降誕節説教

2018年2月11日 降誕節第7主日

「キリストにおいてひとつ」

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

大阪教区河北地区の交換講壇
日本基督教団交野教会礼拝にて  久下倫生

おはようございます。前回交換講壇でお邪魔してから、ちょうど四年が過ぎました。時の経つ速さを思わされます。皆様とご一緒に礼拝できることを喜んでおります。今日は、わたしたちの信仰の根っこにあるとても大切な理解、教会とは何かについて、「エフェソの信徒への手紙」から考えてみたいと思います。

お持ちの聖書の付録にあります地図の8、「パウロの宣教旅行2,3」をご覧ください。エフェソは今のトルコにあります。当時はローマの属州でアジアと呼ばれた地方にあった大きな港町です。インドや中国などと区別して小アジアとも呼ばれます。ここはパウロが三年も留まって伝道し教会を作ったところとしても有名です。後にテモテが牧師をした町でもあります。場所からすぐわかりますように、これはユダヤの町ではありません。この当時、小アジアの人口の十パーセントくらいがユダヤ人であったと言われております。キリスト教の信仰は、ユダヤ教がベースになっておりますから、教会の中では人口比よりはユダヤ人が多かったと思いますが、それでも信徒の大多数はユダヤ人ではない異邦人だったことは間違いありません。

律法には関係なく、ユダヤの伝統とは別に新たにイエス・キリストの福音を受け入れ、神の御前に義とされたと信じた人々と、律法をずっと守り続け自分たちは祝福された神の民だと思っていたユダヤ人との信仰の違いは決して小さくはありませんでした。ユダヤ人と異邦人が混ざり合った教会でいろいろな行き違いがあったのはむしろ当然のことであります。しかし、些細なことではなく信仰上の根本的な行き違いをそのままにしておきますと、ギリシアの豊かな教養や哲学を身につけていた知識人たちの影響で、福音の理解が彼らの理想とする信仰にどんどん傾いていく恐れがあったことが容易に想像できます。信仰に関する基本的理解が逸れていき、やがてはキリスト教とは言えない別の教えになってしまう危険性さえありました。イエス様が弟子たちだけに語った秘密の教えがあると考え、それを理解し救われようとした、そんな人もいたのです。この人たちにとっては、旧約聖書は、霊的な言葉などではなく、この世界という物質にかかわる悪しき言葉でした。パウロはそのことに心を痛め、キリスト信仰とは何かを懸命に語ることによって、ユダヤ人が信じてきた教えとキリストを信じる信仰との間には分離がなく、異邦人もユダヤ人も同じ信仰を共に生きることができると説きます。これまで律法で規定されてきた神の義と、新たにキリストによって与えられる神の義は、別物ではなく同じ線上にある、大切なのはキリストの中にとどまる信仰だと語っております。キリストの中にとどまるなら、同じ一つの信仰であって、区別はないのだというのです。

異邦人とは、今日一般的に使われます外国人という意味ではなく、「割礼のない者、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた者」(十一、十二節)という意味で、ユダヤ人が外国人を差別して使った表現です。「この世で希望がない、神知らずに生きる愚か者」という強い差別語です。バカにしていると言ってもいいのです。ですから十一節で「あなたがたは」と呼びかけているのも、「みなさんは」とわたしたちが言うのとは違う、特別な響きがあります。「あなたがたユダヤ人でないものは」と、多数派の信徒に少数派のユダヤ人とは区別して呼びかけているのです。この一言だけでも教会の中に無視できない対立があったことがうかがわれます。異邦人からすれば、ユダヤ人は古くさい民族固有の伝統や戒めを引きずった頑固者であり、自分たちユダヤ人でない者こそがキリストの教えを正しく実践しているという自負があったに違いありませんが、ユダヤ人の側からすれば、今や多数派となった異邦人キリスト者は形だけの、あるいはギリシア流の知的ではあっても頭でっかちの、律法の実践を伴わない信仰者なのだという意識があったでしょう。ユダヤ人には根深い民族意識、選民思想がありました。わたしたちには昔から神との契約があるという強い誇りがあり、ユダヤ人キリスト者は少数派ではあるけれども本物の「お勤めをする」律法に忠実なキリスト者であるという意識を持っていたのです。こういう意識は、説教しているパウロ自身も否定しておりません。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(ガラテヤの信徒への手紙二章十五節)と、ユダヤ人の気持ちを、エフェソと同じ小アジアのガラテヤの信徒に宛てた別の手紙で語っております。そんな異邦人に向かってパウロは言うのです、「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(十三節)と。

これはわたしたちの信仰生活に深くかかわる重大な問題をはらんでいます。わたしたちプロテスタントは長い教会の歴史に直結していなくても、今自分たちなりに信じたらいいのだ、人は信仰によって救われるのだと教えられてきました。教会の教えや牧師の勧め、教団の議長の言う事などとは関係ない、お前がどう信じ、どう生きるかだという意識がすごく強いからです。わたしは正直に言いますが、教団の議長や教区の議長が公に発言なさっても、カトリック信者が、ローマ教皇や司教の発言に敬意をもって耳を傾けるような姿勢を持っておりません。しかし、たとえ教職の制度が違うにせよ、果たしてそれでいいのかどうか。信仰とは自分の信じるところに従う事に違いありませんが、プロテスタントがずっと誇りにしてきた、「教会や人の教えではなく、聖書の教えに従うのだ」という姿勢と、今エフェソ書でパウロが問題にしている異邦人の信仰理解は、伝統と断絶している点で明白に重なっています。エフェソ書を読むと、わたしたちの信仰の根本にある教会理解を問われることになります。

少し本題から離れますが、エフェソ書にはイエス・キリストではなく、キリスト・イエスという言い方がよく出てきます。聖書を注意深く読んでおられる方のためにひとこと説明しておきますと、この二つの違いはその前にある単語が子音で始まるか母音で始まるか、単に発音上の問題だけで根本的な差はありません。子音で始まる場合は「ディア・イエスー・クリストゥー」「イエス・キリストを通して」のようになりますが、母音で始まる場合は「エン・イエスー」とは母音が重なって言いにくいので「エン・クリストー・イエスー」「キリスト・イエスにあって」という語順になるのです。かつてうちの教会員の方から質問を受けたことがありますので、皆さんにもお分かちしておきます。

さて続けてパウロは言い切ります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(十四~十五a節)。敵意があるところで対立する両者に向かって、あなたはこういう点が悪い、先方はこういう点がよくない、お互いに反省し譲り合って仲良くしなさいという勧告は機能しません。キリストは御自分の肉を裂き、血を流すことによって、二つのもの、ユダヤ人と異邦人、その間にあった「敵意という隔ての壁」を取り壊して平和を実現なさったのです。対立する両者の間に割って入り、ご自分の命を捨てることによってお互いが赦し合えることを実際に示し、決して仲直りのできない両者を「御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」(十五b、十六節)のです。

キリストはご自分において、対立する両者を一つの体に造り上げて平和を実現してくださった、敵意を滅ぼされた、これは実に重い言葉です。旧約聖書に約束されたメシア、つまりキリストは、「平和の君」(イザヤ九章五節)です。戦争がないとか、休戦状態を意味する平和とは全く次元が違います。平和とは、何といっても神との平和です。神と和解し、神と新しい関係、正しい関係「義に生きる」ことができるようになることです。それが平和の第一の意味です。ヘブライ語のシャロームは深い意味があります。そしてこの平和が次の平和をもたらします。それが、文化や宗教の分断を超えて対立する二つのものを結びつける平和です。「神と人との上下の、垂直関係の平和」がまずあって、それから「人と人との横の、水平関係の平和」が生まれます。律法の有無による、深刻に対立する二つが一つに結び合わされるのは、神の新しい民となったキリスト者が、神の家族として一緒に住む、生活する場所において見いだされます。わたしたちでいえば教会、この当時の人にとってはエクレシアと呼ばれる信仰共同体です。

対立する者が一つになれるというのは、何か精神的なことではありません。「キリストの中」での出来事です。キリストにおいて、ご自分において、キリストによってと訳されている言葉は、すべて「エン・クリストー」です。イン・クライスト、「キリストの中にあって」なのです。この「中にある」という言い方は、新約聖書のパウロ書簡を読むときにはカギとなる実に大切な言です。よく理解せねばなりません。「マラナ・タ教会は枚方にあります」という時、英語では「イン・ヒラカタ」といいますが、それははっきり境界線の中にあることを意味します。寝屋川でもない、交野でもない、枚方にあるのだ、とはっきりと区別されています。キリストにあってという時、何か精神的なことや、価値観の一致を謳っているのではないのです。このことが信仰者によく理解されておりません。「キリストにおいて」とは教会の中でというに等しいのです。ある老牧師が「俺は信仰のことばかりを考えてきたが、教会がわかってなかった。それはキリストがわかってなかったのだ」と感慨深くおっしゃったことをよく覚えております。教会はキリストの体です。

「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(十七、十八節)。キリストは人となってこの世に来てくださり、神の国が近づいた、神のご支配が来たのだと福音を知らせてくださったのです。パウロはユダヤ人です。イエス様もペトロもユダヤ人です。神との関係や律法を大切に思っていることは昔も今も変わりません。パウロには大変な誇りがあり、異邦人を心の中で馬鹿にしていたことは彼の言葉から明らかです。しかし、異邦人とユダヤ人がキリストの中で、キリストの信仰を媒介として一つとなるとき、律法にこだわる必要なく、ともに神に近づくことが出るのだとパウロは言うのです。

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(十九~二十二節)。

日本の大きな建造物には大黒柱と呼ばれる中心となる柱が真ん中にありますが、ユダヤでは神殿の様なしっかりした建物を建てるとき、日本とは異なって、四隅に大きなしっかりした検査済みの石を据えます。建物の最も大事な決め手になるのが、この隅の石です。隅の親石とも呼ばれます。この「かなめ石」が、キリスト・イエスご自身なのだとパウロは言います。その上に「使徒や預言者という土台」が積まれています。使徒とは新約聖書の教え、預言者とは旧約聖書の教えを指しております。福音と律法と思い切って言い換えてもよいでしょう。キリストの上に律法も福音も載っているとは驚くべき言葉です。そしてさらに、その土台に支えられて、今や外国人でも寄留者でもなく神の家族となったあなたがたが生きた石として積まれていると言うのです。ここに初めて、ユダヤ人と異邦人が一つにされうる根拠が明らかにされております。キリスト・イエスが「かなめ石」であって、キリストの中で、建物が組み合わされております。

学者によっては、土台である隅の親石のことを「かなめ石」と呼ぶのではなく、天上のアーチの頂点の石であるとする人もいます。一番上の頭(かしら)石、あたまの石と書きますが、この石が無くなれば、すべてが崩れ去る、これなしにはもはや建物があり得ない、そういう石のことです。いずれにしても「かなめ」となる大事な石です。パウロは少し前に「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成し、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」(一章十節)とも言っています。すべての土台であるキリストは頭でもあります。

たくさんの違う石が、組み合わさって一つの家となります。家とは、人の住むところですが、元の言葉には神の家という意味も有ります。家「オイコス」は、現代でも大切な意味を持った言葉です。人の住むところという意味から、広く世界を指す場合もあるのです。現代神学の重要な言葉「エキュメニカル」は、オイコメニュカルです。家をやりくりすることをオイコノミー、経済といいます。対立していた違う者同士が、組み合わされて共に建てられる、家になる、神殿になるとパウロは言います。そのような神の家はどこか遠くにあるのではないのです。あなたがた異邦人とユダヤ人が共に建てられ、家になり、霊の働きによって、すなわちキリストによって、神殿、神の住まいとなるのです。神殿となる、わたしたちは自分が神殿だなどとおおげさには思わないでしょうが、そうなのです。人々から見捨てられ十字架にかけられ、神に復活させられ新しい神殿を建てるための「かなめ石」となられたイエス様。そのイエス様に寄り頼んで組み合わされ神殿とされる一つ一つの切り石こそ、わたしたちなのです。この大切なイメージは、ペトロも同じことを言っております。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Ⅰペトロ二章五節)。家ができますと、そこに住むのが家族です。神の家族は、神の家に一緒に住むのです。これは当時も今でも驚くべきことです。「キリストの中で」、対立している二つが一緒に住むことができる、真の平和に生きることができるのです。これがわかれば、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の対立はもちろん、カトリックとプロテスタントとの不要な対立は解消されるはずです。カルヴァンな人とウェスレーな人、主流派と非主流派の違いなど微々たるものです。パウロは言います。「今や律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と。これはローマの信徒への手紙に出てくる有名な言葉ですが、福音の中心主題です。律法と福音は一直線上にあります。旧約律法に立証されて、新約聖書にあるキリストの信実(信仰、ピスティス)を介して、人は神の前に義に生きられることが示されたのですから。

わたしたちが形づくっているのは、もちろん「霊的な家」ですから、建造物のことではありません。イエス様の弟子たちの時代から週毎に各地に集まり礼拝を捧げていた信仰者の共同体。そして二千年後の今、ここに集まっているわたしたち。それを神は「霊的な神殿」としてくださっているのです。キリストの中で、わたしたちは神殿を作る石として用いられて建てられ、今も霊の働きによって神の住まいとされています。霊の働きによって、教会は建ちあげられ、教会として日々成長しています。そして、イエス・キリストこそがその建物の土台、無くてならない「かなめの石」なのです。この大事なことを、わたしたちは覚えておかなくてはなりません。「教会の教えではなく、聖書の教えだ」でも「信じたらいいのだ、信仰によって救われるのだ」でもありません。対立する者を一つにし、平和を実現してくださった、キリストの中に生きる、これこそがわたしたちの生き方であり、信仰生活なのです。

祈ります。

父なる神、イエス様が平和をくださったゆえに、わたしたち異邦人であった者も、異なるところがあっても皆同じように、使徒や預言者の上に積み上げられ、神殿を形成する切り石とされました。神の家族とされ、神の家に住まう者とされた、この恵みに深く感謝いたします。一つの霊によって結びあわされ、大きく造り上げられた世界の教会が、これからも豊かに成長し続けていくことができますよう導いてください。一人でも多くの人がキリストのお体に与る者となれますように。平和が実現しますように。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月11日の音声

 

 

2018年2月4日 降誕節第6主日

「安息日に人をいやす」

マタイによる福音書 12章9~21節

「イエスはそこを去って、会堂にお入りになった」(九節)とあります。「そこ」とは、先週の代読説教の場面、弟子たちが麦の穂を摘んで食べ、ファリサイ派の人々に「安息日にしてはならないことをしている」と非難された場所です。麦の穂を摘んで食べるために殻を取ることは、「収穫」「脱穀」という仕事に当り、安息日にしてはならないことになっていました。安息日は「仕事」をすべてやめ、休むべき日でした。

イエス様はこのファリサイ派の批判に対して旧約聖書を引用して答えられました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。預言者ホセアが語った神の言葉です。神が安息日を人に与えられたのは憐れみによるのであり、憐れみはいけにえよりももっと神が歓迎されるものであることを知らないのかと指摘されたのです。空腹でひもじい人が、目の前に食べ物がありながら安息日だということで何も食べられずに過ごさなければならないようなことは、神の憐れみに反する。あなたがたは掟を守ることだけに気を取られて、律法に示されている神の憐れみを見失っているではないかと、ファリサイ派に向かっておっしゃったのです。言い方はソフトですが、神が下さった律法の本来の意味をズバッと急所を突いてお話になりました。強い反撃です。

本日聞きましたのは、その続きの出来事です。「安息日」とは何かが問われます。イエス様は会堂にお入りになりました。会堂としか書かれていませんが原文では、「彼らの会堂」となっています。ファリサイ派の人たちが、主導権をもって民を指導しているユダヤ会堂です。会堂では人々が集まって律法を学び、祈り、安息日にはわたしたちも守ります「礼拝」をいたします。イエス様はそのユダヤ会堂にお入りになったのです。「すると、片手の萎えた人が」(十節)いました。おそらく片手では仕事ができなかったでしょうから、収入もなく定められた捧げものもしていなかった人ではないかと想像できます。周りにいた人々は、この人のことを念頭において、イエス様に問いかけます。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と。これはもちろん質問ではなく、罠です。イエス様を訴えようと思って聞いたのです。「人々」という言葉は原文にはなく、誰が尋ねたかははっきりとは書かれておりませんが、間違いなく「ファリサイ派の人々」でしょう。ファリサイ派はイエス様が、病人や体の不自由な人を癒しておられることに強い警戒心を持っておりましたが、癒しそのものは非難される行為ではありません。しかし安息日に癒しがなされるとなれば、話は別です。律法違反です。片手の萎えた人が目の前にいれば、きっと癒しをなさるに違いないと予測したのです。人をいやすことは明確に医療行為、仕事です。安息日にしてはならないことなのです。人々が集まっている会堂の真中で安息日に堂々といやしがなされたなら、多くの証人の前でイエスという男は意図的に律法違反をしたと訴えることができます。罠にはめようとして、いやしを暗に促すように言ったのです。それをきっかけにイエス様の民への影響力を弱めるか、もしくはユダヤ社会から抹殺しようとしたのです。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。

イエス様の答えはこうです。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。「安息日でも善いことをするのは許されている」。この「許されている」は、「正しい、適切である」という意味です。「安息日に良いことをするのは、正しいことである」と、真っ向からファリサイ派にぶつけられたのです。その理由としてお話になっているのが、羊が穴に落ちたら助けるだろうという話です。穴に落ちた羊がいたら、安息日であっても手で引き上げてやるのは当然ではないかとおっしゃいました。ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、当時このようなことを真剣に議論していました。安息日にどこまでのことはしてよいか、どこから先はいけないかと。例えばこのように羊が穴に落ちた場合はどうするのか。羊を手で引き上げることは「仕事」に当ります。わたしが一九八〇年代にイスラエルに行ったとき、ホテルのエレベーターは、安息日には各階に止まりました。それは、行先階のボタンを押せないからです。ボタンを押すことすら労働と考えられているのですから、羊を穴から助け上げることは立派な仕事です。だから許されない。ただ、その羊が、すぐに治療をしなければ死んでしまうような緊急事態になっているなら、引き上げることができる、そんな場合には例外が認められる、しかしそうではなくて、一日くらいそのままでも大丈夫ならば安息日が終ってから引き上げるべきだ、そんなことを一生懸命議論していたのです。つまり彼らの関心は、安息日の掟を始めとする律法を正しく守るにはどうしたらよいか、ということだったのです。それに対してイエス様は、安息日だろうとなかろうと、また羊が死にそうかどうかの緊急性などに関係なく、穴に落ちた羊を引き上げてやるのは当然だと言われます。イエス様はそこで、穴に落ちてしまった羊だけではなく、羊の持ち主をも見ておられます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて」、たった一匹の羊を持っている人の話をしておられるのです。羊はたくさんいて群れになっていて初めて羊です。一匹の羊というのは特殊なことです。一匹の羊をかけがえのない生活の支えとしている貧しい人が連想されています。その人はただ一匹の羊に頼って生きているのですから、必ず助けるはずです。当たり前の行動です。安息日であっても羊を引き上げるのは善いことだと、イエス様はおっしゃったのです。掟よりも人を、貧しさに苦しむ人に思いを寄せられたのです。父なる神の「憐れみ」を示されました。そして、神にとって「人間は羊よりもはるかに大切なもの」(十二節)なのであるから、人間に対してよいことをするのは、もちろん許されているとおっしゃったのです。神は人間を羊よりもはるかに大切だと思っておられます。一人一人の人間を本当に大切に思っておられ、一人でも、飢えたり、傷ついたり、悲しむことがないようにと願っておられるのです。本来、安息日を守る掟も、その憐れみによって与えられているものです。人はだれでも神の恵みの中で、一週間に一日、安息を与えられ、神の憐れみの中で憩うことができるのです。たとえ奴隷であっても、動物であってもそうです。そのために安息日はあるのです。神のご意志は憐れみです。ですから、安息日にいやしの業をするのは正しいことです。しかし、ファリサイ派の人々は、いま目の前に片手の萎えた人を見ていながらも、その人の苦しみや悲しみに共感する痛みは感じていません。考えているのは、「イエスが今日、安息日にこの人を癒すなら、それは律法違反だから訴えてやる」ということだけです。この人がいやされようと苦しみの中に留まろうとどうでもいいのです。どうせこんな風に片手が動かないのは罪びとだからに違いないと思っていたでしょう。しかし、イエス様はこの片手の萎えた人を見ておられます。彼の苦しみと悲しみを知って憐れんでおられます。「手を伸ばしなさい」と言われました。彼がおそるおそる伸ばすと、この人の萎えた手はいやされ元通り良くなったのです。イエス様が神の慈しみを示し、恵みを与えて下さったのです。それがこの癒しです。

このみ業は、安息日に、会堂の真中でなされました。この人の病気は今にも死ぬかも知れないというような緊急性はありません。日が暮れれば安息日は終わります。あと数時間のことです。それから人々の見ていない所でそっといやしをすることもできたはずです。しかし、あえて安息日にファリサイ派が見ているところでいやしをなさいました。これはファリサイ派に対するあからさまな挑戦です。かれらは律法を厳格に守ることだけを考えていました。律法を与えられた神の憐れみを見ず、律法を根拠に権威をふりかざしていました。そこで「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(十四節)のです。カンカンに怒りました。「なんとしてもイエスを殺そう」という思いがはっきりしてきました。埋めることのできない溝ができ、イエス様を十字架の死へと追いやっていく最初の一歩がここに記されたのです。救い主は、父なる神の憐れみを実現するために、この地上に来られました。人々が本当の安息を得るために、安息日の主としてこの世に来られました。しかし、人はその救い主イエス様を、本当の安息を与えて下さる安息日の主を、あからさまに掟を破る者、神に逆らう者として拒否し殺そうとするのです。神様が下さる安息をいただくのではなくて、自分が掟を守って正しく生きることによって安息を得ようとするところに、こういうことが起こります。正直に言いますが、わたしはかつて自分がファリサイ派によく似ていたなと思います。わたしだけではないかもしれません。

「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」(十五節)。さすがに殺されるかもしれないと知って、イエス様は会堂から立ち去られました。イエス様を受け入れずに敵対するイスラエルの指導者たちの前から身を引かれたのです。そんなイエス様に「大勢の群衆が従った」とあります。多くの人がファリサイ派ではなく、イエス様に従ったのです。新しい群れができました。「イエスは皆の病気をいやして」とあります。ファリサイ派の会堂から立ち去った後も、いやしを続けられました。そして「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(十六、十七節)とマタイは言います。そして、次のように引用されています。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」(十八~二十一節)。マタイは、イザヤ書四十二章一~四節を引用したかったようです。今わたしたちが持っている聖書ではこうなっております。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」(イザヤ書四十二章一~四節)。ここには神がこの世に送る救い主の性格が預言されています。

「わたしの心に適った愛する者」という言葉は、イエス様が洗礼をお受けになったとき、天から聞こえた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声と結びつきます。このとき神は、イエス様がご自分の子であることを人々に示されました。ナザレのイエスこそ、イザヤが預言した、神が民の救いのために遣わされる僕なのです。この「僕」という言葉は「子供」という意味もあります。救い主は神の御子なのです。そして、神の僕、神のみ子は「異邦人に正義を知らせる」のです。神の救いは、異邦人にまで及んでいきます。異邦人とは、神の民でない、救いの外にいる者たちという意味です。

ファリサイ派は、ユダヤ人であってかつ律法をきちんと守る者こそが、神の民だと主張しました。人を律法によって厳格に分けておりました。障害のゆえに律法を完全には守れない、例えばここにいた片手の萎えた人を、見下していたのです。彼らがこの人をだしに使ってイエス様を訴えようとしているところに、それが感じられます。つまりこの片手の動かない人は神の民の一員とは思われていない、異邦人や罪びとと同じ扱いをされていたのです。キリストの救いは、そのような人にも及ぶのです。イエス様のもとに集められる新しい群れは、そのような人々をも包み込んでいくのです。

イザヤ書では「彼は国々の裁きを導き出す」とあります。マタイが言う「正義」クリシンにあたるヘブライ語ミシュパートは「裁き」とも訳せるもので、むしろ「裁き」という方がよく出て来ます。神の裁きです。神がわたしたち人間を裁かれるのです。人は神の判決を受けます。有罪か、無罪か、裁きとはそのように白か黒かをはっきりと分けることです。イエス様を通して、神の裁きがなされるのですが、その裁き主の性格はこうです。「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義(つまり裁き)を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」。イエス様の活動は、隠されたものであり、同時に、平和に基づくものです。傷ついた葦は何の役にも立たないので捨てられますし、くすぶる灯心は切り取って新しくしなくてはならないものです。しかしイエス様はくず同然の葦を折らずにとっておかれ、くすぶる灯心もそのままで輝かせられるのです。イエス様の最終的な裁きの勝利、無罪の宣告へと向かう歩みは、傷つき、弱り、衰えて力を失っている者を、大切に養い守り育てて下さる慈しみに満ちた歩みです。その慈しみがあるので、イエス様は、穴に落ちた羊を安息日であっても引き上げるのが当然だと言われました。片手の萎えた人を、安息日に、自分を訴えようと考えている人たちの目の前でいやされたのです。その結果、十字架への道を歩まれることになります。

マタイはここで、神の国の王、救い主イエス様のそのご生涯全体に目を向けています。罪深い人間は、神の裁きの前に立たされれば、有罪の判決を受け、滅ぼされるしかない者です。神の前で有罪の判決を受けるはずのわたしたちのために、主イエス・キリストは、わたしたちの罪を負ってくださいました。救い主が十字架にかかって死んで下さいました。「異邦人は彼の名に望みをかける」。本来救われないはずの異邦人も、メシア、キリストという名前に望みをかけます。この後その望みは成就していきます。イエス様はご自分の身を犠牲にして、傷ついた弱いわたしたちに憐れみを与えて下さるのです。わたしたちは有罪から無罪へと移されました。神の憐れみこそ、イエス様のもとに集められる新しい群れの土台です。マラナ・タ教会は、この神の憐れみによって生かされております。なんと幸いなことでしょうか。

祈ります。
父なる神、御子イエス様をこの世に送ってくださりありがとうございます。イエス様はあなたの憐れみをわたしたちに示し、わたしたちのために十字架にかかってわたしたちが罪赦されあなたの前に立てるようにしてくださいました。感謝します。これほどの憐れみを受け救い主の姿を見ながらも、時として自分がファリサイ派のように人を分け隔てしていることに気づきます。どうか、わたしたちがキリストというお名前に望みを置き、感謝をもってイエス様と共に歩んでいくことができますよう支えてください。わたしたちを癒し、神の国に生きる者としてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

 

2月4日の音声

 

2018年1月28日 降誕節第5主日

「安息日の主」

マタイによる福音書 12章1~8節

マタイによる福音書は十一章以降、イエス様につまずいた人々について語っております。最初はバプテスマのヨハネの疑いでした。続いて直接に伝道なさった町々の人々です。イエス様から話を聞き、奇跡を見たにもかかわらず悔い改めないでイエス様を無視しました。十二章からは、ファリサイ派や律法学者が、そしてイエス様の家族が登場します。イエス様は驚くほどはっきりと、かえってつまずきを与えるようにお語りになります。ファリサイ派は、神に喜ばれるように日々努力していた人たちですし、家族は、救い主イエス様に最も近かった、一番信じるチャンスの多い人のはずでした。しかし、その人たちがつまずいております。最終的な対決を予感させるこの福音書の中央部に入ってきています。読むわたしたちも、イエス様に対する態度を決めねばなりません。

わたしは何度も「つまずき」という表現を使いましたが、つまずきもいろいろありました。バプテスマのヨハネは疑いがすっかりは晴れなかったという程度ですが、イエス様の奇跡を目の前で見た人々は、それを理解せず悔い改めなかったと、もっと厳しく断罪されておりました。今日聞きましたファリサイ派の場合は、つまずくというよりも、公然と敵意をむき出しにしております。イエス様を面と向かって非難しております。それどころか今日聞きましたすぐ後に描かれるのですが、暗殺計画すら企てております。主がなさった奇跡を見て、悪霊の力を使っていると非難したり、神の子である証拠を見せろと要求したりしております。

さてファリサイ派は、イエス様の説教と癒しに苦々しい思いを抱いていたようです。何とかこの運動を止めさせ、イエス様に注目が行かないようにしておりました。もし無知な人々が惑わされてメシアが来られたと熱狂的になり、「打倒ローマ」を叫んで立ち上がりでもすれば、ユダヤに将来はない。ローマ軍が介入して国は滅ぼされるだろうと感じていたからです。しかし実際にイエス様を黙らせる、もしくは消し去るとなりますと大義名分が要ります。そこで彼らが目を付けたのが安息日の遵守です。安息日を守るのは、ユダヤ教徒にとっては最も大きな教えの一つでした。安息日を守らないのは、神の創造と、イスラエルへの祝福を無効にする背信行為です。それぐらい悪い行為です。あの人は安息日を守らない人だとなれば、誰もが殺されても仕方がないなと納得します。ファリサイ派とイエス様の対立は大変目立っており、記憶に残る出来事だったのでしょう。マルコもルカも、同じ出来事を伝えております。

「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」(一節)。そのころとは「いつか」を示すのではなく、話が始まるときのマタイの言い方です。しかし、内容上も十一章二十五節から三十節に繋がっています。ファリサイ派は神の真理が見えない「知恵ある者や賢い者」に、弟子たちは、逆に「幼子のような者」、神の真理に与る者と考えられますし、イエス様の「負いやすい軛」は、罪の赦し、「憐れみ」に通じているからです。さて、イエス様とファリサイ派の対立が激しくなって表面化してきた、ある安息日のことでした。麦の穂が実る頃ですから、春から初夏でしょうか。なぜ安息日にもかかわらずイエス様のグループが旅をしていたのか、なぜ断食日でもないのに腹が減るようなことをしていたのか、詳しい事情は書いてありません。ただ弟子が空腹であったとだけ記されております。麦畑を通るときに、空腹な人が自分の分だけ穂を手で摘んで食べるのは、この当時のユダヤでは、申命記の規定により何ら問題にはならない行為でした。旅人や貧しい人のために、道端の麦はわざと食べられるように残してあったのです。問題なのはこの日が安息日だったことです。

「ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに『御覧なさい、あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている』と言った」(二節)のです。ファリサイ派の人々はこれを見逃しませんでした。見張っていたのでしょう。偶然見たにしては話がうますぎます。何か問題を見つけ出して糾弾してやろうとしていたのです。売り上げを伸ばしたい週刊誌の記者が政治家や芸能人を執拗につけまわしているような、悪意ある行動だったと考えられます。鬼の首でも取ったような言い方をしているのを見るとわかります。「安息日にしてはならないことをしているぞ」と。金曜日の日没から土曜日の日没までは、すべてがお休みです。労働も刈入れも禁止でした。男の子に割礼をすること、食事の規定を守ることと並んで、安息日には何もしないというのは、最も大事にされていた大切な戒めです。ついうっかり、無意識に規定を破ってしまった時は、罪のためのいけにえを捧げればよかったのですが、もし意識的に安息日を破れば、殺されても文句は言えなかった時代です。それぐらい強い規定でした。神に忠実かどうかの基準でした。イエス様の時代の規定では、安息日には紡ぐことも、麦の実を取り込むことも、もみ殻を捨てることもしてはいけないこととされておりました。それで安息日にしてはいけないことのひとつ、麦の穂を摘んだと弟子たちは非難されたのです。

「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか』」(三、四節)。ファリサイ派の批判に対してイエス様は弁解なさいませんでした。事実、弟子たちは穂を摘んで食べたのですから。また、ユダヤの規定は厳しすぎて現実的ではないなどともおっしゃいませんでした。聖書の言葉を挙げて反論なさいました。読んだことがないのか、というのは律法の専門家に対する鋭い皮肉です。彼らはよく知っていたのです。サムエル記上の二十一章に書かれている有名な話です。ダビデがサウル王の追手から逃れて、祭司アヒメレクのもとで、お供えのパンを食べたという出来事です。律法の規定に違反してはいるが、緊急事態であり、事実この時ダビデは誰からも非難されていないではないか。このイエス様の反論にはファリサイ派は驚いたでしょう。まさか聖書の言葉で、反論されると思っていなかったので、怒りがますます激しくなったと思われます。

さらにおっしゃいました。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にはならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」(五、六節)。祭司は、安息日であっても勤務しており、備えのパンを用意したり、そのパンを新しいものに変えたり、犠牲の動物を殺したり、そういう仕事は違反とはみなされませんでした。規定に縛られていなかったのです。このことについてもイエス様は、「律法にあるのを読んだことがないのか」、「いや、必ず読んでいるはずだ」という反語から聖書の議論にもっていかれました。そして、「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」と、おっしゃったのです。「言っておくが」とは大事なことをよく聞いてほしいときに主がおっしゃる表現です。あなた方に言うが、神殿の祭司が安息日の規定に縛られないのなら、ここに神殿よりも偉大なものがあるではないか。「偉大なもの」は文法的には中性ですので、イエス様の教えとか、イエス様の権威とか神のご支配を指すのかもしれませんが、イエス様が自分のことを指しておっしゃったと考える方が自然です。この時代のギリシア語の使い方では、男性形と中性形の区別は厳密ではなかったことが分かっております。もしそうなら、これはすごいことをおっしゃったものです。「わたしは神殿よりも偉大である」と。

そもそも安息日の規定は、奴隷をはじめ弱い人々が生きやすいようにと、神が定められた規定であって、その根っこには憐れみがあふれているのです。安息日は大事な規定です。しかし、ファリサイ派は、安息日の規定を守ることにのみ目が行って、もともとの憐れみを忘れてしまっていたのです。イエス様は、安息日の食事規定に触れて、安息日を守ることよりも憐みのほうがもっと大事であり、その憐みこそが、神の律法の精神である、ご意思の中心にあるものだとおっしゃったのです。

そして、続けて「もし,『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(七節)とおっしゃいました。イエス様は旧約聖書の預言者の言葉を使って、弟子たちを弁護なさいました。ホセアの言葉を使ってもう一度、「神が求めておられるのは規則を守ることではなく、『憐れみ』を実践することだ。このことをしっかり認識しているなら、つまり旧約聖書をちゃんと読んで理解しているなら、わたしの弟子たちの行いにいちいち目くじら立てるようなことはしないはずだが」とたしなめられたのです。これも聖書の言葉を真剣に学び、御言葉に生きようとしているファリサイ派にとっては、耳の痛い皮肉、グサッとくる言葉だったはずです。毎週交読文で読みます詩編五十一篇十九節「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」を思い出す言葉です。九章で聞きましたが、マタイを召されたあと、「徴税人のような罪びとと一緒に食事をするのか」とファリサイ派に詰問された時にも、同じことをおっしゃいました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。このホセアの言葉は、イエス様のお気に入りの言葉だったのでしょう。ファリサイ派は律法の専門家でありながら、律法の精神をよくわかっていなかったのです。以前すでに、この言葉を学べと言われておりましたが、彼らは全く無視していたのです。ここで再びホセアの言葉を突き付けられたのです。

そして最後にこうおっしゃいました。「人の子は、安息日の主なのである」(八節)。「人の子」とは、イエス様がご自分を指して言われた独特の言葉です。では「安息日の主」は何を意味するのでしょうか。安息日の主とは言うまでもなくイスラエルの神です。ですから、人々は安息日にヤハウェなる神を礼拝していたのです。ここでイエス様が自分は「安息日の主である」とおっしゃったということは、「自分は神である」と主張なさったことになります。あまりにも驚くことで、ファリサイ派だけでなくイエス様の弟子たちも先生が何をおっしゃっているのか分からなかったはずです。わたしは商売で新興宗教の教祖になったら儲かるので、自分は神だとか、「仏の生まれ変わり」だと言った人は知っております。堂々と世に対して自分は世界最高神、エルカンターレだと言った人は今も生きておりますが、意図して人をだまそうとして言っております。しかし、もしそうではなく、本心で言う人がいたら、これははっきりさせる必要があります。その人の言うことは本当か、それとも単に頭がおかしいのか。このとき、ファリサイ派も弟子たちもはっきりさせておりません。イエス様の言葉に誰もが自分を見失った感じがします。マタイの書き方では、ここで話が終わってしまって、みんながどう思ったのかは書かれておりません。納得したのではないことは確かですが、反論もできなかったようです。しかしこの後すぐ、十四節で分かりますのは、ファリサイ派はイエス様を殺そうとし始めたことです。人が自分を神だとすることは、とんでもない神への冒涜です。この男は気が狂ったのだと思ったことでしょう。ただおかしいというだけでなく、殺すべき人間だと思ったのです。彼らには神の御子が見えませんでした。見ても見えず、聞いても悟りませんでした。

イエス様より以前は、人は神殿において神と出会いました。神の民は神殿で神と出会うことができました。もちろんありのままの自分ではなく罪を赦してもらってからです。そのために犠牲を捧げたのです。自分の罪を山羊などに移して、その山羊を殺します。身代わりの罪を負った動物が死にます。そして罪のない自分になって神に出会うのです。ですから罪のない清い動物に自分の罪をかぶせて捧げものに使います。新しい神の国では、もう動物の犠牲は必要なく、イエス様の血を通して、イエス様の信実を介して、神に出会うことができるようになりました。神に出会うのに血を流さなくてもよくなったのです。しかし、この時点では、そんな神秘はまだ誰も分かっておりません。新しい神の救いの奥義は明らかになっておりません。にもかかわらずイエス様は、ここに神殿よりも偉大な者がいるとはっきりおっしゃったのです。これではファリサイ派は、ますますイエス様を殺そうと思ったでしょう。自分は神だと言っているのと何ら変わりません。人間であるのに、自分を神だとするのは大変な冒涜です。わたしたちは十字架と復活の出来事を知らされていて、イエス様を神の子だと認めておりますが、この時もしファリサイ派と一緒におれば、わたしもイエスなんて野郎は殺してしまうべきだときっと思ったでしょう。この時のファリサイ派の反応が書いてないのが不気味です。あまりにも衝撃的で、たじろいだのかもしれません。

では、いったいわたしたちは、安息日の主であるお方にどう向き合っているでしょうか。律法学者のように、安息日を単なる規則として守らなくてもいいでしょう。自分はクリスチャンだ、クリスチャンだといって、自分の信仰を誇示して「クリ・クリしなくてもいい」のです。でも逆に仕事だ、用事だ、介護だと、忙しいので礼拝に出られないと弁解がましく「クヨ・クヨすることもない」でしょう。喜んで礼拝したらいいのです。もし休めない仕事があるなら、イエス様の工作員になって、爆弾を仕掛けてくるつもりで仕事をしましょう。安息日には、「ウキ・ウキして」礼拝する。喜んで歌う、それがわたしたちの信仰の姿勢です。

祈ります。
父なる神、あなたが憐れみを求める方であることを感謝します。安息日は守るべき掟です。喜んで守れるようにしてください。いつでも、安息日の主がどなたであるかを決して忘れることがないように導いてください。今日は、永易大和兄に、説教を朗読していただきました。マラナ・タ教会の皆さんと共に、わたしどもも礼拝できたことを感謝いたします。
主の御名によって祈ります。アーメン。

この説教は永易大和役員によって代読されました。
音声はありません。

 

2018年1月21日 降誕節第4主日

「誰でもわたしのもとに来なさい」

マタイによる福音書 11章25~30節

マタイ福音書十一章は、洗礼者ヨハネが牢内からイエス様のところに使いを出して、「来るべきお方はあなたでしょうか」と質問させるところから始まりました。救い主として神がお遣わしになるはずの方は、本当にあなたですかという疑いです。これに対してイエス様は、直接にはお答えになりませんでした。ヨハネは最後まで確信を持てなかったかもしれません。次に、奇跡などイエス様の働きを見ながらもそれに応答しなかった町々が非難されています。イエス様の周りで、救い主へのつまずきがあったことが分かります。それに続いて今日の個所が始まります。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(二十八節)という有名な、イエス様の人々に対する豊かな慰めの言葉が語られます。これまでの、イエス様を拒絶したり、無視したりした人々とは違って、イエス様を受け入れやすい人々が対象になります。神のまなざしに、疲れた人や重荷を負う者が映っていることが分かります。

二十七節までにはイエス様が祈られた言葉が書かれています。まず、この祈りの言葉をお聞きください。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」(二十五~二十七節)。

神に向って、「父よ」と呼びかけておられます。旧約聖書には父、アーブという単語が何度も出てきますが、神を父と呼ぶようなことは、イエス様以前の中近東の世界では全くないといってもいいでしょう。父なる神よ、というわたしたちも致します祈りは、イエス様のお言葉に倣っているものです。神は父であるという考え方は東アジアにはありますが、西アジアの旧約聖書の世界では、イスラエル民族だけが神の長子として祝福を受けるのだというこの民族特有の考えはあっても、神に向かって父よと呼びかけるようなことはありません。旧約聖書で父という単語が神の意味で使われているのは、数えてみれば十四回ありますが、ダビデやソロモンはわたしのことを「わが父」と呼ぶだろうと神がおっしゃっている、そういう記述です。ですから祈りの時に、「父よ」と呼びかけた例はないと言ってもいいのです。

ユダヤ人が神を父と呼ぶとき、それは神には絶対従うものだという意味であって、決して親しい存在としてではありません。民族の父ということはあっても、わたしの父ではありません。人々にとって、神は厳粛な恐れ多い存在です。しかし、イエス様は、父よと親しく呼びかけておられます。神が父であってご自分は子であるとおっしゃったのです。イエス様にとって神は父であり、父と子の関係である自分を強く意識しておられました。十字架の上で詩編二十二篇の言葉を引用して「わたしの神、わたしの神よ」とおっしゃった以外は、いつも父よと呼びかけられご自分のことを子と呼んでおられます。当時の習慣の中でこの言葉を聞いた弟子たちは、たいそう驚いたと思います。アーブという父をあらわす書き言葉ではなく、アッバという親しみのこもった子供も使う「父ちゃん」という話し言葉で呼びかけられたと思われます。弟子たちにもそのように呼びかけるようにと勧めておられます。ギリシア語に翻訳されてしまうと、パーテル、父となりますが、イエス様の言葉はよそよそしさがなく特別です。

ここでは、少し改まって、「父よ、天地の主よ」と、お父さんであると共に、この世の創造主であり、すべての中心である主権者として、神に呼びかけ、賛美しておられます。そして、神が、知恵のある人や賢い人には隠されたままであるけれども、幼子のような者には現わされたことに感謝されました。知恵のある人や賢い人とは、律法学者をはじめとする、特別な学びや訓練を受けた特定の人々だけではなく、自分を賢いと考えている人々すべてです。逆に、幼子のような者とは、幼い子どもたちをはじめとして、愚かな人々、単純な民衆のことです。では一体、知恵のある人や賢い人には隠されたままであるのに対し、幼子のような者には現わされた、これらのこととは、何でしょう。それは神の国に関すること、父が御子イエス様に委ねられ、イエス様を通して起こったことです。神が人となってこの世に来られたことです。

ナザレのイエスは立派な人、あるいは預言者のひとりであるというのはユダヤ教やイスラームの考え方です。頭で理解できるように解釈して、人間イエスの立派な行いに感心しているのは、キリスト教ではありません。神が人となってわたしたちの所に来てくださった。それもわたしたちと変わらない姿で。そして神をお父ちゃんとお呼びになった。このことによってわたしたちは神を知り、神に限りなく近づくことができるようになったのです。これを信じているのがキリスト教徒です。知恵ある人、賢い人にはなかなか受け入れにくいことですね。

近代以降の社会では、人間として生まれた者が、実は神の子、神と本質を同じくするものであるという考えは、まったく受け入れられておりません。教会に来ているクリスチャンや牧師の中にも、イエス様が神であるとは思わない人がいます。偉大な指導者、宗教的革命家のような人ではあるかもしれないが、と言うのです。聖書学者となりますとイエス様をメシアだとは信じない人は大勢おります。そういう人は、わざと「イエスという男は」とか、「あの大工の子が」と表現して見せて、イエス様が神の子であることをあからさまに否定します。イエス様が神であるというのは、教会が作った宣伝の言葉であって、イエス様ご自身はそのような主張はしていないと言うのです。したがって今日の聖書個所なども後代の加筆だろうと結論します。そんなことはありません。イエス様は、はっきりと主張し、そう語っておられます。教会は、ごく初期の使徒の時代から、信仰告白の文章を言い伝えてきました。「わたしは、神のひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」。書いたものになりますと証拠になって迫害される危険性がありましたから、始めは書いたものではなく口から口へと伝えられましたが、二世紀以降はわたしたちが毎週唱えている使徒信条として残されています。この告白は二千年近くにわたって教会を支え、信徒を支え続けてきました。

「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とイエス様がはっきりおっしゃった言葉は、ヨハネによる福音書十章の言葉と似ています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(ヨハネ十章十四、十五節)。イエス様だけが神を完全に知っておられる。父と子が完全に一体であることを強調なさっております。わたしたちは、イエスをキリスト、救い主、神の子だと信じるかどうか、自分の信仰を問題にしますが、イエス様の言葉によれば、信仰は完全に受け身です。神がご自分を示そうとなさっている人にだけ、イエス様を理解できるようになさいます。わたしたちは、与えられた信仰を、この身で表現する、信仰によって生きることが求められております。問われているのは信仰を持つかどうかではなく、与えられた信仰に生きるかどうかなのです。信仰はおそらくすべての人に与えられております。それがこの後の言葉でよくわかります。

ここで、イエス様の言葉の向きがガラッと変わります。こうおっしゃいました。「疲れたもの、重荷を負うものは、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎが得られる。わたしの軛はおいやすく、わたしの荷は軽いからである」(二十八~三十節)。重荷は、文字通り重たい荷物ですが、特に罪の重荷、罪びとと言われた人の負わされた重荷です。軛というのは二頭の牛をつなぐために使う道具で、牛の首を痛めないように、よくサイズを測って丁寧に作られたそうです。荷物を楽に運ぶことができるようになっています。旧約聖書では、神の支配が本来は祝福なのに、誤解されてかえって人々の苦しみになっていることを軛で表しました。より具体的にはモーセの律法も軛と言われます。使徒言行録の十五章ではペトロが、自分たちも負い切れない律法の軛をユダヤ人でない人に負わせるべきではないと言っていますが、イエス様の時代、律法はずいぶん重い軛になっていたことが分かります。疲れている人、重荷を背負っている人に、イエス様が約束された休息とは、完全に軛を外してしまう休息ではありません。軛はやはりあるのですが、イエス様が一緒にその片方を負ってくださるのです。主と二人で軛を負います。イエス様は律法を廃止するためにではなく完成させるために来られたのです。わたしたちが休むことができるのは、わたしたちのために十字架の道を歩み、世の終わりまで共にいてくださるイエス様が、一緒に軛を負ってくださるからです。罪を担ってくださるからです。ですから荷が軽くなり、休めるのです。現代人も、重荷にあえいでいる人が多いようです。子育てや、夫婦間の愛憎、仕事上での人間関係の葛藤に起因する、ひどい出来事が毎日報じられております。

さてこの様に、わたしたちが歩いているこの地上に人間として来られた神の御子、ナザレのイエス様をわたしたちは信じているのですが、イエス様を神の子と信じるとはいったい具体的にはどうすることでしょうか。繰り返しになりますが、信仰に生きるとはどういうことでしょう。心に強くそう思うことでしょうか。ゆるぎなく信じる、確かにそうなのですが、より具体的には口で告白するのです。先ほどの信仰告白を言い表すのです。信仰を言い表して、洗礼を受け、聖餐にあずかり、毎週みんなで公に信仰を言い表します。そんなことですか、それだけでいいのですか、貧しい人のために、悲しんでいる人のために、何かしなくていいのですか、世界の平和のために働かなくていいのですか、そういう疑問が出てきそうですね。信仰は生身の生活ですから、社会でどう生きるかは重要です。でも第一は礼拝です。わたしが洗礼を受けた五十年ほど前、社会に向かって何か特別に運動しない教会は、存在理由がないとして厳しく糾弾されました。一方でそういう批判の姿勢で、社会運動にのめりこんでいった人々は、信仰告白なんて教会が作ったもので、イエス・キリストが教えたものではないとして、これを無視したり軽視したりしました。社会での働きは大切ですが、これは行き過ぎです。そういう二十歳過ぎの時に、実に的を射た話を聞きました。話されたのは大木英夫という方で当時の東京神学大学学長でした。マラナ・タ教会の最初の礼拝所に来てくださって、わたしと杉田先生と三人でお話ししたことがあります。この大木先生が、大阪教会で開かれたある集会で、こんなことをおっしゃったのです。「教会のconfrontationはconfessionである」。先生はニューヨークのユニオン神学校出身ですから英語がお得意でした。confrontation とは、戦いとか、抵抗という意味です。そしてconfessionは言い表すことです。つまり教会のこの世に対する戦いは、まず信仰をはっきり言い表すことである、信仰を告白することが第一なのだとおっしゃったのです。当時のわたしは、韻を踏んでうまいこと言うなと感心はしましたが、その本当の意味を理解できませんでした。神学を学んで信仰告白に関する勉強をして初めて、やっと、この言葉の意味が分かりました。教会の社会との接点は、教会が教会らしくあること、教会しかできないことをすることによって保たれます。教会は世から離れて特殊であることに意味があるのです。その特殊性とは、信仰深く立派であるということよりも、世に向かってはっきりと信仰を言い表す、イエスこそキリストであると宣言することです。

教会が世界を変える力を持つということを知った今、信仰を告白するということは、まさに教会が社会に対して働きかける力強い行為であるとよくわかります。信仰告白はややもすると個人的なことに思われがちですが、そうではありません。成し遂げた業績、稼いでいるお金、健康の問題だけに目を奪われがちなこの世、そんな世界に対しての教会の抵抗であり、社会にあっての証であるのです。それも、「おれはこういうすごい取り組みをしているんだ」という自負ではなくて、時に何もしないこと、ただじっとキリストを見つめ、キリストの愛を受け取り続けることに耐えることです。そんな受けるだけではだめだ。何かしないといけないのではないかという内なる声や、それでもクリスチャンかという外からの声、教会や家庭における批判の中で、立ち帰るべきはイエス様が神の子、キリストであるという信仰告白しかないのです。

初代のキリスト者は、自分たちは天の国とこの世のはざまに生きているという意識を持っていたように思います。わたしたちにはそれが欠けています。神が人となられたという信仰の告白は、人は神に近づくことができるということであり、この世において救われることが可能だということです。この様にイエス様が神の御子であって、わたしたちの救い主であることを公に言い表すのは、信仰の告白であると同時に、キリスト教の伝道なのです。机上の哲学や座してなす思想とは違って、わたしたちの救いに直に深くかかわっています。

誰でも疲れているものはわたしのもとに来なさい。わたしの軛は負いやすくわたしの荷は軽い。共に軛を負い荷を軽くしてやろうとおっしゃるイエス様のこの招きの言葉は、この世の重荷にあえぐ者にとっては深いなぐさめです。

祈ります。
イエス・キリストの父なる神様、御子イエス様を人としてこの世にお送りくださりありがとうございます。信じて生きることはまさに戦いですが、同時にあなたのご愛を受け、信仰を言い表して生きる、そこにこそ大きな安らぎがあります。この安らぎを得て歩めることを感謝します。どうかより多くの人々がイエス様の招きに応え、イエス様と共に繋がる軛を負って、歩んでいくことができますよう導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン

1月21日の音声

 

 

2018年1月14日 降誕節第3主日

「町々のつまずき」

マタイによる福音書 11章20~24節

先週から再びマタイによる福音書を読み続けております。十一章以降では、この時代の人々が新しい神の国の王イエス様を理解できないで、つまずいていく様子が描かれております。先駆者であったバプテスマのヨハネが、ついで周囲の人々が、そして故郷ナザレの人や家族までもがつまずきます。今日聞きました箇所では、ガリラヤ湖周辺の町々が取り上げられております。これらの町の人たちは、イエス様のなさった奇跡をたくさん見ていながら悔い改めませんでした。これらの町のなかにはコラジンとベトサイダがあります。この二つの町は、ティルスやシドンよりも厳しい罰を受けると言われております。加えてイエス様が宣教の拠点とされたカファルナウムはソドムよりよりひどい罰を受けることになるとおっしゃいました。イエス様のメッセージを聞きながら、イエス様を受け入れず拒否したからです。

「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」と話が始まります。「それから」は新しいことを記載するときのマタイの言い方です。イエス様は、ガリラヤ湖の周辺の町々で、数々の恵みに満ちた業を行ってこられました。何度も申し上げましたように、奇跡はそれ自体が目的ではなく、神の国が始まったことの証しであり、民を救おうとされている神の意志の表明です。イエス様は神のご愛に基づく力を人々に見せ、神の国に入って、新しく生きるよう招かれたのです。にもかかわらず、それらの町々の人々は、神を真剣にとらえて正しく応答することも、時を献げ生活を献げて神のご計画の一部になることもせず、これを拒否もしくは無視し悔い改めなかったのです。

そこでイエス様は悔い改めない町の人々を「叱り始められた」というのですが、これは「ののしる」とも訳せるとても強い言葉です。裁きを宣言なさいました。「ああ、コラジン、お前は不幸だ、ああ、ベトサイダ、お前は不幸だ」と繰り返されました。ああ、という言葉は訳されておりませんが、もとの文章では強い嘆きの言葉、ああと書かれています。けがをしたときなんかに、ああやってしまった、ああという嘆きの言葉です。これらの町でイエス様がどんな奇跡を現わされたのか、よくは分かりません。福音書には限られた記録しかないからです。特にコラジンという町は有名ではなく聖書にはこことルカによる福音書の並行記事にその名前が出てくるだけです。ベトサイダは、盲人が癒されたことと、五千人の給食が行われたことだけが知られております。比較のためにイエス様が名前を挙げられた町はティルスとシドンですが、当時の人にとって、この町々は腐敗と堕落の代表でした。旧約聖書に描かれた王国時代、シドンの王エトバアルの娘イゼベルがアハブ王の妻としてやってきます(列王記上十六章)。この王妃はイスラエル史上、最も悪名高い女性ですが、イスラエルのヤハウェ信仰に最大の危機をもたらした人です。預言者エリヤとイゼベル王妃の対決はだれもが知っている物語です。実際にどういう町であったかというよりも、シドンと聞けば、みんながああ、あの悪い町と思い出す、そういう町です。そういう町の方が、お前たちよりも素直で悔い改めるだろうとおっしゃいました。

確かに、目の前で奇跡を行われたとしても、それを正しく受け取るのは難しいものです。大勢の方々が「この目で奇跡を見れば信じる」とおっしゃいます。でもそれは嘘です。奇跡を見ても人は決して信じないどころか、奇跡を見れば、驚きはしてもかえって警戒する人も多いのです。逆に奇跡的な出来事に接すると、やみくもになんでも信じる人もおります。かえって正しい信仰から遠ざかってしまうことも多く、奇跡がその人を「悔い改め」に導くかどうか疑わしいのです。奇跡を目の当たりにできるのは祝福です。祝福を与えられたということは責任も重いのです。多く与えられたものは多くを求められる、これは神の国の厳粛な事実です。

次にイエス様はカファルナウムにも言及されました。この町は以前お話ししましたが、地中海とダマスコを結ぶ貿易の要所で、繁栄を享受し、自らの力を過信して「自分たちは、ほかの町とは違う、特別に神の祝福を受けているのだ」、「天にまで上げられる」と高慢になっておりました。国境の町でもあり、税金を課す収税所もありました。だいぶ前になりますが十月の初めに、徴税人マタイが弟子として召された九章に記された物語を聞きました。この福音書を著したと信じられておりますマタイが召された町です。イエス様のいわばホームグラウンドといってもよい新約聖書の中では重要な町です。その町の人々に向かって、お前たちは天にあげられるどころか、陰府にまで落されるのだと断罪なさいました。陰府と訳されております「ハデス」は天とは対照的に死者が降る処です。比較のために言及されたソドムは、シドンと同じく、悪の象徴となっていた町の名です。アブラハムの昔、ロトが移り住んだカナン人の町で、ゴモラと同じく天からの火によって焼き滅ぼされたと言い伝えられております(創世記十九章)。ソドムとは悪の象徴で、悪い人を指してソドムの民といいますが、そのソドムの方がましであるとおっしゃったのです。驚きです。

さて、皆さんはここをどうお読みになったでしょうか。マラナ・タ教会は週報で、来週の主日には、どの箇所から説教がされると通知しております。しかも同じ福音書から飛ばすことなく連続ですから、あらかじめお読みになってこられたと思いますが、ここからイエス様がおっしゃっていることを、どんなふうにお感じになられたでしょうか。はっきりしておりますのは、ふたつの場所がグループで出てくる事です。一つは、わたしどもがよく知っているガリラヤの町、イエス様が活動なさった町、奇跡が起こり、イエス様が人々に話された処です。もう一方は、外国のたいそう悪い評判の、福音書を読んでいる人がおそらく行きたくない、しかし悪名だけは知っている町々です。前者がコラジン、ベトサイダ、カファルナウム。そして後者が、ティルス、シドン、ソドムです。この二つのグループがはっきりと比較されていて、しかもイエス様がおられたところ、奇跡をお示しになったところ、話をなさったところが厳しく断罪されております。二つ目の悪い町のグループの方がまだましであると言っておられます。つまり、この記事をそのままわたしたちに当てはめますと、キリスト教の国とそうでない国、教会に行っている、あるいは関係がある人々と、教会と関係ない人々、もうちょっと単純に言えば、イエス様を見た人とそうでない人を比べて、イエス様に出会った人の方が断罪されている。教会となにも関係がない、神を知らない愚か者で、すでに神に裁かれているのではないかとわたしたちが思う人たちの方が、まだましだとイエス様に言われている気がしませんか。今日の聖書箇所を読んで、平気で礼拝に来られた方はなかなか勇気があります。

聖書日課に従って説教がなされる欧米の一般的な教会では、年の初めにマタイによる福音書十一章二十節~二十四節、この箇所がよく読まれます。今年のマラナ・タ教会と偶然同じだなと思われるかもしれませんが、教会の暦で一年の始まりは実は十一月です。待降節が始まるときに教会の一年が始まります。わたしたちでいえば、「第一のろうそく灯そう」と歌うときです。そして皆さんよくご存じのように、このろうそくは紫色です。あるいは赤紫です。クリスマスには突然真っ白なろうそくに代わります。今年も二十四日の夜は、四本の白いろうそくで燭火礼拝をしました。なぜ紫のろうそくなのか、意味がありまして紫は「悔い改め」を示します。一方で白は喜びです。わたしもクリスマスとイースターは白いネクタイをしておりますが、紫や白は教会の典礼色なのです。つまり教会は一年の始まりを、「悔い改め」の祈りで礼拝します。カトリックなら紫の布で聖壇を覆います。それからクリスマスを白で祝うのです。イエス様をお迎えする、イエス様に出会うには、まず悔い改める、これが教会の伝統です。ですからわたしたちは待降節に忘年会などのどんちゃん騒ぎはしないのです。

イエス様がわたしどものところに来てくださった。これは大きな恵みです。わたしどもが何か立派なことをしたからとか、それだけの値打ちがあるから来てくださったというわけではありません。神の一方的なご愛、憐れみです。わたしたちは受け身ではありますが、それだけにイエス様をお迎えする姿勢が問われております。この福音書には、少し先になりますが十五章二十一節以下に、大変興味深い物語が語られております。それはイエス様が、ティルス、シドンの地方に行かれた時、出会ったカナンの女の物語です。ユダヤ人でない異邦人の女性が、ユダヤのラビであるイエス様のところに来て「主よ、どうか助けてください」とひれ伏して願ったという驚きの話です。その時イエス様が、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とおっしゃって、この婦人の娘の病気が癒されたのです。全くヤハウェ信仰のない町シドンで、汚れた人と思われていた現地の婦人が、イエス様から憐れみを受けます。この婦人がその後どうなったか聖書には記述がありません。しかし、聖書にこの話が伝えられているという事実は、この婦人の関係者が初代教会の中にいて、繰り返しこの話を証言したのではないかと思わせます。想像をたくましくしてよいなら、この時助けられた娘は、その後イエス様に従う者とされたのではないでしょうか。

イエス様から直接話を聞いたかどうか、実際にお姿を見たかどうか、同じ時代に生きて奇跡を経験したかどうかは信仰の決め手にはなりません。多くの人がこうおっしゃいます。もし実際にイエス様に出会うことができたら、牧師の説教なんかではなく、イエス様から直接話を聞けば、わたしもすぐキリスト者になるのですがと。おそらく、嘘です。大勢のイエス様に出会った人が、神の国に入り損ねたのです。バプテスマのヨハネですら、イエス様を信じ切れませんでしたし、弟子たちも、最後にはイエス様を見捨てて逃げることになります。そもそも、もし今日ここにイエス様が来られても、それがイエス様かそうでないのか、どうやって見分けるのでしょう。

わたしたちは、もう直接イエス様に出会うことはできません。弟子たちからまたその弟子へと教会を通して伝えられたこと、聖書の証言、この二つによってわたしたちの信仰は支えられております。それは不幸ではなく幸いなことなのです。もし直接お会いできていたなら、「ああ、マラナ・タ教会の人たち、お前たちは不幸だ」と、言われかねないのです。お前たちの聞いたことが、浄念寺かどこかの寺で聞かれていたならば、これらの寺の門徒は悔い改めたに違いない。裁きの時には、浄土真宗の方がマラナ・タ教会よりもまだ軽い罰ですむ。こうおっしゃったかもしれないのです。現代のカファルナウムに住むわたしたちは、一体どうしたらよいのでしょうか。

どうしてもこのことを考えずにはおれません。いったいどうしたらイエス様に叱られなかったのかと。わたしたちは、洗礼を受け、礼拝し、聖餐に与かっております。それだけではいけないのか。もう十分だ、安心していい、礼拝の恵みに与っておればそれでいいのだという声が聞こえます。一方で、悔い改めるというのは、日々のことであって、一度過去に洗礼を受けたかどうかは、決め手にはならない、日々悔い改めるのだという声も聞こえます。これはどちらも正しいのです。わたしたちがイエス様のお持ちになっている信仰を介して、神の御前に義とされるのは、一回限りの、置き換えられない洗礼、罪の告白と悔い改めによって保障されています。しかし、それではその後、何もしなくていいのか、ただ習慣として礼拝に出ておればいいのかといえば、それは違います。わたしたちの救いは既に確かになされていますが、未だ完成には至っておりません。救いを完成させるのはわたしたちではありません。イエス様が再び来られて完成なさるのです。わたしたちは、マラナ・タ、主よ、来てくださいとイエス様の再臨を待ちつつ、アドベントの時を、日々悔い改めて生きるのです。

わたしたちの信仰生活はどうしても、習慣化し慣れっこになって緊張感を失いがちです。毎年、紫のろうそくを掲げて、悔い改めを決意しますが、待降節には紫のろうそくを飾るんだな、きれいだなで終わってしまい、宗教的な行事になってしまいます。キリストの弟子として生きることができなくなっていきます。悔い改めるとは、キリストの弟子として生き続けることです。奇跡を見て、教えを聞いて、素晴らしいな、すごいなと言っているだけではだめなのです。どこまでもイエス様に従っていく、たとえ叱られても従っていきましょう。

 

祈ります。
父なる神、わたくしどもをまことに主に従う者としてください。弟子としてイエス様を支え、助けあって、神の国を完成させる働きに参加できますように。無関心や、興味本位の関心で、イエス様につまずくことがありませんように。
主のみ名によって願い祈ります。アーメン。

1月14日音声

 

 

2018年1月7日 降誕節第2主日

「ヨハネのつまずき」

マタイによる福音書 11章2~19節

待降節、クリスマスがありましたので、しばらく「マタイによる福音書」から離れておりましたが、今日から元に戻ります。昨年聞きました御言葉を振り返りますと、マタイは、神の国が来たのだという宣言をしました。バプテスマのヨハネも、イエス様も伝道の最初の言葉は、「汝ら悔い改めよ、天の国は近づきたり」、「神のもとに帰って来なさい、天の国がそこまで来ている」でありました。その神の国の王であるイエス様の誕生、クリスマスの物語、成人した王の就任、ヨハネからバプテスマをお受けになったこと、その王による驚くべき山上の教えと、その後に王の示された奇跡、神のご支配の徴が語られてきました。そして、直前の十章では、そのイエス様の教えを召し出された弟子たちが担っていくことになるのですが、しかしそこには迫害があるということが予告されていました。

今日から学び始めます十一章以降では、イエス様を取り巻く人々が、イエス様が新しい神の国の王であることを理解できないで、つまずいていく様子が描かれております。先駆者であったバプテスマのヨハネが、ついで周囲の人々が、そして故郷ナザレの人や家族までもがつまずきます。イエス様の宣教は、最初は順調でした。山上の説教は、えっと驚く革新的なものであったにもかかわらず、民衆は好意的に受け止めました。そして御国の徴として行われた数々の奇跡、特に病人のいやしは、みんながその恵みに与ろうとして追いかけてきました。期待に期待が重なりイエス様を取り巻くメシア運動は、はじけるほどの勢いでした。しかし、やがて「もの珍しさ」は薄れ、夢と現実のギャップが露呈し、反対勢力も盛り返してきて、弟子たちの中でも混乱や対立が生じます。世の習いです。イエス様による「神の国」運動は、様々な世の運動とは異なりますが、しかし人間の住む世界が舞台である以上、似かよった面を持つのではないでしょうか。今日でも、イエス様を知ろうとして人々は聖書を読んでみたり、礼拝に参加してみたりしますが、結局よく理解しないまま、つまずいてしまうことが多いのです。

今日聞きました物語では、バプテスマのヨハネが最初に取り上げられております。ヨハネはイエス様の先駆者であり、イエス様のことをよく理解していたはずです。そのヨハネでも、イエス様のなさったことは戸惑わざるを得ないものだったことが分かります。四章で、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とありました。彼は領主ヘロデ・アンティパスを非難したことで、領主の怒りを買い、逮捕・投獄されたのです。それからイエス様の活動が本格的に始まりました。獄中でヨハネはイエス様に関する情報を集めていたようです。ところが伝えられてくる話は、裁きをもたらし正義を実現するはずのメシア像からはかけ離れたものでした。ヨハネは失望し、使者を派遣します。そして浮かんできた疑問をイエスにぶつけます。「あなたは本当に王なのか、わたしたちが待ち望んでいたメシアなのか」と。

わたしたちは「イエス・キリスト」という名前にあまりにも慣れっこになっております。あまりにも普通にしばしばそう呼びます。ですからイエスとキリストという二つの名前を組み合わせるのが、はじめはどんなに大変だったかを忘れております。マタイによる福音書やルカによる福音書を読みますと、イエス様の記事が書かれる前に、もう一人の名前が必ず出てまいります。それがバプテスマのヨハネです。少なくともイエス様がまだ伝道者としてデビューなさる前には、ヨハネの方がメシア、キリストであると信じられておりました。イエスがキリストではなくヨハネがキリストだったのです。イエス様が十字架刑で亡くなってから百年くらい後に書かれた文書を見ても、その当時でもヨハネの弟子である人がたくさんいたことが分かっております。ヨハネ教団と呼ばれるものが存在しました。イエス様とヨハネは同じくらいの年齢ですが、ヨハネの方が先輩です。ヨハネは父方も母方も祭司の家系ですから、大工の見習いをするような無駄な時間を過ごす必要がありませんでした。生まれながらの伝道者であったといってもよかったのです。ナザレのイエスが、町で人々と一緒に大酒を飲んで、大声で笑いながら食卓を囲んでいた時、ヨハネは荒れ野で禁欲的な生活をし、弟子たちと共に厳しい生活を送っていました。酒は飲まず、神に集中するのに妨げになるものは遠ざけておりました。ヨハネの生き方、衣服、何よりもこの人の説教が、神の使いとしての存在感を表しておりました。五百年もの間、ヨハネがしたような説教をした人はいなかったのです。少なくとも記録には残っていません。エズラ、ネヘミヤが活躍した神殿復興の時代以降、彼らの国は大きな国に翻弄され続けました。アレキサンダー大王のギリシア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、そしてローマ帝国。支配国に税を納めることで、もはや自分たちの国とは言えない約束の地に、かろうじてしがみついて生きていたのがユダヤ人です。

こういう悲しい現実の中で、人々が発見できなかったもの、それは祈りに応える神の言葉です。いつまでですか、どこにおられるのですかという叫びに答えがなかったのです。かつては預言者が神の言葉を語りました。独裁者であるダビデ王すら、預言者ナタンの言葉によって自分の犯した罪を告白せざるを得ませんでした。権力者の汚れに対してはアモスのような預言者が神の裁きの言葉を語りました。こういう神の厳しい言葉が聞かれなくなっていた時に、洗礼者ヨハネはやかましいサイレンを鳴らすがごとくに荒れ野で神の言葉を語ったのです。「悔い改めよ」と。ご利益や健康や妥協を語るのではなく、人の罪と神の裁きを語りました。木の根元に斧がある、お前達、神の国に入る準備ができなければ切り倒されるぞ、火で焼かれるぞと語ったのです。

こういう人ですから、領主ヘロデ・アンティパスをも叱りつけたのです。まさに預言者です。エリートのファリサイ派と貴族のサドカイ派に対しても容赦がありませんでした。お前たちが教えているのは神の義、つまり神との正しい関係ではなく、単なる見かけの宗教的信心深さであると糾弾しました。彼は人々を突き動かし、多くの改宗者を生み出しました。その中でヨハネはガリラヤのイエスに出会ったのです。ヨハネは悟ります、ついに神が、ご自分の選んだメシアを遣わされた。この方が地上に正義を実現なさるのだと。ところがヘロデの兵たちが来てヨハネは逮捕されてしまいます。地下牢に閉じ込められ、何もできなくなってしまいました。イエス様はヨハネに代わって活動を始めます。どういう風にしてかはわかりませんがヨハネは弟子たちからイエス様のなさっていることについていろいろと報告を聞いていたようです。いやし、悪魔祓い、徴としての奇跡などです。メシアとしての期待は高まります。やがて、重大な出来事が起こる、イエス様が神の裁きを宣言なさり、悪が滅びる。これがヨハネの期待だったでしょう。しかし、イエス様は、そういう宣言をなさらなかったのです。なんとローマ兵の部下さえもいやされている。悪霊に取りつかれた人、出血の止まらない穢れた女性、重い皮膚病の人さえもが滅ぼされるどころか癒されている。神の御力の徴はどこに行ったのでしょうか、ローマ兵を天からの火で焼き殺してくださらなければ、人々は善悪をわきまえないではないか。はっきりしているのは、イエス様はヨハネ解放のために何もなさらなかったということです。ヨハネの逮捕は不当ではないかとヘロデに抗議することさえなさいませんでした。ヨハネの期待したメシアとしては弱々しすぎます。思い描いていたメシア像とは異なっていたのです。

そこで、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとへ送って尋ねさせました。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たねばなりませんか」(三節)。これは単なる質問ではありません。失望感が滲んでおります。わたしはあなたを誤解していたようだ、自分がメシアではないとわかっているならそう言ってほしい。やっぱり、君はメシアではなかったのだね、という質問です。この問いに対してイエス様は分かり易くはお答えになっておりません。答えはこうでした。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。これはイザヤ書を知っている人にしかわからない答えです。「神は来て、あなたたちを救われる。その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口のきけなかった人が喜び歌う」(イザヤ書三十五章六節)。イエス様は神の主権が回復することを、預言者の言葉に託してヨハネに伝えようとなさいました。そして、おっしゃったのです、つまずかないで悟りなさいと。

はっきり記されておりませんが、ヨハネは、おそらく納得しないままに死んだのではないでしょうか。ナザレのイエスとは誰なのか。神はわたしをまことにメシアの先駆者としてお立てになったのだろうかと悩みながら獄死します。この後、イエス様は群衆にヨハネとは誰かを、ご自身との関係について不思議な言葉で語られました。彼は預言者以上のものだ。つまり彼から新しい時代が始まった。ヨハネが「神の国」を告知して以来、敵対者たちがその「神の国」を暴力的に奪い去ろうとしている。ヨハネは神の国を告知はしたが、イエス様と違って神の国の王、メシアではない。しかし、ヨハネもイエス様と同じ様に、時の権力者から苦難を受け殺される。ヨハネは旧約最後の預言者であり、歴史の転換点に立っている。彼は、イエス様に洗礼を施し、まさに王としての即位に立ち会った新しい時代を作った人。ヨハネは現れるはずの新しい預言者、人々が待ち望んだエリヤの再来なのだ。ふらふらと風に揺れる葦のような人物ではないし、権力に近い王宮にいる人でもない。それなのに、みんなはヨハネのことを分かっていないともおっしゃったのです。新しい時代はわたしたちの理解なら、キリストの十字架と復活、あるいはペンテコステの出来事から始まりますが、さらに原点に戻って言えば、イエス様がヨハネから洗礼をお受けになった時だとわかります。そして、今の時代、イエス様の時代、を何に例えたらいいのか、新しい預言者も王もわからない、たとえようもないほど悪い時代だと嘆かれたのです。今の時代とは、イエス様の時代に生きていた人々を指す言い方です。

興味深いたとえも話されました。広場とは市が立つところですが、市場に買い物に来た親についてきた子供が座っている。ほかの子供に一緒に遊ぼうと笛を吹いても、自分のことばかりに気をとられて踊ってくれなかった。おそらく喜びの時に踊る曲でしょう。それならと今度は葬式の悲しみの曲を歌うというインパクトのあることをしてみたけれども、やはり無視して悲しんでくれなかった。子供の遊びを例に挙げて、分かり易く、今の時代はそういう無関心の時代だとおっしゃいました。ヨハネの断食する厳しい姿勢を見ると「悪霊付きだ」といい、イエス様が差別なく神に愛された者たちと食事していると、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪びとの仲間だ」と言う。かつてヨハネをメシアだと信じて熱狂的だった者たちが、いったん彼が牢に入れられると、一変している。イエス様のいやしを見たものは、ぞろぞろとついてきたが、今やどこかに行ってしまった。ヨハネの語った厳しさも、わたしの示した喜びにも、結局は本当のところ無関心で分かってないとおっしゃったのです。人に真の知恵があるかないかは、その人の言葉ではなく行い、働きが正しい時にはっきりする。知恵があれば、良い実を結べる。わたしの示す神の国がわかるはずだと主張なさいました。

ヨハネはイエス様のことを期待しながらも、十分納得できませんでした。一方で、民衆はヨハネのこともイエス様のことも理解しなかったのです。つまずかない人は幸いである、というのは、大勢がつまずいたことを示しております。

メシアだと誰にもすぐにわかるような、神の全能を示し、神の正義を高らかに宣言する、そのようなメシアを人々は待ち望んでいました。わたしたちも本音はそうかもしれません。大きな力で悪を一掃する上からの偉大な力です。しかし、八章から記録されているイエス様の働きは、まるで違いました。飼い主のいない羊のような人を一人一人いやされ、そして、それだけをなさったのです。示されたのは憐れみであって、力ではありませんでした。力を望んでいた多くの人たちは、そこにメシアの姿を全く見出だせませんでした。しかし、ゆっくり一人一人をいやしてくださる中にこそ、神のみ恵みはしっかりと与えられるのです。静かで穏やかではありますが、確実に全世界に少しずつしみ込んでいきます。天の国は近づいたのです。わたしたちは、しっかりと神の方を向き、一滴一滴少しずつ水が落ちて堅い岩に穴をあけるように、与えられた神の恵みを分かち合い、静かに礼拝し、祈るのです。

祈ります。
父なる神、バプテスマのヨハネが期待した救い主の姿は、わたしたちが期待する救い主の姿に似ています。しかしあなたの御子、イエス様は、全く異なるキリストでした。一人一人の罪びとに向き合い、罪をゆるして、神との交わりを回復してくださいました。神の国が来たことを告げ、少しずつ少しずつ前に進まれました。イエス様によって、わたしたちをあなたとの正しい関係の中においてくださったことを感謝します。どうか、わたしたちが隣人一人一人と交わりを深め、共に聖書を読み、共に祈り、共に食卓を囲みながら、イエス様に従って歩むことができますよう導いてください。
主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

1月7日の音声

 

2017年12月31日 降誕節第1主日

「キリストにおいて一つ」

エフェソの信徒への手紙 2章11~22節

マラナ・タ教会では、二〇一七年はずっと「マタイによる福音書」を読み続けてきましたが、今日は特別に「エフェソの信徒への手紙」から、わたしたちの信仰、とりわけ教会について考えます。来年、エフェソ書とフィリピ書に基づく説教集が、説教塾の牧師たちによる合同の説教集として出版される予定ですので、そのための実践です。

エフェソは今のトルコにあたる、当時小アジアと呼ばれた地方にあった、大きな港町です。パウロが三年も留まって伝道し、教会を作ったところとしても有名です。後にテモテが牧師をした町でもあります。場所を考えていただきますとすぐわかりますように、これはユダヤの町ではありません。この当時、小アジアの人口の五から十パーセントがユダヤ人であったと言われております。キリスト教の信仰は、ユダヤ教がベースになっておりますから、教会の中では人口比よりはユダヤ人が多かったと思いますが、それでもやはり、教会の信徒の多数派はユダヤ人ではない異邦人だったことは間違いありません。

律法には関係なく新たにイエス・キリストの福音を受け入れた人々と、律法をずっと守り続け自分たちは祝福された神の民だと思っていたユダヤ人との間の違いは小さくなかったでしょうから、ユダヤ人と異邦人が混ざり合った教会で、いろいろな行き違いがあったのは当然のことです。些細なことではなく信仰上の根本的な行き違いをそのままにしておきますと、ギリシアの豊かな文化や哲学を身につけていた知識人たちの影響で、彼らの理想とする考え方にどんどん傾いていく恐れがあったことが容易に想像できます。信仰に関する基本的理解がどんどん逸れていき、やがてはキリスト教とは言えない別の教えになってしまう危険性さえありました。パウロはそのことに心を痛め、本当のキリスト信仰とは何かを懸命に語ることによって、ユダヤ人が信じてきた教えとキリストを信じる信仰との間には分離がなく、両者が同じ信仰を共に生きることができると説きます。これまで律法で規定されてきた神の義と、あらたにキリストによって与えられる神の義は別物ではなく、同じなのだ、区別がないのだとキリストの中に留まる同じ一つの信仰を語っています。

異邦人とは、今、一般的に使われています単に外国人という意味ではなく、「割礼のない者、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた者」(十一、十二節)という意味で、ユダヤ人が外国人を差別して使った表現です。「この世で希望がない、神知らずの愚か者」という強い否定です。バカにしているといってもいいのです。ですから十一節で「あなたがたは」、と呼びかけているのも、「みなさんは」とわたしたちが言うのとは全く違う特別な響きがあります。あなたがたユダヤ人でないものは、と主流派である異邦人に、ユダヤ人とは区別して呼びかけているのです。この一言だけでも教会の中に、無視できない対立があったことがうかがわれます。異邦人の方からすれば、ユダヤ人は古くさい伝統や戒めを引きずっており、自分たちユダヤ人でない方こそがキリストの教えを正しく実践しているという意識があったに違いありませんが、ユダヤ人の側からすれば、多くの異邦人キリスト者は形だけの、あるいはギリシア流の頭でっかちで実践を伴わないキリスト者なのだという意識があったでしょう。ユダヤ人には根深い民族意識、選民思想がありました。わたしたちには昔から神との契約があるという強い誇りがあり、ユダヤ人キリスト者は少数派ではあるけれども本物の「お勤めをする」律法に忠実なキリスト者であるという意識を持っていたのです。これらの意識すべては律法のもたらしたものですが、説教しているパウロ自身もそういう気持ちを否定しておりません。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(ガラテヤの信徒への手紙二章十五節)と、ユダヤ人の気持ちを代弁しながら、エフェソと同じ小アジアの信徒に宛てた別の手紙で語っております。そんな異邦人に向かってパウロは言うのです、「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(十三節)と。

これはわたしたちの信仰生活に深くかかわる重大な問題をはらんでいます。信じたらいいのだ、人は信仰によって救われるのだと考えるからです。教会の教えや、牧師のすすめ、教団の議長の言う事などとは関係ない、わたしがどう信じ、どう生きるかだという意識がすごく強いからです。わたしは正直に言いますが、教団の議長や教区の議長が公に何か発言しても、カトリック信者が、教皇や司教の発言に敬意をもって耳を傾けるような姿勢を持っておりません。果たしてそれでいいのかどうか。プロテスタントがずっと誇りにしてきた、「教会の教えではなく、聖書の教えだ」という姿勢と、今エフェソ書でパウロが問題にしている異邦人の信仰理解は、明白に重なっています。エフェソ書を読むことは、わたしたちの信仰の根本を問うことになります。

少し本題から離れますが、エフェソ書にはイエス・キリストではなく、キリスト・イエスという言い方がよく出てきます。聖書を注意深く読んでおられる方のためにひとこと説明しておきますと、この二つの違いは、その前にある単語が子音で始まるか母音で始まるか、単に発音上の問題だけで根本的な差はありません。子音で始まる場合は、「ディア・イエスー・クリストゥー」「イエス・キリストを通して」のようになりますが、母音で始まる場合は「エン・イエスー」とは母音が重なって言いにくいので「エン・クリストー・イエスー」「キリスト・イエスにあって」という語順になるのです。

続けてパウロは言い切ります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(十四~十五a節)。敵意があるところで、対立する両者に向かって、あなたはこういう点が悪い、先方はこういう点がよくない、お互いに反省し譲り合って仲良くしなさいという勧告は機能しません。キリストは、御自分の肉を裂き、血を流すことによって、二つのもの、ユダヤ人と異邦人、その間にあった「敵意という隔ての壁」を取り壊して平和を実現なさったのです。対立する両者の間に割って入り、ご自分の命を捨てることによって、お互いが赦し合えることを実際に示し、決して仲直りのできない両者を「御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」(十五b、十六節)のです。

キリストはご自分において、対立する両者を一つにし、平和を実現してくださった、この言葉は実に重い言葉です。旧約聖書に約束されたメシア、つまりキリストは、「平和の君」(イザヤ九章五節)です。戦争がないとか、休戦状態を意味する平和とは全く次元が違います。平和とは、何といっても神との平和です。神と和解し、神と新しい関係、正しい関係「義に生きる」ことができるようになることです。それが平和の第一の意味です。ヘブライ語のシャローム、ギリシア語のエイレーネーは深い意味があります。そしてこの平和が次の平和をもたらします。それが、文化や宗教の分断を超えて対立する二つの物を結びつける平和です。いつもわたくしが申します神と人との上下の垂直関係の平和と人と人との横の水平関係の平和です。律法の有無による、深刻に対立する二つが一つに結び合わされるのは、神の新しい民となったキリスト者が、神の家族として一緒に住む、生活する場所において見いだされます。わたしたちでいえば教会、この当時の人にとってはエクレシアと呼ばれる共同体です。

わたしたちが一つになれるというのは、何か精神的なことではありません。「キリストの中」でのことです。キリストにおいて、ご自分において、キリストによってと訳されている言葉は、すべてエン・クリストーです。イン・クライスト、「キリストの中にあって」なのです。この「中にある」という言い方は新約聖書のパウロ書簡を読むときには、実に大切です。よく理解せねばなりません。マラナ・タ教会は枚方にありますという時、イン・ヒラカタといいますが、それははっきり境界線の中にあることを意味します。寝屋川でもない、高槻でもない、はっきりと区別されている。キリストにあってという時、何か精神的なことや、価値観の一致を謳っているのではないのです。このことが信仰者によく理解されておりません。キリストの中とは教会の中というに等しいのです。ある老牧師が「俺は信仰のことばかりを考えてきたが、教会がわかってなかった。それはキリストがわかってなかったのだ」と感慨深くおっしゃったことをよく覚えております。教会はキリストの体です。

「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(十七、十八節)。キリストは人となってこの世に来てくださり、神の国が近づいたと福音を知らせてくださったのです。パウロはユダヤ人です。キリストもペトロもユダヤ人です。神との関係や律法を大切に思っていることは今も以前も変わりありません。パウロには大変な誇りがあり、異邦人を心の中で馬鹿にしていたことは彼の言葉から明らかです。しかし、異邦人とユダヤ人がキリストを通して、キリストを媒介として一つとなるとき、律法にこだわる必要はないとパウロは言うのです。

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(十九~二十二節)。

日本の大きな建造物には大黒柱と呼ばれる中心となる柱が真ん中にありますが、ユダヤでは神殿の様なしっかりした建物を建てるとき、日本とは異なって、四隅に大きなしっかりした検査済みの石を据えます。建物の最も大事な決め手になるのがこの隅の石です。隅の親石とも呼ばれます。この「かなめ石」が、キリスト・イエスご自身なのだと言います。その上に「使徒や預言者という土台」が積まれています。使徒とは新約聖書の教え、預言者とは旧約聖書の教えを指しております。福音と律法と思い切って言い換えてもよいでしょう。キリストの上に律法も福音も乗っているとは、驚くべき言葉です。そしてさらに、その土台に支えられて、今や外国人でも寄留者でもなく、神の家族となったあなたがたが生きた石として積まれ建てられているとパウロは言います。ここに初めて、ユダヤ人と異邦人が一つにされうる根拠が明らかにされております。キリスト・イエスが「かなめ石」であって、キリストの中で、建物が組み合わされております。

学者によっては、土台である隅の親石のことを「かなめ石」と呼ぶのではなく、天上のアーチの頂点の石であるとする人もあります。一番上の頭(かしら)石、あたまの石と書きますが、この石が無くなれば、すべてが崩れ去る、これなしにはもはや建物があり得ないそういう石のことです。いずれにしても「かなめ」となる大事な石です。パウロは少し前に「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成し、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」(一章十節)とも言っています。すべての土台であるキリストは頭でもあります。

たくさんの違う石が、組み合わさって一つの家となります。家とは、人の住むところですが、元の言葉には神の家という意味も有ります。家「オイコス」は、現代でも大切な意味を持った言葉です。人の住むところという意味から、広く世界を指す場合もあるのです。現代神学の重要な言葉「エキュメニカル」は、オイコメニュカルです。家をやりくりすることをオイコノミー、経済といいます。対立していた違う者同士が、組み合わされて共に建てられる、家になる、神殿になるとパウロは言います。そのような神の家はどこか遠くにあるのではないのです。あなたがた異邦人とユダヤ人が共に建てられ、家になり、霊の働きによって、すなわちキリストによって、神殿、神の住まいとなるのです。神殿となる、わたしたちは自分が神殿だなどとは思わないでしょうが、そうなのです。人々から見捨てられ十字架にかけられ、神に復活させられ新しい神殿を建てるための「かなめ石」となられたイエス様に寄り頼んで組み合わされ神殿とされる一つ一つの切り石こそわたしたちなのです。この大切なイメージは、ペトロも同じことを言っております。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Ⅰペトロ二章五節)。家ができますと、そこに住むのが家族です。神の家族は、神の家に一緒に住むのです。これは当時も今でも驚くべきことです。「キリストの中で」、対立している二つが一緒に住むことができる、真の平和に生きることができるのです。これがわかれば、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の対立はもちろん、カトリックとプロテスタントとの不要な対立は解消されるはずです。

わたしたちが形づくっているのは、もちろん「霊的な家」ですから、建造物のことではありません。イエス様の弟子たちの時代から週毎に各地に集まり礼拝を捧げていた信仰者の共同体。そして二千年後の今、ここに集まっているわたしたち。それを神は「霊的な神殿」としてくださっているのです。キリストの中で、わたしたちは神殿を作る石になって建てられ、今も霊の働きによって神の住まいとされています。霊の働きによって、教会は建ちあげられ、教会として日々成長しています。そして、イエス・キリストこそがその建物の土台、無くてならない要の石なのです。この大事なことを、わたしたちは覚えておかなくてはなりません。「教会の教えではなく、聖書の教えだ」でも「信じたらいいのだ、信仰によって救われるのだ」でもありません。対立する者を一つにし、平和を実現してくださった、キリストの中に生きる、これこそがわたしたちの生き方であり、信仰生活なのです。

祈ります。
父なる神、イエス・キリストが平和をくださったゆえに、異なるところがあっても同じように、使徒や預言者の上に積み上げられ、神殿を形成する切り石とされました。わたしたち異邦人であったものが、神の家族とされ、神の家に住まう者とされた、この恵みに感謝いたします。一つの霊によって、共に結びあわされ、大きな建物となっている世界の教会がこれからも豊かに成長し続けていくことができますように。どうかわたしたちの内に平和を実現し、キリストのお体に与る者としてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

12月31日の音声

 

 

 

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