちといった民の指導者たち、収穫を神への信仰、送り込まれた僕たちを預言者、最後に送り込まれた息子を神の子イエス、と読み込みます。イスラエルを任された指導者たちが国と民を正しく導かず、さらには預言者たちを迫害したことを語り、イエスの受難を予告したもの、として読まれます。
もう少し読み込んでみましょう。
祭司長たちは、イエスが民衆に向き直って語り始めると同時に嫌な予感がしたことでありましょう。民衆もこれが祭司長たちへの当てつけだとすぐに理解します。また、ルカ福音書の最初の読者たちは、それに加えてユダヤ戦争の指導者たち(の権力争いと内紛)をも思い浮かべたことでありましょう。
さて、農夫たちは「跡取りを殺せばぶどう園は自分たちのものになる」と言います。この譬え話が、巡礼者たち、つまりガリラヤの民衆に語られていたなら、聞き手である民衆にとってよく分かる話でありました。ガリラヤはユダヤ地方に比べて豊かな農業生産をもつ地方ですが、貧富の差の拡大と共に、多くの農民が土地を失い、小作農や農業労働者となる現実がありました。巡礼者たち自身は、借金のカタに土地を取られた人たちではないでしょうけれども、それは彼らの身近にある現実でした。
そうしますと、ぶどう園の収穫も、農夫たちにすれば単に自分たちの労働による収穫という以上に、元々はオレたちの畑で採れたものだ、という思いがきっとあります。そして、自分たちの働きに応じた収穫が手に入ればこそ、神への献げ物ができるはずなのです。(ヨセフスは、ガリラヤの農民たちの信仰は一般的にエルサレムあたりの町の住民よりも高かった、と記します。)
農夫たちが土地を失った農民であり、ぶどう園の持ち主が不在地主であったのなら、その僕を追い返した農夫たちの気持ちや状況は譬え話の聞き手にとってよく理解できます。譬え話の最後に、反乱を起こした農夫たちが殺されるのもまたガリラヤの現実でありました。農夫たちにすれば跡取りを殺してでも自分たちの土地を取り戻したい思いのあったことは想像に難くありません。
譬え話を聞いた民衆は「そんなことがあってはなりません」と言います。「そんなこと」とは何だろうか、と思います。民衆がエルサレムの人々であれば、農夫の悪行から物語の最後まで、その全てが「そんなこと」のように思えます。一方、民衆がガリラヤからの巡礼者であれば、農夫も悪いのだけど、彼らに悔い改めと赦しの機会はなかったのか?その機会があれば殺されずにすんだだろうに、という思いを強く持ったような気がします。
ルカ福音書のイエスと洗礼者ヨハネは悔い改めを強く訴えます(マタイも同様)。イエスの時代、悔い改めは神殿への献げ物として表わされ、神殿による罪の赦しが為されていました。実際には、その献げ物を買う現実があり、一方には、その献げ物を買えない現実がありました。そこにヨハネやイエスは、心の底からの思いとして神の前にひれ伏して赦しを願う悔い改めを語ります。献げ物を買えない貧しい人々にとって、その教えは自分たちには縁のなかった罪の赦しに導かれる教えでありました。まさに、福音すなわち良い知らせであり、神の国の接近の知らせでありました。その教えは、献げ物を買える人たちであっても貧しい人たちの存在に心を痛めていた人であれば福音と思えたことでありましょう。
わたしたちはすでに、イエスの語った心からの悔い改めによる罪の赦しの時代を生きています。神への信仰と罪の赦しの信仰そのものはエルサレム神殿の時代から連綿と受け継がれているものですが、加えて、今はキリストによる解放があります。それは罪からの解放だけではなく、悩みや苦しみや悲しみや嘆きを人として経験されたイエス・キリストに依る、それらの困難からの解放です。人を罪に導く困難からの解放とも言えます。主の御受難は、キリストが人としての全ての苦しみを経験された時です。その御受難によって、どのような状況にある時にも、わたしたちが支えられ、また救われていることをあらためて心に刻みたいものです。
合わせて読みたい
哀歌 1:1-14、ヘブライ書 5:1-10、詩編 54:3-9、ルカ 10:1-11
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年3月27日
受難節第4主日 主日主題:主の変容
聖書 ルカ福音書 9章28-36節
讃美歌21 285、475
「神の人に仮庵を」
今日の物語は、主の御受難と共に救いの喜びが物語の行間から湧き上がってくる物語です。先週御一緒に読みましたペトロの信仰告白と受難の予告から8日後、イエスは3人の弟子を連れて山に登ります。町を離れ、弟子たちからも離れ、心静かに祈りの時を持とうとしたのでありましょう。ルカ福音書は他の福音書に比べてイエス自身が祈る場面をいくつも描きます。今日の物語もそうです。山上の変容と呼ばれる今日の物語はマルコ福音書にもマタイ福音書にも記されますが、マルコとマタイを読んだ感触を言えば、モーセとエリヤに会うためにイエスは山に登りましたと読めます。ルカだけが祈るために山に登ったと記します。
山に登る目的があらかじめ3人の弟子に知らされていたのかどうか、おそらく知らされていなかったと思います。残された弟子たちにすれば、一緒に山に登れる3人の事を羨ましく思ったでありましょう。着いて来なさいと言われた3人は、何のために登るか知らないにしても、やはり嬉しかったことでありましょう。
今日の物語でも、イエスが祈っている間に3人の弟子は何をしていたのかな?と思ってしまいますが、3人は思い掛けない出来事、神が示す神秘に出会うのです。イエスの顔付きがただならぬものに変わり、イエス服は真っ白になります。これはイエスの聖性と栄光を示しております。
その時、ペトロたち3人はひどく眠かったとルカは記します。3人呼ばれて嬉しかったんじゃないのか、と思いますけれども、一方でこれはどこかで似たような場面があったと思えば、ゲッセマネの園の場面とよく似ております。ただし、今日の物語では3人は眠気をこらえてイエスたちを見ておりました。
1箇所だけ訳語が微妙です。30節冒頭の「見ると」です。原文を見ますと、「そして、見よ、2人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」と訳す方がよいです。ニュアンスとしては、3人の弟子が見ていると(主語が彼ら3人の弟子)ではなく、福音書記者が読者に向かって、さぁ、ここからが大事な場面だ、「ほら、しっかり見よ」と声を掛けているのです。
モーセとエリヤも神の栄光に包まれておりました。難しく考えますと、モーセは律法を意味し、エリヤは預言者の代表、でありますから、これはつまりエルサレムにおけるイエスの受難が、旧約聖書全体を踏まえたもの、つまり創世記以来の、神が民を救おうとする歴史(救済史と言います)の中に位置付けられ、意味付けられることを示しております。
もっとも、目撃した弟子たちにすれば、そんな難しいことを考えようとしたのではなく、モーセは出エジプトの英雄であり、エリヤは当時の一番人気の預言者である、ということで舞い上がってしまったのが本当のところでありましょう。細かいことを言えば、なぜモーセとエリヤと分かったのか、という説明が必要なのですが、簡単に言えば、服装や持ち物で分かったハズである、とだけ申しまして今日は先に進みます。
モーセとエリヤは、時代も方法も異なりますけれども、民を導いた預言者であり、神と直接に話ができる関係にあり、神と民を繋ぐ神の人でありました。そしてイエス自身も、神と民の関係を捉え直し、民を導き、神を父と呼び、神と民、特に神の祝福から遠いと思われていた人たちを神に繋ぎ直した、その意味ではモーセやエリヤと同じく神の人でありました。イエスの歩みは、旧約聖書に記された多くの民と共にある、と言えましょう。
いずれにしても、この光景を見たペトロは、イエスが誰なのかをようやく実感したようです。その時、弟子たちは雲に包まれ、雲の中から語り掛ける声を聞きます。これも出エジプトの時に、雲の柱が民を導いたことを思い起こさせます。
モーセとエリヤが去ろうとした時、ペトロは言います。「あなたたち3人の神の人のために仮庵(仮小屋)を建てましょう。いつまでもここに居てください」。弟子たちのための小屋は要らないのか?と思いますが、それは余計な詮索なのでありましょう。
しかし、モーセとエリヤは去ってしまいます。弟子たちと共に残ったのはイエスだけでありました。ペトロたちは気落ちしたに違いありません。ところが、そうではない、イエスだけで十分なのだ、とルカは読者に語り掛けてきます。確かにそうですね。わたしたちを本当に救いに導くのは、モーセでもエリヤでもなく、キリストであるイエスなのですから。
このあと、弟子たち、すなわち地上に残された者たちは、主が再び来られる日まで困難な人生を歩むようになることをわたしたちは知っております。彼らだけではありません。それは2000年後のわたしたちも同じです。しかし大切なことは、そのわたしたちの人生に主が寄り添ってくださっていることです。それこそが主による救いでありましょう。
わたしたちの心の中にこそ、イエスとモーセとエリヤのための仮小屋を建てたいものです。そして主と共に歩む人生を歩み続けてまいりましょう。
合わせて読みたい
出エジプト記 34:29-35、2コリント書 3:4-18、詩編 29:1-11
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年3月20日
受難節第3主日 主日主題:受難の予告
聖書 ルカ福音書 9章18-27節
讃美歌21 507、355
「あなたこそ神からの」
4つの福音書には、祈る、祈り、という言葉は何度も出てまいります。ところが数え直してみますと、その多くは教えや譬え話の中に出てきております。イエス自身が祈る場面は、マルコ福音書で6回、マタイ福音書も6回です。イエスの祈りというとわたしたちは「主の祈り」を思い浮かべますが、マタイ福音書では主の祈りも「だからあなたがたはこう祈りなさい」と語り始める教えの形で記されます。
またヨハネ福音書では、告別説教の後の祈りを別にすると、イエスが祈る場面は、5つのパンと2匹の魚の奇跡物語だけです。
それに比べますと、ルカ福音書はイエスが祈る場面を11回も記しております。主の祈りも、イエスが祈っている時に弟子たちが、「わたしたちに祈りを教えてください」と願ったのでイエスが教えた、として描かれます。
来週御一緒に読みます物語もイエスが祈っておりますが、今日の物語も、イエスが祈っている時に弟子たちに質問しております。イエスが1人で祈っていた、とわざわざ書いておりますから、その時には弟子たちは祈っていなかったのか?何をしていたのだ?と思ってしまいます。とはいえ、ここで弟子たちも熱心に祈っていたら、それを邪魔して「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか?」と尋ねるには無理があったのかもしれません。
弟子たちは、「エリヤです」「洗礼者ヨハネです」「生き返った昔の預言者です」と答えます。おそらく、市場で食べ物を買う時にでも聞いていたのでありましょう。市場のガヤガヤしたウワサ話としても聞いていたでしょうし、食べ物を売ってくれる相手との遣り取りの中で聞かされたことなのかもしれません。
興味深いことには、エリヤもヨハネも昔の預言者も、すべてすでに死んでいる人々です。あるいはヨハネが領主ヘロデに殺されたことは、まだ知られていなかったのかもしれませんが、それにしても、昔の預言者というのは間違いなく死んでおります。エリヤはいささか特別でありまして、列王記の記事(列王記下2章)を見ますと、死んだのではなく天に上げられた、と書かれております。そのためイエスの時代には、メシアが現れる前にはエリヤが再び現れる、と信じられてもおりました。洗礼者ヨハネには、彼が生きている時からメシア出現の強い期待が掛かっておりました。生き返った昔の預言者、という言葉にも、最後の審判の時には死者が生き返る、と信じられていたことを合わせて考えますと、メシア出現の期待が見えてきます。
群衆の強いメシア期待が窺えます。次の質問には弟子たちはすぐには答えられなかったようです。漠然と思っているのと、真っ直ぐに聞かれて答えるのとでは、たしかに重みが違います。イエスは弟子たちに尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。気まずい時間が流れたのでしょうか。それとも一瞬の間を置いてペトロが答えたのでしょうか。ペトロは答えます。「神からのメシアです」。ペトロの信仰告白として福音書の中でも大切な場面です。
ペトロが弟子となった大漁の奇跡(5:1-11)の時にも、2そうの船に4人乗っていたはずですのに、「わたしは罪深い者です」と言ったのもペトロだけなら、「人間を生け捕る漁師になる」というイエスの言葉もペトロに向けて語られます。今日の場面も、ルカがペトロを持ち上げて描いたのでしょうか。一番弟子と自負していたペトロが思い切って答えたのでしょうか。あるいは張り切って答えたのでしょうか。いずれにしても、ペトロがそう答えたことで、それは弟子たちみんなの思いとなりました。
ペトロの答えを聞いたイエスは、それが正解であるにも関わらず、「誰にも話してはいけない」と命じます。そしてイエスは、いつか来るであろう最後の審判の時の話としてではなく、間もなく自分自身に降りかかる出来事としての、受難と復活について語ります。弟子たちは思い掛けない話の流れを理解しかねたことでありましょう。
話に付いてきていない弟子たちにかまわず、と言っていいのでしょうか、イエスはダメ押しのようなことを幾つも語ります。理解していないながらも、あるいは、すぐには理解できなかったからこそ、衝撃的で弟子たちの記憶に強く残る言葉であったのかもしれません。イエスは言います。23節「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。24節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。25節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。
弟子たちの記憶に強く残ったこれらの言葉は、福音書が書かれた時代、ローマ社会の中でイエスをキリストと信じることの大変さの中で、あらためてその世代の弟子たちにとって重要な言葉となっていったことでありましょう。
受難節の3週目となり、今年の受難節も半分を過ぎようとしております。主の御受難を思いながら、そしてそのあとにある主の御復活を思いながら、ペトロと同じ信仰を心に、主の言葉に従って歩む日々を重ねてまいりましょう。
合わせて読みたい
イザヤ書 63:7-14、2テモテ 2:8-13、詩編 107:1-16
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