降誕節 2019-2020

2020年1月19日 降誕節第4主日
「律法と約束」
ガラテヤの信徒への手紙 3章15~20節

 

2020年1月12日 降誕節第3主日
「祝福の基」
ガラテヤの信徒への手紙 3章6~14節

聖書を読んでおりまして不思議に思うことの一つにこういうことがあります。それは、いったい、なぜ、いつ頃から、キリスト教会はユダヤ教とは全く別の共同体として分離したのだろうかということです。これは、なぜプロテスタント教会は、カトリック教会から分離したのだろうかという疑問とよく似ているのではないかと、教会を見ていて思います。パウロがユダヤ教から離れようと思っていなかったように、ルターもカトリックから出ることを意図していなかったように思えるからです。パウロは、明らかに自分のルーツに誇りを持っています。ユダヤ人なんかに生まれていやだ、損したなどとは一言も言っておりません。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」(フィリピ三章五節)と言い、また「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(二章十五節)と言い切っております。言い方にユダヤ人の誇りを感じます。パウロの論争はあくまでもユダヤ教の枠内での論争です。イエス・キリストによってもたらされた神と民との新しい関係性は、これまでイスラエルを導いてきた神の救いの業の延長線上にあるものです。キリスト教がユダヤ教から切り離されたのは、一世紀の終わりに律法学者がヤムニアという所で会議を開いて、キリスト教会をユダヤ教から完全に追い出す決定をしたからだと言う人もおります。いずれにしてもパウロがこの手紙を書いている時点では、教会はユダヤ教の枠内にありました。救い主はユダヤ人が待ち望んだメシアであって、イエス・キリストの信仰を介した救いは旧約聖書の約束が実現したのだと理解されております。だからこそ、信者の中に異邦人が増えてきたことで、重大な問題が生じたのです。「いったい神の民とは誰なのか」という問いです。ユダヤ人だけなのか。そうではないのか。

イエス・キリストは純粋なユダヤ人です。神の恵みを現わすお方として来られたメシアがユダヤ人としてお生まれになったのなら、神の民を構成する民はユダヤ人ではないのか。それとも異邦人も含まれるのか。わたしたちにとって、それはあまり大きな問題ではありません。ユダヤ人でないわたしたちも神の民なのだ、それは信仰によって認められたのだからと言い切れます。ある意味で都合の良い理解ができるからです。しかしユダヤ教の枠内にあった当時、この問いは大変深刻な問いでした。なぜなら、もし神の民がユダヤ人だけではなく異邦人も信仰によって神の民とされるのなら、あんなに大切にしてきた律法とはいったい何だったのかという問いが出てくるからです。ユダヤ人がユダヤ人であるのは、とりも直さず律法を持ち律法に従って生きているからです。それなのに律法を持たない異邦人も神の民とされるのなら、律法の位置づけがどうなるかわかりません。今のわたしたちは自明のこととしていますが、当時は大問題だったのです。キリスト教がこの当時の人々に広がっていくためには、この問題に明快に答える必要がありました。わたしたちも、神の民とは誰か、律法とは何か、この二つのことをもう一度しっかり考えてみつつ、今日の御言葉を読んでいきたいと思います。

神の民とは誰かという問いは、キリスト教信者と信者でない家族や友人との関係を考えるわたしたちにとっても大事な問いです。洗礼を受けた信者だけが神の民で、そうでないものは神の救いから漏れているのでしょうか。「先生、うちの夫は洗礼を受けておりませんが、死んだら天国に行けるでしょうか。わたしは天国で、彼は地獄というのは大変つらいです」というのはよく聞く疑問です。そういう方がおられますのとは逆に、「いやいいんです、死んだらわたしは天国、あの人はきっと地獄行です。どうせお墓も別々ですから、今は我慢しているんです」。もしこの世界の人々が皆さん神の民なら、いったい教会はなんのためにあるのでしょうか。伝道しなくてもいいのでしょうか。

「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(六~九節)。パウロは「アブラハムは神を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という創世記十五章六節の言葉をそのまま引用して話を展開していきます。何度も申しましたが義と認めるとは、正義の人だという意味ではなく「神との関係において正しいふるまいをした」「神がごらんになって関係を正しく捕らえたふるまいだと賞賛された」ということです。関係性を指すのが義、ツェダク、ディカイオシュネーという表現です。パウロは「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と言っております。ここでの信仰が人の信仰かキリストの信か、どちらも意味するのか、しばらく括弧に入れて先に進みます。神は、やがて異邦人も信仰によって義とされると見通しておられたので、旧約聖書では、アブラハムに予告してこうおっしゃいました、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記二十二章十八節)。ユダヤ人ゆえに異邦人は皆祝福されるということです。これが大変有名な予告で「あなたは祝福の源となる」(創世記十二章二節)といわれております。ご記憶の方も多いでしょう。ベテル聖書研究会でだいぶ前になりますが「祝福の基となる」と学びました。アブラハムが義とされた、神の前に正しいとされたのは、律法をきちんと守ったからではなく信仰によると言われております。そもそもアブラハムは律法を知りません。律法が定められたのはモーセの時代ですから、アブラハムより何百年も後のことです。律法もなく、業もなく、功績もなく、ただ神の憐れみによって義とされたのがアブラハムです。まるで信仰があるかのように、神を信じた、あなたの信仰がと言われております。ですから、わたしたちもキリスト・イエスの信仰を介して、祝福されると理解する方がいいでしょう。

「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」(十~十二節)。先程のあと、今読みました十節以下のパウロの説明はずいぶん飛躍しております。「律法の実行に頼るものは誰でも、呪われています」とまで言って、律法ではだめだと決めつけているように聞こえます。なぜかという説明が詳しくなされないまま、結論が先に出てきています。しかし、これは矛盾ではないでしょうか。「ユダヤ人は優れた律法を持っていて罪びとではない」と言っているのに、「律法を実行するものは呪われている」と言っています。律法を守らないと呪われるぞと律法の書が言うのですから、守ろうとします。すると今度は律法の実行に頼るような奴は呪われるぞと言うのですから筋が通りません。新共同訳の訳では何を言っているのかよく分かりません。日本語に訳した人もおかしいと思ったのでしょう、「律法を実行する者」ではなく「律法の実行に頼る者は」と、あえて悪しき律法主義をにおわすニュアンスに変えています。

「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてある」と言っているのは、申命記二十七章二十六節、「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」を受けてのことですが、ここで言われている「この律法の言葉」とは、近親相姦や強盗、殺人を決して犯してはならないという法律の言葉を指していることは申命記の文脈から明らかです。そうしますと、そういう規則を守るのは人として当たり前であって、法律を守っていますので祝福してくださいというのはおかしいでしょう。これが律法の実行に頼る者の意味です。殺人をしませんので、それを根拠にして祝福してくださいなどという者があれば、あまりにも自分勝手で確かに呪われても仕方がないかもしれませんね。人を殺さないのは当たり前です。

わたしは、こう思います。律法と訳されているもともとの言葉はトーラーというヘブライ語ですが、新約聖書ではギリシア語ノモス、法律と訳されております。けれどもトーラーは必ずしも法律ではありません。トーラーは一義ではなく多義です。少なくとも異なった二つ以上の意味があります。トーラーといえば普通モーセ五書を指します。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記までの五書です。もう十年以上、マラナ・タ教会では皆さんしっかり読んでこられましたからすぐお分かりでしょうが、五書は決して法律集ではありません。むしろ物語です。天地創造の物語、アブラハム物語であり、ヤコブ物語であり、出エジプト物語です。パウロはトーラーを法律の意味で使ったり、神の救いの物語として言及したりしています。この点を押さえておくことがパウロの書簡を読む時には重要だろうと考えます。

そうしますと十節の言葉は、パウロがトーラーを法律の意味で使ったり、神の救いの物語として使ったりしていることを踏まえると、「わたしはイスラエルの民に与えられた救いの物語、トーラーを誇りにしています。こんな素晴らしい物語を財産として持っている民族は他にはいません。しかし一方で、トーラーに含まれる規則を守れば、それで神からの祝福に与れると考えるなら、それは祝福されるどころか呪われることになります」と読めるのではないでしょうか。同じ単語が違う意味を持つ、信仰や律法という言葉は注意深く読む必要がありそうです。

このように読みますと「律法によっては誰も神の御前に義とされないことは明らかです」の意味もよく分かります。ここでいう律法は「殺すな、盗むな」という戒めです。他人の物を盗まなかったからと言って神との関係が正しいとまでは言えませんね。「正しい者は信仰によって生きる」からですとパウロは言います。全く同じ文言をローマの信徒への手紙一章十七節でも使っていますが、そこでは「『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と言っています。書いてあるとは、旧約聖書ハバクク書の二章四節「神に従う人は信仰によって生きる」という言葉を指しているのでしょう。神の御前に正しいとされる者、義とされる者は、信仰によってなのだということです。ですから、ここで言われている信仰はやはりキリスト・イエスの信です。自分の信仰ではありません。以前の説教で、この「信仰」と訳されている言葉を「信頼性」と訳す斬新な例もあるが賛成できかねると申しましたが、こういう所でもそれがはっきりします。「正しい者は信頼性によって生きる」では日本語として意味不明です。「正しいものはキリスト・イエスの信によって生きる」の方がいいのではないでしょうか。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」(十三、十四節)。律法を守っているからこれでいい、律法を守ることで裁きから逃れられるという誤解が通用するならば、律法遵守は信仰を誤らせる呪いですらあります。またガラテヤの人々が、もし割礼を受けるという逆行行動をして律法を守らなければならないとなれば、それは神の救いから異邦人を遠ざけることになります。律法の呪いと言われても仕方がありません。キリストは、この呪いを取り除くために来てくださったとパウロは言います。パウロはキリストの十字架の姿を再び指し示します。十字架上のイエス様は、祝福されたお姿ではありません。木にかけられて殺された者は呪われた者だというのが旧約聖書の教えですから、十字架にかけられたものがメシアであるはずがない思う人も多いでしょう。にもかかわらずイエス様は自ら十字架にかかり、神に裁かれた者のような最後を遂げるることによって、呪いを終結してくださったのです。キリストがご自身を呪いの下においてくださったので、わたしたちは呪いから免れたのです。そんなことは余計なお世話だ、わたしは自分で呪いを解くというのは、神の前では全くの傲慢で罪です。

神の約束による人への祝福は、アブラハムを起点としています。そしてこの約束、祝福の成就は、エン・クリストー、キリストの中でもたらされました。パウロが繰り返して語る「キリスト・イエスにおいて」とはイン・クライストです。キリストにおいてという訳は与えるイメージが弱すぎます。キリストの中にあってこそ、ユダヤ人は呪いから解放され、異邦人はアブラハムを通じて与えられた神の約束による人への祝福を得ることができるのです。中と外にははっきりした境があります。枚方でこれこれが起きるというとき、イン・ヒラカタとあれば、それを経験するには必ず枚方に来るか留まらなければなりません。行動し参与せねばなりません。十一節で「律法において」とパウロが言っていたのも、律法の中においてです。エン・ノモー、イン・ザ・ロー。律法の中にいては誰も神との関係を正しいとされないということです。キリストと律法が対比されています。今やわたしたちは、異邦人にまで至った神の祝福を通して、約束された聖霊を受けております。祝福の基となる。それはアブラハムだけでなく、わたしたち一人一人にも与えられた素晴らしい約束です。いまや、キリスト・イエスの信によってわたしたちも信仰が呼び起こされ神の救いに与ることができました。さあ、キリストの信に応答し、その祝福を世界に広めていく使命を果たそうではありませんか。それができればユダヤ人もキリスト信者も、カトリックもプロテスタントも区別がありません。みんなが祝福の基となるのです。

祈ります。
父なる神、アブラハムを通じてあなたが与えてくださった祝福の約束をイエス様が成就して下さいました。またわたしたちは、キリスト・イエスへの信によってあなたの前に正しいものとされ聖霊を与えられました。感謝します。どうかあなたによる新しい命に生かしてください。そして与えられたあなたの祝福を自分たちだけのものとしてしまうことなく、祝福の基として生きていくことができますよう支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

1月12日の音声


 

2020年1月5日 降誕節第2主日
「律法か福音か」
ガラテヤの信徒への手紙 3章1~5節

あけましておめでとうございます。今年もわたしたちの合言葉「キリストの中にあって、イン・クライスト」で共に祈り、お互い助け合って歩みましょう。四月からの新しい出来事に期待しながら、残された三ケ月を共に前進したいと思います。特に今月開催します賛美のコンサートが成功し、賛美と伝道の業が進みますように祈りましょう。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリスト『の』信仰によって義とされると知った」(十六節)という言葉を先週再度学びました。合言葉のようになった「ただ信仰によってのみ」は、わたしたちプロテスタント教会の一枚看板であり、現代に至るまでの信仰告白や信条集においても「義認の教理」として重要な働きをしてきました。神の前では、異邦人であってもただイエス・キリストの福音に生きる者がよしとされる。信仰こそが問われるということです。この表現についての歴史的誤解、「イエス・キリストの信仰」と理解すべきところを、「イエス・キリストへの信仰」と違った読み方をしてきたことと、その弊害について詳しくお話しました。大事な点は、わたしたちが神との正しい関係に生きることができる、つまり「義とされる」のは、自分の信仰によるのではなく、「イエス・キリストの信仰を介して」だということです。

パウロは、自分が律法を頭で学んだだけではなく、律法が身に沁み込みこんで身体化するまで真剣に学んだことによって、キリストの到来による律法の役割の変化に気づき、逆に律法から解放されたと言いました。「律法に対しては律法によって死んだ」と表現しています。そして「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言います。わたしはキリストと共に今も十字架につけられている。キリストと運命を共有している。キリストの十字架は過去の過ぎ去った出来事ではなく、ずっとその状態が続いているという意識です。そして「キリストと共に死ぬ」から、「キリストと共に生きる」に変えて、今生きているのは、もはや以前のわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられ、わたしがキリストの中に生きているのだと言います。その上で「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と述べました。今、現に生きているのは「神の子が持っている信仰への信頼」によると言ったのです。信仰とは「わたしたちの外に」あるもので、決してわたしたちの中から涌いてくるものでも頑張って獲得するのでもありません。与えられるものなのです。「キリストを信じる」と言いますが、キリストに対する信仰の主体はあくまでキリストの側にあります。

ここで、もともとの問題が何であったか思い出してみましょう。ガラテヤの教会にはユダヤ人の信徒と共に異邦人の信徒もたくさんいました。そこで、割礼を受け食事や安息日規定を守るといった律法を守ることが必要かという問題が出てきたのです。パウロは、異邦人は律法を守ることは必要でなく、キリストとの交わりによる共同体を形成し神の命を生きることが大事だと言いました。福音は一つであって、福音による一致の基礎は「エン・クリストー」キリストの中に生きることにあるといったのです。ところがパウロの後から、異なった教えを説く人々がやってきて、ユダヤ人でない者がキリスト者となるには、洗礼だけでなく割礼も受ける必要があると言い出しました。旧約聖書にある、神の祝福に生きる者はまず割礼を受ける定め、それが前提でしょうと言ったのです。しかもアンティオキアではペトロが異邦人と同じ食卓について交わることから身を引くということが起こりました。パウロは使徒ペトロでさえ公に批判せざるを得なくなります。こんな中でパウロはガラテヤの人々に手紙を書いています。

大勢の異邦人を教会の仲間に入れよう、その方がいいだろうというような打算で動いているのではありません。この世での神の祝福とはいったい何か、神との交わりに生きるとはどういうことなのかというきわめて大事で、譲ることのできない問題を論じているのです。とても大事なことなので、口調に緊迫感があり、辛辣な皮肉を控えようともしていません。パウロの荒々しいまでの息遣いが感じられます。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなた方を惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(一節)。パウロから見るとガラテヤの人々は異なった教えを説く教師の呪縛にかかっている。惑わしたとは、悪意あるものの見方をさせているという意味です。一方で、わたしはあなた方にキリストが十字架につけられた姿を見せ福音の内容を示したではないか。キリスト・イエスの信を媒介にしてこそ神との関係は正しくされるとあなたがたの前ではっきり告知したではないか。それなのに悪意ある教えに洗脳されかかっている。目を覚ませと強い口調で語っています。「ああ、物分かりの悪い人たち」とは、ずいぶん強い表現です。わたしたちの言い方なら、「ああ、お前らほんまにあほか」ということです。分かってほしいという強い願いに親近感と憤りが入り混じっているようにもとれます。

「あなた方に一つだけ確かめたい。あなた方が霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(二節)。これだけはあなた方に聞いておきたいと前置きしてからパウロは問題の本質に迫ります。どういう経験があったのかはっきりとはわかりませんが、ガラテヤの人は霊を受ける経験をしたようです。誰もが聖霊を受けたとわかる大きな出来事を経験したのでしょう。異言を語ったのかもしれませんし、何か奇跡的な出来事があったのかもしれません。いずれにせよ、これまでの生き方を根本から覆される何らかの経験をしたのでしょう。そのことについて、それは律法によるのか、それとも福音によるのかと核心をついてパウロは尋ねます。ただ律法か福音かと聞いているだけでなく、「行ったからか、聞いたからか」と対比しています。すなわち「律法の業」によるのか、それとも「福音のメッセージ」によるのかということです。もちろん答えは明らかです。わたしたちは信仰を与えられて過去の束縛や挫折から解き放たれ、全く新しい生き方ができるようになった。また、長い不安の旅を終えて、やっと落ち着ける故郷にたどり着いたような経験をした。それらはまさに聖霊の働きがあったとしか言いようのない経験であったけれども、その経験は、わたしたちが「何かをしたから」なのか、それともイエス・キリストの信を表す十字架の贖いを「信じたから」なのかを考えてほしい。思い出してほしい。わたしたちの新しい生き方は、十字架につけられたキリストを聞いたからではなかったかと言っております。いつも申しあげていますように、わたしたちが信じることが先に来るのではなく、神がなさったことが先に来ます。わたしたちが何かをしたからではなく、神がしてくださったことを聞いて信じたからなのです。それが急所です。恩寵が先行し信仰が後続します。

「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(三節)。聖霊の力で始まったのに、人間の力で完成させようとするのかと問います。霊によって始め、肉によって仕上げる、完成しようとする、とは分かり易い対比ですね。せっかくイエス・キリストの信仰によって救われたのに、割礼を受けることで、悪からの、神なき世界からの解放を完成させようなどというのは、なんと愚かなことかと叱っております。律法の業、言い換えると律法を守ることによって神との交わりに生きられるとする考えを肉の働きだと言います。肉の働きとは限界があるという意味でしょう。律法をきちんと守るのは不可能だからです。できると思い込むのは浅はかな考えです。のちにパウロは肉の働きの実例を上げておりますが、割礼を受けることを、不品行、汚れ、好色、泥酔などと同じように論じているのは驚きです。律法を守れると信じ込んでいると、逆に不品行に陥るとまで言い切っております。割礼も受けなさいという教えを徹底的に批判しております。信仰にとって最も深刻な敵は、この世の非宗教的な行為ではなく、宗教内部の空疎化した儀式であり、宗教的な行為であることがわかります。ある宗教形式に従う者と従わないものを区別して、結果人間が規定した宗教の業が、再び人を隔てる壁となるのです。わたしたちも十分気をつけねばなりません。教会は厳選してどうしても残さねばならない儀式、聖餐と洗礼だけを秘跡としております。

「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・」(四節)。あれほどのことが具体的に何を指すのかはよくわかりませんが、二節の霊を受けた体験であることに間違いないでしょう。わたしたちは聖霊体験と聞くと、聖霊が、聖霊がとわめいて興奮状態になる人が思い浮かび、あまりいい印象がありませんが、やはりここは神の息に触れる熱い経験と考えた方がいいと思います。心が熱くなるような経験です。決して独りよがりの個人的な感動というのではなく、愛、平和、喜び、寛容、柔和、自制といった聖霊の実を結ぶ経験です。ひょっとすると思い込みかもしれないという危険性はありますが、心が熱くなる経験なしの宗教は空しいと思います。ただ心が熱くなるだけですと盲目的な信仰になりますが、逆にキリストの中にいる、主がわたしのうちにおられてわたしたちは一つにされているというワクワクする実感のない信仰は、眠っている信仰です。やがて内実を失い腐敗していくでしょう。少しも熱狂的なところがない信仰ならば、自由も得られないでしょう。わたしたちは静かであっても内に燃えています。聖霊によって、それほどの経験をしたのが無駄であるはずはありません。聖霊は優れた個人にだけ降るものではなく、また特定の人にだけ臨むものでもありません。一人一人個別にではあってもみんなに降ります。ペンテコステに経験した通りです。すべての人に約束された聖霊であって、一人一人が皆で声を合わせてアッバ、つまり「お父さん」と神を呼ぶことができる働きです。

そしてもう一度同じことを繰り返して確認します。「あなたがたに霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」(五節)。今もずっと霊を授け、継続的に力を働かせておられる方とは、神でありキリストです。内容は二節と同じですが、ここでは受ける人ではなく、授けるお方へと視点が移っております。またこれらの出来事は過去のことではなく、今現在のことになっています。ここでも、神が霊を授け、奇跡を行われるのは、あなたがたが「律法の業を行ったこと」によるのか、それとも「福音のメッセージを聞いて信じたこと」によるのかということが、繰り返して問われています。最初に霊を受けたときだけではなく、それからも続けて、いろんな奇跡を通してパウロもガラテヤの人々も神の霊を受けたとしか言いようのない経験をしていたことが見て取れます。

わたしたちは異邦人ですから、そしてマラナ・タ教会の中に古代のユダヤ人はおりませんから、律法か福音かという問いはありませんし、律法をどこまで守るか、守れるかという葛藤や悩みもありません。しかし、神の霊を受け、「キリスト我が内にありて生くるなり」と言えるのは、何かよい行いをしたからか、それとも福音を聞いて信じたからかというのは、わたしたちへの問いでもあるでしょう。わたしたちがもし教会で質問されれば、「言うまでもありません、福音です、福音を聞いて信じたのです」と答えるでしょう。ではわたしたちは、パウロと同じ様に「わたしは神の恵みを無にはしません、わたしが今生きているのは、わたしのために身を献げられたイエス・キリストが持っていた信仰への信頼によるのです」と顔を上げて告白出来るでしょうか。口先ではなく、心と魂でそう言い切るには、聖霊の働きが必要です。聖霊の働きなしにそのように告白することはできません。

後にパウロはローマの信徒への手紙でこう言っております。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」(八章十六節)。わたしたちが、神に向かって天の父よ、お父様、アッバと呼べるのは、わたしたちのうちに働いている聖霊によります。この聖霊を受けている以上、何かをせねばという強迫観念から解放されてわたしたちは自由です。パウロはこの後、ガラテヤの信徒に向かって自由を語ります。この書簡の最重要テーマは恵みと自由です。福音によって生きる、キリスト・イエスに結ばれている以上、律法に規定されている割礼の有無は問題になりません。愛の実践を伴う信仰こそ大切です。今年も、マラナ・タ教会に、キリストの内にある喜びが満ち溢れますように。

祈ります。
父なる神、御子イエス様がわたしたちのために身を献げ、あなたとの関係を義としてくださったことを感謝します。どうかわたしたちが、パウロがそうであったように、いつも十字架につけられたキリストを思い起こし、キリストが持っておられた信仰への信頼を持ち続けることができますよう導いてください。豊に聖霊を与えてください。そして、キリストの中にあって生き、愛の実践に励むことができますようお支えください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

1月5日の音声

 

2019年12月29日 降誕節第1主日
「イエス・キリストの信」
ガラテヤの信徒への手紙 2章15、16節

先週、クリスマス礼拝とイブの燭火礼拝を祝いました。喜びに満ち溢れ豊かに祝福されたときでした。今日から降誕節です、説教は元のガラテヤ書に戻ります。久しぶりに礼拝に来られた方もいらっしゃいますが、申し訳ないことに、新約聖書の中でも最も難しい場所に当たっております。牧師の言葉ではなく聖書の言葉をお聞きください。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知った」(十六節)という言葉は、信仰者でなくても知っている有名な言葉です。信仰義認の教えとも言います。十六世紀のプロテスタント宗教改革の中心テーマです。一言で「信仰のみ」と表現します。ルターの言葉として知られる「ただ信仰によってのみ」は、わたしたちプロテスタント教会の一枚看板であり、説教や神学書の中でよく取り上げられます。それだけでなく現代に至るまでの信仰告白や信条集においても「義認の教理」は大変重要な働きをしてきました。神の前では、異邦人であってもただイエス・キリストの福音に生きる者が義とされる。信仰こそが問われるということです。これは信仰だけではだめで割礼も受けなければならないという誤った教えに対し、パウロが反対して言った言葉です。ただこの表現には、とても深い大事な問題が隠れています。

はっきり言いますと、イエス・キリストへの信仰と訳されていますが、「へ」は余計です。「イエス・キリストの信仰」と訳すべきところを、長年教会は「イエス・キリストへの信仰」と理解してきたのです。これは実に根深い問題で、ラテン語聖書を作った昔の偉い人(ヒエロニムス 347年頃 – 420年)がそう訳し、それ以降、このラテン語聖書が神の言葉として長い間使われてきたので、ヨーロッパの学者たちは皆そう理解してきました。ギリシア語ではそう読まないほうが普通なのに、無反省に「わたしたちが持つイエス・キリストへの信仰」としてきたのです。ところがここ三十年くらいのことですが聖書学者やギリシア語が専門の古典学者たちがパウロはそう言ってないと主張し始めました。わたしも半信半疑でしたが、北海道大学の哲学者千葉惠が詳細に行った言葉そのものの意味分析を読んで、やはりイエス・キリストの信、キリストに帰属する信でなければならないと確信しました。この翻訳の差がどういう意味を持つか、またそれがいかに重大であるかをお話しします。これは面倒な学問の話ではありません。ちょっとした言葉の差でもありません。わたしたちの信仰の根幹にかかわる大事なことです。

まず、わたしたちが神との正しい関係に生きることができる、つまり「義とされる」のは、自分の信仰によるのか、それともイエス・キリストの信仰によるのかということです。イエス・キリストへの信仰は、もちろんわたしたちが持つべき信仰です。わたしたちが信じ仰ぎ見るのが信仰です。ですがこの信仰と訳された「ピスティス」は、必ずしも人間専用の言葉ではありません。神のピスティス、イエス・キリストのピスティスとも使われる言葉です。神の信仰というと神が何を信じるのかわからないので、神の誠実とか真実と訳されます。イエス様の場合は、イエス・キリストの信とか、真実と訳されます。最近では浅野淳博という新約学者が「キリストの信頼性」と訳しております。ただ信頼性という日本語は、システムや機械の精度を指しても使う言葉ですからいまひとつピンときません。それに誰が誰に対して持っている信頼性でしょうか。

「イエス・キリストの信仰」と訳すべきところを、「イエス・キリストへの信仰」と理解してきたことにより大きな問題が出てきました。このように訳した原因は、神との関係を正しくするのは自分が信じることだと思い込んできたところにあります。そうなると救いは個人の問題になってしまい、個人の罪意識はいかにすれば軽くなるのかという全く異なった問題にすり替わっていきます。わたしたちがよく知っている人ではアウグスティヌス(354年~430年)が義認を個人の問題と結びつけて、パウロが言ったことと違う理解をしてしまいました。ルターにおいても似たようなことが起こりました。彼は罪意識からの解放を求めたので、罪深い自分がどのようにすれば救われるのかという視点でハバクク書の「信仰によって義人は生きる」(二章四節)とパウロ書簡(例:ローマ書一章十七節)を関連付けて読みました。自己義認の愚かさを反省し、信仰義認を自由と喜びを獲得する決め手にしました。結果「神よ、罪あるわたしをお許しください」といった内面化が起こりました。義と認められることが個人の体験、心理面での出来事になってしまったのです。わたしの救いです。他者の救いも視野に入っていましたが、それは個々のわたしの救いの足し算でした。これは聖書の教えとは異なります。

これに輪をかけたのが、アメリカから伝わった信仰です。新島襄や内村鑑三などが学んだ十九世紀アメリカのキリスト教です。極めて特殊なキリスト教を、これがキリスト信仰だと思ってしまいました。明治維新のころ、アメリカは西部開拓時代でした。西へ西へと人は移動しました。わたしの世代の方は「ローン・レンジャー」をご存知でしょう。ハイヨー・シルバーと叫んで白馬にまたがり、拳銃片手に無法者やインディアンを退治していく西部劇です。ワイアット・アープやバット・マスターソンもテレビでよく見ました。彼らは東部の安全な地方を後にして、誰も助けてくれない西部を目指します。そこでは自分自身の忍耐力や臨機応変の才覚、また腕力がものを言います。自分と家族は自分で守る。徹底した個人主義と独立心、敵幾百万といえども我行かんという雰囲気です。荒野の中で、ただ神と自分を信じ、出エジプトをモデルに前進したのです。神学教育を受けた牧師もいませんでしたので、ただ熱心さだけが際立ちました。時には銃を使うことも厭いませんでした。この雰囲気は今でもアメリカに根強く残っています。自宅の庭への侵入者は撃ち殺します。彼らの信仰は、ごちゃごちゃ言わずに聖書の言葉をそのまま信じる、頭ではなく心で信じる、です。「反知性主義」はアメリアでは積極的で肯定的な言葉です。アホでもいいという意味ではありません。カリフォルニアにまで到達した彼らは、ついに海を越えて日本にまで来たのです。自主独立、個人主義をひっさげて。敵とみなした仏教や神道を徹底的に罵倒し、偶像礼拝として排斥しました。日本の文化など何も知らずに否定しました。自分の信じることのみが正しかったのです。宣教師の上から目線はどうしようもなく強いものでした。当然日本の知識人は、表面上聞いているようでいて、本当には聞き従いませんでした。

パウロは、アンティオキアで起こった共同の食事をめぐる事件を説明することで、律法の実行によるのではなく、イエス・キリストの信仰を介してこそ、ユダヤ人であっても異邦人であっても神との正しい関係に生きることができる、それが明らかにされたと言っております。律法を守ることによっては誰も神の義を受けとることはできません。しかし、では律法によらずに神と正しい関係に生きているかとなると、それを自分で証明することはできません。それは神が啓示なさいます。上から、それでいいとかこれはだめだというようにです。ところが啓示は人間にはそれ自体をはっきりと理解することができません。神は見えないので必ず何かを媒介にしてしか明らかにできないのです。その神の啓示の媒介となられたのがイエス・キリストです。イエス様はご自分を信頼する人に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいます。また時にはその人の思いに関係なく親や友人が示した神への信頼を見て、「あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。肝心なのは主がお持ちになっていた、そしてそれをわたしたちにお示しになった権威と神への信頼です。わたしたちは皆、神との関係がずれていますから、そのままでは神の栄光を受けることはできません。イエス・キリストがお持ちになっていた信を媒介にして上からの贈り物、賜物として神との正しい関係を受け取ることができるのです。

「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(十五節)。わたしたち現代人は差別の感覚に敏感ですから、この表現は異邦人を差別した言い方に聞こえるかもしれません。けれどもパウロはユダヤ人である誇りは持っていますが、異邦人を差別しているのではありません。ユダヤ人は優れた律法の下に生まれて、自分で選択することなく、生まれたら自然に信仰の世界、神の世界に生きていると言っています。異邦人は律法など知りませんから、律法に従った生活はできません。神との契約の外におりますからユダヤ人の理解では異邦人は当然罪人となります。そういう意味でユダヤ人は異邦人とは違うと言うのです。パウロは異邦人を差別しているわけではありませんが、律法については違いがある、差があると言っています。

パウロが「わたしたちは異邦人のような罪人ではありません」と言っているのに、洗礼さえ受ければユダヤ人もギリシア人もない、何の差別もないと三章で言っていて不思議に思ったことがあります。後に書かれたローマ書三章二十二節でも、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」という訳になっております。イエス・キリストを信じることが大事で、信じればユダヤ人も異邦人も差別がない、誰もが義とされると、大事なのは信じることだと訳されています。しかしこれも違います。元の意味はこうです。「神の義はイエス・キリストがお持ちになっている信を媒介にして、信じる者すべてに明らかにされている。というのも『神の義』とその啓示の媒介である『イエス・キリストの信』との間に『分離はない』からである。なぜ分離がないかと言えば、‥」と続きます。差別がないのではなく分離がないのです。ユダヤ人と異邦人の違いを問題にしているのではなく、神とイエス・キリストの業に分離がない。律法に示された神の義とイエス・キリストの示した福音、十字架の赦しには分離がない。したがってユダヤ人も異邦人も今やイエス・キリストの福音を信じることによって等しく神の前に義とされるのだと言っております。

残念ながら、そういう読み方がされて来なかったので、日本で最も優れたキリスト者の一人であった内村鑑三でもここが理解できませんでした。「聖書全巻は新約聖書が分からないと理解できない。新約聖書はローマ書が理解できないと理解できない。ローマ書は三章二十一節以下が分からないと理解できない。ところがここがいくら考えても分からない。わたしは聖書が本当には理解できない」と言って死んでいきました。気の毒なことです。間違った翻訳を読んで悩んだのです。ローマ書とガラテヤ書は、一人で読まずに、聖書本文と汗を流して戦っているまともな牧師と一緒に読んでください。

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(十六節)。生まれながらに自然と神のご支配のもとに生きているはずのユダヤ人は、神と正しい関係の中に生きているか、というと残念ながらそうではないのです。ユダヤ人は律法を神から与えられた「神の民」です。異邦人のような神を持たない民族ではありません。ここで「わたしたちも」というのは「わたしたちユダヤ人も」という意味です。だからわたしたち、すなわちペトロもパウロもユダヤ人は、これまで律法を正しく実行することによって義とされると思っていましたが、それは不可能で神の前に義とはされませんでした。律法の実行はどうしても不完全にならざるを得ないからです。ユダヤ人であることは何ら決定的な要素ではなかったのです。しかし今や、割礼も食事規定も関係なく、律法の実行によらず、神の前ではイエス・キリストの信仰、十字架の死こそが問われ、ただキリストの福音に生きる者が義とされると知って、「わたしたちも」キリスト・イエスによる救いを信じました。それがパウロの主張です。

わたしたちはまとまりを欠いた断片化した社会に生きております。多くの人は家族を持っています。職場にも行くでしょう。労働組合に所属する人もいます。学校に通う人もいます。ある人は教会に行きます。人によっては地域のラグビー・クラブやサッカー・クラブ、合唱団に属しているでしょう。しかしそれらの制度が互いに他の制度と直接の関係を持つことはありません。普通ラグビー・クラブの人間は合唱団の人間とはほとんど関係がありません。労働組合の人間は労働組合の人間同士でゴルフをします。サッカー・クラブの人とはしません。一般的にはお互い自分が所属する制度内でのみ付き合い、食事を共にすることが多いようです。教会はどうでしょう。完全に孤立している状態に近いと言えます。マラナ・タ教会は意識してカトリック教会との交わりを持ち、他教団の牧師たちとの交わりを持っています。聖書を読む会に他教派、他教会、カトリックの信徒が参加されますが、やはりその交わりは牧師とごく一部の信徒レベルで、キリスト教会内のものであり、一般社会との関わりが濃いとは言えません。わたしたちの信仰は断片化し孤立しています。わたしの信仰、わたしの救いが中心です。もちろん個人的な信仰が悪いわけではありません。けれどもそれで終わるのではなく、キリスト教信仰が初めに持っていた共同体的、社会的特性を、もう一度想い起こしたいと思います。今の社会では自分の個性の完成だけを目指すことが目立ちます。しかしわたしたちは皆、互いに依存して生きているのです。すべてのローン・レンジャーたちは、このことを知らねばなりません。信仰も社会の中での共同体としての信仰を取り戻したいものです。

わたしたちは罪ある者ではあるが、あたかも罪なき者であるかのごとくに見なしていただいたのです、だから感謝しましょうというのがプロテスタントの教えです。尊い教えかもしれませんが、これもそうではありません。わたしは、神は実際にわたしたちの本性と性格を作り変えて百点にしてくださったと信じております。何度も申し上げましたが、わたしたちは神の前では百点か零点かなのです。神の前でわたしたちの信仰は自己完結的なものです。神がこれでよい、お前たちを義とするとおっしゃったのに、まだ何か足らないかのように考えるはおかしいのです。健康な人も病気の人も同じです。一方でわたしたちは肉の弱さの中におかれていますから、人の前に生きている以上は、「福音に共に与るためには、いかなることもする」という覚悟、努力が要ります。信仰とは人の前では相対的であり自律的で、完結はしておりません。百点や零点はありえません。神に応答し、福音を宣べ伝えていくことが必要です。ヒトラーはマザー・テレサとは全く違います。この二人を共に百点とするのが神ならば、そんな神は不義でしょう。正しくありません。

結論です。では先生、いったいわたしたちが信ずることは大切ではないのですか。イエス・キリストへの信仰はどうなりますか。イエス様の信によって救われるのなら、わたしたちは何もしなくてもいいのですかという質問が聞こえてきます。イエス・キリストの信とわたしたちの信仰とは響きあっております。イエス・キリストの信があくまでも基礎にあります。信仰はまずイエス様がお話になります。先ほども申しましたが、「あなたの信仰があなたを救った」、「イエスは彼らの信仰を見て」と福音書にはまるで人の側に信仰があるかのごとくに語られております。しかし、誤解しないようにしなくてはなりません。この場合、信仰をお話になるのはもっぱらイエス様です。わたしたちが、他人に向かってあなたは信仰が足りないからもっと信じなさいというようなものではないのです。イエス様の信が人の信を引き出します。そして信仰のあるなしを判定されるのもイエス様です。だからこそイエス様は「ただ信じなさい」とおっしゃるのです。それに対して人は「主よ、信じます」としか言いようがありません。「信仰のないわたしをお助け下さい」と言うしかないのです。神の愛は人をして神を愛せしめます。人の存在の根底に、神の息、聖霊の働きがあります。

祈ります。
父なる神、「わたしはキリストと共に十字架につけられています」と告白したパウロの信仰を分からせてください。そしてわたしたちに、わたしたちを愛し、わたしたちのために身を献げてくださった神の子が持っておられた信仰への信頼をお与えください。また、わたしたちの信仰が単なる個人的なものに留まらず、共同体の信仰として育まれていきますようお支えください。一人ひとりを愛による信仰の実践ができますよう導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

12月29日の音声

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。