聖霊降臨節説教2017

2017年7月23日 聖霊降臨節第8主日
「救われる」
マタイによる福音書 8章1~13節

今年は一月一日がちょうど日曜日でしたが、その元旦の礼拝からマタイによる福音書を読み続けております。先週で山上の説教を読み終わりました。ここで少し振り返ってみましょう。マタイ福音書ではイエス様が、「天の国は近づいた」つまり「神の支配なさる国が来た」と告げておられます。当時、国といえば、王が支配する王国です。マタイは、イエスという王がお生まれになったと一、二章ではっきり語り、その王なるイエス様が即位されたことを三、四章で、ついで王国における民の新しい生き方を五章から七章で、有名な山上の説教として語りました。王の誕生、王の即位、王の教えです。これが、マタイによる福音書のいわば一、二、三部です。そして、今日聞きました八章からは第四部に入り、王が王と分かる徴、つまり王の奇跡が語られます。一章から七章までを大きな第一幕としますと、今日から読みます八章から十八章までが大きな第二幕です。こういう概論的な説明は普段あまりお聞きにならないと思いますが、頭に入れておいてくださるとマタイによる福音書を読むとき理解の参考になります。これは面倒な説明ではなく、福音書を読むときの大切な鍵です。福音書は飛び飛びに、好きな箇所だけ読むのもいいでしょうが、一方で必ず一冊の本として読まねばなりません。本として読むなら目次の暗記は大切です。誕生、即位、教え、奇跡と全体像がパッとわかります。

第四部である八、九章は、神の国の王イエス様の行われた奇跡が記されております。一節の言葉「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」(八章一節)で山上の説教から奇跡物語へと移っていきます。山上の説教のすぐ前にも癒しの奇跡が語られておりましたが、「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(四章二十三節)と一般的に記されておりました。ところが、八章以下ではイエス様の癒しを中心にする奇跡が、とても具体的に語られております。十の奇跡が語られますが、そのうち九つはどれも病の癒しです。本日まず聞きました物語は、重い皮膚病の人と百人隊長の僕が癒された話です。こういう奇跡の話では普通、病を治してくださいと願った人の信仰に焦点が当たりがちで、この物語でも、皮膚病の病人や百人隊長の信仰に目が向きます。御心ならばと謙虚に願った病人や、イエス様が見たこともないと感心された百人隊長の熱い信仰について注目が集まります。ところが福音書記者は、そうではなくて、癒しを行われたイエス様に焦点を当てています。病を治していただいた人の感謝や感動は記されておりません。物語は淡々と進みます。

まずひとつ目の奇跡を見ます。「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった」(二,三節)。新共同訳が出てすぐに買った方がお持ちの聖書には、「重い皮膚病」が「らい病」となっております。聖書に出てくるこの「レプラ」という病気が今のハンセン病と全く同じではないということで、一九九六年に訂正され、その後から求めた人の聖書では、「重い皮膚病」と訳されております。レビ記十三章にある皮膚病についての記載からわかりますように、医学的な面より宗教的な面から評価を下されていました。祭司が調べて重い皮膚病であると判断すれば、祭司はその人に「あなたは汚れている」と言い渡し、症状がなくなれば「あなたは清い」と言い渡すといったふうに、診断は祭司に委ねられていたのです。祭司が判断するということは、罪を冒して神の罰を受けてこうなったのだという偏見があったからです。病気のせいで差別されていたという点では、「らい病」と訳す方がピンときます。こういう人が、病気でない人に近づくことは禁止されておりました。ところが驚いたことに、この重い皮膚病を患っている人はイエス様に近寄って、ひれ伏したのです。ひれ伏すは、単に平伏するという肉体的行為ではなく「礼拝する」という意味です。額ずいて願いごとをくどくどといったのではなく、新しい王の権威の前に文字通りひれ伏したのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と彼は言いました。マタイ福音書では、「主よ」という呼びかけをするのは弟子たちや、イエス様に癒しを求める人です。外部の人が、単なる儀礼上の呼びかけで「主よ」と呼びかけはしません。彼は御心なら、つまりイエス様の意志一つで、清くしていただけると確信しております。するとイエス様は、ご自分から手を伸ばされ、その人に触って、そっとではなく、しっかりと「つかんで」という意味ですが、「清くなれ」とおっしゃったのです。ご自身の意思で直ちに病人を癒されました。これはイエス様が神であることを明白に示します。「清くする」は「癒す」と同じですが、汚れから解放し、普通の社会生活に戻ってよいという宣言です。この物語が単に病の癒しという奇跡なのではなく、王の権威ある奇跡であることがよくわかります。そして「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい」(四、五節)とおっしゃったのです。きちんと律法の手続きに従う秩序が大事でした。イエス様は律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られたのです。

二つ目の奇跡はイエス様がカファルナウムに入られたときに起こりました。カファルナウムは、イエス様が伝道を始められたときに拠点になさったガリラヤ湖畔の町で、ペトロの家もここにありました。イエス様は山上での説教を終え、この町に帰られたのですが、そこで、一人の百人隊長が近づいてきたのです。ローマ軍の百人隊長、あるいはヘロデ・アンティパスに仕えていた傭兵の隊長です。百人隊長は軍隊の中でも優秀な人物が任命されます。名前は分かりませんが、イエス様に近づいたこの百人隊長もまたエリートです。ところで、なぜユダヤ人ではない、エリートである彼が、イエス様の助けを求めたのでしょうか。マタイは隊長の僕が中風で、ひどく苦しんでいたからであると説明しています。中風と表現されている病気がどのようなものであったか詳しくは分かりませが、ひどい痛みを伴うもので、死にいたることもあったようです。百人隊長がイエス様に近づいたのは、家の僕がこのような深刻な病気で苦しんでいたからだというのです。

ここで「僕」とされる言葉は、普通「息子」と訳す言葉で、百人隊長にとってものすごく大切な存在であったことが分かります。かけがえのない息子のような僕が、ひどく苦しんでいる、もしかしたら死んでしまうかもしれないのです。そういう切羽詰まった状況でした。百人隊長は、もちろんできる限りのことをしたでしょう。医者を呼び、薬を買い、あらゆる手段を使って助けようとしたはずです。しかしうまくいかなかった。病気を前に、命のはかなさを味わった百人隊長は無力感の中に座り込んでいたと思います。そのようなときに、ある知らせが飛び込んできます。イエスという人物が、民衆の病気を癒しているという知らせでした。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった」(四章二十三,二十四節a)と四章にありました。この知らせを聞いた百人隊長は、思わず立ち上がったのです。大切な僕が病気で苦しんでいると、なんとユダヤ人のラビに訴えます。彼は「主よ」と呼びかけております。ローマの皇帝カエサルこそが主であった時代に、これは儀礼では言えない言葉です。するとイエス様は、ご自分から「わたしが行って癒してあげよう」と言われました。驚いた百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と答えます。この百人隊長は、ローマ軍であれ、ユダヤ軍であれおそらくシリア人傭兵であったと考えられています。すなわちユダヤ人から見れば異邦人です。当時ユダヤ人は異邦人を神から呪われた民だと自分たちの宗教に基づいて差別して考えていましたので、交わりを絶っていました。ですから、異邦人の住まいの中にユダヤ人は入ってはいけないと決められていました。それだけでなく、ローマ軍および傀儡のユダヤ軍の支配下にあり、苦しめられていたこともあって、特に軍人に対しては、異邦人嫌いにいっそう拍車がかかっていました。この百人隊長もそのことはよく分かっていたので、「残念ですが、先生をわたしの家にお迎えすることができないのです」と言ったのでしょう。イエス様の周りをたくさんのユダヤ人たちが取り巻いていたのですから。

しかし百人隊長は、まだ願いもしないのに、いや実は願いを口に出そうとしたその瞬間に「わたしが行って治してあげよう」とおっしゃったイエス様に、一瞬にして打たれました。ユダヤ人から見れば罪深いはずの自分の家にまで来てくださる主の御愛を知りました。彼のうちに救い主への信仰がはっきりと引き出されました。信仰が引き出され、確かなものへと高められました。神の前に人間的な計らいをすべて捨てて、ただただ「主よ、わたしを憐れんでください」と自分を投げ出して救いを求める人にされました。

百人隊長は、「ただひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕は癒されます」と言います。この人も、主の言葉一つで僕はいやされると、イエス様に絶対的な信頼を置くようになっていたのです。すなわち彼はここで、実際には僕がまだ癒されていないにもかかわらず、というよりも、イエス様が癒して下さるかどうか、癒すことができるかどうかも分からないにもかかわらず、もうすでに癒されることを確信しています。癒された僕の姿を見ているのです。このような態度を見てイエス様は感心なさいました。そして「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。

加えて、わたしたちが絶対に聞き逃してはならない言葉が語られております。ただ異邦人百人隊長の信仰を褒めただけで終わらずに、ユダヤ人に向かって非常に厳しい言葉を続けられたのです。「言っておくが、いつか東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」とおっしゃいました。 つまり百人隊長のような信仰によって幻を見ることがなければ、困難に敢然と立ち向かうこともなくなり、やがては神に近づくことも、イエス様に向かうこともなくなってしまい、ついには御国の子らと呼ばれて神の国を約束されていたにもかかわらず、気づいたときには外の暗闇に追い出されてしまうぞという意味です。イエス様がこのことを語られたとき、すでにイスラエルの中には幻を思い描くような信仰を見つけることは困難だったのです。その現実を悲しんでおられたでしょう。それが思いもかけず、マタイではイエス様が最初に出会った異邦人、その異邦人の軍人がイエス様に「主よ」と呼びかけたばかりではなく、主に絶対的な権限を見出し、全幅の信頼を置いたのです。この百人隊長の中に、イエス様が探し求めておられた信仰が見つかったのです。「感心し」とは「驚き」という言葉です。「こんなところにわたしの探し求めていた信仰があった」と驚かれているイエス様の姿がここに示されています。その驚きの中で、人々に、特にイエス様に従いつつも、イエス様が探し求めておられた信仰を持っていなかった人々に対し、「外の暗闇に追い出されないように、このような自分の存在をかけた信仰を持ちなさい」と勧めておられるのです。名目だけのキリスト者ではなく、イエス様に信頼し従っていくことが大事なのです。そうすれば、結果はどうであれ、この百人隊長と同じ様に自分の中から信仰が引き出され、高められるのです。マラナ・タのわたしたちも同じです。注意したいのですが、これは決して因果応報ではありません。良い信仰者なら病が治るという話ではないのです。祈りに祈っても病がいやされないことも経験します。そういう人は良い信仰者ではないのかといえば、決してそうではありません。

最後に十三節で、イエス様は百人隊長に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われます。ちょうどそのとき僕は癒されます。これは百人隊長が信仰により思い描いた幻ですが、それはまさに現実の出来事として起こりました。信仰による幻が実現しました。イエス様が「あなたが信じたとおりになるように」と言ってくださるとき、すべてはその御言葉の権威の下にあり実現されるのです。

奇跡はまず、重い皮膚病を患ったユダヤ人におこりました。そして次に異邦人にも起こりました。イエス様が直接会われなくても、ただその御言葉によって百人隊長の僕の病気はいやされました。直接イエス様に触れていただかなくても、遠くにおられるイエス様のお言葉で一瞬にして癒されました。わたしたちも教会に伝えられている言葉によって救われます。この信仰こそが喜びであり、救いです。たとえ万一病気は治らなくとも、すべてに力を持っておられるイエス様が、わたしたちのところにおいでくださり、共にいてくださるのです。もう何もいらないでしょう、何も求めなくてもいいでしょう。無数の信仰の先輩たちが、逃れられない死におびえながらも、ついに手に入れたに違いない喜びです。古代人の祈りの言葉が聞こえます。「喜び楽しめよ、天国は彼らのもの…」。神はわたしたちをよくご存じです。一人一人にふさわしい方法で、ふさわしい場で信仰に、すなわちこの喜びに、導いてくださいます。それがどれほど確かか、今日の御言葉が示しております。

 

祈ります。
父なる神、わたしたちに信仰を与えてくださったことを感謝します。どうかこれからも、イエス様を信頼し、その御後に従っていけますよう支え導いてください。まだ信仰を言い表していない人々が、あなたの招きに応えることができますように。ずっと教会を通して伝えられ続けてきた言葉を、今度はわたしたちが伝えていけますよう、力をお与えください。
主の御名によって、祈り願います。アーメン

7月23日の音声

 

 

2017年7月16日 聖霊降臨節第7主日
「揺るがない基礎を作る」
マタイによる福音書 7章21~29節

八年前に、こんな話をいたしました。ある教会で、皆さんが礼拝に来てみると、週報に書いてある説教題が先週と同じでした。あれ、先週と同じなの、おかしいなと思いながら注意して聞いておりますと、説教の中身も全く同じです。覚えておられる方はいらっしゃるでしょうか。礼拝後、役員の方が「先生、今日の話は先週と同じですよ、どうかしたのですか」と心配そうにおっしゃいます。すると牧師は答えます。「はい、知っています。しかし皆さんわたしの話を聞いてくださっても、ちっとも行いに表れないので、何度でも繰り返すつもりです」。・・・・考えさせられるジョークです。話は確かに覚えているのですが、アーメン、主よ、そうですと心から受け止めてはいないので、身についていない。だから行動には出ない。こういうことって、マラナ・タ教会にもありそうですね。これは九十%以上牧師の説教の方に原因があるのですが、原因がどうであれ聞き手にメッセージが伝わっておりません。

イエス様の山上の説教として有名なマタイ福音書五章から七章の戒めや勧めはよく知られ、教会外でもしばしば引用され人々が覚えている内容ですが、本当にそうです、その通りですと行いに現れるほど身にしみてわかっているかとなりますと、なかなか首を縦に振れないような気がいたします。ずっと見てきましたように、実行は難しいのです。今日聞きました御言葉は、山上の説教の締め括りに当たりますが、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は」、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は」とあって、聞いて行う者と、聞くだけで行わない者とが対比されています。ここまでの山上の説教をいい話ですね、心に残る戒めですねと聞き流してしまわず、よく分かって欲しいというイエス様の強い願いが伝わります。この言葉で「山上の説教」は終わっているのです。

イエス様が語られたお話を振り返ります。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(二十四~二十七節)。登場人物は二人です。二人の違いは一目了然ですが、押さえるべきツボは相違点ではなく共通点にあります。二人とも家を建てます。一方は邸宅で他方はバラックというわけではなく、同じ用途の家、すなわち生活のための家です。さらに、当時は電気も水道もありませんから建てる場所も同じです。水がなくては生きてはいけませんから、川の傍か、湖のほとりか、井戸の近くの、風通しのいいところに家を建てたはずです。ですから二人とも、同じように雨が降り、風が吹く似た環境に住んでいて、よく似た災難に遭います。マタイは一方は「岩の上」もう一方は「砂の上」と言いますから、全く違う土地のように思いがちですが、同じ記事のルカによる福音書の六章四十八節には、「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」という表現がありますから、どちらの家も表面は砂地のところに建っていたようです。一方は深く掘って岩の上に乗って建てられていた。もう一方は、深く掘る労を惜しんで岩ではない石の上に建てられていた。つまり、同じような規模の家が、同じような環境のところに、見たところは同じように砂地の上に立っていたのです。そこへ同じ災難が襲います。一方は重い災難で、一方は軽い災難というわけではありません。こういう共通点がありますのに、二軒の家の運命は全く異なります。一方は「倒れなかった」、もう一方は「倒れて、その倒れ方がひどかった」のです。

繰り返しますが、このイエス様のたとえを理解するには、同じような家を同じような所に建て、同じような災難に出遭ったにもかかわらず、片方は倒れないで、もう一方はひどく壊れたという点が大切です。違いが際立っています。一方が土台を岩の上に置いたのに、もう一方は砂の上に置いたとおっしゃいました。ヒノキを使って、筋交いを入れ耐震構造の家を建てたかどうかと言っているのではなく、土台が何かに焦点が当たっています。愚かな人は、岩という土台なしに家を建てた人です。このたとえの要点は、明らかに土台を土台らしく置いて倒れない家を建てるかどうかということです。パレスチナでは、固いしっかりした岩盤は、かなり深く掘らないと出てこないそうです。いくら愚かな人でも、まさか本当の砂の上には家を建てませんが、地面を少し掘ると漬物石くらいの大きさの石が出てくるので、これを岩と間違えてこの上に家を建てることがあったようです。どちらも岩の上に立っているのですが、片方は直接岩の上に、岩にくっついて立っているのに、もう一方は岩と家の間に、不確かな石が挟まっているということです。土台の深さが違うのです。

ここまでお聞きになりますと、この岩というのが、イエス・キリストの御言葉、キリストの御心、キリストその人のことだと容易に分かります。なぜなら、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」というたとえなのですから。すると、イエス様はここで信仰の実践を語っておられるのだな、頭だけで信仰のことを理解し、聖書は読むけれども手足の動かないクリスチャンはだめで、教会のために一生懸命働き実践していかないとならないのだという理解になりそうです。しかし、これは早とちりです。今日の登場人物は二人とも一生懸命働いて家を建てました。そういう意味でこの二人の間に差はないのです。二十四節の「そこで」ですが、どこで、でしょうか。二十二節以下の「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」という人々に対して、わたしは「あなたたちのことは全然知らない」と言うだろう、という御言葉に続いております。み名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったにもかかわらず終わりの日に天の国に入れない人の話に関係づけられています。何かをしたのかしなかったのかということではないという文脈で語られています。「そこで」言っておくが、「したか、しなかったか」ではなく、あなたは岩の上に家を建てる賢い人に間違いなくなっているのか、と問うておられます。こう聞かれますと、このイエス様の言葉を大変恐ろしくさえ感じます。わたしたちは確かに深く掘って家を建てているだろうかと心配です。

わたしたちの願いは、人が罪許されて、礼拝する人が増え、賛美が豊かになり、皆が聖書をよく学び、一生懸命に働き、魂に配慮し、愛し合うことです。そのようにありたいと願い、そのように行動します。それなのに、もしキリストからあなたのことは知らない、わたしから離れ去れと言われたらどうしたらいいのでしょうか。わたしたちは本当に、神の御心に適った行いをしているでしょうか。本当の岩なる土台の上に、家を建てているのでしょうか。たとえ、四十年かけて築いたものであっても、もし正しい土台の上に乗っていなかったら、ある時突然激しく壊れてしまうということが起こりそうな気がしてなりません。よくニュースなどで聞きますね、定年になった夫に対して、「長年ご苦労様でした。あなたもこれからは少し暇ができますね。わたしもお暇をいただきます」と言って妻が家を出ていく。熟年離婚です。長年いったい何のために働いてきたのだろうという気の毒な男性の言葉を。夫婦間にしっかりした土台がなかったのです。

では現代に生きるわたしたちは、この有名な山上の説教をどう聞いているのでしょうか。イエス様の言葉を「聞いて行う」とはどういうことでしょうか。ある人は、山上の説教を文字通り実行しようとします。誓うなとあるので、裁判においても宣誓はしませんし、兵役はもちろん拒否します。文字通り敵を愛そうとします。近代においてそういう理解をした人としてロシアの作家トルストイが知られています。「悪人に手むかうな」とあるので、まさに非暴力に生きようとした人です。山上の説教の通りに生きることで、地上に天の国を実現できると考えた人です。しかしこの理解は一つ困難な問題に直面します。それは人間が罪ある存在であり、この説教の文字通りの実行は不可能で、現実との乖離が生じるということです。結局は挫折せざるを得ないのではないでしょうか。トルストイは妻や子供にも、これを強制しましたから、家庭生活は酷いことになりました。裁き合いです。そして自分も実行できないので、矛盾だらけの生きざまになってしまいました。

そこで別の人は、どう行動するかということよりも、人間の内面的な服従を重んじます。山上の説教は文字通りではなく良心に対する訴えであると理解します。天の国に入るための心構えと言ってもいいかもしれません。そうしますと、イエス様の教えは、人の心のあり方を変えるとか心理的枠内に収まってしまい、生きる力となりえない恐れがあります。カトリック教会は、長い間、この教えは特別な生き方を目指す修道者に向かってのもので、一般の人向けではないと考えておりました。すると、この説教はわたしたちには意味を持ちません。

こういった解釈と違って、近代人の多くはもう少し違う姿勢をとります。イエス様はどう行動するかということを第一義的に問題にしておられるのではないし、どういう心の持ちようをすればいいかということを問題にしておられるのでもない。また特定の人だけにお話しになったのでもない。もっとずっと根源的な決断を呼びかけておられ、神の前に徹底的な服従を求めておられるのである、という理解をします。山上の説教は不可能な要求だけれども、終末論的方向付けだと考えるのです。つまり、いつかきっと実現する時が来るので、あきらめないで、たとえ不正の満ちるこの世にあっても、神のご支配と、神への服従という、神と人との正しい関係を打ちたてようというものです。例えて言えば実際には草が生えている庭なのだけれども、何年か先には雑草のないきれいな苔生した庭を実現するぞという感じです。あきらめずに草を抜き続ける。キリストの出来事、十字架と復活が、それを保証するのだという考えです。この姿勢は、わたしたちの理解に近いですし、納得しやすいものです。

しかしわたしは、ある人物の命をかけた証を参考にして、少し違った観点から加えて申し述べたいことがあります。ある人物とは、ボーンフェーファーというドイツの神学者です。「服従」、「キリストに従う」とも訳されております有名な本が出版されております。彼は、山上の説教を大変よく勉強した人でもあります。このボーンフェーファーは、山上の説教においては、信仰の理解だけではなく、律法の遂行、神の定めた法に従うこと、つまり実践が重要だと考えていました。イエス様の言葉は、いろいろ解釈するものではなく、律法のように聴き従うものである。教会の果たすべきことは、山上の説教を語り、かつ行うことであると言います。それが、一人で自力でやるのではない、教会のなすべき証しであるということです。この人の使った「安価な恵み」という言葉があります。もともとはデンマークの哲学者、キルケゴールが使った言葉ですが、国民が皆キリスト者、教会に来るのは当たり前になっていた十九世紀のデンマーク国教会の中で、ぬるま湯につかったような信仰を批判して、まことにキリストに従うとはどういうことであるのかを問うた、深い意味を持つ言葉です。「安価な恵み」とは、福音を、形の整った素晴らしい教えと受け取って、簡単に恵みとして受け取るけれども、形式的にその場限りになっており身には付かない信仰のことです。ボーンフェーファーは、時には自分の命を賭けてでもイエス様の言葉に従っていこうとする姿勢が大切だと考えたのです。自分の置かれたこの世の具体的状況の中で、どのようにイエス様の言葉に従うのか。この人の場合は、ヒトラー政権の転覆、ヒトラー暗殺という答えに導かれました。しかし計画が発覚して強制収容所に送られて殺されました。キリストに従うとは、時に命をかけるだけの値打ちがある、すなわち「高価な恵み」であるということを行為で示しました。

イエス様の御言葉を聞くことができるということは、既に恵みの中に入れられている、つまり岩の土台の上に置かれているということです。イエス様の御言葉は、わたしたちに与えられた贈り物です。贈り物はそのままでは何の役にも立ちません。開けて実際に使ってみて初めて本当に受け取ったことになります。この山上の説教で、イエス様は多くのことを教えてくださいました。たくさんの贈り物をくださったのです。聞いて実践することが贈り物を用いることです。神の国に生きる民の歩むべき道を示してくださった御言葉への応答として、聞いたことを行っていくのです。イエス・キリストは、わたしたちの救いのために十字架にかかって自分を犠牲にして下さったお方です。この方の犠牲があるので、わたしたちは罪ある人間であるにもかかわらず、文字通り、この山上の説教の教えに従おうという姿勢がとりえます。わたしたちの内に来てくださったイエス様は、ご自分の命をわたしたちの命の土台として据えてくださったのです。ですから、わたしたちは聞いたことを、自力に頼らずに行動の規範として実際の生活と結び付けていくことができるのです。

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(二十八、二十九節)とあります。イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃり、聖書の言葉に対峙して「しかし、わたしは言っておく」と、自らの権威に基づいてそれを完成させた新しい教えをお語りになりました。この権威に群衆は非常に驚いたのです。わたしたちも、イエス様の御前に膝をかがめるのです。

祈ります。
イエス・キリストの父なる神、あなたのひとり子、わたしたちの救い主イエス様を通しわたしたちに神の国に生きる生き方を教えてくださっていることを感謝します。イエス様の御言葉を人生の土台とし、この土台の上に毎日の生活を築いていけますよう支え導いてください。また兄弟姉妹と共に力を合わせ、その土台の上に家を建てることができますように。
イエス・キリストのみ名によって願い祈ります。アーメン

 

7月16日の音声

 

2017年7月9日 聖霊降臨節第6主日
「良い実をむすぶ」
マタイによる福音書 7章13~20節

山上の説教を聞き始めたのは三月中旬でしたから、もうかなりの期間、神の国の民が歩むべき道を聞き続けてきました。先週は、山上の説教の中心部分の締めくくり、つまりイエス様の律法解釈の締めくくりである「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉を聞きました。今日の御言葉は、そのすぐ後に続く言葉です。山上の説教全体の締めくくりになっている、イエス様のなさった四つの小さな話のうちの、初めのふたつです。「狭い門から入れ」、そして「偽預言者に警戒して良い実を結べ」という、神の御国への招きが語られています。イエス様に従う決断をはっきりし、神の国の民として生きる覚悟をするようにとの勧告がなされているのです。

最初は広い道と狭い道の話です。イエス様の時代、ギリシア人やローマ人の書いた作品には、人生には二つの選択肢があって、そのどちらに進むべきかしっかり決めなければならない、と述べているものがたくさんあります。その選択が死後の世界で行くべき道につながると考えられていたからです。ユダヤの世界も同じで、神を信じて生きる民にも、行くべき道は二つあると説かれておりました。当時はよくある話でした。イエス様もここで、人生には二つの門と二つの道があるとお話になり、狭い門から入れとおっしゃいました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(十三、十四節)。この時代、町には城壁があって門がありました、門を通って町に入ります。京都や奈良もそうですね。町の内外を隔てる壁があって、羅生門や朱雀門などがあり、門にはたくさんの人が集まります。町に出入りするには必ず通らねばならない。しかしここで言われている門は、こういう町の門とは少し異なります。二つの門は違った終着点に通じているからです。どの門を通ると、どこに行きつくかはっきりしております。

通りやすい門は広いし、それに続く道も広いので、そこから入る人が多いけれども、イエス様は二つの門のうち、狭いほうの門から入りなさいとおっしゃいました。広い道という時の「広い」は、ただ幅が広いというだけでなく、繁栄を意味する言葉にも通じます。すべてがうまくいくように見えますから、当然人は広い道を行こうとします。それに対して、「狭い」と訳された形容詞は、ただ狭いというだけでなく、困難や苦労を意味する言葉から生まれた言葉ですし、「細い」と訳されている言葉は「窮屈な」とか「圧迫された」という意味を持つ言葉です。明らかに困難や苦労が暗示されています。狭い門から入って、細い道を行くようにという言葉を聞いて、弟子たちは、イエス様が十字架にかけられ、自分たちは迫害される生き方が待っているとまでは思わなかったかもしれませんが、イエス様に従って歩む信仰者の道は、人々から拒絶されることもありうる、困難で厳しい道だと思ったに違いありません。聞いているだけで身が引き締まったでしょう。

なぜ狭い門から入るのか、もちろん狭い門から入って細い道を行くと、命に至るからです。イエス様はわたしに従いなさいとおっしゃいます。山上の説教で今まで聞いてきたとおり、それは平坦で通り易い道ではなく実践は容易ではありません。しかし、その道は神の国に生きて、命に至る道なのです。しかも、ただ生きるだけの命ではなく「永遠の命に至る道」です。初代の教会では、キリスト信仰は「この道」と表現されました。使徒言行録の学びで何度も出会いました。

あるエピソードを紹介します。昔大いに話題になりましたが、最近映画ができて、再び注目されました『沈黙』という作品の作者、遠藤周作のことです。彼は敬虔なカトリックの母に育てられ十一歳で洗礼を受けています。戦前の軍国主義が強かった日本でクリスチャンとして育ちましたので、常に疎外感を感じておりました。「耶蘇教かぶれ」としていじめられました。いつも肩身の狭い思いをしたのです。戦後になって、彼は自由になり、ついに狭い門から広い門に移ろうとして、キリスト教それも自分の信じるカトリックの強いフランスに留学します。ここなら霊的に気の合う人たちと、いじめられずに暮らせるだろうと思ったのです。ところがフランスでも差別に遭います。戦後初の戦勝国と敗戦国との交換留学生としてやってきた遠藤は、敵方の「釣り目の東洋人」として今度は宗教差別ではなく人種差別の標的になったのです。日本でもフランスでもいじめられた遠藤は、行き場を失い信仰の危機に直面します。彼はキリスト者にとってあまりにも狭い道である日本で生きることを諦め、広いと考えたカトリック国にやってきたのに、そこも狭いことを知って、信仰をなくしそうになったのです。しかしイエス様の生涯を訪ねてイスラエルに足を運んだ時、狭い門から入りなさいとおっしゃったイエス様ご自身が、まさに人々から拒絶され、隣人から嘲笑され、家族から正気を疑われ、友人からは裏切られたことを発見します。この時、彼は初めて聖書を意識して読んだのです。彼が日本で思い描いたキリスト教は、ローマ帝国を支配した宗教であって、大聖堂のキリスト教、広い道を行く生き方でありましたが、キリストご自身はまさに苦難の僕であったことを知ったのです。何度も何度も申しましたが、イエス様の教えは、頑張って困難な道を行きなさい、最後はいいことがあるからという人生訓ではありません。イエス様に従う道、神の国に生きることです。まことの命、永遠の命に生きる道の入り口が狭いのは、日本でもフランスでも、どこでも同じです。しかし、イエス様に従うと、狭い門から入ることができます。主が先んじて行かれるのですから、自然にそうできるのです。遠藤はイエス様の姿を追う信仰の道を歩むようになりました。そして数々の優れた小説を発表しました。

続けてイエス様は「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」とおっしゃいました。なぜこのような話をなさったのでしょうか。一つ考えられるのは、イエス様の時代に、警戒すべき偽預言者がいて、活発に活動していたということです。新しい神のご支配のもとに生きるときに、障害になる教えを説く偽預言者が大勢いたということです。しかし、もっと身近に考えられる可能性は、イエス様を取り巻く人々や弟子たちの中に、羊のようにおとなしくしながら、忍び込んでくる貪欲な狼がいたということです。わたしたちに置き換えるなら、教会の中にいたということです。羊とは神の国の民を指しますから、神の国にも狼がやって来るということです。同じこのマタイによる福音書の二十四章に「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(二十四章十一、十二節)とあります。その偽預言者によって、群れのメンバーが狭い道から、通りやすい広い道へと誘われ、多くの人が滅びてしまうことが懸念されているのです。誰か特定の人々、例えばファリサイ派などを指してこうおっしゃったのでも、一般論としておっしゃったのでもなく、あなた方自身が羊の皮を身にまとった狼にならないようにと諭されたように思えます。「警戒しなさい」のニュアンスは、一、二度気を付けたら終わりではなくいつも、絶えず警戒を怠るなということです。教会は命に至る道の途上にあって、いつも気を付けていなくてはならないのです。

「あなた方は、その実で彼らを見分ける」とおっしゃいました。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶので、実で見分けることができる、つまり実を見ればその木自体がよいか悪いかよく知ることができる、木を見ただけでは分からないかもしれないが、木になる実を見れば、よく分かるだろうとおっしゃっています。外に生えている木なら、実を見るまでもなく、葉っぱの形も枝ぶりの違いからすぐわかるでしょう。一方、近くで一緒にはえている木は同じような高さでよく似た葉をつけますと一見しただけではわかりませんから、これは内部の話です。悪い木は食べてはならない実を結ぶ、とおっしゃいました。偽預言者は、表向きはいい顔をしていても、結局は本質を隠せず、教えも生活もやがてほころびが生じ、おのずから分かるようになります。しかし、うっかりするとおいしそうな実、悪魔的魅力に引き寄せられ、それ故に、周りの人々に大きな影響を与え、重大な事態に陥ってしまうことも少なくないのです。神の遣わした預言者だ、大牧師だと宣伝していても、実は利益を求めているだけのインチキ伝道者はいつの世にも、どこの国にも大勢います。

「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(十九節)は、バプテスマのヨハネが語った言葉(三章十節)と同じです。これが偽預言者の結末です。二十節の「あなた方は、その実で彼らを見分ける」は十六節の繰り返しです。短い間に、二度同じことをおっしゃいました。良い木を見分けるのが決して簡単ではないからでしょう。気を付けなければならないのは、良い実、悪い実を、この世での成果に結びつけて、多くの成果を上げることが良い実を結ぶこと、たいして成果が上げられないことが悪い実を結ぶことであると勘違いすることです。そうではありません。良い実とは清い実です。聖なる実です。つまり神がよしとされる実です。悪い実は、神がよしとされない実のことです。ですから、わたしたちの目には良い実がみすぼらしく、悪い実がよく熟した立派な実に見えることもあり得るということです。狭い門と広い門に通じる話です。旧約聖書でいえば清い動物と清くない動物のことです。肉を食べてもよい動物と、食べてはいけない動物に分けられていましたが、肉が腐りやすいとか、毒があるということではありません。豚も羊も肉そのものはどちらもおいしいのですが、神がよしとされるかどうかです。そうなりますと、やはり偽預言者とは、どこか外にいるのではなく、教会の中にいる、わたしたち自身がそうなる危険性がある、ということになります。

わたしたちの世代のものは子供のころから、「いろいろ理屈を言わないで、黙ってやるべきことをやりなさい」と教えられて成長しました。常に実行するかしないかが問われましたので、何かを実行する、やり遂げることに大きな価値を置いております。働かないで家でぶらぶらしている人は常に非難の的です。わたしも実行力が大切なことは否定しませんが、聖書は明らかにもう一つ別のことを問いかけております。それは、何を実行するのかということです。神によしとされること、み旨にかなったことを成し遂げようとしているかどうかです。良い実を、神が喜ばれる実をつけようとしているのか、そうでないのかという視点です。世の中に実行力のある人は多いですが、園児に教育勅語を暗記させ、外国人を敵視する価値観を幼児に教え込む学校を経営しようとするような実行力、利用できる政治家は最大限利用する実行力は、これは明らかに悪い実、神に喜ばれない実を結ぶ木でしょう。

わたしたちはどうしても倫理的に良いことをしようとして、神のみ心にかなうかどうかは問いません。良い実を結ぶと天国に行く、悪い実を結ぶと切り倒される、そんな聖書の読み方をしています。間違った聖書の読み方をしたがるのです。裏を返せば、何か良いことをして得意になりたいのです。ちょっとした良いことをして安心したい。すると必ず、そのようなちょっとした良いことをしない人を批判するようになります。わたしは教会で、ずっとこれを見てきました。なぜそうなるのか、答えは明らかです。わたしたちは不慣れで訓練されていないのです、神のみ旨を問うことに。よく考えてみますと、わたしたちは必ず何かを実行しています。家にいても、何かをしようと戦っていますし、たとえ寝たきりになっても懸命に生きようと戦っています。ある意味でみんな実行力があるのです。実行力に大きな差がないなら、テレビ・ニュースで目にする、まるでバカなおじさんと、自分はどこが違うのか問う必要があります。わたしたちはみ旨にかなった生き方をしているでしょうか。マラナ・タ教会は、み旨にかなった礼拝をしているでしょうか。良い実を結んでいるでしょうか。次週学びますが、少なくとも、口先で「主よ、主よ」と言うだけのものが、みな天の国に入るわけではないのです。

最後に、神のみ旨をどこに求めるのか、考えてみましょう。そもそも、わたしたちがみ旨を問わなくなったのは、問うても答えがわからない、一体何が神のみ旨かわからないからではないでしょうか。わからないので、開き直って自分のやりたいようにやるしかないのではと思うのです。わたしも答えはわかりません。若い時、わたしはこのことでたいそう悩みました。どうしたらみ旨がわかるのかと。尊敬する東京のある牧師に相談しました。彼の答えはこうでした。「久下さん、もしみ旨が分かれば、本当にそれに従いますか」と。もし神が、すべてを捨ててわたしに従いなさい、それがみ旨だとおっしゃったら、はいと言って従いますかと。ここでわたしは困ってしまったのです。自分の願いに沿うみ旨なら従いたいけれども、願いと違う場合は従いたくない。これがわたしの正直な気持ちでした。申すまでもなく、これはみ旨を求めていることにはなりませんね。自分の願望に神を従わせようとしている。み旨を求めるとは、自分を捨てて献身して生きる覚悟が要ります。長い時間が経って、幸い今のわたしは、毎日聖書を読み祈る中で、神ご自身がみ旨を示してくださると信じています。示された御心に従って歩むものでありたいと願っています。

「良い実を結びなさい」とイエス様はおっしゃいました。長く続いた山上の説教の結論の一つが、ここにありそうに思います。良い実を結ぶか結ばないかでふるいにかけられるのではなく、わたしたちはみな良い木にされたのです。だから良い実を結べるのです。なぜわたしたちが良い木なのか、お分かりだと思います。イエス様が十字架にかかって切り倒されてくださったからです。主の贖いの恩寵によって、今恵みによって生かされているからです。

 

祈ります。
父なる神様、たとえ狭く細い道であっても、どうかわたしを命に至る道に導いてください。わたしたちはあなたにすべてを委ねて歩もうと思っても、ちょとした困難に出会うとすぐよろめいてしまいますが、み旨に従って歩んでいけますよう献身する力を与えてください。マラナ・タ教会が、豊かに良い実を結びますように。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

7月9日の音声

 

2017年7月2日 聖霊降臨節第5主日
「求めよ、さらば与えられん」
マタイによる福音書 7章1~12節

山上の説教を聞き続けております。神の国の民の歩むべき道を、天に宝を積む生き方として、また思い悩みから解放される生き方として、お語りになりました。そして、もう一つ、とても大事なことを語られます。仲間と一緒にどのように生きるかということです。信仰者としてあなた個人はどう生きるのか、という問いも大切でありますが、共同体としてどう生きるのか、これは人間関係にも深くかかわる重大な事柄です。いつの時代でもおそらくもっとも難しい課題は、仲間とのかかわりです。

義に生きようとする人たちの間では、共同体の外の人たちとどう生きるのかという課題以上に、仲間同士での裁きあいが、必ずと言っていいほど障害になります。同じ価値や使命に生きる人同士のほうが、小さな違いに敏感に反応します。熱心な教会ほど裁きあいがあるのは現代も同じです。ひどい場合はいわゆる「内ゲバ」に発展します。仲間内に亀裂が生じますと、人間関係が密で似たもの同士であるだけに、深刻な裁きあいに発展する場合さえあります。新しい神の国では、「ファリサイ派」の義にまさる義に生きなさいと諭されました。するとどうしても避けて通れないのが、神の家族同士での裁き合いです。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」という言葉から今日の御言葉は始まりました。裁くなと言われたのは、現に弟子たちの間でも裁きあいがあったからでしょう。裁くとは善と悪を区別し、ふるい分けることです。裁かれたものは分離され、捨てられるか隅に追いやられるかします。そのふるい目の粗さは自分が決めるので、いつでも自分は正しく、相手が間違っている方に入ります。しかしイエス様は、そうなさいませんでした。裁くのではなく赦されました。ふるい分けるのではなく、神について知ろうとしなかった人、知ることができなかった人にも近づいていかれたのです。わたしたちの罪を購い、神との関係を正しくしてくださったのです。そこで神はわたしたちを義としてくださり、裁きではなく愛によって導いてくださるのです。ですから、神の国が来た今、もはや他人を裁く必要はないのです。こう考えますと、イエス様がここで人を裁くなとおっしゃっているのは、ただ他人を裁くなという意味だけではなく、自分自身をも裁く必要はないとおっしゃっているのではないでしょうか。人は時に自分を厳しく裁く場合もありますが、それは潔いようですが、やがてもっと厳しく他人を裁くようになります。自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる、とはなるほどと膝を打つ言い方です。

しかしこれは、皆どうせ罪びとなのだから、仲良くしなさいという仲良しの勧めではありません。続けてこうおっしゃいました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(三~五節)。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目にある丸太には気づかない」とは、面白い表現です。人は他人の目にある小さなごみには気がつきますが、自分の大きな欠点は見えないものです。裁きあいのある所には必ず生じることです。今神の国に生きるときに、相手の目をのぞき込んでごみを探す必要はありません。少々のことには目をつぶれという意味ではなく、愛し合う関係の中では、自分の目からも、相手の目からもごみを取り除くことができるということです。自分の顔は、役者のように仮面の下に隠して見えないようにしたうえで、相手の目のごみだけを指摘する人を「偽善者」と呼んでおられます。人は、神の御前に生きるとき解放されているのです。仮面は必要ありません。目に多少ごみがあっても、のびのび自分らしく生きることができます。

これに続く犬と豚の話は、どういう風に続くのか意味がよくわかりません。いろいろ調べてみましたが、よくわからないのです。それで、かっこの中に入れておくことにして、今は一応こう解釈しておきます。こういう共同体の戒めを、全く価値観の違う人に押し付けてはならない。あなた方、わたしと共に生きる者には大切な教えではあっても、裁きあうなという戒めを、誰にでも通用する教えとして、共有することは無理なのだ。この時代によく知られた格言のような言い回しではないかと思われます。いまでも、時々引用される表現です。イエス様を信じる生き方を、尊い生き方ですが、訳の分からない人に説いても受け入れられませんよというように、使われます。日本では「豚に真珠」は「猫に小判」といいます。

次の有名な言葉も共同体の生き方に深くかかわります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。普通わたしたちが求めるものの第一は、自分と家族の健康や生活の安定、それが与えられると今度は生きがいや達成感などです。子供たちの健全な成長や、仕事がうまくいくこと、あるいは人から尊敬されることを願い続けている人はたくさんいます。しかし、必ずしも求めどおりには与えられません。痛みの中で、祈りに祈り願いに願い続けたけれども、望んだような結果は与えられないということは誰にでもある経験です。それでも、イエス様のお言葉ですから、信仰者たるもの、そう信じなければならぬと考え、この御言葉を精神的なこととして理解しようとする人がたくさんいます。祈り求めることの大切さをお話しになっているのだ、というようにイエス様の教えを精神化します。体を伴う具体的な生き方ではなく、心の持ち方として受け入れ易くしようとするのです。「求めなさい、そうすれば、たとえ事実としては何も与えられなくても、前向きに頑張って生きる生き方が与えられるのだ」という具合です。しかし、どうもこれは引っかかる解釈です。腹の底にストンとは落ちません。

イエス様はこうおっしゃっております。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(八~十節)。つまりあなたが父親だったら、子供がパンを食べたいと言っているのに、石ころを与えないでしょう、とユダヤ人らしい極端なたとえで話されたうえで、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(十一節)と、続けられました。つまり、ろくでなしの悪き父親でもそんなことはしないのだから、神を信頼して求める人に、神が悪しき物を与えられるはずがないとおっしゃったのです。端的に言えば、神に慈しみを請い願えばよい、期待していいのだということです。しかし、そう聞いて心から納得できますでしょうか。

直前には、腹を立てるな、姦淫するな、離縁するな、誓うな、復讐するなとあり、一見倫理を語っておられるように思えます。また、敵を愛しなさい、こう祈りなさい、こう断食しなさい、天に宝を積みなさい、思い悩むなと聞きますと、道徳を語っておられるように感じます。しかしイエス様は、心の持ち方やなすべきことに向かう姿勢といった、この世での生きるコツ、人生訓を語っておられるのではありません。イエス様が問題にされているのは、徹底して神とのかかわり、神とどういう関係で生きるのかということです。神の国での生き方です。この山上の説教を声に出して朗読しますと、すべて神との「関係性」に基づいて語られていることに気づきます。神がわたしたちに呼びかけ、こっちを向きなさいと促しておられるのです。これはとりもなおさず、わたしたちが天の父を見て生きているかどうか、わたしたちと神との「かかわり」が問われているのです。何度も申し挙げましたように、神との関係性が問われております。父なる神はすでにあなた方の願いをご存知なのだから、何よりもまず父のご支配を求めなさい、最も大事なものを第一に求めれば、もろもろの願いごとは全部、加えて与えられるとおっしゃいました(六章三十三節)。

イエス様のお言葉が、神のご支配、神の国への招きであり、わたしたちが招きに応えることを求めておられるのならば、どうしても、漠然とではなく、神にいったい何を求めるのかということが問われるはずです。イエス様は何を求めよとおっしゃっているのでしょうか。「求めなさい、そうすれば与えられるであろう」のところには、何を求めるのかという目的語がありません。また十一節、「まして、あなた方の天の父は、(○○を)求める者によい物を下さるに違いない」と、この部分も、何を求めるものかという目的語「○○を」なしに訳されています。ところが、原文には、はっきりと「彼を(アウトン)求めるものには」と書かれています。イエス様は「神を」求める人には、よきものが与えられるとおっしゃっているのです。「神に(アウトー)」何かを求めるのではありません。「神を」求めるのです。以前カトリック教会が使っていたラテン語聖書も、「父ご自身(ラテン語se、英語ならhimself)を求めるものには」と訳しています。神「に」何かを求めることと、神「を」求めることは違います。イエス様のこの教えが同様に出てくるルカによる福音書十一章では、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ十一章十三節)と、求める者に神が下さる「よいもの」とは「聖霊」であることがはっきり書かれています。聖霊とは、神の息、神からいただいた命です。つまりイエス様がおっしゃったことは、「パンを求める子供に石を与える父親はいないだろう。まして神を求めるわたしたちに神はご自身の命、聖霊を送ってくださらないことがあろうか」という意味です。

ここで誤解が生じるのは、わたしたちが旧約聖書の知識に乏しいことが一つの要因ではないかと思います。イエス様の時代、人々は聖書の詩篇や律法などは暗記しておりました。特に毎日唱える申命記の言葉、「聞け(シェマー)、イスラエルよ」ではじまる「シェマー」は完全に身についておりました。御言葉がしみ込んでいたのです。肉となり骨となっておりました。申命記四章を、お読みします。「あなたたちは、あなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」(申命記四章二十九節)。懸命に神を求めるならば、あなたたちは神に出会えるというのが律法の教えです。イエス様の言葉「求めなさい、そうすれば与えられる」を聞いた人たちは、すぐにこれは神を求めよとおっしゃっていることが分かったはずです。目的語をはっきり言わないのは、神と口にするのが恐れ多いからであって、わたしたちが連想する、なにか「願い事」ではなかったのです。

それでは神を求めるとはどういうことでしょうか。詩編に実例を見ます。詩編四十二篇をお開きください。六節、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお告白しよう、『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(詩編四十二篇六節)この言葉が繰り返されます。この詩編作者の信仰は、自分の置かれている恐ろしいほどの困難の中で、「いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」という三節の言葉に言い表されております。礼拝ができないような状態に置かれてしまったのです。その中で、いつ礼拝することができるのだろうと言っています。神を求めるとは言うまでもなく礼拝して神を拝もうとすることです。それ以外にはありえません。心の中で神を想うなどという精神化された修行のような行為とは違います。なんらかの事情で、礼拝できなくなることがあります。その時礼拝したいと思う人が、神を求める人です。声を上げて賛美を歌い、信仰の言葉を唱え、祈り、献身の思いを言い表したいと願うことです。朝一人で手を合わせる敬虔さとは違います。神を信じる群れの中で皆と一緒に共に礼拝すること、これが神を求めることです。共同体として礼拝する、これが神を求める具体的なありかたです。

初代のキリスト教徒は、イエス様のおっしゃった「聖霊を下さる」という教えの意味を、初めから「教会」に見出していました。何か精神的なことではなく、目に見える教会生活です。昔も今も、わたしたちは礼拝のたびに「使徒信条」を唱えて申します。「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、・・」。教会といえば建物、信者が集まる場所だと、大変しばしばこの見える教会、聖徒の交わりは誤解されています。しかし、教会は単なる建物でも、信者の集まりでもありません。教会は、神のものとされた人たちが集まって生きるところ、聖なる御神と顔と顔を合わせてお会いする場所、聖徒の交わりの場所なのです。ここで聞かれた御言葉が、わたしたちのそれぞれの生活において生きて働く時、まさに聖霊なる神が働いてくださいます。教会は父なる神がわたしたちと共に生きて働かれるところなのです。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(十二節)。これは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(五章十七節)で始まった山上の説教の中心部分の締めくくり、つまりイエス様の信仰解釈の締めくくりになっています。この教えを十八世紀にジョン・ウェスリーが「黄金律」と呼びました。人が何かをしてくれるのを待つのではなく、自分のしてほしいことを、他人に対して先にするようにということです。それこそが旧約聖書の教えの中心だ、急所なのだとおっしゃったのです。聖霊の働く中で共に礼拝する、神を求めるならば自然にそうなりますし、そうできるようにしてくださったのです。これが神の国に生きる民に与えられた恵みです。イエス様の説教の結びの一つです。

祈ります。
父なる神様、わたしたちを義としてあなたとの正しい関係の中におき、裁きではなく愛によって導いてくださっていることを感謝します。あなたを求めるわたしたちに聖霊を送ってくださり、わたしたちと共に生きて働いてくださっていることを心より感謝します。どうかこれからも、わたしたちがずっとあなたを求め続け、あなたに従って歩み、人からしてほしいと願うことを、先んじて自ら人にしていくことができますよう支え導いてください。マラナ・タ教会に神の国を見せてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

7月2日の音声

 

2017年6月25日 聖霊降臨節第四主日
「思い悩むな」
マタイによる福音書 6章22~34節

イエス様の説教は実に巧みです。ある時はゆっくり話されます。ある所に一人の王がいた。あるいは農夫がいた。そしてね、こうだよとたとえを使って、聞き手を引き込むように話されます。分かり易いようでいて、考えさせる深みのある話です。しかしある時は、畳み掛けるように真っ直ぐに、調子よくどんどん話されます。今日聞きましたイエス様の説教も、後者です。「思い悩む」という言葉が二十五節以下、六回もポンポンと繰り返されております。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(二十五節)。だから君たちに言っておくといういつもの力強い言葉に続けて、イエス様は命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むなとおっしゃいました。最初の「思い悩むな」です。「心配するな」でもいいでしょう。ここで言われているのは、おいしいものとか好きなものという食べ物や、身だしなみとしての衣服ではなく、命を保つのに必要な食物や水、そして、体を守るための衣服で、生きていく上で必要不可欠のものについての心配です。命のこと、体のことです。気持ちの持ちようではなく、もっと深く生き方にかかわる教えです。たくさんある中からどれを食べるか、何を着るのかというぜいたくな悩みでは決してありません。これらの不安は、食べ物がなくなってしまうのではないか、着るものがなくなってしまうのではないかという恐れから生まれる不安です。この先、悪いことが起こるのではないかという将来の恐れで、今、心が一杯になってしまうのです。どこかで読んだのですが、わたしたちの将来への不安のうちほとんどは杞憂だそうです。しかし、ごく一部は不安が的中し現実になります。九十九%大丈夫だと言われても、少しは的中するのであれば、万が一ではあっても、やはり心配です。

心配するわたしたちに対し、イエス様はおっしゃるのです。誰もが知っている有名なフレーズです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(二十六~三十節)。思い悩むのではなく、ほら、鳥や花を、周りをよく見なさいと言われます。鳥や花は、自分が生きていくためには何もしていないが、神が養ってくださるまま、神に頼り切って生きている。自分がしなくてはならないと思い悩んでみても、自分の頑張りでは寿命をわずかでも延ばすことも、野の花の一つほどにも着飾ることもできない。あなたたちも、自分で自らを養おうと思い悩むことはせず、神にすべてを委ねなさいとおっしゃいました。そういう心配をする弟子たちを「信仰の小さい(薄い)ものたちよ」と呼んでおられます。

鳥は、確かに種まきをしませんし、刈入れもしませんが、だからといってのんびり、十分に養われて生きているのではありません。朝から晩まで餌を探してあちこちと飛び回っています。それが証拠に、ゴミ出しの日のカラスによる惨状を見れば、いかに鳥が必死かわかります。もし鳥がしゃべることができたら、「毎日大変だ、餌がなかったらどうしようと思い悩んでいます」と言うかもしれません。花もそうです。日照りや熱風で一晩にして枯れてしまいます。しかし、ここではそんな生物学的なことが言われているのではありません。イエス様の弟子たちは、すでに仕事をやめて従ってきた人々が多かったでしょう。将来については不安があったはずです。一方で、イエス様と弟子たちは懸命に働いている人々に支えられていたはずです。わたしたちが知っている人々、例えばザアカイも、マルタもマリアも、ガリラヤの婦人たちも、奴隷たちも、懸命に働いていた人です。種を蒔き、刈り入れをし、倉に納めている人たちです。一見のんびりしているように見える鳥ですら神が養ってくださいますし、人が育てているのではない野の花がどのように育つか考えたら、このような真面目に働いている人々に、神が目を留めてくださらないはずがあろうかと力強く語られたのです。

この言葉を捻じ曲げて誤解する人はここにはいないでしょうが、言葉のまま表面的に受け取りますと、まるでのんびり気ままな生活を勧めているかのようにも聞こえます。しかし、この文章は山上の説教の中で、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(二十四,二十五節)の後に語られています。神にしっかりと仕えるという前提での話です。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(三十一~三十三節)と「思い悩むな」を重ねます。空の鳥や野の花を見て学び、思い悩むな、と繰り返されたのです。天の「父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなの」(八節)です。この信頼をもって、「まず神の国と神の義を求めなさい」とおっしゃいます。何度も申し上げましたが、神の国は神のご支配と言い換えられますし、神の義とは神との正しい関係のことです。まず神のご支配の中に生き、神との正しい関係を求めなさいとおっしゃいました。

具体的にどうすればいいのでしょう。こういう時、わたしたちはやはり、聖書の言葉、イエス様の言葉に注意深く向き合わねばなりません。それと同時に、イエス様のお顔を見なければなりません。イエス様を見あげて従うのです。いつも申し上げますが、説教は目をつぶって耳で聞いていてはわかりません。み言葉は目で聞きます。イエス様のお言葉をしっかりと受け取るには、イエス様を見上げなくてはなりません。主の御顔を仰ぎ見ればすぐにわかります。イエス様の御顔は、この世の思い悩みで満ちていることが。イエス様は、わたしたちのつらい思いを知って、心配してくださっております。思い悩むなとおっしゃる主は、弱っているわたしたちに、大丈夫だ、頑張れとおっしゃっているのではありません。わたしたちの思い悩みを引き受けてくださっているのです。だから、わたしたちは思い悩まないで健やかに生きられるのです。安心して、従えばいいのです。イエス様は、この山上の説教で、神のご支配と、神と人との関係の正しさ、義について、繰り返し、繰り返し教えてくださいました。わたしたちは教えていただいたように、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ればいいのです。何よりもまず、神の国と神の義を求めれば、何が必要かをご存知の天の父は、命と体に必要なものは、みな加えて(神の義に添えて)与えてくださるのです。主の祈りと、今日一日の苦労に生きるのとは同じです。「祈りかつ働く」をモットーにしたらいいのです。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(三十四節)。「だから、明日のことまで思い悩むな」という言葉で「思い悩むな」を繰り返された後の、締めくくりの言葉「その日の苦労は、その日だけで十分である」は、とても大切です。ここでいう苦労は、苦労しても何かいいことがあるから頑張りなさい、とか、苦労も悪くはないよ、特に若い人には、という場合の苦労ではありません。日本語のニュアンスとは違って、悪いこと、いやなことです。もう少し原文のニュアンスを生かすと、「もう十分だ。一日に、その日一日分のつらいことがあれば」となります。毎日つらいことがあるかもしれない。それだけで、もう十分だ、それ以上の苦労で悩むのは止め、今目の前のつらいことに本気で向き合って、誠実に生きなさいとおっしゃったのです。だから「明日のことまで思い悩むな」とおっしゃったのでしょう。これを聞いて、両親はクリスチャンではなかったけれど、そんなことを聞いたことがあると思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。わたしもキリスト者でなかった父から、よく聞かされました。「明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり」と。江戸時代の武士の家庭でも、明治・大正期の普通の家でも、食べ物のことで文句を言うな、着るものに気を使うなくらいのことは言っていたでしょう。明治時代、最初にキリスト者になったのは士族ですが、キリスト教倫理と武士の倫理はよく似ている気がします。しかしもちろん、イエス様は、生き方のコツ、気持ちの持ち方を問題にしておられるのではありません。わたしの説教を継続して聞いてくださっている方は、「倫理でもなく、教訓でもない」という言葉を耳にタコができるほど、お聞きになっておられますからおわかりでしょうが、信仰のことなのです。福音に生きる生き方の話です。よく似ていますが、話の根底が異なります。

具体的に、今日なんらかの苦労がありますと、なぜわたしにはこんな苦労があるのか。明日はどうなるだろう。もっとましになるだろうか。あの時、もっとこうしておけばこんなことにはならなかっただろうに。あのせいでこうなったのではないか。いろいろ考えてしまいます。苦労がしんどいのは、実際のしんどさ以上に、素直にその苦労に向き合うことができず、それを受け入れることもできないからです。その結果いつまでも、その苦労から離れられないのです。いま、歳をとって冷静に振り返ると分かるのですが、思い悩むというのはやはり一種の病です。いくら心配しても健康になることはありません。艱難汝を玉にす、というのは嘘です。それはちょっとした困難であって、受け入れられない苦労や心配をし続けると人間性が病んでいきます。

イエス様は、「思い悩むな」とおっしゃるけれども、なぜか、わたしたちは、打ちひしがれ、苦労が絶えません。それは信仰がないせいではなく、むしろ信仰者だからではないのかとも思えます。敵といえども愛しなさいとか、右のほほを打たれたら左のほほも出しなさいとか、信仰上の兄弟、仲間に腹を立てるなとか、どれ一つをとってもきちんとできそうもありません。しかし、聞いてしまった以上、怒鳴ったり他人に冷たくしたりせず、クリスチャンらしく優しく上品に生きなければと努力するので、ストレスが溜まってかえって苦労が多いのです。いっそ、ありのまま生きることができたら、苦労も減るのではないか、などと思うかもしれません。しかし、そういうことではありません。大切なのは、神との関係です。神を信じて、明日起こるであろうすべてのことを、神に委ねることです。顧みてくださるお方がおられるのですから、心配しなくもよいのです。これが信仰者の生き方です。明日の備えをするなとおっしゃったのではありません。明日のことも支配してくださる神に信頼せよ、と教えられたのでしょう。

最後に今日最初に聞きました、「体のともし火は目である」というイエス様の言葉に戻ります。イエス様は「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(二十二、二十三節)とおっしゃいました。目が澄んでいれば、光が目を通して入ってきます。素直な目で見れば、いろんな物事を投影させて見るのではなく、惑わされずに純粋に見ることができるので、明るく見えます。濁った目で見ますと、物事が曖昧にしか見えません。善意を受け入れられないで暗黒を作ります。わたしたちは神のご支配を、澄んだ目で見なければなりません。空の鳥を見、野の花に目をとめます。するとそこに神の働きを見ることができるのです。わたしたちは生まれながらに、神の御業を知ることができます。なんと幸いなことでしょうか。

祈ります。
天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
すべてを支配される神、願う前からわたしたちに必要なものを知り、与えてくださっていることを感謝します。わたしたちはともすれば、何もかも自分で決め実行していると錯覚し、思い悩みがちです。あなたの御業をしっかりと見ることができるよう澄んだ目を与えてください。そして、思い悩みを捨て、すべてをあなたに委ね、あなたを見上げて歩んでいくことができますよう支え導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

6月25日の音声

 

2017年6月18日 聖霊降臨節第三主日
「善い行い」
マタイによる福音書 6章16~21節

今、「断食」という言葉を聞きますと、体重や、血中コレステロールの値が、まず思い浮かぶのではないでしょうか。断食道場で、体重を落とし、内臓脂肪を減らす。健康維持法の一つです。けれども、イエス様の時代のユダヤでは、貧しい人への「施し」、神への「祈り」とならんで、「断食」は宗教上の慣習における大切な行為でした。神から離れてしまっていたことや、犯してしまった罪に対する、悲しみの表現や悔い改めの表現として、また神の前での謙遜の表現として大きな意味を持っていました。昔は全体的に今ほど栄養が行き届いておりませんでしたから、例えばたんぱく質もヴィタミンも摂取量が低かったでしょうから、断食は健康を著しく損なう恐れがありました。しかし、神の恩恵を得る手段としてみんなが行っていた善い業、神の前に正しい行為、「義」だったのです。

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(十六~十八節)。

六章に入って、まず一節以下で「施し」について、五節以下で「祈り」について、そして、今日聞きました十六節以下では、三つの善い行いの残りの一つ、「断食」が取り上げられています。いずれの場合も「・・・するときには、あなたがたは偽善者のように・・・してはならない。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、・・・するとき・・・。それは、人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」という同じ形で、人前で善行を行うことを戒め、隠れたところで神の前で行うように勧められています。

ところで、一般のユダヤ人は年に数度、新年や身を戒める日に断食をしました。敬虔なユダヤ人といわれる人は、年に十回ほど、ほぼ毎月断食をしました。国民として一斉にしたこともありましたし、必ずしも宗教的規則というわけではありませんが、半ば定めのような断食もありました。しかし、断食という行為は、特殊なことでもあって、ややもすると形式的になったり、人に見せるものになったりしがちでした。旧約聖書で断食に触れた個所は多いのですが、こういう厳しいことも言われております。「見よ お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか」(イザヤ五十八章四から六節a)と告げてから、本当の断食とはこういうものだ、と続きます。一方で、きわめて個人的な悔い改めの断食もありました。「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした」(サムエル記下 十二章十五,十六節)。ダビデがバト・シェバとの間にできた子を生かしてくださるようにと願いに願って、夜を徹して祈った断食もあったのです。

イエス様がここで取り上げられておられるのは私的な断食です。その断食について、施しや祈りのときと同じようにまず、「偽善者のようにするな」とおっしゃっています。断食そのものを否定されたのではなく、断食をするときの姿勢について語っておられます。「わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した」(ダニエル書 九章三節)のように、ダニエルは心からの悔い改めをもって、断食し粗布をまとい、灰をかぶって祈りましたが、イエス様の時代には、断食していることがみんなに分かるように、食べてないぞとアピールするため、沈んだ顔つきをして、顔を見苦しくし、いかにも断食中ですと見せびらかす輩がいたようです。ここで「顔を見苦しくする」とは、頭に灰をかぶって、その灰が汗でぬれて顔に垂れ、髭に引っ付くのに任せ、いかにもげっそりしているかのように振る舞うことです。そうしますと「あの人は断食しているのだ、立派な人だ」と褒められます。しかし、人からの称賛を受けてしまうと、もはや神からの報いは受けられなくなります。「彼らはすでに報いをうけている」(十六節)からです。それではいけないとイエス様はおっしゃり、あなた方、神の国の住民、神のご支配の中に生きる者は、「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と教えられたのです。頭に油をつけ、顔を洗うのは、祝宴に出かけるときのマナーです。普通のユダヤ人は綺麗好きでしたから、みんな少し改まった時はそうしておりました。断食中でもいつも通り、小綺麗にしなさいということです。言うまでもなく、化粧の勧めや身だしなみに関する教えではありません。他人を意識した断食にならないように、人目につかないようにしなさいと言われたのです。そうすれば「隠れたことを見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる」(十八節)と、これもまた同じことを繰り返されました。

偽善者と訳されている元の言葉は、先週も申し上げましたが、役者のことで、仮面をつけて演技をする人のことでした。イエス様は演技することが悪いとおっしゃったのではありません。役者は、演技が演技でなく真実であるかのように演じますし、それが名優です。お客に見せるため、真に迫った演技を目指します。いったん演技がよくできると人々から賞賛を受けてしまって、もはや大切な神からの報いが受けられなくなります。神から報いを受けることこそ大切なのだから、役者のようにはなるな、神に見ていただきなさいとおっしゃったのです。自己満足のためでも、評価されるためでもなく、人目を排除し、人からの報いを期待しないで善行を行いなさいということです。そうすることによって、善行は初めて自然なものとなり、神との正しい関係の中での行為になるからです。何度も繰り返して申しあげることになりますが、劇場でお芝居をする人を批判なさったわけでも、謙遜や倫理を教えられたのでもありません。神との関係、神の子とされた者の姿勢を教えられたのです。

ルカによる福音書十八章を見ますと、イエス様がたとえでお話になった中に、週二度断食するファリサイ派の人が出てきます(十二節)。当時こういった断食の習慣をきちんと守る人は、神に受け入れられた人、尊敬に値する人と見られておりました。ところで、「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」(九章十四節)と書かれていますように、福音書を注意して読みましても、不思議にイエス様の弟子は、断食した様子が伺われません。イエス様はそれほど積極的には断食を勧められなかったように感じます。肉体労働者の漁師が断食などすれば仕事になりません。イエス様の弟子には、漁師が何人もおりました。しかし、イエス様ご自身は、悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた際に、四十日間、昼も夜も断食されました(四章一、二節)。教会も断食しました。使徒言行録には、「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』。そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(使徒言行録 十三章二、三節)のように、初代教会が宣教者を派遣するとき、断食が祈りと結びついて神の働きとして重要な役割を果たしたことも記録されていますし、「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」(同十四章二十三節)とありますように、長老を選出するときにも神の御心を求めて断食をしながら祈りました。伝道する、教会を形成する業として、喜びに生きるわたしたちも断食することがあります。わたしはこれまで一度しか断食して祈ったことはありません。そのたった一度は、マラナ・タ教会が立っているこの土地を買うかどうか決断した時です。この決断が御心にかなっているかどうか、考えに考え、計算に計算を重ねましたが、出てくる答えは「普通では不可能」でした。最後は断食して祈りました。たった一日でしたが、不思議にすっきりと、買いなさいと言われている気がしました。

信仰者が最も警戒せねばならないことは、神に向かってなされるべきことが、人に対してなされるようになってしまうことだと、イエス様は、施し、祈り、断食の三つの例を挙げて教えられました。神が愛してくださっていることを知り、その愛に応えていくことだけが、そのような偽善に陥ることからわたしたちを守るのです。

今日はこれに続いてもう一つの御言葉が与えられています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(十九~二十一節)。

広い家に格好良い車。宝石に絵画。そのように贅沢なものまではいかなくても、ある程度豊かに生きていくためのお金、食べ物や服。現代に生きるわたしたちは、いろんなものを所有したいという願望を持ちます。旧約の時代も、神の祝福とは、長寿、子沢山、そして、財産があることでした。イエス様は、地上に富は積まず、富は天に積みなさいと言われました。一体、富とは何でしょうか。またイエス様は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」ともおっしゃいました。これはまことにもっともで、よくわかる表現です。三十歳になった時、初めて自分が勤めている会社の株を買わされました。少量でしたから富といえるほどのものではありませんでしたが、それでも毎日それまで見たこともなかった新聞の株式欄を見て、株価を確かめるようになりました。息子が北海道の大学に進学したときは、毎日札幌の温度や天気が気になりましたし、アメリカ生活で小切手を使う生活になりますと、きちんとお金が入金され、また出金されているか、それまでまったく気にしていなかった口座の残高を確かめるようになりました。この習慣は身についてしまって、我が家ではお金の管理は今もわたしがしております。このように、富のあるところに心もあるのです。だから富は天に積みなさいと、おっしゃったのでしょう。富をあらわすギリシア語には、マモーンがありますが、いまは普通悪い意味で使います。偶像としての富。強欲とか拝金主義を指します。ですがこれはアーメンからきた言葉です。「その通り、まことにそうです」がアーメンです。人にお金を預けるとき、受け取った方は確かに受け取りました、アーメンというのですが、この受け取ったものをやがてアーメン、マモーンというようになったそうです。預かった方はこれを利用して儲けることができます。やがて財産をも意味したようです。

地上の富とは、安心を保証するための財貨、資産でしょう。悪いものではありません。しかし、高価な織物は虫に弱いものですし、当時の家は簡単に盗みに入れたようですから、地上の富は、一生懸命貯めておいても虫が食ったり、さびたり、盗られたり、壊され消えていくものだったのです。これに対し、天では、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込んで盗み出すこともないと言われます。では、天に積む富とは、何でしょう。これまで三つの善行について見てきました。人に気づかれないように善い業を行えば、隠れたことを見ておられる神が報いてくださるという話でした。この文脈で考えると、天の富とは「神からいただく報酬」に違いありません。自分で積み上げなくても神が積み上げてくださる宝であり、永遠に持続され得るものです。自分の行為によって獲得するものではなく、神により頼んで生きるときに与えられるものなのです。この天に宝を積むことができれば、富のあるところに、心もあるのですから、わたしたちは神との正しい関係の中で、生きていくことができるのです。

それは、この山上の説教でイエス様が最初に「幸いだ、幸いだ」とおっしゃったことにつながります。わたしたちは幸いな生き方ができるのです。神に見ていただく生き方です。脅迫観念から解放された生き方です。先週、マラナ・タでの牧師勉強会にウィクリフの宣教師が来ました。未開地のジャングルにも出かけていきます。現地語による聖書翻訳のためです。どこへも行かないで家で家族の面倒を見ている人もいます。どちらが素晴らしくて、どちらかがダメということはありません。遣わされたら、どんなところへでも喜んで行けばよいし、留められたなら、そこに留まって祈ればよいのです。どこにいようとも、神はわたしたちを見ておられます。神がともにおられるなら、どこに行っても、そこは天の国です。人がどのような人生を歩むか、それは色々ですが、天に宝を積むことが大切です。神の国、神のご支配はすでに来ているのです。すべてを神に委ね、神を見上げて歩みましょう。神は共にいてくださいます。

祈ります。
父なる神、いつも深い憐れみをもってわたしたちを見ていてくださり、応えてくださることを感謝します。わたしたちは、ともすると人の目を気にしがちですが、隠れて善行を行えるよう導いてください。地上にではなく天に、富を積むことができますように。あなたを見上げて歩む、この幸いな生き方をどうか全うさせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

6月18日の音声 

 

2017年6月11日 聖霊降臨節第二主日 三位一体日
「まことの祈り」
マタイによる福音書 6章5~15節

教会では祈りが奨励されます。祈らない教会はありません。特に熱心に祈るある教派の牧師の中には、早朝まだ暗いうちから山に行って、一人で祈る人もおります。寒いので毛布を抱えて行きます。わたしが尊敬する牧師にもそういう人がおりました。ところがわたしは、そうした早朝の山行きことをしたことがありません。健康のため散歩することはあっても、毛布を持って祈りには行きませんでした。特に不真面目だったとか、信仰に熱心でなかったからというよりも、わからなかったのです。主なる神は、わたしどもの必要をよくご存じです。暗いうちから山に行って祈らなくても、すべてをご存じなのだから、何もそこまでして祈らなくてもいいのではないか、そういう気持ちがずっとありました。加えて、熱心に祈る人は、それがわかると立派な信仰者だと人からの賞賛を受けるはずなので、もはや神からの報いが必要なくなるではないかと感じていたのです。マタイによる福音書六章で、イエス様がはっきりそうおっしゃっているのではないか、それがわたしの疑問でした。さらに他人からの賞賛だけでなく、一番引っかかったのは、祈っている自分を見ている自分がいて、なかなかよく祈っている、感心だ、いいクリスチャンだと、充実感に満たされて、自分で自分をほめることになるのではないか、それは右の手がしていることを左の手がほめているようなもので、イエス様がしてはならないとおっしゃっている偽善ではないのかという思いでした。

もうひとつ、わたしが若いころ指導を受けた祈りに熱心な福音派の牧師は、出勤中の満員電車の中は、祈りに最適だと教えてくださいました。誰にも邪魔されずに、知っている人は周りに一人もいないので、吊革にぶら下がって二十分なり三十分集中して祈れるとおっしゃったのです。当時の満員電車は今とは違ってぎゅうぎゅう詰めで本を読むどころではありませんでした。孤独で、少々ぶつぶつと祈っていても、だれも気にしないからと言うのです。いつでもどこでも祈れるよう、目を開けたままでも祈れるよう訓練をせよと教わりました。わたしは、この先生の影響で、牧師になるまでの長い社会人生活の中で、仕事中、食事の前、通勤中に祈っておりました。特別に祈る時を取るのではなく、生活の中で祈っておりました。

今日聞きました福音書の中で、イエス様もこの問題に触れておられます。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(五節)。イエス様の時代のユダヤ人には、貧しい人への施し、神への祈り、断食が、最も大切な善行、神の御前における義のわざとされておりました。ですから、決まった時刻が来ると、会堂や大通りの角に立って、祈る人がいたようです。人目をまったく気にしない人もいたかもしれませんが、しかし、祈りが「人に見てもらうため」になりますと、それは神に向けられたものではなく、人間に向けられたものになってしまいます。そうなりますと、施しをするときと同じで、彼らは既に報いを受けている、つまり人間の間で計算が済んでしまっていることになってしまうのです。個人の祈りは、神だけに向かうものでなくてはなりません。

これに続いて「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(六節)とあります。これは誤解されやすいのですが、祈りは人に見せないで隠れて戸を閉めて祈りなさい、目立たないことが大事なのだという教えではありません。この当時の家は、人間と家畜がしばしば一緒に暮らしておりました。狭くて暗い家です。簡単な仕切りで人と家畜が隔てられております。その奥は一段と低くなっていて、いわば半地下室になっておりました。ここに貴重品と食料が保管されていたのです。奥まった自分の部屋とは、この地下室のことです。他人は入りません。隠れた場所です。ここは神からいただいた大切な宝物が収められているところであり、一人になれるところでもあります。宝の傍で、つまり神の近くで、人を気にせず神に対して祈ることのできる場所です。この教えは謙遜の教えではありません。ここまでと同様に、神との関係を強調しておられるのです。

「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(七~八節)。ここで言われているのは祈りの長さや繰り返しのことではありません。多神教の人たちは、自分の知る限りの神の名を、落とすことなくすべて呼ぶために、祈りを長い神の名の羅列から始めることがあったようですが、ユダヤ教でもこれに似た、「主よ、わたしたちの神、わたしたちの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、いと高き神、・・・」というように多くの呼びかけを連ねた祈りがあったようです。これを戒められたのです。わたしたちはこのような神の名を連ねて呼びかける祈りはしませんが、困ったときや苦しい時には、何度も神の名を呼び、何とかしてくださいと祈ります。しかし、イエス様はそのような願いごとを並べ立てる祈りはもういらない、あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(八節)とおっしゃるのです。神はわたしたちよりもっと正確に、わたしたちに本当に必要なものを知っていてくださるのです。

そしてイエス様はおっしゃいました。「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください』」と(九~十三節)。わたしたちが毎日唱えている「主の祈り」です。イエス様はわたしたちにまず、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるように教えられました。「父よ」と訳されていますが、イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」です。「アッバ」は、聖書には三回出てきます。これは幼い子どもが父親に呼びかける言葉です。イエス様御自身が祈りの時に使っておられました。ゆるぎない信頼に溢れています。この「お父さん」、あるいは「おとうちゃん」という言葉で呼びかけなさいとイエス様は言われたのです。単純であることと親愛からくる神の近さが重要視されています。

わたしたちが、天地の造り主であり全世界の王である神を「お父さん」と呼ぶことができる。それは決して当たり前のことではありません。古代社会にあって神を「おとうさん」と呼ぶ例はイエス様以外にはありません。「主権者なる主よ」とか、「宇宙の王なる方よ」などと仰々しく祈っておりました。世界の創り主に親しく語りかけるなどということは、本来ならあり得ないことですし、今まで自分がどう生きてきたのかを考えると、なおさら、「おとうさん」と親しげに語りかけるなど考えられないことです。神を無視し逆らって歩んできたわたしたちが、まことの神の御前に出るならば、恐れおののかざるを得ないはずです。罪を犯してきたわたしたちが、この世界を正しく裁く権威をお持ちである御方に対して、イエス様と同じように「お父さん」と親しみを込めて呼びかけるなど、できるはずがありません。しかし、そのあり得ないことが許されているのです。イエス様がわたしたちの罪の贖いのため十字架にかかってくださったからです。わたしたちの罪を担ってくださったので、わたしたちは義とされ神との正しい関係の中に置かれました。そのわたしたちに、イエス様だからこそできる祈りを教えてくださり、「お父さん」と祈りなさいと言ってくださったのです。すべては神の愛から出た、一方的な恵みです。直接親しく呼びかけられること自体が、実は既に神の愛の現れなのです。わたしたちは愛されている子どもとして、祈ることが許されているのです。

そのように神に愛され、「お父さん」と呼べる神の子どもとされた者として、父を愛して生きていく、それがわたしたちの信仰生活です。神の愛を獲得するために信仰に励むのではありません。厚意を得るために敬虔な生活をするのではありません。自分が差し出す何かと引き替えに神の愛を得ようとするのは、子どもらしい姿ではありません。子どもは初めから父に愛されているのです。わたしたちは愛されているのです。だから愛されている者として、ご愛に応えて生きていく、一方的に恵みを与えられた者として、その恵みに応えて生きていくのです。お父さん、ありがとうと呼びかけます。

子どもが父を愛する時、父の関心事が子どもの関心事にもなります。医者の子が医者に、大工の子が大工になるのは珍しいことではありません。父の望んでいることを子どもも望むようになります。父がどのようなことを考えているのか、父を愛している子どもなら、もっとよく知りたいと願うようになり、父が願っていることが実現することを、子どもも願うようになるでしょう。そこで、父から愛され父を愛する子どもとして祈る、「天にいますわれらの父よ」に続ける祈りとして、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「御名が崇められますように」「御国がきますように」そして「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です(九、十節)。主の祈りの前半部分です。

「御名が崇められますように」。このような祈りが求められるのは、神の御名があがめられていない、むしろ汚されているという現実があったからでしょう。神が神とされていない。主の御名は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われてきたのです。「御国が来ますように」。そのような祈りがなされるのは、今、目にしているのは御国ではない、という現実があるからでしょう。神ならぬものの支配。わたしたちがこの世で目にしているのは罪と死の支配であり、神なき闇の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることは同時に、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。わたしたちが目にしているのは、御心が実現していない世界です。神の御心に反することが行われている世界です。父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、そして神の民の現実を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられました。父の御名が崇められ、御心が地上で行われることを誰よりも願っておられたのはイエス様です。そのイエス様の心を共にして祈ってほしいと、祈りの言葉を与えてくださったのです。

「このように祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」とは、「神に願いなさい」ということです。実現なさるのは神御自身です。神の御名が崇められるようになること、神の御国が来ること、神の御心がこの地上において実現すること。これらすべては神の御業であり、御自身の戦いです。父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。父の心を共有し、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈る子どもたちを求められるのです。そのような子どもたちを用いて事を進めようとされるのです。

「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」。これが根本的な求めであり、基盤です。それがわたしたちの祈りとなっていくならば、それがみんなの願いとなっていくならば、どのようなことも、教会生活を続けるゆえに生じた困難さえも、信仰のつまずきとはならないはずです。大切なことは、苦難があるかないか、教会生活に困難があるかないか、お金があるかないかではないのです。そういうことは、もちろん大事ではあります。イエス様も、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(十一~十三節)と日常の具体的な必要を祈るようにと教えてくださいました。ですが、まず大事なのは、いったい何を求めて生きているのかということです。「主の祈り」が自分の祈りになっているかどうか、ということです。

繰り返します。最初に見ましたように、この祈りは「父よ」という呼びかけから始まります。父を愛する子どもとしての祈りなのです。神を父として愛する親しい関係の中に置かれている、神の子としての祈りです。そのように祈れるのは、父から愛されていることを知っているからです。罪あるわたしが滅ぼされるのではなくて、罪を赦され、御父を「お父さん」と呼べること、神の子どもとされていること、そしてそれがどれほど大きな恵みであるかを知っているということです。「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさいと教えてくださり、わたしたちのために十字架におかかりくださったイエス様の祈り、「主の祈り」を、お互いに自分の祈りとしましょう。 その時、どこで祈るのか、いつ祈るのか、声に出すのか出さないのか、目を閉じるのか閉じないのか、そういった人間の疑問は解消するでしょう。ただ神の御名が崇められるのです。

 

祈ります。
主イエスキリストの父なる神、イエス様はわたしたちの贖いのために十字架についてくださり、あなたに「父よ」と呼びかけて祈るように教えてくださいました。この恵みに感謝します。あなたはわたしたちの必要をわたしたち以上によく知っていてくださいます。どうかわたしたちが御心にかなった祈りができますよう支え導いてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように。
主の御名によって祈り願います。アーメン。

6月11日の音声

 

2017年6月4日 聖霊降臨日
「聖霊が降り、神の偉大な業を語る」
使徒言行録 2章1~13節

二千年前の五旬祭の日、イエス様の最初の弟子たちが、エルサレムのどこかに「一つになって集まって」(一節)いると、とても不思議なことが起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(二-四節)とあります。天からの激しい音や、分かれ分かれに現れた炎の様な舌は、神が現れなさった徴です。また舌は言葉を表します。聖霊に満たされた弟子たちは、別々の言葉で、同じことを、多くの人の前に出てきて話しだしたのです。驚きの事件が起こりました。

この当時、ローマ帝国によって地中海世界は統一され、道が整備され、治安が保たれ、誰でも旅が出来るようになっていました。出エジプト記に「あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい。年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない」(三十四章二十二、二十三節)とありますから、何百年も前に国が滅び、世界中に離散してしまっていたユダヤ人の子孫の中には、自分たちの原点を求めて、年に三度、過ぎ越しの祭り、七週祭(五旬祭)、仮庵の祭りのときには、エルサレムに帰ってきて滞在する人もおりました(五節)。こういう人は「信心深いユダヤ人」と呼ばれています。その人たちも、もちろん天から聞こえた激しい風が吹いて来るような音を聞きました。驚いて外に出てきました。帰国した外国生まれのユダヤ人は、当然、アラム語やヘブル語ではなく、生まれた国の言葉を話します。そこで彼らは見たのです。どう見てもエルサレムの人ではない、ガリラヤなまりのある人たちが、自分の故郷の言葉で話しているのを。そして、あっけにとられてしまったのです(六節)。ハワイやブラジルに移住した日本人の子孫が、京都に帰ってきて滞在しているとき、京都に来ていた地方の人が、英語やポルトガル語の、しかも方言で突然話すのを聞いたようなものです。何が起こったのかと驚き怪しんだ(七節)のも無理はありません。

ところで、「聖霊に満たされた」というのは、どういうことだったのでしょうか。もう少し身近な表現で考えますと、例えば「怒りに満たされた」というのは、腹が立って、腹が立って仕方がない。もう我慢ができない。自分を制することができずに、怒りによって支配され、動かされてしまう。そのような状態を言います。「満たされる」というのは、「支配される」ことです。ですから、聖霊に満たされるとは、神の霊によって支配されることです。神の霊でわが身が一杯になる。神によって動かされる。わたしたちを用いて神の力が現れ、神の御業が現れる。まさに神が人を通して御自身を現してくださること、それが「聖霊に満たされた」ということです。興奮して無我夢中になり、自分が自分でなくなること、いわゆる神がかりと勘違いすることがありますが、そうではありません。神の霊は、静かに、力強く人を動かします。

この日、弟子たちは「聖霊に満たされ」たのです。そして、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」ました。何を語ったのでしょう。「神の偉大な業」(十一節)です。イエス様の弟子たちは、師であるイエス様がなさった神の国の到来を告げることを受け継いで、同じひとつのこと、神の偉大な業を語りました。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(八-十一節)。世界中の人々に、それぞれのふるさとの言葉で、神の偉大な業を語ったのです。神はこの世界の救いのために、イエス様の弟子たちをいろんな言語で話せるようになさいました。救いを伝えるためです。いうまでもありませんが、弟子たちは努力なしで、それ以後も外国語が話せたわけではありません。この時だけです。これは聖霊の働きを象徴する、きわめて特殊な出来事でした。

マラナ・タ教会では、ペンテコステの日に各国語で主の祈りを唱えています。すでに7年目になりますが、今年も、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、フランス語、ドイツ語、英語、中国語、韓国語、それに隠れキリシタンと今の日本語、合計十種類の言葉で、主の祈りを唱えました。よい試みだと思っています。「聖霊に満たされ」「いろいろな国の言葉で」「神の偉大な業を語る」ことを真似てやっております。主の祈りだけですが、ペンテコステらしく、それぞれの国の方がそれぞれの国の言葉で、同じ祈りを共に、ささげることができます。

「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は、世界宣教の始まりとして極めて象徴的な出来事でした。しかし、ある人は言うかもしれません。世界を救うのなら、神が直接救う方がよいのではないか。それこそ激しい風が吹いて来るような音が天から響くやり方で、炎のような舌が現れる不思議な力で、直接人を救ったらよいのではないかと。ところが、神はそのようなことを望んではおられないようです。人を用いて人を救おうとしておられるのです。ですから、激しい風が吹いて来るような音が天から響いたのはこの時だけですし、炎のような舌が現れたのもイエス様が天に昇られた直後の、この五旬祭一回限りなのです。それから後、神は人を通して救いの御業を進めてこられました。教会の発展の歴史をわたしたちは知っておりますが、ペンテコステの出来事のあと、突然、炎のような舌が現れて、その舌に導かれて教会に来た人はいないと思います。神に用いられた誰かが、わたしに神の業を語ってくれ、それを聞いて、わたしは今ここにおります。皆さんもそうだと思います。人による伝道、ここに聖霊の働きがあります。

このように、人を通して働かれる神の御業の中にわたしたちは存在しています。ですからわたしたちも、聖霊で満たされ、用いられて、人を救えるのです。救いの御業はそのようにして人から人へと伝えられていきます。聖霊に満たされて生きることは、自分のためだけではなくて、家族のためであり、友人のためであり、この世の救いのためなのです。言い換えますと、世の救いのための言葉、福音を語るのが教会のなすべきことです。この働きは聖霊降臨日に始まり、今も続いています。それで聖霊降臨日は伝道の開始、教会の誕生日として祝われます。この日には、分れ分れに現れた炎の様な舌を思い出して、赤い服を着たり、赤いネクタイをしたり、何か赤いものを身につけて、昔の出来事に想いを寄せます。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ大事な祝祭です。

このように教会は聖霊に満たされて誕生し、ペンテコステの出来事の後、教会は発展していきますが、決して順風満帆ではありませんでした。使徒言行録は、教会が始まった時代の出来事について書かれた書物ですが、自分たちの歩みについて、良いことだけに集中しまずいことは触れない、単なる昔の教会の思い出話ではありません。教会の性格、キリスト者の被った迫害や分裂、キリストの弟子として生き続ける困難や喜び、みな書かれています。使徒言行録を読むことは、今のわたしたちの教会の在り方を考え、信仰生活のあり方を考えていくことにもなるのです。わたしたちは、世界の人に向かって、キリストの福音を語らねばなりません。そのために聖霊に満たされることを期待したいのです。聖霊に満たされることと都合よくことが運ぶこととは同じではありません。あの人は聖霊に満たされた人だ、だからあんな素晴らしいことが出来るのだ、とは時々聞く表現ですが、正しい理解ではありません。つらく悲しい経験をする人は、聖霊に満たされていない、という理解も正しくありません。決してそんなことはありません。神は御心のままに人を用いて御業を成し遂げて行かれるのです。

使徒言行録が書かれた時代、教会はほかの宗教が主流である社会の中で、少数者として誕生し、生き抜いていかねばなりませんでした。この時代の教会の背景は、今の日本の教会の背景でもあります。このような目で、聖霊によって何が始まったのか、もう一度聖書に確認したいと思います。集まった人々が聞いたのは、「神の偉大な業を語っている」言葉でした。聖霊に満たされた人々から聞いたのは、神の御業を誉め讃える賛美の言葉だったのです。人が神の御業に思いを向け、神の偉大な業を誉め讃えるということは決して当たり前のことではありません。人は、自分が何をしたか、何を成し遂げたかということに関心があるものです。これは教会の内でも同じで、神の御業に目を向けるより、自分が神のために何をしたかという、自分の行いの方に関心が向かうことが多いのです。それはいわゆる熱心なキリスト者、献身的なキリスト者も例外ではないでしょう。しかし、そのような自分の業への囚われから解放されねばなりません。人生において最も大切なことは、「何を成し遂げたか」ではないからです。「神が何をしてくださったか」ということの方がよほど重要なのです。同じように教会につても、最も大切なことは、教会が神のために何を成し遂げたかではありません。神が教会に何を為してくださったかということ、神の偉大な業のほうが大事なのです。わたしたちを自己の業へのこだわりから解放するには、上からの力、聖霊の満たしが必要です。

弟子たちは、イエス様の十字架上での死という事件に出会い、ご復活のイエス様に出会うという体験をした後、ペンテコステの奇跡を経験しました。一人ひとりの上に同時に聖霊が降る経験をしたのです。個人的に、しかし共同体に、聖霊が働きました。聖霊に満たされた弟子たちは、キリストを証し、神の偉大な業を語りだしました。そして、教会が生まれたのです。

上からの力によって事が成るということを知る時、一方でもう一つ別の内からの強い力、決して逃れられない罪と死の問題も知ることになります。しかし、罪や死をやみくもに恐れる必要はありません。真の人としてこの世に来てくださった神の御子イエス様が、どうしても避けられない重荷、罪と死の問題を背負って十字架にかかり、わたしたちを神と和解させてくださったからです。そして「わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいる、平和があるように」とおっしゃって下さったからです。上からの力を信じ、神の偉大な業を語ること、それこそが信仰の中心です。そして、神の子とされ、神の相続人として永遠の命に生きる、これがわたしたちの希望です。

使徒言行録が書かれたころまで、初代教会は急拡大していきましたが、それでも所詮ローマ帝国内にあっては小さい集まり、国家権力に対しては、なんら影響力を持たない無力な集まりにすぎませんでした。にもかかわらず、迫害という大きな困難にさらされます。ユダヤの伝統的社会とローマ皇帝による二重の教会迫害は、よく知られた事実です。キリスト者は時には捕えられ殺されました。そういう中にあっても信徒は教会に集まってきました。死刑になるかもしれないという緊張感の中で教会に集まるというのは不思議な現象です。教会に行ったらいいことがあるというのなら、理解できます。物質的に何か得られないにしても、心の平安が得られるとか、見えない神の守りが実感できるとかであれば理解できます。しかし、むしろ逆だったのです。教会に行くと明らかに不利な扱いを受ける、そういう時代でした。にもかかわらず、教会に集まったのです。親しい交わりがありました。なぜでしょう。これは、はっきりしています。彼らは礼拝で神の言葉を聞いたのです。命の言葉です。そこに命があると信じ、神の偉大な業が語られるのを聞きました。そして聖餐に与ったのです。イエス・キリストのお体と血をいただいて永遠の命に生きるためです。

ペンテコステでは、聖霊の働きが具体的に人に示されました。それは厳しい時代の始まりでもありました。しかし、たとえ迫害に遭っても、喜びを失わなかった人が大勢いました。永遠の命に生きる希望が与えられたからです。今も同じです。共に祈り、礼拝し、聖餐に与ります。たとえ体が動かなくても、病床で声にならない声で賛美を歌います。そこには必ず、イエス・キリストの霊がわたしたちと共にあります。歌声が響きます。「主の内に闇はなく、夜も昼も輝く。心の中をわが主よ、照らしてください」(讃美歌21-509)。この喜びは誰も奪うことができません。わたしたちはそれを証しすることができます。たとえ小さな群れであっても、恐れることはありません。老人も夢を見ることができるのです。先の事をびくびく心配する必要はありません。安心していいのです。わたしたちは聖霊に満たされているのです。聖霊に満たされている以上、神の偉大な業を語ろうではありませんか。

 

 

祈ります。
父なる神、言葉の壁を越えて、同じ信仰告白を唱え、同じ祈りを献げ、同じ一つの食卓を囲ませてくださっていることを感謝します。わたしたちは、同じ日本語を話す者同士でさえ、言葉が通じないという悲しい経験をよくします。どうか聖霊の働きによって、同じ、一つの信仰の言葉を話すことができるようにしてください。皆があなたの霊に満たされ、共にあなたの希望に向かって歩んでいけるよう支え導いてください。聖霊よ、来てください、マラナ・タ!
主のみ名によって祈ります。アーメン。

6月4日の音声

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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