聖霊降臨節説教2019

2019年6月23日 聖霊降臨節第3主日
「主の晩餐」
マタイによる福音書26章26~30節

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(二十六節後半~二十八節)。除酵祭の第一日、弟子たちとの最後の食事で、イエス様が何をなさり、何をおっしゃったのかが書かれています。これはイエス様のこの世への遺言です。直弟子たちだけではなく、わたしたちにもこのようにせよということです。このイエス様の命令は、今も生きて働いております。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き」と始まります。賛美の祈りを唱え、パンを裂くと聞きますと、ガリラヤで五千人に食事を与えられたとき、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しに」なったことや、四千人に与えられたとき、「七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった」ことを思い出します。ですから、パンを取って賛美の祈りを唱え、それを裂かれたことについては、何の違和感もなかったことでしょう。手に取られ、感謝され、裂かれ、与えられるパンなしにはわたしたちは生きていけないのです。とても簡素でありふれた食事のシーンですが、普通とは何か違うことが起こっております。

「取って食べなさい。これはわたしの体である」(二十六節後半)。この言葉に弟子たちは驚いた、あるいは戸惑ったのではないでしょうか。弟子たちにとってどれくらい訳の分からない言葉だったのか、あるいはすんなり納得できる言葉だったのか、どんなふうに理解されたのか、マタイは何も書いておりませんから想像するしかありません。しかし、日本で先生が食事の時、ごはんの入った器を持って、少しずつご飯を分けて、「これはわたしの体である。取って食べなさい」と言われたら、かなり不思議な感じがします。このとき、裂かれたパンを取って食べることが、ただちにイエス様の死と結び付くと知ることは難しかったはずです。イエス様がご自分をわたしたちに与えようとされていることは、次の杯の言葉を聞くまではっきりわかりません。

パンの次に、杯が続きます。イエス様はパンの時と全く同じように、杯を取り感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡して「皆、この杯から飲みなさい」とおっしゃいました。それに加えてその直ぐ後に、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(二十八節)と続けられました。罪が赦されるように流される血であり、そしてそれが多くの人のために流される「契約の血」であるとおっしゃったのです。この言葉はイエス様の死と明確に結びついています。

「契約の血」は、モーセが民に犠牲の血を振りかけたことを想い起こさせます。契約の書を取り、民に読んで聞かせたとき、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言う民に、モーセは「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と言って犠牲の血を振りかけました(出エジプト記二十四章)。これはユダヤ独特の習慣で、犠牲の思想が流れています。血は命です。またもう一つ注目すべきことがあります。通常のユダヤの食事の場合にはぶどう酒はそれぞれ自分の杯から飲むのが普通であったのに、イエス様はこの杯から、つまり一つの杯から飲みなさいと言われています。一つの杯から飲むことによって、イエス様の死によってもたらされる罪の赦しが、共同体の力となる、皆を一つにする、そして多くの人の救いになるということが指し示されているのです。教会がパンを食べワインを飲む儀式において、イエス様の犠牲による恵みの力に与れることが示されています。

教会は二千年の長きにわたって、この最後の食事を記念して守り、礼拝の中で最も大切な秘儀として行ってきました。マラナ・タ教会の場合「これは、あなた方のためのわたしの体である。わたしの記念としてこれをおこないなさい」と始まるコリントの信徒にあてたパウロの手紙(一)十一章に書かれた言葉を用いております。もちろん、元はイエス様の言葉です。パウロの手紙は、福音書よりも前に書かれたと思われますから、ごく初期から教会ではこの言葉は食事のたびに宣言されていたのでしょう。

ところで「これはわたしの体である」という短い簡単な言葉は、キリスト教会で最も大切にされている言葉ですが、この言葉はその解釈をめぐってキリスト教会に激しい論争と分裂を引き起こしました。残念なことに教会は今も分裂したままになっております。代表的な解釈はカトリック教会の教えといってもいいでしょう。古代の教会は、パンそのものの中に無理にイエス様を見ようとしたために、パンがイエス様のお体に神秘的に変化すると解釈しました。これはまさしくイエス様の体ですと言いました。分かる気がします。間違いとまでは言えません。皆そう信じて、これはまさにイエス様のお体であると宣言する司祭の言葉に、うなずいてアーメンと言って感謝してパンを受けてきました。そのためパンではなく「ご聖体」と言います。面倒な言い方ですが聖変化する、化体と言います。パンなのですが、聖なるものに変化する、まさしく、イエス様の体に化けたのだという意味で化体、化学の「化ける」という字と「体」と書きます。聖餐式のパンは、科学的には小麦粉であり、でんぷんなのですが、それをイエス様の体に実際に変化すると理解し、霊の深み、自らの存在の深みにおいて受け止めるのです。ここで大切なのは、イエス様がおっしゃった「わたしの体」というときの体は、アラム語ではわたし自身を指します。マイセルフです。これを受けるとは「イエス様自身を受ける」ことです。パンは口で受け胃袋に入って、やがて体の一部となりますが、命のパンとしてイエス様ご自身を信仰で受けるのです。ところが、何事も千年以上も続けていると、よほど祈っていないと形骸化が起きてしまいます。パンをキリストの体に変化させる宣言ができる教会の権威、司祭の権威をあまりにも強め、あまりにも荘厳な雰囲気でそれを宣言し執行してきたために、美しく尊い儀式がただ形だけのものになり、献身の決意が薄れていきました。奇しくも今日はカトリック教会では「キリストの聖体の祝日」です。

カトリック教会のこういう理解に対し、わたしたちは少し違った考えをしています。最後の晩餐の時、この言葉を語られたイエス様は弟子たちの前でご自分の体を裂くことも、血を流すこともなさっていません。パンも杯も実際のイエス様の体や血ではありません。ですからわたしたちは、「これはわたしの体である、取って食べなさい」とは、イエス様が体を裂いてまでも、血を流してまでも与えようとしておられるものを恵みとしていただく、そういう姿勢を励ましておられると考えています。信仰あるいは献身への招きです。そう理解しているのです。「アーメン、そうです。これはまさしくわたしのための恵みです。神にこの身を献げてわたしも生きていきます」とわたしたちは応答します。

ところがプロテスタント教会は、カトリック教会の絶対的権威を否定し形骸化した儀式を廃止しましたが、今度は残念なことに、聖餐に秘められたサクラメント、つまり秘儀を見失い、象徴に過ぎないとみなす間違いを犯してしまいました。結果的には聖餐の軽視が起こりました。パン裂きと杯の言葉は恵みの力に与ることなのに、カトリック以上に形式化し、中身を見失っていきました。どうしてこんな小さなパンとぶどう酒を飲むのか、古代の儀式でしょ、ピンと来ないわという人が大勢います。

杯の中に入っているのはワイン、ぶどう酒ですが、これはイエス様ご自身の血であると同時に、契約の血でもあります。契約の血とはいったい何でしょうか。神の御計画に従ってわたしたちのために十字架につかれたイエス様の贖いの血です。イエス様の死の上に新しい契約は基づいており、これは神の一方的裁量によるものです。イスラエルの神とイスラエルの民との古い契約が、イエス様とわたしたちの新しい契約に代わっていく。旧約の時代から新約の時代へと変わるのです。ここでもパンと同じように、ぶどう酒を誰がイエス様の血に変えることができるのかとか、その権威は誰から授けられたのかなどという議論は不毛です。昔の人は、パンと同じように、司祭がこれはキリストの血ですと言った瞬間にイエス様の血に変わる、聖変化するのだと考えましたが、行き過ぎるとおかしなことになります。ぶどう酒をイエス様の血であるという点にだけこだわると、万が一、聖餐式でぶどう酒をこぼしたら大変なことになります。絨毯に、あるいは木の床に沁みこんでしまうと、もう拭き取れません。すると誰かがイエス様の血を踏んで歩くことになります。こぼしてしまったので会堂を燃やしたことが実際にありました。それは愚かな昔の人がしたことだろうなどと思ってはなりません。わたしの友人に正教会、つまりロシア正教の司祭がいますが、マラナ・タ教会で開かれている神学研究会で話してくれたのは、彼自身の経験です。あるおじいさんが、手が震えて聖餐式でぶどう酒をこぼしてしまった。もうイエス様の血に変化したぶどう酒です。そのとき血を吸った絨毯の毛を丁寧に丁寧にカミソリで削り取り、それを水でゆすぎ、その水は畑に流し、絨毯の繊維は燃やして灰にして大地にそっと返したと言うのです。これに限らずほとんど迷信といってよい行為を大真面目にします。キリストの血ですから歯についたままにしたり、舌に残ったままにしたりではいけませんから、口をゆすぐためのワインを飲みます。パンも同じで、口の中に残ったパンかす、キリストの体の断片があってはいけませんから、聖餐のパンを食べた後は普通のパンで、残ったパンかすを胃に流し込みます。

こういう話をし出すときりがないのですが、聖餐式のワインが器に残りますが、それは必ず司祭が全部飲み干します。どうしても容器に少し残りますからそれを何度も何度も水で薄めて飲み続けます。日曜ごとに司祭はお腹がパンパンになるまで、水でゆすいだキリストの血を飲み続けるのです。そして最後にきれいな布で容器をふき取り、その布は丁寧にボウルで洗い、その水は畑に流します。植物の命に供するのです。司祭になった初めのころは日曜日が拷問だったとわたしの友人の司祭がここで証言しました。これは彼らがいかに変なことをしているかという批判ではなく、いかに真面目に大げさともいえる真剣さで聖餐を執行しているのかというご紹介です。

カトリック教会とプロテスタント教会は、和解のプロセスを踏んでおりまして、一緒に聖書を学び、ともに祈り、共に賛美し、カトリック教徒もプロテスタントの牧師を少なくとも表面的には教職として敬い、信仰告白は使徒信条を共に唱えることができます。わたしも司祭を、式服を着た職業的宗教人とは呼ばずに、神父様と敬意をもって呼びます。しかし、信仰告白、教職制度、聖書解釈で歩み寄りはできても聖餐式の在り方、聖餐への参与においては一致できません。いくら話し合っても無理です。このパンを心の底からイエス様だと信じるかと聞かれますし、はいと言わなければ、決して聖餐には与かれません。わたしはこの違いが分っているので、はいと答えますが、それならなぜプロテスタントの牧師をしているのか、カトリックに帰正せよと迫られます。帰正とは、「正しきに帰る」です。つまりプロテントは間違っている、これは決して揺るがないカトリックの考えです。プロテスタントは、二十世紀半ばまで全くの異教徒、つまり異端でもない、全く違う宗教の信者、露骨に言えば悪魔の子として扱われましたが、いまは「不幸にして分かれた兄弟」と呼ばれます。不幸にも間違って出て行った人たちです。ですから帰ってきなさいと祈っているわけです。二十世紀初めまでカトリックが異端と考えていたのは、ギリシア正教など東の教会と英国の聖公会です。プロテスタントは異端ですらなかったのです。繰り返しますが、今日ではカトリックとプロテスタントは、お互いの違いを認めあい、完全な和解はできないけれども、仲良くやっていくことになっております。ですから、マラナ・タ教会主催のコンサートにも積極的に協力してくださいますし、わたしは月一回カトリック教会にでかけて祈っているわけです。わたしが子供のころと比べると、別世界のような感じです。

聖書本文に戻ります。イエス様は食事を終える前に、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(二十九節)と言われました。父の国と訳されていますが、これはイエス様が使われた「王国」(βασιλείᾳ)、神のご支配という言葉です。父の国が到来する近さと確かさとが語られています。来るべき神の完全なご支配の中で、イエス様と共に食事をする、共同体の完成が予告されているのです。ご降誕の時に「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(一章二十一節)とありましたように、イエス様はインマヌエル、共におられるお方です。来るべき神の国では、イエス様は弟子たちと共に食事をし、ぶどう酒を飲んで祝われるのです。わたしたちもそこにおります。

わたしたちはイエス様がおっしゃったことを、どこまで真剣に聞いているかが問われております。人間は誰もパンとぶどう酒を聖なるものに変化させることなどできません。神父様もそんなことは信じていないのです。神だけがおできになります。わたしたちは神をたたえて感謝します。感謝してパンとぶどう酒をイエス様がおっしゃったとおりに「これはわたしの体である」、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と信じて受け取ります。神のご意思に従ってイエス様が血を流されたことを思い出すのです。イエス様はわたしたちの罪を取り除き、天の国において共にいてくださるインマヌエルの神です。わたしたちは今からは新しい契約の時代だぞという神の宣言を聞きます。明白な宣言です。それは契約の血が流された、間違いない神のご裁量のもとにいるという宣言でもあります。それに、アーメンその通りですと応じます。これが聖餐です。

祈ります。

父なる神、「食べなさい、そして飲みなさい。これはわたしの体、わたしの血、これはあなた方に与えるわたし自身です」というイエス様のお言葉を聞きました。ずっと昔遠い国で人となられただけではなく、今も礼拝で行う聖餐に於いて、共に食卓を囲むとき、わたしたちの糧であり飲み物であってくださいます。すべてを献げ与えてくださいます。このインマヌエルの神秘に感謝します。わたしたちの魂がこれからも、イエス様の中に憩うことができますようお守りください。どうぞマラナ・タ教会の一人一人を支え、活かしてください。

主の御名によって祈ります。アーメン。

23日の音声

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2019年6月16日 聖霊降臨節第2主日(三位一体日)「過越の食事」
マタイによる福音書26章17~25節

「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。除酵祭の第一日、お祝いであり、かつ厳粛な過越の食事の席でのことです。ひょっとしたらウキウキした気分だったかもしれない弟子たちにイエス様の声が響きました。その場の雰囲気が伝わってきます。おそらく空気が凍りついたのではないでしょうか。「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた弟子たち。いかにショックを受けたかが分かります。「はっきり言っておく」というのはイエス様が大事な事をおっしゃるときの決まった言い方です。「アメーン・レゴー・ヒュミーン」、「まことに、われ、汝らに告ぐ」という毅然とした言葉です。イエス様がいよいよ十字架につけられるという時になって、イエス様の傍に仕え、寝食を共にした弟子の中に裏切りという悪意の壁ができております。二千年前のエルサレムのとある部屋で、十三人の男たちが食事をしています。家の人や料理を提供した女性もいたはずなのですが何も触れられておりません。この十三人にだけスポットライトが当たっています。誰も気にしないような、ありふれた過越の食事です。しかしこれは世界で最も有名な食事の場面となりました。

さて今日の御言葉は、「除酵祭の第一日に」と日付の記述で始まりました。これから後は時間の順で出来事が報告されていきます。いよいよ受難物語の核心部です。まず食事前のできごとが語られます。「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか』と言った。イエスは言われた。『都のあの人のところに行ってこう言いなさい。「先生が、『わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする』と言っています。」』弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した」(十七~十九節)とあります。どこで過越の準備をすればよいかと尋ねる弟子たちにイエス様は「都のあの人」のところに行って準備をするように言われます。あの人とは、名前や正体が特に重要でない人なのでしょう。いつものあそこだよとおっしゃったのかもしれません。その人と弟子たちに命令を下されたのです。かれらは命じられた通りに過越しの食事を準備します。この受難物語の中心はもちろん食事の場所ではなくイエス様です。イエス様の物語です。

「わたしの時が近づいた」とおっしゃいました。二節でも「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」とおっしゃっています。ご自分の時について、時を知り、時を支配する者として、そしてその時の中で出来事となる神の御計画を、ただ導くだけではなく、成就するよう神と共に行為している者として語っておられるのです。このとき、弟子たちは命じられたとおりに行っていますが、この弟子たちの服従は神の物語を進めていく重要な要件でした。

「夕方になると」という言葉で、新しい話に入ります。「イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(二十~二十二節)。この時弟子たちは、まさか自分ではないですよね、と言いました。かれらは明白にイエス様を裏切ることなどは考えたこともなかったでしょうが、自分たちの将来の行動には不安がありました。イエス様のお言葉を聞いて、自らの思いを振り返って考えたに違いありません。今はそんなことはなくても裏切らないとは言えないのです。不安になって、そうではないというイエス様の答えを期待しました。それで代わる代わる尋ねたのです。

日本の映画なら、「上様、それは誰ですか、わたしがそいつを切り捨てましょう」と言うような気がしますが、イエス様の弟子たちは、そうではありませんでした。自分たちも裏切らないとは限らないと思ったのです。ここで十一人の忠実な弟子と一人の裏切り者という形ではなく、十二人のユダとキリストという形が見えてきます。事実、この後の展開をわたしたちは知っていますが、全員がキリストを見捨てることになります。少し飛びますが三十一節をご覧ください。「今夜、あなた方は皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。つまずくとは聖書特有の言葉で、腹を立てるという意味です。歩いていて石ころにつまずくと、悪い石だなと言います。石が悪い。わたしではなく。くそっと腹を立て、その石を蹴っ飛ばす、道端に捨てる、それがつまずくという意味です。今夜、あなた方はみなわたしを蹴とばす、捨てるとおっしゃったのです。そんなことはない、たとえみんながつまずいても、わたしだけは命を懸けてあなたに従いますと言ったペトロが、真っ先に「あんな人は知らない」と言うのです。弟子のひとり、あるいは十二人のうちの一人が裏切るというのは、他の十一人は裏切らないという意味ではなく、弟子が裏切るというところに強調点があります。

洗礼を受け、主に従うと誓約した人があっさり教会を捨てる、これも裏切りですが、では教会に残って毎週礼拝しているわたしたちは裏切らないかというと、「間違いない、決してそんなことはない」とは言えないのです。キリストの前に立つわたしたちは、自分は裏切り者ではないと主から保証していただかねばならない人間なのです。わたしたちも自分たちとイエス様の関係はどうだろうかと問わなければなりません。

お前たちのうちの一人がとおっしゃったイエス様は、もちろんそれが誰であるかご存知でした。少し具体的に「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸したものが、わたしを裏切る」(二十三節)と説明されました。当時の食事は、鍋のようなものを囲んで車座に座り、自分のパン、もしくは羊の肉を手を伸ばして真ん中にある鍋、ここでいう鉢に入っているスープやタレに浸して食べたのではないかと想像できます。わたしたちなら、わたしと一緒に同じ鍋から食べ物を取る者が、という感じでしょう。同じ一つの鍋を囲む者、あなた方わたしの弟子がという意味です。みんながパンを浸すのですから、誰のことを指しておっしゃったのか弟子たちにはわかりません。一人一人が同じことをしていたはずです。誰が引き渡す者になるか、弟子たちの心は騒ぎますが全くわかりませんでした。わかっていれば弟子たちは阻止したでしょう。しかしイエス様は、ご自分が死ぬということも、誰のせいで今まさにそれが起ころうとしているのかもよくご存知でしたが、その事態を覆すため指一本動かそうとはされませんでした。またそれはだれなのか、はっきりおっしゃいませんでした。黙々と自分の行くべき道を行かれました。

わたしたちなら、どのようにするでしょう。多分、イエス様とは違う仕方をするはずです。どんな時でも、裏切りや悪に打ち勝とうとします。悪意には抵抗します。悪に支配されたり負けたくはありません。悪には妥協せず打ち勝つ、これこそがわたしたちのゴールです。しかし、あえて悪にゆだねることもありえるのです。放蕩息子のたとえなどがそうです。息子を破滅させることが明白なのに父親は、自分の財産を分け与え家を出ていくことを容認しました。それは人の業ではなく神の御業です。

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(二十四節)。イエス様はもう一度、聖書に書かれている通りに自分は去っていくと言われました。神のご計画は、破棄できないのです。イエス様は、ユダがご自分の死をもたらすことがわかっておられたにもかかわらず、ユダの悪意を達成させられます。ここにユダが決して変えることのできなかった栄光があります。ユダの罪は「人の子を裏切るその者は不幸だ」というイエス様の言葉で注目されます。悪意は自分自身に向かって跳ね返ってきます。決して勝利しません。ユダは、恐ろしい言葉を聞くことになります。「生まれなかった方が、その者のためによかった」。これは呪いの言葉ではなく、ああ残念だ、悲しいことだというニュアンスです。生まれなかった方が、わたしには都合がよいとおっしゃったのではなく、生まれなかった方がその者のためによかったです。気の毒にそれほどつらい目にあうぞとおっしゃいました。

そして、この場面は次のように終わります。「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」(二十五節)。ユダはこの場でも事の進行に気づかないふりをして言います。「先生、まさかわたしのことでは」と他の弟子と同じことを問いました。けれども呼びかけの言葉が違っています。弟子たちは「主よ」「キュリエ」と呼びかけましたが、ユダは「先生」「ラビ」と呼びかけたのです。ラビはユダヤ教の律法学者に向かって使われる呼びかけです。ユダはイエス様に対して、一人の律法学者に対するように振舞ったのです。ユダはもう完全にイエス様から離れてしまっています。ユダの問いに対してイエス様は、「それはあなたの言ったことだ」とおっしゃいました。新改訳聖書は、「いや、そうだ(お前だ)」と訳していますが、この時点ではほかの弟子はユダが裏切るとは認識しておりませんから、ここは原文通り、「あなたは言った」と直訳する方がいいでしょう。二十七章に入りますと、ユダは自殺します。結果的にはユダの裏切りはユダの行為ではなく神の行為であり、ユダは身を滅ぼし、イエス様は栄光をお受けになるのです。

さていつも思うのですが、いったいユダのしたことをどう理解すればいいのでしょうか。これは決して分析したり批評したりする事柄ではなく、福音書が伝えるように理由はよくわからないけれども、こういう事実があったということに止めるべきでしょう。しかしひとつだけ申します。もしこのユダの裏切りがなかったなら、イエス様の十字架での死は実現しなかったのでしょうか。そうだとすると、ユダこそがイエス様の行いを助けたことになります。救い主の本当の意図を分かっていて裏切ったのでしょうか。その結果過越祭での犠牲としての十字架での死が実現した。そんなふうに解釈すると出来上がっていたシナリオを、まるで役者のように演じきったということになります。いわゆる「やらせ」になってしまって、神の出来事が芝居になってしまいます。そうではありません。イエス様がわたしたちの救いのために苦しみを受けることが決まっていたとしても、そのためにユダがイエス様を裏切ったのではありません。やはりユダの裏切りは、悩んだ末の、ぎりぎりの決断だったといえるでしょう。このままでは先生は、何もできない。やはりイエス様は救い主なんかではなかったのだ、偽物だと判断したからこそ敵の手に引き渡したのだと思います。一方でイエス様は、悪をも神の出来事に変えられました。悪に負けたように見えるけれども、敗北をもって勝利なさったのです。

先々週の十四節以下十六節までの説教で申しましたが、そもそも十二人の弟子たちはイエス様ご自身が選ばれた人々です。ユダを選び指導してこられたのはイエス様なのです。しかしイエス様はユダの裏切りを阻止なさいませんでした。そしてそのユダの裏切りによって、神がお定めになった通り、過越祭に犠牲の小羊としての、十字架の死が実現したのです。わたしたちの贖いが完成されました。

このように見てきますと、わたしたちは、そしてわたしたちの教会はどうなのだろうと思います。まさか銀貨三十枚のはした金で先生を裏切ったり、金銭欲で悪事をたくらんだりはしないかもしれませんが、イエス様への裏切りは、ないとは言えないのではないかと思えます。いやむしろ、もし正直な信徒ならば、「わたしがユダだ」と叫びたくなるのではないでしょうか。ユダのようになってしまって救ってもらえないのではないかと心配になります。けれどもわたしたちは、あまりにもユダのことを考えないほうが良いと思います。ユダではなくイエス様のことを思いましょう。ユダは突然裏切ったので悪人になったのではなく、以前から少しずつ心が離れていったのです。ですからわたしたちは、日ごろから神の前に生きようと願いましょう。神の御前を生きる、それが教会の合言葉です。教会は神が義としてくださった人間の集まりです。心配することはないのです。いろいろとなぜかなと思うことがありますが、前にも申しましたように、人間の行動とは別に、はっきりしていることは、イエス様はすべての人の罪を贖うため、十字架についてくださったこと、神の愛には限定がないことです。キリストはあらゆる人間の罪のために、わたしたちのために、そしてユダのためにも死なれたのです。神の愛は拒否できません。イエス様の十字架によってわたしたちは神のみ前で生きることができるようになりました。わたしたちは恵みによって義とされたのです。この恵みをしっかりと受けとめたいと思います。キリストの体と血に与り、永遠の命を生きることのできる喜びに満たされて歩みましょう。

祈ります。
主よ、あなたはわたしのためにも苦い杯を飲み、犠牲となってくださいました。感謝します。どうかわたしをあなたから離れることなく、常にあなたの十字架を見上げて従い歩むことができるようにしてください。聖なる神よ、わたしを立ち上がらせてください。いつも御前においてください。おろかなユダにならないように導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

6月16日の音声

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2019年6月9日 聖霊降臨日
「聖霊が降り、神の偉大な業を語る」
使徒言行録 2章1~13節

十字架の死から三日目、イースターの朝にお甦りになったイエス様は、四十日の間、弟子たちと共にこの地上を歩まれた後天に上げられたと聖書は証言しています。ですから復活日から六回目の木曜日が昇天記念日です。今年は五月三十日でした。毎年、昇天日になると、あああと十日ほどでペンテコステだなというくらいにしか思わないのですが、今年はこの日香子が突然歩けなくなったので、わたしには忘れられない日となりました。さてイエス様はこの日、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(一章八節)とおっしゃいました。これはご復活のイエス様が天に上げられる前に、使徒たちに向かって語られた最後の言葉です。

この言葉が成就する形で、五旬祭の日とても不思議なことが起こりました。ご昇天からさらに十日経った、ご復活から五十日目です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(一~四節)とあります。

先生を殺され弟子たちは不安だったでしょう。けれどもご復活のイエス様が彼らの真ん中に現れて、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ二十四章四十九節)とおっしゃった言葉に従って、エルサレムで神をほめたたえていました。その弟子たちが「一つになって集まって」いたとき、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。「風」は神の息、霊を表します。「天からの激しい風の音や炎」は、神が姿を現された徴です。そして「舌」は言葉を表します。言葉が炎のように降ったのです。弟子たちは聖霊に満たされました。聖霊が降り力を受けるということが、皆にわかる形で歴史的事実として起こったのです。ルカが伝える約束が成就しました。

そしてこのことが起こったとき、驚いたことに弟子たちは多くの人の前に出てきて外国語で証をしました。弟子たちはイエス様に与えられたもう一つの賜物としての任務、広い世界に向かって「イエス様の証人」になる働きを始めたのです。

「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(五~八節)。

出エジプト記に「年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない」(三十四章二十三節)とあります。年に三度とは、過ぎ越しの祭り、七週祭(五旬祭)、仮庵の祭りの三度です。この当時、ローマ帝国によって道が整備され、治安が保たれ、誰でも旅が出来るようになっていましたので、国が滅び世界中に離散してしまっていたユダヤ人の子孫の中には、自分たちの原点を求めて、これらのときにはエルサレムに帰ってきて滞在する人もいました。こういう人は「信心深いユダヤ人」と呼ばれています。その人たちも、もちろん天から聞こえた激しい風が吹いて来るような音を聞いたのです。驚いて外に出てきました。帰国した外国生まれのユダヤ人は、もはやアラム語やヘブル語ではなく生まれた国の言葉を話します。そこで彼らは聞いたのです。どう見てもエルサレムの人ではないガリラヤなまりのある田舎の人たちが、自分の生まれた故郷の言葉で話しているのを。あっけにとられました。ハワイやブラジルに移住した人の子孫が京都に帰ってきているとき、そこにたまたまいた田舎の人が英語やポルトガル語の、しかも方言で突然話すのを聞いたようなものです。

「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(九~十一節)。地図をご覧ください。エルサレムから見て、パルティア、メディア、エラムは東方、メソポタミア、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアは北方、クレタ、ローマは北西の方、キレネ、リビアは西方、エジプトは南西、アラビアは南東にあります。エルサレムを中心に四方八方から帰ってきていました。これら世界中から集まった人々が、それぞれの故郷の言葉、普段使っている言葉で語られているのを聞いたのです。彼らは何を聞いたのでしょう。語られたのは「神の偉大な業」です。イエス様の弟子たちは、師であるイエス様がなさったことを受け継いで、神の国の到来を告げ、イエス様の出来事、十字架と復活、神の偉大な業を語りました。神はこの世界を救うために弟子たちがいろんな言語で話せるようになさったのです。この出来事は、皆同じ言葉を話していた人々が神の領域に侵入し、神のごとく地を支配しようとした「バベルの塔建造物語」を想い起こさせます。そのとき神は人々同士が思いを通わせることができないようにするため、言葉を混乱させようと多くの聞き分けられない言語を話すようにされました。創世記十一章の物語です。このときとは逆のことが起こったのです。いろいろな言葉が話されているのに、同じ思いにさせられたのです。言うまでもありませんが、弟子たちは努力なしで、それ以後も外国語が話せたわけではありません。これは聖霊の働きを象徴する、きわめて特殊な出来事でした。

さて、ここからが大切なポイントです。「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という出来事は世界伝道の始まりとして、たいそう象徴的な出来事でした。神は人を用いて人を救おうとしておられるのです。神は人を通して救いの御業を進めてこられました。神に用いられた誰かが、わたしたちに神の業を語ってくれ、それを聞いてわたしも今ここにおります。人による伝道、ここに聖霊の働きがあります。このように、人を通して働かれる神の御業の中にわたしたちは存在しています。ですから聖霊で満たされ、用いられて、家族やほかの人を救えるのです。救いの御業は人から人へと伝えられていきます。聖霊に満たされて生きることは、自分のためだけではなくて家族のためであり友人のためでありこの世の救いのためなのです。言い換えますと、世の救いのための言葉、福音を語るのが教会のなすべきことです。この働きは聖霊降臨日に始まり、今も続いています。それで聖霊降臨日は伝道の開始、教会の誕生日として祝われます。この日には、分れ分れに現れた炎の様な舌を思い出して、赤い服を着たり、赤いネクタイをしたり、何か赤いものを身につけて、この出来事に思いを寄せます。ペンテコステは、クリスマス、イースターと並ぶ祝祭です。

「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」(十二、十三節)。七節では弟子たちが話せそうもない言葉で語っているという理解できない現象を前にして、これはどういうことなのだろうか、何か大きな意味を持つことなのだろうか人々は驚き怪しみました。ここでは、はっきり語られているにもかかわらず、あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだとあざけっています。神に招かれ、心を開いていく人がいる一方で、あざけるだけで神に近づけない人がいるのです。

弟子たちは、イエス様が十字架にかけられて殺されるという事件のあと、ご復活のイエス様に出会うという体験をしましたが、いま一人一人の上に同時に聖霊が降る経験をしました。個人的に、しかし共同体全体に、聖霊が働きました。この不思議な経験が、個人のものでありながら、全体に起こったことはとても重要な意味を持ちます。わたしたちの信仰はある意味で極めて個人的なことですけれども、みんなのものでもあるのです。聖霊に満たされた弟子たちは、一人一人がキリストを証し、神の偉大な業を語りだしました。そして教会が生まれたのです。教会は聖霊の働くところです。

集まった人々が聞いたのは、「神の偉大な業を語っている」言葉でした。聖霊に満たされた人々から聞いたのは、神の御業を誉め讃える賛美の言葉だったのです。人が神の御業に思いを向け、神の偉大な業を誉め讃えるということは決して当たり前のことではありません。人は、自分が何をしたか、何を成し遂げたかということに関心があるのです。それは熱心なキリスト者、献身的なキリスト者も例外ではありません。神の御業に目を向けるより、自分が神のために何をしたかという、自分の行いの方に関心が向かうことが多いのです。しかし、人生において最も大切なことは、「何を成し遂げたか」ではありません。「神が何をしてくださったか」ということの方がよほど重要なのです。同じように教会についても、最も大切なことは、教会が神のために何を成し遂げたかではありません。神が教会に何を為してくださったかということ、神の偉大な業のほうが大事なのです。自分の業への囚われから解放された時、神の御業をほめたたえ賛美することができるようになります。これこそが礼拝です。

聖霊の働きとは何か、よくわからないという声が聞こえます。確かにキリスト教の教えには分かり難いことがたくさんありますが、よく説明を聞きますと多くのことはそうかなと思えます。しかし聖霊につては何度聞いてもピンときません。そんなとき、聖霊体験をなさったという方の話が耳に入ってきます。その方はご自分の経験を分かってもらおうと懸命にお話になります。けれどもその多くが不思議な現象であり、興奮状態になったことです。踊り、泣き叫ぶ信徒もいます。聖霊の働きを強調する教会にそういう人が多いです。そこで聞いた人たちは、ヘンテコな連中と揶揄し、この人たちは「ヘンテコステ」だなと思うわけです。ペンテコステの出来事を自分の常軌を逸した興奮状態と重ねて語りますから、やはり聖霊とは何かわかりません。

聖霊の働きとは一体どういうものか、はっきりとお話ししますので、覚えておいてください。聖霊の働きの第一は、パウロが、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ八章十六節)と言っていますように、人がイエス様の信実によって神の前に義とされたことを証ししてくださることにあります。「自分の力ではなく、神の恵みで神の子とされた」と言われてもどこか頼りなくどこにその確かさがあるのかと感じます。そんなとき、聖霊によってわたしたちは「はっきり救いを自覚する」ことができます。上からの力による自覚、救いの覚醒がおこるのです。第二は、聖霊は、わたしどもの日常生活をお導きになります。ガラテヤ五章十六節以下に、「霊の導きに従って歩みなさい。・・・霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。聖霊の導きに従って歩むと、豊かな実を結び、肉の欲望に負けません。聖霊は一歩一歩冷静に、決して無駄な興奮状態に陥れることなく、わたしたちの歩みを進ませ実を結ばせてくださいます。現実に働かれる神の力です。そして第三は、これが少し分かり難いのですが、歴史の終わりに必ず来る終末、神の裁き、神の国が完成する時に、この人はOKですよ、義なる者ですとスタンプを押してくださいます。救いの確かさを人に確信させ、一時ではなく毎日を共に過ごし、そして終わりの時にこの人は神の子なのだと保証してくださるのです。この三点が聖霊の主な働きです。

時々誤解されますが、聖霊の働きは人を興奮状態にすることではありません。若いころわたしはこの点にひどく引っ掛かりました。「聖霊に満たされている」と聞いても、その実感がないものですから、見てわかる、感じられる、興奮状態になることを聖霊体験だと勘違いしてしまったからです。しかしそうではありません。聖霊は人をクールにし、神の御業を語り、しっかりと歩ませてくださるのです。五旬祭に起こった聖霊降臨の事実は、わたしたちにはっきりと感じられなくても、その後もずっと、いまもわたしたち一人ひとりに起こっています。

クリスマスには、神がわたしたちと共におられるのだ、神の御子がこの世界に来てくださった、インマヌエルと知らされます。わたしたちは神の御子と共に歩むのです。イースターには、イエス様の十字架とお甦りによってわたしたちの罪が赦された、イエス様の信実によって救われるのだと知ります。そして、今ペンテコステの出来事を通して、わたしたちは終わりの時に聖霊によって証していただくのだと知ります。この人はキリストの仲間だというスタンプを押していただくのです。これが分かれば怖いものはないでしょう。三点セットになっています。クリスマスは祝うけれどイースターは軽く済ませ、ペンテコステには何もしないというのは時々見かけますが、まともな教会のすることではありません。キリスト教の三つの祝祭は、そういうわけで人の救いのすべてを表しています。

わたしたちは、たとえ体が動かなくても声にならない声で賛美を歌えます。病床にも必ずイエス・キリストの霊が共にあるからです。この喜びは誰も奪うことができません。わたしたちはそれを証しすることができます。そういう仲間を大勢見てきました。たとえ小さな群れであっても、恐れることはありません。この後すぐペトロが言っております。十七節をご覧ください。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(十七節)。安心していいのです。わたしたちは聖霊に満たされています。まだ見ぬ先の事にびくびくすることはありません。老人も夢を見ることができるのです。わたしたちの希望を、神の偉大な御業を語ろうではありませんか。

祈ります。

父なる神、わたしたちそれぞれに分かる言葉で話しかけ、あなたのもとに招いてくださっていることを感謝します。わたしたちが招きに応え、あなたに心からの賛美と感謝の祈りを献げることができますよう導いてください。またどうかわたしたちを聖霊で満たし、今度はわたしたちが家族や隣人にあなたの偉大な業を語っていくことができますよう支えてください。皆があなたの霊に満たされ、共にあなたの希望に向かって歩んでいける日が来ますように。聖霊よ、来てください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

6月9日の音声

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