降誕前節2017

2017年11月19日 降誕前第6主日
「真に恐るべきもの」
マタイによる福音書 10章26~33節

先週、キリスト者として生きる、特に弟子としてこの世に派遣されるとき、迫害に遭うぞとイエス様が予告なさったことを学びました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(二十一節)とさえおっしゃいました。一番大きな苦しみは家族から苦しめられることだったのでしょう。権力による迫害よりも、愛する者から憎まれるようになることほど辛いことはありません。そのような中で、彼らは互いにこう言ったに違いないのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そうイエス様はおっしゃったよ、と。「最後まで」ということは、終わりがあるということです。いつまでも続くわけではなく、トンネルに出口があるように必ず「最後」があるのです。そして最後には救いの希望があります。だから「耐える」こともできます。「耐え忍ぶ」とは、苦しくても我慢する、そういう意味ではありませんでした。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。もちろんイエス様のもとに留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはイエス様との関係に留まり続けることです。この言葉は迫害の中でも主に忠実に生き続けなさいという大きな励ましでした。

ところで、この「耐え忍ぶ」と同じ言葉が詩編に何度も出て来ます。ギリシア語訳旧約聖書にこの言葉が何度も使われているのです。ほとんどの場合、「待ち望む」という意味です。勿論、主を待ち望むことです。例えば「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編二十七)というように。この時の「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉です。「耐え忍ぶ」とは「待ち望む」ことでもあります。主よ、来てくださいと祈ります。マラナ・タと唱えて生きることです。希望を捨てることなく励まし合い、共に信仰に留まったのです。「最後まで希望を捨てなければ救われる」よね、と言い交わしながら。

さて弟子たちを派遣するのに、イエス様ははっきりと迫害を予告されましたが、それに続けて今日の御言葉の中では「恐れるな」と三回も繰り返されました。迫害されるぞと聞かされて、当然、弟子たちは恐れたのでしょう。そこで二十六節の「人々を恐れてはならない」、そして二十八節で「魂を殺すこのできない者どもを恐れるな」、最後は三十一節で、もう一度「恐れるな」とおっしゃったのです。恐れる必要はないのだと。そして逆に、真に恐れるべきものは何かをはっきりおっしゃいました。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と。

なぜ恐れなくてもいいのでしょう。第一の理由は、先週の御言葉の最後のところで聞きましたが、迫害は当たり前のこと、必然的な結果だからです。師であるイエス様が人々からののしられ、悪霊の頭だと蔑まれるのです。弟子は師以上のものではなく、僕は主人以上のものではありません。師であるイエス様が悪霊の頭と言われる以上、弟子たちはもっとひどい扱いを受けるはずです。「だから」彼らを恐れる必要はないのです。イエス様に従おうとするなら喜んで罵りを受ければいいのです。

第二の理由は、神の国が来たという宣言は、どんなに隠れてそっと伝えようとしても無理です。覆われていても必ず覆いが取れて、分かってしまいます。キリストに従って遣わされていくとき、迫害を恐れてどんなに巧みに隠れていても、隠れきれるものではありません。その上、わたしが暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさいとイエス様がおっしゃっています。群衆にはわからないように、ちょっとわかりにくい譬えなどで話されたことを、イエス様が耳元で囁くように弟子にはあからさまにお話になったことを、弟子たちだけに語られた、いわば奥義とでもいうべきものを、イエス様は積極的に公然と告げ知らせなさいとおっしゃるのです。神の国の秘密、驚きを弟子に教えられたのは、弟子がそれを伝えるためです。語らないでいることはキリスト者にはありえないことです。「だから、恐れないで語れ」とおっしゃいました。ギリシア語では強い命令形でおっしゃっております。そしてこれは、すべての教会員に向かって語られているのです。わたしを救いに導いてくれた福音は、もしわたしが口を閉ざしてしまったら、もう福音ではなくなるでしょう。語らずにはおられないもの、それが福音です。パウロはコリントの信徒への手紙一の九章十六節でこう言っております。「わたしが福音を告げ知らせてもそれはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」。

恐れなくてもよい第三の理由は、これが本当に恐れなくても大丈夫という保証なのですが、真に恐れるべきもの、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」がおられるからです。もちろん、地獄で魂と体を滅ぼすことができるのは悪魔ではなく、神です。その本当に恐れるべきお方がわたしたちを愛していてくださるのです。迫害者など恐れることはないのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」は有名な御言葉で、宗教改革者のツヴィングリがカトリックとの戦いで戦死した時に、この言葉を叫んで死んでいったと伝わっており、よく知られております。確かに迫害で死んでいく者にとっては最後の慰めであり励ましでしょう。本当におそれるべきは神以外にはありえないのですから。ここで魂と体と訳されておりますが、わたしたちが言う「魂と体」ではありません。イエス様がおっしゃる魂とは「神の命」そのものです。体とは命のない肉のことです。実際には拷問などで責められ肉体が滅ぼされるような場面に出くわせば、恐れるなと言われても恐らく心ならずも信仰を捨てて、もうキリスト信者であることを止めますと言うかもしれません。わたしは拷問に耐える自身が全くありません。しかし最後には、この世での迫害や苦しみではなく、肉の死の後に、神に与えられた命である魂も肉である体も地獄で滅ぼすことのできる方から裁きを受けるのだという事実だけは知っておかねばなりません。本当に恐ろしいのは神との関係が失われてしまうことです。

本当に恐れるべきお方がわたしたちを愛していてくださることを、主は弟子たちに分かりやすい話で教えてくださいます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だがその一羽でさえあなた方の父の赦しがなければ、地に落ちることはない」。「あなた方の髪の毛までも、一本残らず数えられている。だから恐れるな。あなた方はたくさんの雀よりもはるかにまさっている」。雀は小さい鳥のことです。日本の雀と同じとは限りません。雀は庶民が焼いて食べていましたが、一羽では売れない、最低でも二羽にしないと一アサリオンにならない、市場で最も安い鳥でした。ルカによる福音書には五羽で二アサリオンとありますが、たくさん買うと割安になったのかもしれません。アサリオンはローマの銅貨で、一デナリオンの十六分の一です。わたしたちの五百円くらいでしょうか。雀は安い鳥ですが、神の御心でなければ一羽の雀さえ空から落ちません。髪の毛を数えた人は滅多にないと思いますが、普通の人は十万本以上あるそうです。実際に一本一本すべて抜いて三十万本あったという報告を聞いたことがありますが嘘か本当かわかりません。実際髪の毛の数など多くてわかりません。この、人間の体のほんの小さな一部分である一本一本の髪の毛をさえ神は数えておられることを喩えにあげて、値打ちのないように見えるものも、数えられないほど小さくて多いものも、すべて細部まで神はご存じであり、生かしておられるとおっしゃいました。神は雀にさえ配慮されているのです。あなた方は一羽どころか多くの雀を束にしたよりもはるかにまさっているのだから、どれだけ配慮してくださっていることか、と励まされました。このたとえの意味は、ただ人は雀より値打ちがあるというだけではありません。小さな雀をもよく知っておられる神が、あなた方を愛しておられる、髪の毛一本一本まで知っておられる、だから大丈夫だとイエス様はおっしゃったのです。

わたしたちは、神の子とされた以上、その命は失われることはありません。たとえ肉体が死ぬにしても、神の吹き込まれた息である魂、命そのものは大丈夫です。それどころか肉の死は神の目に尊い、有意義なもののはずです。留まって体を殺されるか、留まらないで信仰を放棄するかなどという決断を迫られたくないと思いますけれども、神の与えられた命、魂そのものを奪う力のある方の前に立っていることだけは忘れてはなりません。人々の前でイエス様を受け入れる者、つまりわたしはイエス様の仲間です、キリストに属するものですと告白する者については、イエス様もまた、天の父なる神の前で、この者はわたしの仲間であると宣言してくださいます。逆にいえば、この地上の法廷で、わたしはイエスという男など知りませんと拒否する人が、天の法廷に出たときに、イエス様にわたしを知っていると言ってくださいと頼むことはできません。恐ろしい審判のように思えますが、しかし、弟子には審判における救いが恵みとして用意されているとおっしゃっているとわたしは思います。

イエス様の弟子、あるいは同労者になることは、小さなこと、易しいことではありません。わたしは教区の人事委員長という職務をここ数年担っておりますが、最も大事な仕事は教団の教師になろうとする人の面接です。学力は試験で問われますから、面接では御本人のクリスチャンとしての自覚、教師、伝道者に召されていることの確信、教会の推薦が確かにあるかどうかを質します。全員が合格していただきたいという祈りをもって面接するのですが、毎年大きな違和感を持ちます。どうしてかといいますと、面接を受ける人の中に、牧師になる、説教を語るということを、あまり深刻には考えておられない方がかなり多くおられるからです。言い換えると「畏れ、畏怖」がないのです。世の中の困っている人を助けたい、親切な人になって生きたいという願いはあっても、弟子として歩もうという覚悟がまるでないのです。自分の力でできると思っているのでしょうか、イエス様から「恐れるな」と言っていただく必要なんてないようです。この候補者は牧師になっても挫折するだろうなというのが透けて見えます。加えて、推薦状を提出してくる所属教会の牧師の中に、イエス様の教えをちゃんとわきまえ、伝道者になることはどういうことかを本気で指導しているのかどうか、あやしい牧師もいます。実に甘ったるい、センチメンタルな推薦状が出てきます。人が神の国に新しく生きようとするとき、古い自分、古い世界の構造は震えます。戦いが始まります。痛みが伴う戦いの中へ、厳しいけれども喜んで遣わされていくのです。推薦する側にもされる側にも、厳粛な恐れがあるはずです。それが見えないのです。

イエス様の周りで起こったこと、それはまさに戦いでした。人は神の国でこう生きられると御国での生き方が示されたとき、イスラエルのいわゆる敬虔な人々はイエス様を攻撃しました。仮面をかぶった、神と人との和解を邪魔する人たちが、自らを防御するために激しく抵抗したのです。悪魔は戦場を退かず、戦いのために出てきました。指導者たちの憎しみ、民の無関心、弟子たちの弱さ、そこをまさに悪の力が突いてきたのです。イエス様と共に行こうとする者は、この同じ戦いに赴かねばなりません。本物ではない世界、世の国は、本物の世界、神の国に抵抗します。その抵抗に逆らって戦うのです。イエス様の弟子として遣わされることは、狼の群れに羊が送り込まれるようなものですし、すべての人に憎まれねばならないことです。わたしは遣わされるのは遠慮しておきますという態度がとりえます。その時囁くのは悪魔です。止めといた方がいいよ、憎まれるよ、懸命な人は弟子なんかにならないよと。しかし、イエス様は、まあ仕方がないなとはおっしゃいません。「違う、恐れるな」とおっしゃるのです。わたしたちは大丈夫でしょうか。自分は確かに神の国に生きようとしているのか、それともイエス様を十字架につけた世界の側に依然として留まり続けてないだろうかと、しっかり考えてみる必要があります

イエス様に従って、一緒に行きましょう。最後には、死に打ち勝てるのですから。最後まで希望を捨てなければ、闇のうちに終わることはないのです。時々、極端にきれい好きな人に出会うことがあります。手を消毒し、自分の持ちものは、みんなアルコールで拭いて消毒した箱にしまう。トイレの後も自分のお尻をアルコールで拭く。科学的には滑稽ですが、こういう人は目に見えない細菌を極度に恐れているのです。微生物はみんな悪い奴だと。皆さんお笑いになりますが、ではわたしたちはどうでしょうか。もっと大きな、目に見えるモノ、人を恐れてはいないでしょうか。神からいただいた命である魂を殺すことはできないのに、肉である体を殺すことのできるこの世の者を恐れてはいないでしょうか。それも異常なまでに。本当に恐ろしいのは、神のご支配の中に留まらないで、この世に留まることです。そこではひょっとしたら快適に、満足して生きられるかもしれませんが、しかし、大した意味もなく時間が過ぎ去っていきます。

わたしたちが今聞いている御言葉は、「恐れるな、勇気をだしなさい」です。真に恐れるべきお方のみを恐れ、イエス様こそ主であるとはっきりと表明し、主イエスと共に生きていこうではありませんか。

祈ります。
父なる神、あなたの深い御愛と御恵みに感謝します。イエス様が経験なさった悲しみや苦しみに出会うことがあっても、イエス様の弟子であることを表明し、恐れることなく、遣わされたところで弟子として使命を果たしていくことできますよう力を与えてください。また、最後まであなたを待ち望んで生きていくことができますように、どうか、聖霊の働きでわたしたちを励まし導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

11月19日の音声

 

2017年11月12日 降誕前第7主日
「迫害を予告する」
マタイによる福音書 10章16~25節

皆さん、もしキリスト者だとわかっただけで、憎まれ、石を投げつけられるだけではなく捕えられ殺されるかもしれないとしたら、それでも家族や友人、世の中の人々に、わたしはキリスト者だと堂々と知らせ、「神の国が来た」という喜びの知らせ、「福音」を伝えることができるでしょうか。今日の聖書箇所はどうしても、サラリと読み過ごすことができません。今日はとても説教を寝ながら聞くことはできません。

イエス様は公の活動を始められるにあたって、「神の国が来た」とおっしゃいました。地上の王ローマ皇帝ではなく、天の神がご支配になる国が到来したとおっしゃったのです。そして神のご支配が見えるように、その徴として、治らないと思われていたむつかしい病気の人を癒し、目の見えない人の目を開き、死人を起き上がらせるという、びっくりするような奇跡をお見せになりました。それから、使徒と呼ばれる十二人の弟子を召し出され、この御国の福音をイスラエル全土に宣べ伝えるように命じられたのです。送り出すにあたって、弟子たちにこうおっしゃいました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」(十六~十七節)。また、こうもおっしゃいました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(二十一~二十二節)、

福音を伝えるのです。「神の国が来た」という喜びの知らせです。この世界が神の御心に沿った素晴らしいものになるといういいニュースです。その御国が来たとの宣言に従事するのですから、弟子たちにはいいことが起こりそうですが、イエス様が予告なさったのは全く予想に反するものでした。「迫害される」というのです。弟子たちにはつまずきとなり、挫折しそうになるものです。狼の群れに羊を送り込むようなものだとか、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるだけであれば使命感に燃えている弟子たちなら耐え忍べるかもしれません。しかし、家族の中でさえ殺し合いが起こるというのには、耐えられそうもありません。しかも、最後まで耐え忍ぶ者こそは救われるとなりますと、死ぬまで耐え忍ぶなんてとてもできそうもないと感じます。これで、よく弟子たちは黙って遣わされていったものだと驚きます。しかも、これは当時の弟子たちだけに向かっておっしゃったことではなさそうです。マタイによる福音書を読んでおりますと、十章はずっと派遣にあたっての注意ですが、少し不思議なことに、この注意、指図を終えられた後、出かけて行かれたのは「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」(十一章一節)とありますようにイエス様です。遣わされていったはずの弟子たちの出発する様子や帰ってきて報告する場面がありません。これは、イエス様がお亡くなりになった後の新約聖書が書かれた時代の弟子たちも、今に続くわたしたちも、常にこの世に派遣されて、遣わされた場所にいるのだということでしょう。ここは特にわたしたちにも語られている言葉なのです。

先週わたくしは愛和保育園のこども祝福式に招かれて行ってまいりました。三歳の子供に接するのは実に楽しいことでした。大人がみんな親切で自分を愛してくれることだけを信じている、そんな感じがします。人は本来そういうものでしょう。わたしたちは、ぎすぎすしている関係が滑らかになり、人間関係がうまくいって成功するように願っております。ところがイエス様がここで予告なさったことは全く逆のことです。あなたがたは遣わされたところで、鞭打ち、肉親同士の分裂や争い、人々からの憎しみ、きっとこういうことを経験することになるとおっしゃったのです。イエス様の予告されたことは、そんなことは起こりませんようにと、それを回避するように最大限努力するようなことです。このような予告を聞きますと、誰も教会には来たくないでしょう。だいぶ先ですが十六章でイエス様が、自分は多くの苦しみを受けて殺されるだろうとおっしゃったとき、ペトロは直ちに言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。ペトロにとっても、すべての人に憎まれるのは、とうてい受入れ難いことなのです。ではなぜイエス様は「わたしの名のために、あなた方はすべての人から憎まれねばならない」、ルターはニュアンスを正しくと考えてこう訳しておりますが、必ずそうなるとおっしゃったのでしょう。神のご支配が来たにもかかわらずです。

確かにイエス様は弟子たちに、お金も衣服も何の準備もなく伝道の旅に出ることを命令しておられますから、彼らは大変難儀をしたでしょう。しかし、それは迫害ではありません。イエス様が十字架にお架かりになりご復活なさった後、弟子たちが福音伝道を開始した時に起こったのが迫害です。今読んでおります最初の派遣はいわば予行演習で、本番は十字架の後にやってきます。状況はずっと厳しく、イエス様を信じてひたすらまっすぐにというだけで殉教しなくてはなりませんでした。イエス様は、将来を見通して予告をなさったのです。この本番の戦いの中では、まさに「蛇のように賢く、鳩のように素直」でなければならないのです。「蛇のように賢く」状況の認識と分析をしなくてはなりません。素直とは、「混じり気がない」という意味で、純真に、いろいろな思惑を混ぜないでまっすぐ進めというニュアンスです。ですから状況を正しく把握し、しかし決して分析結果に支配されてあっちこっちへとふらつくのではなく、御心に従って遣わされたものとしての使命にまっすぐに進みなさいということでしょう。そのときの弟子たちが伝道した有様は、まさに「狼の群れに羊が送り込まれた」状態だったのです。迫害という大きな危険の中で、殉教の覚悟をしながらも、どうやって生き延びるのか賢く考えつつ、まっすぐ忠実に心を神に向けてと、おっしゃっているのです。わたしたちは決して狼に打ち勝てる虎ではありません。イエス様から授かった力だけが頼りの羊なのです。

ユダヤ人の社会では、父親が家長であり家族全員の生活に対して責任を負っていました。生活をコントロールするだけでなく、子供の教育にも全責任がありました。特に宗教的な伝統に関しては、父から子へと受け継がれていくのがこの時代の在り方です。子供はその教えに従うことが絶対に必要でした。イスラエルの伝統というのは、この服従によって維持されておりました。今の日本のように信じても信じなくても自由、個人の勝手であるというような価値観は全くありません。伝統に忠実な社会であればある程、宗教熱心であればある程、家族内の異端者に対する締め付け、弾圧は厳しくなります。今のわたしたちは、イエス様が救い主キリストだと信じていても、一生懸命伝道して人を教会に誘っても、全く危険ではありません。裁判所に引き渡されたり、鞭打たれたりもしませんし、ましてや殉教する覚悟など不要です。わが道を行くとばかりに家を飛び出して好きなことをしていても、あるいは信じるところが違っていても、仲良く暮らすことができます。しかし、当時はそのようなことが全くできなかった社会です。イエス様に従って歩むのは時に厳しい分裂を招きます。本来家族のつながりは魂に安らぎや憩いを与えますが、これが破壊され敵意を抱くようになりますと、家族関係が崩壊し、悲惨なことになります。そこには悪魔の仕業としか言いようのない事態が生じます。福音書が書かれた時代には、二十一節で語られている「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という現実が実際にあったのです。

「わたしの名のために、すべての人に憎まれる」というのはもっと深刻かもしれません。病人を癒し、悪霊を追い出すためにこの世に遣わされた弟子たち、また福音を携えて、神の平和があるようにと告げた信徒たちは、ローマの社会からは、ただキリスト者であるというだけで迫害されました。何か悪いことをしたという訳ではなく、わたしの名とおっしゃった、キリスト者という名前だけによって憎まれたのです。この時代の歴史家タキトゥスが書き記した『年代記』という有名な本に、この本は岩波文庫になっておりますから誰でも読めますが、ローマ皇帝ネロの時代に迫害されたキリスト者は、「人間に憎しみを持っている輩」(第十五巻四十四章)として裁かれたとあります。「これはわたしの体である」と宣言してパンを食べる習慣は、人肉を食っているのではないかという悪評を招きました。人々と共に娯楽を楽しむことをせず、自分たちだけで集まってパンとブドウ酒の食事をし、信徒でないものを排他的に扱う、おまけにこの世はやがて神の審判で滅びるとして人々を呪っていると誤解されたのです。今の人がオウム真理教に感じるものに近かったのではないでしょうか。自分たちだけサティアンに閉じこもって訳の分からないことをしている。何をするかわからない、人を殺すかもしれない。その名前を聞いただけで近くに来ないでほしいと思う、そんな感じです。同じ国に生まれ、同じ言語を話し、同じ市民であっても、クリストス信奉者という名前がつけば憎まれる、そういう時代でした。 まさにキリストの名のゆえに憎まれたのです。

律法を守り、ヤハウェ信仰に従う者がユダヤ人です。この民族の統合性があるからこそ、ローマはユダヤ民族として自治を認め支配の中に組み込んでいたわけです。したがってこの民族統合から外れ、異なる思想の持ち主が現れた場合、しかもそれがローマ総督が処刑した十字架上で死んだ人間を崇め、人の肉を食うなどという危険な思想の持ち主であるとするならば、たとえ親子が殺しあってでも、その存在は消されて当然だったのです。当時ローマ皇帝こそが主でした。ですからイエス様を主でありキリストであると信じる信仰は、民族統合に反しているだけではなく、ローマにとっては危険思想そのもですから、伝統を重んじるユダヤ民族としては決して認めることなどできない教えだったのです。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督の前で釈明し、殺される、これはイエス様ご自身の受難物語を想い起こさせられます。宣教においての苦難と迫害は、イエス様に従う使徒にとっては必然ともいえることです。弟子として遣わされる者にとってこの困難は明らかでしたから、最初の派遣の時から予告されたのです。

さてここまで厳しい迫害が予言されている以上、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」というのは、頑張ればなんとかなるとか、運が良ければうまくいくというようなことではないことがはっきりします。最後までというのは、文字どおり最後まで終末の時まででしょう。そのときまでキリストの弟子たちは迫害され続けるということです。しかし、たとえ最後まで耐え忍ばなければならないとしても、それは私たちの力ではなくイエス様がその力を与えてくださいます。初代キリスト教徒は多くの困難にもひるまず、黙々と伝道し信徒を獲得していきました。

今でも、広く世界を見渡せば、御国の福音を述べ伝える宣教師たちが命の危険にさらされている所が何か所もあります。アジアにもいくつかそういう国がありますし南米にもあります。今は平和なわたしたちにも、またいつ試練がやってくるか分かりません。ペトロの手紙にこんな言葉があります。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(ペトロの手紙一、四章十二、十三節)。なぜ終りの時まで、弟子の道は苦難の道であり続けるのか、それはイエス様の道が苦難の道だったからです。主は、こうおっしゃいました。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師の様に、僕は主人の様になればそれで十分である」(二十四節)からです。ご復活を通してイエス様の十字架の苦しみの意味が明らかにされた以上、わたしたちも十字架を通して新しい命へと招かれているのです。

今の日本では当時のような迫害は起こりそうもありませんし、家族の分裂や崩壊なども関係ない方も大勢いらっしゃるでしょう。けれども死は必ずわたしたちにもやってきます。しかし、罪が赦され、永遠の命に生かされているわたしたちは、そのときでも新しい命に向かって生きることができます。たとえば不治の病という逆境を証の場、証の機会ととらえ前向きに生きることもできるのです。「楽しゅうて、面白うて、笑いが止まらんわ」といって死んでいった八十七歳の婦人を知っています。夫も一人息子もなくした一人ぼっちの方でしたが、キリストと共に生きておられた大きな証です。初代の信徒にとって迫害と殉教の場所は、敗北ではなく檜舞台でした。この戦いの力は自分の中からではなく神からきます。自分の力でではありません。最終決着は神がおつけになります。神が救ってくださるのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は話すのはあなた方ではなく、あなた方の中で語ってくださる、父の霊である」(十九節以下)。聖霊によって適切な言葉が与えられ、話すべきことは父なる神が教えてくださいます。なぜならわたしたちは遣わされたものであり、お遣わしになったのはイエス様、神のみ子だからです。この信頼があれば、死という敵の中にあってなお、おびえることなく落ち着いて生きることができます。

最後まで耐え忍ぶとは、限界まで我慢せよという意味ではありません。英雄的に殉教するように生きろということでもありませんし、うまく立ち回って生き延びろということでもありません。死にいたるまでキリストに忠実であれという意味です。拒絶され敵意をむき出しにされても、たとえ身の置場もないピンチの時でも、イエス様は共にいて助け導いてくださいます。このようなとき言うべき言葉をわたしたちは知っています。「マラナ・タ、主よ、来てください」。この言葉を唱えるとき、わたしたちは蛇のように賢く鳩のように素直になれるのです。

祈ります。
父なる神、常に御言葉と聖なる霊を与えくださっていることを感謝します。また、深い慰めに包まれ、確かな希望を与えられて、イエス様に従って歩めることを感謝します。神よ、わたしたちにあなたへのひたむきな純真さと、いかなる困難にも負けない知恵をお与えください。たとえ狼の中に置かれても柔和に対処することができますように、わたしたちを強めてください。
イエス・キリストのみ名によって祈ります

11月12日の音声

 

2017年11月5日 降誕前第8主日
「十二人の弟子を派遣する」
マタイによる福音書 10章1~15節

わたしたちはいつも、ここに集まっている人々だけではなく、召された方たちとも一緒に時を超えて礼拝をしていると意識しておりますが、毎年永眠者記念礼拝の日には既に召された信仰の仲間やそのご家族を覚え、特別にお写真と共に礼拝しております。今日は既に召された兄弟姉妹をいつも以上に覚える日です。普段お目にかかる機会のあまりない御遺族の方々と共に礼拝を献げることができることをうれしく思っております。何ら特別なことは致しませんが、いつもの礼拝に加え平和の挨拶のあとで召された方々のお名前を読みあげ、生きている者と死せるもの双方に主の平和を祈ります。

今年、マラナ・タ教会は、マタイによる福音書をずっと学び続けております。今日も先週に引き続いて、この福音書から、いつも通り御言葉を聞いてまいります。

今日の御言葉は次のように始まりました。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」(十章一~四節)。イエス様は町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされてきました。この神の国の福音を聞き流さないで、自分たちのものにしようとする人が必要です。神の国に信頼し、それに身を献げようとする人をイエス様は探されました。そして十二人の弟子を呼び寄せられ、ご自身が持っておられた悪霊を追い出し、病気・患いを癒す権威をお与えになりました。弟子と呼ばれる者たちは数多くいたに違いありませんが、ここで特に十二人が呼び寄せられたのです。普通の弟子と区別して使徒と呼ばれます。ペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、この四人は漁師です。フィリポとバルトロマイ、トマスとマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダ、と二人ずつ組みにして六組、十二人の名前が挙げられています。それぞれ特徴ある人物です。十二という数字はもちろんイスラエル十二部族の新しいリーダーが意識されています。新しい神の国が、もうそこまで来ておりますから、イスラエルの失われた家、つまり昔の王国を形成した十二部族が、もれることなく意識されているのです。

マタイによる福音書は、ここから大きな第二幕に入っていきます。ここでイエス様は、まず特別な弟子たちが覚悟すべきことをお教えになります。

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり次のように命じられた」(五節)。使徒を村々に派遣するに際して、イエス様は守るべきことをお命じになられました。これは後に復活のキリストによって派遣される予行演習であったと言ってもよいでしょう。この時のイエス様の命令は、その時聞いた十二弟子たちだけでなく、他の多くの弟子たち、やがては後代の教会も聞き従うべきこととして伝えられたに違いありません。その意味でわたしたちにも語られていますから、いくつかのことを心に留めたいと思います。

最初に弟子たちは、自分から手を挙げたのではなく、召されて、つまりイエス様がお選びになって、この世に遣わされた存在であることを心に留めねばなりません。彼らは「十二使徒」(二節)と呼ばれていますが、「使徒」とは使いの徒、仲間と漢字で書きますが「お使いの者たち」という意味です。「遣された者」であるということは、自分のために何かをするのではないという意味です。ですから、使徒の派遣によって誕生することになる教会ももちろん教会を維持するために存在しているのではありません。派遣なさった主と、その派遣先であるこの世のために存在するのです。わたしたちは教会の形成に力を注ぎ、教会が成長することを願います。それは教会が神とこの世に仕えるためであります。わたしたちが信仰を与えられ、キリスト者とされているのは、自分が救われるためだけではありません。この世に仕えるためなのです。「世に仕える教会」という時に、「召されて派遣されたもの」だという理解は重要です。派遣された者にとって大切なことは派遣なさった御方の御心を行うことです。ですから教会の働きは人道的、社会的使命感からくるものとは異なります。一見よく似てはいても見ているところが違うのです。

五節の後半以下を御覧ください。弟子たちに次のようなことをお命じになりました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(五、六節)。地上におられた時のイエス様の宣教範囲はイスラエルだったので、弟子たちにもこのようにおっしゃったのでしょう。弟子の数も限られております。しかし、復活されたイエス様はこうおっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二十八章十八~二十節)。今の教会はイエス様が、異邦人のためにも弟子を派遣しておられること知っています。そして異邦人にこそ伝道しております。

この世には為すべきことがたくさんあります。しかし、遣わされている者にとって「為すべきであると判断したこと」が、「その時に、今」為すべきことであるとは限りません。繰り返しますが、遣わされている者にとって重要なことは、遣わされた方の御心に従うことであって自分から出た使命を果たすことではないからです。世界中に福音を伝えるのだというのは立派な心掛けですが、イエス様がそう命じられている時に限ります。日本の田舎でこつこつと目立つことなく働くのも同じように大切な働きです。つまり、教会はこの世に目を向ける前に、主であるイエス様に目を向けていることが重要なのです。この世の声に耳を傾ける前に、主の言葉に耳を傾けている必要があります。その順序を間違えてはなりません。

次に、そこに遣わされているのは何のためかをよく考えねばなりません。神に召された、そして遣わされた、素晴らしいことです、けれどもそこで何もしないのでは遣わされたことになりません。この世に遣わされた弟子たち、いまなら教会は何をするのでしょうか。イエス様の命令はこうです。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(七、八節)。宣べ伝えなさい、癒しなさい、生き返らせなさい、清くしなさい、追い払いなさいとおっしゃっています。教会が遣わされているわたしたちの世は、病のある世界です。死のある世界です。様々な苦悩に満ちています。「病人をいやし、死者を生き返らせる」ということは、自分たちのためであり、この世のためです。文字通りできるかもしれませんし、できないかもしれません。しかし、いかなる形にせよわたしたちが遣わされて仕える時、そこでは癒しが起こります。必ずしも医学的な癒しとは限りませんが、重要なことはそこで起こることは天の国が来たことを指し示す徴であるということです。それは神のご支配の下での恵みの徴となるのです。ですから、ただ癒しのためだけに仕えるのではなく、その前に告げ知らせるべき言葉があると語られています。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と。「近づいた」という言葉は「到来した、来た」とも訳せます。神の国が来たのだという宣言をするのが教会です。神の国が来た以上、そこには神の国の徴が見えるはずです。それが罪の赦しです。罪の赦しが観念ではなく事実であることは、穢れているとされていた人が、神との関係が回復できたことで、はっきりと示されました。それが八章、九章にずっと書かれていたことでした。わたしたちの教会が「神の国が来た」と世に向かって告げ知らせているかどうか、よく考えてみなければなりません。

「天の国は近づいた」、これはイエス様ご自身の宣教の最初の言葉です。四章に出てきましたが、こう書かれておりました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(四章十七節)。そのように、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけることでもあります。「悔い改めよ」とは、「立ち帰れ」ということです。天の国は目の前までやってきました。神が近づいてきてくださいました。しかし、そこに入るには人が方向を変えて神の方に帰ってこなくてはなりません。弟子たちは、そのことを告げるために送り出されました。教会もそのようにするべくこの世に遣わされております。ですから、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられているのです。悪霊と聞いて「おどろおどろしい霊的現象」と思ってはなりません。悪霊とは人を神から引き離す力のことです。人を捕らえて離そうとしません。神から引き離されたこの世のありとあらゆる悲惨さが悪しき霊の支配を現しています。イエス様はそんな悪霊を追い払えと命じられました。それは悪霊の支配から神の支配のもとに人を連れ戻す、本来の人間を回復する恵みの業に他なりません。ですから、悪霊を追い払うことと、天の国を宣べ伝え悔い改めを勧めることとは、一つなのです。

日本では、明治以来、神のもとに帰る、つまり罪を悔い改めて神の目に正しいものとされる信仰義認ということばかりが強調されてきました。それは神の国が来たからそうすべきなのですが、神の国は語られませんでした。ですから、そこに神の国とは比較にならない小ささなのに、人にとっては大きな国が登場した時、全く太刀打ちができませんでした。大日本帝国です。天皇を頂点とする富国強兵の制度に抵抗することができなかったのです。日本では、預言者とも呼ばれる立派な無教会の指導者も優れた伝道者も、みんな国家の前に無力でした。天皇制を否定できず結果的に侵略戦争に協力しました。「神の国が来た」、いま神の国に自分は住んでいる、死んでも生きるのだとは信じ切れなかったのです。

最後にどのようにしてこの務めを果たすのかということも考えねばなりません。キリストは弟子たちを遣わすにあたり次のように言われました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(九、十節)。ほとんど物乞い同然の姿で弟子たちを送り出されたのです。大きな務めを与えられて遣わされるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを何一つ持っていくことは許されませんでした。では本当に何もなかったのでしょうか。全く何も無かったのではありません。最初に申し上げましたように「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」のです。この権威・権能は、もともとキリスト御自身の権威・権能です。彼らは、そのキリストの権威を受け取って、その権威を携えて出て行くことが許されていたのです。これは恵みの賜物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(八節)と命じられております。弟子の働きは、このただで与えられたもの、恵みの賜物として与えられたものによって成し遂げられるのであって、彼らが持っていける金貨などの他の何かによるのではないのです。

この戒めは極端に聞こえるかもしれません。何も無かったら宣教の働きはおろか旅を続けることさえ不可能ではないかとも思います。そして実際に今日の教会は多くのものを持っています。経済的にも自立しています。多彩な才能を持った方もいらっしゃいます。ですから持っているモノを活かしてこそ教会の宣教の働きが続けられると考えてしまいます。わたしはまさにそうでした。キリスト教会こそ、この世に与えることのできる多くの価値や教えがあると考えておりました。歴史に裏打ちされた価値や伝統、ヒューマニズム、芸術性、人間性への深い洞察、宗教心の理解などです。キリストについて何も知らないこの世の人々にイエス様を信じる価値をお知らせしようと。一方で、全く逆に考えている人もいるかもしれません。自分たちは豊かでないし、能力も乏しく、教育もなく、知識も経験もないから、この世に与えることのできる何ものをも持っていないと。教会としてあるいは個人としてそのように考えているかもしれません。どうでしょうか。どちらもイエス様に注目せず、自分たちの能力に注目しています。

わたしはいま、自分の力や、能力、何か持っているものには、ほとんど頼らなくなりました。教会で働いていると頼れなくなるのです。年をとったからかもしれません。そこで何をしているか、皆さんに「平和があるように」と、あいさつしているだけです。皆さんもそうではありませんか。そうすると若い人たちが、助けてくださるようになりました。宗教改革五百周年記念のコンサートをマラナ・タ教会主催で、あのように素晴らしいものに導けたのは、多くの方々の協力があったからです。キリスト者でない家族や友人の方々の働きの方が大きかったと思います。それをこの世から引き出せたのは、献身的な信仰者の祈りであり、一部の教会員の懸命の努力でした。

今日は大切な三つのことを学びました。第一に、わたしたちはこの世に遣わされたものであり、したがって明確な使命を持っていること。第二に、その使命とは神の国が来たことを告げ、罪が赦されて神との関係が回復すると宣言すること。第三に、その活動は資金や自分の力に頼らないで行なうということです。結果は、どうなるかわかりません。主がおっしゃった通りにしようと思います。「遣わされた地にとどまり、人々と平和のあいさつをします。もし拒絶されたら出ていきます」。最後の裁きは主に委ねます。教会が、誰に向かって、何を、いかに語るか、それは人々のありようや宗教心を観察し分析することも必要でしょうが、イエス様の言葉どおりに行うことが一番です。

祈ります。
父なる神、永眠者記念礼拝を今年も守ることができました。召されて世に遣わされたわたしたちが、神の国に生きていることを覚えました。御国の福音に生きることができますように。今日はご遺族の方々と共に礼拝できたことを感謝します。生きているものも、死んだ人も等しく守り、祝福してください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

11月5日の音声

 

2017年10月29日 降誕前第9主日
「ファリサイ派の誤解」
マタイによる福音書 9章27~38節

覚えておられる方もいらっしゃると思いますが、今聞きました三十五節の言葉、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」は、半年ほど前に聞きました四章の最後、イエス様のガリラヤ地方での伝道の働きの締めくくりの言葉、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(四章二十三節)とほぼ同じです。このほぼ同じ言葉の間に囲まれている部分、つまり五章から九章までがひとかたまりになっておりまして、イエス様ご自身が、言葉と行いによってお働きになった姿が具体的に描かれています。教え、宣べ伝え、いやされた記録です。五章から七章には有名な「山上の説教」が出てまいりました。また八章から九章ではいやしを中心とした奇跡が記され、イエス様の宣言された、御国の福音、神の国が来たことの徴として、神のご支配のもとで人の罪が赦され、病人がいやされる様子が描かれております。数えますと十の奇跡物語が出てきますけれども、ここで前半の重要な部分が終わります。こういう締めくくりの部分に何が書かれているのかは、大切であります。

今日はその最後、第九、第十の奇跡物語と、三十五節以下のイエス様の勧めを聞きました。「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった」(二十七~三十節a)。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ盲人は、まさにイエス様が、メシアであると直感しております。「ダビデの子」とは油注がれた者、メシア、つまり救い主という意味ですが、この福音書では久しぶりに聞く称号です。一章一節、「これはダビデの子、イエス・キリストの系図である」と始まったのです。ダビデは、イエス様より千年前のユダヤ初代の王ですが、このダビデの末から真の王が生まれ、その王座はゆるぎなくとこしえに続くという預言者ナタンの約束(サムエル記下七章)は、ユダヤ人ならみんなが知っておりました。したがって「ダビデの子よ」と呼びかけたのは、イエス様を、ユダヤの王としたということです。政治的称号ですから、ローマ帝国の支配下にあるガリラヤで、こういう言葉が独り歩きすると大変危険なことでもありました。

二人の盲人はイエス様にすがりました。この盲人たちは、何をして欲しいと具体的には言っておりません。しかし、イエス様は「わたしにできると信じるのか」と信仰を確かめられ、「はい、主よ」という返事を聞いた上で「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃり、二人の目に触れられたのです。盲人たちは、イエス様を「主」と呼んで頼っています。これはわたしたちと同じです。イエス様はわたしたちにも「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃっているのです。盲人たちの信仰はわたしたちの信仰として受け継がれています。ですから「主よ、憐れんでください」という祈りは、この後ずっと今日に至るまで唱え続けられております。わたしたちも「キリエ、エレイソン」とラテン語で祈ることがありますが、「キリエ」はギリシア語では「キュリエ」で、「主よ」という意味、「エレイソン」はギリシア語では「エレエーソン」、「憐れんでください」という意味です。ギリシア語がほぼそのままラテン語になりました。「南無阿弥陀仏」に相当する、わたしたちの信仰を一言で表す祈りの言葉です。

「イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」(三十,三十一節)。なぜイエス様が誰にも知らせてはいけないとおっしゃったのか、はっきりと書いてありませんが、申し上げたように、この話がうわさとして広がると、救い主が来た、ユダヤの王が来られたとなって、熱狂的な独立運動が起こりローマの弾圧を予測されたからではないかと思います。しかし、イエス様が禁じられたにもかかわらずこの盲人たちは、その地方一体に言い広めたのです。先週聞きました指導者の娘が生き返った話や出血の女性の癒しも、地方一体にうわさが広まったと二十六節にありましたから、これ以上、うわさが広がることをお望みにならなかったのでしょう。

次に、第十番目の奇跡として口のきけない人の癒しの物語が出てきます。「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った」(三十二~三十四節)。この最後の奇跡物語は、「悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れて来られ、悪霊が追い出されると、その人がものを言い始めた」と極めて簡潔に書かれています。この人の信仰も、感謝の言葉も、何も書いてありません。焦点は奇跡にではなく、群衆とファリサイ派の反応に置かれています。群衆は出来事に驚きますが、肯定的に受け取っています。旧約聖書にはモーセが海を従えた有名な話や、エリヤやエリシャが死んだ子を生き返らせた話がありますが、盲人が見えるようになった、口のきけない人が話せるようになった例はありません。まさに、こんなことは今までイスラエルで起こったためしがないのです。しかし、にもかかわらずファリサイ派は否定したのです。この男は悪霊の頭だと言いました。悪霊を追い出せるのは悪霊の親分だからという理屈です。イエス様が誰であるのか完全に見損なっております。目が曇っていたのです。見ていても見えていなかったと言えるでしょう。

毎週火曜日の朝に持たれています聖書を読む会では最近、旧約聖書の預言書ミカ書を読んでおります。あまり皆さん通読をなさらない箇所かもしれませんが、クリスマスにしばしば朗読される預言書です。ミカは、イザヤと同じ時代の預言者で、戦争の危機が迫る中で、ある時は平和に傾き、ある時は戦わざるを得ない状況に傾く大変困難な時代に生きた人です。彼は、今は戦いの危機にあるが、やがて終わりの日には神が数々の奇跡をなさると言って、足の萎えたものは歩き、目の見えないものの目が開き、口のきけない人が話し、死者が生き返ると語っています。マタイによる福音書でも二章六節にミカ書五章の有名な言葉「ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」が引用されておりますように、ユダヤの人々はこの預言者の言葉をよく覚えておりました。八、九章でわたしたちが経験したことは、まさにミカや、イザヤが預言した通りでした。重い皮膚病の人が癒され、異邦人の僕が病気を治してもらい、中風で歩けない人が歩き、死んだ娘が生き返り、今日聞きました物語でも、盲人が見えるようになり、口のきけない人が話せるようになりました。民衆はとうとう神の国が来た、預言の通りの奇跡が起こっている、神のご支配が来たのだと実感したでしょう。

ところが、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。神の国が来たというイエス様の宣言を、本当だとは信じなかったのです。イエス様のなさった病の癒し、罪の赦しを間近に見ても、これほど明確に示された神の御子の啓示を受け入れず、こんなことは見たことがない、これは悪霊の頭の力を使って、悪霊を追い出しているにすぎない、イエスという男は、悪霊を追い出すことのできる悪霊の親分なのだと言ったのです。ファリサイ派は、厳格なユダヤ教徒です。旧約聖書をよく読んでいました。旧約聖書の教えに忠実でしたし、宗教活動に敬虔な姿勢で臨み熱心でもありました。当時、最もよく信仰を理解し実践していた人たちです。しかし、彼らはイエス様のなさった徴を素直に受け取ることなく、イエス様を否定し非難したのです。このことはこれからの更なる対立を予想させます。

今日の説教題が「盲人の癒し」や「口のきけない人の癒し」ではなく、「ファリサイ派の誤解」であるのは、わたしたちが、特にわたしがですが、ファリサイ派の姿に自分を見るからです。イエス様の神の国が来たという宣言を聞き、その徴を見たイスラエルの人々の反応は二つに分かれました。群衆は奇跡が起こったことを見て、神の国が来たと思ったのに対し、ファリサイ派は、悪魔の親分だと言ったのです。わたしたちはどうでしょうか。まさか悪魔の親分だとはさすがに言いませんが、神の国が来たというイエス様の御言葉をちゃんと聞いているでしょうか。わたしたちの信仰の土台は、イエス様に従うこと、イエス様を信頼することです。示された徴をはっきりと見て、神の国が来たことを理解しているでしょうか。「神の国が来た」とこの世に向かって叫んできたでしょうか。自分が救われるかどうかばかりを気にしていないでしょうか。自分の信仰、マラナ・タ教会の信仰ばかりが気になって、あの人はまだまだだなと裁いてしまっていないでしょうか。なんであんな奴が一緒にいるのだというのはファリサイ派の反応です。わたしは自分のうちに深く巣くっている律法主義に最近やっとはっきり気付きました。

わたしたちキリスト者は、御国の福音「神の国」の到来を感謝して生きているでしょうか。「神の国」では、神との正しい関係、義があります。罪が赦されキリストの平和をいただきます。喜びがあります。これは現実の厳しい社会で生きるわたしたちにとって決して幻想ではありません。イエス・キリストにおいて成就した新しい現実であります。わたしたちはただ個人的に悔い改めるだけではなく、ともに祈りつつ、落胆せずに働き続けるのです。これができれば、たとえ、今の日本にあっても、教会は人々が集まるところとなります。かつての戦前・戦中のような極端な厳しい現実に立ち向かわねばならない時でも、自分の信仰や、自分の国をよしとして、神の国と取り違えるような過ちは起こらないはずです。

さて九章の最後で、イエス様の働きについて、結論として語られていることを読みます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(三十五節)。ここで今日最初に取り上げましたこのひとかたまりの最後の言葉が出てきます。御国の福音が宣べ伝えられ、癒しが行われ、イエス様の活動はすべての町々や村々に及び、イスラエル中に知られることになったのです。旧約聖書の言葉が成就しました。

三十五節の言葉に、次の大きなかたまりが続きます。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(三十六~三十八節)。イエス様は、町や村を回っておられるとき、群衆が弱りはて、打ちひしがれている姿をご覧になりました。説教を聴く人々も疲れ果て、病気の人が次々と運び込まれてきたのでしょう。「弱り果てる」とは強い言葉です。「皮を剥がれ、ずたずたに切られる」という意味ですが、迷子になった羊が、あちこちさまよって岩にぶつかり、木の枝にひっかかって傷ついた様子を言います。当時はローマの支配下にあって、表面上は平和でした。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは王宮を美しく建設し、社会は一見繁栄しているかのようでした。しかし、ユダヤの伝統宗教は、アレキサンダー大王以来のヘレニズム、ギリシア化、そしてローマ化政策に押し流され、大祭司も権力者におもねっていました。良心的には虚脱状態で、飼う者のいない羊の様だったのです。まさに「イスラエルの家の失われた羊」(十章六節)だったのです。イエス様はこういう彼らの姿を見て、深く憐れまれたのです。はらわたまで揺り動かされるほど深く同情なさいました。聖書には同情や憐れみを表す言葉がいくつもありますが、このはらわたがちぎれるほど深く憐れむという意味の「スプラングニゾマイ」は、イエス様だけに使われる言葉です。

イエス様は飼う者のいない羊のような民衆への憐れみから、弟子にもご自分の権威を授けられます。弟子たちには、はらわたがちぎれるほど深く憐れむなどということは到底できません。しかし、小さなものではあっても滅びつつある魂への憐れみがあれば、どうしても伝道せざるを得ないのです。イエス様に委ねられて教会は懸命に伝道します。気の毒だなとか、貧しくて大変だなとかの表面的な感傷ではなく、主がユダヤ人群衆を見てお感じなった、隠された魂の痛み、心の空白、霊的虚脱への配慮がわたしたちを押し出します。

福音の宣教と癒しの業による伝道は収穫が多いのです。しかし働き手が足りません。イエス様はもっと多くの働き手を求めて祈るように言われています。飼う者のいない民衆への宣教を収穫する面からみると憐れみが支配的です。神の国への招きです。しかし、一方で収穫は裁きを表します。切りとられて選別されるときでもあります。麦の実は倉に入りますが、もみ殻は焼き払われます。毒麦と良い麦も選別されます。滅びへの道であるかもしれないのです。終わりの日に、罪赦されてみんないっしょに食卓を囲む希望と共に、火で燃やされるかもしれないという事実からわたしたちは目を背けてはならないでしょう。おごそかに神の計画を覚えて伝道しましょう。

祈ります。
父なる神、イエス様は神の国が近づいたとおっしゃいました。奇跡を見せてくださいました。神の国での病気や苦難からの回復を示してくださったこと、わたしたちを憐れんでくださっていることを感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたのご愛に応え、喜んで従っていけますよう導いてください。イエス様の働き手として用いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

10月29日の音声

 

 

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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