2019河北地区新年合同礼拝

2019年1月1日(火)午後2時
於:日本基督教団 香里ケ丘教会

説教 マラナ・タ教会牧師 久下倫生

「恐れるな、私だ」

マタイ福音書十四章二十二~三十三節

 

あけましておめでとうございます。新しい年の始めに皆さんとご一緒に礼拝できる。これはまことに喜びであり感謝しております。新年合同礼拝ということで年の初めにふさわしく聖書の初めから説教しようと思いましたが、数年前、交換講壇でこの教会に来ました時に、創世記一章から説教させていただきましたので、今日はマタイによる福音書から、神の助けとはいかなるものかについて考えてみたいと思います。私どもはまことに神の助けを必要としているからです。

「私だ、恐れることはない」とイエス様のお声が暗い湖の上に響きます。でも想像してみてください。逆風で悩まされ困り果てている時に、突然そう言われましても、恐れはなくならないでしょう。健康にせよ家族の状況にせよ、仕事にせよ、思うように行かず悩んでいる時に、「恐れるな」と言われましても、恐れはそう簡単にはなくなるものではないことを私たちはよく知っております。

新約聖書には、イエス様の奇跡物語がたくさん記されております。その多くが、悪霊追放と病人の癒しです。真の人、肉となって弱さを担ってくださったイエス様でも、さすがにイエス様なら可能かも知れないなという話です。しかし、これはありえないだろうと思われる奇跡も記されています。その代表が、五つのパンと二匹の魚で男だけでも五千人もの人を食べさせ満腹させられた話と、今聞きました湖の上を歩いて弟子に近づかれた話です。マタイは、その大いなる二つの奇跡を連続して語っています。この二つの話は繋がっております。マタイは、福音書の読み手である私たちに、あなたは最初のパンの奇跡の意味がよく分かりましたかと問いかけている気がします。そんなことはないだろう、イエス様は神の子なのだから何でも出来たのだという納得の仕方は、間違いではないかも知れませんが、「美しく問う」ことを邪魔します。すると信仰とは何かという思考が前進しません。そうか聖書にはそういう事が書かれているのだという発見の喜びも減ります。ペトロたちにとっては、イエス様は神ではなく先生以外の何者でもなかったのです。

マタイも、この福音書を初めに読んだ初代教会の人も古代の人ですから、現代人とは感覚が違う、科学的知識が乏しいので、こういう話を不思議に思わなかったのでしょうか。そんなことはありません。むしろ現代人の方が、まじないや超常現象など不思議な話が好きです。キリスト・トカゲというあだ名をもつイグアナがユーモラスなガニ股で水の上を走る姿をユーチューブで見て、ひょっとしたら人間も同じように水の上を歩けるのではないかと言うかもしれません。しかし、このトカゲは中央アメリカにしか生息しませんので、新約聖書の時代の人たちは水の上を走る動物など見たことがなかったはずです。自然現象を見る目は、昔の人の方が素朴かつ鋭かったでしょうから、人が水の上を歩けるかと問われたら、とんでもないと答えたはずです。この二つの話は、読み手が「えー」と首をかしげてこの先もうこの福音書を読まなくなる危険性があるにもかかわらず、連続してたたみ掛けるように記されております。どうしても伝えたいことがあるからです。ではそのどうしても伝えたいこととは一体何でしょうか。

そこで、今日のテキストから外れてしまいますが、直前のパンの奇跡の話を少しだけ振り返ります。新しい教えを説く先生が現れた、ひょっとしたら救い主ではないかとの期待が高まり、食べ物がないような寂しい所へ、男だけでも五千人もの群集が押しかけてきました。そこでパンが与えられたのです。五つしかないパンで、全ての人が食べて満腹した、残ったパンくずも多かったとありますから、私たちはパンが増えたはずだと思うのですが、どこにもパンが増えたとは書いてありません。マタイは、パンが増えた、すごい奇跡だろうとは言っておりません。伝えたい急所はパンが増えたかどうかではなく、食べ物がない所で、みんなが食べて満腹したということです。エジプト脱出のとき、神がなさったマナの奇跡、そこには神がおられたことを想い起こして、群集は大喜びしたのでしょう。神がここにおられると感じたのです。モーセとイエス様が重なります。イエス様の出来事は、どの出来事もそうなのですが、みんなが知っていた旧約聖書の出来事と重なっております。

当時の人々は、昔ならエジプト、今はローマから自分たちを解放してくれる指導者、新しい王、メシアを待ち望んでおりましたから、イエス様を自分たちの王に担ぎあげ、何とかしてもらおうと願ったのです。人々のこの期待が救い主の本当の姿を誤解していることからきていることをイエス様はよくご存知でした。バプテスマのヨハネが殺された。群衆は熱狂している。さあ、どうするのか。祈らずにおれない状況だったはずです。そこでまず弟子たちをガリラヤ湖の反対側へ先に行かせ、群集には解散を命じ、ご自分はひとり山に登って祈られました(二十三節)。神のみ旨を問い続けられたことでしょう。

「強いて舟に乗せ」という書き方から分かりますが、有無を言わせず弟子たちを舟に押し込まれたのです。舟は、すでに陸から何スタディオンか、つまり一、二キロくらいでしょうか(スタディオンは二百メートル弱)離れています。そこへ湖を囲む山から突風が吹いて、目的地になかなか着きません。プロの漁師が乗っているのですから、本当ならすぐ着くでしょう。ところが一晩掛かって夜が明ける頃になっても、まだ逆風のため波に悩まされていたと書かれています。こんな状態の夜の湖は恐れと不安に満ちております。混沌の闇の象徴です。このときの弟子たちの気持ちを想像しますと、なぜイエス様は自分たちだけを舟に乗せられたのか、もし一緒にいてくださったら、こんな嵐に悩まされなくてもよかったのではないか。何をしておられるのだろうか、私たちがこんなに困っているのに。おそらくそういう気持ちだったでしょう。弟子たちは以前にも一度イエス様が嵐を静めてくださった経験をしております(八章二十三節以下)ので、なおさらなぜ一緒にいてくださらないのかという気持ちが強かったと思います。前の時は、イエス様は眠ってはおられましたが一緒に船に乗っておられました。今回は嵐を静めて下さる方が共におられないのです。

ところが夜が明けるころ、なんとイエス様は嵐の中、湖を歩いて弟子たちの船に近づかれました。「イエスは湖の上を歩いて弟子たちの所に行かれた」(二十五節)とあります。不思議だと思いますが、実は、この福音書を読んだ初代教会のユダヤ人は、旧約聖書のアブラハムやモーセ、エリヤが神に出会った時のことから、この言葉に、はっきりとしたイメージを持っていたのです。アブラハムが眠りについている時に、モーセが急いで地に伏せている時に、エリヤが顔を外套で包んでいる時に、神は彼等のすぐそばに歩いて来られました。神はモーセやエリヤの前を通り過ぎられたと旧約聖書には書かれています。人は神を見ることは出来ません。ですから「通り過ぎる」という表現は、「通過する」ことを意味するのではなく、神がお姿を現わされた、神が傍に来てくださったという意味なのです。ここでも、イエス様が水の上を歩かれたということより、歩いて傍に来てくださったことに重点があります。弟子たちを一刻も早く助けるためなら、空を飛んで来られても、水中を潜って来られてもよかったのですが、歩いて来られたというのが旧約聖書の言い方であり、意味のあることなのです。

人は何か不思議なこと、理解を超えることに遭遇すると恐れを感じます。弟子たちも、イエス様が一緒にいてくださればと願っていたにもかかわらず、実際にイエス様が近づいて来られたとき、超自然的な出来事にイエス様だとは気付かず「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり声を上げて叫んだのです。弟子たちの気持ちがよくわかりますね。

ここでイエス様がおっしゃったのが、「安心しなさい、私だ。恐れることはない」(二十七節)というお言葉です。「私だ」というのは、何か合理的な、納得させる説明ではありません。しかし、人格的な信頼を呼び起こす言い方です。「私だ」「私がいる」と言われたのです。元の言葉では「エゴー・エイミー」、アイ・アムです。この「エゴー・エイミー」という言い方は、神がご自分のことを表されるときに使われた特別な言葉です。神がモーセにおっしゃった神のお名前です。「私はいる、私は確かにいるのだ」、これをギリシア語でいうとこうなるのです。「恐れることはない」とおっしゃったのもよくわかります。「私は幽霊ではないから恐れるな」ではなく、「私が共にいる。だから恐れることはない」とおっしゃったのです。「恐れることはない」、「大丈夫だ」という以上に、「私だ、私がいる」という言葉に焦点があります。

イエス様はものすごく重大な場面でも、驚くほど親しげにお話しになります。この福音書の最後はご復活の場面ですが、厳粛にして驚くべき奇跡的場面で、二人のマリアにイエス様がおっしゃった言葉はこうです。「おはよう」(二十八章九節)。口語訳では「平安あれ」となっておりましたが、これはシャロームとか、そのギリシア語にあたるエイレーネーではありません。もっとありふれたあいさつの言葉(カイレテ)です。「元気かい」とか、「こんにちは」という感じです。イエス様が共にいてくださる、それは宗教的で特別な祈りの結果というよりも、ありふれた日常のことなのです。少なくともイエス様の言葉遣いはそうです。そして、おっしゃったのです。恐れることはない。行ってわたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会うことになる。「恐れるな、私に会うのだから」。

さて、イエス様に話しかけられて、ペトロは「あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と直ぐ反応しております。ペトロはイエス様に対する信頼を表しております。イエス様は「来なさい」と命令されます。ペトロはその言葉に従って、舟から降りて水の上を歩いてイエス様に近づきます。しかし、イエス様だけを見ていればよかったのですが、強い風に足がすくんだのでしょう。その途端に沈みかけます。そこですぐに「主よ、助けてください」と叫びました。これは詩編にある祈りの言葉です。「神よ、私を救ってください。大水が喉元に達しました。・・・奔流が私を押し流します」(詩編六十九篇二節以下)。主は直ぐに手を伸ばして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃいました。信仰の薄い者と訳されていますが、「お前の信仰は小ちゃいなあ、何で疑ごうたんや」とおっしゃったのです。信仰は厚い薄いとか、あるとかないとか言わずに、大きい、小さいと言います。信頼していても、ふっと疑問が沸き上がることがあります。主はそれを叱られたのではなく、その疑いを受け入れ、手を差し伸べられたのです。弟子たちが「本当にあなたは神の子です」(三十三節)と言ったのは、この後、イエス様とペトロが舟に乗り込んで、風が静まって完全にほっとした後でした。

聖書が語る奇跡は、信じられないことが起こったのだ、すごいぞという不思議さだけを語っているのではありません。不思議で奇跡的な業は悪魔でも行うことができます。イエス様が祝福してお配りになったパンは、量が少なかったにもかかわらず大勢が満腹するものでした。神が共にいて与えてくださったのです。弟子たちが嵐に翻弄されて困っている時、湖の上だったにもかかわらずイエス様が歩いて傍に来てくださいました。神が人となって私たちの所に来てくださった。これこそが本当の奇跡なのです。

イエス様が強いて、つまり有無を言わさずペトロたちを置かれた場所は舟でした。舟は漁師にとっては生活の場そのものでした。この福音書が書かれた頃の人にとっては、教会が信仰共同体の生活の場でした。ですから、ペトロたちにとっての舟は、この福音書の読み手にとっては、まさに教会のことだったのです。信仰によって教会員は団結していました。しかし、現実は甘くありません。ユダヤ教社会からはじき出された初代教会は、ローマから見ると非合法の新興宗教集団です。弾圧の対象でした。捕まって殺されないか、仲間のユダヤ人から密告されないか、その不安の先に見通しが立ちません。教会は、嵐の海に浮かんでいたのです。けれども弟子たちと同様、イエス様が共にいてくださることを経験していたのです。そういう状況でこの物語は読まれました。どんな困難の中でも主が傍に来てくださる。それは単に心の中の願望ではなく、「現実に迫るもの」です。「リアリティーがあった」のです。

これはまさに私たちの姿です。今ある私の生活というのは、私が造り上げたものというより、与えられたもの、強いてそこに置かれたものであることが圧倒的に多いのです。親を選んだ人はありませんし、学校を決めるのも、自分の成績や、親の経済力、あるいは専攻等によっては選択の余地なしのことが結構多いものです。仕事もそうでしょう。好きな仕事に就けるとは限りません。そんな中でいろんな困難に直面します。なかなか思うように事は運びません。果たしてお金は足りるか、病気は治るか、仲直りできるか。私たちもイエス様への愛と信頼そのものは失ってはおりません。イエス様が私たちと共にいてくださる。水の上をも歩いてでも傍に来てくださる。この事実は信じています。風がなく順風満帆ならば「イエス様こそ救い主」と信仰を言い表せます。しかし、風を見ると恐ろしくなるのです。自分を飲み込むかもしれない現実、沈むのではないかという不安、これにおびえるのです。イエス様から目をそらしてしまいます。でも大丈夫です。ペトロの疑いを受け入れて手を差し伸べて下さったイエス様は、私たちの疑いをも受け入れ成長させてくださいます。神の助けとは、嵐が襲って来ないことではありません。たとえ嵐の中にあっても共にいてくださる、それが神の助けです。

私たちはこのように一緒に礼拝をしています。既にみんな同じ舟に乗っているのです。同じ一つの食卓を囲みます。それでも、嵐の中で舟から降りて水の上を歩いている感じがする時があります。自分が沈んでいくのが分かります。思わず祈ります、助けてくださいと。その途端です、手を伸ばして捕まえ、お前の信仰は小さいなあ、なぜ疑うのかとおっしゃって、舟に戻してくださるのです。これは私の経験であると同時に、皆さんの経験でもあるでしょう。そして「私がいる、恐れることはない」とおっしゃってくださるのです。わたしたちの小さい信仰による敗北は、祝福ですらあります。繰り返します。いま私たちは一緒に舟に乗っています。元気に賛美して新年を始めましょう。

祈ります。
天の父なる神、私たちの傍にイエス様を、お送りくださったことを感謝します。神が人となって私たちのところに来てくださった、これほどの奇跡を他に知りません。イエス様が私たちと共にいてくださり、「私がいる、恐れることはない」とおっしゃってくださる恵みを感謝します。礼拝し、賛美しながら、イエス様と共に歩み続けられますよう導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

音声

 

 

 

 

 

 

 

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