降誕節説教

3月10日、3月31日の説教を
森喜啓一牧師が担当します
その他は 久下倫生牧師が担当です

 

2019年3月3日 降誕節第10主日
「エルサレムを嘆く」
マタイによる福音書23章37-39節

エルサレムに入城されて以来、イエス様は祭司長たち、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々から次々と論争を仕掛けられましたが、すべて論破なさいました。そして最後にイエス様の方からメシアとは誰か、どういうお方かについて議論を持ちかけられましたが、その結果彼らは一言も言い返せず、もはや会話は無くなりました。その後に続いたイエス様による厳しいファリサイ派への糾弾も、先週聞きました三十六節で一応終わりました。この後二十四章と二十五章は、世の終わりに関する預言が展開されます。ユダヤ教指導者への糾弾から終末のメッセージへと移っていきます。その間に挟まった、イエス様の表されたエルサレムに対する深い憐れみが今日の御言葉です。

イエス様はファリサイ派だけでなくエルサレムの住民たちも神に背き続けてきたと嘆かれました。エルサレムもまた神の裁きによって滅ぼされるのだとおっしゃいます。当時のエルサレムの人々は、この都は神の契約によって永遠に保護されているので、いずれローマの支配から解放されることはあっても、ローマによって滅ぼされるなどとは夢にも思っていませんでした。エルサレムの人々に限らずユダヤ人なら皆そうでした。神の守りを堅く信じていたのです。ですからここでイエス様がおっしゃったこと、特に三十八節は、エルサレムの住民だけでなく、ひょっとしたら弟子たちも先生が何をおっしゃっているのかチンプンカンプンだったでしょう。それほどエルサレムは、当時のユダヤ人にとって神の都、不滅、永遠の都だったのです。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(三十七節)。「エルサレム、エルサレム」という二重の呼びかけでイエス様は語り始められます。新約聖書では他にも「マルタ、マルタ」、とか「シモン、シモン」と呼びかけられた例がありますが、ギリシア語ではこのように呼び掛ける言葉を繰り返すのは大変めずらしい形です。切々と訴える印象があります。「ああ、マルタ、マルタ、心を乱さないでいいのだよ」という感じです。確かに心に響きますね。今日の呼びかけも、わたしが覚えている口語訳では「ああ、エルサレム、エルサレム」と、「ああ」という嘆きの言葉が入っておりました。元の言葉にはこの「ああ」はないのですが、「ああ」と補って訳してありました。英語の聖書も多くの訳がそのように、感嘆詞を補っております。

エルサレムには立派な神殿がそびえておりました。ここにこそ神がおられるのだと人々は信じていました。山の上にある要塞の様な町で、アレキサンダー大王の侵攻があっても滅ぼされなかったことは民族の誇りでした。エルサレムは神がお守りになっている、終末の時には世界中の人々が神を礼拝するために集まってくると信じられておりました。今でもそう信じている人がおります。ユダヤ人だけでなく日本人にもそういう人がおります。しかし栄光に輝く歴史がありましても、神から民のもとに派遣された預言者を拒み、殺してしまったという愚かな歴史も併せ持っておりました。その暗い歴史のクライマックスが、今やイエス様を取り囲む律法学者とファリサイ派によって繰り広げられようとしていたのです。神の御子を殺そうとしていました。イエス様は「ああ、エルサレム、エルサレム、お前たちは今まで、神の預言者たちを殺し、死者たちを石打ちにしてきた」とエルサレムの状況を述べられた上で、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度も集めようとした」とおっしゃったのです。詩編十七篇八節の「あなたの翼の陰に隠してください」とか、同九十一篇四節「神は羽を以てあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」とか、ボアズがルツに言った言葉「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに、十分に報いてくださるように」の他、広く使われていますが、自分の翼の下に雛を保護するイメージは、神がイスラエルの民を養い育てる姿を言う表現です。もちろん、めん鳥が雛を羽の下に集めるのは、食べ物を与えるためであり、また安全なねぐらを与えて保護するためですが、この表現はそれ以上の意味があり、当時の人はみんなこういう言い方をよく知っておりました。ところがイエス様はご自分を主語にして「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とおっしゃったのです。ご自身を神の位置において、自分は神であり神として行動してきたと暗におっしゃったのです。旧約聖書の主なる神ヤハウェと自分は同じ存在であるとおっしゃったようなものです。イスラエルの民に食物を与え、安住の地を与え、保護してきたのはわたしだとおっしゃったのですから聞いた人はショックだったでしょう。驚きあきれ果てたと言った方がいいかもしれません。神と人は全く違う本質を有します。わたしたちはさらりとここを読みがちですが、衝撃的な宣言です。エーっといって椅子から転げ落ちてもおかしくないほどの言葉です。その上で「だが、お前たちは応じようとしなかった」と断定なさいました。イエス様に逆らってきたと断罪なさったのです。「応じようとしなかった」とは原文では「心を込めてイエス様がしようとなさったことを、心を込めていやだと言った」と対になっております。同じ表現を使っています。

そこで、こう続けられました。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(三十八節)。お前たちとはエルサレムの人たちのことですから、家とはエルサレムの町や特に神殿が考えられます。神の裁きによって、神の宮が廃墟になるぞと宣言なさったのです。その昔エレミヤが「わたしはわたしの家を捨て、愛するものを敵の手に渡した」(エレミヤ十二章七節)と語ったことを思い出します。神の神殿が、人の神殿、お前たちの神殿になっているところに、すべての悲劇の原因があります。実際イエス様の死後、ローマによってエルサレムは崩壊します。エルサレムの民はイエス様を殺すことによって、その使命を終えました。「荒れ果てる」は、ただ一時的に荒れ果てるのではなく荒れ果てたままになるという意味です。神が住まう永遠の都エルサレムは、荒れ果てたまま残されるのです。人々にとってこれは絶対に信じられないこと、起こる筈のないことでした。ここまで来ますと、もうこの先は読まなくてもなんとなくわかりますね。こんなに極端なことを言えば、イエス様でなくても殺されるでしょう。

「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」(三十九節)。不思議な響きがあります。言っておくが、というのは大事なことをおっしゃる時の決まり文句です。主の名によって来られる方とは、主という称号で呼ばれる方、つまりイエス様です。数日前にエルサレム入城なさった時のように、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高き所にホサナ」(二十一章九節)と再び言う時まで、という意味です。これは再臨の時、終末のことをおっしゃっております。それまでイエス様を再び見ることはないということです。神の子イエス様が人となってこの世に来てくださったその時はイエス様の死で終わろうとしていますが、見ることができない時期は永遠ではないのです。イエス様をまた見ることができるのです。審判の言葉で終わるのではなく、「お前たちの家は見捨てられて荒れ果て放置される」という災いを告げる言葉の後に、希望を感じさせる言葉が告げられ、偽善なるファリサイ派やエルサレム住民への批判が終わります。

先々週、次の聖書箇所について、つまり先週の説教個所ですが、どう説教すればよいか、そうだとストンと腑に落ちず随分考え込んでいました。実際話してみると、先週初めてこの教会に来て賛美してくださった求道者の音楽家が、目を輝かせて身を乗り出して説教を聞いてくださり、礼拝後「とても面白かったです。よくわかりました」とおっしゃったのに、長年教会生活をし、説教を聞き続けてきたベテランの信徒の方何人かが、この説教は難しいとおっしゃいました。なるほど説教とは難しいものです。どこがむつかしいのか再びよく考えてみましたが、終末論的な視点ではないかと思います。

エルサレムとイエス様の対立は最終の段階に達し、イエス様は神殿を見捨てられました。この後二十四章、二十五章と長い説教が続き、あとは受難物語が残されるだけになります。そこで二十四章以下に進む前に、ここで「歴史と終末論」ということを少しお話しておきたいと思います。教会でよく聞く言葉に、終末、あるいは終末論というものがあります。世の終わりということです。旧約聖書の中、黙示文学、特にダニエル書に明確に書かれております。この世界がいつか必ず終わりをつげるという教理、教えですが、これは世界の滅亡を意味します。もちろん世界の終わりという考えは世界中の国で神話的に語られますし、科学的に考えても、この地球の気候が劇的に変化して人類は滅びゴキブリが生き残るかもしれないというのは九十九%以上の確実性があります。聖書だけの教えではありません。しかし、ユダヤ、キリスト教による西洋思想に深くしみ込んだ終末論は、ただ世の終わりが来るぞ、覚悟しておけという教えではありません。

時の流れを考えるとき、循環的に考える場合と、直線的に考える場合とがあります。春が来て夏が来、秋、冬がやってくると、また春が来て、夏が来て、いつかまた雪が降って冬になる。今はこの繰り返しの終わる三月です。四月になれば必ず桜が咲き、新年度が始まります。時はこのように循環するものだというのが一般的考えです。これはわたしたちが歴史を考えるとき当たり前のように身に沁み込んだ考えですが、しかし聖書の世界観はそうではありません。循環的な歴史観ではなく、前進的な歴史観、一直線の前進を語ります。この世は初めに神によって作られ時を刻み始めます。そしてある時神によって終わりがもたらされるのです。時の進行があるとき止まります。終末とはいつか世界が終わるということですが、しかしそれは単なる終わりではなく、終わることのない全く違う新しい世界が始まることでもあります。「最後がくる」というのは単なる脅しではなく、期待が持てることでもあるのです。そこで終末論的に語るとか、終末論的希望という言葉が出てきます。こういう観点に立ちますと、歴史にあったいろいろな時代や、いろいろな出来事を統一的に見ることができます。イエス様はイスラエル、お前の歴史は神に逆らい、正しい者の血を流してきた歴史だと断定なさいました。イスラエルは数々の良いことを行い、祝福の基となるべく努力したけれども失敗だった、祝福から外れてしまったとおっしゃったのです。ですから最後の時にその責任は取らないといけない、罪の結果が降りかかるぞとおっしゃいました。この、聖書が語る終末論が分かるか納得できないかで、聖書を読むとき、御言葉が励ましにもなりますし大きなつまずきにもなります。

これまでのすべての歴史を、イエス様の十字架の死とお甦り、ご復活の出来事から統一的に理解しますと、全く新しい世が始まろうとしていると考えられます。メシアであるイエス様が苦しまれたのは、この世が終わる徴であり、新しい世が誕生するためです。罪深い人々に裁きが降り、砂漠が楽園に変わるというのが、聖書が幻想的に描くはっきりとした像、ヴィジョンなのです。今やわたしたちは救いの時に直面しております。

イエス様が語られた神のご支配、つまり天の国は、終末論的神のご支配です。天の国は近づいた、もうすぐそこに差し迫っているとおっしゃいました。既に始まっているともおっしゃったのです。誰もが待ちに待っていた救い主は、既にわたしたちのところに来てくださいました。サタンの支配は崩壊しつつあります。ですからここで決定的に大事なのは、わたしたちのイエス様に対する態度です。わたしたちはイエス様を知っています。何と幸いなことでしょう。今は嘆いたり、断食したりするときではありません。婚礼の時の様に喜び祝う時です。祝宴に集うときなのです。イエス様は裁きを語られます。正しい人は命を得、邪悪な人は永遠の苦しみを言いわたされるのです。しかしそれは、お前たちは有罪だ、だめだとおっしゃっているのではありません。新しい世が来るという徴を語っておられるのです。パウロは、極めて冷静に、ギリシアの知識人に向かってアテネのアレオパゴスの丘で、こう言い放ちます。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」(使徒言行録十七章三十、三十一節)。

教会は自らを歴史的存在というよりも、終末的な現象として理解しております。教会共同体はもはや自らがこの世に属するだけでなく、入口まで来ている新しい世、神の国に属すると意識して生きてきました。一人も滅びることなく、すべての者が悔い改めるように祈っているのです。神のご計画は隠されています。神のご計画を誰も知りませんし、その時もだれも知りません。ただ、父なる神だけがご存じなのです。だから希望を持って父なる神に尋ね求めるのです。

わたしたちはイエス様の翼の下に集められているので平安です。ファリサイ派のように頑張って上へ上へと向上して自分の救いを勝ち取ろうとしなくてもいいのです。逆に自分なんてたいしたことがない、つまらぬものだと自虐的になる必要もありません。神の国の入り口にあるわたしたちがすべきこと、それは明らかです。礼拝して聖餐を受けることです。この時、初めて「主の御名によって来る方に祝福がありますように」と祈れます。するとイエス様にお会いすることができるのです。預言者の誰もが救い主を見たくても見られませんでした。自分の歩みの中で、その救い主にイエス様にお会いできる、こんな幸いなことはないでしょう。これからご一緒に聖餐に与ります。わたしたちには何も恐れがありません。

祈ります。
父なる神、わたしたちのために神の御子が人となりわたしたちの罪を背負って十字架について下さったことを心より感謝します。どうか一人でも多くの人がイエス様の招きに応えていくことができますよう、またわたしたちがおごらず、逆に委縮したりせず、しっかりイエス様に従っていけますよう導いてください。御翼の下に憩う平安を今も後もずっと得させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

3月3日の音声

 

2019年2月24日 降誕節第9主日
「正しい人の血」
マタイによる福音書23章34-36節

今日は、トランペット奏者の霧生貴之さんをお迎えして、ご一緒に礼拝をしております。素晴らしい演奏を期待して、初めて礼拝に来てくださった方がいらっしゃるかも知れません。あるいは久しぶりに来てみようかなと思われた方もいらっしゃるでしょう。こういう時は特に、説教もできるだけ分かり易く、みなさんが来てよかったなと思えるようにしたいと思います。ところが、きょう順番が巡ってきたマタイによる福音書二十三章の三十四節以下は、わたくしがこの教会にきてからの十一年間で最も難しい箇所の一つで、だれもが首を傾げるのではないかと思われる、分かりにくい箇所です。

「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」(三十四節)と今日の聖書箇所は始まります。「だから」と言われていますのは、すぐ前の十三節以下三十三節までを受けて、その結論としておっしゃったと考えられます。では十三節以下でイエス様は何をおっしゃったのでしょうか。そのさらに前十二節までには律法学者やファリサイ派の人々の見えにくい「たかぶり」を民衆に向かって注意されていましたが、十三節以下では、律法学者やファリサイ派に面と向かって糾弾の言葉を投げかけられたのです。新約聖書の中でも最も厳しい批判といってもいいでしょう。「禍なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ」と昔の訳にありましたが、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と七回も繰り返されたのです。直訳すると「ああ、悲しいことだ、学者とファリサイ派の人々、偽善者よ」、これはかなり強い感情を吐露した言葉です。特に、六回目のあなたたちは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている、などという指摘は心の奥にぐさりと突き刺さります。うわべはきれいだが内は強欲で自分には甘いということです。そして結論として、「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(三十三節)と終っています。実に容赦のない言い方です。地獄の罰を受けるぞとおっしゃったのです。先々週も申し上げましたが、この状況を現代に当てはめますと、「悲しいものだな、偽善な聖書学者、教会の牧師よ」となりそうですから、わたしがここを穏やかに読むのは全く無理ですが、イエス様の説教はまだ続いております。それが先ほどの言葉です。「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のあるものを殺し、十字架につけ、あるものを会堂で鞭うち、町から町へと追い回して迫害する」。こう追い打ちをかけるようにおっしゃったのです。あなたたちは殺人者となる。ここまで厳しくファリサイ派を叱責されたのは、聖書のほかの箇所にはありません。

ここでイエス様は、「わたし」を強調した形で「わたしは遣わす」とおっしゃっています。ギリシア語は代名詞の主語、「わたしは」とか「あなたは」と言わなくても動詞の形で主語が分かりますので、わざわざ「わたしは」というときは、強調した言い方です。神ではなくイエス様が遣わすとおっしゃったのです。十章で「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(十章十六節)と言われたことを思い出します。ここで遣わすと言われている預言者、知者、学者とはいったい誰のことかよくわかりませんが、イエス様の弟子たちの中から派遣される誰かでしょう。するとユダヤ教の指導者であった学者やファリサイ派の人たちが、イエス様が遣わされた使者たちを迫害することになるとおっしゃったことになります。教会を迫害してその伝道者たちを殺す、処刑するということです。十字架につけるのはローマのやり方ですから、ローマへの反逆者として、イエス様と同じ様に支配者の権力を利用して殺すということです。実際はユダヤ人が殺すのでしょうが、直接手を下すのはローマということです。ご自分の死を暗示して、弟子たちに向かって「お前たちもわたしと同じ様に殺される」と表現されたのでしょう。

「会堂で鞭うち」とあります。会堂は礼拝する場所であると同時に、子供たちを教育する学校であり、民事紛争のための裁判所などの役目も果たしておりましたから、会堂が礼拝、伝道、交わりの拠点から、なんと迫害の場へと変わっていくことを暗示なさったのです。初代のキリスト教徒がユダヤ会堂から追い出された事実が頭に浮かびます。こういった迫害は一カ所にとどまらず拡大して町から町へと広がっていきます。このイエス様の預言は、まさに初代教会の発展時実際に起こりました。迫害の中で伝道がなされたのです。将来起こる著しい困難の中での弟子たちの処刑と、ご自分の死を重ねておっしゃったのです。大変厳粛な予告です。覚悟なしには読めませんね。キリスト者として生きる、イエス様の弟子として生きるとは殺されるかも知れないということだったのです。

さて次の三十五節には、こうあります。「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」(三十五節)。この三十五節はどういう意味か分かりにくいのですが、こういうところが実に大切なのです。まず正しい人アベルの血というのは、アベルが兄弟カインに殺された有名な事件、これは創世記の四章に出てきますが、旧約聖書に出現する最初の殺人、殉教の死です。こちらは誰もが知っていますが、「あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血」の方は、バラキアの子ゼカルヤが誰を指すのかはっきりしません。名前が似ていますから預言者ゼカリヤではないかとまず思いつきます。メシアはロバに乗ってやってくると預言した人です。しかし、預言者ゼカリヤが殉教したという記述は聖書のどこにもありませんし、ゼカリヤの父はバラキアではなくベレクヤです。調べてみますと聖書にはゼカルヤという名前の人が何人か登場しますが、この人かなと思えるのは歴代誌下二十四章に出てくるヨダヤの子ゼカルヤです。こうあります。「神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。『神はこう言われる。「なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。」』ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した」(歴代誌下二十四章二十、二十一節)。「主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した」のですから、「あなたたちが聖所と祭壇の間で殺した」という指摘に合致します。ただし、このゼカルヤの父は有名な祭司ヨヤダで、バラキアではありません。何人かの可能性があるのですが、わたしは歴代誌に出てくるこのゼカルヤのことだと思っております。なぜかと言いますと、歴代誌という本はヘブライ語聖書の配列では、今のわたしたちの聖書と違って旧約聖書の最後に置かれておりますので、アベルが旧約聖書の最初の殉教者と言えるのに対し、ゼカルヤは最後の殉教者と言えるからです。ですから、イエス様は「わたしが今遣わす預言者、知者、学者をあなたたちは迫害し殺害する。このことによって、最初のアベルから最後のゼカルヤまで、今まで流され続けてきた正しい人の血、罪のない多くの者の血がすべてあなた方に降りかかってくるぞ」とおっしゃったのです。ここには報復という言葉はありませんが、「あなた方の上に罪のない者の血が報復として降りかかる」という意味です。

そしてイエス様はこの審判の言葉をもう一度繰り返されます。三十六節、「はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」(三十六節)。今まで流され続けてきた正しい人の血は、今の時代の者たち、あなたがた律法学者やファリサイ派の人々に降りかかってくると断言しておられます。

しかしいったいなぜイエス様はそこまで厳しくファリサイ派の偽善を戒められたのでしょうか、なぜファリサイ派をここまで批判なさったのでしょう。ファリサイ派はつつましい生活をしておりました。お金持ちではありません。むしろ彼らはイエス様のことを、大飯食らいだ、大酒飲みだと批判しておりました。イエス様の弟子たちは断食しませんが、ファリサイ派は週に二度断食しておりました。どうみてもファリサイ派の方が信仰的に立派でした。しかし、そこに罠があったのです。見えない貪欲です。お金でも地位でも食べ物でも、もっと欲しい、もっと欲しいと必要以上に欲しがるのが貪欲です。それはまずいとみんな知っているので、普通、「上昇志向」と言い換えます。成績が良くなるように、良い論文を書いてもっと地位が上がるように、いい仕事をしてお金がもっと増えるように。向上を願うのは悪いことではありませんが、そこには自己の栄達だけを願い、なかなか向上しない者を排除する貪欲と傲慢が潜みがちです。もっと立派な信仰姿勢を確立したいと願うところにも、意外な貪欲の根っこがあります。ファリサイ派のもっと良い信仰、さらに良い信仰を獲得しようという姿勢に、この見えない貪欲があったのです。逆に、自分の信仰はたいしたことはないとか、どうせ自分はだめだからとかと開き直るのも、裏返しになった一種の貪欲です。これだけやっている、もっといい信仰者になれる、役に立っていると自負していたのに、何かのことで挫折すると、もうだめだとぼやく。もうじっとしているしかないのだとうずくまって信仰生活を送る。これは謙遜ではないのです。

自分の偽善に気づいていない人は大勢いますが、気づいている人も結構います。一人有名人を挙げるなら太宰治がそうです。純粋に生きようとして結局ひどく崩れました。女性関係がだらしなくなり、酒におぼれて自殺しました。彼はただだらしなかったのではなく、純粋な心に生きようとしていたのです。嘘をつかずに生きようと聖書を熱心に読みました。でも崩れました。純粋に生きよう、それが立派な生き方だと思う心から解放されなかったのです。自分を大きく見せたかったのです。

しかしそれにしても、ファリサイ派がなぜ過去の他人の犯した殺人の咎を今負わねばならないのでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々に対し、イエス様は何度も何度も教え諭し、目を開かせようとされました。けれども律法の文字一点一画に目を配りすぎた結果、律法における最も大事な神のご愛を見失ってしまった彼らは、もはやイエス様の言葉に耳を傾けられなくなっていたのです。そういう彼らをイエス様は、お前たちは偽善者だと嘆かれたのです。もし自分が過去の時代に生きていたら、決して正しい者の血を流す側にはつかなかったと言うけれども、そうではない。きっと同じことをするだろうという意味で、「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ」(三十二節)とおっしゃいました。その結果、律法学者やファリサイ派の人々はイエス様と決別し、神の御子を十字架につける方向に歩み続けます。ここでの偽善とは、道徳の問題ではありません。心の持ち方のゆがみのことでもありません。理想と現実のギャップに苦しんだところから出てくるある種の態度ではありません。「神の言葉、神の御子を殺す」行為なのです。

ところで、過去の人々が冒した過ちや罪は今のわたしたちには関係ないのでしょうか。これは今のわたしたちにも、のしかかっております。先の大戦での戦争犯罪について戦後に生まれたわたしたちにも問われ続けました。今なお隣国から指摘され続けております。もし過去のことが、今の自分に関係がないなら、二千年前に死んでくださったイエス様の死も今の自分に関係がないことになります。でもわたしたちは、イエス様の十字架上の死が、今のわたしたちを含んだ人類の罪のためであり、この贖いの死によってわたしたちは救われたと言います。二千年前の出来事が自分の救いの根拠だと主張しているのが教会であり、わたしたちです。であるならば、過去の過ちや罪についても大いに関係があるのではないでしょうか。イエス・キリストの十字架の死は、もう済んでしまったこと、昔のユダヤ人がやったことで今のわたしとは関係がないとは決して言えません。そんな昔の殺人は忘れて、未来志向で生きましょうとは言えないのです。イエス様の死の責任、神の御子を殺してしまったのはわたしたちの罪でもあるのです。

イエス様は実に厳しく律法学者やファリサイ派の人々を裁かれました。しかし、単に裁かれたのではありません。その裁きは、彼らを命の道へと連れ戻すためだったのです。これは実に大事なことです。イエス様はとことん厳しくおっしゃいました。しかし、裁かれただけではなくその裁きに耐え得ない、ファリサイ派や律法学者も含めて、わたしたちの代わりに、わたしたちの罪を背負って自ら十字架の上で死んでくださったのです。わたしたちはイエス様の信仰、イエス様の行ってくださった贖いの業によって、神との関係が正しくされました。イエス様の信仰によって義とされたのです。裁き主が救い主だったのです。現代人は極端に裁きを嫌がります。少しでも嫌なことを言われるといじめだと言います。大丈夫だ、あなたはそのままでいいという肯定的な言葉は受け入れます。しかし批判に対しては、そっぽを向きます。現代は真の裁き主のない時代です。でも、本当の意味で自分を裁いてくださる方、神の御子イエス様が必要なのです。

教会はそのように信じております。ですから神との関係を正しくされた、つまり義人とされたわたしたちは、今度は人の前で自律性を発揮せねばなりません。それは信仰による律法、愛の律法によるものであって、書かれた文字に従うだけの業の律法ではありません。平たく言えば、隣人を愛することです。裁き合うのではなく、それぞれが小さくなってお互いに仕え合い、愛し合い、迷い出た人を連れ戻し、隣人に福音を告げ知らせるのです。イエス様によって義とされた、神の前で救われたのだから、もう何をしてもいい、あるいは何もしなくてもいいというのではありません。神の前に義とされたわたしたちは人の前で、掟にしばられてではなく押し出されて、愛の業に励むのです。妻を心の底から愛している夫なら、妻のために喜んで何かをするでしょう。逆もそうです。夫を愛している妻なら、夫の仕事をいろいろな意味で手伝うでしょう。やらねばならないからではなく、それが喜びだからです。

イエス様はわたしたちの罪のために十字架にかかり、神との関係を正しくしてくださいました。わたしたちはこのイエス様の贖いによって神の前で義人として生きることができます。神の前ではわたしたちは百点か零点です。四十点、五十点というのはありません。けれども神の前で義とされた者どうしが愛し合って生きていく時、そこには百点はないでしょう。だからこそ、祈りつつ、励ましあって生きるのです。正しい人の血がわたしたちに降りかからないのは、ただひたすらイエス様のおかげなのです。主に感謝。

祈ります。
父なる神、イエス様は実に厳しくファリサイ派の人々を断罪されました。けれども裁くだけではなく、彼らを含めたわたしたちのため、わたしたちの罪を背負って自ら十字架の上で死んでくださいました。イエス様の行ってくださった贖いの業によって、あなたとの関係が正しくされたことを心から感謝します。いずれ裁きの日が来ても、裁きを行われるのが他の誰でもないそのイエス様であることは、わたしたちの慰めです。どうかイエス様に従うわたしたちが、あなたの御前で愛し合って生きていくことができますように、支え導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

2月24日の音声

 

 

 

2019年2月17日 降誕節第8主日
「白く塗った墓」
マタイによる福音書23章23-33節 説教:森喜啓一

先週、久下牧師が話されたイエス様の群衆へのみ言葉が続きます。この23章では、イエス様はファイリサイ派に向かって七度も「あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉を発せられました。そして、そのうち四度が、今日お読みいただいた聖書箇所に出てまいります。

非常に厳しくまた激しいみ言葉です。それだけ、イエス様のファリサイ派への嘆きは大きいものだったのです。イエス様が、何度も「不幸だ」。原文では、先週の久下牧師の説教でお話になった「ウーアイ、ヒューミン:ああ、あなた方は」という、深い嘆きの声がそこにあったのです。それは、彼らによって、神の律法の意味と人間の信仰が誤って伝えられていたのです。イエス様にとって、ファリサイ派の神への姿勢や人々への指導の仕方は実に許しがたいことだったのです。いま、イエス様はエルサレムに入られ、間もなく訪れる、避けることの出来ないご自分の苦難の死を痛いように心に留めながら最後とも言えるような伝道を続けておられました。父なる神のみ言葉、つまり本当に神が愛する人間のためになさろうとすること、み言葉を語り、福音を宣べ伝えるという、イエス様以外には誰も果たすことの出来ない使命への重みに押し潰されそうになりながら、刻々とすり減っていくこの世での時間を痛いように感じながら、イエス様は言葉を続けてられていました。

それだけに、ファイリ派の言動や態度や考え方には、可能な限りの言葉と可能な限りの残された力を尽くして、彼らに厳しい忠告を与え続けられたのです。「もしも、彼らが、正しい神の御心に立ち返ってくれるなら」。そんな思いも心に抱きながら言葉を尽くされていたのです。事実、あのパウロはファリサイ派の中でも戦闘的なグループの一員でした。そこのころは、パウロではなくサウロという名でしたが、イエス様のご意識を継ぐ者たちを捕まえて殺すようなことまでやっていた者でした。しか、そのサウロもイエス様のみ力によって回心し、福音伝道者として、今の私たちの教会の基礎を築いたのです。ファイリサイ派の中にも、そういう者もいたのです。イエス様は、彼らをも愛しておられたのでしょう。

しかし、イエス様は、23節で、ファリサイ派に向かって「あなたたち偽善者は不幸だ」と言い切られています。ここでの偽善者とは、私たちが「信仰において自己矛盾を起こしている者」というような解釈がふさわしいでしょう。つまり、彼らが、いつも、神に仕えると言いながら、神に仕えることを避けていたということなのです。これは、23章2節から3節のイエス様のみ言葉によって示されています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」本来なら神のみ言葉は、有言実行でなければならないはずですが。さらに23章4節では「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」 本来なら、そのような重荷は共に担い、その人の荷は少しでも軽くする手助けをすべきなのではないでしょうか。信仰を持つものは教師であれ信徒であれ、身をもってその信仰を示さなければなりません。決して、言葉だけで終わってはいけないのです。それがイエス様の歩みだったはずではないでしょうか。

これは、厳しいことです。そのイエス様のみ旨に、立ち尽くしてしまうかもしれません。しかし、なされなければならない。主なる神の言葉は、私たちを突き動かす力なのですから。イエス様は、23節から24節で、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(ハッカ)、いのんど、茴香(ウイキョウ)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」。「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている」と非難されています。

さて、この「正義」とはなんでしょうか。「正しさ」と「義」。どちらも同じように神に属し、由来しますが、人間の行為に表れるものです。マタイによる福音書5章6節です。山頂の垂訓の一つに「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」というイエス様のみ言葉があります。あるいは6章33節には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」とあります。 それは、神が信仰ある人々の心の中に「確かさ」として生きるもの、神が私たちに与えてくださった賜物なのです。

では「慈悲」とはなんでしょうか。あるいは、この言葉は「憐み」と言っても良いかもしれません。それは神が私たちが「正義」ゆえに、私たちが他の人に対して思う心や、行う行為のことを言います。マタイによる福音書5章7節の山頂の垂訓の一節にはこう書かれています。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」あるいは、マタイによる福音書12章7節にはこう書かれています。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、生贄ではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」すでにユダヤ教では、「憐み」と「正しさ」とが共存しなければならないこと、そしてその「憐れみ」が神の私たちのへの憐みに由来することは説かれていました。預言者ミカは、そのミカ書6章8節で神のみ言葉として、こう書き留めています。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。 このように、私たちの他の人に対する気持ちや態度は、明らかに、私たちの神に対する関係へと還元されていくのです。

そのようなわけで、最後の言葉「誠実」は容易に理解することができます。この誠実とは、神に対する誠実さ。
つまり信仰です。純粋に神を信じ、頼り、神のみ言葉に付き従ことなのです。神に対する誠実と信仰は同一の物なのです。
もちろん、私たちは、この言葉は、結果として「神が私たちに、他の人に対する真実さや、正直さを求められる」
と理解することもできます。私たちが、神に対して誠実ならば、どうして、他の人々に対しても誠実でおられずにいることができるでしょうか。

正義と慈悲と誠実。そこに、あらゆる意味において神と私たちの関係を形作る真理があるのかもしれません。私たちの中に「正義と慈悲と誠実」を形作られるのは神ご自身です。しかし、それを正しく受けとめ正しく活かすのは
私たち自身なのです。私たちは、時に過ちを犯し、私たちの中の神が与えてくださった「正義と慈悲と誠実」を傷つけることもあるかもしれません。正しくないことを思い、行い、憐れみを忘れ、人を捌き、神を疑い、神から逃げようとすることもあるかもしれないのです。いや、必ずそのような時はあるのです。しかし、私たちの神は、そのような私たちの弱さを、愛と憐れみで包んで、「私のところへ戻っておいで」と私たちをいざなってくださいます。私たちの過ちの告白と許しを求める祈りは、しっかりと神に受け止められるのです。それは、まるで、あの放蕩息子が放蕩をつくしたあげく、罪を恥じながらも、父親の元へ戻ると、父親は、心から抱きしめてくれたようなことなのです。 私たちの神は、そのような神なのです。その時、私たちはもっと成長した「正義と慈悲と誠実」を心の中に育ませていることでしょう。それを見て、神はどのように微笑まれるでしょうか。どのように祝福を与えてくださることでしょうか。

残念ながら、ファリサイ派や律法学者は、そのように自分を振り返り、回心することができませんでした。彼らは、うわべの信仰と、神のみ心から遠ざかる生き方から抜け出すことができなかったのです。それは、恐らく、ファリサイ派、律法学者としての群れの中にいることの心地よさに安住し、あるいは疑問を持っても、目に見えない神の力よりも
この集団の力を恐れたからではないでしょうか。かつて、通産省の官僚となった後に小説家になり、直木賞をとった堺屋太一が書いた「組織の盛衰」という本があります。これは、組織というものの力学を様々な視点から考察したものですが、その中で、「組織というものは、その組織自身の存在を維持し利益を得るためには、不合理でも独自の目的を作り出し、全体を犠牲にしてでも、その目的正当化する。」と言うのです。ファリサイ派も、もう立ち戻れないような組織としての存在を守るための理屈と形が必要だったのではないでしょうか。そして、その組織の中に安住する限り、いい思いができると。だから、表面上は、敬虔で信仰熱いものとしての形を作るのです。そのように見せようとしたのです。たとえ中身が、どのように汚く、醜くても、ファリサイ派や律法学者にとってはそれは、少なくとも彼らを潤わせ豊かにさせるものように見えたのかもしれません。器の外側が綺麗に見えていれば、中身は、外からは見えないのだから自分たちの強欲でいっぱいになっていても構わない。だから、彼らは神から逃げていたのです。

私たちは、神から決して逃げない。神とともに、イエス様とともに、「正義と慈悲と誠実」でありたいと願います。私たちの、小ささも、弱さも、不完全さも、全て、神への「正義と慈悲と誠実」が救いの基となるのです。

祈り
御在天の父なる主よ
私たちは、時に過ちを犯す、私たちの中の神が与えてくださった御言葉を傷つけることもあるかもしれません。
主から逃げようとすることもある、愚かで小さく弱い者の群れです。
しかし、主よ、どうかそのような私たちであっても、主の愛と憐れみで包み込みこみ、私たちを受け止めてくださいますように。 そして、私たちはのうちに、もっと成長した「正義と慈悲と誠実」を育まれますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

2月17日の音声 説教:森喜啓一

 

 

 

2019年2月10日 降誕節第7主日
「小さくなりなさい」
マタイによる福音書23章1-22節

「禍なるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ」という印象的な言葉で昔の聖書では訳されておりました。今の聖書では「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」となっております。二十三章にはこのファリサイ派を偽善者だと決めつける言葉が、今日聞きましたところに三回、来週の説教箇所に四回、計七回も繰り返されております。この言葉は、もとの言葉ではもっとずっと強い感情的な言い方がされています。「ウーアイ、ヒューミーン」「ああ、あなた方は」となっております。この「ああ」というのは悲しみや怒りを表す時の感嘆詞ですから、「禍だ」とか「不幸だ」と補って訳しているのです。英語の聖書では、「ああ悲しいかな、あなたがたは」と訳しております。この禍だ、不幸だ、悲しいかな、と言われているのは、民の指導者たる学者、ファリサイ派の人々なのです。学者、ファリサイ人すべてが禍だと一般論をおっしゃったのではなく、偽善を戒められているのですが、何しろ、わたしは学者、ファリサイ派の一人であり、安息日厳守主義者ですから、グサッとくるお言葉です。もしイエス様が今の世に来られたら、「悲しいものだな、偽善な聖書学者、教会の牧師よ」と憐れんでおっしゃったかも知れません。わたしだけではなく熱心なプロテスタント教会の信徒は、ファリサイ派に極めて近い存在です。これはユダヤ人指導者への批判の言葉でしょうと第三者的にさらりとは読めない箇所なのです。距離を置いては聞けません。心して読みたいと思います。

わたしはファリサイ派の人々は必ずしもここで糾弾されているような人々ではなかったと思っております。少なくともファリサイ派即偽善者というような見方は間違いです。真面目で真摯な信仰者が多かったはずです。けれども、ではファリサイ派に問題がなかったのかと言えば、やはりイエス様が指摘なさったような現実が間違いなくあったのです。あったからこそイエス様を十字架に追いやることになったのです。今日から読みます二十三章は新約聖書でも際立って厳しい批判が展開されております。山上の説教で、あなた方は幸いだ、幸いだと繰り返されたのと対照的です。

「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった」(一節)。それからとは、イエス様がファリサイ派の人々に「メシアのことをどう思うか、誰の子か」とお尋ねになり、彼らが「ダビデの子です」と答えたので、「ではなぜダビデはメシアを主と呼んでいるのか」とたたみかけると、彼らが答えに窮して沈黙してしまった、その後です。ここからイエスは、群衆と弟子たちにファリサイ派の過ちについて話し始められますが、それは、なんと彼らの面前においてでした。面と向かっておっしゃったのです。ファリサイ派の堪忍袋の緒が切れるのを知りながら、イエス様は彼らと同じ過ちに陥らないように、群衆と弟子たちを諭されました。

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(二、三節)。「モーセの座」とは、神の掟を人々に教える立場にあることです。イエス様は律法学者やファリサイ派の人々の教えをまず認めた上で、実行するように勧められます。そして、彼らが神の掟を教えながら、実行していないことを指摘し、見倣ってはならないとおっしゃいました。教えていながら実行しない。厳しいお言葉です。牧師のように聖書を説く働きをしている者は特にそうですが、教職者だけではなく、信じる者すべてにこの御言葉は当てはまります。信仰とは、単に聖書の教えを信じることではありません。信仰は父なる神への信頼です。御子キリストのご愛に応えることです。したがって、そこには自ずと従順が生まれます。神のご愛に応えようとするので進んで戒めを守りたいと願うのです。したがって何らかの具体的な働きが信仰の結果として現われます。聖書を説くだけで何もしない観念的な生き方は本当の信仰生活とは言えません。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(四節)。イエス様は彼らが、重い荷を人に負わせて、自分では指一本触れない、自分たちの教えを他人には当てはめるが、自分には当てはめていないとおっしゃいました。これは聖書を読むときに、よくよく気をつけなければならないことです。以前イエス様が「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とおっしゃったことを思い出します。偽善というのは自己肯定が根底にあります。高い基準の前に立つと、人はどうしても偽善的になります。神の新しい教えが分かったとき、自分はこれでいいはずだと思って自分には適用せず、他人に当てはめて、あいつ変わってほしいなと思うのです。相手にだけ要求します。ここでも彼らが言うことを彼らは実行しないのです。わたしもよく思いました。あの役員は気が付けばいいのに、そして少し変わればいいのにと。イエス様がこのことを示されたのは、だれもが変わらなければならないからです。自分自身の弱さ、至らなさを受け止めることができると、他人と信仰を分かち合うことができやすくなります。

「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」(五節)。言うだけで実行しないと言われていた彼らですが、人に見せびらかすためには、いろいろ行ったようです。敬虔さをアピールするのです。人から注目され、認められることを期待しました。わたしたちは、イエス様が「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(六章一節)と言われたことを既に学びました。キリストに仕えていく中で、もし人々に良い行ないをするならば、本来は人々がその行ないを見て、神をほめたたえるのですが、いつのまにか自分がほめたたえられるために行なうようになるのです。自己の業を誇る罠に陥ります。自分のしていることが、神を喜ばせるためか、それともただ自分の欲望に従って自を喜ばせるためにだけ行なっているのか、そこを吟味する必要があります。

「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」(六~七節)。宴会の際には身分や年齢によって、席順に厳格な決まりがありましたし、シナゴーグでも上席は律法学者用でした。又、ファリサイ派、律法学者はラビという尊敬に満ちた呼びかけには少なからず愛着を持っていたようです。先生、父、師と呼ばれることは、よほど注意しないと、高ぶりを招き、自分を大きくすることになりがちです。この点をイエス様は指摘なさいました。

そして弟子たちに向かって言われたのです。「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(六~十節)。「先生」「師」という呼び名は、教会の中でも頻繁に使われています。カトリックでは父とも呼びます。神父、ファーザーです。しかし、イエス様は「あなたがたは皆兄弟だ」と言われました。一人の天上の父と、一人の師イエス様の教会にあって、わたしたちはみな兄弟姉妹なのです。ラビ、先生というのは、ラーブ、偉大であるという単語に「わたしの」「ニー」がついてラビニー、わたしの偉大な人、という意味ですが、ラビー、ラーブとラブラブ言うなとおっしゃったのでしょう。キリストにあってわたしたちは一つであり、キリストの十字架の前に人は皆平等です。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」 (十一、十二節)。牧師のことを教役者、英語ではministerといいます。ministerの意味は「奉仕者」です。大臣もミニスターですが、国民に仕える人です。つまり人々に仕える者であり、人々から仕えられる者ではありません。イエス様は、この高ぶりに気をつけなさいと注意されました。教役者の「えき」は役に立つ、立たないというときの「やく」という字を書きます。すると「えき者」は「やく者」と同じです。演技をする人です。演技をするというのが偽善のもとの意味です。この演技に騙されてはなりません。演技そのものは悪くはないのですが、演技だけ上手な牧師にころっと騙されてはなりません。口ではいいことを言いますので、天の国にはこういう人の口だけがあります。体はどこか遠い所に行くのです。お前もそうだろうと言われると、反論のしようがありませんが。

教会に於ける唯一の本当の教師はキリストお一人です。わたしたちは互いに愛情を持ち合い尊敬しあって、一つとされるのです。イエス様の共同体では、忠実に仕え奉仕することによって偉大さが測られます。誰もが自然に持つ「偉くなりたい、支配したい」という世俗的な欲求を捨て、偉くなりたい者は仕えなさいとイエス様はおっしゃいました。支配や奉仕に関する一般的な評価を逆転させ、仕えることと服従を求められたのです。弟子たちがこの地上で実際に出会ったイエス様の御姿は、仕える者の姿であり僕の姿でありました。王の王、主の主なる御方が低くなってわたしたちに仕えてくださいました。そのようにしてわたしたちの罪を自ら背負ってくださったのです。同じような言葉が、二十章にもでてきましたが、その時には「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(二十章二十八節)と続いていました。この時にもお話ししましたが、仕えると訳されている言葉ディアコオー(διακονέω)は、食事の「給仕をする」とも訳される言葉です。イエス様は今もわたしたちに御自分を差し出して言われます。「わたしはあなたに仕えるために来た。わたしをあげよう。わたしの命をあげよう。わたしの体を食べなさい。あなたにあげよう。わたしの血を飲みなさい。あなたにあげよう」と。聖餐が暗示されています。わたしたちは、共に同じ一つの主の食卓につくのです。食卓を囲み、主の体と血を頂くのです。

この後、イエス様は律法学者とパリサイ人たちに直接語り始められます。「あなたたちは不幸だ」という言葉を七回繰り返されています。(十四節も入れれば八回)ウーアイは怒りと悲しみが混じり合った言葉です。だから、「嘆かわしいことよ」とでも訳したほうがよさそうです。イエス様は、彼らを愛しているがゆえに、激しい痛みと悲しみをもってさばきを宣告しました。そして、その怒りは、「偽善」という言葉に現われています。偽善は、俳優に使われていました。つまり演技です。彼らのしていたことは単なる演技であったことに、イエスは怒りをおぼえられたのです。次週の説教では、この「禍い、不幸」の中身が説教されます。詳しいことは次週に譲ります。

今日は特別に聖餐式が行われます。洗礼式が執り行われるからです。とても喜ばしいことです。わたしがマラナ・タ教会の牧師になってから、来月で満十年になりますが、洗礼をお受けになった方は、今日これから洗礼をお受けになる姉妹を入れてもわずか五名です。二年にお一人の勘定です。わたしの伝道力のなさを反省しております。今日はいい機会ですので、イエス様のファリサイ派批判と重ねて、洗礼について、天の国に入ることの意味を考えてみたいと思います。

教会では洗礼を受けた人と受けていない人が共に礼拝しております。洗礼を受けた人が会員です。仕事の都合などで他教会の会員も出席なさっていますが、そういう方は会員に準じます。共に牧会の責任を負っています。洗礼を受けていない人はお客様です。礼拝は皆さん一緒に守ります。ただ一つを除いて何の区別もありません。そのただひとつとは聖餐です。教会では聖餐においてのみ、信徒とそうでない人を区別します。信徒だけが聖餐に与ります。そうすることによって、男女の別、民族の別、学歴差、信仰経験の差、知識の差、献金額の差による、人の区別、分類をなくしているのです。教会での区別は洗礼の有無だけです。

では誰が洗礼を受けるのでしょうか。どういう資格、経験がいるのでしょう。いろいろな議論ができるでしょうが、わたしの結論を申し上げます。洗礼を受けるのは「わたしは洗礼を受けるのにふさわしくありません。聖餐に与るような人間ではありません。わたしは罪びとです。小さな信仰のものです」と自覚し、そのように公に告白する人です。そういう人が洗礼を受けます。逆に、「わたしは、あの教会員ほど悪くもないし、あんな奴と一緒にしないでくれ、聖書も読んでいるし、礼拝にも来ている。イエス様の教えに従って生きている。聖餐にも与れるはずだ」と思っている人は、受洗を遠慮していただきます。未受洗者陪餐という妙な言葉を聞くようになりました。洗礼は受けていないけれども、聖餐には与るということですが、そういうことをしてもいいという教会や牧師がいるのです。これはこの人は聖餐に与ってもいい、与るにふさわしい、すべての人が招かれているのだからという理屈ですが、一点大間違いがあります。聖餐に与ってもいいはずだと自分で判断していることです。思い上がりです。自分で勝手にこの人もあの人も聖餐に与ってくださいと決めているのです。聖餐に与るには、わたしは聖餐に与るのにふさわしくない、わたしは罪あるものなのだと公に言い表し、神と人の前にひざまずいて洗礼を受けなければいけません。誰が見ても分かる儀式です。心の中に深く信じているというような精神論ではありません。人が信仰を持っているかどうかなど誰も分かりません。ですからだれが見ても分かる儀式が要ります。それが洗礼です。繰り返します。逆説的ですが、わたしは洗礼を受けるのにふさわしくないという人だけが洗礼に与るのです。

これが小さくなることです。謙虚であれというのと少しニュアンスが違います。日本語の謙虚さは、実力がないと謙虚になれません。自信があれば謙虚でいられます。小さくなるには、実力や自信は要りません。ファリサイ派が偽善者となり易かったのは、傲慢で、おごり高ぶった人だったからではありません。謙虚にふるまおうとしたからです。小さくなれなかった。小さく見えるようにしたかった。この点をイエス様は厳しく批判なさいました。わたしたちはどうでしょうか。

この後洗礼式と聖餐が行われます。わたしたちが洗礼を受けたときのことをもう一度思いだし、信仰を新たにしたいと思います。

 

祈ります。
父なる神、わたしたちに洗礼を授け、あなたの子として下さった大きな恵みに感謝します。わたしたちはともすればおごり高ぶり、自分を大きく見せようとしがちです。どうかあなたを見上げ、イエス様に従って歩んでいくことができますよう、また兄弟姉妹と共に、互いに仕え合っていくことができますよう支え導いてください。
今日あなたが一人の姉妹に受洗の志を与えてくださったことを感謝します。どうかこの姉妹に豊かに聖霊を送り御国を継ぐ者としてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

2月10日の音声

 

 

2019年2月3日 降誕節第6主日
「ダビデの子」
マタイによる福音書22章41-46節

マタイによる福音書を学び続けております。ここ三週間に亘って、ファリサイ派、サドカイ派、律法の専門家がイエス様に論争をしかけて来たことを学んできました。いずれも悪意を含んだ罠のような質問から始まっておりました。しかし、今日聞きました論争は、イエス様の方からファリサイ派になさった質問から始まっております。積極的にお尋ねになり、ファリサイ派が真理を悟るように働きかけておられます。ここでイエス様が問題になさったのは、「メシアとは誰か、どのようなお方か」という問いであります。キリストとは誰か、どういうお方か。これは誰にとってもきわめて大切な問いです。わたしたちにも今日答えるよう求められております。キリストは勿論イエス様の苗字ではありません。メシア、油注がれた者というヘブライ語であった言葉が、ギリシア語ではクリストスとなり、英語のクライスト、日本語のキリストという言葉になっております。イエス・キリストとは名前ではなく、「イエスこそがキリストである」という信仰の告白です。

しかし、ごく普通にキリスト教とかキリスト教信者などと言われますが、必ずしも「キリスト」の本来の意味が理解されているとは言えません。この世界はいったいイエス様を誰、どのようなキリストだと言っているのでしょう。当時のユダヤ人の多くは、キリスト、つまりメシアをローマから自分たちを解放してくれる民族の英雄として待ち望んでおりました。メシアはこういうことをしてくれるはずだというふうに、メシアの働きに期待していました。しかしイエス様は、メシアが何をしてくれるのかという前に、もっと根本的な事柄、メシアは単に英雄的人間ではなく、「主である」ということを強調なさいます。そこで、「メシアのことをどう思うか、だれの子だろうか」とファリサイ派にお聞きになったのです。彼らは、「ダビデの子だ」と答えます。するとイエス様は「ダビデがメシアを主と呼んでいるではないか。メシアはダビデの子ではありえない」とお答えになります。これ以後人々はもはやあえて質問しなくなったというのが今日の記事です。さて、これはどういうことでしょうか。わたしたちにはちょっと分かりにくい記事ですが、マルコもルカもこの出来事を記しております。とても大事なことなのです。

それでは順にみていきましょう。「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった」(四十一節)。ファリサイ派の人達は、しばしば集まっていたようです。十五節や三十四節にも「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」とか「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」とあったことからも分かりますように、どのようにすれば、このイエスという面倒な男を始末できるのかという相談をしていたようです。ただ、秘密の会合ではなかったようで、イエス様はそこに乗り込んで行ってお尋ねになりました。これは単に質問したというより「問い質した」というニュアンスです。会話の主導権をイエス様が握っておられます。

その会話の内容が次のように書かれています。「『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。』
「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで』と。」このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」(四十二~四十五節)。

あなた方は「キリスト」についてどう思うかと、イエス様は聞いておられます。翻訳は「メシア」となっています。おそらくメシアについてどう思うかと聞かれたのでしょうけれども、記録はギリシア語ですから、口語訳、新改訳ではキリストとなっています。一般論ではなくあなた方はどう思うかと真っ直ぐに尋ねておられます。ファリサイ派は伝承に生きる人たちですから、先輩から受け継いだ教えを守っています。ですからあえて、彼ら自身の考えをお聞きになりました。さらに問題を絞って誰の子かと聞いておられます。イエス様の時代、人々の救い主についての見解はまちまちで、様々なメシア観があり見解は一様ではありませんでした。ただ来るべきメシアはダビデの子孫として生まれてくるはずだと誰もがそう信じておりました。ダビデ王位の継承者です。王家の人間のはずです。イエス様はその点を突いて質問されたのです。「ダビデの家系のものだ」という答えをするはずだと。サムエル記や詩編、イザヤ、エレミヤの預言などに、ダビデ家の末裔がいつか国を救うという約束があります。彼らは答えます。「ダビデの子です」と。詳しく言えば、ただ「ダビデの」と言っているだけで子とは言ってないのですが、意味するところは「ダビデの子」です。

ファリサイ派の答えを待って、「では、どうしてダビデは霊を受けてメシアを主と呼んでいるのだろうか」と質問なさいました。そしてその根拠として、旧約聖書を引用されています。詩編百十篇です。こうあります。「【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」(詩編百十篇一節)。わが主に賜った主のみ言葉、それだけなのですが、ここはわかりにくいので、ちょっと面倒ですが言葉の解説をします。主という言葉が二度出てきますが、わが主に賜った、というときの主は「アドナイ」です。わたしのは「ニー」と後ろからかかりますので、わたしの主はアドナイニーですが、言いにくいのでリエゾンして「アドニー」となります。それに対して、主のみ言葉の主はヤハウェです。ややこしいのはヤハウェという言葉が出てくると日本語の聖書は「主」と訳します。と同時にアドナイも、主人の主なのです。ユダヤ人はヤハウェというお名前を呼ぶのは畏れ多いので、ヤハウェと出てくると、全く違う音のアドナイと読み替えておりましたから、ますますややこしいのです。もとの言葉で聞くと「アドナイがアドニーに言った」となります。新約聖書はギリシア語で書かれておりますから、アドナイも、ヤハウェもキュリオス、つまり主人を意味する主となっております。ですから「主はわたしの主にお告げになった」とあるのです。イエス様の時代、わたしのアドナイ、アドニーとはメシアを意味しました。そこでわたしなりにここを易しく言い換えると、「創造主ヤハウェなる神が、わたしの主であるメシアにお告げになった。メシアはヤハウェの右の座に着き、ヤハウェがメシアの足元に敵を屈服させる時までその座に留まる」そういう意味です。一度聞いただけでは分からないかも知れません。もう一度申し上げます。「創造主ヤハウェなる神が、わたしの主であるメシアにお告げになった。メシアはヤハウェの右の座に着き、ヤハウェがメシアの足元に敵を屈服させる時までその座に留まる」。つまりメシアは、ダビデのようにイスラエルの敵を滅ぼす英雄といった狭い理解のメシアではなく、神が敵を屈服されるまで、神の右の座に着かれる、そういうダビデでさえわたしの主と呼ばなければならないお方なのです。この詩篇は使徒信条にも反映されています。天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり。

イエス様はこの誰もが知っているダビデの歌、詩編百十篇一節を引用なさり、ダビデがメシアに向かって、「わたしの主」と呼んでいるではないかと指摘されました。メシアはダビデの主なのだ。それならどうしてメシアがダビデの子なのか、と聞かれたのです。ある人の子の立場にあるものが、その人の主であることはないというのが当時の普通の理解です。この時代ユダヤ人の社会では、親子の関係は厳格で、子が父にむかって「わが主」とは言い得ても、父が子に「わが主」とは決して言いません。イエス様の指摘は、メシアはダビデの子だとあなた方は言うけれども、詩編によればダビデがメシアを自分の主と呼んでいる以上、メシアがダビデの子であるはずがないということです。ダビデの子とダビデの主を対比させて、ちょっと屁理屈のような感じに聞こえますが、こういう論法が当時のファリサイ派の議論の仕方で、イエス様も彼らのやり方で問いかけをしておられます。

なるほど、そういうことか、メシアはダビデの主なのだなと思いますが、それではハタと困ります。なぜなら、わたしたちはこの福音書の初めにマタイが何と言っていたか覚えているからです。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まりました。そもそもマタイは、初めからイエス様のことをダビデの子と紹介しています。そして一生懸命イエス様がダビデの子であると書き続けてきました。新しく始まる神のご支配、天の国の王がイエス様であると。ダビデ王家の王位を継ぐ真の王なのだと語ってきました。二十一章になって、イエス様がエルサレムにお入りになる場面が出てきましたが、ここで人々が叫んだのも「ダビデの子に、ホサナ」、つまり「ダビデの子、万歳」だったと書いております。けれども、イエス様の洗礼のとき、「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(三章十七節)と、神ご自身がイエス様をわたしの愛する子だとおっしゃっておりますし、山上の変貌のところでも、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(十七章五節)とおっしゃっています。確かにマタイは「ダビデの子」という称号をたくさん使っていますが、マタイにとってそれは「神の子」というのと同じ意味を持っていたのです。

ここでイエス様はご自分のことを、ダビデの子以上の者である。主である、つまり「神の子である」と主張なさっています。人の血統の上に立つ者ではなく、神そのものがこの世に来てくださったという驚くべき主張です。何度か申し上げましたが、聖書の最大の奇跡、最大のつまずき、どうしても信じられないこと、それは神が人となってこの世に来られたという事実です。

ただダビデの血筋というだけでなく、神の血筋に立つもの、神そのものがダビデの子孫として生まれてくださって、ダビデの家を丸ごと人々と共に救ってくださった、そうとしか言いようのないことが起こっております。メシアはただ立派な王ではありません。ただ立派な大祭司でもありません。また、ただ偉大な預言者でもありません。王であり祭司であり預言者ですが、ただそれだけではなく、それらすべてを含んだ上に、そこに生きる人々の悲しみも辛さも痛みも引き受け、愛してくださる方なのです。そのような神の子が、あえてダビデの子として来てくださいました。ダビデの子と言われる立場に立ってくださったのです。そうとしか言いようがありません。そんな宣言をイエス様はなさったのです。

キリストと訳されるメシア、それはイエス様ご自身にほかなりません。イエス様こそが主なのです。キリストは主なのです。このイエスこそ主なり、イエス―ス・ホ・キュリオスという宣言がその後、キリスト信者の命を懸けた告白になっていきます。なぜならカイサル、ローマ皇帝がお前たちの主キュリオスなのだ、カイサル・ホ・キュリオスという押しつけがもう一方に出てきたからです。主はイエス・キリストかカイサルか。ついこの間、日本でもあったのです。天皇が神かキリストが神か。勿論カイサルも天皇も神だと思っている人はひとりもいませんが、しかし大っぴらに否定はできなかったのです。天皇ではない、キリストこそが神なのだというのは、命をかけた告白でした。

聖書はこう続きます。「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」(四十六節)。わたしは若いころ、イエス様のお言葉に人々はびっくりし、感心して、もうそれ以上質問できなくなったのだろうと漠然と思っていましたが、今はそう思いません。このイエス様の発言を聞いた者たちは、確かにおっしゃったことに驚き、言い返すこともできなかったでしょうが、それ以上に、自分のことをメシアだと言っている、自分を神に等しい者だと言っていると分かったので、あきれ返って、この男は頭が狂っていると沈黙したのではないでしょうか。そんな気がします。確かにダビデは人としての弱さを抱えた王でした。人々がメシアをダビデの子だというとき、人間性の限界の中にあるメシアが想定されています。しかし旧約聖書のメシア像は人間の限界を超えた存在です。例えばイザヤ書にこうあります。「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ書九章六節)と。そんなメシアが、ダビデ王が主と呼んだメシアがお前たちの目の前にいる、それがわたしだとおっしゃったのですから。

イエス様が「メシアとは誰か」と聞かれたのは、旧約聖書が教えているメシアとはイエス様ご自身であることを仲間であるファリサイ派に知ってほしいと思われたからです。そしてファリサイ派は少しは分かったのです。だからこそ猛烈に反発することになったのです。あいつは自分のことを神だと言っている。あんな奴は殺せと。

この後このマタイによる福音書が描くのは、人々の想像をはるかに超えるメシアの姿です。高いところにいます神ではなく、低きに降る神だからです。人の思いを超えて十字架に至るまで低くあられました。そして最後に「天に昇り、全能の父なる神の右に座したもうたお方」なのです。

天の父は、「さあわたしの子、メシアの業によって命を受けなさい」とおっしゃっています。それなのに、「いや、わたしたちが期待するのは、もっと別のメシアです。強い力を持ったダビデの子でないと役に立たないのです」と言い張っていないでしょうか。わたしたちも本当のところは、神の御子よりも、わたしの生活を楽にし、わたしの家族を幸せにしてくれるメシアを待ち望んではいないでしょうか。

「キリストをどう思うか」。マラナ・タ教会もこの問いの前に今一度、立たねばなりません。ペトロと共に、「あなたこそ、メシア、神の子キリストです」という告白に導かれたいと願います。

祈ります。
父なる神、御子イエス様をこの世にお送りくださったことを感謝します。またイエス様がわたしたちを愛し、いつも共にいてくださることを感謝します。どうかわたしたちが、イエス様をメシア、神の子キリストであると告白し続けることができますように、そして、これからもイエス様を礼拝し、共に歩み続けることができますように支え導いてください。
感謝して、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。
アーメン

2月3日の音声

 

 

2019年1月27日 降誕節第5主日
「最も重要な掟」
マタイによる福音書22章34-40節 説教:森喜啓一

先週の久下牧師の説教にもあったように、イエス様が明らかされたのは、「神は生きている者の神」だということです。それは、今ここで命を得て存在している私たちの神なのです。この事を、私たちは、しっかりと心に留めて置かなければなりません。

今日の聖書箇所では、律法学者が、イエスを試そうとして訊ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。イエス様は答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である」。 第二も、これと同じように重要である。 『隣人を自分のように愛しなさい』立法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。

この聖書箇所を読んでいる時、律法学者の質問と、イエス様のお答えには、根本的な意味上の食い違いがあることにお気づきになったでしょうか。

律法学者は、ユダヤ教で言い伝えられてきた多くの律法や祭儀、つまり礼拝の方法や形式など、人によって作られた信仰の形式に拘って、律法の優先順位を質問していました。一方、イエス様は、「いかに神を愛するか」を語られたのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、信仰の本質について語っておられるのです。これは、イエス様が、パレスチナでの伝道の道程で、弟子たちや、群衆や、ファイリサイ派、そして律法学者や祭司たちに繰り返されてきたみ言葉でした。イエス様の説かれる信仰の本質、つまり神と私たちの愛の重みを述べておられたのです。そして、このイエス様のみ言葉には、律法学者たちの、信仰姿勢への警告も込められていました。イエス様は、なぜこのような警告を発せられたのでしょうか。それを知るためには、この律法学者が居た時代のユダヤ教とその指導者たちの姿について少し振返ってみることが良いかもしれません。

バビロンの捕囚後、200年ほどの間に、ペルシャの支援によってイスラエルの民は、国に戻り、エルサレムの神殿も再建されました。しかし、彼らは未だにギリシャ、そしてローマに隷属し続け、かつての独立した国としての栄光を取り戻す事はできていませんでした。

それは、幾人もの預言者が厳しく指摘してきたように、彼らの神への裏切りが招いた結果でした。そのことは、イエス様と対峙したこの律法学者も理解していたのではないでしょうか。そこで、神の救いを取り戻す為に、ファリサイ派を中心にユダヤ教指導者たちは、律法と祭儀をユダヤ民族に厳しく遵守させる姿を神に示せば、神の怒りは解け、かつての様なイスラエルの栄光が取り戻せると考えたのです。彼らは、厳しい律法遵守をユダヤの人々に押し付け、指導をするようになりました。彼らは、守れるはずもない多くの律法まで遵守させようとしました。さらにユダヤ教指導者たちは、その強い姿勢を通じて徐々に権威という力をも手に入れていくようになったのです。それは、彼らが、神への信仰という名を借りて、ユダヤ人を支配することの始まりでした。そして、彼らは、ユダヤ人の生活や価値感や心情までをも支配しようとしたのです。ユダヤ教の指導者たちは、律法という聖書の言葉を借りながらも、自分たちの独善に絶対的な確かさがあるように振舞いながら人々を指導していったのです。神が愛によって与えてくださった人間が生きるための確かさに、人間の傲慢な力が介入したのです。しかし、人間の力には確かさなどはあり得ないのです。それは常に状況によって揺れ動くあやふやで弱いものでしかなかったのです。それはただ、純粋に信仰を持ち、神の救いを望む人々を混乱させるだけだったのです。

そのような時代に、イエス様はこの世に遣わされてきました。イエス様は、福音を通して絶対的な確かさを持つ神様の愛を私たちに教えてくださいました。イエス様の福音は、ユダ教指導者を非常に動揺させ、彼らの複雑な律法主義は、イエス様の前に崩れ去るのは明らかでした。そして、多くのユダヤの人々も異邦人も、律法を厳しく指導し、純粋な信仰に介入する人間よりも、イエス様の福音によってよって説かれる神の愛と神の確かさに目覚めていったのです。

さて、現代の私たちはどうでしょうか。20世紀後半には、第二次大戦が終わり、冷戦終結を経て、世界中で民主主義思想が徐々に定着すると共に、資本主義経済、科学技術の大きな発達がありました。 便利で豊かな世の中になってきました。今よりも昭和の時代が良かったと言うことは難しいのではないでしょうか。欲しいものは、スーパーの店頭や、ネット通販サイトで見つかるでしょう。宇宙旅行だって買えそうです。携帯電話やインターネットは人や物や出来事との距離を縮めました。インターネットで見知らぬ相手と対戦するゲームは、それに勝つことができれば、人生に勝ったような錯覚を与えてくれます。多くの難しい病の治療法が発見され、今までは死を待つばかりだった病も治癒できる可能性が随分高くなりました。

様々な新しいものが発見され、新しいモノやコトが創り出され、様々な考え方やアイデアが生まれ、今までにはなかったような仕事も生み出されるようになりました。様々な変化が、私たちの周囲で起き、私たちの生活環境をどんどん塗り替え、私たちの生き方や考え方、価値観をも変化させていくようになりました。そして、私たちの、生活と人生に非常に多くの可能性と多くの選択肢を齎すようになったのです。私たち一人一人の生活が実に多様になってきました。家族や夫婦であっても、皆が必ずしも同じ方向を向いている訳ではなく、それぞれが独立性をもつことも普通になってきました。あるいは、結婚する男女の数が減り、結婚年齢に達した人々が独身で暮すことが特別なことではなくなりました。

このような現象が起こる中で、宗教が人々の心の中から消え去って行くのではないかと予測する神学者や社会学者たちが20世紀半ばごろから現れはじめました。その予測には様々な理由がありますが、その中でも特に顕著なことは、資本主義経済と科学の大きな進歩によって、あらゆることが可能であるように思われ、人々の生活信条も大きく変化し、人々は、神への信仰や神へ依存よりも、人間の手が介在した手軽で新しい物事やアイデアへの信奉を高めて行くようになっているためだと言うのです。

事実、私たちの周囲を見渡しても、多くの教会で信徒の数は減少し続けています。日本では、お寺の信徒数も同様に減少し、今世紀中に、日本のお寺の数は半減するだろうと言う予測もあります。長い歴史を通じてキリスト教会の主軸の一つであった、ヨーロッパでもプロテスタント教会やカトリック教会でも同様の傾向がみられました。かつては、数百人もの信徒が祈りを合わせていた立派な礼拝堂の中で、今では、ほんの数十人の人々がひっそりと礼拝をしているのです。かつては隠然たる社会的影響力と存在力を示していたプロテスタント教会もカトリック教会も、その影は小さくなってしまったように見受けられます。

それに代わって、世界は、資本主義経済や科学文化の発達により、様々な物やサービスや考え方が広がり人々を魅了しだしました。世の中は多様化し、それを支える経済と科学こそが時代を動かし、世を支配する力であるかのように見えてきたのです。これは、今まで、神への信仰と依存を支えに生きてきた私たちが、人間の介入を許してしまった結果ということなのでしょうか。もしそうならば、私たちの状況は、2000年前に、律法学者やファリサイ派らのユダヤ教指導者がしようとしていたことと、意味的には大して変わらないのではないでしょうか。

神は、このことを、じっと見ておられます。全能の神、唯一絶対の確かさをお持ちになる神のみ働きが静かに、しかし、確実に私たちを捉え始めています。生活の多様化は、同時に多くの新しい変化を生んできました。しかしそのどれをとってみても、私たちの心に絶対的な確かさをもたらせるものは一つもないのです。すべてが不安定に変化し、行き先行きが見えません。科学技術の進歩は一歩扱い方を間違えれば非常に大きな危険を伴います。そして、現代のどのような状況や自分の生活をとってみても、心の安定や安心を得る絶対的な確かさが見出せないのです。

かつて、体細胞クローンで生み出された初の哺乳類である「ドリー」と名付けられた羊をめぐり、激しい批判が飛び交い、この技術を人間に適応することへの倫理的禁止措置が世界的に合意されたことがありました。ところが、最近、中国の研究者は、研究上の倫理報告書を偽造して、動物ではなく、人間の受精卵の遺伝子を編集し、クローンの双子を一般女性に出産させることに成功したことが報道されました。倫理意識の低い研究者の手にかかれば、人間のコピーも容易に作れてしまうということが実証されたのです。このような、最先端技術の事例ばかりでなくとも、私たちの多様で様々なことが可能になった生活には、いつも何か不安なで不確かのものが付き纏っています。かつて、イザヤ・ペンダソンという作家は、その著書『日本人とユダヤ人』の中で、「ユダヤ人は、安全と水を、金と力で手に入れているのに、日本人は安全と水はタダだと思っている」と書いていました。現代の私たちには、その言葉は必ずしも当てはまっているとは思えません。IT技術の驚くべき進歩は、私たちに多くの新しい可能性をもたらしましたが、それは、見ず知らずの人間が悪意を持って私たちの生活に侵入してくる危険を伴っているのです。しかもそれは、遠い外国からも侵入してくるのです。それは、私たちの生活や家族までも奪い去るかもしれません。あるいは、国全体を危うくするかもしれません。このように、私たちを取り巻く多様化した環境は、私たちから、素朴な心の安定や安心に対する絶対的な確かさをますます取り去っていくことになって行くのではないでしょうか。

だからこそ、私たちは、一層絶対的に信頼のおけるもの。私たちの日々の不安感を凌駕するような「超越した確かさ」を求め、それに依存していかなければならないのです。それは、神のへの依存に他なりません。それ以外にはありません。それは、神への信仰の新しい時代が到来していることを示しているのではないでしょうか。

すでに、アメリカでは、ペンテコステ派などでの信仰復興運動が、20世紀中ごろより盛んになりましたが、この運動も、単なる一時的な勢いばかりでなく、現在では聖書に立ち戻った信仰へ成長しようとしています。また同じアメリカでは、若い人々が真剣な姿で教会にたち戻り、「私の神」と言う言葉が一つの流行語になっているほどです。また欧米でのキリスト教主義の幼児教育も新たな試みとして成長を見せています。幼児や子供たちを、神との強い繋がりという確信のもとで、育てて生きたいという要求が社会に根強くあるためです。日本でも、それと同様な考え方が広がり、キリスト教信徒数が人口の1%以下なのに対して、全国の幼稚園の10%がキリスト教主義の幼児教育を標榜しています。南米や東アジアでは、カトリック教会が勢いを持っています。かつて社会主義国であったロシアや東ヨーロッパでは、信仰復興運動が盛り上がりつつあります。私たちの日本でも、キリスト教文化が、静かに、しかし勢いを持って私たちの生活に浸透してきている事を知っていることをご存知でしょうか。教会には行かずとも、その人は、その人の神に、ある確かさを見出し、その神と日々語り、その神に祈り、人生を切り開く導きを得ようとしているのです。そのような方は沢山おられるのです。

もし、私たちが信仰を定義するなら、それは「究極的な方との密接な関わり」ということができるかもしれません。それは、私たちが、神と人間の究極的な関わりをもち、それによって私たちが根本から支えられる必要性があるからです。これは、もしかすると、あまり宗教的でないと思っている人であっても、その人を包みこんでしまう決定的な神の存在から逃げることができないということかも知れません。つまり、教会に通うかとか、お祈りをするかとかいったことをあえてしない人も、やはり自分の存在を支える絶対的な確かさに支えられなければならないのです。その限りにおいては、その人も宗教的であり、その意味でどのような人も、生きている限り、神との関わりを持たざるを得ないのです。もちろん、昇天後もですが。ですから、神は、その様な人も含め、全ての人達を教会に招こうとされているのです。あまり宗教的でないと頑固に思っておられる方も、もしも私たちと一緒に、神のみ言葉を聞き、祈りを合わせ、神を讃美することができれば、神への礼拝の重さを知り、その人を確かに支える神との関わり合を一層深いものへと加速されることをきっと感じるとことができるでしょう。私たちは、多くの方々がそうされる事を願っています。それほどに、教会での礼拝は意味深く、私たちに善いものをあたえてくれるのです。なぜなら、イエス様が言われるように、神は、生きた私たち人間の神なのです。それは、今、この時代に生々しく生きている私たち人間の神なのですから。

イエス様は言われます「『心を尽くし、生死を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二は、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。しかし、この掟には第一も第二もないのです。いつの時代にも、神を全身全霊で愛すれば、神の愛は、私たちが私たち自身をも愛し、隣人をも愛する」確かさをお与え下り、私たちが生きる事自体を確かなものにしてくださるのです。

神は私たちの内で働かれるお方です。私たちは、その神に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛する」ことを告白したとき、私たちよりも先に、私たちを愛していてくださる神は、私たちが、自分自身を愛し,大切にすること。そして、そうだからこそ隣人をも愛するよう働いてくださる事でしょう。それは掟ではなく、神の約束です。そして、私たちは、そのように、私たちの内で神がお働きいただいた結果を直ぐに実感として、絶対的な確かさとして知ることができるでしょう。

祈り

父なる神様。
どうか、あなたが、私たちの内にいて、私たち、守り、新しい生きる確かさを、お与続けてくださいますように。私たちは、あなたがもたらしてくださったこの時代の、この世界の中にあっても、あなたが与えてくださった進歩とともに、あなたへの愛、自分自身への愛、そして隣人への愛を堅くするものでありたいと願います。どうか、あなたの愛が、私たちをそのようなものであるように。そして、それを確かにし続けられますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
アーメン

 

 

 

2019年1月20日 降誕節第4主日
「生きている者の神」
マタイによる福音書22章23-33節

メシアはロバに乗ってやってくるというゼカリヤの預言通り、ロバに乗ってエルサレムに入られたイエス様は神殿から商人を追い出した次の日、再び神殿に上り説教をなさいました。たとえを使って話されたのですが、それまで、神の民とされていたユダヤ人への祝福の契約が破綻して、今や神の祝福は新しい民に向かう、イエス様に従う新しい共同体に移るのだと暗に諭されました。これはユダヤ指導者たちにとっては屈辱的なこと、決して容認できないことでした。ただ黙って聞いているわけにはいきません。猛然と反発します。最初は、ファリサイ派による、イエス様を陥れるための巧妙なトリックをしかけた質問でした。先週聞きましたが、ローマ皇帝に税金を納めるべきかどうかというもので、これはどちらに答えてもイエス様が失脚するように周到に用意された質問でしたが、「神のものは神に返せ」という予想外の答えを与えられて、失敗しました。ファリサイ派がイエス様を追い詰められなかったことを知って、次にサドカイ派がやってきました。ファリサイ派とは犬猿の仲、事ごとに対立していたグループです。それでは自分たちがやっつけてやろう、ファリサイ派なんてだめだ。我々なら懲らしめられると思ったのでしょう。普段仲の悪い二つのグループが、反イエス、自己擁護という点では一致しております。どちらのグループもイエス様の人気が高まると自分たちの指導力のみならず存在意義までもが低下するのではないかという不安を抱いておりました。

サドカイ派も、答えにくい質問をしてイエス様の信用を貶めようとしました。彼らの用意した質問は「復活はあるのかないのか」という問いでした。旧約聖書には復活に関して、明快な教えはありませんので、人々の理解もまちまちでした。復活が正しく理解されるようになるのはイエス様のお甦りによってです。論争では相手の答えにくい問いをして、答えのほころびをつくのが常道です。こういった嫌がらせのような質問はこの後も続きます。来週になりますが、律法の専門家によるもので、律法の中で最も重要な戒めは何かというものです。最後はイエス様の方から持ち出された論争で、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのかという問いです。ユダヤ指導層との論争が続いております。

では今日の御言葉です。「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」(二十三~二十八節)。

サドカイ派とは、祭司の家系の人々です。サドカイ派がすべて祭司であったわけではありませんが、祭司は皆サドカイ派の人々です。ソロモンに仕えた祭司ツァドクの子孫なので、この名前があると言われております。あるいは「正しい人たち」という意味であるとも言われます。ツェダク、義という言葉から来ているのだと。名前の由来ははっきりしませんが、彼らの信仰は、トーラーと呼ぶモーセ五書のみを神の言葉としていました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のこの五つです。従って、モーセによって命じられた十戒をはじめとする律法を守り、命じられた祭りや神殿における礼拝を遵守しました。その反面、モーセ五書にはダビデの永遠の王国や死者の復活についての言及がないため、彼らは永遠の命や復活の教えを信じませんでした。人は死んだらそれで終わりだと言います。サドカイ派は貴族階級であり支配階級ですから、現状に満足しているグループです。復活がないほうが都合よかったのでしょう。自国の安全と平和のためには、ローマへの協力もやむなしとする現実主義者です。復活を信じるような心の姿勢はなかったのです。そのためエルサレム議会においては復活を信じるファリサイ派の人々と常に対立していました。ファリサイ派は野党であり、学習するグループです。いつか復活して、サドカイ派やヘロデ党を打ち破りたいという心の姿勢がありました。イエス様はファリサイ派に近く、トーラーも預言書も、そして詩編に代表される文学もすべてを神の言葉と信じておられました。ファリサイ派がローマ支配下での、神の御心に適う生き方を問うふりをしたのに対し、サドカイ派はトーラーの教理、信仰の理屈を問うふりをしました。復活を信じるべきかどうかです。ファリサイ派が一応敬虔そうな信仰上の問いをしたのに対し、サドカイ派の質問はいわゆる屁理屈です。退屈な問いです。本当に復活があるか、答えによっては自分の生き方を変えようなどという姿勢はゼロです。信仰を利用した揚げ足取りです。

ところで旧約聖書における復活を示唆する箇所は、預言者や黙示文学にあります。たとえば、ダニエル記やイザヤ書には次のような言葉が出てきます。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」(ダニエル書十二章二節)。「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(イザヤ書二十六章十九節)。モーセ五書だけを神の言葉とするサドカイ派にとっては、これらは神の言葉ではありませんでした。ですから、人が復活するなんて、最近になってペルシアの思想が流れ込んできた影響によるもので、トーラーにはないと主張していました。

サドカイ派の質問は申命記からでした。申命記には「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(申命記二十五章五、六節)とあります。サドカイ派はこのモーセの言葉からずる賢く考えた物語を語って質問したのです。質問の意図するところはこうです。「彼らが復活するのなら、この女性は誰の妻なのか。七人全員の妻になるということなのか。復活を信じるなら、こんなおかしなことになってしまうではないか。イエスよ、あなたは答えることが出来るのか」。当時のユダヤ人が誰も明確に答えることが出来ない問を提出することによって、イエス様の権威、ラビとして教える権威、そして何といってもご自分がメシアだと主張する権威を失墜させようとしたのです。それにしても、こんな問いで本当にイエス様をやっつけられる、復活を否定できると考えるほどサドカイ派は頭が悪かったのでしょうか。実にくだらない質問です。彼らの意図はただひたすらイエス様に意地悪な問いをぶつけることでした。正直わたしもサドカイ派は好きではありませんが、注意しませんと、わたしたちもサドカイ派のようなくだらない質問を神にしていることがあります。

彼らはファリサイ派と同じく「先生」と呼びかけておりますが、これも尊敬の念ではなく表向きの丁寧さで、これから質問しやすくするためのものです。モーセは言いました、ですからさすがの先生も反論出来ないですよねと念を押してから、質問を始めます。神はモーセを通してこうおっしゃっていますよと、まずくぎを刺したのです。そして皆さんよくご存じの「レビラート婚の決まり」について語ります。ルツがボアズにオベドという子を産んだとき、この子をナオミの子としました。子孫を残すやり方です。夫が死ぬと、何とかしてその人のために子を残そうとする律法の決まりです。ちなみに、オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父です。

サドカイ派の質問に対するイエス様のお答えは次のように書かれています。「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。』群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」(二十九~三十三節)。

繰り返しますが、サドカイ派は家庭問題や法律問題に関心があるわけではなく、ただイエス様に聖書解釈上の難問を持ち出しているにすぎません。そこでイエス様は彼らが「思い違いをしている」、彼らの理解がまるで違っていると断言されます。そして彼らの思い違いの理由は「聖書も神の力も(神の恵みもと、ルターはつけ加えています)知らないからだ」とおっしゃいます。聖書の言葉を教える立場にあったサドカイ派の人々にとってグサッとくる言葉だったでしょう。

ところで、サドカイ派の人々の「思い違い」とは何でしょうか。サドカイ派の思い違いとは、復活後の世界と今の世界が同じ、変わらないという前提で話していることです。地上の生活の続行で、夫婦関係も、兄弟関係もそのままに同じ状態で復活するという前提です。イエス様は、その前提は思い違いで、聖書も神の力も分かってないとおっしゃいました。お前たちの考えるばかばかしい問いは、復活がないという証拠ではなく、ただ間違った議論を組み立てているに過ぎないとおっしゃったのです。復活の時に何が起こるのか、めとることも嫁ぐこともない、復活後の人間は男または女として結婚することはなく、天使のようになるとおっしゃいました。天使は結婚しませんし、復活の世界は今の延長上にはありません。復活した人々は神のみ前で、神を賛美して生きるのです。復活後の生活は地上生活の延長線上にはありません。

黙示録の中には、キリストに贖われた者たちがよみがえった時のことが次のように記されています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである」(ヨハネの黙示録七章十六~十七節)。わたしたちが栄光の身体をいただくとき、小羊であるキリストが慰めを与えてくださいます。その慰めは、この世が与える気休めとは全く違います。わたしたちは永遠の祝福と喜びの中に甦らされます。王の王、主の主であるキリストのご愛の内を歩むのです。

大切なのは、その後の御言葉です。イエス様は続けて「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃっています。これは出エジプト記「神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った」(出エジプト記三章六節)からの引用です。先ほどはサドカイ派が申命記の言葉を引用して質問しましたが、今度はイエス様が、サドカイ派が信じるモーセ五書のひとつ、出エジプト記の言葉を引用してお話になりました。

神が、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるということが、なぜ復活はあるということなのでしょうか。ある学者は、「・・の神であった」ではなく「・・の神である」と現在形でおっしゃったことに注目してこう説明します。かつてアブラハムの神であったというのではなく、「今そういう神である」ということが大変強調された言い方になっているのですが、これはアブラハムたちが死んで滅んでしまったのではなく、永遠の命をもって存在しているということなのだと。でも、この説明では、わたしはすっきりとは納得できかねます。

アブラハムも、イサクもヤコブも死にました。墓があるだけです。わたしたちもいずれ死にます。そのわたしたちが甦るというのはどういうことでしょうか。甦るとすれば、わたしたちの生命力が強いからではありません。肉体は滅びます。肉体が滅びても魂は永遠に生き続けるなどという考えは聖書にはありません。しかしアブラハムを活かした神は今も生きておられます。モーセにもそうおっしゃいました。「わたしがいる、わたしは確かにいるのだ」と。神は生きておられるということです。わたしだ、エゴー・エイミー、アイ・アムとおっしゃったのです。

この今も生きたもう神が、アブラハムに神として祝福を約束なさいました。イサクにも神が約束されました。ヤコブにすら愛想をつかさず、約束されたのです。アブラハムが土の中で朽ち果てても神はアブラハムの神です。いまだにしつこくヤコブの神なのです。そんな「わたしは生きている」という神がおれらるのなら、わたしたちも生きるはずです。うっとうしい顔をして死ねないのです。わたしはあなたの神であるというのが神の恵みです。たとえわたしたちが滅んでいくように見えても、神はわたしたちを掴んでおられる。神は生きている者の神です。わたしの神です。だから、わたしたちは葬儀でこういうのです。この方は永遠の命に生きると。どなたがなくなっても、ここで礼拝します。葬儀は礼拝です。礼拝する、それ以外に死に打ち勝つ方法はありません。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神という言葉には明らかに続きがあります。イエス様の神であり、わたしたちの神です。アブラハムの神がわたしたちの神となってくださったのです。神がアブラハムに語られた。そのようにわたしたちにも語ってくださいます。わたしにも語り掛けてくださる、だからわたしたちも、わたしの神よと呼ぶことができるのです。それが分かるとサドカイ派の愚かな問いから解き放たれます。神はアブラハムの神であり、わたしの神です。神がそう言ってくださったのです。わたしたちが神を見出したのではありません。信仰の根拠はわたしではなく神にあります。神がわたしたちと共にいたもう。ならば、死を超えてもそうなのです。神は死んだ者、アブラハムの神であるだけではなく、生ける者の神です。生ける者とはわたしたちです。この神の力を知っておられたので、イエス様は十字架の死を突き抜けられたのです。わたしたちもそうです。人は死んで終わりではありません。死を超えても神が共にいてくださる希望がある。その恵みに生きることができるのです。

祈ります。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして、イエス様の神であり、わたしたちの神である神。全能のあなたがいつもわたしたちに関心を持ち、共にいてくださる、この大きな恵みを感謝します。死を超えても共にいてくださることは、大きな希望です。どうかわたしたちがいつもあなたを見上げ、あなたを賛美し、あなたの御前に生きることができますよう支え導いてください。
主のイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

1月20日の音声

 

2019年1月13日 降誕節第3主日
「神のものは神に」
マタイによる福音書22章15-22節

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(二十一節)。誰もが知っているイエス様の有名な言葉です。一般には「カイサルのものはカイサルに」として知られております。時に政教分離の教えのように受け取られていることもありますが、実はこれは巧妙なトリックを含んだ問いに対する、驚くべきお答えです。ファリサイ派の悪巧みを打ち砕く答えです。「どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(十七節)。一見敬虔でまともなこの質問には仕掛けが秘められていました。

今日の御言葉は次のように始まります。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです』」(十五~十六節)。そして、「ところで」という言葉に続き先程の問いが出てきます。

「律法に適っているか、適っていないか」という質問は、「神の御心に適っているかどうか」ということですから、ローマに税金を納めるのは、神を畏れる者にとって正しいことであるかどうかを聞いています。この「神の御心に適っているかどうか」という質問は、信仰に関する問いであり、かつ、ローマに対する具体的な対応の仕方に関する問いです。彼らはイエス様に、あなたは真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方で、人々を分け隔てなさらないと言って、まず逃げないでしっかり答えてくださいと念を押してから、ローマ支配下にあるわたしたちは、御心に適う生活をどう送れば良いでしょうかと、極めて真面目で敬虔な言葉で問いかけています。そのような質問をイエス様のもとに持ってきたのです。しかし、マタイは彼らの質問の本当の意図をこう説明しています。「ファリサイ派の人々は、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」。彼らの目的は、イエス様を罠にかけることだったのです。

なぜでしょう。イエス様は、ユダヤ指導層がご自分を拒絶したので、「天の国」、神のご支配がユダヤ人以外の人々にもたらされ、新しい神の民として起こされるだろうという厳粛な事実を、「二人の息子のたとえ」、「ブドウ園と農夫のたとえ」、そして「王子の婚宴のたとえ」とずっと続けてお話しになったからです。聞いていた祭司長たちやファリサイ派の人々にとって、聞き捨てならない話でした。しかし、「祭司長たちやファリサイ派の人々は・・・イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」(二十一章四十五、四十六節)とすぐ前に記されていましたように、イエス様を捕らえて殺そうとしても、群衆の存在が邪魔となって出来なかったのです。イエス様は庶民には人気がありました。ですから、何とか罠にかけ、イエス様を亡き者にしてしまいたかったのです。なかなかよく考えられた悪巧み、それがこのローマへの税金をどうしたら良いかという問いでした。

「皇帝に納める税金」とは、紀元6年ごろにユダヤがローマの直轄支配地になるとすぐ導入された人頭税です。男十四歳女十二歳以上、六十五歳までの人に対して、誰であれ課税されました。収入に対してではありません。一人当たりいくらと決められていました。ローマに税金を納めることは、ローマに屈服することですから、屈辱的なことであるのはもちろんのこと、経済的弱者には大きな負担でした。しかし、納めないわけにはいきません。被占領民の悲しさです。このほか神殿に納める税金もありましたから、人々は重税にあえいでいました。

しかも、屈辱的であり金銭的に重くのしかかっていただけではなく、宗教上の問題もあったのです。ユダヤ神殿に納める税には、ペルシア由来の伝統的貨幣、シェケル銀貨が使われていましたが、支配国ローマへの納税はローマのデナリオン銀貨が使われていました。この銀貨で問題だったのは、そこに刻まれていたのが皇帝アウグストゥスやティベリウスの肖像だったからです。その上肖像だけでなく、ティベリウス帝の肖像と共にこんな言葉が刻まれていました。「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」。つまり銀貨には、これは本物の銀貨だというローマの政治的権威だけでなく、宗教的権威の主張も刻まれていたのです。つまりデナリオン銀貨には、皇帝は神の子であり大祭司だという、ユダヤ人の神経を逆なでする、ローマの主張があったのです。ユダヤ人にとってローマに税を払うという事は、どうしてもこのローマ銀貨に触れなくてはならず、実に嫌なことでした。出来ればすぐに止めたかったのです。金をとられる以上に、汚らわしい銀貨に触りたくもなかったのです。

とりわけ律法に忠実でユダヤ教の純粋性を守ろうとしていたファリサイ派の人々や、熱心党のような国粋主義者たちは、この税には断固反対でした。しかし残念ながら、現実には納税拒否することは出来なかったのです。一方、ローマに隷属するヘロデ王家を支持するヘロデ支持派の人々は、この納税にむしろ賛成でした。ローマに忠誠を示す方が、ヘロデ家を盛り上げ、ローマから王と認められた先代のヘロデ大王の勢力をとり返すためにも有利だったからです。心の底から賛成ではないにしても、総合的に見れば、納税することによって得られる利益が決して少なくなかったのです。ヘロデ派の人々にとっては貨幣に誰の顔が書いてあるか、目をつぶって差し出せばどうってことはありませんでした。

そういう事情でしたから、イエス様がもし「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」とお答えになれば、民衆の支持を失うことになるでしょう。大きな失望で逆に彼らは敵に回るかもしれません。愛と憎しみは裏・表、紙一重です。人々の心が離れればヘロデ派やファリサイ派の人々は安心してイエス様を捕らえることができます。そして、もし「皇帝に税金を納めるのは、律法に適わない」と答えられたらどうでしょう。これは、多くの群衆が待ち望んでいた反ローマ闘争の幕開け宣言に聞こえる危険性があります。群衆の反ローマ感情に火をつけ、突出した熱狂的な行動が引き起こされるかもしれません。そうなればローマ軍が介入するでしょう。ローマに逆らうように群衆を扇動したと訴えることができます。ローマの国家権力によって、合法的にイエス様を抹殺することができるのです。

つまりどちらにお答えになってもイエス様は窮地に追いやられることになります。このような、巧みに仕組まれた敵意と憎しみに満ちた企てが、あたかも敬虔な問いであるかのようになされたのです。ローマ支配下でわたしたちは御心に適う生活をどう送れば良いでしょうかという極めて真面目な信仰と生活上の問いを装っていますが、実はトリックなのです。まだ若い弟子たちを送って、イエス様の本音が出やすいように真面目に質問させているわけです。

聖書はこう言います。「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(十八~二十一節)。

イエス様はすぐ彼らの悪意に気づかれました。そして、「税金に納めるお金を見せなさい」とおっしゃったのです。彼らは納税用のデナリオン銀貨を持ってきました。「これは、だれの肖像と銘か」。現実の貨幣を前にしては、ただ事実を述べるしかありません。彼らは言います。「皇帝のものです」。するとイエス様は言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。もちろんイエス様は、「皇帝が絶対的な権威を持っているのだから、たとえ不本意であっても税は納めなくてはならないのだ」などとおっしゃったのではありません。少しユーモラスにお答えになっています。「皇帝が絶対者であるわけでも、神に等しいわけでもないのだから、このようなまやかしの銘が打ってあるコインは皇帝への税として納めたらいいではないか」と。皇帝が銀貨に「神の子ティベリウス」と刻ませているのは、明らかにユダヤ支配の便宜上の行為です。ローマ人にとって皇帝は神でも王でもありません。元老院が任命した第一人者、今なら首相です。ユダヤ人の信仰を利用して植民地支配のために神的権威を謳っているのです。イエス様はこの世の権威とそれに関わる権力を、笑い飛ばされたと言って良いかもしれません。デンマークの哲学者キルケゴールは、「皇帝のものは皇帝に」というのは、イエス様の徹底した皇帝無視だとはっきり言っております。

要するに、「ティベリウスが銀貨に自分の肖像を刻ませて、この帝国はわたしのもの、このお金もわたしのものだと言っている。それなら返してやればいいではないか」とおっしゃったのです。刻まれた肖像と権威の主張、それは大して重要な問題ではないのです。皇帝は立場上この世を統括しているに過ぎません。全てを支配しておられるのは主なる神です。本当に知るべき重大な意味を持つ言葉は、次に来る言葉、「神のものは神に返しなさい」なのです。

「神のもの」が何を意味するのかは、今のわたしたちには分かりにくいのですが、神殿でイエス様の話を聞いていた人には明らかであったに違いありません。確かにお金にはよく人物の肖像が刻まれています。日本なら、野口英世とか、福沢諭吉です。昔は聖徳太子でした。アメリカならリンカーンとか、ジェファーソンとか歴代の大統領、昔のソ連ならレーニンです。ローマ帝国では皇帝です。では一体「神の像」が刻まれているものとはどんなものでしょう。思いだせますか。どこで見たでしょう。実は毎日よく見ています。旧約聖書の一番初め、創世記の創造物語を思い出してください。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」(創世記一章二十七節)とあります。神にかたどって創造されたもの。つまり人間です。デナリオン銀貨の肖像が帝国に対する皇帝の支配を表しているように、神の像が刻まれた人間の存在は、この世界に対する神の支配を表しています。詩編でも唱えられております。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」(詩編二十四篇)です。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(詩編百篇)なのです。天も地も、皇帝も含めて、すべての人間が、神のものなのです。

まず神に返すべきは、神の像が刻まれている人間です。わたしたちが神のもとに回復されねばなりません。「神のものは神に返しなさい」とはしゃれた、気の利いた口先の言葉ではありません。二十一章以後の記事は十字架にかかる直前の、エルサレムで起きた事柄の記録です。神殿で話されたことです。罪の中にある人間が、罪を赦されて神のものとして神の手に返されるために、イエス様は自らが犠牲を払うつもりでおられました。ご自分の命を捨てることによってです。神の宮に居ながら、イエス様は十字架へと向かっておられたのです。

人間は神のものです。そしてこの世界もまた神のものなのです。「神のものは神に返しなさい」。罠にかけようとしてイエス様のもとにやって来た人々に、決定的な答えを返されたのです。「そもそもお前たちは神のものを神のものとして生きているのか。神のものが神に返されることを求めて生きているのか」と。わたしたちの根本的な問題は、神のものを神のものとして生きてはいない、というところにあると示唆なさいました。この世界をあたかも人が所有しているかのように生きているということです。人間は自然を征服し、国家権力を濫用し、隣人を利用し、親子の絆をゆがめ、自分の人生を無駄にしています。今日の聖書の話では、ファリサイ派の人々は神や信仰に関わることさえ悪用し、イエス様を罠にはめようとしました。自分は出向かず、弟子である若い助手をやり、いかにもまじめそうな質問のふりをしました。そして、自分たちとはまったく反対のヘロデ支持派を抱き合わせにして、どのような返答であってもそれを問題視する証人をあらかじめ用意しておいたのです。

十字架にかかる直前にお話になったイエス様の言葉を、わたしたちは今耳にしております。「神のものは神に返しなさい」。なすべきは、神のものである自分自身を神に献げることです。まず「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」(ローマ十二章一節)のです。パウロは、これこそがなすべき礼拝だと言っております。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント六章二十節)と勧めています。特別な犠牲を払う必要はありません。自分の体を献げるとは礼拝することです。神のものですから、まず神の元に来るのです。それがわたしたちの出来る、神のものを神にお返しすることの第一です。

繰り返して申し上げます。皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す、というのは、現実の生活ではこの世の習いに従って税金をきちんと払う、しかし心は神にむけて清く正しく生きるというような二元論の話ではありません。週日は仕事を、日曜日は教会にと、区別して働きなさいという話でもありません。政治のことは政治のこと、信仰のことは信仰のことという十八世紀以降の政教分離などということでもありません。信仰とこの世の問題は、神とわたしの関係を問う分離できない事柄です。国家に従うにしても、逆にたとえ国家権力に抵抗するにしても、大事なのは、まずわたしたちが神のものであることを明らかにすることです。わたしたちは、はたして神のものを神にお返ししているだろうかと問わねばならないのです。

祈ります。
父なる神、神のものは神に返す、そのためイエス様はご自分の命を捨て十字架についてくださいました。それによってわたしたちはあなたとの正しい関係に戻ることができました。心より感謝します。この世のことを含め、天も地も人も、すべてをあなたは支配しておられます。わたしたちがこの世のことはいい加減に済ますという独りよがりに陥りませんように、また、こんな時に礼拝なんかしていられないとあなたを忘れてしまうことがありませんように。あなたがご自分をかたどって造ってくださったあなたの創造物として、この世に生き、そしてあなたの下に帰れますよう導いてください。
主のみ名によって願い祈ります。アーメン

1月13日の音声

 

 

 

2019年1月6日 降誕節第2主日
「王子の婚宴」
マタイによる福音書22章1-14節

あけましておめでとうございます。

イエス様は、ユダヤ人がご自分を拒絶したので、「天の国」、神のご支配がユダヤ人以外の人々にもたらされ、新しい神の民として起こされるだろうという厳粛な事実を、「二人の息子のたとえ」と「ブドウ園と農夫のたとえ」で、連続してお話になりました。二十一章の後半であります。その二つの話の間に待降節がありましたので、旧約聖書の預言書とヨハネによる福音書から説教がなされ、繋がった感じがしないかも知れませんが、この二つのたとえは繋がっております。どちらも森喜牧師が説教なさいました。二十二章に入りましても、同じ真理を伝える三つ目のたとえをさらにお話になっております。王子の結婚披露宴に招かれた客が、様々な理由をつけて出席を断ったという話です。王はそのような無礼な客を殺して、他の人々を招いたというのです。少し極端な、しかし印象深い話です。イエス様が話し続けておられます。

たとえ話の流れはこうです。王が王子のために婚宴を催します。ところが、披露宴に招かれていた客は、その招きに応じず、二度目に派遣されてきた家来たちを無視したり、殺したりさえしたのです。先週聞きました、ブドウ園と農夫のたとえで、主人の使い、息子まで殺したことを思い出します。そこで王は、家来に命じて大通りにいる人間を誰かれなく、善人も悪人もすべて連れてこさせたので披露宴会場はいっぱいになったというのです。ここまでは、ちょっと極端なたとえではありますが、ユダヤ人とユダヤ人以外の民族に対する神の祝福とは何かを考えさせる話です。ショッキングなのは、この後です。思わぬ展開になります。披露宴に出席できた大勢の者のうち、婚礼の服を着ていない人がいて、王がお前はなぜ婚礼の服を着ていないかと尋ねますが、返事ができません。そこで王はこの婚礼の服を着ていなかった者の手足を縛って外に放り出させたという話です。そして「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と話が閉じられております。昔ある教会で、礼拝にきちんとした服装で来ない信者は、神様に放り出されるぞ、礼拝には正装して来いという説教を聞いたことがあります。わたしはその時背広を着てネクタイをして出席していましたが、それでもかなり違和感を抱きました。はたしてイエス様はこのたとえでそういうことをおっしゃったのでしょうか。

一節から順に見ていきましょう。「イエスは、また、たとえを用いて語られた」。また、もう一度とはじまります。二十一章のたとえで彼らに話されたのに連続してという意味でしょう。「語られた」と訳されているのは、「答えられた」という言葉ですから、聞き手の心の中にある疑問を知ってお答えになったのでしょう。また、ここの「たとえ」は複数形になっています。十節までと十一節以下は、内容の異なった話です。

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」。旧約聖書の伝統では、メシアが支配する王国を、しばしば結婚の祝宴に例えます。イザヤ書などにそういう表現があります。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。・・・わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」(イザヤ書二十五章六~九節)。聴いている人たちは直ちに王と神を関連づけて聞いたことでしょう。結婚の祝宴は、花婿の父親が開きます。イエス様は父なる神が王子であるご自分のために祝宴を開いてくださったということを分かる人には分かるように話されたのです。ここでの主役は王子ではなく王です。

「王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」(三節)。当時の婚宴は、あらかじめ招待しておき、当日には使いの者が迎えに行くという丁寧なやり方が普通でした。王は、そのあらかじめ招待しておいた人々に使いを送り、呼ばせたのですが、招かれていた人たちは来ようとしませんでした。このあたり既にユダヤ指導層に対する皮肉が感じられます。この使いの者の迎えに従わないのは、招待者である王への拒絶を意味します。一旦、王の招待を受けておきながら、実際には来ないなどということはありえません。どんな理由があっても、這ってでも行くはずです。普通にはこんなことはありません。事態の異常さが際立っております。

「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください』」(四節)。あまりの異常さに王は、別の家来たちを送ります。一度断られたときに処罰を下してもいいのですが、この王はあきらめなかったのです。「こう言いなさい」とわざわざ言うべきことまで命じております。使いの家来を拒絶したのではなく、王を拒絶したのだということがはっきりとわかるようにしています。「食事の用意が整いました」、完了形で完全に整ったと言っております。もちろんこういう食事は、何日も前から周到に準備し、とうとう完成し、すべて整ったということです。「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(五、六節)。驚いたことに、人々は今度もまた派遣されてきた家来を無視して、王の招待よりも大事なことであるかのごとく自分たちの用事を優先し、畑や商売に出かけてしまいました。「気にもかけず」、全く無視して、強い意志で拒絶し、自分の畑、自分の商売に出かけたのです。もはや王に対する忠誠はどこにもありません。そして、それだけではなく、王が派遣した招待役の家来を殺してしまう者さえいたのです。繰り返しますが、これはたとえ話です。現実の世界では、王の招待を断るのは反逆です。死刑になるでしょう。秀吉に大坂に来いと言われてすぐ行かなければ死罪です。現実には起こりえないことが語られ、イスラエルの民が神に対してとっている態度が、いかに理不尽なものであるかを読者に強く印象付けます。宴会は食事自体が目的ではなく、関係の維持が目的です。このたとえは、神が繰り返し送られた使者をイスラエルの民が拒絶し続けたことを表しております。預言者たちやバプテスマのヨハネとも考えられますが、急所となるのは、イスラエルの民の頑なさです。さて結果はもはや明白です。「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(七節)。さすがにもう黙ってはおれません。王は軍隊を派遣し、家来を殺したものたちを人殺しと呼んで滅ぼし、町全体が人殺しの町であるかのように焼き払いました。

この町を焼き払った後、王は王子の婚宴のために新しい客を探します。「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい』」(八、九節)。大通りで、見つけ次第、だれでも連れてきなさいと命じます。たまたま町の広場にいた人が皆招かれることになります。天の国は誰にでも開かれており、誰もが招かれるのだと暗示されております。「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」(十節)。善人も悪人も招かれたとありますが、今現に悪事を働いている人ではなく、たとえ悪人呼ばわりされているような人でも、という意味です。王の祝宴に招かれる人は普通なら評判も調べられます。評判の悪い人は皇居での園遊会に招かれないでしょう。しかしこのたとえでは宗教的、道徳的に見て善いとか悪いとか区別せずに、どのような人でも招かれたのです。

さてここから、主題が変わります。「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」(十一~十三節)。ここは、十節までに続いて王子の婚宴の場面ですが、内容が異なっております。主催者の王は、高貴な招待者がそうするように、客がそろったときに宴会場にやってきます。客と一緒に食事はしませんが、招待客に顔は見せるのです。この当時の習慣です。そこに婚礼の服を着ていない者が一人おりました。たまたま見つけたのです。もともと大通りにいた人を誰かれなく連れてきたのですから、礼服など持っている筈がありません。しかし一人だけ、そういう者がいたとありますから、実際には、招待された者には礼服が支給されたのであろうことが分かります。誰でも礼服を買えるような時代ではありません。歴史的文献では不確かですが、古代の王の宴会は礼服付き招待もあったようです。披露宴に出席するには、この支給された礼服をきちんと着るという条件を満たすことが必要でした。旧約聖書にそういうことを感じさせる記述もあります。さて支給されたにも関わらず礼服を着ない、などということは普通ならありえません。ここでもありえない話という印象が強くなります。この人のミスで礼服を着るのを忘れたなどということはありえないのです。入り口でチェックされますから、着ていなければ入場を拒否されるでしょう。イエス様がおっしゃったことはただ一点です。宴会に招かれた者は当然婚礼用に礼服を着ているべきであって、そうしないで宴会に出ることは間違っているということです。

王は「友よ」と呼びかけております。そして、なぜおまえはふさわしくない服を着ているのかと聞きました。このたとえで礼服が何を意味するのかは、読者によって様々にお感じになるでしょう。天の国に入るのにふさわしい唯一の条件とは何か。信じる者にキリストが備えてくださった義、キリストの信仰によって義とされたことを感謝して、信仰を言い表すことだなと考える人もおられるでしょう。御国に入る条件だから、悔い改めとか、洗礼を考える人もおられるでしょう。ここではこの当時人々が持っていたイメージを思い出していただきたいと思います。放蕩息子の父親は、帰ってきたぼろぼろの息子に、上等の服を着せます。父との関係の回復を示しております。パウロはキリストを着ると言います。いずれにせよ、神の前に出るのにふさわしい格好であることに違いありません。聖徒としての正しい行いでもあるでしょう。この人はひょっとしたら自分に自信があって、この服装でよい、支給されたものはもったいないので、手を付けないでおこう、自分の服で充分失礼ではないと考えたのかも知れません。

この人は王の質問に対し弁解できませんでした。神の前にふさわしくない態度をとるものは最後の日に弁解できないでしょう。結局宴会にふさわしくない者は、無理やり宴会場から追い出されたのです。外の暗闇は、明るく楽しい宴会の場と対比されております。

そして結びの言葉です。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(十四節)。最初のイスラエル、そして大通りにいて招かれた人々、大勢の人々が招かれました。宴会場が一杯になるほどです。けれども招かれる者と選ばれて宴会に出席する者はイコールではないとイエス様はおっしゃいました。

ユダヤの社会では、神の国の宴会は終末的なものでした。しかしイエス様は、ご自分と共に始まっている。「今天の国が始まっている、完成するのは最後の時かも知れないが、既に始まっている。門戸は大きく開かれている」とおっしゃり、わたしたちをも招いておられるのです。この招待はわたしにも来ていますし、皆さんにも届いているのです。招待には応じるべきです。ただ一つだけしっかり自問する必要があります。支給された婚礼の服を着ているかどうかです。自分の服のままではまずいのです。

さて、わたくしがこのマタイによる福音書連続講解説教を最後にしたのは、昨年の十一月十八日ですから、今日は七週間ぶりになります。あの日、二十一章十八節以下から「神の権威」について語りました。どのような状況での話であったか少し思い出していただきたいと思います。イエス様はロバに乗ってエルサレムに入城されたすぐ後、神殿から商人を追い出されました。その次の日、神殿の境内で、何の権威でこんなことをするのかと追及した祭司長や民の長老たちにお答えになる中で「権威についての話」が出てきました。それに続いて、二人の息子の話、ブドウ園と農夫の話をなさり、そのあとに重ねてこの話をなさったのです。祭司長やファリサイ派の人々も聞いています。祭司長たちは、きちんとした礼服を着ていたでしょう。イエス様の方が、ラフな格好だったのではないかと思います。婚宴の服は、明らかに神殿における服装の話ではありません。二人の息子の話での「父の意思」に対する従順、ブドウ園と農夫での「収穫の実」に対応しています。焦点は明白です。神の招きとその招きへの応答のあり方です。例えば詩編を読みますと、祭司たちは、こんな風に歌うのです。「祭司らは正義(神の義)を衣としてまとい、・・・救いを衣としてまとう」(詩編132篇)。しかしイエス様は、お前たちは神が与えてくださった礼服をどこに置いてきたのかと問うておられます。あなたはどう思うか、王の宴会に呼ばれたのに礼服を着ない人がいて、外に放り出されたことを、と問うておられるのです。祭司への痛烈な皮肉です。七週間前の説教で、イエス様はそれではわたしもあなたたちに問いたいとおっしゃり、バプテスマのヨハネはどこからきたのかとお尋ねになりました。それに対して祭司長たちは答えにつまりましたね。「分かりません」とだけ答えましたが、なぜ礼服を着ていないのかと問われた人も、分かりません、つまり弁明出来なかったので沈黙したのです。イエス様の問いに答えられなかった祭司長たちは、礼服をつけなかったこのたとえの登場人物と同じです。二十一章からずっとイエス様は問い続けておられます。わたしたちなら何と答えるでしょうか。

神の招きとは召しです。もっと易しく言えば、神に名前を呼ばれることです。パウロは神に召されて使徒になりました。パウロ、来なさいと呼ばれたのです。わたしたちも招かれています。遠いところから呼ばれたのではありません。傍まで迎えに来て、さあ準備が整いましたと言われました。イエス様はわたしたちのために人となってわたしたちの間に宿ってくださいました。傍まで呼びに来てくださったのです。

わたしたちは聖書を読んでおります。御言葉を蓄えております。あなたの掟はわたしの心の内にあります(詩編四十篇)。御教えはすでに内臓にまでしみわたっています。招きを知っております。そして使者がやってきます、「さあ来てください、準備が整いました」。ここで行かなければ、このたとえに出てくる愚か者と同じです。今商売が、今畑がと言うのと同じです。今でなくてもいいはずだ、宴会に行くのはもう少し先にしよう、今は忙しい。ここは知らぬふりをしておこうと。わたしたちは使いの家来を殺したりはしません。でもイエス様の御言葉についてはどうでしょうか。友よ、愛し合いなさい。礼拝に来なさいと招かれます。でも他のことを優先するのです。知らぬふりをして、招きの御言葉を殺すのです。だれもが神の国が来る時にはそこに居たいと願っています。でも今、決断すべきことを理解していないのです。神の国はもう既にわたしたちのところに来ています。神が与えてくださろうとしているこの恵みを失ってはなりません。自分の服を脱いで与えられた礼服を着て婚宴に出ましょう。

祈ります。
父なる神、わたしたちを大きな喜びの中に招いてくださる恵みを感謝します。救いへと召してくださっているあなたの招きに、しっかりと気づくことができますよう、わたしたちを支えてください。また後回しにせず、今すぐ応えていくことができますよう導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

1月6日の音声

 

 

2018年12月30日 降誕節第1主日
「ぶどう園と農夫」
マタイによる福音書21章33-46節 説教:森喜啓一

イエス様の3年近くに及ぶ福音宣教の旅は、間も無く終わろうとしています。イエス様は今、エルサレムの神殿での福音を教えておられ、多くの群衆が、その教えを聞くために集まっていました。その教えは、ユダヤ教の祭司長たちの律法や古くからの言い伝えによる権威を振りかざした教えとは違っていました。そこには、上から押さえつける権威を身にまとった言葉も、まるで自分たちが許されることのないひどい罪人であるかのような厳しさも、罪を許されるための捧げものや様々な行為の要求もありません。イエス様の教えは、悔い改めと、互いの愛、そして父なる神からの愛への感謝と賛美でした。それは暖かく愛と赦しに満ちたものでした。そして、誰でも分け隔てなく、罪は許され新しく生まれ変わり、新しい生き方が開けるというのです。しかし、イエス様の御言葉と群衆の人気は、ユダヤ教の指導者には、とても妬ましく、彼らの地位を危うくする脅威でもあったのです。そこで、祭司長たちは、イエス様に教える権威についての問答を仕掛けましたが、イエス様から、洗礼者ヨハネの洗礼はどこから来たのか」や「父親に、一緒にぶどう園で働いてほしいという願いを了解したけれども、実際にはぶどう園に行かなかった弟と、ぶどう園に行くことを拒否したけれども、心を改めて、ぶどう園に行って父親と働いた兄のたとえ話」などのイエス様の問い掛けによって、祭司長たちは、自分たちの不信仰を群衆の前で暴かれてしまいました。そのような状況の中で、イエス様と祭司長たちとの議論はまだ続きます。

イエス様の時代、ぶどう園は、麦畑やその他の農業も同様に、地主がいて、実際の農作業は、農夫にその農地を貸しておこなれました。つまり地主と小作人の関係です。そして、小作人には賃金や収穫の一部が与えられ、あとの収穫は地主である主人に地代として収められという契約が結ばれていたのです。今日の聖書箇所に出てくるぶどう園もそのような主人と農夫達との関係で営まれていました。そして、そこでは、ぶどう園の主人と農夫達の契約に基づいた信頼関係がとても重要でした。

このぶどう園にも収穫の時期がやってきました。そこで、ぶどう園の主人は人を送って、契約通り、収穫を主人のもとへ送るように農夫たちに伝えようとしたのです。ところが、あろうことか、農夫達は悪心を起こし、ぶどう園の収穫を全部自分たちのものにすることを企んでいたのです。その農夫たちの悪巧みを知らない主人は、自分が農夫たちのところへ送った使いが一向に帰ってこないことに訝しさを感じていました。 その後も、ぶどう園の主人は、何人もの使いを送って、農夫たちに契約を守るようにさせようとしましたが、それは全て無駄に終わりました。農夫たちは、主人との契約を破り、主人の使いをことごとく殺してしまっていたのです。それでも、忍耐強く農夫たちを説得しようとする主人は、自分の愛する息子ならば、農夫達もきっと契約を守るようにするだろうと思い、農夫たちのところへ息子を遣わしました。しかし、それは新たな悲劇を生みました。主人の息子は、農夫たちのところへ到着すると、農夫たちへの説得を試みましたが、農夫たちにとって、その言葉は単に耳障りで邪魔なものでしかありませんでした。むしろ、農夫たちは、この主人の息子を殺してしまえば、もう彼らにとやかく言う者も来なくなり、収穫と共にぶどう園も自分達の自由にすることができると考え、この息子も殺してしまいました。しかし、それは農夫達の大きな誤算でした。

主人の息子を殺害したことは、主人の悲しみと激しい怒りを買うこにしかならなかったのです。主人の力は強大でした。主人の忍耐は限界を超え、主人は農夫たちを皆殺しにし、ぶどう園は、別の者に貸し与えたのでした。そして、この話を語り終えられたイエス様は、先ほどから議論を続けていたユダヤ教の祭司長たちに、問いかけられたのです。「ぶどう園の主人はいったい誰に、自分のぶどう園を貸し与えたのか」と。

もしかすると、このお話は、このように言い換えれば良く解るかもしれません。神様は、愛するイスラエルの民に神様の言葉をよく守り、神様への信仰を堅く守るならば、イスラエルの民に、天の国に招き入れる契約をされました。
しかし、イエスラエルの民は、神様に愛されていることを良いことに身勝手になり、神様の言いつけを無視して乱れた生活をし、さらには神様への信仰を反故にして自分達で作った偶像や他国から伝えらえて来た像を拝んだりして、神様が堅く申しつけられた信仰や互いの愛を蔑ろにするようになったのです。 それでもイスラエルの民を信じる神様は、忍耐強く、イスラエルの民が心を改めることを信じて、幾人もの預言者を使いとして彼らのもとに送りました。

預言者は、神様に命じられた通りに、イスラエルの指導者や民に、悔い改めるように説得を試みました。しかし、イスラエルの民、特にイスラエルの指導者にとって預言者の言葉は耳障りで非難がましく邪魔でしかなかったのです。
彼らは、預言者たちの口を封じるために、彼らを殺してしまいました。それでも、イスラエルの民が心を改めることを信じたかった神様は、最後の手段として、神様の御子を送り、御子にイスラエルの民が、神様の愛に応え、互いに愛し合うよう、そして悔い改めるようにと説得を試みました。

しかし、イスラエルの民、特に様々な特権を手に入れていていたユダヤ教指導者達には、律法と過去からの言い伝えに忠実な行為をすることが信仰であるという思い込みがあり、神の愛や互いの愛への関心は薄く、悔い改める必要も感じていなかったのです。彼らは、先の予言者達同様に、御子は、耳障りな言葉を語り、民衆の関心を買い、ユダヤ教指導者たちの邪魔をし、彼らの地位や財産をも危うくする危険分子でしかなかったのです。「この男を殺してしまえば、もう邪魔をする者はいなくなる」。そう考えた彼らは、この神がお遣わしになった御子を殺してしまったのです。そして、彼らに扇動されたイスラエルの民もこの御子の殺害に賛同したのでした。神様は、ご自分の御子を遣わしてまでしてイエスラエルの民を説得し悔い改めさせようとされたにも拘らず、イスラエルの民は神が差し伸べた最後の救いの機会を、最悪の手段で捨ててしまったのです。「ぶどう園と農夫」の話をこのように言い換えた時、イエス様はこのように問いかけられるのではないでしょうか。「神様はいったい、天の国に誰を招こうとされるのだろうか」と。

この問いへのヒントとしてイエス様はこう言われます。「聖書にこう書いてあるのをまだ読んだことがないのか」、つまり、42節のみ言葉です。「家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」これは、詩篇118篇22節から23節に書かれている御言葉です。そこには「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。」と書かれています。

ここで、「隅の親石」について、少しご説明をしておきたいと思います。イエス様が伝道をされていたパレスチナ地方の家の多くは、日本のような木造ではなく、石を積み上げて造られていました。そのため、家を作るときは、まずその基礎を作る過程で、家の四隅を決めなければなりませんが、その四隅のうち一番元になる隅を決め、そこに親石と呼ばれる大きな石を据えるのです。そしてこの親石を基に、家の残りの三つの隅が決められます。また、この親石は隅の縦の壁と横の壁を結び付け家全体を支える重要な役割を果たします。ですから、大工も、親石はとても慎重に選び、慎重にすえる作業を行います。良い親石を見出せる大工は優れた大工だと言えるでしょう。聖書では、「ある大工が捨ててしまった石が、別の大工に拾われて家で最も大切な石になった」と言うのです。これはまさに、
人々によって冷たく見捨て去られた方が、本当は人間にとって最も重要な存在だったということなのです。農夫達が殺してしまったぶどう園の主人の子は、実は全ての人間にとってかけがえのない重要な存在だったということなのです。人間の自己中心的な思いうやエゴによって捨てられた石を、神は初めから隅の親石として選ばれていたのです。それが、神の御子イエス・キリストだった、と聖書は語っているのです。

マタイによる福音書でも、イエス様は、幾度もご自分が苦難の末に殺されることを予告されていましたが、この時も、この問いかけを通して、ご自分がどのようになっていくかを予言されていたのです。「イエス様は、人々からは見捨てられたのですが、そのお方は、神が予めお選びになっていた、尊い、生きた親石だったのです」。それは、神の御業であり、イスラエルの人々から見捨てられ苦難の死を遂げられたイエス様が、復活されたという出来事においてはっきりと示されたことです。そして、イエス様は親石となられ、家をお建てになられました。私たち信徒の群れである教会が建てられていったのです。全ての教会が、私たちのマラナ・タ教会も、イエス様という親石によってしっかりと支えられ、どのような風雪にも、人間のエゴにも独善にもビクともしない、深く強靭な信仰によって支えられた教会があるのです。神は、イエス様によって、天の国を、この教会に据えてくださったのです。

さて、私たちは、イエス様の問いかけに戻らなければなりません。「ぶどう園の主人はいったい誰にぶどう園を貸し与えたのか」という問いかけです。それは、神様から愛された、まさしく皆様方お一人、お一人こそが、ぶどう園を貸し与えられた新しい農夫だったのです。この教会で祈り続ける私たち自身は、もしかすると、弱く、目立たず、輝かしくもなく、人々のエゴに泣かされ、多くの苦い思いと、今の苦しみと、明日の不安を負い、信仰も時には揺れてしまう小さな者のように思われてしまうかも知れません。しかし、神様は、私たちをよくご存知です。神様は、私たちを愛し、信頼して、ぶどう園を、私たちにお任せくださっているのです。神様は、この教会、マラナ・タ教会を、あえて私たちにお任せくださっているのです。なぜなら、イエス様が隅の親石となって、私たちを守り、支え、力付けてくださっているからです。そして、私たちは、そのイエス様を信仰し、全てにおいてイエス様にお委ねしているからなのです。私たちは、イエス様によって、強靭で、輝かしく、苦難をも乗り越え、信仰は何にも負けず、誰の前にあっても大きなものとなっているからです。先週のクリスマス礼拝での私たちが歌った賛美を思い出してください。あれほど偉大なものがあったでしょうか。それが許されているのも、私たちが、隅の親石となって教会を、そして私たちをお支えくださるイエス様によって貫かれているからなのです。

祈り
天の父なる神様、私たちは、イエス様が語られた、父であるあなたの御心を蔑ろにするような、あのぶどう園の農夫のような、あの時代のユダヤの民のような過ちを犯しているのではないかと恐れます。

しかし、あなたは、私達を神のみ心に従い、新しい力強い神の民としてくださいました。み心に生きさせてくださいました。主から託された私たちの人生のぶどう園は、着実に豊かな実りを与えられ、私たちの日々を生き生きとしていてくださいます。そして、私たちは、いつでも喜びをもってこの収穫をあなたにお返しすることができます。それは、主が、心豊かに生きることを許し、私たちを育てまた支えてくださっているからです。

この一年を振り返ると、私達が、いかにあなたのお支えによって、一時の苦難をも乗り越えて、多くの実りをいただいたことに気づかずにはおれません。またこのマラナ・タ教会が、愛の逃げ場所として、心の糧として、また砦としてくださってきたことを思い出さずにはおれません。それは私たちの大きな感謝でありました。その感謝は、主のご誕生の喜びと共に、私たちは、あのクリスマスで声高らかな歌声に込め、主がその、私たちの賛美と思いを微笑みとともに受け入れてくださったことを憶えます。

そして、さらに、私たちはこれからも、慈愛の神に支えながら、新しい年を迎えようとしています。この新しい年が、どうか喜びと、愛と健康に満ちた豊かな年となりますように。そして、その恵みを、より多くの人々分かち合えるマラナ・タ教会でありますように心から願います。
アーメン

 

11月25日の音声 森喜啓一

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