聖霊降臨節説教2017

2017年6月18日 聖霊降臨節第三主日
「善い行い」
マタイによる福音書 6章16~21節

今、「断食」という言葉を聞きますと、体重や、血中コレステロールの値が、まず思い浮かぶのではないでしょうか。断食道場で、体重を落とし、内臓脂肪を減らす。健康維持法の一つです。けれども、イエス様の時代のユダヤでは、貧しい人への「施し」、神への「祈り」とならんで、「断食」は宗教上の慣習における大切な行為でした。神から離れてしまっていたことや、犯してしまった罪に対する、悲しみの表現や悔い改めの表現として、また神の前での謙遜の表現として大きな意味を持っていました。昔は全体的に今ほど栄養が行き届いておりませんでしたから、例えばたんぱく質もヴィタミンも摂取量が低かったでしょうから、断食は健康を著しく損なう恐れがありました。しかし、神の恩恵を得る手段としてみんなが行っていた善い業、神の前に正しい行為、「義」だったのです。

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(十六~十八節)。

六章に入って、まず一節以下で「施し」について、五節以下で「祈り」について、そして、今日聞きました十六節以下では、三つの善い行いの残りの一つ、「断食」が取り上げられています。いずれの場合も「・・・するときには、あなたがたは偽善者のように・・・してはならない。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、・・・するとき・・・。それは、人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」という同じ形で、人前で善行を行うことを戒め、隠れたところで神の前で行うように勧められています。

ところで、一般のユダヤ人は年に数度、新年や身を戒める日に断食をしました。敬虔なユダヤ人といわれる人は、年に十回ほど、ほぼ毎月断食をしました。国民として一斉にしたこともありましたし、必ずしも宗教的規則というわけではありませんが、半ば定めのような断食もありました。しかし、断食という行為は、特殊なことでもあって、ややもすると形式的になったり、人に見せるものになったりしがちでした。旧約聖書で断食に触れた個所は多いのですが、こういう厳しいことも言われております。「見よ お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか」(イザヤ五十八章四から六節a)と告げてから、本当の断食とはこういうものだ、と続きます。一方で、きわめて個人的な悔い改めの断食もありました。「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした」(サムエル記下 十二章十五,十六節)。ダビデがバト・シェバとの間にできた子を生かしてくださるようにと願いに願って、夜を徹して祈った断食もあったのです。

イエス様がここで取り上げられておられるのは私的な断食です。その断食について、施しや祈りのときと同じようにまず、「偽善者のようにするな」とおっしゃっています。断食そのものを否定されたのではなく、断食をするときの姿勢について語っておられます。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した」(ダニエル書 九章三節)のように、ダニエルは心からの悔い改めをもって、断食し粗布をまとい、灰をかぶって祈りましたが、イエス様の時代には、断食していることがみんなに分かるように、食べてないぞとアピールするため、沈んだ顔つきをして、顔を見苦しくし、いかにも断食中ですと見せびらかす輩がいたようです。ここで「顔を見苦しくする」とは、頭に灰をかぶって、その灰が汗でぬれて顔に垂れ、髭に引っ付くのに任せ、いかにもげっそりしているかのように振る舞うことです。そうしますと「あの人は断食しているのだ、立派な人だ」と褒められます。しかし、人からの称賛を受けてしまうと、もはや神からの報いは受けられなくなります。「彼らはすでに報いをうけている」(十六節)からです。それではいけないとイエス様はおっしゃり、あなた方、神の国の住民、神のご支配の中に生きる者は、「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と教えられたのです。頭に油をつけ、顔を洗うのは、祝宴に出かけるときのマナーです。普通のユダヤ人は綺麗好きでしたから、みんな少し改まった時はそうしておりました。断食中でもいつも通り、小綺麗にしなさいということです。言うまでもなく、化粧の勧めや身だしなみに関する教えではありません。他人を意識した断食にならないように、人目につかないようにしなさいと言われたのです。そうすれば「隠れたことを見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる」(十八節)と、これもまた同じことを繰り返されました。

偽善者と訳されている元の言葉は、先週も申し上げましたが、役者のことで、仮面をつけて演技をする人のことでした。イエス様は演技することが悪いとおっしゃったのではありません。役者は、演技が演技でなく真実であるかのように演じますし、それが名優です。お客に見せるため、真に迫った演技を目指します。いったん演技がよくできると人々から賞賛を受けてしまって、もはや大切な神からの報いが受けられなくなります。神から報いを受けることこそ大切なのだから、役者のようにはなるな、神に見ていただきなさいとおっしゃったのです。自己満足のためでも、評価されるためでもなく、人目を排除し、人からの報いを期待しないで善行を行いなさいということです。そうすることによって、善行は初めて自然なものとなり、神との正しい関係の中での行為になるからです。何度も繰り返して申しあげることになりますが、劇場でお芝居をする人を批判なさったわけでも、謙遜や倫理を教えられたのでもありません。神との関係、神の子とされた者の姿勢を教えられたのです。

ルカによる福音書十八章を見ますと、イエス様がたとえでお話になった中に、週二度断食するファリサイ派の人が出てきます(十二節)。当時こういった断食の習慣をきちんと守る人は、神に受け入れられた人、尊敬に値する人と見られておりました。ところで、「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」(九章十四節)と書かれていますように、福音書を注意して読みましても、不思議にイエス様の弟子は、断食した様子が伺われません。イエス様はそれほど積極的には断食を勧められなかったように感じます。肉体労働者の漁師が断食などすれば仕事になりません。イエス様の弟子には、漁師が何人もおりました。しかし、イエス様ご自身は、悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた際に、四十日間、昼も夜も断食されました(四章一、二節)。教会も断食しました。使徒言行録には、「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』。そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(使徒言行録 十三章二、三節)のように、初代教会が宣教者を派遣するとき、断食が祈りと結びついて神の働きとして重要な役割を果たしたことも記録されていますし、「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」(同十四章二十三節)とありますように、長老を選出するときにも神の御心を求めて断食をしながら祈りました。伝道する、教会を形成する業として、喜びに生きるわたしたちも断食することがあります。わたしはこれまで一度しか断食して祈ったことはありません。そのたった一度は、マラナ・タ教会が立っているこの土地を買うかどうか決断した時です。この決断が御心にかなっているかどうか、考えに考え、計算に計算を重ねましたが、出てくる答えは「普通では不可能」でした。最後は断食して祈りました。たった一日でしたが、不思議にすっきりと、買いなさいと言われている気がしました。

信仰者が最も警戒せねばならないことは、神に向かってなされるべきことが、人に対してなされるようになってしまうことだと、イエス様は、施し、祈り、断食の三つの例を挙げて教えられました。神が愛してくださっていることを知り、その愛に応えていくことだけが、そのような偽善に陥ることからわたしたちを守るのです。

今日はこれに続いてもう一つの御言葉が与えられています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(十九~二十一節)。

広い家に格好良い車。宝石に絵画。そのように贅沢なものまではいかなくても、ある程度豊かに生きていくためのお金、食べ物や服。現代に生きるわたしたちは、いろんなものを所有したいという願望を持ちます。旧約の時代も、神の祝福とは、長寿、子沢山、そして、財産があることでした。イエス様は、地上に富は積まず、富は天に積みなさいと言われました。一体、富とは何でしょうか。またイエス様は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」ともおっしゃいました。これはまことにもっともで、よくわかる表現です。三十歳になった時、初めて自分が勤めている会社の株を買わされました。少量でしたから富といえるほどのものではありませんでしたが、それでも毎日それまで見たこともなかった新聞の株式欄を見て、株価を確かめるようになりました。息子が北海道の大学に進学したときは、毎日札幌の温度や天気が気になりましたし、アメリカ生活で小切手を使う生活になりますと、きちんとお金が入金され、また出金されているか、それまでまったく気にしていなかった口座の残高を確かめるようになりました。この習慣は身についてしまって、我が家ではお金の管理は今もわたしがしております。このように、富のあるところに心もあるのです。だから富は天に積みなさいと、おっしゃったのでしょう。富をあらわすギリシア語には、マモーンがありますが、いまは普通悪い意味で使います。偶像としての富。強欲とか拝金主義を指します。ですがこれはアーメンからきた言葉です。「その通り、まことにそうです」がアーメンです。人にお金を預けるとき、受け取った方は確かに受け取りました、アーメンというのですが、この受け取ったものをやがてアーメン、マモーンというようになったそうです。預かった方はこれを利用して儲けることができます。やがて財産をも意味したようです。

地上の富とは、安心を保証するための財貨、資産でしょう。悪いものではありません。しかし、高価な織物は虫に弱いものですし、当時の家は簡単に盗みに入れたようですから、地上の富は、一生懸命貯めておいても虫が食ったり、さびたり、盗られたり、壊され消えていくものだったのです。これに対し、天では、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込んで盗み出すこともないと言われます。では、天に積む富とは、何でしょう。これまで三つの善行について見てきました。人に気づかれないように善い業を行えば、隠れたことを見ておられる神が報いてくださるという話でした。この文脈で考えると、天の富とは「神からいただく報酬」に違いありません。自分で積み上げなくても神が積み上げてくださる宝であり、永遠に持続され得るものです。自分の行為によって獲得するものではなく、神により頼んで生きるときに与えられるものなのです。この天に宝を積むことができれば、富のあるところに、心もあるのですから、わたしたちは神との正しい関係の中で、生きていくことができるのです。

それは、この山上の説教でイエス様が最初に「幸いだ、幸いだ」とおっしゃったことにつながります。わたしたちは幸いな生き方ができるのです。神に見ていただく生き方です。脅迫観念から解放された生き方です。先週、マラナ・タでの牧師勉強会にウィクリフの宣教師が来ました。未開地のジャングルにも出かけていきます。現地語による聖書翻訳のためです。どこへも行かないで家で家族の面倒を見ている人もいます。どちらが素晴らしくて、どちらかがダメということはありません。遣わされたら、どんなところへでも喜んで行けばよいし、留められたなら、そこに留まって祈ればよいのです。どこにいようとも、神はわたしたちを見ておられます。神がともにおられるなら、どこに行っても、そこは天の国です。人がどのような人生を歩むか、それは色々ですが、天に宝を積むことが大切です。神の国、神のご支配はすでに来ているのです。すべてを神に委ね、神を見上げて歩みましょう。神は共にいてくださいます。

祈ります。
父なる神、いつも深い憐れみをもってわたしたちを見ていてくださり、応えてくださることを感謝します。わたしたちは、ともすると人の目を気にしがちですが、隠れて善行を行えるよう導いてください。地上にではなく天に、富を積むことができますように。あなたを見上げて歩む、この幸いな生き方をどうか全うさせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

6月18日の音声 

 

2017年6月11日 聖霊降臨節第二主日 三位一体日
「まことの祈り」
マタイによる福音書 6章5~15節

教会では祈りが奨励されます。祈らない教会はありません。特に熱心に祈るある教派の牧師の中には、早朝まだ暗いうちから山に行って、一人で祈る人もおります。寒いので毛布を抱えて行きます。わたしが尊敬する牧師にもそういう人がおりました。ところがわたしは、そうした早朝の山行きことをしたことがありません。健康のため散歩することはあっても、毛布を持って祈りには行きませんでした。特に不真面目だったとか、信仰に熱心でなかったからというよりも、わからなかったのです。主なる神は、わたしどもの必要をよくご存じです。暗いうちから山に行って祈らなくても、すべてをご存じなのだから、何もそこまでして祈らなくてもいいのではないか、そういう気持ちがずっとありました。加えて、熱心に祈る人は、それがわかると立派な信仰者だと人からの賞賛を受けるはずなので、もはや神からの報いが必要なくなるではないかと感じていたのです。マタイによる福音書六章で、イエス様がはっきりそうおっしゃっているのではないか、それがわたしの疑問でした。さらに他人からの賞賛だけでなく、一番引っかかったのは、祈っている自分を見ている自分がいて、なかなかよく祈っている、感心だ、いいクリスチャンだと、充実感に満たされて、自分で自分をほめることになるのではないか、それは右の手がしていることを左の手がほめているようなもので、イエス様がしてはならないとおっしゃっている偽善ではないのかという思いでした。

もうひとつ、わたしが若いころ指導を受けた祈りに熱心な福音派の牧師は、出勤中の満員電車の中は、祈りに最適だと教えてくださいました。誰にも邪魔されずに、知っている人は周りに一人もいないので、吊革にぶら下がって二十分なり三十分集中して祈れるとおっしゃったのです。当時の満員電車は今とは違ってぎゅうぎゅう詰めで本を読むどころではありませんでした。孤独で、少々ぶつぶつと祈っていても、だれも気にしないからと言うのです。いつでもどこでも祈れるよう、目を開けたままでも祈れるよう訓練をせよと教わりました。わたしは、この先生の影響で、牧師になるまでの長い社会人生活の中で、仕事中、食事の前、通勤中に祈っておりました。特別に祈る時を取るのではなく、生活の中で祈っておりました。

今日聞きました福音書の中で、イエス様もこの問題に触れておられます。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(五節)。イエス様の時代のユダヤ人には、貧しい人への施し、神への祈り、断食が、最も大切な善行、神の御前における義のわざとされておりました。ですから、決まった時刻が来ると、会堂や大通りの角に立って、祈る人がいたようです。人目をまったく気にしない人もいたかもしれませんが、しかし、祈りが「人に見てもらうため」になりますと、それは神に向けられたものではなく、人間に向けられたものになってしまいます。そうなりますと、施しをするときと同じで、彼らは既に報いを受けている、つまり人間の間で計算が済んでしまっていることになってしまうのです。個人の祈りは、神だけに向かうものでなくてはなりません。

これに続いて「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(六節)とあります。これは誤解されやすいのですが、祈りは人に見せないで隠れて戸を閉めて祈りなさい、目立たないことが大事なのだという教えではありません。この当時の家は、人間と家畜がしばしば一緒に暮らしておりました。狭くて暗い家です。簡単な仕切りで人と家畜が隔てられております。その奥は一段と低くなっていて、いわば半地下室になっておりました。ここに貴重品と食料が保管されていたのです。奥まった自分の部屋とは、この地下室のことです。他人は入りません。隠れた場所です。ここは神からいただいた大切な宝物が収められているところであり、一人になれるところでもあります。宝の傍で、つまり神の近くで、人を気にせず神に対して祈ることのできる場所です。この教えは謙遜の教えではありません。ここまでと同様に、神との関係を強調しておられるのです。

「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(七~八節)。ここで言われているのは祈りの長さや繰り返しのことではありません。多神教の人たちは、自分の知る限りの神の名を、落とすことなくすべて呼ぶために、祈りを長い神の名の羅列から始めることがあったようですが、ユダヤ教でもこれに似た、「主よ、わたしたちの神、わたしたちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、いと高き神、・・・」というように多くの呼びかけを連ねた祈りがあったようです。これを戒められたのです。わたしたちはこのような神の名を連ねて呼びかける祈りはしませんが、困ったときや苦しい時には、何度も神の名を呼び、何とかしてくださいと祈ります。しかし、イエス様はそのような願いごとを並べ立てる祈りはもういらない、あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(八節)とおっしゃるのです。神はわたしたちよりもっと正確に、わたしたちに本当に必要なものを知っていてくださるのです。

そしてイエス様はおっしゃいました。「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください』」と(九~十三節)。わたしたちが毎日唱えている「主の祈り」です。イエス様はわたしたちにまず、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるように教えられました。「父よ」と訳されていますが、イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」です。「アッバ」は、聖書には三回出てきます。これは幼い子どもが父親に呼びかける言葉です。イエス様御自身が祈りの時に使っておられました。ゆるぎない信頼に溢れています。この「お父さん」、あるいは「おとうちゃん」という言葉で呼びかけなさいとイエス様は言われたのです。単純であることと親愛からくる神の近さが重要視されています。

わたしたちが、天地の造り主であり全世界の王である神を「お父さん」と呼ぶことができる。それは決して当たり前のことではありません。古代社会にあって神を「おとうさん」と呼ぶ例はイエス様以外にはありません。「主権者なる主よ」とか、「宇宙の王なる方よ」などと仰々しく祈っておりました。世界の創り主に親しく語りかけるなどということは、本来ならあり得ないことですし、今まで自分がどう生きてきたのかを考えると、なおさら、「おとうさん」と親しげに語りかけるなど考えられないことです。神を無視し逆らって歩んできたわたしたちが、まことの神の御前に出るならば、恐れおののかざるを得ないはずです。罪を犯してきたわたしたちが、この世界を正しく裁く権威をお持ちである御方に対して、イエス様と同じように「お父さん」と親しみを込めて呼びかけるなど、できるはずがありません。しかし、そのあり得ないことが許されているのです。イエス様がわたしたちの罪の贖いのため十字架にかかってくださったからです。わたしたちの罪を担ってくださったので、わたしたちは義とされ神との正しい関係の中に置かれました。そのわたしたちに、イエス様だからこそできる祈りを教えてくださり、「お父さん」と祈りなさいと言ってくださったのです。すべては神の愛から出た、一方的な恵みです。直接親しく呼びかけられること自体が、実は既に神の愛の現れなのです。わたしたちは愛されている子どもとして、祈ることが許されているのです。

そのように神に愛され、「お父さん」と呼べる神の子どもとされた者として、父を愛して生きていく、それがわたしたちの信仰生活です。神の愛を獲得するために信仰に励むのではありません。厚意を得るために敬虔な生活をするのではありません。自分が差し出す何かと引き替えに神の愛を得ようとするのは、子どもらしい姿ではありません。子どもは初めから父に愛されているのです。わたしたちは愛されているのです。だから愛されている者として、ご愛に応えて生きていく、一方的に恵みを与えられた者として、その恵みに応えて生きていくのです。お父さん、ありがとうと呼びかけます。

子どもが父を愛する時、父の関心事が子どもの関心事にもなります。医者の子が医者に、大工の子が大工になるのは珍しいことではありません。父の望んでいることを子どもも望むようになります。父がどのようなことを考えているのか、父を愛している子どもなら、もっとよく知りたいと願うようになり、父が願っていることが実現することを、子どもも願うようになるでしょう。そこで、父から愛され父を愛する子どもとして祈る、「天にいますわれらの父よ」に続ける祈りとして、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「御名が崇められますように」「御国がきますように」そして「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です(九、十節)。主の祈りの前半部分です。

「御名が崇められますように」。このような祈りが求められるのは、神の御名があがめられていない、むしろ汚されているという現実があったからでしょう。神が神とされていない。主の御名は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われてきたのです。「御国が来ますように」。そのような祈りがなされるのは、今、目にしているのは御国ではない、という現実があるからでしょう。神ならぬものの支配。わたしたちがこの世で目にしているのは罪と死の支配であり、神なき闇の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることは同時に、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。わたしたちが目にしているのは、御心が実現していない世界です。神の御心に反することが行われている世界です。父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、そして神の民の現実を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられました。父の御名が崇められ、御心が地上で行われることを誰よりも願っておられたのはイエス様です。そのイエス様の心を共にして祈ってほしいと、祈りの言葉を与えてくださったのです。

「このように祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」とは、「神に願いなさい」ということです。実現なさるのは神御自身です。神の御名が崇められるようになること、神の御国が来ること、神の御心がこの地上において実現すること。これらすべては神の御業であり、御自身の戦いです。父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。父の心を共有し、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈る子どもたちを求められるのです。そのような子どもたちを用いて事を進めようとされるのです。

「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」。これが根本的な求めであり、基盤です。それがわたしたちの祈りとなっていくならば、それがみんなの願いとなっていくならば、どのようなことも、教会生活を続けるゆえに生じた困難さえも、信仰のつまずきとはならないはずです。大切なことは、苦難があるかないか、教会生活に困難があるかないか、お金があるかないかではないのです。そういうことは、もちろん大事ではあります。イエス様も、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(十一~十三節)と日常の具体的な必要を祈るようにと教えてくださいました。ですが、まず大事なのは、いったい何を求めて生きているのかということです。「主の祈り」が自分の祈りになっているかどうか、ということです。

繰り返します。最初に見ましたように、この祈りは「父よ」という呼びかけから始まります。父を愛する子どもとしての祈りなのです。神を父として愛する親しい関係の中に置かれている、神の子としての祈りです。そのように祈れるのは、父から愛されていることを知っているからです。罪あるわたしが滅ぼされるのではなくて、罪を赦され、御父を「お父さん」と呼べること、神の子どもとされていること、そしてそれがどれほど大きな恵みであるかを知っているということです。「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさいと教えてくださり、わたしたちのために十字架におかかりくださったイエス様の祈り、「主の祈り」を、お互いに自分の祈りとしましょう。 その時、どこで祈るのか、いつ祈るのか、声に出すのか出さないのか、目を閉じるのか閉じないのか、そういった人間の疑問は解消するでしょう。ただ神の御名が崇められるのです。

 

祈ります。
主イエスキリストの父なる神、イエス様はわたしたちの贖いのために十字架についてくださり、あなたに「父よ」と呼びかけて祈るように教えてくださいました。この恵みに感謝します。あなたはわたしたちの必要をわたしたち以上によく知っていてくださいます。どうかわたしたちが御心にかなった祈りができますよう支え導いてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように。
主の御名によって祈り願います。アーメン。

6月11日の音声

 

2017年6月4日 聖霊降臨日
「聖霊が降り、神の偉大な業を語る」
使徒言行録 2章1~13節

二千年前の五旬祭の日、イエス様の最初の弟子たちが、エルサレムのどこかに「一つになって集まって」(一節)いると、とても不思議なことが起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(二-四節)とあります。天からの激しい音や、分かれ分かれに現れた炎の様な舌は、神が現れなさった徴です。また舌は言葉を表します。聖霊に満たされた弟子たちは、別々の言葉で、同じことを、多くの人の前に出てきて話しだしたのです。驚きの事件が起こりました。

この当時、ローマ帝国によって地中海世界は統一され、道が整備され、治安が保たれ、誰でも旅が出来るようになっていました。出エジプト記に「あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい。年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない」(三十四章二十二、二十三節)とありますから、何百年も前に国が滅び、世界中に離散してしまっていたユダヤ人の子孫の中には、自分たちの原点を求めて、年に三度、過ぎ越しの祭り、七週祭(五旬祭)、仮庵の祭りのときには、エルサレムに帰ってきて滞在する人もおりました(五節)。こういう人は「信心深いユダヤ人」と呼ばれています。その人たちも、もちろん天から聞こえた激しい風が吹いて来るような音を聞きました。驚いて外に出てきました。帰国した外国生まれのユダヤ人は、当然、アラム語やヘブル語ではなく、生まれた国の言葉を話します。そこで彼らは見たのです。どう見てもエルサレムの人ではない、ガリラヤなまりのある人たちが、自分の故郷の言葉で話しているのを。そして、あっけにとられてしまったのです(六節)。ハワイやブラジルに移住した日本人の子孫が、京都に帰ってきて滞在しているとき、京都に来ていた地方の人が、英語やポルトガル語の、しかも方言で突然話すのを聞いたようなものです。何が起こったのかと驚き怪しんだ(七節)のも無理はありません。

ところで、「聖霊に満たされた」というのは、どういうことだったのでしょうか。もう少し身近な表現で考えますと、例えば「怒りに満たされた」というのは、腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができない。自分を制することができずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。そのような状態を言います。「満たされる」というのは、「支配される」ことです。ですから、聖霊に満たされるとは、神の霊によって支配されることです。神の霊でわが身が一杯になる。神によって動かされる。わたしたちを用いて神の力が現れ、神の御業が現れる。まさに神が人を通して御自身を現してくださること、それが「聖霊に満たされた」ということです。興奮して無我夢中になり、自分が自分でなくなること、いわゆる神がかりと勘違いすることがありますが、そうではありません。神の霊は、静かに、力強く人を動かします。

この日、弟子たちは「聖霊に満たされ」たのです。そして、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」ました。何を語ったのでしょう。「神の偉大な業」(十一節)です。イエス様の弟子たちは、師であるイエス様がなさった神の国の到来を告げることを受け継いで、同じひとつのこと、神の偉大な業を語りました。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(八-十一節)。世界中の人々に、それぞれのふるさとの言葉で、神の偉大な業を語ったのです。神はこの世界の救いのために、イエス様の弟子たちをいろんな言語で話せるようになさいました。救いを伝えるためです。いうまでもありませんが、弟子たちは努力なしで、それ以後も外国語が話せたわけではありません。この時だけです。これは聖霊の働きを象徴する、きわめて特殊な出来事でした。

マラナ・タ教会では、ペンテコステの日に各国語で主の祈りを唱えています。すでに7年目になりますが、今年も、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、フランス語、ドイツ語、英語、中国語、韓国語、それに隠れキリシタンと今の日本語、合計十種類の言葉で、主の祈りを唱えました。よい試みだと思っています。「聖霊に満たされ」「いろいろな国の言葉で」「神の偉大な業を語る」ことを真似てやっております。主の祈りだけですが、ペンテコステらしく、それぞれの国の方がそれぞれの国の言葉で、同じ祈りを共に、ささげることができます。

「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、世界宣教の始まりとして極めて象徴的な出来事でした。しかし、ある人は言うかもしれません。世界を救うのなら、神が直接救う方がよいのではないか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くやり方で、炎のような舌が現れる不思議な力で、直接人を救ったらよいのではないかと。ところが、神はそのようなことを望んではおられないようです。人を用いて人を救おうとしておられるのです。ですから、激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのはこの時だけですし、炎のような舌が現れたのもイエス様が天に昇られた直後の、この五旬祭一回限りなのです。それから後、神は人を通して救いの御業を進めてこられました。教会の発展の歴史をわたしたちは知っておりますが、ペンテコステの出来事のあと、突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれて教会に来た人はいないと思います。神に用いられた誰かが、わたしに神の業を語ってくれ、それを聞いて、わたしは今ここにおります。皆さんもそうだと思います。人による伝道、ここに聖霊の働きがあります。

このように、人を通して働かれる神の御業の中にわたしたちは存在しています。ですからわたしたちも、聖霊で満たされ、用いられて、人を救えるのです。救いの御業はそのようにして人から人へと伝えられていきます。聖霊に満たされて生きることは、自分のためだけではなくて、家族のためであり、友人のためであり、この世の救いのためなのです。言い換えますと、世の救いのための言葉、福音を語るのが教会のなすべきことです。この働きは聖霊降臨日に始まり、今も続いています。それで聖霊降臨日は伝道の開始、教会の誕生日として祝われます。この日には、分れ分れに現れた炎の様な舌を思い出して、赤い服を着たり、赤いネクタイをしたり、何か赤いものを身につけて、昔の出来事に想いを寄せます。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ大事な祝祭です。

このように教会は聖霊に満たされて誕生し、ペンテコステの出来事の後、教会は発展していきますが、決して順風満帆ではありませんでした。使徒言行録は、教会が始まった時代の出来事について書かれた書物ですが、自分たちの歩みについて、良いことだけに集中しまずいことは触れない、単なる昔の教会の思い出話ではありません。教会の性格、キリスト者の被った迫害や分裂、キリストの弟子として生き続ける困難や喜び、みな書かれています。使徒言行録を読むことは、今のわたしたちの教会の在り方を考え、信仰生活のあり方を考えていくことにもなるのです。わたしたちは、世界の人に向かって、キリストの福音を語らねばなりません。そのために聖霊に満たされることを期待したいのです。聖霊に満たされることと都合よくことが運ぶこととは同じではありません。あの人は聖霊に満たされた人だ、だからあんな素晴らしいことが出来るのだ、とは時々聞く表現ですが、正しい理解ではありません。つらく悲しい経験をする人は、聖霊に満たされていない、という理解も正しくありません。決してそんなことはありません。神は御心のままに人を用いて御業を成し遂げて行かれるのです。

使徒言行録が書かれた時代、教会はほかの宗教が主流である社会の中で、少数者として誕生し、生き抜いていかねばなりませんでした。この時代の教会の背景は、今の日本の教会の背景でもあります。このような目で、聖霊によって何が始まったのか、もう一度聖書に確認したいと思います。集まった人々が聞いたのは、「神の偉大な業を語っている」言葉でした。聖霊に満たされた人々から聞いたのは、神の御業を誉め讃える賛美の言葉だったのです。人が神の御業に思いを向け、神の偉大な業を誉め讃えるということは決して当たり前のことではありません。人は、自分が何をしたか、何を成し遂げたかということに関心があるものです。これは教会の内でも同じで、神の御業に目を向けるより、自分が神のために何をしたかという、自分の行いの方に関心が向かうことが多いのです。それはいわゆる熱心なキリスト者、献身的なキリスト者も例外ではないでしょう。しかし、そのような自分の業への囚われから解放されねばなりません。人生において最も大切なことは、「何を成し遂げたか」ではないからです。「神が何をしてくださったか」ということの方がよほど重要なのです。同じように教会につても、最も大切なことは、教会が神のために何を成し遂げたかではありません。神が教会に何を為してくださったかということ、神の偉大な業のほうが大事なのです。わたしたちを自己の業へのこだわりから解放するには、上からの力、聖霊の満たしが必要です。

弟子たちは、イエス様の十字架上での死という事件に出会い、ご復活のイエス様に出会うという体験をした後、ペンテコステの奇跡を経験しました。一人ひとりの上に同時に聖霊が降る経験をしたのです。個人的に、しかし共同体に、聖霊が働きました。聖霊に満たされた弟子たちは、キリストを証し、神の偉大な業を語りだしました。そして、教会が生まれたのです。

上からの力によって事が成るということを知る時、一方でもう一つ別の内からの強い力、決して逃れられない罪と死の問題も知ることになります。しかし、罪や死をやみくもに恐れる必要はありません。真の人としてこの世に来てくださった神の御子イエス様が、どうしても避けられない重荷、罪と死の問題を背負って十字架にかかり、わたしたちを神と和解させてくださったからです。そして「わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる、平和があるように」とおっしゃって下さったからです。上からの力を信じ、神の偉大な業を語ること、それこそが信仰の中心です。そして、神の子とされ、神の相続人として永遠の命に生きる、これがわたしたちの希望です。

使徒言行録が書かれたころまで、初代教会は急拡大していきましたが、それでも所詮ローマ帝国内にあっては小さい集まり、国家権力に対しては、なんら影響力を持たない無力な集まりにすぎませんでした。にもかかわらず、迫害という大きな困難にさらされます。ユダヤの伝統的社会とローマ皇帝による二重の教会迫害は、よく知られた事実です。キリスト者は時には捕えられ殺されました。そういう中にあっても信徒は教会に集まってきました。死刑になるかもしれないという緊張感の中で教会に集まるというのは不思議な現象です。教会に行ったらいいことがあるというのなら、理解できます。物質的に何か得られないにしても、心の平安が得られるとか、見えない神の守りが実感できるとかであれば理解できます。しかし、むしろ逆だったのです。教会に行くと明らかに不利な扱いを受ける、そういう時代でした。にもかかわらず、教会に集まったのです。親しい交わりがありました。なぜでしょう。これは、はっきりしています。彼らは礼拝で神の言葉を聞いたのです。命の言葉です。そこに命があると信じ、神の偉大な業が語られるのを聞きました。そして聖餐に与ったのです。イエス・キリストのお体と血をいただいて永遠の命に生きるためです。

ペンテコステでは、聖霊の働きが具体的に人に示されました。それは厳しい時代の始まりでもありました。しかし、たとえ迫害に遭っても、喜びを失わなかった人が大勢いました。永遠の命に生きる希望が与えられたからです。今も同じです。共に祈り、礼拝し、聖餐に与ります。たとえ体が動かなくても、病床で声にならない声で賛美を歌います。そこには必ず、イエス・キリストの霊がわたしたちと共にあります。歌声が響きます。「主の内に闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください」(讃美歌21-509)。この喜びは誰も奪うことができません。わたしたちはそれを証しすることができます。たとえ小さな群れであっても、恐れることはありません。老人も夢を見ることができるのです。先の事をびくびく心配する必要はありません。安心していいのです。わたしたちは聖霊に満たされているのです。聖霊に満たされている以上、神の偉大な業を語ろうではありませんか。

 

 

祈ります。
父なる神、言葉の壁を越えて、同じ信仰告白を唱え、同じ祈りを献げ、同じ一つの食卓を囲ませてくださっていることを感謝します。わたしたちは、同じ日本語を話す者同士でさえ、言葉が通じないという悲しい経験をよくします。どうか聖霊の働きによって、同じ、一つの信仰の言葉を話すことができるようにしてください。皆があなたの霊に満たされ、共にあなたの希望に向かって歩んでいけるよう支え導いてください。聖霊よ、来てください、マラナ・タ!
主のみ名によって祈ります。アーメン。

6月4日の音声

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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