降誕前~待降節2017

2017年12月17日 待降節第3主日
「広い道を通せ」
イザヤ書40章1~11節

クリスマスまでいよいよあと一週間です。待降節に入ってから、イザヤ書・エレミヤ書と旧約聖書から救い主、キリストの誕生を待ち望む言葉を聞いております。今週は再びイザヤ書から、神がどのようにクリスマスを備えていてくださるのかを学びたいと思います。

生きることに疲れてしまったのではないかと思える人を見かけることがあります。注意して周りを見ますと、人生に疲れ切ったような人や、その予備軍と思える人は少なくありません。疲れたというのが肉体的なことなら、十分な睡眠とおいしい食事で元気になれるでしょう。しかし生きることに疲れ、人生の重荷を背負って心が疲れてしまうと、なかなか疲れが取れないだけでなく、自分自身を責めたり、あるいは他人を責めたり、どんどん悪いほうに落ち込んでいき、目の前に大切なものがあっても気づかず、そこに何か美しいものを見ることができなくなります。このように疲れに屈して心が折れてしまいますと、憔悴して投げやりになっていきます。今日の預言者の言葉を聞いていたユダヤの民、ユーフラテス川のほとりに座って泣いていた囚われの人々は深刻な状況にありました。国が破れ遠いバビロンに引いてこられて、捕囚の状態が長く続き精神的に荒廃していたのです。自分に対する信頼がありませんから、前途に何かを期待することなどできない状況でした。夢がないわけではないのですが、いつも暗い側面が付きまとい、中途半端な夢でした。多くの人は希望を失い、生きることに無気力で、解放を待ち望むことなどできなくなっていたのです。

イザヤ書四十章から五十五章までの作者は、普通「第二イザヤ」と呼ばれます。どんな人か名前すら分かりませんが、二度目のバビロン捕囚の時から五十年くらい後の人ですから、おそらくバビロンで生まれた人でしょう。この預言者は特に想像力が豊かな人です。天上の天使たちの会話を垣間見るように幻を見ます。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と」。天使たちが「あなたたちは民を慰めよ」と神から言われた言葉を語り合っています。この「あなたたちは民を慰めよ」は、音楽が好きな方ならよくご存じのヘンデルのメサイヤにも出てくる有名な言葉です。以前にも申しましたが、「慰める」とは「揺ぎない愛を示す」こと、力づけ励ますことです。「罪の赦し」と同じです。エルサレムは神の憐れみによって罪が赦され苦労の時代は終わった、いまや人びとの咎は償われて、これまでの罪のすべてに替えて二倍の報酬を受けるのだと宣言されています。エルサレムとは町の名前であると同時に、国を失った民を指しています。目に見えない処で捕囚が終わる神のご計画が進んでいるのです。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」(三~五節)。祖国パレスティナはバビロンから見て真西にありますが、途中がずっと砂漠です。まっすぐ西には行けません。実際に帰還するならばユーフラテス川をさかのぼり、北のハラン、今のシリヤ北部まで行って、そこから南下します。大昔に民族の祖アブラハムが通った有名なルートです。北へずっと大周りしてパレスティナのエルサレムに至ります。そのバビロンと祖国の間にある荒れ地、砂漠に広い道を通せと呼びかけられたのです。つまり、この誰も通れないところに、いわば高速道路を作れと言われたのです。谷を埋め、山や丘を削って、デコボコ、ガタガタではないサーと渡って行ける広い道を作るのです。谷は身を起こし、山は身を低くせよ、と文学的に語られております。バビロンでは広い道は王とイシュタール神の神輿だけが通る道でした。砂漠にもかかわらず、まっすぐ西に向かって祖国に通じる広い道を通すのです。そこを主なる神が平和の王として通られるからです。

「主の口がこう宣言される。呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(六~八節)。

呼びかけよと、預言者は任務を授けられています。しかしそう言われても、生きるのに疲れた人に向かって「砂漠に広い道を作ろう、今度こそ帰るのだ」と呼びかけても、「お前はあほか、もうちょっとましな預言を語れ」と言われかねません。預言者は希望を語っているつもりでも、聞いた民は驚くだけでなく怒ったでしょう。預言者は、何と呼びかければよいのかを神に問います。答えはこうでした。砂漠を超えてくる熱風が吹くと、草は枯れ、花はしぼむだろう。一晩で緑の草と赤い花が茶色の汚い枯れた草や花になってしまう。それがお前たちの見ている現実なのだ。人はみなこの草に等しいのだと神は言います。運よく長らえて花を咲かせても、この野の花と一緒で、一晩で枯れてしまう。裁きの風が吹くと一瞬にして枯れてしまうのがお前たち人間なのだと。確かに神を見失っても仕方がない現実がありました。しかし、神の約束はそんな儚いものではない。お前たちを必ず祖国に帰す。ここで言われているのは、人間のはかなさではありません。神の言葉の確かさです。神の言葉はとこしえに立つ。変わることなく、倒れることがないのです。荒れ野に道を通せと言われます。神はわたしたちをじっと見ておられます。そしていつも言葉をかけてくださるのです。「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛した。恐れるな、わたしはあなたとともにいる」(四十三章四、五節)。これが預言者の聞いたゆるぎない神のことばです。神の言葉はわたしたちのすぐそばにあります。必ず現実のものになり、永遠に変わることがないのです。わたしたちが神に信頼し御許に立ち帰るならば、希望があります。

「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」(九~十節)。シオンはユダの首都エルサレム全体を象徴的に指します。良い知らせをエルサレムに告げるのです。見よ、主なる神を。力をもって来られる。いよいよ祖国に帰れるのです。主に贖われた者として、主に従い主と共に進むのです。いま必要なのは神に信頼し神に立ち帰ることです。このまま暗闇の中に座すことではありません。この預言者の言葉は驚くほど明るく前向きです。

こういう言葉を聞くと、わたしたちは預言者の神理解、信仰に驚きます。しかし、囚われの人びとは励ましを聞いても、そんなものは何の助けにもならないと弱々しい苦笑を浮かべました。現実はきびしいのだ。総てを忘れて生きていけたらいいのだが無理だと分別のある人は言ったことでしょう。今も耳にします。生活があるのです。アルバイトが忙しいのです。クラブ活動です。信仰の生活ですか、それもいいけど、現実を見てください。疲れているのです。家族の世話があります。遊びにも行かねばなりません。礼拝などできる人は現実離れしているか、恵まれた人です。よく聞きます。その通りかもしれません。わたしたちの河北地区では礼拝する人は千人に一人ほどです。統計によると、枚方、交野、寝屋川、四条畷四市に住む八十万人の中で、礼拝する人は八百人ほどです。日本基督教団に限れば三百人くらいです。人口一万人当たり四人です。礼拝する人は、この世では超例外的存在です。特殊です。でもこの預言者は言います。終わりに近い五十四章の一部を読みます。なぜ彼が砂漠に広い道を通せと信じられないことを言い得たのか、どういう神理解をしていたのかがよくわかる箇所です。「わずかの間わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる」(五十四章七節以下)。

外国に囚われるような悲劇、困難は外から来るとわたしたちは考えます。バビロンという強い国のせいで、不幸にもエルサレムは滅びたのだと。人生を暗くする闇の支配、そこから来る苦悩は外から来ると考えます。「これこれのせいなんです」とよく言います。歳のせい、病気のせい、会社のせい、あいつのせい、親のせい、よく聞く言葉です。そしてなんとかその原因と戦います。戦うべき相手はいつもどこか外にあります。しかし彼は言います。「わずかの間、わたしはあなたを捨てた、ひと時、激しく怒って顔をあなたから隠したと主は言われる」。本当の原因はだれか外にあるのではなく、わたしたちの神なのだと語ります。神が我々から身をひかれた。あたかもわたしたちを見捨ててしまわれたかのように思うけれども、そうではない。たとえひどく堕落した人間であっても神が一方的に関係を断ち切ることはなさらない。いつも、どこにいても愛してくださる。「あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ」(四十三章一節)と、おっしゃいます。神はわたしの名前を呼んでくださるのです。しかし、神が身をひかれると、わたしたちは何も感じられなくなります。顔を隠されてもわたしたちを見ておられるのですが、それにもかかわらず、わたしたちはまったく神を見なくなる。こういうことが起こるのです。適切なたとえかどうか分かりませんが、太陽はいつも地球を温かく照らしている。決して地球から離れません。もし離れたらわたしたちには完全な闇と滅びしかないでしょう。ところが夜になるとまるで太陽がなくなってしまったかのように思ってしまう。じつは昼間の熱で空気が十分暖かいにもかかわらず、暖かさを感じられるのに顔を隠した太陽はもうないかのように思ってしまう。生きるのに疲れた暗い気持ちとは神を見失っていることの「しるし」なのです。実際にはあるものが見えない。

人生の中で出会う深い疲れ、これを克服する唯一の方法は、その原因を外的環境や人のせいにするのではなく、神の気まぐれに気付くことです。神を観念的に絶対者だなどと思うから、どうしてこんなことが起きるのかという意味のないつぶやきが出ます。神がわずかの間、わたしたちを離れてしまわれたことを知らねばなりません。そのわずかの間に、神との正しい関係を失ってはなりません。もし神と親しい関係にあるのなら、このつらい環境はいずれ終わるはずだとわかります。この認識があれば生きる疲れを乗り越えていける、そう預言者は言っております。神は、ほんのわずかの間、試練としてあなたを捨てた後、再びあなたを引き寄せて抱きしめてくれる。時に激しく怒ったとしても、とこしえのいつくしみを持ってあなたを憐れまれる。先ほどお読みした五十四章でそう語っています。

この預言者の言葉はすぐに実現しました。ペルシアがバビロンを滅ぼし、ユダヤ人を解放したのです。祖国への帰還が実現します。しかし、本当の意味で実現したのは、かなり時間が経ってからです。そうです、わたしたちがよく知っている出来事です。約五百年後、荒野で叫ぶ者の声がしました。「立ち帰れ、悔い改めよ」。主の道を整え、その道を広くまっすぐにせよと叫んだ人が出現しました。バプテスマのヨハネです。そしてその広い道を通られる神の御子がお生まれになりました。このお方が、今わたしたちが待ち望んでいるキリストです。ナザレ村のイエスというお方です。夜、暗くなってから月をご覧になってください。月が光っているのは、太陽が照らしているからです。真夜中でも太陽はわたしたちを照らしています。神の光も一緒です。真っ暗だからと言って、一時的に見えない神の光りを、完全に失ってしまったかのような錯覚に陥ってはなりません。光はいつでも見られるのです。今のお前とまったく違うものになれ、なれるのだとイエス様はおっしゃいました。「自分の十字架を背負って、わたしについてこい」と。その時、神がはっきりと見えるからです。

恐れなくてもよい、神は見えなくても働いておられる。お前たちを愛しておられる。解放されるのだ。この良い知らせを高い山に登って、声を上げて町々に知らせましょう。必ずしも駅や道端で、声高に叫ぶ必要はありません。家族や友人にはっきり告げるのです。

十一節を、少し言葉を補ってお読みして終わります。「神は羊飼いとして、ご自分の群れであるわたしたちをゆたかに養い、その御腕をもって、散らされて神を見失ったわたしたち羊の群れを再び集め、小羊をふところに抱き、その母を一緒に導いていかれる」。神が見えない、神の声が聞こえないのは、神が悪いからではありません。わたしたちが見よう、聞こうとしていないのです。アドベントのこの時に、人のもつ闇、深刻な疲れに光りが射していることを覚えて感謝しようではありませんか。今イザヤ書の言葉を聞くわたしたちすべての者に、疲れているもの、重荷を負って苦労しているもの、痛むものに主の平和がありますように。

祈ります。
父なる神、御名が崇められますように。わたしたちの深い闇、深刻な疲れに光りを射し込んで、励まし力づけてくださることを感謝します。あなたの言葉は永遠に変わることがなく、常にわたしたちのすぐそばにあります。このことをわたしたちが深く知り、あなたに信頼し立ち帰ることができますようにお支えください。アドベントのこの時期、天においても地上においてもあなたのご栄光が清かにあらわされますように。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

12月17日の音声

 

 

2017年12月10日 待降節第2主日
「神の裁きの預言」
エレミヤ書 36章1~10節

今日は、困難の中で神以外の何かにすがるのではなく、そのようなときにこそ真に神に立ち返り救い主を待ち望んだ信仰について、預言者エレミヤの言葉から考えてみたいと思います。わたしたちは、どうしても、「あれもこれも」追い求めます。しかしエレミヤは厳しく問うのです、「あれかこれか」を。わたしたちにとっての「あれもこれも」は「神も金も」であり、「信仰も成功も」であり、「礼拝も繁栄も」そして「献身も安心も」です。エレミヤは、神だけを求めよと言っています。そうでないと、神の裁きが分からず、裁きが分からないと赦しが分からないからです。正しく神を頼っているかどうか、わたしたちと主なる神との関係はどうかと真剣に問わねばなりません。待降節にふさわしい、旧約聖書からの御言葉です。

今日聞いた御言葉は次のように始まります。「ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。『巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい』」(一、二節)。ヨヤキムの第四年は運命的な年でした。その年、世界の主導権が、エジプトからバビロンに移り、若きバビロン王ネブカドレツァルは勝利の上に勝利を重ねていたのです。ユダにもその足音が迫っていました。今から約二千六百年前、紀元前六〇五年のことです。ユダ王国はこれよりもずっと昔、アッシリアによって滅亡寸前にまで追い込まれたことがあります。その時のユダの王ヒゼキヤは、最初にアッシリアの王センナケリブに占領された際、法外な要求の金銀を贈り何とか乗り切りましたが、その後アッシリアの力が弱ってきたと見て、一方的に独立を宣言し、朝貢を中止し隷属関係を破棄しました。しかし、やがてアッシリアは力を盛り返し、報復のために都エルサレムを攻め、包囲したのです。この絶体絶命の時、聖書には「主の御使いが」アッシリア軍を全滅させたとの驚くべき記述があります。包囲したアッシリア兵十八万五千人がわずか一夜のうちに死んだので、王センナケリブは自分たちの都ニネベまで退却したと記されております(参;歴代誌下三十二章、列王記下十九章)。この出来事でエルサレムは不滅の都であるという迷信的な信仰がユダの人々に広まりました。これは日本海海戦でロシアのバルティック艦隊を全滅させたことから、帝国海軍は不滅であるという迷信が明治から戦前までの日本人の中に広まったことを思い出させます。アッシリア軍を疫病が襲ったのか、何があったのかはっきりしませんが、劇的で記憶に残る出来事でした。エルサレムは奇跡的に守られたのです。預言者イザヤの時代です。イザヤ書三十七章にも、その時の記事が出てきます。ヨヤキムの時代から約百年前の前七〇一年のことでした。

その後、ユダ王国はアッシリアに従うふりをしたり抵抗したりしながら、王がヒゼキヤからマナセ、アモン、ヨシヤと交代します。そうこうするうちにアッシリアは急速に衰え、代わってエジプトがユダを支配下に置くようになりました。そのエジプトがバビロニア帝国に打ち負かされたのが、先ほどのヨヤキム王の第四年、紀元前六〇五年です。今度は、新興国バビロンに貢物を納めるかどうかということが難しい判断になりました。このように外交で周辺の大国に翻弄され続けましたので、内政でもアッシリアの神の像を捨てたりまた導入したり、信仰が揺れ動き、ヨシヤ王の時代には「宗教革命」といえるようなことがおこりました。大混乱です。エレミヤが活躍したのは、そんな激動の時代でした。国内の宗教改革運動とその反動、そして外敵による国策の右往左往が一緒になって混乱に次ぐ混乱の時代でした。

エレミヤはエルサレムから六キロメートルほど北にある町アナトトの祭司の家に生まれました。ヨシヤ王による宗教改革で、礼拝をエルサレム神殿に集中し地方聖所が廃止されましたので、地方神殿の祭司は職を失うという時代状況の中、自分は祭司になれなかったのですが、父親を見て育ちましたから、民に向かって「あなたに主の平和があるように」と祝福の言葉を告げる時に、神の祝福の業が起こると信じておりました。しかも、エレミヤは、国王に律法を指導する教師であったという説があるくらい、王権に近かった人ですから、困難な時には神殿に行って神と人との間に立って祝福を祈りたかったと思います。ところが、エレミヤは神によって無理やり預言者の務めに召しだされたのです。民に神の怒りを告げ、「悔い改めなければ滅びるぞ」と語らなければならない、大変つらい使命を負わされました。

そして先ほどのヨヤキムの第四年に、エレミヤは「あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」と神に命じられ、ヨヤキムの父ヨシヤ王の時代に召命を受けて以来、神がイスラエルとユダ、および諸国についてエレミヤを通じて語られたすべての言葉を巻物に書き記すことになったのです。エレミヤが語りバルクという弟子が書き記しました。これが今のエレミヤ書のもとになった巻物です。「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」(三節)。もし立ち帰れば、あなたたちユダの人々の罪と咎を赦すと神は語られました。民が立ち帰るわずかな可能性に期待されていたのです。バビロンが攻めてくるかもしれないと人々が不安に思い始めたとき、エレミヤが最初に語ったのが「悪の道から立ち帰れ」でした。「帰る」という旧約聖書の言葉「シューブ」は、神との良き関係に戻ること、新約聖書の「悔い改める」の元になった語です。神は災いを下すことを望んでおられるのではなく、関係の回復を望んでおられる、今何よりも大切なのは「悔い改めることだ」、立ち帰ることだというのが危機の時エレミヤが語った言葉なのです。エレミヤはバルクに「お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい」(六節)と命じます。

なぜ、エレミヤが直接自分で人々に語らなかったのか、そういう疑問が出ますが、実はこの時エレミヤは主の神殿に近づくことを禁じられていたのです。どうしてかといいますと、かつて彼は「外国の軍隊が北から攻めてくる。これはお前たちの神への信仰が揺らいでいるせいである。この際、敵に降伏してでも、神への信仰を取り戻すべきだ」と主張したからです。ところが実際には外国の軍隊に攻め滅ぼされるようなことは起こりませんでした。二度もそんなことがあってすっかり信用を失っていたのです。エレミヤと対立する預言者は「主の神殿、主の神殿、主の神殿」(七章四節)と言いました。つまり主なる神の神殿がここに現にあるのだから、主が必ず我々を守ってくださる。大丈夫、決して滅びることはないと、おまじないのように「主の神殿」と唱えていたのです。昔アッシリアに攻められた時も大丈夫だった、エルサレムは決して滅びないと繰り返したのです。必ず敵に勝てるのだと言いました。不安を押し殺し根拠のない強がりを言い張ったのです。しかし、エレミヤは悔い改めよと語り続けました。神の裁きが下るのだ。我々はバビロンに連行される。敗戦という形で神の裁きが実現すると預言しました。信用を失っていた上に、そんな国家への裏切りのような否定的なことを言ったものですから、「敵に負けるだって、降伏した方がいいだなんて許せない。あいつの言うことは自虐的でうそばかりだ。非国民だ、バビロンのスパイではないか」と責められて、祭司階級に属する貴族であり、王の側近だったにもかかわらず、彼は危険人物とみなされ神殿へ上ることを禁止されていたのです。

人々から憎まれていたエレミヤでしたが、彼の言葉通りこの巻物は次の年ヨヤキム王の第五年に、エルサレムの全市民及びユダの町々からエルサレムに上ってくるすべての人々の前で、バルクによって朗読されました。ここでバルクが朗読した中身が具体的に何であったかは分かりません。先を読むと一日に三度読むことができる量ですから、それほど長いものではなかったでしょうが、悔い改めよ、そうでなければ、バビロンの王が来て必ずこの国を亡ぼすという内容が中心であったことは確かでしょう。その言葉を伝え聞いた王の高官たちがバルクを呼びつけて何を語ったのかを尋ね、聞き終わると「おののいて互いに顔を見合せ、これはすべて王に伝えねばならない」(十六節)と判断したとあります。祝福か呪いか、つまり、悔い改めて祝福に与るのか、今のまま神以外のいろんなものを頼って神の呪いを受けるのか、あれかこれかを迫られたでしょう。王にとって極めて耳の痛い批判です。この時、王がいかに腹を立てたかは、エレミヤの助言を無視、巻物を全部燃した(二十三節)ことからもわかります。民の代表である王は、神の言葉を拒否し、現実的な力の外交に頼ったのです。神に立ち帰れませんでした。預言者の言葉を聞き立ち帰るようにと招かれた神の期待に応えることができなかったのです。

この時、エレミヤの巻物に記されて読まれたであろうことを、少しだけ見ておきたいと思います。エレミヤ書をあちらこちら引用しますが、お聞きください。「人の心はなににもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(十七章)。滅ぼそうとされているのではなく、立ち帰ることを期待しておられる神は、ユダの人々が罪を認識しないで、自分は正しいとして悔い改めようともしないことを嘆かれたのです。エレミヤは敵であるバビロンの王ネブカドレツァルを「神の僕」として、そのユダを裁くために神から遣わされた道具と見ています(二十五章九節)。注意深く聖書をお読みになっている方のためにひとこと付け加えておきますと、ネブカドネツァルと、ネブカドレツァルは同じ人物です。ネとレはヘブライ語の表記では、ものすごく似ていて区別がつかない場合がありますので混同が見られます。エレミヤは神の僕である異国の王に服従せよと主張しています。神は異国の王をも用いてユダを悔い改めさせようとされていると言ったのです。しかし、これは国家に対する反逆と見なされる行為です。攻めてくる外国の王に服従せよなど、とても理解されなかったでしょう。都に敵対する預言をしたのです。ですから命を狙われました(二十六章)。人々は当然、どうやってバビロンに抵抗するか相談をします(二十七章)。エレミヤは自分の首に軛をかけてこれに反対します。つまりわたしたちはバビロンによって捕えられ、軛をかけられてバビロンに連行されますよという象徴行為です。宮廷預言者のハナンヤは、そのようなことは起こらない、バビロンと戦えと主張し、エレミヤの首から木製の軛をはずして打ち砕きました(二十八章)。背後ではエジプトが、我が国が応援するからと煽って、ユダとバビロンを戦わせようとしていました。もちろん両国の力が弱まるのを期待してのことです。実際にはエジプトは全く応援などしてくれませんでした。

確かにエレミヤは神の裁きを預言しています。しかし、これは決して一方的滅びの宣言として、諦めの気持ちで語られた言葉ではありません。裁きを予言しながらもエレミヤは「大丈夫、安心しなさい」と語っているのです。それは「遠くから、主ヤハウェはわたしに現れた。そしてわたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐと言われた」(三十一章三節)と回復の預言を語っていることからわかります。少し言葉を変えますと、わたしはあなたをいつも、いつも愛してきた。ただ慈しみのゆえにあなたをわたしの許へ引き寄せてきた。そんな風に訳せます。バルクが読んだエレミヤの巻物には、この神による回復の約束もきっと入っていたとわたしは信じております。

エレミヤは裁きの後の回復を信じていたのです。彼の行為でそれがよくわかります。今まさに国が滅びバビロンに補囚になるだろうという預言をしながら、一方で故郷のアナトトに土地を買っていたのです(三十二章)。国が滅びると言いながら土地を買う。こんな矛盾はありません。土地は持って逃げられませんから、外国支配になったら値打ちゼロです。買うなら宝石です。にもかかわらず土地を買いました。必ず戻って来て、神のご支配になる新しい国が再建されることを信じ、その時礼拝する場所を確保したのです。

わたしたちは今日、幸いにもエレミヤが経験したような、明日は国が滅びて外国へ連行されるかもしれないというような危機には直面しておりません。しかし、世界に目を向ければテロや戦争といった危うさに満ちています。また危機とは、とんでもない国家の混乱や、いきなり襲われるひどい病気、対処できない大きな挫折、そのようなものばかりとは限りません。神ではないものにより頼むところに根源的危機があるからです。今も同様に、わたしたちは分かれ道に立っているのです。真に神のみを頼っているのか、神との正しい関係にあるのか、正直に見つめ直す必要があります。わたしたちは厳しい言葉より、ハナンヤが語ったような、これは主の神殿だ、主の教会だ、大丈夫、絶対バビロンなんかに負けないという耳触りのよい御言葉を聞きたいのです。説教でも自分に都合のいい言葉を聞きたいと思います。神はきっとわたしと同じ思いだ。わたしの思う通りになる。仕事、健康、家族、名誉、あらゆることについて、大丈夫うまくいくと考えたいのです。都合のよいことは、あれもこれも求めます。益にも害にもならないモノには無関心です。わたしたちは本当に神の御心を第一に尋ね求めているでしょうか。神との関係を正しく保てているでしょうか。今一度神との関係はどうかと真剣に問わねばなりません。

キリストが来られると、すべてのことが神の光の下におかれて明るみに出ます。裁きがなされ、ひょっとしたら軛をはめられて行きたくないところに連れて行かれるかも知れません。それでもキリストを待ち望んでおります。神は御子イエス様をこの世に送り、その命をもってわたしたちを贖ってくださいました。裁きは裁きで終わりません。イエス様の贖いの業を知っているわたしたちは、救い主の再臨をわくわく待ち望んでいるのです。

さあ、神の御許に立ち帰りましょう。礼拝を献げ、聖餐に与り、主の来臨を待ちましょう。これからご一緒に讃美歌五八〇番「マラナ・タ。主イエスよ、来てください」を歌います。本当にお見えになると困るというのでは歌えません。悔い改め、心を込めてこの祈りの言葉を、賛美しましょう。

祈ります。
イエス・キリストの父なる神、あなたがとこしえの愛をもってわたしたちを愛し、変わることなく慈しみを注いでくださっていることに感謝します。それ故にわたしたちは厳しい裁きを宣言なさるときでも、あなたは愛をもって悔い改めに導いてくださっていることを信じ歩むことができます。どうかこの恵みに応えてあなたに従い、涙をぬぐって、希望を持って生きられるよう力を与えてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

12月10日の音声

 

 

2017年12月3日 待降節第1主日
「喜びの歌を歌いながら」
イザヤ書 51章4~11節

今日から待降節に入りました。わたしたちには待降節というよりアドベントという方がなじみがあるかもしれません。アドはこちらに向かって、したがってすぐ目の前に、ベントは起きるという意味です。神がこの地上に御子イエス様を救い主としてお送りくださったことを想い起し、救い主を必要とするまでこの世を堕落させた人の罪を悔い改めると同時に、この地上に起こった神の御子のご降誕を祝う準備をするのがこの時期です。それと共に、キリストの再臨に心を止める期間でもあります。ただ過去のこととして思い出すのではなく、わたしたちの出来事として、これからのことのように待ち望むのです。

何かを待つのは、確かにわくわくドキドキします。わたしが子どもの頃、お正月には、真っ新な服を着て、めったに食べられないごちそうを食べました。大人たちが飾りつけをしたりおせちの準備をしている中、真新しい洋服を前に、もうすぐやってくる新しい年を待つのは喜びでした。聖書も待つ喜びに満ちています。お正月とは比べものにならない、大きくて根源的で生きる力を与え続ける、救い主を「待つ喜び」です。聖書の民は「待つ民」でした。

教会では特定の祝いの日に特定の聖書箇所を朗読することをユダヤ教以来の伝統として守ってきました。プロテスタント教会ではそのようなことをしなくなっていましたが、一九六〇年代に世界中の教会が同意してアドベントには旧約聖書から救い主、キリストの誕生を待ち望む言葉を聞きましょうということなりました。マラナ・タ教会でも、わたしが赴任して以来、毎年イザヤ書を中心とした預言者の言葉を説教しております。待降節第一主日であります今朝は、マタイによる福音書を離れて、救い主の出現をひたすら待ち望んだ預言者の言葉に戻ってみたいと思います。様々な困難を経験しながらも、困難の中での希望や信仰を失わず、救い主を待ち望んだ、預言者の信仰や希望と一体になることが出来ればと願います。学者が第二イザヤと呼ぶ、イザヤ書四十章以後の預言者の言葉は、浮ついたものでなく深い喜びに溢れております。この言葉を聞き、神への信頼を確かにして、今年もアドベントの時期を過ごしたいと思います。

イザヤ書第五十一章には、「シオンへの帰還」と見出しが付いています。シオンとはエルサレムのことです。ユダヤの人びとは戦争に敗れ、祖国を千キロも離れたバビロンに捕虜として連れてこられ、捕囚の民としての生活を余儀なくされていました。遠い外国であるバビロンの地に連れて来られてもう四十年も経ってしまっています。そんな人々に向かって、預言者は語りかけます。直前の三節です。「主はシオンを慰め そのすべての廃虚を慰め 荒れ野をエデンの園とし 荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」。この時、かつての都エルサレムは廃墟になったままでした。少し先の十七節に「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」と書かれています言葉から分かりますように、実際にエルサレムを破壊したのはバビロンの軍隊でしたが、預言者は破壊され廃墟となった町に、エルサレムの人びとの神への背きに対する裁きを見ておりました。しかし、そのエルサレムに対して一転して慰めが語られております。かつて怒りを現された神御自身が、いま「慰めるもの」として臨まれるのです。

「慰める」とは、気休めを言うことではありません。日本語の慰めとは異なります。「揺るがない愛を示す」ことです。ですから「罪の赦し」と同じです。神の怒りのもとにあったエルサレムから怒りは取り除かれ、神の力強い働きが臨みました。エルサレムは回復されるのです。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響きます。

「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む」(四、五節)と今日の御言葉は始まります。「わたし」がものすごく強調されています。神が主役です。「裁き」とは裁判ではなく、「幸福な人生を可能にし、それを維持するための秩序を作りだすこと」です。神が創り出される秩序が、すべての人を導く光なのです。そこに神の正義が実現し人は救われます。また、聖書の「正義」とは特別な意味で神と人間との関係の正しさを言います。神の正義が実現するということは、神がわたしたちに対して本来の正しい関係を与えてくださること、つまりわたしたちは救われるということなのです。国が滅びて外国に連れてこられ、みんなあきらめの中に生きておりました。バビロンでの生活が長くなり、そこで生まれた子どもたちが、またその子どもたちを儲けていくうちに、自分たちは神から捨てられたのだと考えていた捕囚の民は、もう神の救いとか正義とか信仰をまじめに考える気はなくなっていたことでしょう。捕囚からの解放など期待していなかったのです。そんな人々に救いが成就すると神はおっしゃったのです。神が腕を伸ばされれば、どこでも救いは及びます。

そして六節、「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」。どのようなことが起ころうとも、一時的に解放されるのではなく、神の恵みの業は絶えることがないと約束されたのです。どこにでも、だれでも、とこしえに恵みの業が現れるという約束です。

しかし、現実にはまだ人々はバビロンにいるのです。多くの人はこの預言者の言葉に全く納得しませんでした。わたしたちもそうでしょう。長い間患ってきた病気が現実には治ってないのに、主治医から癒されると聞かされても、なかなか納得できません。エルサレムはまだ廃墟のままです。不自由ではあってもバビロンで四十年何とか生き延びてきたのです。いまさら廃墟の祖国に帰る気がしなかったのでしょう。約束の言葉を信じた人々は嘲られたり罵られたりしました。そんな人々に「わたしに聞け、正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。彼らはしみに食われる衣、虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる」 (七、八節)と断言されます。この馬鹿にされている状態は長くは続かない、嘲りののしる人々はシミに食われる衣、虫に食われる羊毛だと言うのです。シミや虫に食われると穴があいていずれダメになります。反対者はやがて崩れるのだという意味です。誰もが知っている服を食う虫を例にして、面白い表現をしています。

しかし、この預言者が生きた捕囚の現実は厳しいもので、ここに語られているほど楽観的なものではありませんでした。神の救いが現れ、とこしえに続き、恵みの業が絶えることはないと言われても、実現するとは思いにくい状況でした。それでも預言者は、誰もが知っているエジプトからの脱出にふれて言います。「ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。海を大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか」(九、十節)と。ラハブと竜は海にすむ怪物です。神は恐ろしい海も怪物も退治なさったではないか。モーセに率いられたエジプト脱出の時、海を干上がらせ、深い海の底に道を開かれたではないか。神は全てを支配なさるのだ、と言っています。

そして十一節です。「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭(こうべ)にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」。この「贖う」という言葉は、「買い戻す」とも訳されますが、もともとイスラエルの古い法律用語でした。例えば誰かが貧しくなって土地を売った場合、親戚がそれを買い戻す義務を負います。あるいは貧しい人が身売りして誰かの奴隷になった場合、その人の兄弟や一族の血縁の者がその人を買い戻すことができるのです(レビ記二十五章)。そのように土地や人などを買い戻すことを「贖い」と言いました。そして、買い戻す者を「贖う者、ゴーエール」と呼んだのです。「贖われた」と語られていますから、それまで奴隷状態にあったことを意味します。もちろん、バビロンによって征服されたことを指しています。しかし、その人々は神によって買い戻されるのです。「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌を歌いながらシオンに入る」と言われるのです。これは民族の原点となった出エジプトの奇跡に、バビロンからの解放を重ねて語っています。喜びの歌を歌いながら故郷に帰る、約束の地、征服者に遠慮なく神を礼拝して過ごせる地、神の前を歩む地です。いったん神の裁きによって完全に崩壊した町、それが神の憐れみによって再興するというのが今日の御言葉です。本当でしょうか。

実際の歴史では、その時代に政治的大変化がありました。バビロンが滅んでペルシアが世界を支配するようになったのです。新しい支配者であるペルシア王キュロスは、捕囚のイスラエルの民にエルサレムへの帰還と神殿の再建を許可しました。これは驚くべきこと、信じられない出来事であったに違いありません。しかし、本当に大いなることは政治的変化ではありません。今、民を支配しているのは、バビロンにとって変わったペルシアです。エルサレムは廃墟のままです。現実には何も変わってはいないかのように見えます。しかし、既に事は起こったのです。神と民との関係に決定的変化が起こったのです。神は人間との関係を正しいものとしてくださいました。先にも申しましたように、エルサレムの廃墟に現わされていたのは、神の怒りであり裁きでした。人々が売られて奴隷となったのは罪のゆえにでした。そのような背信の民と、もはや買い戻す価値のないような廃墟の町エルサレムを、神は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。贖う者となられたのです。彼らを治める者は、もはやバビロンの王でもペルシアの王でもありません。「神が」彼らの王として即位されるのです。それが直ぐ先のこれから起こることとして語られています。「喜びの歌を歌いながらシオンに入る」のだと。

廃墟の町エルサレムで、再び歓声をあげ共に喜び歌うことができるのです。これが預言者の言葉です。大切なことは神殿の再建ではありません。神が平和の王としてエルサレムに入られるということです。そして、預言者ゼカリヤが「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリヤ九章九節)と預言したことが、その通り実現したのです。

御子イエス様の御降誕を思うとき、そしてやがてロバに乗ってエルサレムにお入りになり、わたしたちの罪のために十字架にかかられたことを思うとき、この預言者の言葉は新たな響きをもって迫ってきます。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」(五十二章九節)という言葉は、まさにわたしたちへの呼びかけとなるのです。預言者を通して語られた慰めは、イエス様のご生涯と死を通して完全に現されました。イエス様が憤りの大杯を飲み干されることによって、わたしたちへの憤りの杯は取り除かれ、神の怒りは取り消されました。神による買い戻しは金銀ではなく、イエス様の命によってなされました。神の御子の流された血によってわたしたちは贖われ解放されたのです。

解放される、救われるなんて幻想だよ。イエスが救い主だって、それならどうして地上にはこんな苦しみがあるのか。キリスト者が喜び歌うのは、惨めな自分の姿に対して目を閉ざしているに過ぎないのではないかと批判をする人がいます。もしクリスマスの祝いがそのような幻想ならば、世界は二千年間も喜び歌い続けなかったでしょう。「喜びの歌を歌いながらシオンに入れ」という預言者の呼びかけは、廃墟に対してなされたものです。囚われの民に対して語られたものです。イエス様は、罪によって荒廃したこの世のただ中に、お生まれになりました。わたしたちの運命を変える決定的なことが既に起ったのです。主はわたしたちを慰めてくださいました。わたしたちは贖われたのです。わたしたちは神との正しい関係の中に、希望をもって生きることができます。たとえ目の前に見ている現実に破れがあっても、わたしたちは喜び歌うのです。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」。喜びの歌を歌って、神を賛美するのです。

イエス様が二千年前にこの世に来てくださり、十字架を担ってくださったことによって、決定的な転換が起こりました。しかし、この神による救済の出来事は完結ではなく始まりです。ですから初代のキリスト者から今に至るまで、繰り返しわたしたちは祈ってきたのです。「マラナ・タ、主イエスよ、来てください」と。これが最初に申し上げた、預言者が持っていた「困難の中での希望」です。目の前に起こってくること、キリストの誕生を待ち望む、神のご支配を喜んで待ち望む、これが「待・降・節」の思いです。わたしたちはこの神のご支配について、バビロンに居たイスラエルの人たちのように手探りや想像は要りません。完了はしていなくても既に始まっているということがはっきりしておりますから、明確な希望を持てるのです。イエス様と共に生きる時、神の国は今ここに確実にあります。病気であっても、弱っていても、失業していても、家族のことで泣いていても大丈夫なのです。バビロンにいながらエルサレムに帰る日を待ち望んだ預言者同様に、自分を取り巻く環境の暗さや陰鬱さに負けないで希望を持って生きられるのです。イエス様を知れば、この預言者の言葉はまさに成就したのだと驚くほかありません。

イエス様と共に神のみ前で生きましょう。そうすれば神の国は、目の前にあります。喜んでいる人にも、今苦しんでいる人、悲しんでいる人にも、主の平和が共にありますように。

祈ります。
父なる神、捕囚の苦しみの中にあった人々を慰められたように、わたしたちにも御子イエス様をお送りくださり、罪贖われ御前に立つ者としてくださいましたことを深く感謝いたします。あなたの恵みの業はとこしえに続き、あなたの救いは代々に永らえる。贖われた人は喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る。この約束を与えてくださいましたことを重ねて感謝いたします。どうか待降節のこのときを、たとえ病という敵に苦しめられ寝たきりであっても、囚われ人のように施設にいても、どんな状況にあってもこの希望を胸に、顔を挙げて賛美を歌って過ごすことができますよう力強い御手でお支えください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

12月3日の音声

 

 

2017年11月26日 降誕前第5主日
「平和でなく剣を」
マタイによる福音書 10章34節~11章1節

 

わたしたちはマタイによる福音書を読み続けております。神の支配が及ぶ王国が来た。主人公である王イエス様の誕生と即位、その王の驚くべき教え、王の権威を示す「救い主、イエス様の奇跡の業」が語られ、その出来事を告げ知らせるために十二使徒が選ばれました。福音とは「神の国が近づいた、神のご支配がはじまるのだ、神のもとに帰りなさい」という知らせです。使徒とは、遣わされていく者のことです。十章はずっとその派遣される弟子たちに対する忠告です。イエス様はまず、迫害があるぞ、しかし恐れるな、と励まされました。シモン・ペトロからイスカリオテのユダに至る十二人は、戦いの中で働くため、決断を迫られました。十一章一節でイエス様出ていかれるところでこの忠告は終わりますが、弟子の出発や帰還の報告がはっきりとは書かれておりません。今、わたしたちが聞いております伝道に送り出される使徒たちに向かって語られたイエス様のお言葉は、使徒たちだけではなく、イエス様のもとに集められ出ていこうとしておりますわたしたちにも語られている言葉なのです。しっかりと受け止めたいと思います。

今日は驚くべき御言葉から始まりました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(三十四~三十九節)。神の国が来た。そこでは新しい秩序が生まれる。すると、普通の家族関係、血縁による家族関係が分裂してしまう。それでも、新しい国の王であるイエス様に従う決断をせよ、という命令です。いや、家族の方が大事ですよという思いに、「ふさわしくない」という言葉が響きます。イエス様に従うことの厳しさをいやでも感じます。

 それにしても、「平和ではなく剣をもたらすためにやってきた」とは一体どういうことなのでしょう。えっと注意をひくための逆説でしょうか。そもそも旧約聖書の預言によれば、来るべき救い主、キリストは「平和の君」と唱えられるお方でした(イザヤ九章五節)。実際イエスがお生まれになったとき、天の軍勢は神を讃美して「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ二章)と歌いました。イエス様ご自身も山上の説教の中で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(五章九節)とおっしゃっています。そうおっしゃるイエス様の口から「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」などという言葉を聞けば、誰でも耳を疑ってしまうことでしょう。確かに、この言葉だけを切り離して聞くと、とても恐ろしい言葉です。

けれども、もう少し先を読んでいくと、イエス様がおっしゃろうとしていることの意味が、だんだんと明らかになってきます。ここで用いられた「剣」という言葉は、文字通りの「刀」ではありません。家族の中に起る敵対関係をもたらすものを「剣」と呼んでいることが分かります。団欒の場が敵対しあう場と変わってしまうという意味です。剣が殺し合いの道具ではなく、ただ対立を指すものだとしても、それでも受け入れがたい言葉です。家庭は最も小さい社会です。社会の基本単位である家庭に不和が生じ、家族の中に敵対関係が生じるとすればとても悲しいことですし、そのような中で暮らしていると次第に生き方がすさんできて、ひいては社会にも悪影響が出てきます。そんなことのためにイエス様がやって来られたのだとすれば、誰も歓迎しないでしょう。

聖書を読むとき、旧約聖書のことをよく知らないと分からないことがあります。マラナ・タ教会では毎週火曜日の「聖書を読む会」で、ついこの間まで旧約聖書の預言書ミカ書を読んでいましたが、実はここでイエス様がおっしゃっている言葉は、そのミカ書の最後の章、先々週学びました七章が背景になっています。わたしたちには難しく感じるかもしれませんが、イエス様にしても弟子たちにしても、当時の人々は旧約聖書の言葉はほとんど暗記しておりましたから、すぐにぴんときたでしょう。覚えていたというよりも、身に沁み込んで肉となり骨となっていましたから自然に聖書の言葉が出てきます。ミカ書七章に記されているのは腐敗しきったイスラエル社会に対する審判の言葉です。役人や裁判官は賄賂を目当てに語り、社会の指導者は私欲のために働き(ミカ七章三節)、社会全体がトゲだらけの茨に絡まれたような状態でした。そのような社会に対する審判として、「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ七章六節)という事態が起ると預言者ミカは言いました。つまり神から離れて腐敗してしまった社会の結果として、このような事態が起ると、神の審判の日を預言したのです。ここで言われている家族の敵対関係は、決して目的、よし敵対させるぞと意図されたものではなく、人が神から離反した結果としてそうなってしまうものなのです。

イエス様は預言者ミカの言葉を背景としてお語りになっていらっしゃるのです。主イエスはまさに審判をもたらす者として立っておられます。しかし、それはあくまでも神から離れた人間の罪の結果なのです。そういう意味で、家族の中で起る敵対関係の責任をイエス様に押し付けることはできません。息子が「ぼくはイエス様の弟子になります」と言ったら、父親が「何を言うか。イエスは、ユダヤの伝統をくつがえす危険人物だ。やめておけ」と反対するということがあるでしょう。嫁が「イエス様は、待ち望んでいた救い主ですよ。お母さん」と言ったら、「とんでもない。ナザレのイエスなんか信じたら、ファリサイ派のおじさんたちに申し訳が立たない。やめなさい」と反対も起こるでしょう。救い主であるイエス様は、確かに平和の君です。しかしその平和とは、罪に留まる者たちがお互いの罪に目をつぶった、まるで罪がないかの如く即席で出来上がるような見せ掛けの平和ではないのです。そのような罪ある人間の危うい平和に終わりをもたらし、まことの平和を打ち立ててくださるのがイエス様なのです。わたしがここで罪と申し上げていますのは、法に触れる犯罪ではありません。たとえ法に触れなくても神との正しい関係にないことを指しております。聖書が語る「罪」です。神と人の関係がずれておかしくなっていることです。人間が心に思い描く都合の良い平和ではなく、罪に終止符が打たれ神との間に成立する真の平和こそ、主がもたらそうとなさっている平和なのです。

つまり、神との間に根本的な平和がない家族の中で、イエス様に従う信仰の決断が促されています。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」。父と母を敬うことはモーセの十戒に教えられていることです。最も大切な教えです。イエス様はその戒めをどうでもよいとはおっしゃっていません。しかしこれはいわば水平関係の平和、人間同士の平和です。神を愛し、隣人を愛することは、垂直関係の平和で、最も大切にされてきた規範です。ここで問題となっているのは優先順位の問題なのです。罪ある人間の世界では、父や母を大切にし、隣人を愛していると言いながら、神への畏れを欠いているために、結局は自分自身が最優先されてしまっているのです。水平関係ばかりに目が行って垂直関係がおろそかになる。横ばかり見て上を見ていません。まず、上との関係が大事なのです。次に横です。

「また、自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」ともおっしゃいました。イエス様にふさわしく生きるのは、小さなことではありません。わたしなんてキリストにふさわしいものでなくてもいいのだ、と居直る人はここにはいらっしゃらないでしょうが、誰が本当にキリストに属するものかと問われる時、自分は果たして主にふさわしいものかどうか、厳しく問われます。「十字架を担う」とはイエス様に事実として起こった受難の出来事の一切を背負うことではなく、イエス様に従うとき必然的に襲ってくる苦難、命の危険をも積極的に受け入れて生活をするということでしょう。そのように生き、イエス様への忠誠ゆえに、自分の命を失うものは、自分の命を得るのだとおっしゃいました。イエス様のために自分の命をも捨てる者に対し、永遠の命をイエス様は約束してくださったのです。地上で命を失うことによって、神が真の命、永遠の命を与えてくださいます。失うことによって得るということは、決して失うことがないということなのです。

さて、イエス様が「神の国が来た」と宣言なさり、弟子を遣わされてから二千年が過ぎました。時代は変わりました。世界も変わりました。しかし今なお「神の国が来た」ことを宣べ伝える人は少ないのです。わたしたちは、今日聞いた御言葉を忘れてはなりません。自分の十字架を担ってイエス様に従う者だけが、つまり神への愛を最優先する者だけが、神をも人をも愛する生き方を実現することができるのです。イエス様は、そのような世界を実現するために弟子たちを派遣し、人々を招いていらっしゃいます。本当の家族を作れとおっしゃいます。現状維持のまま家族の平和を求めるのではなく、罪の世界から義の世界に移って、家族の平和を築けとおっしゃっています。神との関係がずれたままではなく、神と和解し、神との正しい関係の中で平和を実現するのです。それはただ自然の親子関係による血縁共同体ではなく、イエス様への従順を基にした信仰共同体という家族です。教会です。教会は、自分たちだけの価値を共有する仲良しグループでも閉鎖的な集団でもありません。世に向かって開かれております。イエス様に従おうとする人なら、どなたでも区別なくお迎えします。マラナ・タ教会も、この四十年間ずっとそういう姿勢でこの世に臨んできました。

教会はまた、真理に対して心開かれた姿勢をもっております。知的に理解するだけでなく、人格的に真理を受け止めますから、福音に生きる者同士の人格的交わりの中で信仰が伝えられていきます。そこでは福音の伝承、つまり人から人への伝道が教会形成の極めて重要な働きとなります。もっとも大切な伝道対象は家族です。家族に福音を伝承できないとなりますと、家族ではない人に福音を伝えるのはむつかしいでしょう。この点、日本の教会は反省すべきことが多いようです。お父さんはクリスチャンでも子供は違うという家庭がとても多いからです。牧師の家庭も例外ではありません。信じるも信じないも自分の判断次第だという、人間側に力点を置いた考え方を、キリスト者自身がしてきたからです。仏教かキリスト教か、あるいは無神論か、決めるのは自分だと教えられて来たからです。

信仰による共同体を作るため教会は伝道活動を盛んにし、宣教者を派遣し牧師を立てます。しかし遣わされた宣教者が受け入れられるとは限りません。迫害されることもあります。ですから、先週聞きました二十六節以下では「恐れるな」とイエス様は繰り返しおっしゃいました。今日の箇所ではこうです。「あなた方を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方(神)を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」(四十、四十一節)。様々な困難や迫害の中で、宣教する弟子を受け入れる人は、受け入れる人もまた危険な状況に身を置くことになります。あなた方とはもちろん十二弟子のことですが、イエス様のための働き人全体に適用してもいいのです。受け入れるという言葉が六回も出てきますが、歓迎し、もてなし支えることです。弟子を受け入れる者は、イエス様を受け入れるのです。それだけではなくイエス様を派遣なさった神をも受け入れることになります。そして神を受け入れたものは、どのような待遇を受けるか、預言者を例に挙げておられます。「報いを受ける」という表現は、未来形の受け身で、終末の裁きの時が予感されます。そしてこのことを全く同じ形で、正しい者、つまり義人と言い換えて繰り返されております。預言者や、正しい人というと旧約聖書の有名な人物、偉大な人を思い浮かべますが、ここでは弟子たちのこと、時には名もない小さな者をも指しておっしゃっております。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者のひとりに、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(四十二節)。パレスチティナ地方では、水は本当に貴重ですが、のどをカラカラにしている人に、冷たい水一杯を差し出すことは、人間としての義務でした。特別に褒められることではありません。しかしイエス様は、こんなちょっとした当然のことでも、神はお忘れにならないとおっしゃいました。預言者、義人に当てはまることはすべてイエス様の弟子にも当てはまります。弟子を弟子として受け入れる者は、弟子と同じ報いを受けるのです。イエス様の弟子に対するわたしたちの態度はイエス様に対する態度だとみなされます。

イエス様は頑張って、わたしにふさわしくなりなさいとか、ふさわしくなれるとはおしゃいませんでした。恐れるな、神はあなたを愛してくださっている。失われた人のところに行って、「神の国が来た」と宣べ伝えなさいとおっしゃったのです。事を為されるのは神です。遣わされて行く者と共に主も一緒に行かれます。神はわたしたちを選んでくださいました。わたしたちはその恵みに応えて、イエス様に従い、父なる神の御意思を行っていくのです。

次週からいよいよアドベント、待降節を迎えます。主のご降誕を記念するクリスマスの準備を始めましょう。イエス様の弟子として生きるとはどういうことか、ご一緒に静かに思いをいたしましょう。

 

祈ります。
父なる神、年の初めからずっとマタイによる福音書を通して、わたしたちに語りかけ続けてくださったことを感謝します。どうかわたしたちが、御言葉を正しく受け取り、あなたとの正しい関係の中で、恵みに感謝して生きることができますよう支えてください。わたしたちを通して御名の栄光を現せますように。イエス様に従い、弟子として世に遣わされていくとき、家族や隣人を真の命に導くことができますよう、力をお与えください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

11月26日の音声

 

 

2017年11月19日 降誕前第6主日
「真に恐るべきもの」
マタイによる福音書 10章26~33節

先週、キリスト者として生きる、特に弟子としてこの世に派遣されるとき、迫害に遭うぞとイエス様が予告なさったことを学びました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(二十一節)とさえおっしゃいました。一番大きな苦しみは家族から苦しめられることだったのでしょう。権力による迫害よりも、愛する者から憎まれるようになることほど辛いことはありません。そのような中で、彼らは互いにこう言ったに違いないのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そうイエス様はおっしゃったよ、と。「最後まで」ということは、終わりがあるということです。いつまでも続くわけではなく、トンネルに出口があるように必ず「最後」があるのです。そして最後には救いの希望があります。だから「耐える」こともできます。「耐え忍ぶ」とは、苦しくても我慢する、そういう意味ではありませんでした。「耐え忍ぶ」とは「留まる」ということです。もちろんイエス様のもとに留まるのです。聖書が語っている「忍耐」とはイエス様との関係に留まり続けることです。この言葉は迫害の中でも主に忠実に生き続けなさいという大きな励ましでした。

ところで、この「耐え忍ぶ」と同じ言葉が詩編に何度も出て来ます。ギリシア語訳旧約聖書にこの言葉が何度も使われているのです。ほとんどの場合、「待ち望む」という意味です。勿論、主を待ち望むことです。例えば「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編二十七)というように。この時の「待ち望む」と新約聖書の「耐え忍ぶ」は同じ言葉です。「耐え忍ぶ」とは「待ち望む」ことでもあります。主よ、来てくださいと祈ります。マラナ・タと唱えて生きることです。希望を捨てることなく励まし合い、共に信仰に留まったのです。「最後まで希望を捨てなければ救われる」よね、と言い交わしながら。

さて弟子たちを派遣するのに、イエス様ははっきりと迫害を予告されましたが、それに続けて今日の御言葉の中では「恐れるな」と三回も繰り返されました。迫害されるぞと聞かされて、当然、弟子たちは恐れたのでしょう。そこで二十六節の「人々を恐れてはならない」、そして二十八節で「魂を殺すこのできない者どもを恐れるな」、最後は三十一節で、もう一度「恐れるな」とおっしゃったのです。恐れる必要はないのだと。そして逆に、真に恐れるべきものは何かをはっきりおっしゃいました。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と。

なぜ恐れなくてもいいのでしょう。第一の理由は、先週の御言葉の最後のところで聞きましたが、迫害は当たり前のこと、必然的な結果だからです。師であるイエス様が人々からののしられ、悪霊の頭だと蔑まれるのです。弟子は師以上のものではなく、僕は主人以上のものではありません。師であるイエス様が悪霊の頭と言われる以上、弟子たちはもっとひどい扱いを受けるはずです。「だから」彼らを恐れる必要はないのです。イエス様に従おうとするなら喜んで罵りを受ければいいのです。

第二の理由は、神の国が来たという宣言は、どんなに隠れてそっと伝えようとしても無理です。覆われていても必ず覆いが取れて、分かってしまいます。キリストに従って遣わされていくとき、迫害を恐れてどんなに巧みに隠れていても、隠れきれるものではありません。その上、わたしが暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさいとイエス様がおっしゃっています。群衆にはわからないように、ちょっとわかりにくい譬えなどで話されたことを、イエス様が耳元で囁くように弟子にはあからさまにお話になったことを、弟子たちだけに語られた、いわば奥義とでもいうべきものを、イエス様は積極的に公然と告げ知らせなさいとおっしゃるのです。神の国の秘密、驚きを弟子に教えられたのは、弟子がそれを伝えるためです。語らないでいることはキリスト者にはありえないことです。「だから、恐れないで語れ」とおっしゃいました。ギリシア語では強い命令形でおっしゃっております。そしてこれは、すべての教会員に向かって語られているのです。わたしを救いに導いてくれた福音は、もしわたしが口を閉ざしてしまったら、もう福音ではなくなるでしょう。語らずにはおられないもの、それが福音です。パウロはコリントの信徒への手紙一の九章十六節でこう言っております。「わたしが福音を告げ知らせてもそれはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです」。

恐れなくてもよい第三の理由は、これが本当に恐れなくても大丈夫という保証なのですが、真に恐れるべきもの、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」がおられるからです。もちろん、地獄で魂と体を滅ぼすことができるのは悪魔ではなく、神です。その本当に恐れるべきお方がわたしたちを愛していてくださるのです。迫害者など恐れることはないのです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」は有名な御言葉で、宗教改革者のツヴィングリがカトリックとの戦いで戦死した時に、この言葉を叫んで死んでいったと伝わっており、よく知られております。確かに迫害で死んでいく者にとっては最後の慰めであり励ましでしょう。本当におそれるべきは神以外にはありえないのですから。ここで魂と体と訳されておりますが、わたしたちが言う「魂と体」ではありません。イエス様がおっしゃる魂とは「神の命」そのものです。体とは命のない肉のことです。実際には拷問などで責められ肉体が滅ぼされるような場面に出くわせば、恐れるなと言われても恐らく心ならずも信仰を捨てて、もうキリスト信者であることを止めますと言うかもしれません。わたしは拷問に耐える自身が全くありません。しかし最後には、この世での迫害や苦しみではなく、肉の死の後に、神に与えられた命である魂も肉である体も地獄で滅ぼすことのできる方から裁きを受けるのだという事実だけは知っておかねばなりません。本当に恐ろしいのは神との関係が失われてしまうことです。

本当に恐れるべきお方がわたしたちを愛していてくださることを、主は弟子たちに分かりやすい話で教えてくださいます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だがその一羽でさえあなた方の父の赦しがなければ、地に落ちることはない」。「あなた方の髪の毛までも、一本残らず数えられている。だから恐れるな。あなた方はたくさんの雀よりもはるかにまさっている」。雀は小さい鳥のことです。日本の雀と同じとは限りません。雀は庶民が焼いて食べていましたが、一羽では売れない、最低でも二羽にしないと一アサリオンにならない、市場で最も安い鳥でした。ルカによる福音書には五羽で二アサリオンとありますが、たくさん買うと割安になったのかもしれません。アサリオンはローマの銅貨で、一デナリオンの十六分の一です。わたしたちの五百円くらいでしょうか。雀は安い鳥ですが、神の御心でなければ一羽の雀さえ空から落ちません。髪の毛を数えた人は滅多にないと思いますが、普通の人は十万本以上あるそうです。実際に一本一本すべて抜いて三十万本あったという報告を聞いたことがありますが嘘か本当かわかりません。実際髪の毛の数など多くてわかりません。この、人間の体のほんの小さな一部分である一本一本の髪の毛をさえ神は数えておられることを喩えにあげて、値打ちのないように見えるものも、数えられないほど小さくて多いものも、すべて細部まで神はご存じであり、生かしておられるとおっしゃいました。神は雀にさえ配慮されているのです。あなた方は一羽どころか多くの雀を束にしたよりもはるかにまさっているのだから、どれだけ配慮してくださっていることか、と励まされました。このたとえの意味は、ただ人は雀より値打ちがあるというだけではありません。小さな雀をもよく知っておられる神が、あなた方を愛しておられる、髪の毛一本一本まで知っておられる、だから大丈夫だとイエス様はおっしゃったのです。

わたしたちは、神の子とされた以上、その命は失われることはありません。たとえ肉体が死ぬにしても、神の吹き込まれた息である魂、命そのものは大丈夫です。それどころか肉の死は神の目に尊い、有意義なもののはずです。留まって体を殺されるか、留まらないで信仰を放棄するかなどという決断を迫られたくないと思いますけれども、神の与えられた命、魂そのものを奪う力のある方の前に立っていることだけは忘れてはなりません。人々の前でイエス様を受け入れる者、つまりわたしはイエス様の仲間です、キリストに属するものですと告白する者については、イエス様もまた、天の父なる神の前で、この者はわたしの仲間であると宣言してくださいます。逆にいえば、この地上の法廷で、わたしはイエスという男など知りませんと拒否する人が、天の法廷に出たときに、イエス様にわたしを知っていると言ってくださいと頼むことはできません。恐ろしい審判のように思えますが、しかし、弟子には審判における救いが恵みとして用意されているとおっしゃっているとわたしは思います。

イエス様の弟子、あるいは同労者になることは、小さなこと、易しいことではありません。わたしは教区の人事委員長という職務をここ数年担っておりますが、最も大事な仕事は教団の教師になろうとする人の面接です。学力は試験で問われますから、面接では御本人のクリスチャンとしての自覚、教師、伝道者に召されていることの確信、教会の推薦が確かにあるかどうかを質します。全員が合格していただきたいという祈りをもって面接するのですが、毎年大きな違和感を持ちます。どうしてかといいますと、面接を受ける人の中に、牧師になる、説教を語るということを、あまり深刻には考えておられない方がかなり多くおられるからです。言い換えると「畏れ、畏怖」がないのです。世の中の困っている人を助けたい、親切な人になって生きたいという願いはあっても、弟子として歩もうという覚悟がまるでないのです。自分の力でできると思っているのでしょうか、イエス様から「恐れるな」と言っていただく必要なんてないようです。この候補者は牧師になっても挫折するだろうなというのが透けて見えます。加えて、推薦状を提出してくる所属教会の牧師の中に、イエス様の教えをちゃんとわきまえ、伝道者になることはどういうことかを本気で指導しているのかどうか、あやしい牧師もいます。実に甘ったるい、センチメンタルな推薦状が出てきます。人が神の国に新しく生きようとするとき、古い自分、古い世界の構造は震えます。戦いが始まります。痛みが伴う戦いの中へ、厳しいけれども喜んで遣わされていくのです。推薦する側にもされる側にも、厳粛な恐れがあるはずです。それが見えないのです。

イエス様の周りで起こったこと、それはまさに戦いでした。人は神の国でこう生きられると御国での生き方が示されたとき、イスラエルのいわゆる敬虔な人々はイエス様を攻撃しました。仮面をかぶった、神と人との和解を邪魔する人たちが、自らを防御するために激しく抵抗したのです。悪魔は戦場を退かず、戦いのために出てきました。指導者たちの憎しみ、民の無関心、弟子たちの弱さ、そこをまさに悪の力が突いてきたのです。イエス様と共に行こうとする者は、この同じ戦いに赴かねばなりません。本物ではない世界、世の国は、本物の世界、神の国に抵抗します。その抵抗に逆らって戦うのです。イエス様の弟子として遣わされることは、狼の群れに羊が送り込まれるようなものですし、すべての人に憎まれねばならないことです。わたしは遣わされるのは遠慮しておきますという態度がとりえます。その時囁くのは悪魔です。止めといた方がいいよ、憎まれるよ、懸命な人は弟子なんかにならないよと。しかし、イエス様は、まあ仕方がないなとはおっしゃいません。「違う、恐れるな」とおっしゃるのです。わたしたちは大丈夫でしょうか。自分は確かに神の国に生きようとしているのか、それともイエス様を十字架につけた世界の側に依然として留まり続けてないだろうかと、しっかり考えてみる必要があります

イエス様に従って、一緒に行きましょう。最後には、死に打ち勝てるのですから。最後まで希望を捨てなければ、闇のうちに終わることはないのです。時々、極端にきれい好きな人に出会うことがあります。手を消毒し、自分の持ちものは、みんなアルコールで拭いて消毒した箱にしまう。トイレの後も自分のお尻をアルコールで拭く。科学的には滑稽ですが、こういう人は目に見えない細菌を極度に恐れているのです。微生物はみんな悪い奴だと。皆さんお笑いになりますが、ではわたしたちはどうでしょうか。もっと大きな、目に見えるモノ、人を恐れてはいないでしょうか。神からいただいた命である魂を殺すことはできないのに、肉である体を殺すことのできるこの世の者を恐れてはいないでしょうか。それも異常なまでに。本当に恐ろしいのは、神のご支配の中に留まらないで、この世に留まることです。そこではひょっとしたら快適に、満足して生きられるかもしれませんが、しかし、大した意味もなく時間が過ぎ去っていきます。

わたしたちが今聞いている御言葉は、「恐れるな、勇気をだしなさい」です。真に恐れるべきお方のみを恐れ、イエス様こそ主であるとはっきりと表明し、主イエスと共に生きていこうではありませんか。

祈ります。
父なる神、あなたの深い御愛と御恵みに感謝します。イエス様が経験なさった悲しみや苦しみに出会うことがあっても、イエス様の弟子であることを表明し、恐れることなく、遣わされたところで弟子として使命を果たしていくことできますよう力を与えてください。また、最後まであなたを待ち望んで生きていくことができますように、どうか、聖霊の働きでわたしたちを励まし導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

11月19日の音声

 

2017年11月12日 降誕前第7主日
「迫害を予告する」
マタイによる福音書 10章16~25節

皆さん、もしキリスト者だとわかっただけで、憎まれ、石を投げつけられるだけではなく捕えられ殺されるかもしれないとしたら、それでも家族や友人、世の中の人々に、わたしはキリスト者だと堂々と知らせ、「神の国が来た」という喜びの知らせ、「福音」を伝えることができるでしょうか。今日の聖書箇所はどうしても、サラリと読み過ごすことができません。今日はとても説教を寝ながら聞くことはできません。

イエス様は公の活動を始められるにあたって、「神の国が来た」とおっしゃいました。地上の王ローマ皇帝ではなく、天の神がご支配になる国が到来したとおっしゃったのです。そして神のご支配が見えるように、その徴として、治らないと思われていたむつかしい病気の人を癒し、目の見えない人の目を開き、死人を起き上がらせるという、びっくりするような奇跡をお見せになりました。それから、使徒と呼ばれる十二人の弟子を召し出され、この御国の福音をイスラエル全土に宣べ伝えるように命じられたのです。送り出すにあたって、弟子たちにこうおっしゃいました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」(十六~十七節)。また、こうもおっしゃいました。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(二十一~二十二節)、

福音を伝えるのです。「神の国が来た」という喜びの知らせです。この世界が神の御心に沿った素晴らしいものになるといういいニュースです。その御国が来たとの宣言に従事するのですから、弟子たちにはいいことが起こりそうですが、イエス様が予告なさったのは全く予想に反するものでした。「迫害される」というのです。弟子たちにはつまずきとなり、挫折しそうになるものです。狼の群れに羊を送り込むようなものだとか、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるだけであれば使命感に燃えている弟子たちなら耐え忍べるかもしれません。しかし、家族の中でさえ殺し合いが起こるというのには、耐えられそうもありません。しかも、最後まで耐え忍ぶ者こそは救われるとなりますと、死ぬまで耐え忍ぶなんてとてもできそうもないと感じます。これで、よく弟子たちは黙って遣わされていったものだと驚きます。しかも、これは当時の弟子たちだけに向かっておっしゃったことではなさそうです。マタイによる福音書を読んでおりますと、十章はずっと派遣にあたっての注意ですが、少し不思議なことに、この注意、指図を終えられた後、出かけて行かれたのは「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」(十一章一節)とありますようにイエス様です。遣わされていったはずの弟子たちの出発する様子や帰ってきて報告する場面がありません。これは、イエス様がお亡くなりになった後の新約聖書が書かれた時代の弟子たちも、今に続くわたしたちも、常にこの世に派遣されて、遣わされた場所にいるのだということでしょう。ここは特にわたしたちにも語られている言葉なのです。

先週わたくしは愛和保育園のこども祝福式に招かれて行ってまいりました。三歳の子供に接するのは実に楽しいことでした。大人がみんな親切で自分を愛してくれることだけを信じている、そんな感じがします。人は本来そういうものでしょう。わたしたちは、ぎすぎすしている関係が滑らかになり、人間関係がうまくいって成功するように願っております。ところがイエス様がここで予告なさったことは全く逆のことです。あなたがたは遣わされたところで、鞭打ち、肉親同士の分裂や争い、人々からの憎しみ、きっとこういうことを経験することになるとおっしゃったのです。イエス様の予告されたことは、そんなことは起こりませんようにと、それを回避するように最大限努力するようなことです。このような予告を聞きますと、誰も教会には来たくないでしょう。だいぶ先ですが十六章でイエス様が、自分は多くの苦しみを受けて殺されるだろうとおっしゃったとき、ペトロは直ちに言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。ペトロにとっても、すべての人に憎まれるのは、とうてい受入れ難いことなのです。ではなぜイエス様は「わたしの名のために、あなた方はすべての人から憎まれねばならない」、ルターはニュアンスを正しくと考えてこう訳しておりますが、必ずそうなるとおっしゃったのでしょう。神のご支配が来たにもかかわらずです。

確かにイエス様は弟子たちに、お金も衣服も何の準備もなく伝道の旅に出ることを命令しておられますから、彼らは大変難儀をしたでしょう。しかし、それは迫害ではありません。イエス様が十字架にお架かりになりご復活なさった後、弟子たちが福音伝道を開始した時に起こったのが迫害です。今読んでおります最初の派遣はいわば予行演習で、本番は十字架の後にやってきます。状況はずっと厳しく、イエス様を信じてひたすらまっすぐにというだけで殉教しなくてはなりませんでした。イエス様は、将来を見通して予告をなさったのです。この本番の戦いの中では、まさに「蛇のように賢く、鳩のように素直」でなければならないのです。「蛇のように賢く」状況の認識と分析をしなくてはなりません。素直とは、「混じり気がない」という意味で、純真に、いろいろな思惑を混ぜないでまっすぐ進めというニュアンスです。ですから状況を正しく把握し、しかし決して分析結果に支配されてあっちこっちへとふらつくのではなく、御心に従って遣わされたものとしての使命にまっすぐに進みなさいということでしょう。そのときの弟子たちが伝道した有様は、まさに「狼の群れに羊が送り込まれた」状態だったのです。迫害という大きな危険の中で、殉教の覚悟をしながらも、どうやって生き延びるのか賢く考えつつ、まっすぐ忠実に心を神に向けてと、おっしゃっているのです。わたしたちは決して狼に打ち勝てる虎ではありません。イエス様から授かった力だけが頼りの羊なのです。

ユダヤ人の社会では、父親が家長であり家族全員の生活に対して責任を負っていました。生活をコントロールするだけでなく、子供の教育にも全責任がありました。特に宗教的な伝統に関しては、父から子へと受け継がれていくのがこの時代の在り方です。子供はその教えに従うことが絶対に必要でした。イスラエルの伝統というのは、この服従によって維持されておりました。今の日本のように信じても信じなくても自由、個人の勝手であるというような価値観は全くありません。伝統に忠実な社会であればある程、宗教熱心であればある程、家族内の異端者に対する締め付け、弾圧は厳しくなります。今のわたしたちは、イエス様が救い主キリストだと信じていても、一生懸命伝道して人を教会に誘っても、全く危険ではありません。裁判所に引き渡されたり、鞭打たれたりもしませんし、ましてや殉教する覚悟など不要です。わが道を行くとばかりに家を飛び出して好きなことをしていても、あるいは信じるところが違っていても、仲良く暮らすことができます。しかし、当時はそのようなことが全くできなかった社会です。イエス様に従って歩むのは時に厳しい分裂を招きます。本来家族のつながりは魂に安らぎや憩いを与えますが、これが破壊され敵意を抱くようになりますと、家族関係が崩壊し、悲惨なことになります。そこには悪魔の仕業としか言いようのない事態が生じます。福音書が書かれた時代には、二十一節で語られている「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」という現実が実際にあったのです。

「わたしの名のために、すべての人に憎まれる」というのはもっと深刻かもしれません。病人を癒し、悪霊を追い出すためにこの世に遣わされた弟子たち、また福音を携えて、神の平和があるようにと告げた信徒たちは、ローマの社会からは、ただキリスト者であるというだけで迫害されました。何か悪いことをしたという訳ではなく、わたしの名とおっしゃった、キリスト者という名前だけによって憎まれたのです。この時代の歴史家タキトゥスが書き記した『年代記』という有名な本に、この本は岩波文庫になっておりますから誰でも読めますが、ローマ皇帝ネロの時代に迫害されたキリスト者は、「人間に憎しみを持っている輩」(第十五巻四十四章)として裁かれたとあります。「これはわたしの体である」と宣言してパンを食べる習慣は、人肉を食っているのではないかという悪評を招きました。人々と共に娯楽を楽しむことをせず、自分たちだけで集まってパンとブドウ酒の食事をし、信徒でないものを排他的に扱う、おまけにこの世はやがて神の審判で滅びるとして人々を呪っていると誤解されたのです。今の人がオウム真理教に感じるものに近かったのではないでしょうか。自分たちだけサティアンに閉じこもって訳の分からないことをしている。何をするかわからない、人を殺すかもしれない。その名前を聞いただけで近くに来ないでほしいと思う、そんな感じです。同じ国に生まれ、同じ言語を話し、同じ市民であっても、クリストス信奉者という名前がつけば憎まれる、そういう時代でした。 まさにキリストの名のゆえに憎まれたのです。

律法を守り、ヤハウェ信仰に従う者がユダヤ人です。この民族の統合性があるからこそ、ローマはユダヤ民族として自治を認め支配の中に組み込んでいたわけです。したがってこの民族統合から外れ、異なる思想の持ち主が現れた場合、しかもそれがローマ総督が処刑した十字架上で死んだ人間を崇め、人の肉を食うなどという危険な思想の持ち主であるとするならば、たとえ親子が殺しあってでも、その存在は消されて当然だったのです。当時ローマ皇帝こそが主でした。ですからイエス様を主でありキリストであると信じる信仰は、民族統合に反しているだけではなく、ローマにとっては危険思想そのもですから、伝統を重んじるユダヤ民族としては決して認めることなどできない教えだったのです。地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督の前で釈明し、殺される、これはイエス様ご自身の受難物語を想い起こさせられます。宣教においての苦難と迫害は、イエス様に従う使徒にとっては必然ともいえることです。弟子として遣わされる者にとってこの困難は明らかでしたから、最初の派遣の時から予告されたのです。

さてここまで厳しい迫害が予言されている以上、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」というのは、頑張ればなんとかなるとか、運が良ければうまくいくというようなことではないことがはっきりします。最後までというのは、文字どおり最後まで終末の時まででしょう。そのときまでキリストの弟子たちは迫害され続けるということです。しかし、たとえ最後まで耐え忍ばなければならないとしても、それは私たちの力ではなくイエス様がその力を与えてくださいます。初代キリスト教徒は多くの困難にもひるまず、黙々と伝道し信徒を獲得していきました。

今でも、広く世界を見渡せば、御国の福音を述べ伝える宣教師たちが命の危険にさらされている所が何か所もあります。アジアにもいくつかそういう国がありますし南米にもあります。今は平和なわたしたちにも、またいつ試練がやってくるか分かりません。ペトロの手紙にこんな言葉があります。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(ペトロの手紙一、四章十二、十三節)。なぜ終りの時まで、弟子の道は苦難の道であり続けるのか、それはイエス様の道が苦難の道だったからです。主は、こうおっしゃいました。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師の様に、僕は主人の様になればそれで十分である」(二十四節)からです。ご復活を通してイエス様の十字架の苦しみの意味が明らかにされた以上、わたしたちも十字架を通して新しい命へと招かれているのです。

今の日本では当時のような迫害は起こりそうもありませんし、家族の分裂や崩壊なども関係ない方も大勢いらっしゃるでしょう。けれども死は必ずわたしたちにもやってきます。しかし、罪が赦され、永遠の命に生かされているわたしたちは、そのときでも新しい命に向かって生きることができます。たとえば不治の病という逆境を証の場、証の機会ととらえ前向きに生きることもできるのです。「楽しゅうて、面白うて、笑いが止まらんわ」といって死んでいった八十七歳の婦人を知っています。夫も一人息子もなくした一人ぼっちの方でしたが、キリストと共に生きておられた大きな証です。初代の信徒にとって迫害と殉教の場所は、敗北ではなく檜舞台でした。この戦いの力は自分の中からではなく神からきます。自分の力でではありません。最終決着は神がおつけになります。神が救ってくださるのです。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は話すのはあなた方ではなく、あなた方の中で語ってくださる、父の霊である」(十九節以下)。聖霊によって適切な言葉が与えられ、話すべきことは父なる神が教えてくださいます。なぜならわたしたちは遣わされたものであり、お遣わしになったのはイエス様、神のみ子だからです。この信頼があれば、死という敵の中にあってなお、おびえることなく落ち着いて生きることができます。

最後まで耐え忍ぶとは、限界まで我慢せよという意味ではありません。英雄的に殉教するように生きろということでもありませんし、うまく立ち回って生き延びろということでもありません。死にいたるまでキリストに忠実であれという意味です。拒絶され敵意をむき出しにされても、たとえ身の置場もないピンチの時でも、イエス様は共にいて助け導いてくださいます。このようなとき言うべき言葉をわたしたちは知っています。「マラナ・タ、主よ、来てください」。この言葉を唱えるとき、わたしたちは蛇のように賢く鳩のように素直になれるのです。

祈ります。
父なる神、常に御言葉と聖なる霊を与えくださっていることを感謝します。また、深い慰めに包まれ、確かな希望を与えられて、イエス様に従って歩めることを感謝します。神よ、わたしたちにあなたへのひたむきな純真さと、いかなる困難にも負けない知恵をお与えください。たとえ狼の中に置かれても柔和に対処することができますように、わたしたちを強めてください。
イエス・キリストのみ名によって祈ります

11月12日の音声

 

2017年11月5日 降誕前第8主日
「十二人の弟子を派遣する」
マタイによる福音書 10章1~15節

わたしたちはいつも、ここに集まっている人々だけではなく、召された方たちとも一緒に時を超えて礼拝をしていると意識しておりますが、毎年永眠者記念礼拝の日には既に召された信仰の仲間やそのご家族を覚え、特別にお写真と共に礼拝しております。今日は既に召された兄弟姉妹をいつも以上に覚える日です。普段お目にかかる機会のあまりない御遺族の方々と共に礼拝を献げることができることをうれしく思っております。何ら特別なことは致しませんが、いつもの礼拝に加え平和の挨拶のあとで召された方々のお名前を読みあげ、生きている者と死せるもの双方に主の平和を祈ります。

今年、マラナ・タ教会は、マタイによる福音書をずっと学び続けております。今日も先週に引き続いて、この福音書から、いつも通り御言葉を聞いてまいります。

今日の御言葉は次のように始まりました。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」(十章一~四節)。イエス様は町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされてきました。この神の国の福音を聞き流さないで、自分たちのものにしようとする人が必要です。神の国に信頼し、それに身を献げようとする人をイエス様は探されました。そして十二人の弟子を呼び寄せられ、ご自身が持っておられた悪霊を追い出し、病気・患いを癒す権威をお与えになりました。弟子と呼ばれる者たちは数多くいたに違いありませんが、ここで特に十二人が呼び寄せられたのです。普通の弟子と区別して使徒と呼ばれます。ペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、この四人は漁師です。フィリポとバルトロマイ、トマスとマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダ、と二人ずつ組みにして六組、十二人の名前が挙げられています。それぞれ特徴ある人物です。十二という数字はもちろんイスラエル十二部族の新しいリーダーが意識されています。新しい神の国が、もうそこまで来ておりますから、イスラエルの失われた家、つまり昔の王国を形成した十二部族が、もれることなく意識されているのです。

マタイによる福音書は、ここから大きな第二幕に入っていきます。ここでイエス様は、まず特別な弟子たちが覚悟すべきことをお教えになります。

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり次のように命じられた」(五節)。使徒を村々に派遣するに際して、イエス様は守るべきことをお命じになられました。これは後に復活のキリストによって派遣される予行演習であったと言ってもよいでしょう。この時のイエス様の命令は、その時聞いた十二弟子たちだけでなく、他の多くの弟子たち、やがては後代の教会も聞き従うべきこととして伝えられたに違いありません。その意味でわたしたちにも語られていますから、いくつかのことを心に留めたいと思います。

最初に弟子たちは、自分から手を挙げたのではなく、召されて、つまりイエス様がお選びになって、この世に遣わされた存在であることを心に留めねばなりません。彼らは「十二使徒」(二節)と呼ばれていますが、「使徒」とは使いの徒、仲間と漢字で書きますが「お使いの者たち」という意味です。「遣された者」であるということは、自分のために何かをするのではないという意味です。ですから、使徒の派遣によって誕生することになる教会ももちろん教会を維持するために存在しているのではありません。派遣なさった主と、その派遣先であるこの世のために存在するのです。わたしたちは教会の形成に力を注ぎ、教会が成長することを願います。それは教会が神とこの世に仕えるためであります。わたしたちが信仰を与えられ、キリスト者とされているのは、自分が救われるためだけではありません。この世に仕えるためなのです。「世に仕える教会」という時に、「召されて派遣されたもの」だという理解は重要です。派遣された者にとって大切なことは派遣なさった御方の御心を行うことです。ですから教会の働きは人道的、社会的使命感からくるものとは異なります。一見よく似てはいても見ているところが違うのです。

五節の後半以下を御覧ください。弟子たちに次のようなことをお命じになりました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(五、六節)。地上におられた時のイエス様の宣教範囲はイスラエルだったので、弟子たちにもこのようにおっしゃったのでしょう。弟子の数も限られております。しかし、復活されたイエス様はこうおっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二十八章十八~二十節)。今の教会はイエス様が、異邦人のためにも弟子を派遣しておられること知っています。そして異邦人にこそ伝道しております。

この世には為すべきことがたくさんあります。しかし、遣わされている者にとって「為すべきであると判断したこと」が、「その時に、今」為すべきことであるとは限りません。繰り返しますが、遣わされている者にとって重要なことは、遣わされた方の御心に従うことであって自分から出た使命を果たすことではないからです。世界中に福音を伝えるのだというのは立派な心掛けですが、イエス様がそう命じられている時に限ります。日本の田舎でこつこつと目立つことなく働くのも同じように大切な働きです。つまり、教会はこの世に目を向ける前に、主であるイエス様に目を向けていることが重要なのです。この世の声に耳を傾ける前に、主の言葉に耳を傾けている必要があります。その順序を間違えてはなりません。

次に、そこに遣わされているのは何のためかをよく考えねばなりません。神に召された、そして遣わされた、素晴らしいことです、けれどもそこで何もしないのでは遣わされたことになりません。この世に遣わされた弟子たち、いまなら教会は何をするのでしょうか。イエス様の命令はこうです。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(七、八節)。宣べ伝えなさい、癒しなさい、生き返らせなさい、清くしなさい、追い払いなさいとおっしゃっています。教会が遣わされているわたしたちの世は、病のある世界です。死のある世界です。様々な苦悩に満ちています。「病人をいやし、死者を生き返らせる」ということは、自分たちのためであり、この世のためです。文字通りできるかもしれませんし、できないかもしれません。しかし、いかなる形にせよわたしたちが遣わされて仕える時、そこでは癒しが起こります。必ずしも医学的な癒しとは限りませんが、重要なことはそこで起こることは天の国が来たことを指し示す徴であるということです。それは神のご支配の下での恵みの徴となるのです。ですから、ただ癒しのためだけに仕えるのではなく、その前に告げ知らせるべき言葉があると語られています。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と。「近づいた」という言葉は「到来した、来た」とも訳せます。神の国が来たのだという宣言をするのが教会です。神の国が来た以上、そこには神の国の徴が見えるはずです。それが罪の赦しです。罪の赦しが観念ではなく事実であることは、穢れているとされていた人が、神との関係が回復できたことで、はっきりと示されました。それが八章、九章にずっと書かれていたことでした。わたしたちの教会が「神の国が来た」と世に向かって告げ知らせているかどうか、よく考えてみなければなりません。

「天の国は近づいた」、これはイエス様ご自身の宣教の最初の言葉です。四章に出てきましたが、こう書かれておりました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(四章十七節)。そのように、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけることでもあります。「悔い改めよ」とは、「立ち帰れ」ということです。天の国は目の前までやってきました。神が近づいてきてくださいました。しかし、そこに入るには人が方向を変えて神の方に帰ってこなくてはなりません。弟子たちは、そのことを告げるために送り出されました。教会もそのようにするべくこの世に遣わされております。ですから、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられているのです。悪霊と聞いて「おどろおどろしい霊的現象」と思ってはなりません。悪霊とは人を神から引き離す力のことです。人を捕らえて離そうとしません。神から引き離されたこの世のありとあらゆる悲惨さが悪しき霊の支配を現しています。イエス様はそんな悪霊を追い払えと命じられました。それは悪霊の支配から神の支配のもとに人を連れ戻す、本来の人間を回復する恵みの業に他なりません。ですから、悪霊を追い払うことと、天の国を宣べ伝え悔い改めを勧めることとは、一つなのです。

日本では、明治以来、神のもとに帰る、つまり罪を悔い改めて神の目に正しいものとされる信仰義認ということばかりが強調されてきました。それは神の国が来たからそうすべきなのですが、神の国は語られませんでした。ですから、そこに神の国とは比較にならない小ささなのに、人にとっては大きな国が登場した時、全く太刀打ちができませんでした。大日本帝国です。天皇を頂点とする富国強兵の制度に抵抗することができなかったのです。日本では、預言者とも呼ばれる立派な無教会の指導者も優れた伝道者も、みんな国家の前に無力でした。天皇制を否定できず結果的に侵略戦争に協力しました。「神の国が来た」、いま神の国に自分は住んでいる、死んでも生きるのだとは信じ切れなかったのです。

最後にどのようにしてこの務めを果たすのかということも考えねばなりません。キリストは弟子たちを遣わすにあたり次のように言われました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(九、十節)。ほとんど物乞い同然の姿で弟子たちを送り出されたのです。大きな務めを与えられて遣わされるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを何一つ持っていくことは許されませんでした。では本当に何もなかったのでしょうか。全く何も無かったのではありません。最初に申し上げましたように「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」のです。この権威・権能は、もともとキリスト御自身の権威・権能です。彼らは、そのキリストの権威を受け取って、その権威を携えて出て行くことが許されていたのです。これは恵みの賜物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(八節)と命じられております。弟子の働きは、このただで与えられたもの、恵みの賜物として与えられたものによって成し遂げられるのであって、彼らが持っていける金貨などの他の何かによるのではないのです。

この戒めは極端に聞こえるかもしれません。何も無かったら宣教の働きはおろか旅を続けることさえ不可能ではないかとも思います。そして実際に今日の教会は多くのものを持っています。経済的にも自立しています。多彩な才能を持った方もいらっしゃいます。ですから持っているモノを活かしてこそ教会の宣教の働きが続けられると考えてしまいます。わたしはまさにそうでした。キリスト教会こそ、この世に与えることのできる多くの価値や教えがあると考えておりました。歴史に裏打ちされた価値や伝統、ヒューマニズム、芸術性、人間性への深い洞察、宗教心の理解などです。キリストについて何も知らないこの世の人々にイエス様を信じる価値をお知らせしようと。一方で、全く逆に考えている人もいるかもしれません。自分たちは豊かでないし、能力も乏しく、教育もなく、知識も経験もないから、この世に与えることのできる何ものをも持っていないと。教会としてあるいは個人としてそのように考えているかもしれません。どうでしょうか。どちらもイエス様に注目せず、自分たちの能力に注目しています。

わたしはいま、自分の力や、能力、何か持っているものには、ほとんど頼らなくなりました。教会で働いていると頼れなくなるのです。年をとったからかもしれません。そこで何をしているか、皆さんに「平和があるように」と、あいさつしているだけです。皆さんもそうではありませんか。そうすると若い人たちが、助けてくださるようになりました。宗教改革五百周年記念のコンサートをマラナ・タ教会主催で、あのように素晴らしいものに導けたのは、多くの方々の協力があったからです。キリスト者でない家族や友人の方々の働きの方が大きかったと思います。それをこの世から引き出せたのは、献身的な信仰者の祈りであり、一部の教会員の懸命の努力でした。

今日は大切な三つのことを学びました。第一に、わたしたちはこの世に遣わされたものであり、したがって明確な使命を持っていること。第二に、その使命とは神の国が来たことを告げ、罪が赦されて神との関係が回復すると宣言すること。第三に、その活動は資金や自分の力に頼らないで行なうということです。結果は、どうなるかわかりません。主がおっしゃった通りにしようと思います。「遣わされた地にとどまり、人々と平和のあいさつをします。もし拒絶されたら出ていきます」。最後の裁きは主に委ねます。教会が、誰に向かって、何を、いかに語るか、それは人々のありようや宗教心を観察し分析することも必要でしょうが、イエス様の言葉どおりに行うことが一番です。

祈ります。
父なる神、永眠者記念礼拝を今年も守ることができました。召されて世に遣わされたわたしたちが、神の国に生きていることを覚えました。御国の福音に生きることができますように。今日はご遺族の方々と共に礼拝できたことを感謝します。生きているものも、死んだ人も等しく守り、祝福してください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

11月5日の音声

 

2017年10月29日 降誕前第9主日
「ファリサイ派の誤解」
マタイによる福音書 9章27~38節

覚えておられる方もいらっしゃると思いますが、今聞きました三十五節の言葉、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」は、半年ほど前に聞きました四章の最後、イエス様のガリラヤ地方での伝道の働きの締めくくりの言葉、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(四章二十三節)とほぼ同じです。このほぼ同じ言葉の間に囲まれている部分、つまり五章から九章までがひとかたまりになっておりまして、イエス様ご自身が、言葉と行いによってお働きになった姿が具体的に描かれています。教え、宣べ伝え、いやされた記録です。五章から七章には有名な「山上の説教」が出てまいりました。また八章から九章ではいやしを中心とした奇跡が記され、イエス様の宣言された、御国の福音、神の国が来たことの徴として、神のご支配のもとで人の罪が赦され、病人がいやされる様子が描かれております。数えますと十の奇跡物語が出てきますけれども、ここで前半の重要な部分が終わります。こういう締めくくりの部分に何が書かれているのかは、大切であります。

今日はその最後、第九、第十の奇跡物語と、三十五節以下のイエス様の勧めを聞きました。「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった」(二十七~三十節a)。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ盲人は、まさにイエス様が、メシアであると直感しております。「ダビデの子」とは油注がれた者、メシア、つまり救い主という意味ですが、この福音書では久しぶりに聞く称号です。一章一節、「これはダビデの子、イエス・キリストの系図である」と始まったのです。ダビデは、イエス様より千年前のユダヤ初代の王ですが、このダビデの末から真の王が生まれ、その王座はゆるぎなくとこしえに続くという預言者ナタンの約束(サムエル記下七章)は、ユダヤ人ならみんなが知っておりました。したがって「ダビデの子よ」と呼びかけたのは、イエス様を、ユダヤの王としたということです。政治的称号ですから、ローマ帝国の支配下にあるガリラヤで、こういう言葉が独り歩きすると大変危険なことでもありました。

二人の盲人はイエス様にすがりました。この盲人たちは、何をして欲しいと具体的には言っておりません。しかし、イエス様は「わたしにできると信じるのか」と信仰を確かめられ、「はい、主よ」という返事を聞いた上で「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃり、二人の目に触れられたのです。盲人たちは、イエス様を「主」と呼んで頼っています。これはわたしたちと同じです。イエス様はわたしたちにも「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃっているのです。盲人たちの信仰はわたしたちの信仰として受け継がれています。ですから「主よ、憐れんでください」という祈りは、この後ずっと今日に至るまで唱え続けられております。わたしたちも「キリエ、エレイソン」とラテン語で祈ることがありますが、「キリエ」はギリシア語では「キュリエ」で、「主よ」という意味、「エレイソン」はギリシア語では「エレエーソン」、「憐れんでください」という意味です。ギリシア語がほぼそのままラテン語になりました。「南無阿弥陀仏」に相当する、わたしたちの信仰を一言で表す祈りの言葉です。

「イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」(三十,三十一節)。なぜイエス様が誰にも知らせてはいけないとおっしゃったのか、はっきりと書いてありませんが、申し上げたように、この話がうわさとして広がると、救い主が来た、ユダヤの王が来られたとなって、熱狂的な独立運動が起こりローマの弾圧を予測されたからではないかと思います。しかし、イエス様が禁じられたにもかかわらずこの盲人たちは、その地方一体に言い広めたのです。先週聞きました指導者の娘が生き返った話や出血の女性の癒しも、地方一体にうわさが広まったと二十六節にありましたから、これ以上、うわさが広がることをお望みにならなかったのでしょう。

次に、第十番目の奇跡として口のきけない人の癒しの物語が出てきます。「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った」(三十二~三十四節)。この最後の奇跡物語は、「悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れて来られ、悪霊が追い出されると、その人がものを言い始めた」と極めて簡潔に書かれています。この人の信仰も、感謝の言葉も、何も書いてありません。焦点は奇跡にではなく、群衆とファリサイ派の反応に置かれています。群衆は出来事に驚きますが、肯定的に受け取っています。旧約聖書にはモーセが海を従えた有名な話や、エリヤやエリシャが死んだ子を生き返らせた話がありますが、盲人が見えるようになった、口のきけない人が話せるようになった例はありません。まさに、こんなことは今までイスラエルで起こったためしがないのです。しかし、にもかかわらずファリサイ派は否定したのです。この男は悪霊の頭だと言いました。悪霊を追い出せるのは悪霊の親分だからという理屈です。イエス様が誰であるのか完全に見損なっております。目が曇っていたのです。見ていても見えていなかったと言えるでしょう。

毎週火曜日の朝に持たれています聖書を読む会では最近、旧約聖書の預言書ミカ書を読んでおります。あまり皆さん通読をなさらない箇所かもしれませんが、クリスマスにしばしば朗読される預言書です。ミカは、イザヤと同じ時代の預言者で、戦争の危機が迫る中で、ある時は平和に傾き、ある時は戦わざるを得ない状況に傾く大変困難な時代に生きた人です。彼は、今は戦いの危機にあるが、やがて終わりの日には神が数々の奇跡をなさると言って、足の萎えたものは歩き、目の見えないものの目が開き、口のきけない人が話し、死者が生き返ると語っています。マタイによる福音書でも二章六節にミカ書五章の有名な言葉「ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」が引用されておりますように、ユダヤの人々はこの預言者の言葉をよく覚えておりました。八、九章でわたしたちが経験したことは、まさにミカや、イザヤが預言した通りでした。重い皮膚病の人が癒され、異邦人の僕が病気を治してもらい、中風で歩けない人が歩き、死んだ娘が生き返り、今日聞きました物語でも、盲人が見えるようになり、口のきけない人が話せるようになりました。民衆はとうとう神の国が来た、預言の通りの奇跡が起こっている、神のご支配が来たのだと実感したでしょう。

ところが、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。神の国が来たというイエス様の宣言を、本当だとは信じなかったのです。イエス様のなさった病の癒し、罪の赦しを間近に見ても、これほど明確に示された神の御子の啓示を受け入れず、こんなことは見たことがない、これは悪霊の頭の力を使って、悪霊を追い出しているにすぎない、イエスという男は、悪霊を追い出すことのできる悪霊の親分なのだと言ったのです。ファリサイ派は、厳格なユダヤ教徒です。旧約聖書をよく読んでいました。旧約聖書の教えに忠実でしたし、宗教活動に敬虔な姿勢で臨み熱心でもありました。当時、最もよく信仰を理解し実践していた人たちです。しかし、彼らはイエス様のなさった徴を素直に受け取ることなく、イエス様を否定し非難したのです。このことはこれからの更なる対立を予想させます。

今日の説教題が「盲人の癒し」や「口のきけない人の癒し」ではなく、「ファリサイ派の誤解」であるのは、わたしたちが、特にわたしがですが、ファリサイ派の姿に自分を見るからです。イエス様の神の国が来たという宣言を聞き、その徴を見たイスラエルの人々の反応は二つに分かれました。群衆は奇跡が起こったことを見て、神の国が来たと思ったのに対し、ファリサイ派は、悪魔の親分だと言ったのです。わたしたちはどうでしょうか。まさか悪魔の親分だとはさすがに言いませんが、神の国が来たというイエス様の御言葉をちゃんと聞いているでしょうか。わたしたちの信仰の土台は、イエス様に従うこと、イエス様を信頼することです。示された徴をはっきりと見て、神の国が来たことを理解しているでしょうか。「神の国が来た」とこの世に向かって叫んできたでしょうか。自分が救われるかどうかばかりを気にしていないでしょうか。自分の信仰、マラナ・タ教会の信仰ばかりが気になって、あの人はまだまだだなと裁いてしまっていないでしょうか。なんであんな奴が一緒にいるのだというのはファリサイ派の反応です。わたしは自分のうちに深く巣くっている律法主義に最近やっとはっきり気付きました。

わたしたちキリスト者は、御国の福音「神の国」の到来を感謝して生きているでしょうか。「神の国」では、神との正しい関係、義があります。罪が赦されキリストの平和をいただきます。喜びがあります。これは現実の厳しい社会で生きるわたしたちにとって決して幻想ではありません。イエス・キリストにおいて成就した新しい現実であります。わたしたちはただ個人的に悔い改めるだけではなく、ともに祈りつつ、落胆せずに働き続けるのです。これができれば、たとえ、今の日本にあっても、教会は人々が集まるところとなります。かつての戦前・戦中のような極端な厳しい現実に立ち向かわねばならない時でも、自分の信仰や、自分の国をよしとして、神の国と取り違えるような過ちは起こらないはずです。

さて九章の最後で、イエス様の働きについて、結論として語られていることを読みます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(三十五節)。ここで今日最初に取り上げましたこのひとかたまりの最後の言葉が出てきます。御国の福音が宣べ伝えられ、癒しが行われ、イエス様の活動はすべての町々や村々に及び、イスラエル中に知られることになったのです。旧約聖書の言葉が成就しました。

三十五節の言葉に、次の大きなかたまりが続きます。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(三十六~三十八節)。イエス様は、町や村を回っておられるとき、群衆が弱りはて、打ちひしがれている姿をご覧になりました。説教を聴く人々も疲れ果て、病気の人が次々と運び込まれてきたのでしょう。「弱り果てる」とは強い言葉です。「皮を剥がれ、ずたずたに切られる」という意味ですが、迷子になった羊が、あちこちさまよって岩にぶつかり、木の枝にひっかかって傷ついた様子を言います。当時はローマの支配下にあって、表面上は平和でした。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは王宮を美しく建設し、社会は一見繁栄しているかのようでした。しかし、ユダヤの伝統宗教は、アレキサンダー大王以来のヘレニズム、ギリシア化、そしてローマ化政策に押し流され、大祭司も権力者におもねっていました。良心的には虚脱状態で、飼う者のいない羊の様だったのです。まさに「イスラエルの家の失われた羊」(十章六節)だったのです。イエス様はこういう彼らの姿を見て、深く憐れまれたのです。はらわたまで揺り動かされるほど深く同情なさいました。聖書には同情や憐れみを表す言葉がいくつもありますが、このはらわたがちぎれるほど深く憐れむという意味の「スプラングニゾマイ」は、イエス様だけに使われる言葉です。

イエス様は飼う者のいない羊のような民衆への憐れみから、弟子にもご自分の権威を授けられます。弟子たちには、はらわたがちぎれるほど深く憐れむなどということは到底できません。しかし、小さなものではあっても滅びつつある魂への憐れみがあれば、どうしても伝道せざるを得ないのです。イエス様に委ねられて教会は懸命に伝道します。気の毒だなとか、貧しくて大変だなとかの表面的な感傷ではなく、主がユダヤ人群衆を見てお感じなった、隠された魂の痛み、心の空白、霊的虚脱への配慮がわたしたちを押し出します。

福音の宣教と癒しの業による伝道は収穫が多いのです。しかし働き手が足りません。イエス様はもっと多くの働き手を求めて祈るように言われています。飼う者のいない民衆への宣教を収穫する面からみると憐れみが支配的です。神の国への招きです。しかし、一方で収穫は裁きを表します。切りとられて選別されるときでもあります。麦の実は倉に入りますが、もみ殻は焼き払われます。毒麦と良い麦も選別されます。滅びへの道であるかもしれないのです。終わりの日に、罪赦されてみんないっしょに食卓を囲む希望と共に、火で燃やされるかもしれないという事実からわたしたちは目を背けてはならないでしょう。おごそかに神の計画を覚えて伝道しましょう。

祈ります。
父なる神、イエス様は神の国が近づいたとおっしゃいました。奇跡を見せてくださいました。神の国での病気や苦難からの回復を示してくださったこと、わたしたちを憐れんでくださっていることを感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたのご愛に応え、喜んで従っていけますよう導いてください。イエス様の働き手として用いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

10月29日の音声

 

 

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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