2020年2月23日 降誕節第9主日
「心情への訴え」
ガラテヤの信徒への手紙 4章12~20節 久下倫生
ガラテヤの信徒への手紙をご一緒に読み続けてきましたが、今日で最終回になります。途中で終えることになりますので、今日与えられた聖書箇所を超えて、この書簡全体のまとめについても少しお話ししたいと思います。三月は二度、福音書から説教させていただき、十二年間に亘った説教する生活を終えたいと思います。皆さまは、四月に着任なさる橋口牧師から新しい新鮮な気持ちで福音を聞き続けてください。
パウロはガラテヤの教会で広まった異なった教えに信者が惑わされないように、いろいろな訴えをしております。ガラテヤの人々が聞いて受け入れた福音は、パウロ自身を変えたものですが、ユダヤ人と異邦人を一つにする力を持つものだとパウロは強調しました。さらに、ガラテヤの人たちが持つようになった信仰は、パウロの優れた説教によるものではなく、彼らが十字架にかかったキリストの業を聞いて受け入れたからであり、それはそこに聖霊が力強く働いたからであることを思い出してくださいと言っておりました。隔ての壁が取り払われた以上、異邦人とユダヤ人は一つになれる。もうユダヤ人と同じ様になるため割礼を受けることも、あるいは律法という宗教規範に頼ることもない。そのようなことは後戻り現象であって、神の意図ではない。神はアブラハムの昔から、やがて民族間の隔てを取り除くように意図して民を導かれた。わたしたちは皆、祝福の源、祝福の基として生きることができる、前進せよと繰り返して説いております。旧約聖書に触れながら、ユダヤ人信者にも、異邦人信者にも、特にギリシア哲学に通じた知識人にも分かるように言葉を尽くして説き明かしてきました。
今日聞きましたところでは、「あなたがたもわたしのようになってください。わたしもあなたがたのようになったのですから」(十二節)とも言っております。ここだけ切り離して読みますと、わたしを模範として、わたしの様になれと言っているかのように聞こえますが、明らかにそうではありません。キリストの信を媒介として示された神の恵みを受け取ることで、コチコチのユダヤ教徒であったわたしが異邦人と何ら変わらないようになれたように、あなた方も律法の規定から自由なのだということです。ここにキリスト者の自由があります。生き方の自由です。律法からも自由ですし、無律法の状態からも解放されます。喜んで規範を守ることができ、規範に縛られることはありません。俺は律法を守っているぞという様な自慢はなくなります。逆にこれは律法違反ではないかとびくびくし、他人の目を気にする必要もありません。
さらに、人々の心に訴えて切々と、理屈ではなく配慮に満ちた言葉を継いでおります。パウロに初めて出会ったとき、ガラテヤの人々は熱狂的とも言える熱心さをもって、パウロと彼の説いた福音に応答したことを語ります。ある理由で彼らはパウロを拒絶することもできたのだけれども、まるで神の使いであるかのように丁寧に接してくれたと言っております。あの感動的な経験が無駄になってしまうのだろうか。思想と感情が入り混じって、理屈で押してくるパウロではなく気持ちを吐き出しています。
ガラテヤの人々は、パウロが当時の習慣では拒絶されても仕方がないような種類の病気であったにもかかわらず、彼を蔑んだり、あるいは忌み嫌ったりしなかったのです。この病気は悪魔付きだと人々が考えていたことは、この忌み嫌うという言葉からわかります。もともとは吐き出すという言葉であり、ペッと口から吐き出して、悪魔が自分に乗り移らないようにする態度を言います。人々はそのようにせず、そんな彼を神の使いのように受け入れたのです。最初の出会いをこんな風に感謝と喜びに満ちた感動的なものだったと回想しております。
人々がパウロを拒絶しても仕方がない状態だったとは、どういうことでしょうか。当時の人が、この人はこんな病なのだから神に呪われているはずだと思うような病気だったのでしょうか。試練となりうることがあったようです。当時は病や障害はウイルスや遺伝のせいではなく、悪魔の業と信じられておりました。今のわたしたちには受け入れられない考えです。パウロと教会の人々の間では具体的に詳しく言わなくてもみんなが知っている事柄だったのでしょう。「あなた方は、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしに与えようとしたのです」と言っておりますことから、彼は目がすごく悪かったのではないかということは推測できますが、パウロがどんな体の状況だったのか、はっきりとは分かりません。
ガラテヤの人々は幸福を味わっていたのに、パウロがガラテヤ地方を去った後、やってきた巡回伝道者が割礼を勧め、パウロは間違っていると説いたせいで徐々にパウロを遠ざけるようになりました。それを伝え聞いたので、この激しい調子で始まる手紙をパウロは出したのです。わたしはあなた方に真理を伝えたのに、あなたたちの敵となったのでしょうか言っております。そんなことはないでしょうという反語です。今になって敵意をもって白い目でわたしを見るのですか、こんなにもあなた方のことを心配し、新しく福音に生きるようにと願い祈ってきたのにと言っています。パウロの性格がよく出ていますね。論理的ではあるけれども心情に訴えて熱く語る人です。
わたしは、何度か前の説教で、この手紙の後半の大きな主題の一つがキリスト者の自由だと申し上げました。割礼を受けるべきかどうかということに焦点が当たっているようですが急所はそこではありません。これまで神の約束とは関係ないと思われていた異邦人が新しく神の民とされ、神との契約において生きるときにどう生きるのか、奴隷ではなく正規の相続人とされ、自由人として生きるようになったときにどう生きるのか、という具体的な事柄に触れているのです。マラナ・タ教会の場合なら、いくつかのキーワードで繰り返して語られてきました。キリストの内に留まって生きる、キリストに繋がって生きる、同じ一つの食卓を共に囲む、声を合わせて同じ賛美歌を歌う、神の霊を呼吸する。それはとりもなおさず、ここ教会で生きることなのだと聞いてきました。
パウロが主張する「キリスト者の自由」とは、わたしたち近代人が感じる自由とはかなり違います。わたしたちの自由とは、いくつかの選択肢からどれを取るのかというときに制約がないこと、自分の好きなものを選択できることをいいます。選択の自由、制約のない自由です。選挙で投票に行ったとき、たくさんいる候補者の中から自分がいいと思う人を躊躇なく選べる、これが自由です。言いたいことが言える、何か信じている信仰があれば規制されない。学校も職業も結婚相手も自分の意志で決定できる。だれにも支配されない、操られないことです。ところがパウロが語っている自由は、罪の奴隷であることと、律法の制約のもとにあることからの解放です。選択の自由ではなく、神から与えられる解放です。神の選びによって、キリストの信を介して示された、わたしたちの信仰と服従をもって神に応答するところにある自由です。ガラテヤの人たちは、自分の選択で割礼を受けるも受けないも自由なのだということではありません。割礼を受けることを自由意志で選択すれば、自由を失いますよと言っております。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であり、誰にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する奴隷であって誰にも従属する」。これはルターが「キリスト者の自由」の中で語っている有名な言葉です。パウロがここでいうキリスト者の自由も、選択の自由ではなく、もっと根源的な、そして現実的自由です。
そこでパウロは五章六節で有名な言葉を教えます。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と。ここでもまた、「キリスト・イエスに結ばれていれば」、つまり「キリスト・イエスの中にいる」というキーワードが出てきます。続けて「愛の実践を伴う信仰こそ大切」なのだと言われていますが、ここでいう「信仰」とは果たしてわたしたちの信仰かキリストの信仰かちょっと考えさせられます。また「愛の実践を伴う信仰」という十九世以降のヒューマニズムを感じさせる近代的な概念はパウロのものではないように思います。キリストの愛があって、そこでわたしたちの信仰が生きて働くのだと文法的にはそう訳すべきだとわたしは思います。ギリシア語の分詞がそういう形になっております。愛の実践と訳された言葉は「キリストの愛を通して信仰が働く」と訳す方がいいと思います。割礼を受けているかどうかよりも、キリストの内にあること、つまり教会に繋がっていること、それが大切なのです。そうすれば信仰が働くのです。わたしたちが愛の実践をするかどうかとか、どんな愛の実践かは問題になっていません。聖書を翻訳する人は、虚心坦懐に文字を読むというよりも、どうも聖書を読む前に自分の強い信仰があって、その信仰に合わせて聖書を翻訳するきらいがあります。「愛の実践を伴う信仰」と聞いて、良い業をしなければ、愛の業に励まなければと自分を追い込むことはありません。キリスト教にもヒューマニズム、人間愛というものが当然ありますが、近代のヒューマニズムとは全く異なります。
わたしはこの手紙を通して、皆さんと共にキリストの中に置かれていること、受け身の信仰を強調してまいりました。信仰という言葉で思い出される「わたしの信仰」、わたしがどう信じるかよりも「キリストの信仰」、キリスト・イエスの信を通して、わたしの側にも起こされる信仰を説教してまいりました。信仰は受容されるものでわたしたちが生み出すものではありません。しかしただ受け身で何もしないことを特徴とするものではありません。神の救いの業は比類なきものです。その神の行為にふさわしいのは、もちろん、受け入れること、神を信じること、神の真実に信頼することです。神からの驚くべき贈り物に対する応答が適切であれば、信仰は静止状態に留まることはありえません。ダイナミックに動きます。信仰者は自分の属する共同体を意識するようになり、他者への配慮、特に自分とは異なった背景や歴史を持つ人々への配慮を生みます。「行いを伴わない信仰は死んだものだ」というヤコブの手紙の有名な言葉は、パウロが強調する受け身の信仰を意識して対立的に書かれたものではなく、ただ受け身の、あるいは「うのみの信心」に堕してしまった信仰に対する批判です。信仰の最も重要な側面は従順です。信仰を通して与えられた義、神とわたしたちのあるべき関係、正しい関係は、明らかにそういう関係に置かれた者の生き方や行為に影響します。夫を心から愛する妻がいて、夫との関係性がうるわしいならば、妻は夫を全力で支えるでしょう。逆も同じですね。喜んで自分を捧げて犠牲をいとわないでしょう。母親が子供のために、犠牲を払っているという感じではなく、喜んで支えている、育んでいる姿も目にします。愛の行為をすることが神から恵みを与えられる条件ではありません。キリスト者は二重の意味で愛に召されています。愛されることと、愛し続けることです。パウロの手紙を読むときにこの二つの面を見逃すことはできません。愛されたことがない人、祈ってもらったことがない人が、他人を愛し、人のために祈ることは出来ないのではないでしょうか。自分がキリストに愛されている、この事実の認識が何よりも大切です。
さて、ここまでガラテヤの信徒への手紙を読んできて、皆さんはどういった感想をお持ちでしょうか。結構難しい神学議論を聞かされたなという感じでしょうか。それともキリスト者の生き方についての教えを聞いたなという感じでしょうか。わたしはこの手紙の要約をするに際してこういうことに注意したいと思っております。パウロはこの手紙の読者に二つの異なったグループを想定しながら書いています。一方は律法が身に沁み込んでいる伝統的ユダヤ人で、神の民として生きるのなら、男であれば必ず割礼を受けるべきだと思っている人たちです。もう一方は、いろいろな戒めや大事な掟があっても、もう自分たちは自由なのだと主張し、あらゆる束縛から解放された、もう何をしてもいいのだという奔放な人々です。いわば無律法主義者です。多くの一般の信者は、異文化に囲まれた中でキリスト者の生活を営む過程で、右からまた左からの影響を受けながら、結構混乱していたのではないでしょうか。割礼を受ける受けないという問題だけでなく、周りの社会に対して、キリスト者とはこういう生き方をするのだという証を立てる必要もありました。わたしたちとよく似た状況下にあったのです。
教会はまだ小さな無名のグループです。ローマ帝国の属州に暮らす一般の人々は、キリスト者とは異なった価値観や倫理のもとに生きております。ですからパウロは、徹底的に自由なのだ、もう相続人になったのだと主張しながら、一方ではこの自由を濫用しないように、また教会を分裂させるような破壊的な争いを避けるように警告しているのでしょう。自由であることを肉に罪を犯させる機会とするなと言います。隣人を自分のように愛せと言っております。ですからわたしたちには少し分かり難いのですが、聖霊の働きを強調し、倫理的な生き方の意義を強調しております。エルサレムの教会に献金を送ることも勧めております。この手紙で語られる倫理をそのまま二十一世紀の現代日本に適用するのは無理がありますが、信仰によってお互いに助け合うことはできます。
神の子と認めていただいたわたしたちが味わう自由は、花から花へ自由に飛び回る蝶の幸せな羽ばたきというよりも、徹底的で厳しいものであると言えます。喜びに満ちてはおりますが、この自由は思わぬ冒険と戦いの場にわたしたちを導きます。わたしも予期しなかった研究の場に、また牧会の場に、生活の場に導かれてまいりました。パウロがこの手紙の締め括りで語っているのは厳しい話です。わたしたちが味わっている自由は、キリストが身代わりとなって十字架につき、人に祝福を与えた神の行為であって、贈り物なのです。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。・・・大切なのは、新しく創造されることです」。
マラナ・タ教会が新しく作られていくことを祈りましょう。
祈ります。
父なる神、あなたのお送りくださった御子イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架についてくださったことにより、わたしたちはあなたの御前に生きることができるようになりました。感謝します。どうかこれからもずっとあなたの真実に信頼し、キリストの内に留まり、キリストに繋がって生きることができますよう守り支えてください。わたしたちを新しく創造し、わたしたち自身が自分の生き方によって、キリスト者とはこういう生き方をするのだという証を立てることができますよう導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
2月23日の音声
2020年2月16日 降誕節第8主日
「最初のしるし」
ヨハネによる福音書 2章1-11節 詩編 19編
主はみなさんと共に。
今日はマラナ・タ教会のみなさんと共に主日の礼拝を守れますことを大変うれしく思っております。
福音書に記されておりますイエスの奇跡を数えますと、全部で34の奇跡が記されている、といわれます。その中で数の多いものが癒しの奇跡です。生まれつきの盲人の癒しなどもふくめて数えますと20を少し越える癒しの奇跡があります。
一方、今日の物語に繋がりますところの、食べ物や飲み物に関わる奇跡を見ていきますと4000人とか5000人を満腹させたという奇跡があります。これは片手で数えてお釣りが来ます。そしてついつい数え上げてしまいそうになりますのが石をパンに変えるという奇跡です。これは荒れ野の誘惑の中でサタンが変えてみろと言っているだけであって、実際に起こした奇跡ではありません。しかしながら奇跡があったようなイメージを何故か持ってしまいます。
TVドラマにもなった『聖☆お兄さん』の原作漫画では何度となく石をパンに変えておりますのも、私たちの多くがその奇跡が起こっているようにイメージしてしまっているからでありましょう。
水をワインに変えたという今日の奇跡物語は、お気付きのようにヨハネ福音書だけが伝える物語です。一見すると非常に不思議な奇跡です。そう思われませんか?ほとんどのイエスの奇跡は、イエスの目の前に病気や空腹で困っている人が居て、その人を助けるために奇跡が起こされます。それは病気や障害のために、あるいは悪霊に取り憑かれたために、あるいはまた貧しさのために、地域社会の共同体の交わりから弾き出された人を共同体の中に取り戻す奇跡と言ってもいいでしょう。いわば社会的なマイナスをクリアしてゼロにするための奇跡です。
ところがこの奇跡は結婚式の宴会という楽しみを続けさせるために起こされた奇跡です。荒れ野の誘惑の記事はヨハネ福音書にはありませんけれども、石をパンに変えてみろと言われて断固断ったイエスのイメージと今日の物語とはうまく結びつきません。
しかもそれが、ヨハネ福音書の序文とも言える一連のキリスト証言に続く物語として、そして少なくともヨハネ福音書としては最初の奇跡であるという、いかにも重要な意味を持ちそうな奇跡として描かれているのです。
情景を思い浮かべながら読み進めて参りましょう。
カナというのは小さな町です。ガリラヤ湖と地中海の中間ぐらい、ガリラヤ地方全体から見ても真中あたりになります。政治的経済的には、イエスの故郷であるナザレよりももっと田舎のどこにでもあるようなありふれた町でありました。
婚礼というのは今でも人生の一大イベントであるわけですが、当時の婚礼は本人や家族親戚だけではなく、その町や村の人にとっても大きなイベントでした。考えてみれば今のように様々な娯楽がある時代ではありません。親戚や村人が集まって宴会を開くのはとっても贅沢な娯楽だったのです。そこにイエスが招かれていた、弟子たちがいた、マリアがいた、という最初の数行を読んだ感触を言えば、マリアかヨセフの親戚筋の誰かの結婚式だったのではないでしょうか。
当時のガリラヤ地方は土地と気候に恵まれて豊かな収穫を得てはいますけど、その収益のかなりの部分をローマ帝国やエルサレムに住む不在地主によって持ち去られてしまっています。人々にとっては、けっして豊かではない生活の中を、そのために早くから準備をし、生活を切り詰めて資金を調え、村人を招いて食事やお酒を振る舞う時が結婚式でした。当時の婚礼の宴会は数日間続いたといわれています。その宴会の最中にぶどう酒が足りなくなるのは、婚礼を出す家にとって相当にきまりの悪い恥ずかしい話しであったようです。
どれぐらい続いていた宴会だったのでしょうか。ぶどう酒の残りが心細くなり、裏方を務める家族や召使いがソワソワし始めます。マリアもそのことに気付いてマズイと思ったのでしょう。「ぶどう酒がなくなってきたみたい」とイエスに耳打ちします。イエス自身も慌ただしい様子に気付いていたことでありましょう。しかしながらマリアにはこう答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。
有名な答えです。「婦人よ」という呼びかけが何を意味しているのか、様々な解釈がありますけど、とりあえず如何にも他人行儀な呼びかけであるのは確かです。続く「わたしにどんな関わりがあるのですか」という部分は、よく似た表現が福音書の他の箇所や旧約聖書に何回か出てきます。現在の日本語訳で読んでも同様ですが七十人訳聖書(当時広く使われたギリシャ語訳聖書)に使われた表現と今日の物語のイエスの言葉遣いとはほぼ同じです。いずれもかなり強い調子で相手を拒否する時に使われています。今日の箇所も「いくら親戚筋の結婚式とはいえ、ぶどう酒の心配はわたしの出番じゃないですよ、わたしに言われても困ります」とイエスは言っているわけです(列王記 上 17:18、サムエル記 下 16:10、士師記 11:12)。
それでもマリアは諦めなかったようです。裏方の召使いたちに「あの人が何か言ったらその通りにしてください」と頼みます。召使いたちだって手をこまねいていたわけではないでしょう。内緒でぶどう酒を融通してくれそうな家はどこか?と考えて頼みに行きかけていたかもしれません。物語のオチに出てくるように後で出すつもりのあまり状態のよくないぶどう酒をそろそろ出そうか、と準備を始めていたかもしれません。どうせ酔っ払いに飲ますのだから薄めちゃえ、なんてことも当然考えたことでしょう。現代のように大手のメーカーが品質を揃えた状態で大量生産している時代ではないですから、簡単に言えばぶどう酒を溜めた樽ごとに味も違ったことでしょう。当時、ぶどう酒を水で割って飲んでいたのは水を消毒するためだったそうですが、味を調整する意味もあったように思えます。
そのような動きにイエスも気付いていたようです。「わたしには関係ない」と強い調子で言ったのとは裏腹に、召使いの所に行って「儀式用の水瓶に充分な水を汲むように」と言い付けます。マリアの頼みが効いたのか、イエスの自信たっぷりの様子に気圧されたのか、あるいいはワラをも縋るような心持ちだったのでしょうか、召使いたちは言われたとおりに水瓶を一杯にします。メトレテスは今の単位に直すと40リットル弱です。水瓶6つで 15メトテレスとして全部で600リットルほどの水をおそらくは井戸から汲んでくるのです。
サラリと書いてありますけど、水瓶を満たすためにどれぐらいの時間が経ったのでしょうか。その準備中に元々のぶどう酒が本当に底を着くことは無かったのでしょうか。ついついそんな心配をしてしまいますが、その先はよく知られているとおりです。井戸水を汲んだだけのはずなのに、それは上等のぶどう酒に変わっていたというのです。
一連の出来事を見た弟子たちはイエスを信じた、と書かれて物語は終わります。
いささか先走りました。元に戻ります。味見をした世話役はこのぶどう酒がどこから来たのか知らなかった、と書かれております。そりゃそうだろ、と思うのですが、ここもサラリと書かれておりますけど、これは実は福音書記者ヨハネがかなり意識して入れた言葉のように思えます。ヨハネ福音書の受難物語を読みますと、ピラトがイエスを尋問した時に「おまえはどこから来たのか?」と問うています。これは前後のつながりがひどく悪い唐突な質問です。それだけにその問いは福音書記者ヨハネが読者である私たちに向けて投げ掛けた質問と考えられます。そのピラトの質問の伏線を福音書冒頭のここにすでに張ってあるのように思えます。
さらに前に戻ります。マリアは召使いたちに「この人の言いつけたとおりにしてください」と頼みます。ほぼ同じ言葉が七十人訳聖書の創世記(41:55)に出てきます。エジプトでファラオに仕えたヨセフの物語です。ヨセフはファラオの夢を解いて7年の豊作と7年の凶作を予告し対策の実務を任されます。いよいよ凶作が始まった時、食料を求める人々に向かってファラオが「ヨセフのもとに行って彼の言うとおりにせよ」と命じます。
これは偶然ではないでしょう。福音書記者ヨハネは間違いなく創世記の物語を意識しております。今日の物語でもイエスの命令に従うことをヨハネが読者に求めているとみていいでしょう。ヨハネ福音書を15章まで読み進みますとそのことがハッキリします。有名な言葉を思い起こしておきましょう。「わたしの命ずることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。」
福音書記者ヨハネにとっては、イエスが何者であるかを知り、イエスが何をしているのかを知り、イエスの元に留まり、イエスの命じるところに従うことが、イエスの弟子の大事な要点になるのです。カナの婚礼でも、弟子たちはイエスが召使いに何かを命じたことによって起こった出来事をつぶさに見て、何が起こったかを知り、イエスの何者であるかに気付き、イエスに従っていくのです。
もっとも今日の物語ではイエスの命令に従ったのは弟子たちではなく召使いでありましたが、そこにはカラクリがあります。原文を見ますとここではディアコノス(複数形)というギリシャ語が使われています。これは今日一般的な意味でも執事と訳されますが、福音書時代の教会にとっては今で言うところの教会役員に当たる重要な役割を持つ人たちのことも指していました。わけの分からないイエスの命令に従ったあの召使いたちは、言葉の二重の意味ではヨハネの教会に集まる弟子たち、しかも教会を指導する立場にある人々のことでもあったのです。その意味でもヨハネは世代を経た弟子である読者たちが、それは取りも直さず私たち自身であるのですが、イエスの言葉に従って歩むことを求めているのです。
堅い話が続いてしまいました。少しだけ柔らかい、しかし大事な小話を紹介して今日のメッセージを締めくくっていこうと思います。
いくらたくさんの村人や親戚が集まっているとはいえ、そして何日も続く婚礼の宴会であるとはいえ、もういいかげんみんなが酔っぱらった後で600リットルものぶどう酒ができてしまいました。はたして飲み尽くすことはできたのでしょうか。そんな心配が湧いてきませんか?その心配は昔からあったようです。4世紀~5世紀に活躍したヒエロニムスという、彼はキリスト教の歴史に非常に重要な役割を果たした人物でありますけど、ヒエロニムスがその心配にこのように答えています。「飲みきることはできなかった。だからこそ私たち皆が、今日もなおそこから飲んでいる」。
カナの婚礼の奇跡は、一見すると他の奇跡とは毛色の違う、何がしたいのかよく分からない奇跡です。しかし細かく見ていきますと、そしてヨハネが言葉の二重の意味に託した事柄を掘り起こしていきますと、弟子たちがイエスの行いをつぶさに見てイエスを信じ、イエスの言葉に従っていった様子が描かれた物語であると分かります。読者に対して、同じようにイエスに従ってゆくことを求めている物語であると分かります。そう考えますと、これはたしかにヨハネ福音書が記す最初の奇跡にふさわしい重要な奇跡でありました。
私たちもまたイエスの言葉に常に従う弟子であり続けたいものです。
祈り
私たちを救いへと導かれる神よ
福音書の記事にイエスの行いを見る力を与えてください
イエスを信じ、イエスの言葉に従う者であり続けられるように
私たちの心の奥深くに聖書の言葉を響かせ
強くてしなやかな信仰を持たせてください
2月16日の音声
2020年2月2日 降誕節第6主日
「神の養子」
ガラテヤの信徒への手紙 4章1~11節 久下倫生
パウロはガラテヤの人々に、神の民の本質と律法の働きについて面倒な議論を押し進めております。中身が難しいので、監視され牢獄に閉じ込められたとか、養育係のもとにいたけれども、信仰が現れたので養育係の下を離れたとか、キリストを着るようになったというように、イメージがわくように象徴的なたとえを用いて語りました。こういう説明はなかなか効果的で、養育係や保護者にたとえられているのが「律法」なのだとすぐに分かります。また律法に従うことに心奪われて、神を見失いそうになっているのは、監視され閉じ込められているのと同じだというのも感覚的に分かります。このようにたとえを用いて話した結論として、あなたがたはキリスト・イエスの中で一つであり、キリストのものであるならば、アブラハムの子孫であり、約束による祝福の相続人であると纏めておりました。
今日の御言葉はこの結論で述べたことを、改めて説明しようとしています。「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(四章一~三節)。相続人であっても、成人するまでは保護者の支配下にあるので、時期が来るまでは使用人や奴隷と変わりがないと語ります。それと同様にわたしたちもイエス・キリストが来られる前は、未成年であって律法制度の下に縛られ、偽りの神々に仕えていた状態にあったと言っています。ここでのわたしたちとは、ユダヤ人異邦人両方を含んでいます。パウロがここまで過激なことを言うのは、ガラテヤの人々がパウロの教えを離れて以前の状態、律法規範主義に戻りそうになっているように見えたからです。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(四、五節)。そんな律法の制約の中にあったわたしたちのもとに、時が満ちたので神はその御子を送ってくださったとパウロは言います。その神の御子は、わたしたちと同じ未成年者として、人間の状況の中に入ってきてくださり、その御子のおかげで未成年者が保護者の監視から解放され成人となった。結果わたしたちも、まるで御子のように、御子と同様に正当な約束の相続人として受け入れられることが可能になったと説きます。神の養子です。真の御子はキリスト・イエスですが、わたしたちは養子として神の子と認めていただいたと説明します。なかなか巧みなたとえですね。よくわかります。
神の御子が、「女から、しかも律法の下に生まれた」という表現はよくよく味わうべき言葉です。神学の言葉では受肉と言いますが、イエス様がわたしどもと全く同じ人間、様々な限界を背負う、弱い人間になられたのだと言います。傷つけば血が流れるだけでなく、「律法の下にある」わたしたちと共に生きる者になってくださったのだと説明します。恐れや孤独、苦難や誘惑、疑い、そして最後は神に見捨てられたのではないかという、不安の中に生きる弱さをも経験されました。自らは罪を犯さなかったけれども、罪深いこの世に生きて、いつも死と隣り合わせであったとパウロは言いたいのです。それを見事に短く、「女から生まれ、律法の下に生まれた」と言い切ったのです。キリストが人となってくださったという事実は、ガラテヤの人々との論争の焦点ではありませんから、その事実を強調しているのではありません。そのことよりも、律法の下で奴隷状態にある人々を解放するために来られたことを強調しています。改革者のカルヴァンも端的にこう言っております「イエス様はご自身を鎖につなぐことによって、人々から鎖を取り除かれた」と。身代わりの犠牲です。この犠牲によってこそ、わたしたちはゆがめられてしまった律法の支配から本来の神のご支配に戻されて、囚人から一転して養子になったと説明します。わたしの頭の中では、いまだに先週歌ったメサイアの第二部の歌がぐるぐると駆け巡っています。「彼の打たれた傷によって、わたしたちは癒された」という歌詞の、ピシ、ピシッという鞭の音が聞こえるような歌でした。
パウロは次のように続けます。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(六節)。養子になった者に神の霊を送ってくださった、聖霊をくださったと説明します。アッバとは父を意味するアラム語で、幼い子供などが使う親しさと信頼を込めたお父さんという呼びかけです。少しだけ翻訳に触れておきますが、このアッバというアラム語はイエス様のおっしゃった印象深い言葉ですから、ギリシア語でもそのままアッバと記されております。しかし一般の人々にアラム語はわかりませんで、アッバ、それは父という意味ですよという意味で、「アッバ、父よ」と書かれております。それを日本語に訳しましたので、わたしたちの聖書も「アッバ、父よ」となっていますが、呼びかけは単に「お父さん」です。親しみを込め「お父さん」と呼ぶのです。
神の子、養子ではありますが相続権を持つ子供と認められたことを実際によく分からせるために、真の御子の霊、イエス様の息を送ってくださいます。神が霊を送ってくださったので、わたしたち養子も真の家族となって、神に向かってお父さんと呼ぶことができるようになりました。わたしたちは確かに養子にされ、現実に「お父さん」と神に呼びかけることができるのです。呼んでもいいのだと聖霊が保証してくださいました。これまで他所の保護者の下にいた子供が新しい家に連れて来られて、君はもうこの家の子だ、相続人になったのだと言われてもなかなかなじめません。新しい親によそよそしさを感じます。しかし、もし繰り返して「お父さん」と呼びかけることができたら、愛情を感じるのではないでしょうか。聖霊はわたしたちが神の家族であることを実際に経験させる、そうだと思わせる、イエス様の息なのです。イエス様がふーと息を吹きかけてくださると、わたしたちは素直に「お父さん」と神に呼びかけることができます。
そして「お父さん」と神に呼びかけることができるようにされたのですから、子であり相続人だと言います。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(七節)と書かれていますが、これは三章の終わりで「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(三章二十九節)と言われていたことの確認となっています。神の子であることを強調しています。世界にいろいろな信仰がありますが、信仰の対象に向かって、「お父さん」と呼びかける宗教はキリスト教以外にはないと思います。「国家の父としての神」と表現する場合はあるかもしれませんが、神に「父よ」と呼びかける親しさはないと思います。わたしたちが毎日唱える主の祈りは、もとの形では「父よ、わたしたちの、天におられる」と始まります。イエス様はご自分が「父なる神よ」と呼ばれただけでなく、従ってくる弟子にも、「わたしたちの父よ」と呼びかけるように教えられたのです。まさにわたしたちは神の子とされたのです。養子とされた子供の気後れを克服する、世界に例を見ない祈りを教えてくださったのです。それをパウロは説いております。
この段落「四~七節」は、しばしばクリスマス礼拝で朗読されます。華やかで楽しい礼拝の時です。けれども、この言葉は、クリスマスがただ贈り物や楽しい合唱のシーズンであるだけでなく、御子の誕生が受難と復活に結びつくのだなということを思わせます。マリアという女性から生まれた赤ちゃんが、やがて律法のもとにある人々を贖うのだという事実を暗示します。神の御子の誕生は、その中に十字架と墓とを含んでいます。マラナ・タ教会では、クリスマスにしばしばレントの歌を歌います。久下牧師は教会暦が分かってないなと思った方もおられましたが、実はそうでもなかったのです。
聖霊とは何かよくわからないという方がおられますが、「主であり、命を与えるもの」と教会は表現してきました。ニカイア信条でそう言い表しました。とても分かり易いですね。わたしたちの耳が開かれて、神の言葉が聞けるようになります。神とわたしたちの関係が生き生きとしてきます。わたしたちが神の養子にされたということが、難しい教えではなく、実際にお父さんと呼びかけることで実現します。これが聖霊を受けたわたしたちの現実です。キリストの中にあって、キリストの息を吸って、わたしたちの信仰は生きたものになります。
養子とされて相続人になった、このうれしい出来事に対するわたしたちの応答は礼拝の中で、深く味わうことができます。教会は聖霊によって動かされます。聖霊によって強められます。わたしたちが一つになって神に祈ることを可能ならしめます。そうなると難しいはずの三位一体が分かるようになります。聖霊はイエス様の息です。この息を吸うのです。キリストがわたしたちのうちに、わたしたちはキリストのうちにおります。この状態を「キリストにあって一つ」と表現します。牧師は聖餐式で必ずそう宣言します。先週、礼拝ではありませんが、マラナ・タ教会の姿勢がよく現れた経験をしました。先ほども触れましたメサイアのコンサートでのことです。信者と信者でないもの、プロの音楽家と素人の聖歌隊が一緒になって神を賛美しましたが、見事に全員の息があっていました。オーケストラのメンバーもソリストもみんな、一つになって演奏できた、楽しかったと感想を語りました。キリストにあって同じ一つの方向を見ることから、生まれた演奏だったと思います。
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(八、九節)。ここ八節以下では、パウロは突然、語り掛ける対象をユダヤ人信者から異邦人信者に切り変えているようです。あなたがたは神を知らないで偶像の神々に仕えていたが、今は神を知っている。というより、神に知られている、まず神が全くの恵みをもってあなたがたを選び愛してくださったのだから。それなのに又逆戻りするような愚かしいことをするのかと言っています。こういう風に説明されると、これまでパウロがずっと言い続けておりました、逆戻りしてはならない、逆行するなという教えがよくわかります。成人したのに未成年に戻ったり、子として一人前の相続人になったのに、相続できない奴隷に逆戻りしたりするのは意味がありません。律法の規定に従って「割礼を受けねばならない」という教えがいかに馬鹿げているかと説いています。
「あなた方はいろいろな日、月、時節、年などを守っています」(十節)。これは圧倒的に異教の習慣のことです。昔の異教信仰の祝祭日を再び祝い始めたガラテヤの信徒たちの現状が語られているのでしょう。まだ若い研究者だった時に、わたしのグループに所属する研究員の一人が、今日は日が悪い、この方角はよくないと主張するので閉口したことがあります。優れた実験家でしたが事ごとに暦にこだわる人でした。今年はだれだれが死んで何年目にあたるので研究成果は期待できないとか、今月はこういう巡り合わせだからどんどん研究が進むはずだとか、今日は日が悪いので実験はしないと常に言っておりました。ガラテヤの諸教会にもそういう習慣が入っていて、信仰者であるにもかかわらず暦の習慣を守っていたと思われます。また、異教のことだけではなくユダヤの律法を遵守しようという人々の影響を受けて、いろんなユダヤ暦の迷信のようなことを守り始めていたことにも言及したのかもしれません。
姓名判断や、星占いは今でもわたしどもの周りで盛んです。キリストの中に生きることは、あらゆる迷信から人を自由にさせるはずですが、実際の生活の中ではなかなかそうもいかなかったのでしょう。人々が暦に執着するようでは自分の伝道はうまくいってない、そう思って、「あなた方のために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなた方のことが心配です」(十一節)とパウロは言っております。暦にこだわる姿勢には、深刻な問題が潜んでいると考えています。どうして気づかないのだと言います。パウロは自分の宣教活動が無駄になったのではないかと心配していますが、それよりももっと、ガラテヤの人々の救いを心配しています。生き方、考え方がひっくり返り、せっかくキリストの中に生き始めたのに、また外へ出てしまう。逆戻りに心を痛めています。逆戻りするなはガラテヤ書の中心テーマです。支配する諸霊というのは、わたしたちには分かり難いですが当時の人にはよくわかっていました。ギリシア文化の中には、いろいろな要素、霊力があって、自分たちの生活はその力に支配されていると皆さんが考えておりました。
わたしたちは、そんな世の霊の力などに惑わされないぞと思っていますが、実は結構逆戻りしていることがあります。運悪く妙な病気になったり、体調不良になったりすると、藁にもすがる思いというのでしょう、怪しげなサプリメントに頼ります。非科学的な宣伝文句に踊らされ、キリストの力を知ったのに、世の霊に踊らされ迷信に頼る。わたしたちの生活を支配しているのは神であると口では言っているのに、結構世の神々の力に頼っています。キリストの中に生きることを、もっと心魂で学ばねばなりません。わたしたちは神の子です。養子にしていただきました。もう奴隷ではありません。自由なのです。この後、二週間跳んで二月二十三日に、キリスト者の自由について話します。変則ですが、それでガラテヤ書の連続講解は終わりになります。
祈ります。
父なる神、あなたはわたしたち一人一人の名前を呼んで、お前はわたしの子だと言ってくださいます。またわたしたちに聖霊を送って、あなたを親しくお父さんと呼べるようにしてくださいました。ありがとうございます。どうかわたしたちがこの恵みに応えていけますようお支えください。そしてこれからもずっとキリストの中に留まり続け、いつどんなときにも希望をもって生きられるようにお守りください。
主のみ名によって願い祈ります。アーメン。
2月2日の音声
2020年1月26日 降誕節第5主日
「一致と平等」
ガラテヤの信徒への手紙 3章21~29節
ガラテヤ書を読み続ける中で、ここ三週間、特に律法と福音の関係について聞いてまいりました。なじみのない議論に疲れた感じがします。パウロがしつこいくらい丁寧に、律法の役割とその限界について語っておりました。当時のユダヤ人と異邦人からなる共同体の人々とっては大事なことなのでしょうが、難しい議論にやや困惑しました。しかしそれらは今のわたしたちにも、信仰の在り方について大事なことを教えています。
今日取り上げようとしております段落は、やはりその続きなのですが、いくつかの点で、この書簡のクライマックスと申し上げてもいい箇所です。このあと四章以降はわたしたちがいかにして神の子と見做されるのか、そしてキリスト者の自由とは何かが語られます。この書簡のもう一つの中心テーマですが、今日は三章までの中心課題、異なった伝統に生きる者が共にキリスト信者として生きる時に、いかにキリストにある一致と平等を実現するかについて語られております。
パウロは異なった背景を持つ信者同士の一致についてはずいぶん心を砕いております。一章、二章を振り返りますと、エルサレムに行ってペトロとヤコブたちに会い、異邦人への伝道が教会の分裂を招かないように、あらかじめ合意を取り付けました。アンティオキアにペトロがやってきて、律法の食事規定についてペトロとパウロが衝突せざるを得なかったのも、教会の一致の実現に福音の本質がどうかかわっているかという重大な問題を含んでいたからでした。新しい神の民は、アブラハム以来ずっと続く「祝福の源となる」という約束の上に出来たものでした。諸民族を一つの民として祝福するという約束です。しかし、実際に信仰共同体がユダヤ人と異邦人を含むものになったとき、律法の取り扱いをめぐっての様々な問題が起こりました。これを解決して初めてキリスト・イエスのもとで一つとなれたのです。このキリストの中にある一致という理解は今日の教会にまで信仰生活に深い影響を与えております。当時は革命的な信仰理解、神理解でした。今では当たり前ですが、教会では国籍や民族の違いで差別されることはありません。
わたしたちはもう律法ではなく、キリストのご支配の下にあるのだということを、二十三、二十五節で「信仰が現れた」という言い方をしております。まるで信仰が人のように現れたと言っています。パウロが語る信仰とは「わたしたちが信じること」ではなく、キリストそのもの、イエス・キリストに帰属する信仰だからです。ですから二十二節は「神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」と訳されていますが、そうではありません。パウロは、イエス・キリスト「への」信仰ではなく、イエス・キリスト「の」信仰を媒介として、わたしたち信仰者に神の約束、祝福の基となる約束が与えられたのだと説明しております。
これまで「わたしたちは」と言えば、パウロやペトロなどユダヤ人を指していましたが、ここからの「わたしたちは」、パウロもガラテヤの人々もキリストの中にいる者すべてへと変化しております。養育係のもとにいた未成年に過ぎなかったわたしたちは皆、いまや神の祝福の約束、神の遺言の一人前の相続人となって、律法からキリストへ、差別や排除から断固たる一致へと変化したのです。急所になっているのは、支配者が律法からキリストに変わったこと、わたしたちが未成年から成人になったことです。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(二十六節)。ここにまたマラナ・タ教会の合い言葉が出てきました。「キリスト・イエスに結ばれて」は、直訳すると「キリスト・イエスの中で」、つまりエン・クリストー、イン・クライストです。キリスト・イエスの中にある信仰を通して、みんな神の子なのだと言っております。キリスト・イエスの中に留まれば、異邦人もユダヤ人もなく神の子なのです。神の子とは、すごい人という意味ではなく、同じ神の子、すなわち兄弟姉妹だと言っております。神の前に立てばみんな平等なのです。この二十六節の表現は暗記しておくといいのではないでしょうか。「わたしたちは皆、キリスト・イエスの中にある信仰を通して、神の子なのだ」(二十六節、改訳)と。パウロのガラテヤの人々への説得は一つの頂点に達しております。「洗礼を受けてキリストに結ばれた」(二十七節)、これも直訳すると「キリストの中へと洗礼を受けた」と言っております。洗礼を受けてキリストの中へ招かれたのです。キリストの中に一体とされるとはアブラハムの子孫になった、神の祝福の約束の子になったということです。神がアブラハムと結ばれた契約を受け継ぐキリスト者は神の子なのです。神の民の特徴が割礼を受けていることから洗礼を受けていることに変わりました。わたしたちが確かに祝福の基とされている保証は、律法に一致するのではなく、キリストに一致する、キリストの中にいることです。服のように「キリストを着ている」とも言っております。キリスト・イエスに結ばれているかどうかだけが、最終的区別の材料です。くどいようですが、決め手になっているのはわたしたちが信じるかどうかという以上に、イエス・キリストの信仰が先にあって、その中へと入っていくかどうかです。心の持ちようではなく体を伴う具体的なことです。
さてそのように、律法ではなくキリストのご支配のもとにいるわたしたちが経験する現実とはどういうものでしょうか。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(二十八、二十九節)。繰り返しになりますが、「キリスト・イエスにおいて一つ」とは、キリスト・イエスの中で一つです。キリスト者はキリストのものですから、今約束によってアブラハムの子孫となったわたしたちは、約束による相続人です。そしてユダヤ人であれ異邦人であれ、みな神の子として一つなのです。神は奴隷にとっても自由人にとっても神ですし、男にとっても女にとっても神です。割礼はユダヤ人と異邦人、男と女の区別を生みましたが、キリストの中に生きる、キリストの中へと洗礼を受けることは一致を造り出します。神は唯一のお方です。キリストのもとにあるものは一つの共同体を作るのであって、多数の共同体を作るのではありません。
さて、キリストの中で一つ、一致があると言いますが、言葉としてはわかる気がしますが、どういう一致でしょうか。パウロがここで説いている一致とは、民族的、社会的、性的な違いを消し去るような一致ではなく、むしろそういった違いを積極的に受け入れながら、その中にある壁、敵意、優越感や劣等感を打ち砕く一致です。キリストの中にある一致とはユダヤ人であることを止めることではなく、男であることを止めるのでもありません。そうではなくその違いが優劣をなすものではなくなるのです。差別や壁がなくなります。パウロは、奴隷制と戦った近代人からよく批判されますが、たしかに奴隷制を否定はしておりません。ところが奴隷のオネシモを、奴隷ではなく愛する兄弟として扱うようフィレモンへの手紙で指示しております。この当時にあっては革命的なことでした。彼はしばしば女性を名前で呼びます。男に対するのと同じようにです。女性を小ばかにしたり、庇護者のような上から目線で語ったりもしていません。むしろ同労者とみております。日本の教会はパウロに倣って、明治時代すでに女性牧師を受け入れ、一般の欧米の教会よりも前に女性教職に門戸を開きました。
さらに、もう少し考えてみたいのですが、キリストの中に留まることによって得られる一致とは、現実にある違いに目をつぶって、みんな仲間だと信じ込むことではありません。キリストの中に生きる一致とは、あくまでもキリスト・イエスとの関係における一致です。キリスト・イエスの中にあって、キリストと親しい関係の中に生きる、この関係性が決定的に大事なことなのです。
今聖歌隊はメサイアに懸命に取り組んでいます。このオラトリオは、イエス様の誕生、十字架の苦難、そしてお甦りを三部構成で歌います。イザヤやゼカリヤの預言を中心に構成された楽曲ですが、第二部の有名なハレルヤ・コーラスの後、第三部の最初に「復活の部」を導くとても美しいソプラノの独唱があります。歌詞は、ヨブ記から取られております。いうまでもなくヨブは苦難の人です。自分の全財産を失い、子供を失い、最後は健康を失います。友人たちがお見舞いに来ても、言葉もかけられない、目を背けざるを得ない惨状でした。重い皮膚病によるかゆみのせいで皮膚を陶器のかけらでかきむしります。血だらけです。妻は彼の惨状を見て、神を呪って死ぬ方が楽でしょうとまで言います。皮膚病の苦しさは死ねないことにあります。死んだ方がましだと言われても死ねないのです。それだけに苦悩は深い。彼は死ねない苦しみを負います。そんな苦難の詩人が漏らした言葉が歌われます。「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられる」。たとえ、体はボロボロになっても、わたしのこの肉が救い主を見るのだと。わたしの皮においてこの方を見る。たとえ自分の身が人間とは言えない単なる肉になっても、その塵のような存在の上にお立ちになる救い主を見ると信仰を表します。この有名なヘブライ語の詩は、後の七十人訳ギリシア語聖書やラテン語の写本によっては、肉においてそのお方に会うときは、「見知らぬお方としてではなく」となっています。つまり自分がぼろぼろになっても、肉片になっても、その時にこそ、キリストに「親しく」、見知らぬものとしてではなく、まみえるのだという告白です。
この信仰こそがわたしたちを一つにします。人はお甦りのキリストに出会えます。たとえどんな状況に追い込まれても出会えるのです。ただ仲がよいというだけではなく、この希望、この信仰がわたしたちを一つにするのです。これこそ主にある一致です。この一致は終末論的出来事となります。今の世を終わらせ、新しい世の始まりとなります。終わりであり、始まりです。
祈ります。
父なる神、わたしたちはもはや宗教規範を守ることにおいて一致するのではなく、キリストの中にあって、親しくキリストと交わることにおいて一致できると知りました。そしてキリストに属するものが新しい神の民であることを教えられ感謝します。男も女も、どの国の者も、どんな職業の人も、いかなる病を得ても、主にあって一つであることを感謝します。今日午後行われます二度目のコンサートを、信者もそうでない者も一つになってあなたを賛美するときとしてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
1月26日の音声
2020年1月19日 降誕節第4主日
「律法と約束」
ガラテヤの信徒への手紙 3章15~20節
ガラテヤ書を続けてご一緒に読んでおります。すごく楽しい中身というわけではありません。理屈っぽい論争の説教です。しかしマラナ・タ教会が、真のキリスト教会へと成長するために聞くべき御言葉です。今日も少しずつ順番に読んでいきます。
先週、「祝福の基」と題して説教いたしました。実に壮大なテーマで、わたしたち人類の歴史を「神の祝福が世界の隅々にまで広がっていく過程である」という視点で見る聖書の世界観を学びました。小さなプリズムに一筋の光が当たると、その光は虹になって広がっていく。わたしたちは、この小さなプリズムなのだ、神の祝福という真っ直ぐな光を自分の周りに拡散していく道具なのだ。それはアブラハムを起点として、ユダヤ人という民族ではなく、真の神の民とされたものが、神の約束によるイスラエルとして光を世界に広げていくのだという歴史観です。律法の中に生きる者ではなく、キリスト・イエスの中に生きる者こそが、神の民だという理解です。創世記に描かれた物語をパウロが見事に説明してくれております。わたしは二十歳の時にそういうものの見方を教会で教えられて、実に大きな気持ちになって生きてまいりました。せせこましい生き方ではなく、堂々と自分の思う生き方してもいいんだ、うまくいったら「心の欲するところに従って矩を超えず」、二十歳なのに七十歳の偉人が到達した悟りの気分で生きられると、まことに心がうきうきしたのをよく覚えております。別に学問に志を持たなくても、立派に独り立ちできなくても、あれこれ迷わなくても、耳に痛い批判を受けてもいい。「祝福の基になれ」という言葉はわたしには魔法の言葉でした。それほど強い働きをしました。青年を傲慢なまでの自己肯定に導き、困難にも正面から立ち向かわせたのです。
ところでパウロと当時の教会の人々は、祝福の基として生きるに際し、どうしても解決すべき大きな問題を抱えていました。アブラハムの子孫とはキリストにおいて成就した約束に生きるもので、必ずしもユダヤ人ではないとなりますと、律法はどうなるのかという問題です。先週もこの点に触れましたが、パウロはなお言葉を継いで語っております。神の祝福は今や世界に向かって開かれております。ユダヤ人であることはもはや祝福の根拠になりません。キリストが神の呪いを引き受け、アブラハムが受けた祝福をユダヤ人以外の人々も受けられるようになさったからです。ところが、トーラー、律法はユダヤ人にとって、長い間、誇りであり喜びでありました。詩編を読むとよく分かります。特にバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還してから、ユダヤ人たちにとって最も大切なものはトーラーだったのです。たとえ神殿がなくなっても国を失ってもユダヤ人の存在、そのアイデンティティーは律法があることによって保たれました。ですからパウロが真の神の民は誰であるかを提示するなら、その新しい神の民にとって律法はどういう位置を占めるかを論じることが避けられません。律法はもはや不要なのか、それともやはり大切なものなのか。パウロはこの点についてはっきり説明しようとしています。こんな風に説いております
「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません」(十五節)。この章の始めでは「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と強い語調で呼びかけていたパウロが、ここでは「兄弟たち」と親しみをもって呼びかけ、「分かりやすく説明しましょう」と語りかけます。日常の言葉で説明しようというのでしょう。人間の遺言ですら有効になれば、誰も無効にしたり、後からそれに何かを追加したりはできないのですから、神によって定められ神によって結ばれたものであるアブラハムに与えられた約束を、誰も無効にしたり、後からそれに何かを追加したりはできません。パウロはこのように説明します。遺言の方法について当時の決まりをはっきり知らないわたしたちにも、この言葉はよく分かります。現代の感覚と同じだからです。遺言は訂正が効きません。
パウロは続けます。「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです」(十六節)。神がなさった祝福の約束とは、アブラハムの子孫が栄えるという内容でした。「子孫」と訳された単語が複数形ではなく単数形なので子孫とは多くの人を指しているのではなく、一人の人「キリスト」を指しているのだと説明します。このギリシア語の元のヘブライ語は単数形ではありますが、多数の人々を集合的に表しています。パウロはそれをあえて無視して、キリストに適用しています。「子孫」が単数か複数かというのはユダヤ人よりもギリシア語を話す人たちを意識したレトリック、言い方の工夫のように感じます。神はアブラハムに与えられた約束の中であらかじめキリストのことを告げられていた、律法とキリストでは、キリストの方が神の啓示において優位である、大切なのだと言いたいのでしょう。やや強引ですが、何とかしてキリストを律法よりも前から神が示しておられたとわかってほしいのです。キリストによる約束の成就、救いの完成は律法以前に、すでに定められていたのです。
細かいことの様ですが、遺言と契約と約束という言葉をパウロは使い分けております。普通、遺言は遺言者の一方的な行為であるのに対し、契約とは両者が合意して結びます。ですから神と人の契約と聞きますと、神の側からの働きかけと、それに応答する人の側の働きが思い浮かびます。新約聖書というときの「約」は契約の約ですが、遺言に近い感覚です。テスタメントと言います。与えられたものです。神の祝福の約束は「契約」と言うことが多いのですが、パウロがここで語っている「約束」は人間の働きによるものではありません。神が一方的になさった約束です。人はただただ受け身です。ですから契約とは言っていません。最初の約束を後で与えられた律法と対比させています。
「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです」(十七節)。ここでパウロは、もう一度十五節の言葉に注意を向けさせます。律法はアブラハムに神が祝福を約束した時から四百三十年も後になって、モーセの時に与えられたものだと言っております。この数字は当時パウロたちがそう思っていた年数で、歴史的時間軸としての厳密な意味での四百三十年ではありません。エジプトにいた四百年間が基になった数字です。パウロは、約束の優位性について、祝福の約束の方が律法よりもずっと前になされた神聖なもの、大切なものだと諭します。律法は四百三十年後にできたと、偶然できたかのようにニュアンスを調節しています。律法もシナイにおいて一方的に恵みとして与えられたものですから、ちょっとずるいような気もしますが、しかし、確かに後から与えられた律法が先の約束を反故にする、つまり廃棄することはありえないでしょう。どちらも神がお与えになったものです。パウロの反対者たちも、おそらく律法が神の祝福の約束を反故にしたなどとは言わなかったはずです。ですから、ここは反論というよりも立場の違いを明らかにしたのでしょう。神の約束を信仰によって継承するのか、律法遵守によって継承するのかという選択です。
「相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」(十八節)。ここまで遺言あるいは約束が子孫にまでずっと守られるだのと言ってきましたが、ここで「相続」という言葉が登場します。相続はもちろん普通には約束の土地の相続を言いますが、ここでは「神の国」、「救い」の相続、つまり「神の祝福の約束」、「神の恵み」の相続であることは明らかです。その祝福が律法遵守によるものなら、もはやそれは祝福ではないのだという論法です。人の介在する余地はなく、一方的約束によって恵みとして与えられたものだと言います。祝福の継承は、律法という規範によるのではなく、一方的な約束という恵みとして与えられてしまっているのだということです。
「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。」(十九、二十節)。ここで、まとめとして、それでは律法とは結局何かともう一度問題提起をします。イエス様が来られるときまで、天使たちを通してと、説明します。いつまで必要なのか、それはイエス様が来られる時までなのだ。どうやってか、それは天使を通してだと言います。しかしこれらは副文であり分詞句です。大事なのは「違反を明らかにするために付け加えられたもの」という点にあります。興味深い文です。以前の訳では「違反を促すために」、つまりわざわざ違反させるためにとなっていましたが、少しニュアンスが違います。今の訳の方が良いでしょう。違反を明らかにする。パウロにとって律法は罪を防ぐことはできないという考えの様です。他のところで、わたしは律法においては落ち度がないと言っておりますが、それは自分が完全無欠であるという意味ではなく、罪を犯しても、きちんと悔い改めの儀式をして律法の規定に違反しないということでしょう。罪を犯さない人間などおりません。律法があるので、罪を犯したとき、それが良くないことだとわかる、律法がなければ見逃されるような悪事でも、はっきり悪いことは悪いとわかる。そういう意味で、律法は違反を明らかにする役割で後から約束に付け加えられたのだと言います。普段は律法も神によって制定されたと言っているのですが、ここでは律法は天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたと、人間の立場を考慮に入れた制約があって、神の約束より律法の方が劣ると暗に言っております。約束によってキリストが来られた以上、もはや律法は不要ということでしょうか。そうではありません。神の約束はキリストお一人が完成なさいましたので、仲介者となったモーセは確かにもはや不要ですが、律法が不要と言っているのではありません。これは論争の中の言葉です。律法が約束より大事で、キリスト者となるためには割礼が必要であると言っている人々に向かって語っています。パウロは律法なんて無視したらいいとは決して言っておりません。
今、教会で律法はどのように扱われているでしょう。まず消極的な意味では、律法は人を隔てる壁ではなく、もはや律法は脅威ではなくなりました。律法を持つユダヤ人と守らない異邦人を分け隔てする楔ではありません。さらに、律法違反で厳しく糾弾されることはなくなりました。むしろ逆に、現代では律法が全く無視されていることに問題があります。
積極的な意味はこうです。先週申し上げましたように、律法と一言で言い表される言葉には二重の意味があります。律法、トーラーは法律であると同時に救いの物語なのです。もし、この物語としてトーラーがなければ、物語を完成させるお方としてイエス様を理解することができません。イエス・キリストによってもたらされた救いの意味も分からないでしょう。トーラーはイエス様を遠く、しかしはっきりと指し示しています。その意味で絶対必要なものです。新約聖書は旧約聖書がなければ成り立ちません。又物語だけではなく、法律もやはり必要です。法律は人が幸せに生きていくために与えられた神の愛の言葉です。
日本ではキリスト教会は新参者で、明治時代にやってきた宣教師たちは、面倒なことはできるだけ避け、まず日本人に受け入れられそうなことだけを伝えようとしました。日本人が大好きなお勉強、つまりキリストの教えについての学びと、西洋音楽、讃美歌です。旧約聖書の律法は、面倒な規則集に感じるだろうから、あえて紹介しませんでした。戦前の日本の教会は伝道が中心で、礼拝の形式は後回しにしておりました。説教に賛美がついているだけの、音楽付き講義であるケースが多くありました。せいぜい「主の祈り」が初めに唱えられていた程度で、礼拝とは言わず、集会、もしくは日曜集会と言っておりました。もっと前は教会自身も耶蘇教講義所と呼ばれました。牧師からキリスト教の話を聞く講義所だったのです。ところが戦後になって、礼拝の形式を整える中で、使徒信条を唱え十戒を唱えるようになりました。十戒は、キリストの光の中で読まれるときに神のご愛を示す積極的な指針となります。感傷的な教えや抽象的な原則になりがちな法律が、生き生きとしたものに変わり、教会に光を投げかけました。
神の救いを証言する大変重要な役割が律法にはあります。悪しき律法主義と律法とは違います。律法の要求は今ではキリストの存在において満たされております。かつてのような人を縛る規範ではなく、今はキリストの律法となり、我々も尊重すべきです。イエス様は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ 二十二章三十七~四十節)とおっしゃいました。律法全体は、この一言を守ることによって果たされるのです。互いに相手の重荷を負いあうことにこそ、律法の精神があります。モーセの律法は、今やキリストの律法になりました。新しい光の中で、隣人愛の戒めになったと言えるでしょう。律法はすべての人に与えられた恵みです。
祈ります。
父なる神、わたしたちにとって分かり難い律法について、パウロがガラテヤの人々に説明していることを聞きました。あなたを愛し隣人を愛するという大切なキリストの律法を思い起こすことができたことを感謝します。あなたがアブラハムに与えられた約束にアブラハムが応答したようにわたしたちもイエス様に応答して歩むことができますように。どうかこれからも聞くべきことを聞き取って、まことに主の教会として成長できますように、支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
1月19日の音声
2020年1月12日 降誕節第3主日
「祝福の基」
ガラテヤの信徒への手紙 3章6~14節
聖書を読んでおりまして不思議に思うことの一つにこういうことがあります。それは、いったい、なぜ、いつ頃から、キリスト教会はユダヤ教とは全く別の共同体として分離したのだろうかということです。これは、なぜプロテスタント教会は、カトリック教会から分離したのだろうかという疑問とよく似ているのではないかと、教会を見ていて思います。パウロがユダヤ教から離れようと思っていなかったように、ルターもカトリックから出ることを意図していなかったように思えるからです。パウロは、明らかに自分のルーツに誇りを持っています。ユダヤ人なんかに生まれていやだ、損したなどとは一言も言っておりません。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」(フィリピ三章五節)と言い、また「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(二章十五節)と言い切っております。言い方にユダヤ人の誇りを感じます。パウロの論争はあくまでもユダヤ教の枠内での論争です。イエス・キリストによってもたらされた神と民との新しい関係性は、これまでイスラエルを導いてきた神の救いの業の延長線上にあるものです。キリスト教がユダヤ教から切り離されたのは、一世紀の終わりに律法学者がヤムニアという所で会議を開いて、キリスト教会をユダヤ教から完全に追い出す決定をしたからだと言う人もおります。いずれにしてもパウロがこの手紙を書いている時点では、教会はユダヤ教の枠内にありました。救い主はユダヤ人が待ち望んだメシアであって、イエス・キリストの信仰を介した救いは旧約聖書の約束が実現したのだと理解されております。だからこそ、信者の中に異邦人が増えてきたことで、重大な問題が生じたのです。「いったい神の民とは誰なのか」という問いです。ユダヤ人だけなのか。そうではないのか。
イエス・キリストは純粋なユダヤ人です。神の恵みを現わすお方として来られたメシアがユダヤ人としてお生まれになったのなら、神の民を構成する民はユダヤ人ではないのか。それとも異邦人も含まれるのか。わたしたちにとって、それはあまり大きな問題ではありません。ユダヤ人でないわたしたちも神の民なのだ、それは信仰によって認められたのだからと言い切れます。ある意味で都合の良い理解ができるからです。しかしユダヤ教の枠内にあった当時、この問いは大変深刻な問いでした。なぜなら、もし神の民がユダヤ人だけではなく異邦人も信仰によって神の民とされるのなら、あんなに大切にしてきた律法とはいったい何だったのかという問いが出てくるからです。ユダヤ人がユダヤ人であるのは、とりも直さず律法を持ち律法に従って生きているからです。それなのに律法を持たない異邦人も神の民とされるのなら、律法の位置づけがどうなるかわかりません。今のわたしたちは自明のこととしていますが、当時は大問題だったのです。キリスト教がこの当時の人々に広がっていくためには、この問題に明快に答える必要がありました。わたしたちも、神の民とは誰か、律法とは何か、この二つのことをもう一度しっかり考えてみつつ、今日の御言葉を読んでいきたいと思います。
神の民とは誰かという問いは、キリスト教信者と信者でない家族や友人との関係を考えるわたしたちにとっても大事な問いです。洗礼を受けた信者だけが神の民で、そうでないものは神の救いから漏れているのでしょうか。「先生、うちの夫は洗礼を受けておりませんが、死んだら天国に行けるでしょうか。わたしは天国で、彼は地獄というのは大変つらいです」というのはよく聞く疑問です。そういう方がおられますのとは逆に、「いやいいんです、死んだらわたしは天国、あの人はきっと地獄行です。どうせお墓も別々ですから、今は我慢しているんです」。もしこの世界の人々が皆さん神の民なら、いったい教会はなんのためにあるのでしょうか。伝道しなくてもいいのでしょうか。
「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(六~九節)。パウロは「アブラハムは神を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という創世記十五章六節の言葉をそのまま引用して話を展開していきます。何度も申しましたが義と認めるとは、正義の人だという意味ではなく「神との関係において正しいふるまいをした」「神がごらんになって関係を正しく捕らえたふるまいだと賞賛された」ということです。関係性を指すのが義、ツェダク、ディカイオシュネーという表現です。パウロは「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と言っております。ここでの信仰が人の信仰かキリストの信か、どちらも意味するのか、しばらく括弧に入れて先に進みます。神は、やがて異邦人も信仰によって義とされると見通しておられたので、旧約聖書では、アブラハムに予告してこうおっしゃいました、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記二十二章十八節)。ユダヤ人ゆえに異邦人は皆祝福されるということです。これが大変有名な予告で「あなたは祝福の源となる」(創世記十二章二節)といわれております。ご記憶の方も多いでしょう。ベテル聖書研究会でだいぶ前になりますが「祝福の基となる」と学びました。アブラハムが義とされた、神の前に正しいとされたのは、律法をきちんと守ったからではなく信仰によると言われております。そもそもアブラハムは律法を知りません。律法が定められたのはモーセの時代ですから、アブラハムより何百年も後のことです。律法もなく、業もなく、功績もなく、ただ神の憐れみによって義とされたのがアブラハムです。まるで信仰があるかのように、神を信じた、あなたの信仰がと言われております。ですから、わたしたちもキリスト・イエスの信仰を介して、祝福されると理解する方がいいでしょう。
「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」(十~十二節)。先程のあと、今読みました十節以下のパウロの説明はずいぶん飛躍しております。「律法の実行に頼るものは誰でも、呪われています」とまで言って、律法ではだめだと決めつけているように聞こえます。なぜかという説明が詳しくなされないまま、結論が先に出てきています。しかし、これは矛盾ではないでしょうか。「ユダヤ人は優れた律法を持っていて罪びとではない」と言っているのに、「律法を実行するものは呪われている」と言っています。律法を守らないと呪われるぞと律法の書が言うのですから、守ろうとします。すると今度は律法の実行に頼るような奴は呪われるぞと言うのですから筋が通りません。新共同訳の訳では何を言っているのかよく分かりません。日本語に訳した人もおかしいと思ったのでしょう、「律法を実行する者」ではなく「律法の実行に頼る者は」と、あえて悪しき律法主義をにおわすニュアンスに変えています。
「『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてある」と言っているのは、申命記二十七章二十六節、「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」を受けてのことですが、ここで言われている「この律法の言葉」とは、近親相姦や強盗、殺人を決して犯してはならないという法律の言葉を指していることは申命記の文脈から明らかです。そうしますと、そういう規則を守るのは人として当たり前であって、法律を守っていますので祝福してくださいというのはおかしいでしょう。これが律法の実行に頼る者の意味です。殺人をしませんので、それを根拠にして祝福してくださいなどという者があれば、あまりにも自分勝手で確かに呪われても仕方がないかもしれませんね。人を殺さないのは当たり前です。
わたしは、こう思います。律法と訳されているもともとの言葉はトーラーというヘブライ語ですが、新約聖書ではギリシア語ノモス、法律と訳されております。けれどもトーラーは必ずしも法律ではありません。トーラーは一義ではなく多義です。少なくとも異なった二つ以上の意味があります。トーラーといえば普通モーセ五書を指します。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記までの五書です。もう十年以上、マラナ・タ教会では皆さんしっかり読んでこられましたからすぐお分かりでしょうが、五書は決して法律集ではありません。むしろ物語です。天地創造の物語、アブラハム物語であり、ヤコブ物語であり、出エジプト物語です。パウロはトーラーを法律の意味で使ったり、神の救いの物語として言及したりしています。この点を押さえておくことがパウロの書簡を読む時には重要だろうと考えます。
そうしますと十節の言葉は、パウロがトーラーを法律の意味で使ったり、神の救いの物語として使ったりしていることを踏まえると、「わたしはイスラエルの民に与えられた救いの物語、トーラーを誇りにしています。こんな素晴らしい物語を財産として持っている民族は他にはいません。しかし一方で、トーラーに含まれる規則を守れば、それで神からの祝福に与れると考えるなら、それは祝福されるどころか呪われることになります」と読めるのではないでしょうか。同じ単語が違う意味を持つ、信仰や律法という言葉は注意深く読む必要がありそうです。
このように読みますと「律法によっては誰も神の御前に義とされないことは明らかです」の意味もよく分かります。ここでいう律法は「殺すな、盗むな」という戒めです。他人の物を盗まなかったからと言って神との関係が正しいとまでは言えませんね。「正しい者は信仰によって生きる」からですとパウロは言います。全く同じ文言をローマの信徒への手紙一章十七節でも使っていますが、そこでは「『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と言っています。書いてあるとは、旧約聖書ハバクク書の二章四節「神に従う人は信仰によって生きる」という言葉を指しているのでしょう。神の御前に正しいとされる者、義とされる者は、信仰によってなのだということです。ですから、ここで言われている信仰はやはりキリスト・イエスの信です。自分の信仰ではありません。以前の説教で、この「信仰」と訳されている言葉を「信頼性」と訳す斬新な例もあるが賛成できかねると申しましたが、こういう所でもそれがはっきりします。「正しい者は信頼性によって生きる」では日本語として意味不明です。「正しいものはキリスト・イエスの信によって生きる」の方がいいのではないでしょうか。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」(十三、十四節)。律法を守っているからこれでいい、律法を守ることで裁きから逃れられるという誤解が通用するならば、律法遵守は信仰を誤らせる呪いですらあります。またガラテヤの人々が、もし割礼を受けるという逆行行動をして律法を守らなければならないとなれば、それは神の救いから異邦人を遠ざけることになります。律法の呪いと言われても仕方がありません。キリストは、この呪いを取り除くために来てくださったとパウロは言います。パウロはキリストの十字架の姿を再び指し示します。十字架上のイエス様は、祝福されたお姿ではありません。木にかけられて殺された者は呪われた者だというのが旧約聖書の教えですから、十字架にかけられたものがメシアであるはずがない思う人も多いでしょう。にもかかわらずイエス様は自ら十字架にかかり、神に裁かれた者のような最後を遂げるることによって、呪いを終結してくださったのです。キリストがご自身を呪いの下においてくださったので、わたしたちは呪いから免れたのです。そんなことは余計なお世話だ、わたしは自分で呪いを解くというのは、神の前では全くの傲慢で罪です。
神の約束による人への祝福は、アブラハムを起点としています。そしてこの約束、祝福の成就は、エン・クリストー、キリストの中でもたらされました。パウロが繰り返して語る「キリスト・イエスにおいて」とはイン・クライストです。キリストにおいてという訳は与えるイメージが弱すぎます。キリストの中にあってこそ、ユダヤ人は呪いから解放され、異邦人はアブラハムを通じて与えられた神の約束による人への祝福を得ることができるのです。中と外にははっきりした境があります。枚方でこれこれが起きるというとき、イン・ヒラカタとあれば、それを経験するには必ず枚方に来るか留まらなければなりません。行動し参与せねばなりません。十一節で「律法において」とパウロが言っていたのも、律法の中においてです。エン・ノモー、イン・ザ・ロー。律法の中にいては誰も神との関係を正しいとされないということです。キリストと律法が対比されています。今やわたしたちは、異邦人にまで至った神の祝福を通して、約束された聖霊を受けております。祝福の基となる。それはアブラハムだけでなく、わたしたち一人一人にも与えられた素晴らしい約束です。いまや、キリスト・イエスの信によってわたしたちも信仰が呼び起こされ神の救いに与ることができました。さあ、キリストの信に応答し、その祝福を世界に広めていく使命を果たそうではありませんか。それができればユダヤ人もキリスト信者も、カトリックもプロテスタントも区別がありません。みんなが祝福の基となるのです。
祈ります。
父なる神、アブラハムを通じてあなたが与えてくださった祝福の約束をイエス様が成就して下さいました。またわたしたちは、キリスト・イエスへの信によってあなたの前に正しいものとされ聖霊を与えられました。感謝します。どうかあなたによる新しい命に生かしてください。そして与えられたあなたの祝福を自分たちだけのものとしてしまうことなく、祝福の基として生きていくことができますよう支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
1月12日の音声
2020年1月5日 降誕節第2主日
「律法か福音か」
ガラテヤの信徒への手紙 3章1~5節
あけましておめでとうございます。今年もわたしたちの合言葉「キリストの中にあって、イン・クライスト」で共に祈り、お互い助け合って歩みましょう。四月からの新しい出来事に期待しながら、残された三ケ月を共に前進したいと思います。特に今月開催します賛美のコンサートが成功し、賛美と伝道の業が進みますように祈りましょう。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリスト『の』信仰によって義とされると知った」(十六節)という言葉を先週再度学びました。合言葉のようになった「ただ信仰によってのみ」は、わたしたちプロテスタント教会の一枚看板であり、現代に至るまでの信仰告白や信条集においても「義認の教理」として重要な働きをしてきました。神の前では、異邦人であってもただイエス・キリストの福音に生きる者がよしとされる。信仰こそが問われるということです。この表現についての歴史的誤解、「イエス・キリストの信仰」と理解すべきところを、「イエス・キリストへの信仰」と違った読み方をしてきたことと、その弊害について詳しくお話しました。大事な点は、わたしたちが神との正しい関係に生きることができる、つまり「義とされる」のは、自分の信仰によるのではなく、「イエス・キリストの信仰を介して」だということです。
パウロは、自分が律法を頭で学んだだけではなく、律法が身に沁み込みこんで身体化するまで真剣に学んだことによって、キリストの到来による律法の役割の変化に気づき、逆に律法から解放されたと言いました。「律法に対しては律法によって死んだ」と表現しています。そして「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言います。わたしはキリストと共に今も十字架につけられている。キリストと運命を共有している。キリストの十字架は過去の過ぎ去った出来事ではなく、ずっとその状態が続いているという意識です。そして「キリストと共に死ぬ」から、「キリストと共に生きる」に変えて、今生きているのは、もはや以前のわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられ、わたしがキリストの中に生きているのだと言います。その上で「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と述べました。今、現に生きているのは「神の子が持っている信仰への信頼」によると言ったのです。信仰とは「わたしたちの外に」あるもので、決してわたしたちの中から涌いてくるものでも頑張って獲得するのでもありません。与えられるものなのです。「キリストを信じる」と言いますが、キリストに対する信仰の主体はあくまでキリストの側にあります。
ここで、もともとの問題が何であったか思い出してみましょう。ガラテヤの教会にはユダヤ人の信徒と共に異邦人の信徒もたくさんいました。そこで、割礼を受け食事や安息日規定を守るといった律法を守ることが必要かという問題が出てきたのです。パウロは、異邦人は律法を守ることは必要でなく、キリストとの交わりによる共同体を形成し神の命を生きることが大事だと言いました。福音は一つであって、福音による一致の基礎は「エン・クリストー」キリストの中に生きることにあるといったのです。ところがパウロの後から、異なった教えを説く人々がやってきて、ユダヤ人でない者がキリスト者となるには、洗礼だけでなく割礼も受ける必要があると言い出しました。旧約聖書にある、神の祝福に生きる者はまず割礼を受ける定め、それが前提でしょうと言ったのです。しかもアンティオキアではペトロが異邦人と同じ食卓について交わることから身を引くということが起こりました。パウロは使徒ペトロでさえ公に批判せざるを得なくなります。こんな中でパウロはガラテヤの人々に手紙を書いています。
大勢の異邦人を教会の仲間に入れよう、その方がいいだろうというような打算で動いているのではありません。この世での神の祝福とはいったい何か、神との交わりに生きるとはどういうことなのかというきわめて大事で、譲ることのできない問題を論じているのです。とても大事なことなので、口調に緊迫感があり、辛辣な皮肉を控えようともしていません。パウロの荒々しいまでの息遣いが感じられます。
「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなた方を惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(一節)。パウロから見るとガラテヤの人々は異なった教えを説く教師の呪縛にかかっている。惑わしたとは、悪意あるものの見方をさせているという意味です。一方で、わたしはあなた方にキリストが十字架につけられた姿を見せ福音の内容を示したではないか。キリスト・イエスの信を媒介にしてこそ神との関係は正しくされるとあなたがたの前ではっきり告知したではないか。それなのに悪意ある教えに洗脳されかかっている。目を覚ませと強い口調で語っています。「ああ、物分かりの悪い人たち」とは、ずいぶん強い表現です。わたしたちの言い方なら、「ああ、お前らほんまにあほか」ということです。分かってほしいという強い願いに親近感と憤りが入り混じっているようにもとれます。
「あなた方に一つだけ確かめたい。あなた方が霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(二節)。これだけはあなた方に聞いておきたいと前置きしてからパウロは問題の本質に迫ります。どういう経験があったのかはっきりとはわかりませんが、ガラテヤの人は霊を受ける経験をしたようです。誰もが聖霊を受けたとわかる大きな出来事を経験したのでしょう。異言を語ったのかもしれませんし、何か奇跡的な出来事があったのかもしれません。いずれにせよ、これまでの生き方を根本から覆される何らかの経験をしたのでしょう。そのことについて、それは律法によるのか、それとも福音によるのかと核心をついてパウロは尋ねます。ただ律法か福音かと聞いているだけでなく、「行ったからか、聞いたからか」と対比しています。すなわち「律法の業」によるのか、それとも「福音のメッセージ」によるのかということです。もちろん答えは明らかです。わたしたちは信仰を与えられて過去の束縛や挫折から解き放たれ、全く新しい生き方ができるようになった。また、長い不安の旅を終えて、やっと落ち着ける故郷にたどり着いたような経験をした。それらはまさに聖霊の働きがあったとしか言いようのない経験であったけれども、その経験は、わたしたちが「何かをしたから」なのか、それともイエス・キリストの信を表す十字架の贖いを「信じたから」なのかを考えてほしい。思い出してほしい。わたしたちの新しい生き方は、十字架につけられたキリストを聞いたからではなかったかと言っております。いつも申しあげていますように、わたしたちが信じることが先に来るのではなく、神がなさったことが先に来ます。わたしたちが何かをしたからではなく、神がしてくださったことを聞いて信じたからなのです。それが急所です。恩寵が先行し信仰が後続します。
「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(三節)。聖霊の力で始まったのに、人間の力で完成させようとするのかと問います。霊によって始め、肉によって仕上げる、完成しようとする、とは分かり易い対比ですね。せっかくイエス・キリストの信仰によって救われたのに、割礼を受けることで、悪からの、神なき世界からの解放を完成させようなどというのは、なんと愚かなことかと叱っております。律法の業、言い換えると律法を守ることによって神との交わりに生きられるとする考えを肉の働きだと言います。肉の働きとは限界があるという意味でしょう。律法をきちんと守るのは不可能だからです。できると思い込むのは浅はかな考えです。のちにパウロは肉の働きの実例を上げておりますが、割礼を受けることを、不品行、汚れ、好色、泥酔などと同じように論じているのは驚きです。律法を守れると信じ込んでいると、逆に不品行に陥るとまで言い切っております。割礼も受けなさいという教えを徹底的に批判しております。信仰にとって最も深刻な敵は、この世の非宗教的な行為ではなく、宗教内部の空疎化した儀式であり、宗教的な行為であることがわかります。ある宗教形式に従う者と従わないものを区別して、結果人間が規定した宗教の業が、再び人を隔てる壁となるのです。わたしたちも十分気をつけねばなりません。教会は厳選してどうしても残さねばならない儀式、聖餐と洗礼だけを秘跡としております。
「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・」(四節)。あれほどのことが具体的に何を指すのかはよくわかりませんが、二節の霊を受けた体験であることに間違いないでしょう。わたしたちは聖霊体験と聞くと、聖霊が、聖霊がとわめいて興奮状態になる人が思い浮かび、あまりいい印象がありませんが、やはりここは神の息に触れる熱い経験と考えた方がいいと思います。心が熱くなるような経験です。決して独りよがりの個人的な感動というのではなく、愛、平和、喜び、寛容、柔和、自制といった聖霊の実を結ぶ経験です。ひょっとすると思い込みかもしれないという危険性はありますが、心が熱くなる経験なしの宗教は空しいと思います。ただ心が熱くなるだけですと盲目的な信仰になりますが、逆にキリストの中にいる、主がわたしのうちにおられてわたしたちは一つにされているというワクワクする実感のない信仰は、眠っている信仰です。やがて内実を失い腐敗していくでしょう。少しも熱狂的なところがない信仰ならば、自由も得られないでしょう。わたしたちは静かであっても内に燃えています。聖霊によって、それほどの経験をしたのが無駄であるはずはありません。聖霊は優れた個人にだけ降るものではなく、また特定の人にだけ臨むものでもありません。一人一人個別にではあってもみんなに降ります。ペンテコステに経験した通りです。すべての人に約束された聖霊であって、一人一人が皆で声を合わせてアッバ、つまり「お父さん」と神を呼ぶことができる働きです。
そしてもう一度同じことを繰り返して確認します。「あなたがたに霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」(五節)。今もずっと霊を授け、継続的に力を働かせておられる方とは、神でありキリストです。内容は二節と同じですが、ここでは受ける人ではなく、授けるお方へと視点が移っております。またこれらの出来事は過去のことではなく、今現在のことになっています。ここでも、神が霊を授け、奇跡を行われるのは、あなたがたが「律法の業を行ったこと」によるのか、それとも「福音のメッセージを聞いて信じたこと」によるのかということが、繰り返して問われています。最初に霊を受けたときだけではなく、それからも続けて、いろんな奇跡を通してパウロもガラテヤの人々も神の霊を受けたとしか言いようのない経験をしていたことが見て取れます。
わたしたちは異邦人ですから、そしてマラナ・タ教会の中に古代のユダヤ人はおりませんから、律法か福音かという問いはありませんし、律法をどこまで守るか、守れるかという葛藤や悩みもありません。しかし、神の霊を受け、「キリスト我が内にありて生くるなり」と言えるのは、何かよい行いをしたからか、それとも福音を聞いて信じたからかというのは、わたしたちへの問いでもあるでしょう。わたしたちがもし教会で質問されれば、「言うまでもありません、福音です、福音を聞いて信じたのです」と答えるでしょう。ではわたしたちは、パウロと同じ様に「わたしは神の恵みを無にはしません、わたしが今生きているのは、わたしのために身を献げられたイエス・キリストが持っていた信仰への信頼によるのです」と顔を上げて告白出来るでしょうか。口先ではなく、心と魂でそう言い切るには、聖霊の働きが必要です。聖霊の働きなしにそのように告白することはできません。
後にパウロはローマの信徒への手紙でこう言っております。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」(八章十六節)。わたしたちが、神に向かって天の父よ、お父様、アッバと呼べるのは、わたしたちのうちに働いている聖霊によります。この聖霊を受けている以上、何かをせねばという強迫観念から解放されてわたしたちは自由です。パウロはこの後、ガラテヤの信徒に向かって自由を語ります。この書簡の最重要テーマは恵みと自由です。福音によって生きる、キリスト・イエスに結ばれている以上、律法に規定されている割礼の有無は問題になりません。愛の実践を伴う信仰こそ大切です。今年も、マラナ・タ教会に、キリストの内にある喜びが満ち溢れますように。
祈ります。
父なる神、御子イエス様がわたしたちのために身を献げ、あなたとの関係を義としてくださったことを感謝します。どうかわたしたちが、パウロがそうであったように、いつも十字架につけられたキリストを思い起こし、キリストが持っておられた信仰への信頼を持ち続けることができますよう導いてください。豊に聖霊を与えてください。そして、キリストの中にあって生き、愛の実践に励むことができますようお支えください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
1月5日の音声
2019年12月29日 降誕節第1主日
「イエス・キリストの信」
ガラテヤの信徒への手紙 2章15、16節
先週、クリスマス礼拝とイブの燭火礼拝を祝いました。喜びに満ち溢れ豊かに祝福されたときでした。今日から降誕節です、説教は元のガラテヤ書に戻ります。久しぶりに礼拝に来られた方もいらっしゃいますが、申し訳ないことに、新約聖書の中でも最も難しい場所に当たっております。牧師の言葉ではなく聖書の言葉をお聞きください。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知った」(十六節)という言葉は、信仰者でなくても知っている有名な言葉です。信仰義認の教えとも言います。十六世紀のプロテスタント宗教改革の中心テーマです。一言で「信仰のみ」と表現します。ルターの言葉として知られる「ただ信仰によってのみ」は、わたしたちプロテスタント教会の一枚看板であり、説教や神学書の中でよく取り上げられます。それだけでなく現代に至るまでの信仰告白や信条集においても「義認の教理」は大変重要な働きをしてきました。神の前では、異邦人であってもただイエス・キリストの福音に生きる者が義とされる。信仰こそが問われるということです。これは信仰だけではだめで割礼も受けなければならないという誤った教えに対し、パウロが反対して言った言葉です。ただこの表現には、とても深い大事な問題が隠れています。
はっきり言いますと、イエス・キリストへの信仰と訳されていますが、「へ」は余計です。「イエス・キリストの信仰」と訳すべきところを、長年教会は「イエス・キリストへの信仰」と理解してきたのです。これは実に根深い問題で、ラテン語聖書を作った昔の偉い人(ヒエロニムス 347年頃 – 420年)がそう訳し、それ以降、このラテン語聖書が神の言葉として長い間使われてきたので、ヨーロッパの学者たちは皆そう理解してきました。ギリシア語ではそう読まないほうが普通なのに、無反省に「わたしたちが持つイエス・キリストへの信仰」としてきたのです。ところがここ三十年くらいのことですが聖書学者やギリシア語が専門の古典学者たちがパウロはそう言ってないと主張し始めました。わたしも半信半疑でしたが、北海道大学の哲学者千葉惠が詳細に行った言葉そのものの意味分析を読んで、やはりイエス・キリストの信、キリストに帰属する信でなければならないと確信しました。この翻訳の差がどういう意味を持つか、またそれがいかに重大であるかをお話しします。これは面倒な学問の話ではありません。ちょっとした言葉の差でもありません。わたしたちの信仰の根幹にかかわる大事なことです。
まず、わたしたちが神との正しい関係に生きることができる、つまり「義とされる」のは、自分の信仰によるのか、それともイエス・キリストの信仰によるのかということです。イエス・キリストへの信仰は、もちろんわたしたちが持つべき信仰です。わたしたちが信じ仰ぎ見るのが信仰です。ですがこの信仰と訳された「ピスティス」は、必ずしも人間専用の言葉ではありません。神のピスティス、イエス・キリストのピスティスとも使われる言葉です。神の信仰というと神が何を信じるのかわからないので、神の誠実とか真実と訳されます。イエス様の場合は、イエス・キリストの信とか、真実と訳されます。最近では浅野淳博という新約学者が「キリストの信頼性」と訳しております。ただ信頼性という日本語は、システムや機械の精度を指しても使う言葉ですからいまひとつピンときません。それに誰が誰に対して持っている信頼性でしょうか。
「イエス・キリストの信仰」と訳すべきところを、「イエス・キリストへの信仰」と理解してきたことにより大きな問題が出てきました。このように訳した原因は、神との関係を正しくするのは自分が信じることだと思い込んできたところにあります。そうなると救いは個人の問題になってしまい、個人の罪意識はいかにすれば軽くなるのかという全く異なった問題にすり替わっていきます。わたしたちがよく知っている人ではアウグスティヌス(354年~430年)が義認を個人の問題と結びつけて、パウロが言ったことと違う理解をしてしまいました。ルターにおいても似たようなことが起こりました。彼は罪意識からの解放を求めたので、罪深い自分がどのようにすれば救われるのかという視点でハバクク書の「信仰によって義人は生きる」(二章四節)とパウロ書簡(例:ローマ書一章十七節)を関連付けて読みました。自己義認の愚かさを反省し、信仰義認を自由と喜びを獲得する決め手にしました。結果「神よ、罪あるわたしをお許しください」といった内面化が起こりました。義と認められることが個人の体験、心理面での出来事になってしまったのです。わたしの救いです。他者の救いも視野に入っていましたが、それは個々のわたしの救いの足し算でした。これは聖書の教えとは異なります。
これに輪をかけたのが、アメリカから伝わった信仰です。新島襄や内村鑑三などが学んだ十九世紀アメリカのキリスト教です。極めて特殊なキリスト教を、これがキリスト信仰だと思ってしまいました。明治維新のころ、アメリカは西部開拓時代でした。西へ西へと人は移動しました。わたしの世代の方は「ローン・レンジャー」をご存知でしょう。ハイヨー・シルバーと叫んで白馬にまたがり、拳銃片手に無法者やインディアンを退治していく西部劇です。ワイアット・アープやバット・マスターソンもテレビでよく見ました。彼らは東部の安全な地方を後にして、誰も助けてくれない西部を目指します。そこでは自分自身の忍耐力や臨機応変の才覚、また腕力がものを言います。自分と家族は自分で守る。徹底した個人主義と独立心、敵幾百万といえども我行かんという雰囲気です。荒野の中で、ただ神と自分を信じ、出エジプトをモデルに前進したのです。神学教育を受けた牧師もいませんでしたので、ただ熱心さだけが際立ちました。時には銃を使うことも厭いませんでした。この雰囲気は今でもアメリカに根強く残っています。自宅の庭への侵入者は撃ち殺します。彼らの信仰は、ごちゃごちゃ言わずに聖書の言葉をそのまま信じる、頭ではなく心で信じる、です。「反知性主義」はアメリアでは積極的で肯定的な言葉です。アホでもいいという意味ではありません。カリフォルニアにまで到達した彼らは、ついに海を越えて日本にまで来たのです。自主独立、個人主義をひっさげて。敵とみなした仏教や神道を徹底的に罵倒し、偶像礼拝として排斥しました。日本の文化など何も知らずに否定しました。自分の信じることのみが正しかったのです。宣教師の上から目線はどうしようもなく強いものでした。当然日本の知識人は、表面上聞いているようでいて、本当には聞き従いませんでした。
パウロは、アンティオキアで起こった共同の食事をめぐる事件を説明することで、律法の実行によるのではなく、イエス・キリストの信仰を介してこそ、ユダヤ人であっても異邦人であっても神との正しい関係に生きることができる、それが明らかにされたと言っております。律法を守ることによっては誰も神の義を受けとることはできません。しかし、では律法によらずに神と正しい関係に生きているかとなると、それを自分で証明することはできません。それは神が啓示なさいます。上から、それでいいとかこれはだめだというようにです。ところが啓示は人間にはそれ自体をはっきりと理解することができません。神は見えないので必ず何かを媒介にしてしか明らかにできないのです。その神の啓示の媒介となられたのがイエス・キリストです。イエス様はご自分を信頼する人に「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいます。また時にはその人の思いに関係なく親や友人が示した神への信頼を見て、「あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。肝心なのは主がお持ちになっていた、そしてそれをわたしたちにお示しになった権威と神への信頼です。わたしたちは皆、神との関係がずれていますから、そのままでは神の栄光を受けることはできません。イエス・キリストがお持ちになっていた信を媒介にして上からの贈り物、賜物として神との正しい関係を受け取ることができるのです。
「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(十五節)。わたしたち現代人は差別の感覚に敏感ですから、この表現は異邦人を差別した言い方に聞こえるかもしれません。けれどもパウロはユダヤ人である誇りは持っていますが、異邦人を差別しているのではありません。ユダヤ人は優れた律法の下に生まれて、自分で選択することなく、生まれたら自然に信仰の世界、神の世界に生きていると言っています。異邦人は律法など知りませんから、律法に従った生活はできません。神との契約の外におりますからユダヤ人の理解では異邦人は当然罪人となります。そういう意味でユダヤ人は異邦人とは違うと言うのです。パウロは異邦人を差別しているわけではありませんが、律法については違いがある、差があると言っています。
パウロが「わたしたちは異邦人のような罪人ではありません」と言っているのに、洗礼さえ受ければユダヤ人もギリシア人もない、何の差別もないと三章で言っていて不思議に思ったことがあります。後に書かれたローマ書三章二十二節でも、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」という訳になっております。イエス・キリストを信じることが大事で、信じればユダヤ人も異邦人も差別がない、誰もが義とされると、大事なのは信じることだと訳されています。しかしこれも違います。元の意味はこうです。「神の義はイエス・キリストがお持ちになっている信を媒介にして、信じる者すべてに明らかにされている。というのも『神の義』とその啓示の媒介である『イエス・キリストの信』との間に『分離はない』からである。なぜ分離がないかと言えば、‥」と続きます。差別がないのではなく分離がないのです。ユダヤ人と異邦人の違いを問題にしているのではなく、神とイエス・キリストの業に分離がない。律法に示された神の義とイエス・キリストの示した福音、十字架の赦しには分離がない。したがってユダヤ人も異邦人も今やイエス・キリストの福音を信じることによって等しく神の前に義とされるのだと言っております。
残念ながら、そういう読み方がされて来なかったので、日本で最も優れたキリスト者の一人であった内村鑑三でもここが理解できませんでした。「聖書全巻は新約聖書が分からないと理解できない。新約聖書はローマ書が理解できないと理解できない。ローマ書は三章二十一節以下が分からないと理解できない。ところがここがいくら考えても分からない。わたしは聖書が本当には理解できない」と言って死んでいきました。気の毒なことです。間違った翻訳を読んで悩んだのです。ローマ書とガラテヤ書は、一人で読まずに、聖書本文と汗を流して戦っているまともな牧師と一緒に読んでください。
「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(十六節)。生まれながらに自然と神のご支配のもとに生きているはずのユダヤ人は、神と正しい関係の中に生きているか、というと残念ながらそうではないのです。ユダヤ人は律法を神から与えられた「神の民」です。異邦人のような神を持たない民族ではありません。ここで「わたしたちも」というのは「わたしたちユダヤ人も」という意味です。だからわたしたち、すなわちペトロもパウロもユダヤ人は、これまで律法を正しく実行することによって義とされると思っていましたが、それは不可能で神の前に義とはされませんでした。律法の実行はどうしても不完全にならざるを得ないからです。ユダヤ人であることは何ら決定的な要素ではなかったのです。しかし今や、割礼も食事規定も関係なく、律法の実行によらず、神の前ではイエス・キリストの信仰、十字架の死こそが問われ、ただキリストの福音に生きる者が義とされると知って、「わたしたちも」キリスト・イエスによる救いを信じました。それがパウロの主張です。
わたしたちはまとまりを欠いた断片化した社会に生きております。多くの人は家族を持っています。職場にも行くでしょう。労働組合に所属する人もいます。学校に通う人もいます。ある人は教会に行きます。人によっては地域のラグビー・クラブやサッカー・クラブ、合唱団に属しているでしょう。しかしそれらの制度が互いに他の制度と直接の関係を持つことはありません。普通ラグビー・クラブの人間は合唱団の人間とはほとんど関係がありません。労働組合の人間は労働組合の人間同士でゴルフをします。サッカー・クラブの人とはしません。一般的にはお互い自分が所属する制度内でのみ付き合い、食事を共にすることが多いようです。教会はどうでしょう。完全に孤立している状態に近いと言えます。マラナ・タ教会は意識してカトリック教会との交わりを持ち、他教団の牧師たちとの交わりを持っています。聖書を読む会に他教派、他教会、カトリックの信徒が参加されますが、やはりその交わりは牧師とごく一部の信徒レベルで、キリスト教会内のものであり、一般社会との関わりが濃いとは言えません。わたしたちの信仰は断片化し孤立しています。わたしの信仰、わたしの救いが中心です。もちろん個人的な信仰が悪いわけではありません。けれどもそれで終わるのではなく、キリスト教信仰が初めに持っていた共同体的、社会的特性を、もう一度想い起こしたいと思います。今の社会では自分の個性の完成だけを目指すことが目立ちます。しかしわたしたちは皆、互いに依存して生きているのです。すべてのローン・レンジャーたちは、このことを知らねばなりません。信仰も社会の中での共同体としての信仰を取り戻したいものです。
わたしたちは罪ある者ではあるが、あたかも罪なき者であるかのごとくに見なしていただいたのです、だから感謝しましょうというのがプロテスタントの教えです。尊い教えかもしれませんが、これもそうではありません。わたしは、神は実際にわたしたちの本性と性格を作り変えて百点にしてくださったと信じております。何度も申し上げましたが、わたしたちは神の前では百点か零点かなのです。神の前でわたしたちの信仰は自己完結的なものです。神がこれでよい、お前たちを義とするとおっしゃったのに、まだ何か足らないかのように考えるはおかしいのです。健康な人も病気の人も同じです。一方でわたしたちは肉の弱さの中におかれていますから、人の前に生きている以上は、「福音に共に与るためには、いかなることもする」という覚悟、努力が要ります。信仰とは人の前では相対的であり自律的で、完結はしておりません。百点や零点はありえません。神に応答し、福音を宣べ伝えていくことが必要です。ヒトラーはマザー・テレサとは全く違います。この二人を共に百点とするのが神ならば、そんな神は不義でしょう。正しくありません。
結論です。では先生、いったいわたしたちが信ずることは大切ではないのですか。イエス・キリストへの信仰はどうなりますか。イエス様の信によって救われるのなら、わたしたちは何もしなくてもいいのですかという質問が聞こえてきます。イエス・キリストの信とわたしたちの信仰とは響きあっております。イエス・キリストの信があくまでも基礎にあります。信仰はまずイエス様がお話になります。先ほども申しましたが、「あなたの信仰があなたを救った」、「イエスは彼らの信仰を見て」と福音書にはまるで人の側に信仰があるかのごとくに語られております。しかし、誤解しないようにしなくてはなりません。この場合、信仰をお話になるのはもっぱらイエス様です。わたしたちが、他人に向かってあなたは信仰が足りないからもっと信じなさいというようなものではないのです。イエス様の信が人の信を引き出します。そして信仰のあるなしを判定されるのもイエス様です。だからこそイエス様は「ただ信じなさい」とおっしゃるのです。それに対して人は「主よ、信じます」としか言いようがありません。「信仰のないわたしをお助け下さい」と言うしかないのです。神の愛は人をして神を愛せしめます。人の存在の根底に、神の息、聖霊の働きがあります。
祈ります。
父なる神、「わたしはキリストと共に十字架につけられています」と告白したパウロの信仰を分からせてください。そしてわたしたちに、わたしたちを愛し、わたしたちのために身を献げてくださった神の子が持っておられた信仰への信頼をお与えください。また、わたしたちの信仰が単なる個人的なものに留まらず、共同体の信仰として育まれていきますようお支えください。一人ひとりを愛による信仰の実践ができますよう導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
12月29日の音声