待降節 2019

2019年12月22日 待降節第4主日 クリスマス礼拝
「人となった神」
ヨハネ福音書 第1章1~14節

皆さん、クリスマスおめでとうございます。以前申し上げましたが、ずっと昔、礼拝は夜に守っておりました。電気のなかった時代、ろうそくの光は闇の中にひと際明るく輝いたことでしょう。ろうそくは随分昔からあって、イエス様の時代にもありました。闇と光の対比は今よりずっと鮮やかであったことでしょう。今でも世界の多くの教会では、二十四日深夜にクリスマス礼拝をしております。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(一~三節)と、ヨハネ福音書は始まります。世界の初めからずっと父なる神と共におられた神、「言」によって万物は創造されたとヨハネ福音書は語ります。ここでの言とはイエス様のことです。この宣言を聞きますと、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記 一~五節)という聖書の最初の書物である創世記の始まりの言葉を思い出します。神が天地を創造され混沌としたこの世界に秩序をお与えになったそのときと同じように、初めに与えられた秩序が崩壊した世界に、今キリストと共に新しい創造が、第二の創造が始まっているとヨハネは言っているのです。

イエス様はご降誕になるずっと前、最初から神と共に、しかも今日の箇所の少し先に「父のふところにいる独り子である神」(十八節)とありますように、父なる神との親密な交わりの中におられました。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(四節)と、この福音書は言います。光を命であると言い、この命は神である言、人となってくださったイエス様の内にあったと言うのです。ヨハネによる福音書一章のこの書きだしはとても印象深いものですが、近代人が一度や二度聞いて分かるような表現ではありません。理解するよりは暗記するのにふさわしい箇所です。一つ確かなことは、これは深淵な哲学的あるいは宗教的な言葉というよりは、迫害下にあったキリスト者たちの切実な魂の叫びだったということです。

光が来たとき、イエス様が言としてこの世に来られたとき、本来ならそれを喜ぶべき人たちは人々を照らすその光を分かろうとせず、かえって敵対し、十字架にかけてしまいました。「光は暗闇の中で輝いている。ところが暗闇は光を理解しなかった」(五節)のです。理解しなかったと訳されている元の言語は「捕える」という動詞です。暗闇に支配されているこの世は、闇の中に輝く光であるイエス様を捕えそこなったとヨハネは語っているのです。そしてイエス様を受け入れなかっただけでなく、イエス様を信じる者たちを殺そうとしていました。そんな迫害の中でヨハネはこの福音書を書き残しました。最後の二十一章まで、イエス様のご生涯とお甦りを光の物語として描いています。そういうわけで、この福音書は、しばしば「光の福音書」と呼ばれております。

ヨハネは、この光である言、初めから神とともにおられたキリストを「ロゴス」という単語で表現しました。ロゴスのもとになった言葉は「レゴー、言う」です。「言う」という動詞から「言葉」となりましたが、レゴーには他に「数える」という意味もあります。きちんと数えますと、あるなしがはっきりし、黒白が付きます。そこからロゴスには「正しい、理にかなっていること」という意味もあります。ヨハネは、この福音書をギリシア語で書いていますが、主として初代教会に大勢いたユダヤ人信徒に向けて語っています。彼らの日常語はギリシア語であっても、信仰の言葉はヘブライ語です。ヘブライ語においては「言う」、あるいは「言葉」という単語は単なる音声ではありません。いったん口から発せられた言葉は良きにせよ悪しきにせよ「事を為してしまう」からです。聖書の世界では言葉は出来事です。具体的行為を意味します。神の言葉によって世界は造られました。ユダヤ人の感覚では、言語は一度口から出ると次々と事を為します。日本語でも大事なことはそうです。「君が好きだ」と言えば、単なる音声では終わらず事が起こります。だから「言葉」は同時に「行為」であり「出来事」でもあります。

神の言葉、それは神の出来事と同じなのです。クリスマスによく読まれるイザヤ書五十五章にも「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(十一節)とあります。イエス・キリストがこの世に生まれ、この地上を歩まれたということは、この世に対する神の語りかけであると同時に、神の行為であり神による出来事なのです。神の口から出る言葉は必ず出来事となって使命を果たします。

神はわたしたちが神との正しい交わりの中に生き、生ける神との真の関わりを持てるようにと光を送ってくださいました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(九節)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(十四節)。初めから神と共におられ、父なる神と深い愛の交わりにあった子なる神イエス様が、この世に来られました。肉となったというのは、人となられたと言ってもよいのですが、限界のある死すべき存在となってくださったということが強調された言い方です。イエス・キリストとは、そのような死すべき肉にすぎない人間の体を持った存在となられた「子なる神」なのだとヨハネは語ります。

初めから神と共におられた「言」が、人の世に降って来られました。ヨハネは言が肉となったこと、神が人となられたことを「わたしたち」の実存として語ります。神はわたしたちに向かって、上から「おーい、こっちにおいでよ」とおっしゃったのではありません。御自分からわたしたちが落ち込んでしまっている暗闇に降りて「来てくださった」のです。古代の王とか裁判官のように権威を振りかざして入り込んでこられたのではありません。それは実にひっそりとした宿りですが、しかし、全ての人の隣に宿られたのです。神が人となってわたしたちのすぐそばに来てくださいました。救い主はわたしたちの間に宿られたのです。クリスマスの出来事が起こったとき、言葉などほとんど使わなかった、ある意味で言葉を失っていた羊飼いも、救い主となる赤ちゃんを拝みに行きます。神は神であり続けるだけではなく、御自身ぐっと踏み出して降りてきてくださったのです。

ここに書かれているのは、一般的な「人」と「言」としての神との哲学的な関わりではありません。ここにいるわたしたち「一人一人」とキリストとの関係です。ものすごく具体的なことです。しかし全く不思議なこと、これまで聞いたことのないことです。人間の頭で考えたり思いついたりできることではありません。ですから明るくはっきり輝いていたにもかかわらず「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(十一節)と書かれている通り、当時の同胞たちは受け入れませんでした。「暗闇は、光を捕らえそこなった」のです。闇はこれを理解しませんでした。人はイエス様を受け入れることもできれば、知らん顔をして拒否することもできます。

さて、わたしたちは、光を光として捕えているでしょうか。日本のプロテスタント教会は福音派の影響を強く受けております。宣教師たちは熱心な福音派の人であることが多かったからです。戦後は特にアメリカの福音派の影響をうけました。これらのアメリカからの宣教師たちは、熱心なキリスト者ではありましたが、自分自身の成功と自分の救いが第一で、他者を思う心に大きな欠けがありました。政治にも熱心で自分たちの福音理解に基づいて、賛成できる政治家を熱心に支持しました。共産主義を嫌い、共産主義と戦う人であれば、道徳心や倫理観など人としての誠実さを無視し、どんな腐敗した政治家でも良しとしました。自分は信じている、自分はこれでよい、自分は救われていると思い込んでいました。わたしたちが知っている人物でいえば、代表がビリー・グレアムです。あなたもわたしと同じように信じなさいと常に押しつけがましく語っていました。ベトナムで戦う残酷極まりない米軍兵士を誇りとすると言って、大げさに米兵の祝福を祈っていました。ベトナム人の祝福は祈りませんでした。熱心なキリスト者は、今でもそういう傾向があります。○○ファーストと言いますが、○○の中には国の名前ではなく、自分の名前が入るのです。アメリカの影響を受けているわたしたちはどうでしょうか。自分と自分の家族の救いにだけ関心を持っておりませんでしょうか。それでは闇に輝く光を理解できません。しかし、このグレアムの始めた新聞ですら、ついに、とうとう、「今の大統領を支持するのはやめよう、彼は大統領をやめるべきだ」との社説をつい先日、二、三日前に掲載しました。さて何が起こるのかと、わたしは注目しています。わたしたちは、光を光として捕えなければなりません。わたしたちの信仰はイエス様の信、イエス様の信仰によっています。その信仰とは誠実さでもあります。光を光として捕えることができれば、他者の存在を尊ぶようになり人格的にも変えられていくはずです。

この世界には戦争、分裂、争いが絶えません。テロもあちこちで起こります。人為的な事故や災害もなくなりません。病気、孤独、貧困に多くの人が苦しんでいます。大きな失敗をして悩んでいる人、心を病んでいる人も少なくありません。生きることの困難を感じ希望を失っている人は数え切れません。精神的解放や抑圧からの解放など、様々な苦痛からの解放は人間の努力で実現されるかもしれません。又できるだけ痛みを経験せずに穏やかに死ぬことも現代医療で可能でしょう。しかし、それではわたしたちの抱える闇を根底からは解決できません。暗黒の中にいるとしか思えないことも、なぜこんなにひどいことが起こるのか理解できないということも、打ちひしがれそうになる大きな困難も、心に重くのしかかる不都合も、それ自体が光を理解できない闇ではありません。本当の闇は神に背を向けているところにあります。神の方を向いていない、神との関係が正しくないことを罪と言いますが、闇はわたしたちの側、人の罪の問題なのです。この罪が解決されない限り闇からの脱出はできません。

「言は、自分の民のところへ来て、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えて」くださいました。今もこの「言」、イエス・キリストは闇の中にいるわたしたちを照らしてくださっています。闇の中に輝く一筋の光となって、希望と慰めを与えてくださっています。わたしたちは神との交わりに生きることができるのです。喉が乾いたら水を飲みます。喉が渇いているのに酒を飲めばもっと喉が渇きます。人は誰でも、体も心も、神の命、神の息を求めます。それなのに、他のもので満たそうとすると、かえって渇きます。さあ、この神の恵みを受け取りましょう。言が肉となって、わたしたちの間に宿ってくださったことを祝いましょう。今日は洗礼をお受けになる兄弟がおられて、特別な喜びの時となりました。一緒に礼拝し賛美する、同じ一つの主の食卓を囲み、主のお体を、その血をいただく、これこそクリスマスの喜びです。一人でも多くの方がこの恵みを受け取られますように。この喜びがわたしたちと、また世の人々と共にありますように。

祈ります。
父なる神、独り子イエス様をこの世にお送りくださいましたことを感謝します。イエス様は今もわたしたちの間に宿り、闇の中にいるわたしたちを光で照らし、光の子として生きるよう招いて下さいます。どうかわたしたちが、イエス様が示してくださっているあなたの方を正しく向いて、希望と慰めの光の中で生きることができますよう支えてください。今日洗礼を受けられる兄弟と共にクリスマスを祝えることは大きな喜びです。どうかすべての人が、この世に来られた救い主を受け取ることができますよう導いてください。
主のみ名によって、感謝し祈ります。アーメン。

12月22日の音声

 

 

2019年12月15日 待降節第3主日
「告知」
ゼカリヤ書 2章14~17節

「この都だけはどんなことがあっても滅ぶことはない」。そう信じていたのにエルサレムが滅ぼされ、遠い異国バビロンに連れて来られた。それ以来続いている囚われの生活はもう何十年にも及び、もはやこちらで生まれ育った者ばかりになった。でも「明日はきっと、きっとよくなる。そう信じたい」、捕囚の民の中には少数ですが、あくまでも希望を捨てなかった人たちがいました。

そんなとき紀元前六世紀の後半ですが、ペルシャがバビロンを撃破しました。ペルシャ王キュロスは捕囚民の解放を決定し、パレスチナにユダヤ人の共同体を回復するように命令します。そして何もないパレスチナに帰るユダヤ人のため、神殿の再建と、バビロンが持ち去ったエルサレム神殿で使う儀式用祭具の返還まで命じたのです。第一次帰還がなされます。希望を捨てていなかった人々は、信じ続けていてよかった、やっと解放され帰国がかなったと喜んだに違いありません。ところが喜んで千キロ以上もの道を歩いて帰った祖国は、年寄りから聞かされていた祖国とは全く違っていました。そこにはもうかつてのダビデ王国の栄光の姿はありません。その上、この地に再び神殿ができユダヤ人の力が回復することを嫌ったサマリア人に再建工事を妨害されたり、追い打ちをかけるように干ばつが起こったりしました。せっかく帰っては来たものの、生活は厳しく神殿を再建する力はありませんでした。いまやペルシャの属州に過ぎない祖国で、隣接する異民族の敵意にさらされながら、飢えと戦わなければなりません。こんなことなら不自由でもユーフラテス川のほとりの、捕われの生活の方がずっと豊かで良かったのにという複雑な気持ちになっていくのも容易に想像できます。

一方キュロスの帰還命令から十六年後、ペルシャではダレイオスが王となります。このダレイオス王の時代に、ペルシャは安定の時代を迎えます。ユダヤ人の第二次帰還が進められ、以前よりもっと大きな集団が帰国します。そして「ダレイオス王の第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに、主の言葉が臨んだ」(一章一節)のです。この言葉でゼカリヤ書は始まります。その二か月前、六月にはハガイに主の言葉が臨みました。ハガイはゼカリヤと同時期、捕囚から帰国し神殿を再建するときに活躍した預言者です。試練の時代に主なる神は民の間近にあって働いておられました。その神の働きがどういうものであるかを語り伝えたのが預言者です。

この時代の人々の気分をよくあらわしている言葉が、ハガイ書一章二節に残っております。「この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている」。生活がこんなに大変なのに神殿どころの騒ぎじゃない、今はともかく生活再建だという主張です。自分の住む家の確保には懸命でありながら神殿再建には消極的であったその民衆に、「今、お前たちは、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」(同四、五節)とハガイは言います。「自分の歩む道に心を留めよ」とは、「道の上に心を置く、注意深くよく考えよ」という意味です。神殿は廃墟のままなのに、お前たちは板を張った家に住んでいるではないか。日本語で板をはった家と聞くと貧しい家の様ですが、レバノン杉を張った家ですから、ヒノキの家とでもいう感じです。帰還後しばらくすると、生活も安定してきたのでしょうか、家の一部にレバノン杉を張るものもいたのでしょう。バビロンから帰還した民に向かって、神殿再建の必要性を語った預言者がハガイです。そしてついに中断していた神殿の再建が始まります。

今日朗読を聞きました預言者ゼカリヤが見た幻は、まさにこの時代、この状況でのことです。時代状況を踏まえ、当時の人々の気持に寄り添った上で、ゼカリヤの言葉に耳を傾けてみましょう。一章二節以下です。「主はあなたたちの先祖に向かって激しく怒られた。あなたは彼らに言いなさい。万軍の主はこう言われる。わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに立ち帰る、と万軍の主は言われる。あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに、『万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ』と呼びかけた。しかし、彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる。その先祖たちは、今どこにいるか。預言者たちは永遠に生きているだろうか。だが、わたしが僕である預言者たちに命じた言葉と掟は、先祖たちに届かなかったろうか。彼らは立ち帰って言った。『万軍の主は、わたしたちの歩んだ道と行った業に従って、わたしたちを扱おうと思い定められ、そのようにされた』」(二~六節)。

「立ち帰る」という言葉が四回出てきました。このヘブル語「シューヴ」は、もう何度も申し上げてきましたが、「もといた場所に戻る」という意味でも用いますが、生きる姿勢をくるりと変えて、今の道を離れて神の許に立ち帰る、つまり「悔い改める」の意味でも使います。ペルシャがバビロンを滅ぼして以降、ユダヤの民はバビロンからエルサレムに「戻る」「シューヴ」することができるようになりました。しかし、この帰国は必ずしも神の許へ「戻る」のではありませんでした。エルサレムへの帰還が真の帰還となるためには、「悔い改め」がなければなりません。そのためには神が一度見捨てたエルサレムに「戻って」来られ、地上での住まいである神殿に臨在してくださるように、神殿の再建という具体的な事業を成し遂げ、神の許へ「戻る」ことが必要だとゼカリヤは考えているのです。「立ち帰る」とは、単にバビロンからの帰国だけでなく、先祖たちの生き方から離れて、真の神を求めることなのです。ゼカリヤは、エルサレムに帰って来た民に、バビロンでの生き方を手直しするのではなく、生きる姿勢を根本的に転換し、神に「立ち帰れ」「シューヴ」せよと言っているのです。そこに必要なのは感謝と悔い改めです。ゼカリヤはまず何よりも大事な神との関係の回復を呼びかけます。

そういうゼカリヤの預言のほとんどは、彼が見た八つの幻で描写されます。今日は第三の幻が読まれました。幻と訳されますが単なる夢ではなく神の啓示です。今日では洞察力という意味で使われますが、もともとは旧約聖書の言葉です。「指導者たる者ヴィジョンが必要だ」というときのヴィジョンが幻です。見えないものを見えるように示すことを言います。これらの幻によって捕囚から帰国した民に何が起ころうとしているのかが語られています。エレミヤは昼に幻を見ましたが、ゼカリヤは夜に見ました。夜は苦しみの象徴です。しかし夜明けは救いの時です。ゼカリヤの預言は夜、苦悩する中で、明け方の救いを待ち望む希望として語られました。夜寝ないでずっと立って見張番をしている預言者ゼカリヤに与えられた幻です。捕囚から再建への道を語ります。「裁きから希望へ」、先週申し上げた預言者の特徴がよく出ていますでしょう。わたしたちの心に響きます。第一の幻では、赤毛の馬に乗ったひとりの人が出てきます。これは王です。ダレイオスがペルシャ王となり、ペルシャ国内の反乱はすべて抑えられ、この時代地上には平和が訪れていた状況が描かれています。人々は皆平安に暮らしています。ペルシャの支配に甘んじて安穏としている民に神は怒られますが、それでも憐れみをもってエルサレムに帰り神殿をそこに建てなおすとおっしゃるのです。第二の幻は、四本の角が出てきます。これはエルサレムに敵対する勢力です。四人の鉄工が角を切り倒すためにやってきます。力強い神の守りが語られます。

そしていよいよ今日の第三の幻です。手に測り縄をもった「ひとりの人」がエルサレムの寸法を測ろうとしています。勿論、町の幅と長さを測るためです。そこにもう一人の御使いが登場します。再建されるエルサレムは当然城壁に囲まれた町だと思って、その大きさを測ろうとしている測り縄を手にした若者に、新しく登場した御使いは語ります。「神のご計画は、城壁のないエルサレムの再建だ。エルサレムは人や家畜があふれる豊かな町、開かれた町になる。大丈夫、神ご自身が火の城壁となって町を守ってくださるから城壁はいらない」。御使いは、若者に測量は無駄だと告げに来たのです。開かれた町、城壁のない町は、以前と違ってあらゆるものが過去を超えて行くのです。過去のソロモンの神殿は壮大ではあったけれども、明らかに限界があり、しかも罪の現実の中にありました。一方、新しいエルサレムは、城壁がなくても主なる神がその中におられ神の栄光があるので人々からの尊敬を受け、町そのものが光り輝くようになると言うのです。そういう夢を見たのです。本当にそうなるのでしょうか。この時の歴史に関心のある方は、ペルシャの官僚だったエズラとペルシャ王の献酌官だったネヘミヤの活躍を、エズラ記、ネヘミヤ記でお読みください。

神殿の工事はすでに着手されていましたが、町の城壁は「がれき状態」でした。エルサレムは極めて脆弱な状態でした。生活がまだこんな絶望的状態なのに、自分自身が未だ傷ついているのに、礼拝なんかしていったい何になるのか。神殿復興を進めても城壁がないのでは意味がないだろうと言う人が大勢いました。バビロンに残った人もバビロンでの生活に慣れ、本音は帰りたくない人が多かったに違いありません。そんな時に、神はゼカリヤを通して「城壁は無くても大丈夫。わたしがあなたたちを略奪した国々から守る。人や家畜が増え、エルサレムに栄光が輝く」とおっしゃったのです。そして、「娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来てあなたのただ中に住まう。その日、多くの国々は主に帰依してわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。こうして、あなたは万軍の主がわたしをあなたに遣わされたことを知るようになる」 (十四節)と続けられました。「ただ中に住まう」ということが強調されています。イザヤ書にも同じような言葉が記されています。「シオンに住む者よ、叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたたちのただ中にいます大いなる方」(イザヤ書十二章六節)。やはりイスラエルの聖なる方、主がただ中におられるので喜べの叫びをあげよと言っております。「神がわたしたちのただ中におられる」、これが預言者の言い方です。

ゼカリヤは加えてこういいます。「主は聖なる地の領地としてユダを譲り受け、エルサレムを再び選ばれる。すべて肉なる者よ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる」(十六、十七節)。預言者は神が住まれる町を幻で見ているのです。神がただ中に住まれ、神が支配される町。これは当時の人々が見ていた現実からかけ離れたものでした。預言者はエルサレムが裁かれて捕囚となった過去、そして困難な再建という現実、その延長に未来を見ているのではありません。見えない未来を見ていました。それこそがこの幻、ヴィジョンです。人の目に見えるものとは別の未来の姿です。

神が帰国され、民のただ中に住まれると言っています。神が働かれ、神の言葉が成就すると告げたのです。バビロンでも、帰還したエルサレムでも神が共におられるとは到底思えませんでした。ゼカリヤのこの幻は過去から予測される将来ではありません。いったいどのくらいの人がゼカリヤの言葉を真剣に聞いたでしょう。ゼカリヤだけではなく、わたしたちがここ三週間に亘って聞いてきた預言者たち、第二イザヤやマラキの言葉も、どれだけ人々に聞かれていたか疑問です。見える現実とは異なることを神の言葉として受け取るのは難しいことです。ユダヤの国ではこの先、預言者の言葉がだんだん力を失っていきます。ゼカリヤはもう言葉というよりも幻を語っています。そしてゼカリヤの後に登場するマラキを最後に、預言者はその後出てきません。黙示文学の形でしか語れなくなっていきます。

さて、わたしたちは今二十一世紀の日本にあって何を見ていますでしょうか。今の社会は言葉が氾濫しています。誰もがスマートフォンでつぶやく時代です。信用ならない言葉があふれています。そんな中で何を見ているでしょうか。弱っていく自分の体でしょうか。良くならない家族のことでしょうか。やせ細っていく教会でしょうか。今のわたしたちの現実の延長線上にしか未来はないのでしょうか。だとしたら、やってくるのは滅びかもしれません。しかし、未来は必ずしも過去と現在の延長線上にはありません。神が取られる行動は昔の基準では測れません。外からそして上から、わたしたちの歴史に介入されるからです。こんな時こそ御言葉を問い、御言葉に道備えをし、これを尋ね求めることが大切です。語りかけられている言葉をきっちりと受け取り、本当かと問い、心に蓄え、必要な備えをするのです。分からないときはかっこに入れておいて時々取り出しては考えます。もっと御言葉と格闘すべきではないでしょうか。

ゼカリヤの預言は、クリスマスの直前あるいはクリスマス・イブの日に読まれます。分かる気がします。神は既に人となってこの世に来てくださいました。でも、まるでこれから来られるかのように、わたしたちは来週のクリスマスを待ち望んでおります。単なる記念日以上のものなのです。「わたしはあなたのただ中に住まう」、聞こえますか、ゼカリヤの告知が。神の口から出た言葉はむなしく神のもとには帰りません。必ず事を成します。どんなに時間がかかってもです。その通りになりました。事実そうなったことをわたしたちは知っております。神が人となってやってこられる奇跡が起こりました。イエス様はこの世に誕生なさり、今もなお「わたしたちのただ中に」いてくださいます。なんと幸いなことでしょうか。主の平和が皆さんとともに。

祈ります。
父なる神、ゼカリヤの告げた「わたしはあなたのただ中に住まう」というあなたの御言葉通り、イエス様は人となってこの世に来てくださり、わたしたちの罪を担って十字架につき、およみがえりになりました。そして今もわたしたちのただ中にいてくださいます。このことを心より感謝致します。わたしたちの目に見える現実は、必ずしも良いことばかりではありません。でも何もかもあなたはご存知です。御心が成っていきますように。どうかわたしたちを憐れんで下さい。そしてすべてを主に委ね、主に従って歩んでいけますよう守り導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

12月15日の音声

 

 

 

2019年12月8日 待降節第2主日
「先駆者」
マラキ書 3章19~24節

先週も申し上げましたが、待降節になりますと礼拝で旧約聖書の言葉が読まれます。ここ何年かの記憶をたどってみますと、ほとんどが預言者の言葉です。サムエル記や列王記が読まれたこともありますが、それは例外で、たいていイザヤ、エレミヤ、ミカ、ゼカリヤなどの預言書が取り上げられます。なぜでしょう。これら預言者にはどんな特徴があるのでしょう。彼らは皆救い主の到来、イエス様の誕生を告げたでしょうか。そういう視点も加えて、この人はどうかなと預言書を丁寧に読んでいかれると新しい発見ができるかもしれません。預言者はだれもが個性的で不思議な魅力をもっていますが、何か共通点があるでしょうか。等しく預言者と呼ばれておりますが、何が彼らを預言者たらしめているのでしょう。おそらくそれは生きる意味を問う真剣さです。彼らは皆逃げないで課題に向き合う強靭さを持っております。そしてその強さは、教養や思考力によって内から出てくるものではなく、彼らを超えた外から来ております。自分を超えたものとのかかわりが預言者たちを新しくして課題に取り組ませます。今日朗読されましたマラキ書も、あまり親しみのない方もおられると思いますが、預言書の一つで旧約最後の預言者です。ですから神と自分たちの関係について向き合っております。マラキとは「わたしの使者」という意味です。個人の名前かどうかわかりませんが、一応マラキという名の人物としておきます。預言者とは職業でもなく、身分でも資格でもなく、生き方です。自分を超えた存在、神に向き合うことによって、混沌の現実に確かな目を向け、未来を切り拓いていく洞察力と勇気を持って生きる、そういう生き方です。そういう意味ではわたしたちも預言者でありえます。

ところでどんな本でも、いちばん初めといちばん終わりは、特に注意して編集されます。讃美歌21なら、「主イエスよ、我らに」という礼拝への招きの歌で始まり、「新しい天と地を見た時」という神の国を待ち望む歌で終わっています。いい歌を並べているのではなく、礼拝するための歌集というこの讃美歌集の性格をよく現しています。ちなみにこの最後の歌の最後は、「マラナ・タ、主イエスよ、おいで下さい」です。「マラナ・タ」は、まさに礼拝にふさわしい言葉です。

今わたしたちが手にしております旧約聖書は、ユダヤ教正典とは違って、律法、歴史書、詩編を含む知恵文学、そして預言者の書という順番になっていますが、その預言者の書の最後におかれた書物がマラキ書です。ですからマラキ書が旧約聖書全体の最後になっています。旧約聖書は、創世記の「初めに、神は天地を創造された」で始まり、マラキ書の「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」という言葉、つまり「主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」という、神の国、主の日の到来と、それがわかるようにエリヤが来るという言葉で終わっています。主の日は喜びの日でありますが、ある意味では恐るべき日です。世が裁かれ悪が滅びます。

マラキはどんな時代の預言者でしょう。ユダヤを滅ぼし民を捕囚にしたバビロンが滅び、ペルシア王による解放宣言が出て、人々は千キロの道を越えて何十年かぶりに祖国に帰って来ることができました。自由を取り戻しましたが、実際の生活は厳しく、なかなか生活の中心となるべき神殿を再建することができませんでした。それがペルシアの財政支援によってやっと再建することができたのです。紀元前六世紀のことです。よかったよかった、さあいよいよこれから国の再建だと上り調子にことが進展していきそうに思えます。皆期待したことでしょう。ところがそうなりませんでした。わたしたちも経験しましたが、町がつぶれてこれから皆一致してやり直そうとする時は、困難ではあってもみなぎる力が出てきます。しかし、ある程度回復し落ち着きが戻ると、向かう方向がバラバラになり、当初の意気込みが次第に失われていきます。この頃もそうだったのでしょう。外国からの献金で神殿を建てた、自分たちの力ではないといううしろめたさもありました。祭司の規律は乱れ、神殿への献げ物もいい加減になりました。異なった宗教の人との結婚が進みました。外国人との結婚が悪いというのではなく、信仰を守ることに無頓着になったというところに問題があります。神殿ができたら祖国は再び繁栄して回復するはずだったのがそうはなりませんでした。民衆は懐疑的になり絶望感すら漂っていました。期待をしては裏切られ、また期待しては裏切られるといった暗く重い時代でした。神殿を完成させ理想の国を再建しようとはしていましたが、建物の再建ができただけでした。土木工事で建物を立派にしても、そこに立派な国家が再建されるわけではなく、本当の回復、神との関係の確立ができなかったのです。マラキが活動したのはこの時代、紀元前五世紀の中頃、神殿ができてから数十年の後です。旧約聖書最後の預言者です。マラキのいた世界は、わたしたちの世界と似ておりませんでしょうか。高いビルはある。新幹線が時間通りに走っている。しかし人の心は荒廃している。官僚は堕落し、男女関係は乱れ、義理の親が二歳三歳の子をいじめて殺す。小学生を凌辱して殺し、電車の線路に捨てる。過去の荒廃した時代にもあまりなかったことが頻繁に起こっております。

預言者の書は、しばしば詩の形になっています。詩は短い言葉で強い印象を与えます。イザヤ書は特に有名です。ではマラキ書はどうかというと、なんと裁判の論争であるかのような形で書かれています。初めの一章二節をご覧ください。「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかし、あなたたちは言う、どのように愛を示してくださったのか、と」。驚くべきことに、離婚の調停のような調子です。人が神を訴えております。神は弁明なさいます。「わたしはあなたたちを愛してきた」と。すると民が言います。「どのように愛を示してくださったのか」。もしあなたがイスラエルの民を愛したと言われるなら、どのように愛してくださったのか、証拠があるかというのです。マラキ書はこのようにまるで検察と弁護人がやり合うかのように展開していきます。訴えている側のイスラエルの民は、「わたしたちが、外国の軍隊に滅ぼされ、捕虜となって遠い異国に連れてこられたのは、あなたがわたしたちを愛していないからだ、あなたは神としては失格だ。見てください、やっとバビロンが滅んだのに、まだペルシアの支配下で喘いでいます」と訴えたのです。それに対して神は、本来なら長男であるエサウ、つまりエドム人を愛すべきだったのを、エサウを後回しにして、変人の弟ヤコブ、つまりイスラエルの民をより愛したのに、お前たちはわたしの名を軽んじたではないかと反論されるのです。そこで祭司たちが「どのようにあなたの名を軽んじたでしょう」と応じます。すると、あなたたちは汚れたパンを祭壇に献げ、また、盗んできた動物や、病気の動物を献げものとして持ってきたと説明されます。汚れたパンというのは、半分腐ったパンではなく、礼拝で神にお供えするにはふさわしくないパンです。おそらく一度ほかの神々に献げたパンでしょう。祭司に至るまで、自分が神を悲しませていることがわかっていませんでした。マラキ書の最初にはそういうことが記されております。論争の形式で書かれております。

マラキ書が描くのは、対立する神と民の非難合戦です。本来、神と人の関係は、信頼によって成り立っていました。しかし今や信頼関係は壊れ、民の神に対する不信が募っています。神を訴えた人たちは、神に対してひどい言葉を語ったのですが、素知らぬ顔をして言うのです。「どんなことをあなたに言いましたか」(三章十三節)と。バビロンのマルドックこそ神だとか、主なる神、ヤハウェなんて役に立たない、わたしたちを愛してはいないのだと言っていたにもかかわらずです。

しかしついに三章十六節以下、今日朗読された箇所の直前で、裁判官あるいは陪審員として立ち会っていた「主を恐れ敬うもの」、つまり神への信頼と服従の内に生きる少数の人が互いに語り合います。そして「神は無罪だ」との評決を下します。訴えた民の側こそ実は罪を負うべきであり、訴えられた神は無罪であることが明らかにされました。裁判のような形式で書かれていますが、これが預言者の言葉なのです。

ここで下された裁判の判決はこうです。「その日」が来るのです。どういう日でしょうか。正しい人と、神に逆らう人がはっきり区別される日です(十八節)。まず、神を信じない者に裁きが下ります。「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」(十九節)。燃え盛る炉に投げ入れられた「わら」のようになるのです。根も枝も残らない。燃え尽きてしまうのです。「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る」(二十節)。一方で神を畏れ敬うものには、雷雨の後、太陽の光が射すように、温かく明るい光がさします。義の太陽は救いの象徴です。病気の人は元気になり、あなたたちは牛小屋の子牛が雨の後、いいお天気になって外に出され喜んで飛び跳ねるようになると言います。希望があります。続いて「わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる」(二十一節)と神を信じない者がどうなるかが繰り返されます。「炉で燃やされるわら」とたとえられた高慢な者、悪を行う者は、灰となって踏みつけられます。こうなりますと神に逆らう者はもう全く救われる見込みがありません。しかしマラキの言葉はここで終わってはいません。二十二節以下が本当の結論です。旧約聖書の最後の言葉になります。

「わが僕、モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」(二十二~二十四節)。「わが僕、モーセの教えを思い起こせ」、まず律法を思い出せと主は命じられます。聖書の最初、天地の創造や、人をご自分の姿に似せて作られたことなど、神と人との正しい関係の始まりのことを振り返って思い出せと言われます。先ほど見ました一章二節、「わたしはあなたたちを愛した。そして今もなお愛しいている」ということです。ホレブというのは申命記の言い方でシナイのことです。神がモーセに律法をお与えになったところです。神はそこで祝福の源として生きられるように掟を定め、導きの言葉、つまり教科書となる律法を与えたでしょうとおっしゃいます。これだけ関係が悪化しても、なお神はイスラエルの民をお見捨てにはならないのです。そして約束なさいます。「大いなる恐るべき日が来る前に、エリヤをあなたたちに遣わす」。エリヤはかつてアハブ王の時代に、国民をバアル礼拝という偶像崇拝から立ち帰らせた人物です。やがてやってくる新しいエリヤも、先のエリヤと同じく霊と力を持って働き、民を悔い改めさせ、真の神を信頼させる。そうして破滅から来る死を避けることができるようになると言われるのです。過去のモーセやエリヤではなく、今度は新しいエリヤ、メシアが神の国を完成させに来るのです。裁きから始まって希望を語りました。裁きから希望へ、この言葉を覚えてください。預言者の本質を表しています。

マラキの言葉は、イエス・キリストによって起こされた新しいイスラエル、わたしたちにも語られているのではないでしょうか。わたしたちは失敗や限界、自らの罪に囲まれそれぞれの人生を生きています。信仰者であるわたしたちの耳に「自分自身を救ってみたらどうだ」という神を小ばかにした無関心の声が聞こえます。そこかしこに真剣に生きる面倒を避ける空気が漂っています。他者の苦しみを共に背負うことの大切さを忘れてしまうことも少なくありません。今、日本は手にしうる最大のお金を持つようになりましたが、一人一人が幸せとは言えません。後進国の人にうらやましがられることはあっても尊敬はあまりされていません。やはり今の時代は、マラキ書が書かれた時代と似ているとわたしは思います。マタイ福音書の十一章で、イエス様はバプテスマのヨハネのことを「彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ十一章十四節)と話しておられます。マラキの「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(一節)は確かに実現したのです。そして主の日、神の国は、イエス・キリストによってすでに始まっています。主の日、神の国は、イエス・キリストによって、わたしたちの歴史の中に確かに押し入ってきました。ですからマラキが言ったように、太陽の下で躍り出て飛び回れるはずなのです。そうでないとわらのように燃されるぞという脅しではありません。聖書はわたしたちに、信じない者にならないで信じる者になるように勧めます。悔い改めへの招きです。すべての人がイエス様の恵みに与るようにです。神に逆らうものにならないで、イエス様の恵みに留まりなさい、これがこの聖書という本全体の結論なのです。

今年のクリスマスにひとりの兄弟が洗礼をお受けになります。教会から差し上げる記念の書籍に、わたしは「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」(黙示録二十二章二十一節)という御言葉を書くつもりです。黙示録の締めくくりの言葉、つまり聖書全体の最後の言葉です。主イエスの恵みが、すべての者と共に、もちろん、受洗者と共にあるようにということです。あなたと共に、すべての人と共にです。わたしたちも、今この時に自らの信仰を新たにしたいと思います。声を上げ、信仰を表明する瞬間を共に生きたいのです。そして今一度、救いそのものである、父なる神がわたしたちに届けようとなさっている言葉を聞きたいと思います。「見なさい。その日がくる。わたしはあなたに先駆者を遣わす。あなたの前に道がある。この道を行けば、あなたは今日わたしと一緒に神の国にいる」。

祈ります。

父なる神、旧約聖書の最後の言葉、「その日が来る」というマラキの預言の言葉を聞きました。わたしたちをあなたの名を崇める者としてくださっていることを感謝します。どうかこれからもあなたを信頼しあなたにより頼んで生きていくことができますようにお支えください。イエス様は、「その日」「主の日」の到来を告げられ、わたしたちのため十字架にかかってくださいました。待降節の今、イエス様のご降誕をわくわくしながら待ち望んでいますわたしたちが、同時に今のこの時を悔い改めの時としても過ごせますよう導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

12月8日の音声

 

 

2019年12月1日 待降節第1主日
「主の来臨の希望」
イザヤ書 52章1~10節

今日から待・降・節です。主のご降誕を待ち望むときです。目で見てわかるようにろうそくの明かりがともりました。教会の暦ではこの日から新しい年が始まります。待降節には旧約聖書が読まれますが、必ずイザヤ書の四十章から五十五章までのどこかが入っています。なぜ、どういう意味があってクリスマス前にこの箇所が読まれるのでしょう。今日はそういうことも考えながら、イザヤ書の御言葉に聞きたいと思います。

イザヤ書の四十章以下五十五章までは、ユダの国がバビロンに滅ぼされ、指導者層が皆捕囚となってバビロンに連れて行かれてから何十年もたった後の預言です。連れてこられたとき若者だった者も既に白髪になっています。初めの内はすぐにでも故郷に帰り、自由を回復できるのではないかと望みを持っておりました。しかし、四、五十年が経っても状況は変わりません。いったい神はご自分の民なのに遠く祖国を離れた異郷の地において捕囚のままにしておかれるのだろうか。ご自分の民が滅びるのを望んでおられるのだろうか。なぜ自分たちはそんな悲惨な目に遭うのだろうか。こういう出口の見えない状況に置かれて、おそらく多くの人々はあきらめムードだったのではないでしょうか。自分たちの先祖が拝んでいた神がいて神の約束というものもあったらしいけれども、そんなことはもはや信じられない、もう何も聞きたくないと耳をふさいだだけではなく、支配者であるバビロンに迎合し、名前までバビロニア風に変えた人さえたくさんいたようです。こういう状況のとき、一人の預言者が現れました。無名の若者です。重労働の後で、河のほとりでほっとして休んでいるユダヤの民に向かって呼びかけました。「団結して立ちあがれ、戦え」ではありません。「主を尋ね求めよ」(五十五章五節)と言ったのです。

今日聞きました箇所は「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」という預言者の力強い呼びかけで始まります。そしてもはやエジプトや、アッシリアやバビロンなど無割礼の外国人から攻められることはない、「立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ」と足かせから自由になれと説きます。「捕らわれのエルサレム」「捕らわれの娘シオン」と呼んでいるのはもちろん、自分の国を滅ぼしたバビロンによって奴隷にされたことを指しているのでしょう。エルサレムはシオンの山の頂きにあるのでシオンとも呼ばれます。その囚われの人々に「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」という主の言葉が告げられます。捕囚からの救済の預言です。そして、「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られているが、わたしの民はわたしの名を知り、わたしが神であることを知るようになる」とも告げて、神がご自身の名のために働かれることをみんなが知るようになると宣言しました。

それに続くのが、クリスマスによく読まれる次の箇所です。神による罪の赦しが告げられます。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」(八~十節)。神が王となって帰って来られる。この素晴らしいニュースを、王が帰ってこられる前に、先ぶれの使者が触れ回ります。喜びが爆発するニュースが山々を行き巡って伝えられます。先ぶれの使者の足は、今のような靴はありませんから、おそらく泥だらけでしょう。山道を歩き回りますから血だらけかもしれません、でも彼の足は輝いて美しい。あなたの神が王となられた。もはや支配者はバビロンの王でないのは勿論、ペルシャの王ですらありません。神が王として即位された。世界の主である神が王として御自分のものとされた町に帰ってこられるのです。もちろん、そのことが起こるのは未だ先のことです。現実には、次にエルサレムを支配することになるのはペルシャです。また故郷エルサレムは美しく建て直された城壁の町ではなく、まだ廃墟の町、がれきの山の惨めな姿のままです。それにもかかわらず、預言者は「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と呼びかけます。爆発する喜び、大地を揺るがすような大合唱を思わせる、そのような大きな喜びへと招きます。

いったいどうしてでしょうか。この呼びかけには続きがあります。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。この直前に、日本語ではわかりませんが、「なぜなら」という一言が元のへブル語にはあります。つまり、なぜ「共に喜び歌え」と語られているのかというと、主なる神が民を「慰めて」くださったからだ、町を「贖われた」からだと言うのです。「慰め」と聞くと、ホッとしたり嬉しくなったりはしても気休めに過ぎないだろうという印象を持つことがあります。しかし、ここで預言者が語る「慰め」は「気休め」ではありません。「歓声」や「喜びの歌」に繋がる、もっと力強い、決定的な変革、問題の解決をもたらすものとして語られています。ユダヤの罪への怒りで国を滅ぼし、エルサレムを廃墟となさった主なる神が、今度は「慰める者」として、エルサレムに臨み、力強い働きでかつての都を回復すると言われます。怒りが赦しに変わり、罪が赦されるのです。罪の赦しこそ慰めです。ですから「慰める」ではなく「強くする」と訳している聖書もあります。気休めではない真の慰めは、人を生かす主なる神が働いて罪から解放してくださることなのです。神が民を慰められる。強くしてくださる。それゆえエルサレムの廃墟は歓声をあげ喜び歌うことができるのです。

預言者はさらに、「(主なる神は)エルサレムを贖われた」とも言っております。「贖う」という言葉を、わたしたちはよく知っております。イザヤ書に繰り返されている重要語の一つです。同じ言葉が三節では「買い戻す」と訳されていました。この「贖う」あるいは「買い戻す」という言葉は、身内の不始末に関する用語です。土地や人などを買い戻す、取り返すことを「贖う」と言います。神が「エルサレムを贖われた」という言葉は、それまであるべきでない、いわば売られた状態にあったことを意味します。

ところで、預言者の言葉を注意深く読みますと、この人は過去のことを言っているのか、将来のことを言っているのか、少し迷います。バビロンにいながら語っているのですが、まるでエルサレムにいるかのようにも聞こえます。何度か申し上げましたが、ヘブル語には過去、現在、未来という言い方がありません。○○だった、○○である、○○となるだろうではなくて、すでにそうなったか、未だなってないか、つまり完了か、未完了かなのです。ですから、未来のことなのに、過去のことのように訳される場合があります。預言者の目には、神が怒りを捨て慰めてくださる姿が見えているのです。将来のことではあるが、既に起こっている、必ずそうなる、間違いなく実現するという言い方をしています。

エルサレムはいまだに廃墟のままです。目に見える状態は何ら変わってはいません。しかし事は既に起こったのです。神と民との関係には、決定的な転換が既に起こっています。主はエルサレムを贖われました。それゆえに、エルサレムの廃墟はもはや嘆きの中に座り込んでいる必要はないのです。「歓声をあげ、共に喜び歌う」ことができるのです。満州から引き揚げるのに、帰国が決まると、未だ大連にいても、引き上げ船に乗っていなくても、故郷の山が見えたという話と同じです。

預言者は、ユダの民にとって本当に大切なことは政治的解放、エルサレムへの帰還ではなく、主なる神との関係が正しくされることだと言います。主が民を贖い、エルサレムを贖われるという事実です。捕囚の民は、買い戻され自由になってシオンに帰るのです。エルサレムが廃墟となったのは、神の怒りであり裁きでした。売られて奴隷となったのは民の罪のゆえでした。ですから本当ならエルサレムは買い戻す価値のない町なのですが、主なる神は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。御自分のものとなさいました。しかし、これを聞いた民は喜びにあふれたでしょうか。ご想像どおり、そうはなりませんでした。この言葉は無視されました。何をいまさら、そんな馬鹿なという感じでしょう。この預言者だけが、そう理解していたのです。ですから当然孤立します。そもそも自分たちは解放されると言うなら、それはバビロンがつぶれない限り無理でしょうから、ユダヤの人だけでなくバビロンの人からも嫌われ憎まれたはずです。誰からも信じられなかった悲劇の人、この人はまさにイエス様を想い起こさせる人物です。この預言者の語った「苦難の僕」の姿は、イエス様を表した預言として旧約聖書の預言の中でも最も有名です。

かつて預言者を通して語られた主の民への慰めとエルサレムの贖いは、事実、後の日に御子なるイエス様のご生涯を通して、その死とご復活をもって、はっきりと現されました。このお方が神の慰めを示されました。神の怒りは取り除かれたのです。イエス様が神の「憤りの大杯」を飲み干されることによって、わたしたちの頭上にあった憤りの杯は空になりました。神による買い戻しはまさに銀によらずに、御子の命によってなされました。その流された血によって、わたしたちは罪の支配から買い戻され、再び神のものとされたのです。今日聞きました預言者の言葉を当時聞いた人は誰一人そうだとは信じませんでしたが、そうなりました。わたしたちがイエス・キリストの御降誕を待ち望み、そしてイエス様がわたしたちの罪のために十字架にかかってくださったことを思い出す待降節の時、この預言者の言葉は新たな響きをもって迫ってきます。良き知らせが、わたしたちのところにも伝えられています。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」という言葉は、まさにわたしたちへの呼びかけなのです。そしてこれこそが今日の聖書箇所がクリスマス前に読まれる理由です。「主の来臨の希望」なのです。

マラナ・タ教会の皆さん、二〇〇八年四月六日「いまや、きざしが見える」と題して、イザヤ書四十三章の説教でわたしの牧会はスタートしました。同じ預言者の言葉でした。わたしがこの教会を離れるまであと三か月余りです。イザヤ書からの説教はこれが最後です。遺言ではありませんがよく聞いていただきたいのです。いま日本は、津波、地震、原子力発電所の事故、火山の噴火、超大型の台風、異常な大雨による被害と災害が絶えません。グローバルな温暖化の影響もあるでしょう。また格差の広がり、人口減少や少子高齢化、親による子供の虐待と多くの問題が横たわり、信じられない犯罪が起こっています。政治家は○○ファーストを問います。○○に入るのは国の名前に限りません。自分の名前も入ります。自己実現、自己成就を神とする位置においています。公的な権力を持つ人間は皆、神ならぬ神に忖度して、嘘と丸わかりのことを白々しく答弁しております。記録は在りません。知りません。記憶にございません。こういう時、人は必ず神はいったいどうしておられるのか、どうしてこんなことが起きるのかと問います。この預言者の時代と変わりません。しかし、いくら神になぜ、どうしてですかと問うても答えは得られません。なぜかというと、神を問う、神に問うという問いは本当の問いになっていないからです。神に問えるのは、わたしたちが生ける神と真にかかわりを持っている時だけです。神との正しい交わりにあるとき、実は神がわたしたちに問うておられるということがよくわかるでしょう。このことがよく分かって初めて、神への意味のある問いが生まれます。神を問うためには神がわたしたちに何を求めておられるのか、それをまず問わねばなりません。

「歓声をあげ、共に喜び歌え」。この呼びかけに、わたしたちは今、応えます。先ほども礼拝への招きを聞きました。「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王」(詩編九十五篇一~三節)と。今年もクリスマスを祝います。世の中が不況であろうとも、災害の爪痕が残っていようとも、災いに満ちていると思おうとも、どんな状況にあろうとわたしたちはクリスマスを祝い、歓声をあげ喜び歌います。間違ってはなりません。喜び歌うのは、一時的に廃墟から目を背け、惨めな自分の姿に対して目を閉ざすためではありません。また、思考を一時的に麻痺させて別世界に身を置くことによってでも、酔っぱらいのように興奮した歓声をあげるのでもありません。そのような気休めではなく、主が王となってくださったことを心の底から喜び祝うのです。救い主が来られることを確信して喜び歌います。わからないこともあるでしょうが、だからと言ってそのうちにいつかと構えて居れば時を失します。預言者の声に真剣に聞き、神が何を求めておられるのかをしっかり聞いて、今応えるのです。

もう一度繰り返します。「歓声をあげ、共に喜び歌え」という呼びかけは、エルサレムの廃墟に対してなされました。「真の王が贖う者として来られ、正しく世を治めてくださる」と、まだ実現しておりませんが既に実現したことの様に預言者は語りました。確実な希望があれば廃墟の中でも歌えます。イエス様は、罪によって荒廃したこの世界の中に、真の人として生まれてくださいました。一見神によって裁かれたように見える者に希望をくださいました。既にわたしたちの運命を変える決定的なことが起ったのです。それゆえに、わたしたちは現実と向き合えます。たとえ廃墟のような状態にあったとしても、傷ついた世界、病気のわが身、また問題を抱えた自分の家族にも向き合えるのです。イエス様の誕生を想い起こし、再び来られるのを待ち望みましょう。神が王となって、こちらに向かって歩いてこられます。主なる王が帰ってこられるのです。「歓声をあげ、共に喜び歌い」ましょう。

祈ります。

イエス・キリストの父なる御神、この世に御子イエス様をお送りくださり、わたしたちを贖ってくださったことを感謝します。待降節の今、イエス様のご降誕を記念して祝うクリスマスをわくわくしながら待つと同時に、あなたの慰めと贖いを思い、悔い改めのときとして過ごすことができますよう、このときを祝してください。たとえどのような状態にあっても、共に喜び歌いつつ、常にあなたを見上げて生きていくことができますよう支え導いてください。

主の御名によって祈ります。アーメン。

 

12月1日の音声

 

 

 

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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