復活節説教 2018

2018年5月13日 復活節第7主日
「天の国のたとえ」
マタイによる福音書13章44-52節

 

これまで繰り返し、繰り返し天の国とは何々の様だと聞いてまいりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」と弟子たちにはその説明もされました。今週も「天の国のたとえ」が続きます。これらは天の国を理解し、実を結ぶようにとの弟子たちへの語りかけであると同時に、今のわたしたちの教会への語りかけでもあります。

今日は三つのたとえを一度に聞きました。初めの二つは説明が要らないくらい明快です。とても価値あるものを見つけて、それを自分のものにするために、今持っているものをすべて売って手に入れます。最初のたとえはこうです。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(四十四節)。ある人、おそらく雇われ農夫ですが、畑に隠されていた宝を見つけます。畑も宝も、その発見した人のものではありません。雇われ人は、見つけたことを誰にも言わずそのまま黙って、他人に見つからないように埋め直します。そして、そして喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってお金を作り、その畑を買います。まず見つけるという幸運に出合わなければなりませんが、もし見つけたら、誰にも言わずそのまま隠しておいて、自分の持っているすべてを投入してその畑を買うのです。行為そのものが正当であるか道徳的であるかは問題にされていません。見つけた宝をなんとしても手に入れるのです。天の国は測り知れない価値あるものなのです。

次もほとんど同じような話です。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(四十五節)。当時、真珠はインドから輸入されていましたが、高価な物の代表として取り上げられる、とても貴重なものでした。ここでいう商人とは、自分で旅行し、時に海を渡り、多くの品物を商う大商人を指します。この人が良い真珠を一つ見つけました。二度と巡り会うことができないような真珠です。あちらこちらを旅して探しに探して見つけたのでしょう。昔のことですから思い通りに旅ができるとは限りません。長い間、港で足止めを食うなど、商人には困難と忍耐がつきものです。その人がついにこれだという真珠と巡り会ったのです。すべての苦労が、この真珠との出会いのためであったように思えてきます。彼は持ち物をすっかり売り払ってその真珠を手に入れます。こうなると商売はもう終わりです。商人は商品を並べて売りますのに、もう売るものがない。いまやこの一つの真珠を持つだけですから商売は終わりのはずですが、失ったものなんて惜しくもなんともないどころか、この真珠のことを思ったら、もう嬉しくてたまりません、大喜びです。天の国はそういうものなのです。

一人の貧しかった小作人が幸運によって金持ちになります。あるいは、もともと金持ちだった商人が自分の努力と忍耐によってもっと金持ちになります。金持ちか貧乏人か、能力があるかないか、単に運がよかったのか、努力して探していたのか、そういうことに関係なく、ともかく見つけた価値の高いものを自分の物にするために、今持っている物すべて売り払って、価値あるものを自分のものにした、そういう話です。自分の所持品が無価値に見えるほどのものを発見すると、人はそれを入手するために、今持っているすべてを手放すことに躊躇しません。天の国はそういうものだとおっしゃいました。もし見つけたら何としてでも手に入れるべきもの、すべてを捨ててでも手にいれなさい。そうおっしゃったのでしょう。わたしどもは、どうもそんなに天の国に熱心ではありません。

この二つの話で共通しているのは、天の国は隠されているという事です。先週聞きました天の国のたとえでも、蒔かれた「からし種」は、土の中の目立たない小さな種ですし、「パン種」はパン生地に混ざった酵母ですから、やはりいずれも隠されたものでした。畑の中の宝や高価な真珠は、すぐ目の前にあるものではありません。とても価値あるものだけれども気づきにくい。「発見されるのを待っている何か」のようにも聞こえます。神の国、神の支配は、イエス・キリストを通して現わされました。隠されていたのです。人々はイエス様を十字架につけて殺してしまうことになりますが、それは神のご支配が見えていなかったからです。イエス様の示された神の国は、神の支配らしくなかったのです。見つけにくいものです。あるとき偶然見つけたり、うまく手に入れたりすると飛び上がって喜ぶ、天の国とは、そういうものだよとおっしゃいました。畑の中の宝が見いだされた、隠されていたものが見えるようになった、天の国はそういうものなのです。幸運にも気づくことができたのなら、何としてでも手に入れなければなりません。

では、どうしたら天の国は発見できるのでしょうか。ここではどこにあるかではなく、見つけたとき持ち物をすっかり売り払ってでも、それを買うというところに強調点があります。しかしどこでどうすればいいかについても、ヒントは与えられています。畑、種、鳥、パン種、真珠、網、魚などという言葉から、天の国はわたしたちの身近にあることがわかります。本当はイエス様をしっかり見て、よく聞くことです。本音を言えば「聖書をよく読んで、説教を聞いて悟りなさい」と言いたいのですが、それではあまりにも牧師らしいので、それにお前はできるのかと逆襲されそうですから、もう少し違う言い方をします。今日の小作人にしても真珠商人にしても、日常の自分の仕事、生活の中で宝を発見しています。掘り出すべき宝、つまり神のご支配、ご臨在を見つけ出すのは、わたしたちが今生活している「日常」の中なのです。特殊なところではありません。わたしたちの住む世界は、神が天の国の種を蒔いておられるところです。本当に手に入れるべきものは、目の前にあるはずです。

ところで、わたしたちが最も価値を置いているもの、どうしても手に入れるべきもの、失いたくないもの、それは天の国ではなく、命ではないでしょうか。わたしたちは生きることに召されています。どんなにお金があっても、誇りがあっても、実は命が一番大事だと思っています。命あっての物種です。しかし、命と同じように大切なもの、いや命以上に大切なものがあるのです。「命より大切なもの」を、イエス様は今日の聖書箇所において、畑に隠された宝に、また商人が追い求めている高価な真珠にたとえて教えてくださっています。それは「神の国に生きること」です。神の国での命です。単なる命ではなく、天の国での命なのです。何度も申し上げましたが、天の国は「死後の世界」ではありません。「天」というのは「神」の言い換えであり、国というのは場所のことではなくご支配のことですから、「天の国」は「神のご支配」です。神のご支配は畑に埋められた宝のようなもので、隠されていて見えません。でも近くにあって見つけることのできるものなのです。

だれでも皆、いろんな困難を抱えています。自分の人生に起こること、世界に起こること、そこに神のご支配など見えない気がします。むしろ、神がおられるならどうしてこんなことがと言わざるを得ないことがしばしば起こります。仮に取り上げて言うほどの困難がないとしても、人は歳を取っていきます。歳が増すごとにだんだんと能力を奪われて出来ないことが増えていきます。人は言います。「神も仏もあるものか」と。あるいはあきらめます。「みんなそうなんだから仕方がない。これが人生さ」。

しかし、そのような現実の中で、神がすべてを支配されていることを知るのです。そして、その神が自分を愛してくださっている、ご計画の中、愛の御手をもって導こうとしていてくださることを知るのです。かつて人々をモーセによって約束の地へと導かれたように、わたしたちを天の国に導き入れようとしてくださっていることを知るのです。これこそが何にも代えられない宝なのです。それを知った人は、導き手である神と共に生きたいと願い始めます。そのご愛の中に生きたい、神の支配の中にあることを喜んで生きようと願うようになります。恨んだり、嘆いたり、否定的に生きるのではなく、「命よりも大切なもの」に目を向けて生きていきたいと願います。その時、人は確かにこのたとえ話に登場する人のように、喜びに溢れて自信を持って持ち物を売り払って畑を買う人のように、生きていくことができるのです。それまでの持ち物は手元からすっかり無くなります。でも何よりも高価で測り知れないほど大事なものを受け取ることができます。神の支配の中に生きることができるのです。もう嬉しくて、楽しくて仕方がないでしょう。

迫害の時代のキリスト者は、文字通り自分の持ち物が奪われること、いや自分の命が奪われることさえありました。でも彼らは、それを「よし」としたのです。命を奪われるにしても逃げ場がないから、いやいや「よし」としたのではありません。むしろ、積極的に捧げて生きたのです。自分の命、持っているものすべてを捧げました。自分の時間、能力、お金、そして文字通り「命」を、天の国に生きるために、イエス様のために捧げて生きたのです。驚きですが、天の国に生きる値打ち、畑にある宝を知った、よい真珠を知った人々にとっては、どんなに犠牲を払ったとしても「こんなに犠牲を払っているぞ」という意識にはならなかったのです。宝を思いながら、真珠を思いながら、ワクワクしながら持ち物を売り払うようなものだったからです。嬉しかったのです。そのような人々が確かにいたのです。だからこそ、教会は生き残りました。そのような人々がいたからこそ、遠く離れた日本にも信仰が伝えられて教会が建ち、今のわたしたちが存在するのです。

そして最後の、三つ目のたとえが語れます。「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(四十七~五十節)。今度は、湖に投げ降ろされた網のたとえです。この世は麦だけでなく毒麦も一緒に生えている世界で、純粋ではありません。この世の悪によって、誰かの悪によって、正義が脅かされ不当に何かを奪われる時があります。そのような時、自分が神の支配の中にあることが見えなくなります。自分から何かを奪った「悪」の方にばかり意識が行って、「命よりも大切なもの」に思いが向かなくなり信じることが困難になります。怒りと憎しみに支配されてしまって、本当の意味で自分の命を使うべきところに使えなくなるのです。悪が存在するこの世の中にあって、本当にしなくてはならないことがあるはずなのに、それができなくなる。そのようなわたしたちに対して、「天の国は最後まで隠れたままで終わらない」とイエス様は教えてくださっているのです。懸命に魚を獲るとき、いろんな魚が網に入ってきます。でも悪い魚、食べられない魚は陸に上がると投げ捨てられます。最終的な裁きは神にお任せしなさいと語られているのです。天使がより分けてくれます。怒りや恨みによって命を費やしてはならないのです。必ず裁きがなされ、悪は遠ざけられます。人よりも神の方が悪への裁きに熱心です。だからわたしたちは、あれはダメ、これはダメという必要はありません。大切なことは宝を思うことです。そして、喜びに溢れながら、持ちものをすべて売ってでも手に入れればいいのです。本当に捧げるべきことのために命を捧げ、本当に用いるべきことのために命を使って生きるのです。

大切なことは、宝が隠されていることを知り、宝を見出すことです。価値ある真珠を見出すことです。人はいろんな道を旅して探してきました。会社での出世の道、科学研究で賞をとる道、哲学の道、芸術の道。親として、子としての道。でも畑に隠された宝は、ここに、目の前にあったのです。礼拝する生活の中にです。やっと巡り会えた真珠を思って生きる。「命より大切なもの」を思いながら生きる。神の御計画の中にあって、神の導きのもと、神の目的のために生きるのです。これがイエス様の教えてくださった信仰生活です。わたしたちの苦しみも神の手の外で起こっているのではありません。神のご支配の中に置かれているのです。神は、独り子をさえ惜しまず与えるほどに、この世を愛されました。神はわたしたちを愛し、救いの世界へと導いておられるのです。「隠されていて見えないかもしれないけれど、確かに宝はあるのだ」と教えてくださり、信仰の目をもって見出すことができるようにして下さっているのです。

続けてイエス様は、一つの問いかけをなさいました。「『あなたがたは、これらのことがみな分かったか。』弟子たちは、『分かりました』と言った。そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている』」(五十一、五十二節)。あなた方はこれらのことがみんな分かったかと、最後にイエス様は弟子たちにお聞きになったのです。「わかりました」、これが弟子たちの返事です。本当にわかったのかどうか、少しあやしい感じがしますが、イエス様は「そうか、わたしが話したたとえがみんな分かったのか。すばらしい、ではお前たちを学者と呼ぶことにしよう」とおっしゃいました。お前たちはもう宝を見つけたのだ、高価な真珠を見つけたのだ。天の国の専門家だね、学者の様だと、ユーモラスにおっしゃいました。そして、お前たち学者は、自分の蔵から、新しいものと古いものとを自由に取り出す一家の主人のようなものだと、付け加えられました。一家の主人は、お金、食糧、なんでも倉の中に持っていて、家族が必要なものを、その時々に応じて取り出す役目を持っています。ここで言われている「新しいもの」とは、イエス様の新しい教え、福音であり、「古いもの」とは、律法の教え、旧約聖書で預言者が語った救い主の到来、神の国の実現です。神が行われた創造から始まる壮大な出来事と、イエス様を通して教えられた天の国の秘密を、どちらの立場からもよく理解し、結びつけることは重要な役割だと諭されたのです。古いことの中に新しいことを発見し、新しいことの中によく知っていることを見出して結びつけるのです。教会はまさにそうしてきたのです。ユダヤ人にもギリシア人にも福音を語ってきました。

この一連のたとえを聞き終えたわたしたちは、どうすればいいのでしょうか。測り知れないほど高価で大事なものを、わたしたちは探し当てたのです。もちろん神が見つけさせてくださったのです。わたしたちはそれを何としてでも受け取らなくてはなりません。それを受け取れたとき、つまり神のご支配の中、祈りながら自分自身を献げて生きるとき、わたしたちはこれ以上ない大きな喜びに満たされるのです。わたしたちはイエス様の教えを聞いて理解できるようにされています。しっかり聞いて歩みましょう。裁きの日に、悪い魚とされないことを願いつつ。

祈ります。
父なる神、あなたのご支配の貴さ、その中に生きる何物にも代えがたい喜びを教えてくださり、ありがとうございます。この尊い恵みに応えて、生きていくことができますように。マラナ・タ教会を、ここに集う一人一人を天の国に生かしてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

5月13日の音声

 

 

2018年5月6日 復活節第6主日
「からし種のたとえ」
マタイによる福音書13章31-35節

わたしたちは神を信じております。少なくともそう思っております。ではわたしたちの信仰を人に分かり易く説明できるでしょうか。経験がおありでしょうが、実際にやってみると難しいですね。「なぜ、見えない神様を信じているのですか」。「信じたら、いったいどこがどう変わるのですか」。そんな風に聞かれることもあります。とても信仰深い敬虔な人のように答えてみたり、漠然と言ってみたり、いろいろ説明しますが、尋ねた人にピッタリくる返事はなかなかできません。わたしは若い時、「あなたは頭もそう悪くなさそうなのに、どうしてキリスト教なんかを信じられるのですか、復活ってどういう事ですか」と聞かれて困ったことがあります。うまく説明できなくて、「あんたに言うても分からんやろ、ほっといてくれ」と言いそうになったことを覚えております。

勿論、何度かそういうことを経験する内に、上手に答えれば、ある程度の説明ができそうだなと気付きます。「どんな困難な時でも神の祝福を感じられるのです」とか、「教会では、歳も背景も違ういろんな人と兄弟姉妹として生きることができて、とても恵まれています」とか、「復活も永遠の命も、誰も本当には分かってないのです、牧師もいろいろ説教しますがよくわかってないようですよ」とか。しかし、立ち止まってよく考えてみますと、イエス様が示そうとなさった天の国の本質をズバリと人が捉えることなどできるはずがないのです。神を言葉で規定できる人間はいません。聖なる事柄、神に属することを人間の言葉で正確に話すことはそもそも無理なのです。神の国は神秘です。

しかしそうは申しましても、教会の使命には、礼拝と交わりのほかに「伝道」の働きがあります。言葉での説明も必要です。そんなとき、わたしたちがよく知っている、理解できる日常の事柄に置き換えて話すことがあります。聖なるものを間接的に表現して、聞き手がそれを頭の中でうまく結びつけて、そうかと納得してくれることを期待して話すのです。「神を信じる、つまり悔い改める、ギリシア語のメタノエオーとは、本来帰るべき家に帰ることで、ヘブライ語ではシューブ、帰ることなのです」とはいつもわたしがする説明です。神を信じるとは、我が家に帰ることで、最も自然な、人として本来のあるべき姿だという具合です。牧師によっては、一度罪に死んで、再び生きることなのだと話されます。あるいは、恋人に出会うようなことで、理屈でなく神が恵みによって出会ってくださるのです、そして人生は出会いで決まりますとも言います。天の国に生きるとはどういうことか、はっきり言えなくても、何に似ているか、何々のようなものだと話しますと、聞いた方になんとなく伝わります。もうそれ以上は突っ込まず引き下がってくださることも多いでしょう。

ちょっと難しい表現ですがアナロギア、類比を用いると言います。一方が持っている性質をあげて、他方の持つ性質を類推させようとします。神の国の実体は、もしその有様を見られたらわかるのですが、直接には見えないので、神の国の性質を表す何かを取り上げて、その有様を見せるのです。そちらは目に見えるし、知っているものなので、そこから目に見えない神の国とはどういう存在なのかを間接的に示します。わたしたちが最近聞いた例では、彼女は月のような人だとか、わたしの好きな人は太陽のように輝く方だとか、というものがあります。表現は比喩、メタファーなのですが、太陽の姿から、恋人のある本質を表そうとしたわけです。聖書の表現なら、神はわが岩、わが砦などと申します。大きな岩が動かない、安定している、守ってくれる、そういう意味でしょう。わたしたちは実際には神は岩だとか砦だとは思っていませんが、聞いた時そう違和感がありませんね。もちろん、大きな岩を拝むのはおかしいです。しかし一方で、ちょっとぎょっとする、あるいはハッとする比喩を使うと、わたしたちは立ち止まり、考え込むことになります。どこが似ているのだろうか、どこまで深い関係があるのだろうかという具合です。日常の理解のあいまいさを突かれ、一から考え直すようなことが起こります。イエス様の話は、まさにそういうスタイルでした。

聖なるものと、ありふれた日常の物との意外な組み合わせでお話しになり、わたしたちの漠然とした理解に新しいページを切り拓いて、よく考えてみるように促されます。イエス様こそが、神のことを語ることのできるお方です。でも直截にではなく「イメージのわきやすいもの」を挙げてお話になります。わたしたちが続けて読んでおりますマタイによる福音書では、たとえをたくさん用いて話をなさっておられます。「天の国は、何々の様である」というたとえが何度も何度も出てまいります。種を蒔く人のたとえ、毒麦のたとえで「神の言葉、福音は異なった土地に蒔かれた種の様だ」、「天の国では畑に麦だけでなく毒麦もはえる」と語られ、先ほど朗読を聞きましたところでは、「天の国は、からし種の様だ」、あるいは「パン種の様だ」と語っておられます。次週学びます四十四節以下でも「畑に隠されている宝の様だ」、「高価な真珠を見つけた商人の様だ」と、いろんなたとえをお話になっておられます。「ある所に、畑の主人がいた、そして・・・」とか、「ある所に一人の王がいた、そしてね・・・」というわたしたちがよく知っておりますイエス様のゆっくりした話し方に比べますと、次々に話され、展開が早い気がします。いろいろなたとえから、大まかなイメージで神の国を感じなさいとおっしゃっているようにも思います。

イエス様は、別のたとえを持ち出しておっしゃいました。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(三十一、三十二節)。からし種といわれているのは、「黒からし」だと思われています。葉っぱを煮て食べたり、種を香辛料にしたり、また鳥のえさにもしたようです。その黒からしの種は直径が一ミリにも満たない小さなものですが、成長すると二、三メートルにも育ちます。最も大きな野菜に属します。小さな、小さな種が、最も大きな野菜になるのです。「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」とありますから、育つと木のように見えたのでしょう。また、鳥は種も食べますから、巣を作ったとしても不思議ではありません。

人がこれを取って畑に蒔けばと、たった一粒のからし種を蒔くように書かれていて、実際に種を蒔く方法としてはちょっとおかしいのですが、ここでは種の蒔き方や収穫時の取り入れ方については問題にされておりません。最も小さな種が最も大きな野菜に成長すること、つまり種と成長し木のように大きくなった野菜との違いに目を向けています。この話を最初に聞いた人々は、種を蒔く人や毒麦のたとえの後にこのたとえを聞いております。先のたとえと違って、ここでは悪い種が出てきません。始まりは本当に小さいけれども必ず大きな成長が約束されているのです。定められた時には神の国が成就してこの地上に満ちる、大きくなるという意味です。

旧約聖書には、大きな木に鳥が巣を作ることが、人が神のご支配の中に憩う事のメタファーとして出てきます。エゼキエル書の「大枝には空のすべての鳥が巣を作り、若枝の下では野のすべての獣が子を産み、多くの国民が皆、その木陰に住んだ」(エゼキエル三十一章六節)という表現や、ダニエル書の「その木は成長してたくましくなり、天に届くほどの高さになり、・・・その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作り」(ダニエル四章八、九節)等の表現があります。空の鳥は異邦人を含むすべての人です。イエス様と一緒に働いた弟子たちの伝道の業は、すべての異邦人を休ませるほどに大きく実を結ぶのです。これが天の国の力であり、天の国、神のご支配は確かに来ているのです。

「また、別のたとえをお話しになった。『天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる』」(三十一節)。パン種はパンを焼くときには、だれもが使っていましたから、珍しいものではありません。けれども三サトンの粉というのは、一サトンが約十三リットルですから、ほぼ三十九リットルにもなり、これは普通の量ではありません。想像するに一斤の食パンがおよそ百十個焼ける量です。この多くの量のパンは、サラに男の子が生まれることを告げるため三人の人がやって来たとき、アブラハムが急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい」(創世記十八章六節)という言葉を思い出させます。三セアは二十三リットルでこれもとても多くの量のパンです。パン種自体は、「主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない」(レビ記二章十一節a)とありますように、神殿での献げもののパンを作るときには除くものとの印象もありますが、ここではそういうことではなく、むしろ、小麦粉の中に混ぜ込まれたパン種が休むことなく小麦粉を発酵させて、大きくすることが注目されています。小さな種であるからし種が成長して大きな野菜となるように、ありふれたパン種が働いて、大量の粉からいっぱいパンができるということが言われています。福音が告げ知らされてはいても、まだまだ小さな弟子たちだけのグループが、やがて大きく発展していくことを暗示なさっているように思えます。

当時人々がよく知っていた表現では、先ほど引用しましたエゼキエル書にあるように、神の国は大きな木にたとえられます。樹上に鳥が巣を作り、木陰で獣が憩う、大きな木です。それが小さなからし種やパン種にたとえられたのですから、聞いた人は驚いたでしょう。しかし、初めに福音書を読んだ人々は、弟子たちの裏切りやイエス様の十字架を知っており、迫害を経験した人々です。大きな木ではなく、からし種のように小さな種が大きく育つこと、粉の中に練りこまれたパン種がパンを大きく膨らませることに、希望と慰めを見出したことでしょう。これはわたしたちにとっても大きな励ましです。

天の国にたとえられた、からし種、またパン種は、どちらも最初は大きくもないし、感動的なものでもありません。しかしパン種を小麦粉に混ぜると、大きく膨らんでパンとなります。天の国は驚くべきものであり、強い影響力を持つものだとわかります。みかけ以上のものなのです。イエス様の時代の人にとって、からしの種やパン酵母は身近なものだったでしょう。どこにでもある、誰でも知っているものです。どこか遠い国に探しに行くものではありません。それを土の上に蒔くか、小麦粉と混ぜれば大きくなるのです。わたしたちの身の回りのありふれたもの、庭先にころがっている球根とか、毎日変わらない朝ごはんとか、赤ちゃんの泣き声とか、変化のない、ともすれば退屈にさえ感じる日常生活の中に、実は天の国の秘密があるような気がします。イエス様は、神のご支配の及ぶところ、神の国は、どこか遠くにではなく、わたしたちの只中にある、日常性の中にこそ、聖なるものへの手がかりがある。種を蒔いて見たらどうだ、粉に混ぜてみたらどうだ、とおっしゃったのではないでしょうか。

「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる』」(三十四,三十五節)。たとえを用いて群衆に語られたイエス様は、この言葉で説教を締めくくられたのです。預言者を通して言われていたことが実現した、つまり旧約聖書で語られた神の言が成就したのです。イエス様は、天地創造の時から隠されていたこと、つまり今まで隠されてきた神のご計画、ついにメシアが来られたこと、今や目の前に天の国が来たことを、たとえによって明らかにされたのです。

今日聞きましたたとえは、説明を聞かなくても分かりますし、イエス様も、実はこういう意味だとはおっしゃっていません。でも、わざわざ、天の国は「からし種に似ている」とか、「パン種に似ている」のだとお話になったのは、当時のユダヤ人たちの期待していたメシア像や神の国の到来と、イエス様のおっしゃる神の国とが全く違う、むしろ対立するものだったからです。彼らは、メシア、救い主が劇的な形、例えば光輝く姿で現れ、ローマ帝国の支配を打ち砕き、エルサレム神殿を中心とした自分たちの王国が再建される、そう願っていたからです。からし種に似ているとは、そういうメシア像とは一致しません。実に小さな一つの種が、やがて鳥が休むほどの大きな木になる、とおっしゃいました。小さなものが大きくなる、イエス様の働き、ローマ帝国からすれば無に等しい働きが、やがて世界を変えるほどの神の御業の始まりだったことを示しています。しかし、注意すべきだと思うのですが、昔小さな集まりだった教会が、大きく育った、世界宗教になった、マラナ・タ教会もやがて大教会になるぞ、とは言えないのです。先日、大阪教区総会がありました。わたしたちこそ神の国というには、あまりにも不一致が多いし、みじめなことが多すぎます。信仰告白を唱えるだけで紛糾するあり様です。またどの教会を見ても鳥が巣を作るほどの大きな教会ではありません。マラナ・タ教会は河北地区では一番小さな教会の一つですが、全国的に見れば平均的な大きさです。もっと小さな教会がたくさんあります。もちろん教会は会員の数と予算規模では測れません。しかしこのままでは、かなりの数の教会が消えてなくなることが予想されます。ですから牧師の心の中には不安があります。こんな働きで、こんな教会で神に許してもらえるのだろうかと。

でも、思います。教会の将来を憂い、不安を抱くのは謙遜ではなく罪ではないかと。天の国の何たるかを分かっていないからではないかと。わたしたちは神のご支配の中にいるのです。恐れることはないのです。たった二十人の教会であっても、そこには見えない神の霊、神の息が働いています。小さな教会にも働く神の力です。もしわたしたちが粉であって、神の酵母が、パン種が働いているなら心配いりません。わたしたちが神の霊に生かされているかどうか、つまり息をしているかどうかだけが問われます。神の霊は息です。息をしていないと窒息して滅びますが、息をしていれば大丈夫です。マラナ・タ教会は礼拝し、賛美し、祈ります。聖書を学び続けています。平和の挨拶をし、誕生日を祝います。音楽活動、旧約聖書の学び、神学カフェやKDK神学会などを通して人を教会に招きます。共に歩み続けようとしております。それは、活動そのものが目的なのではなく、教会は神の救いを提供する場だからです。ここにこそ神の救いがあるからです。それを伝える責任があるからです。どんなに周りに高い壁があっても上を見上げることはできるのです。

誰もが、家族、親戚、仕事、健康、将来のこと、何かに不安をお持ちでしょう。でも、神のご支配の中、神の霊は見えなくても確かに働いております。上を見て深呼吸をしましょう。神の息を吸うのです。すると霊が働きます。人に救いをもたらす霊です。皆さんに主の平和がありますように。

祈ります。
父なる神、わたしたちに天の国に生きることの希望と慰めを教えてくださっていることを感謝します。見えないイースト菌が、粉を膨らませ、おいしいパンを作るように、マラナ・タ教会を、日本の教会を、あなたの聖霊で発酵させてください。良き香りを放ち、いい味のするパンとして、この世に神のすばらしさを伝えるものとしてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月6日の音声

 

2018年4月29日 復活節第5主日
「毒麦と生きる」
マタイによる福音書13章24-43節

 

マタイによる福音書を続けて読んでおりますが、十三章からは天の国の奥義を伝える「たとえ」が語られています。イエス様は最初から天の国が来たと伝道を始められ、天の国に生きるというのが、マタイによる福音書の最重要テーマです。これまで三週にわたって、「種を蒔く人のたとえ」、「たとえを用いて話す理由」、「たとえの説明」を聞きました。今日聞きました御言葉も、途中に「からし種」と「パン種」のたとえが挟まれておりますけれども、「毒麦のたとえ」が語られ、「たとえを用いて語る理由」があり、次いで「毒麦のたとえの説明」が続いておりまして、全く同じような形が繰り返されております。また、畑、種、蒔くという言葉が、やはりキーワードとして出てきます。先程二十四節以下四十三節まで少し長い朗読を聞きましたが、途中に出てきました「からし種とパン種のたとえ」は次週に回し、今日は「毒麦のたとえ」と「その説明」から説教いたします。

ではまず、群衆に語られた「たとえ」そのものを聞きましょう。「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた』」(二十四~二十六節)。先週までの説教で、イエス様は四種類の土地に蒔かれた種の話をなさって、良い土地に落ちた種は豊かに実を結ぶのだとおっしゃいました。ところが良い種を蒔いたのに、夜中に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行ったと言われるのです。誰も気づかなかったのでしょう、麦の芽が出て、いよいよ実がなってみると、なんと毒麦の実も現れたのです。天の国では毒麦なんか生えないだろうと思っていたら、天の国でも毒麦が生えるのです。良い土地に蒔かれた種は百倍もの実を結び、実のならないようなところでも種が蒔かれるのが天の国です。それにも関わらずせっかくの良い土地にも、人々が眠っている間に、敵がやってきて、毒麦の種を蒔いたとおっしゃったのです。

「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』」(二十七~三十八節)。前のたとえでは種を蒔いていたのは農夫でしたが、今度は僕を抱える主人です、僕たちに「だんなさま」と呼ばれています。僕は言います。「だんなさま、良い種をお蒔きになったのに、どこから毒麦が入ったのでしょう」。雑草が生えてくるのはよくあることで、どこから来たかなど普通は尋ねません。しかしその質問に、主人は知っていたのでしょうか、悪い敵の仕業だと断定します。そこで僕たちは「では毒麦を抜き集めましょうか」と尋ねます。それに対して主人は、「いや毒麦を集めるとき、根が絡んでいて良いほうの麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない。刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時に、まず毒麦を集め焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れるよう、刈り取る者に言いつけよう」と答えます。

このたとえも、すごく不思議な話です。敵は何のために毒麦の種を蒔くのでしょう。敵は単純な敵ではありませんね。巧妙なやり方です。ただの敵なら夜中に来て、麦を焼き払ってしまうか、実っているなら刈り取って盗んでいくのではないでしょうか。その方が簡単です。敵と訳されているのは、憎むべきもの、サタンです。サタンは巧みに判らないように忍び込んできます。武装した軍隊でもないし、黒い尻尾の生えたおとぎ話的悪魔でもありません。いるとは思えないように振舞うのがサタンです。麦を蒔くところに毒麦を蒔く。神と同じことをするのです。ルターが面白いことを言っております。神が教会を立てられると、悪魔はチャペルを立てる。教会もチャペルも同じです。区別がつかないのです。ここで言われている「毒麦」とは「ネズミ麦」とか「カラス麦」と呼ばれるものではないかと思われますが、小麦の仲間で生育条件が似ていますから、小麦と一緒に生えることがあります。しかし、その実は毒性が強くて食べられません。その小さくて黒い毒麦がたくさん入ってしまったパンを食べると、失明しますし、ひどい場合は死に至ることもあったようです。ここでは、僕たちは芽が出て実ってから主人に尋ねていますが、実際には実ってからでなくても、成長する過程で葉の形の違いなどから区別ができ、毒麦を早くから根こそぎ抜くことができます。その方が一般的な農法だったと思われます。ところが、この話では実がなるまで放っておかれていますし、僕たちが「では毒麦を抜き集めましょうか」と言っても、麦が一緒に抜かれてしまうかもしれないからと、両方とも育つままにするように主人は言っています。また、刈入れの仕方も、実際の農夫なら食べられる方の良い麦をまず刈り取り、残った毒麦を燃やしたはずですが、ここで主人が命じる方法は逆で、まず毒麦それから麦と順番が異なります。麦と毒麦が混在している状態や、刈り入の方法は普通ではありません。刈り入れるのも「刈り取る者」で僕たちではなく、どうしてなのかなと首を傾げます。

この「たとえ」も、ほかのたとえと同様に、おもしろく話されていますが、イメージがわくようでいて、本当に意味していることが隠されています。神秘なのです。教会学校で聞く、分かり易い話とは異なるようです。十三章のたとえはルカやマルコにも出てきますが、この毒麦のたとえだけはマタイ特有の話です。

僕が主人のところに行ったとき、麦と毒麦は混在しています。神の国に国境はありませんし入国審査もないので短期滞在ならだれでも入国できます。教会は実を結ぶ者も結ばない者も、いろいろな人が混ざっています。実を結ぶ者からすれば、実のならない者はダメな信者です。しかし、実を結ぶ側に、毒麦が入っていたらどうでしょうか。弟子たちも、このたとえには戸惑ったようです。イエス様は弟子たちに、あなた方は幸いだ、見る目を持っている、 幸いだ、聞く耳をもっている。群衆とは違う、天の国が分かるはずだとおっしゃいました。弟子たちは、自分たちは天の国においてよい畑であると思っていたはずです。実らない道端や石地ではないし、茨の地でもないと。ところが良い土地であるはずの畑に毒麦が生えるのです。イエス様は、毒麦かどうか、早く決めつけてしまわないようにと警告なさいました。天の国はやってきましたが、まだ完成はしていません。麦は最後に実ってみないと、毒麦かどうかわからないのです。毒麦のように見えても、本当は麦の実がなるのかもしれません。教会の中にいる色々な人は、どんな人でも変わりうるのです。イエス様は、刈り入れまでじっくり待つようにとおっしゃいました。洗礼者ヨハネが「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(三章十二節)と言っていたように、刈り入れの時、定められた時が来たら、選別されるのだからとおっしゃるのです。

自分たちのどこかに毒麦が生えている、しかもそれは敵が蒔いていったのだと聞いた弟子たちは穏やかではなかったでしょう。イエス様が群衆を離れて家に入られると、そばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを、わたしたちに分かるように教えてください」と意味を尋ねたのです。

「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、『畑の毒麦のたとえを説明してください』と言った。イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい』」(三十六~四十三節)。

イエス様は弟子たちにお教えになります。イエス様ご自身が良い種を蒔く人で、畑は世界。良い種から生まれる麦は天の国の子らで、毒麦は悪魔の子ら。毒麦の種をこっそり蒔いていった敵は悪魔、刈入れは世の終わりであり、刈り入れる者は天使だと。そのように説明なさってから、世の終わりには毒麦が集められて焼かれるように、悪い 者の子らは滅ぼされる、とおっしゃいました。僕はもう出てきません。また、たとえで出てきた、麦と毒麦のどちらに育つか待つようにというようなことには触れられていません。そうではなく「審判」について語られていて、たとえとその説明では強調点が違います。これはマタイのいた教会の現実がおそらく反映されております。

人々が歯ぎしりすることになる燃え盛る炉の話(十三章五十節)がこの後すぐに出てきますが、その話をはじめ、「羊と山羊」が分けられる話(二十五章)、「愚かな乙女と賢い乙女」(同章)の運命の違い、そして今日の「麦と毒麦」が分けられる話など、マタイによる福音書は、裁きについて生き生きと語っております。どれもたとえで語られていますが、ものごとの白黒、良し悪し、神に忠実か不忠実か、祝福されるか呪われるか、明快に二つに分ける語り方がされています。このことからマタイの教会が危機に直面していたことがわかります。裁きはクリシスというのですが、この言葉がもとになって、英語でもドイツ語でも、危機を意味する言葉ができております。クライシス、クリーゼです。つまりマタイの教会は、危機的な状況にあって、何か決断をせねばならない、モノをきっちり分ける、区別する、裁く必要があったのではないかと推察できます。迫害の中、信仰に留まるのか、信仰を捨てるのかが問われたのです。

群衆に向けて語られた「たとえ」とは違って、弟子たちにだけ語られたこの「たとえの説明」では、分けられる前のあいまいな話はなく、内部の者と外部の者、聞く耳のある者とない者が、明快に分けられております。今の世には毒麦があるけれども忍耐しなさい、最後には神が毒麦をすべて燃やされる。本当に天の国に属していない者がみな滅ぼされる一方で、良き正しい者たちは天の父の国で太陽のように輝くとちょっと大げさにおっしゃるのです。区別することが前面に出ています。終末の神の裁きが明確に語られております。正しい者のは自分で正しさを獲得した者ではなく、神から正しさを与えられた者です。これは当時の教会の人には大きな慰めだったのではないでしょうか。内部からも裏切り者が出るような厳しい迫害の中にあって、最後は正しい者が残り輝くという強い励ましなのです。

今の日本には、マタイの時代と違って、殺されるかもしれないというような大きな迫害はありません。しかし、天の国はまだ完成途上にあり、現在のわたしたちの世界にも毒麦と麦は存在します。しかも毒麦と麦は分けられない形で存在していて、世界の人、教会の人を、毒麦と麦に分けることはできません。はっきりとは分けられないので、少なくても自分はよい麦であろうとします。信仰を勧めるときも、イエス様の十字架と復活を信じ、悔い改めて信仰を持って生き生きと生きましょうとは言いますが、天の国に生きなさいとは言いません。福音書に何度も何度も出てくる天の国、神の国という表現が、わたしたちにはあまり出て来ないのです。天の国に生きる、兄弟姉妹と共に御国の子として生き、共同体を作るという意識が薄いのです。「天の国に生きなさい」とはっきり言われると、教会に属するかどうかとなって、個人の悔い改めと救いの確信という大事なことがぼやけてしまいそうに感じてしまいます。わたしたちは、ともすると信仰が個人的な覚悟や信念になりがちなのです。そこで「義」という言葉が繰り返し出てくるのです。信仰による義です。わたしは神の前に義であるだろうか、つまり神の前に自分が正しくあるかどうか、この正しさを気にします。毒麦にならないようにしようと。確かに信仰は神の前に自分が立つ、極めて個人的なものですが、それだけではありません。個人のものですが、共同体のものでもあるのです。天の国に共に生きることも大事、両方とも大事なのです。そこがはっきりしないところに、日本の教会の弱さがあるのではないでしょうか。イエス様は「天の国に生きる」ことを教えられたのです。天の国に生きて初めて信仰の姿勢が問われます。

現在の教会は、迫害はなくても、やはりいろいろな危機にさらされています。その教会に対し、聖書はイエス様の御言葉を聞き、教えに従い、その教えを広め、いつか父の御国で太陽のように輝く人々の共同体となっていくようにと語りかけてきます。「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」とおっしゃっています。今はマタイの時代とは違います。しかし、イエス様がアラム語で弟子たちに向かって語られたこの話は、同時にわたしたちのために語られた祝福の言葉です。わたしたちにも語り掛けてきます。わたしたちは麦として成長できるのです。弟子たちは家の中に入ってイエス様の説明を聞くことができました。わたしたちも弟子として、イエス様の御言葉を聞き続けることが許されているのです。見る目と聞く耳が与えられています。毒麦のことは気にしなくていいのです。麦として成長できれば、収穫の時、黒い毒麦は自然と区別がつきます。人の子イエス様が、刈り入れる天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませられます。その時、麦は神の国で太陽のように輝くのです。

「耳のある者のは聞きなさい」とおっしゃいました。よく聞きましょう。

祈ります。

父なる神、わたしたちがイエス様の教えを聞き続けることを許され、麦として成長できるよう見守ってくださっていることを感謝します。イエス様に従って共に歩み、あなたの御国で太陽のように輝くことができますよう支え導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

4月29日の音声

2018年4月22日 復活節第4主日
「たとえを悟れ」
マタイによる福音書13章18-23節

 

先々週、「種を蒔く人のたとえ」を聞きました。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」。イエス様はたとえを用いてこのようにお話になりました。種が蒔かれた土地の違いによる収穫の差ではなく、種を蒔く人に焦点を当て、天の国、神のご支配があるところでは、種を蒔く人は効率が悪くても結果が出なくても飽くことなく、豊かな収穫を期待して種を蒔いているのだと、わたしたちはそんな風に、このたとえの意味を考えました。

それからイエス様は弟子たちの質問に答え、たとえを用いて語られる理由をお話になった後、「幸いだ、あなたがたの目は。見ているから。幸いだ、あなたがたの耳は。聞いているから」と、「見ている目」と「聞いている耳」を持っている、幸いだと祝福されました。天の国が理解できる。そして「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」という言葉に続けて、話し出されたのが今日の御言葉、種を蒔く人のたとえのイエス様による説明です。

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」(十八節)とイエス様は再び種を蒔く人のたとえを取り上げられました。「だから」というのは、弟子たちが見る目と聞く耳を持っている、つまり神の国が来たことを悟ることができる、「だから」聞きなさいということです。日本語では書かれておりませんが、あなたがたは、という単語がまず先頭に出てきます。あなたがたは群衆とは違う、わたしの弟子なのだからしっかり聞きなさいと話し始められたのです。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」(十九節)。「悟らなければ」とは、理解し自分のものとして会得するのでなければ、ということです。ただ信じるというのではなく、よく悟ってしっかり身につけなければ、「悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」のです。悪い者、サタンです。悪魔と言ってもいいのですが、心の中に蒔かれた御言葉、「イエス様がメシア、救い主として来られた、さあ悔い改めて神の国に生きよう」という認識を奪い取ります。取り上げてしまうのです。人のうちに福音が根付かないようにサタンも必死です。多くの人たちがイエス様の説教を聞きましたが、心の中にまで入りません。その人の歩みに全く関係しないまま、虚しく消えていきます。道端は踏み固められて草も生えないところですから、蒔かれた種は、全く芽を出すことなく鳥に食べられてしまいます。ここでは、種蒔きの蒔く種とは、御国の言葉、聞く人に神の国がどういうものであるか分からせる言葉、つまり福音です。しかし、ここから先は少し変わります。「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」というように使われます。少し後の三十八節に「良い種は御国の子ら」と説明されていますけれども、種蒔きの蒔く種は、人間とりわけ御言葉を聴く人を指しています。

「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」(二十、二十一節)。石だらけの所、石地とは、岩の上にわずかな土がかぶさった土地を意味します。この石だらけの土地でたとえられている人々は、少なくとも初めのうちは、神の国の福音を受け入れます。道端で暗示された人々とは違います。しかし根を深く張っていないので、しばらくは受け入れるのですが、一時的ですから、艱難や迫害があると、すぐにつまずいてしまいます。艱難とは困難にあって苦しみ悩むこと、今の場合は人から憎まれることです。迫害は肉体的苦痛を伴うのはもちろん社会から締めだされます。これを聞くと「いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編一篇一~三節)のように、賢者は小川のほとりにしっかりと根を張っている木、神の存在を認めない者や疑う者は根がなく直ぐ枯れる木、というなじみあるたとえが思い浮かびます。身に沁み込んでないとすぐにつまずきます。迫害など経験したくありませんが、迫害は、福音がその人の表面だけにしかないのか、身に沁み込んでいるかの試金石となります。石だらけの所に蒔かれた種は、芽生え、少しは成長しても、実をもたらすことはできません。

「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」(二十二節)。聖書では茨は災いを表します。「世」アイオーンは、その時代を指します。神の国に対する今の世、邪悪な世という意味でしょう。世の思い煩いや富については、イエス様は山上の説教でまず富について、続けて思い煩いについて語っておられました(六章十九~三十四節)。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉や、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という言葉を思い出します。とはいっても、住むところ、子供、将来、お金、人間関係、健康、こういったことで心が一つに定まらないということはよく起こります。思い煩いは、生きていく中でどうしても出てきます。富も同じことの延長にあるのでしょう。富は人を幸福にするかのようですが、実際には、人を欺くことも多いですね。誘惑が多くなります。富は巧妙に人をじわじわ神から引き離すのです。こうなるとイエス様の教えは、実を結ばない状態になります。信仰が窒息します。酸欠になって動かなくなる。御言葉を「覆いふさぐ」のです。この場合もやはり、種が芽生え、最初は成長しても、実をもたらすことはできません。

ところが、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(二十三節)。今までの三つの場合はすべて、実を結ぶことができませんでしたが、四番目のものは、良い土地に蒔かれ、多くの実を結びます。それは御言葉を聞いて悟る人だとおっしゃいました。「聞いて」も「悟る」も、現在分詞でじっくり聞いて、悟り続けるという意味です。一回だけではありません。イエス様は弟子たちに教え続けられます。「聞いて悟る」という表現は福音書によく出てきます。実を結ぶは、「実を服のように着る、保つ」という表現で、まさによく実がなっている状態です。百倍にも実を結ぶ人も、三十倍の実を結ぶ人もいます。差はあるけれども、御言葉を聞いて悟る人は豊かに実を結ぶと教えられました。ここで重要なことは多くの実を結ぶことであって、その量の差ではありません。

さて、わたしたちは、マタイによる福音書十三章の種蒔きのたとえについて、三回に亘って詳しく読んでまいりました。若い時から親しんできた、子供でも分かる物語といってよい「たとえ」です。イエス様が種蒔きとして、神の国の言葉、福音という良い種を蒔き続けておられる。その良い種が百倍もの豊かな実を結ぶ、神のご支配とはそういうものだ。でも、残念なことに、せっかく福音の種が蒔かれても、道端や石地や茨の中に種が落ちることもある。それはまあ仕方がない。あなた方はよい土地でありなさい。道端であってはなりません。わたしがこれまでに聞いてきた教会学校や礼拝の説教では、そんな風に説かれることが多かったように思います。しかし、それがイエス様のおっしゃったことでしょうか。どうしても道徳的に聞こえてしまうのです。道端でなく良い土地になりなさい。たくさん身を結びなさいと。もう少し考えてみる必要がありそうです。

イエス様は、「天の国が来た、悔い改めて福音を信じなさい」と伝道を開始なさいました。神のご支配が来たのだ、わたしがその国の王、メシアである、そこでは神の赦しが与えられているのだ、とそうおっしゃいました。でも、それが分かった人はわずかでした。わたしたちはどうでしょうか。教会はキリストの体であり、教会の中にこそ、神のご支配が行き届きます。ですから教会の中に天の国の救いがあります。教会の外に出てしまうと救いはない、と今から千八百年近く前の教会の指導者、カルタゴの司教キュプリアーヌスも言っております。でも神の国はまだ完成はしておりません。既に来たと言われる神の国が完成するのは世の終わりの時です。教会の言葉では、神の国がまことに実現するのは「終末的希望」です。既に来たけれども未だ完成はしていない。神の国の現実を前味としては味わっているのだけれども、本当には味わってない。そういう完全ではない世界です。芽を出さない信仰、一時は信じたけれども、やがてつまずいてなくなる信仰、世の思い煩いや富の誘惑にのみ込まれてしまう信仰、色々あります。一方で、しっかりと実を結ぶ信仰もあるのです。混在しています。

ただ環境や生活のためだけで実を結べないとは限りません。マタイによる福音書が書かれたときはすでに迫害もありました。迫害がおこると、ほとんどすべての人が信仰を放棄します。放棄しないと殺されるからです。ところが一握りの人は、地下に潜ってでも信仰を守ります。数年もしないうちに迫害は収まりました。そうするとまた教会に帰って来る人がでてきます。皆さんが迫害されても残った方にいたとするなら、帰ってきた人をどうなさいますか。そんないったん信仰を捨てながら又のこのこ来るなんて勝手な人は受け入れないという人もいるでしょう。いや悔い改めるなら受け入れようという人もいるでしょう。迫害に負けないで戦い抜いた英雄的信徒がいて、信仰を捨てた家族のために、赦してやってくれと丁寧に頼んだらどうでしょう。仕方がないとなるでしょう。一方、家族にそんな英雄がいない人はどうでしょうか。教会は、棄教、変節、妥協の中で何とか危機を乗り越え信仰を守り抜いてきました。

こういう歴史的現実と照らし合わせますと、このたとえは分かり易いようでいて簡単ではありません。他者を批判して、あの人は道端だ、石地だと言ってはいけないのだとしたら、「いいですよ、いいですよ、なにも気にせずどうぞ教会にいらっしゃい」となるのでしょうか。「いやー、あの時は迫害があったから仕方ないよね。ここは開かれた教会です、過去は過去です。そのうち、あなたも百倍の実を結ぶでしょう。楽しんでください」。これでいいのでしょうか。

教会は実を結ぶ者も結ばない者も、いろいろな人が混ざっています。実を結ぶ者からすれば、実のならない者はダメな信者です。しかし、迫害や富の誘惑に負け実を結べないことは無益なことでしょうか。実を結ぶことだけが肯定されているのでしょうか。弱い人はどうなるのでしょう。わたしたちは、いや、わたしは一体どこに入るのでしょう。石地じゃないのかなと不安になります。しかし、わたしたちはイエス様に信頼を置くことしかできないのです。イエス様は弟子たちに向かって、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなた方が実を結び、その実が残るようにと」 (ヨハネ十五章十六節より)、また「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二十八章二十節)とおっしゃってくださっています。ここが大切です。究極のところ、わたしたちにとって大事なのは選んでくださったイエス様に感謝し、神の御愛の中に留まることです。神の方を向くことです。

教会の中にいろんな人が混在しているのは事実です。その教会を神が導かれています。皆変わり得るのです。しかし、教会として歩んでいくとき、指導者がすべて「なあなあ」で適当に済ましてしまうことは許されません。しっかりと正しい判断をなすことが大事です。日本の教会は過去の失敗に目を閉ざしてきました。第二次世界大戦にも、それ以前の戦争にも協力しました。その責任は誰もとっておりません。土台に揺らぎがあっては真直ぐに歩めません。これからはそうであってはなりません。いま、どこの教会も危機的状況にあります。信徒が減り続けております。マラナ・タも例外ではありません。危機的状況では特に、牧師ははっきりと教会の進むべき方向を定めて、実現可能なことから取り組まねばなりません。危機だ、危機だというだけでは解決にならないのです。わたしたちは礼拝に集中し、歌い、平和の挨拶をします。聖書を読み、説教に真剣に取り組んでいます。この姿勢をはっきりと示し続けることが大事です。マラナ・タ教会はここに土地を買い、この礼拝堂を建て、墓地を買い、今の牧師館を買いました。教会の形を整えました。お金があったから買ったのではありません。なかったのですが御心と信じて決断しました。今年は四十周年記念事業に取り組みます。会堂は既に建設から二十四年経ち、屋内外に傷みが出てきています。やがて大規模な改修が必要になるでしょう。何をするにもお金が要ります。お金は決して天から降っては来ませんから簡単ではありません。しかし、その時々に祈り決断する、その他に道はないのです。なんとかごまかしてやり過ごそうとしたこれまでの失敗を繰り返してはならないのです。

教会は、天の国、神のご支配の及ぶところですが、理想郷ではありません。実に様々な人たちが混じっております。教会は、教会の決定機関による公式の承認があれば、ある条件を満たせば、いかなる人をも受け入れてきました。この混じりあっている現実の中で、イエス様は働き続けておられるのです。純粋なものではなく、混じり気のあるものの中に恵みがありました。しかし一方で、むつかしい重要な決断をあいまいにしていると、教会は、いつか茨に覆われるでしょう。イエス様はおっしゃいました、「耳のあるものは聞きなさい」と。

祈ります。
父なる神、わたしたちに見る目と聞く耳を与えてくださっていることを感謝します。どうかその目と耳を使って御言葉を悟ることができますよう、そして誘惑や艱難に負けずに良い実を結ぶことができますようわたしたちを守り支えてください。いつも共にいてくださり、あなたに従って歩んでいけますことを、ありがとうございます。どうか悟れない状態にあるときも、あなたの御愛の内にあれますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

4月22日の音声

 

2018年4月15日 復活節第3主日
「たとえの秘密」
マタイによる福音書13章10-17節

 

先週からマタイによる福音書の十三章に入っております。十一章からずっとイエス様につまずいた人の話でしたが、十三章は少し横に逸れて、「種を蒔く人」や「からし種」、「パン種」に「毒麦」と色々な「たとえ」が語られています。先週も申し上げましたように、マタイ福音書の十三章と二十一章中頃から二十二章中頃には、「たとえ」、「パラボレー」という言葉が集中して出てきますが、これを旧約聖書にまで遡りますと格言、隠喩、寓話、諺、広くは謎も意味します。分かりにくいものの傍に分かり易いものを置いて理解を助けるのですが、一筋縄でいかないものも多く、かえって謎が深まってしまうこともあります。イエス様は、分かる人には分かるけれども、分からない人には分からないように語っておられます。

先週聴きました「種を蒔く人」のたとえも、目に浮かぶように生き生きと話されていますが、よく聞いていないと、種がまかれる土地の方に注意が行ってしまって、種をまく人が忍耐して、しかし楽しそうに種を蒔いている姿が見えにくくなっておりました。イエス様が本当におっしゃりたいことがつかみにくくなっております。

「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜあの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか』と言った」(十節)と今日の御言葉は始まりました。船の中から岸の群衆に向かって話しておられます。漁師であった弟子たちが舟を操っています。イエス様が大勢の群衆に、天の国について「たとえ」でお話になったのを真横で聞いていました。弟子たちは首を傾げたようです。もっと分かり易くストレートにお話になればいいのに、なぜ「たとえ」を用いてお話になるのだろう。種を蒔く人の意味がよく分からないと、せっかく天の国の秘密をお話になっても「謎」のままではないのか。そんなふうに思ったのでしょう。イエス様はこの後、十八節以下で弟子たちに「たとえ」の意味を解説なさっていますから、このとき弟子たちもイエス様のおっしゃりたいことを本当に分かっていたかどうか疑問ですが、弟子たちは「どういう意味か」という内容ではなく、「なぜ群衆にたとえを用いてお話しになるか」とその理由を尋ねました。

「イエスはお答えになった。『あなたがたには、天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである』」(十一節)。弟子である「あなたがた」と、群衆である「あの人たち」とがはっきりと対比されています。天の国の秘密を悟ることができる人とできない人、二つのグループに分かれているのです。天の国の秘密とは、イエス様が救い主、メシアであるという事実と、メシアがやって来られた以上、すでに神の国が実現しつつあるという現実に加え、イエス様がたとえでお教えになるすべても含まれています。その神の国での様々な特徴が、弟子たちには悟ることが許されている、つまり神が弟子たちには悟る力を与えて下さっているのに対して、群衆には与えられていないとおっしゃるのです。これを聞きますと十一章でイエス様がお話になった言葉を思い出します。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。・・・すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(十一章二十五、二十七節)という言葉です。しかしなぜ、このように二つのグループができてしまうのでしょう。

イエス様は先程の答えに続けてこういわれました。「というのも、持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるからである」(十二節)と。この表現は、おそらく当時みんなが知っていた格言です。だいぶ先になりますが、二十五章のタラントンのたとえにも「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(二十九節)と同じ言葉が出てきます。わたしたちの祈祷会では、先週ちょうど箴言九章を読みましたが、そこにも同じような言い回しがありました。「知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す」。前後をよく読みますと、知恵ある者はますます知恵を増し、知恵のないものは、その少ない知恵も消えていくということです。こういう御言葉を聞きますと、襟を正さざるを得ません。わたしだけでなく、牧師はだれもが、講壇から説教するのではなく、会衆席に座ってイエス様の説教を聞く方がいいのではないかと思います。

弟子たちは神の国がどういうものであるか理解する糸口を与えられています。イエス様の教えを受け継ぐ者として、天の国の秘密を悟ることが許されています。神の国に生きることができ、豊かに祝福を受けることができるのです。そして、神の国に生き祝福を受ける者は、ますます豊かに祝福を受けます。しかしその一方で、天の国の秘密を悟ることが許されていない人々は、神の国に生きることができず、結果として最初与えられた祝福まで失ってしまいます。イエス様は、持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるとおっしゃいました。この話を聞いているのは、神の民として生きてきたユダヤ人です。神との契約を持つ民です。祝福の基として生きてきたはずの人々です。その神に選ばれ祝福されてきたユダヤ人に対し、メシアが来られた今、そのメシアによって伝えられる天の国の中にしっかり入らないと、その特権をも失うことになるとおっしゃったのです。神の選びを失うことがあるかもしれないと。二十一章で同じことが言われています。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(二十一章四十三節)。ですからこの言葉は、わたしたちキリスト者に向かっておっしゃっていると受け取るべきです。わたしたちは悟っている側、あの人たちは悟ることができない側だという読み方はできないのです。キリスト者なら大丈夫だけれども、ノンクリスチャンはだめというような単純な解釈は成り立ちません。

「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」(十三節)。ここでイエス様はもう一度、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」という弟子たちの質問に答えられます。群衆が、イエス様をメシアだと理解していないので、そのような人には「たとえで話す」とおっしゃるのですが、ちょっと不思議です。よく分からないようだから分かるようにはっきり話すというのなら判りますし、どうせ理解できないのだから話さないというのも肯けますが、イエス様は分からない人には、何とか悟らせようと、「だから」誤解を恐れず「たとえ」を用いて話すのだと説明なさいました。

イエス様がメシアであり、イエス様の登場とともに「天の国」が来たことについては、十分なしるしが行われました。特に病の癒しは顕著でした。みんな見たのです。イエス様の話も聞きました。ところが大勢の人がイエス様につまずきました。わからないのです。バプテスマのヨハネも、カファルナウムの人も、家族の者もそうです。そんな群衆が、ただ病の癒しを求めて押しかけてきました。そのような人々だけではなく、安息日に人を癒されたことから、イエス様をあからさまに掟を破る者、神に逆らう者だとして殺そうと相談したファリサイ派の人々のように、イエス様を拒否し、敵対する人も中にはいたのです。イエス様はたとえで話されるしかなかったのでしょう。神の国なんてよくわからないよ、ただ病気を治してほしいのですという人に、種蒔きはこんな風に種を蒔くだろう。天の国とはそういうものだ、よく考えてごらんと、本当に大切なことをもう一度考え直せとおっしゃったのかもしれません。

しかし、イエス様は「イザヤの預言は、彼らによって実現した」(十四節)とおっしゃって、こう続けられました。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない」(十四、十五節)。イザヤは、大昔の預言者です。このイエス様の言葉はイザヤ書六章からの引用です。このように書かれています。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために」(イザヤ六章九、十節)。これはイザヤが召命を受けたときの言葉です。神が預言者を遣わされたのは救いのためであるはずなのに、なんという不条理でしょうか、「悔い改めていやされることのないため」に民の心を頑なにするようにと神はイザヤに命じておられます。その結果人々は神に立ち帰ることなく、国は滅び、人々は故郷を失いました。イザヤの言ったことが今になって初めて実現したというのではなく、大昔イザヤの時代に人々がしたことが、イエス様を拒否した人々によってイエス様の時代にも繰り返された、結局イザヤの語ったことがもう一度起こったとイエス様はおっしゃったのです。イエス様の説教を聞き、イエス様の奇跡を見た人が、イエス様を信じませんでした。なんという矛盾でしょうか。残念ながら人間のこういうかたくなさは、イザヤの時代もイエス様の時代も変わりません。現在もそうです。教会に来ていながらキリストに出会わない人が多いのです。なんという
残念なことでしょうか。心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまったのでしょうか。何度か申し上げましたが、「もしイエス様に直に出会えたら、きっと信じます。けれどもあなたのような牧師や信徒の言うことでは信じられません」と言う方がおられました。でもこれは嘘ですね。現実にイエス様に出会った人の多くが、イエス様が誰であるかを悟ることができず信じなかったのです。わたしは他人の言うことは簡単には信じませんよという気持ちを、そうおっしゃったのでしょうが、皆さんがたとえイエス様にお会いになっても、それがイエス様だとはわからないはずです。なにしろ生前のイエス様を知らないのですから。ですから、今はイエス様を見て信じることはできません。わたしたちがしっかり礼拝して、賛美している姿、信仰を受け継いだ者としての証を見せるしかありませんし、イエス様については聞いて信じるほかないのです。

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(十六、十七節)。ここでイエス様はお話になる調子をぐっと変えて、弟子たちに「あなた方の目は幸いだ、あなたがたの耳は幸いだ」と祝福されます。山上の説教の様です。見ている、聞いているとおっしゃいました。見ることそして聞くことは、理解することの第一歩です。理解する基礎です。今は理解できなくても理解できるようになるのです。弟子たちはイエス様のことがわかる目と耳を持っていると祝福の言葉を聞いたのです。なんと幸いなことでしょうか。

こういう御言葉を聞きますと、わたしは見るべきものを本当に見ているだろうか、聞くべきことを聞いているだろうかと思わされます。群衆が初めのうちは忠実にイエス様の話を聞いていたことを思うと、いったい自分は群衆と弟子、二つのグループのどちらに入るのだろう、確かに弟子の方に入っているのだろうかと考えてしまいます。「見ても見ず、聞いても聞かず」という状態ではないのかと不安になります。しかし、わたしたちは確かに目と耳を与えられているのです。わたしたちも持っているはずなのです。それは洗礼という目に見える恵みを通して、わたしたちに与えられています。わたしたちは確かに「幸いだ、あなた方の目は」という主のことばを聞いたのです。そして、教会を通して、聖書を通して、はっきりとイエス様のことを知ることができるところに置かれています。今はまだはっきりと天の国の秘密を悟れていないにしても、神に与えられた、見ることができる目と聞くことができる耳で、イエス様が与えてくださっているものをしっかりと受け取り、理解できるのです。わたしたちはイエス様に従っていくことができる幸いの中に入れられています。

イエス様はこの世に来て下さり、神との交わりを回復してくださいました。わたしたちは御復活の主と共に生きることが許されています。天の国は近づいたのです。救い主の到来をかつて預言した預言者も正しい信仰の人も、残念なことに見ることができなかった、聞けなかったことを、今わたしたちははっきり見ております。聞いております。ペトロは、手紙の中でこう言って教会の人を励ましました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています」(ペトロの手紙一、一章八節)。わたしたちはキリストを愛して生きられるのです。素晴らしい喜びに満ち溢れています。

祈ります。
父なる神、わたしたちに天の国がどういうものであるかを示してくださり、必要なものを見、必要なことを聞くことができるよう、目と耳を開いてくださっていると信じ感謝します。どうかわたしたちがその恵みに応えて天の国の秘密を悟り、悔い改めて、あなたの御愛の中を感謝して生きていけますよう支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン

 

4月15日の音声

2018年4月8日 復活節第2主日
「種蒔きのたとえ」
マタイによる福音書13章1-9節

 

棕櫚の主日、ご復活日と二週続けて、マタイによる福音書連続講解説教の順番から外れて聖書が読まれましたが、元に戻ります。今日から十三章に入ります。十一章から十四章まで、マタイはずっとイエス様につまずいた人を紹介するのですが、十三章は少し横に逸れて「たとえ」がたくさん語られます。五月の末までペンテコステを挟んで七回連続で、「たとえ話」が説教されます。「種を蒔く人」や「からし種」、「パン種」に「毒麦」と色々なたとえが出てきますが、すべてが「天の国」についてのたとえです。イエス様が「天の国が来た」とおっしゃった、イエス様を王とする天の御国の秘密を解き明かしておられます。天とは神というのをおもんばかって避けたいいかた、国は王国、王の支配する所です。神のご支配とはどういうものであるか、どんなことが実現するのか、その本質を明らかになさっているのです。身近でわかり易いたとえが使われていて、なるほど、神のご支配とはそういうものなのかと、その姿が目に見えるように語られているのですが、立ち止まってふっと考えますと、何かが隠されているような、えっ、どういう意味だろうかと考えさせられる中身になっております。見えるように話されているようでいて見えないようにも話されております。不思議な話し方です。今日の話も、種蒔く人は貴重な種をこんなに無駄に道の上や石地にも蒔くのかなと思わされます。

マタイの十三章と二十一章中頃から二十二章中頃には、「たとえ」、ギリシア語では「パラボレー」という言葉が集中して出てきます。この言葉をヘブライ語に遡ると「マーシャール」という言葉になりますが、これは格言、隠喩、寓話、諺の他、謎も意味します。「パラは傍に、ボレーは置く」という意味で、分かりにくいものの傍に分かり易いものを置いて理解を助けるのですが、一筋縄でいかないものもあります。ここでも、天の国についてたとえを使って想像力が働くように生き生きと日常的な言葉で話されていて、傍に置かれた「たとえ」のおかげで意味合いは豊かになってはいますが、かえってなぞかけのように少し分かりにくくなっている面もあります。イエス様は、分かる人には分かるけれども、分からない人には分からないように、神の国の奥義を語っておられます。誰が聞いているかわかりません。悪意のある人に、「あの男は神の教えに背いている」と訴えられたら、捕らえられる危険性もあったでしょう。でも種蒔きやパンの話をしているのなら、そんな心配は要りません。聞きました「たとえ」は、わたしたちもよく知っている話ですが、しっかり耳を澄ませて聞きたいと思います。主は一捻りして話しておられるからです。

「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた」(一、二節)。その日とは、新しい話が始まるときの言い方ですが、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と弟子たちがイエス様の家族であることを示された、前の場面との繋がりにもなっています。家を出て、湖のほとりに座っておられるイエス様のもとへ大勢の群衆が押し寄せてきます。群衆はそれだけで大勢の人ですから、「大勢の群衆」とありますので、ものすごく大勢の人が押し寄せてきたのでしょう。病人に触れていただくため、直接話を聞くため、あるいは、お姿を見るためでしょうか。あまりにも大勢の人が押し寄せてきたので、適当な場所がなかったのでしょう、イエス様は船に乗って、少し沖へ出られました。イエス様の主だった弟子は漁師です。船はお手の物です。湖の上からですと程よい距離を置いて岸の大勢の群衆に向かって話ができます。少し揺れる船の上から、風に乗ってイエス様のお声が響きます。当時のラビは座って話します。聞き手は立っております。今とは逆ですね。

「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」(三節a)。イエス様は、群衆に向かって語り始められます。神の国のイメージを、麦やパンのような身近なものにたとえて話されます。最初に話されたのは、「種を蒔く人のたとえ」です。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(三b~八節)。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。そうイエス様は語り始められますが、その土地がどんな土地なのか、それがどんな季節の話なのか、気象条件はどうだったのかなど、農作業を行うのに重要なことは何も語られず、今お話になろうとしていることの核心だけが語られます。蒔かれた種がいろいろな土地に落ちますが、それぞれ特徴があったというのです。道端、石だらけの所、茨の間、良い土地と、四種類の異なった土地が出てきます。そして種は落ちた場所によって、鳥に食べられたり、芽が出てもすぐに枯れたり、茨に邪魔されて芽が出なかったりもしますが、良い土地では百倍、六十倍、三十倍にも実を結んだとおっしゃいました。なるほど、落ちた土地によって結果が違うのです。

この話は「種を蒔く人」よりも、種の落ちる「異なった土地」に焦点が当たっているように見えます。けれどもこの話はもう何百年も「異なった土地のたとえ」ではなく、「種を蒔く人のたとえ」として聞かれてきました。土地の状態にとらわれず、貴重な種をケチらず、どこにでも気前よく種をばらまくこの農夫に注目しているのです。この農夫の種蒔きの仕方は、良し悪しを簡単に決めずに、しかもあまり効果的でないようにも思えます。けれども種袋に手を入れながら、必ず豊かに実を結ぶと信じてあらゆるところに種を蒔く。そんな気前の良い種蒔く人の姿が思い浮かびます。ここに天の国の秘密があります。

当時の種蒔きは、わたしたちの知っている農業とはものすごく違います。種は今よりもずっと貴重なものでしたが、その蒔き方は、今の時代からするといい加減でした。耕して畝を作ってから種を蒔くわけではありません。人が種をつかんで畑の上に適当にばらまきながら歩いたり、あるいは穴のあいた種袋をロバに背負わせて種をバラバラとこぼしながら歩かせたりするのです。そして表面を少し耕して種を薄く土で覆います。そんなばらまき農法です。当然道の上にも落ちることがあります。道の上では種が土で覆われることもなく、結果として鳥の餌になってしまいます。また、日本では水を引かずに農業をするなんて信じられないことですが、当時のパレスチナでは灌漑をしませんから、雨期になるまでは種は地中の水分だけで育たねばなりません。したがって石地に落ちた種は、芽は出るのですがすぐに干乾びてしまいます。ばらまかれた種は茨の根が残っている所にも落ちるでしょう。すると茨の方が生命力に優るので先に延びて麦は芽が出せません。これが当時の「種蒔き」です。

「種蒔きをする」とはどういうことでしょう。まず、そこには「無駄な苦労」があります。種を蒔くというよりも「ばらまく」のですから、種もずいぶん無駄になります。鳥に食べられてしまう。枯れてしまう。実を結ばない。そういうことが多くあります。無駄になる種と無駄に見える苦労があるのです。せっかく蒔いても実らない。農夫はそれを知っています。種蒔きならば当たり前のことでしたから、「ああ、損した、無駄だった」などと愚痴は言わないのです。同時に「種蒔き」は、結果がでるまでに時間がかかります。種が蒔かれてすぐに芽を出すとかえって怪しいのです。「土が浅いのですぐ芽を出した」だけかもしれません。するとやがて枯れてしまう。きちんと土がかかったものが芽を出すのには時間がかかります。ましてや実りを見るにはさらに時間がかかります。ですから農夫は忍耐強く待ちます。それもまた「種蒔き」ならば当たり前の話です。

わたしたちはこのたとえ話を聞きますと、どうしても無駄になった種の方に目が行って、もったいないと思ってしまうのですが、実は大事な点はそこにはないのです。イエス様が本当におっしゃりたいことは最後にあります。「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(八節)。「種蒔き」は収穫を期待して行うものなのです。収穫を信じて行うものです。確かに無駄はあります。時間もかかります。しかし必ず実りを見る、そう信じて種を蒔くのです。苦労があるからこそ、そこには大きな喜びもある。良い土地に落ちると豊かに実を結ぶのです。わたしは、この種蒔く人は真剣ではあるけれども、笑っているようにも思えます。楽しんでいる。鳥を追い払い、茨を引き抜き、苦労はしていますが、必ず実るものがあると知っているので、楽天的に「まあいいではないか」と、どんどん種を蒔いているのです。無駄に見えることに囚われない。時間がかかることに苛つかない。ひたすら収穫を信じて喜びながら種を蒔くのです。神の国では、そこがどんな土地かということ以上に、主が豊かに蒔いてくださるのだと、おっしゃっています。わたしたちは主の気前良さではなく、自分たちの信仰、土地の良し悪しに目が向きます。すると自分は道端だと不必要に落ち込んでみたり、ついあいつは石ころだらけだと他人を批判したりします。でも種を蒔く人に注目すれば、見えるものがガラリと変わります。

ある本にアメリカのバプテスト教会の牧師の話が書いてありました。この先生は二十五年間牧会しました。毎週四回、年間で二百回、全部で五千回の説教をし、四百人の葬儀を執り行い、また二百組の結婚式を司式したそうです。二十五年たって一区切りついたので、どんな説教がよかったか、今後どうしてほしいかとみんなにアンケートをしました。アメリカ人らしく、サービス精神があります。その結果分かったのですが、なんと教会の人は誰一人、一言も説教の言葉を覚えていなかったのです。ああなんという無駄をしたか、実を結べなかったと感じたこの人は牧師を辞めて、すぐ結果が出てみんなに喜んでもらえるテレビと自転車の修理工になりました。この牧師が、今日聞いたたとえを理解しておれば、そんなことはしなかったのではないかと思いますが、寂しいですね。当然、人は結果を気にします。わたしたちもこの牧師同様に結果が気になります。何かをすれば、その効果を期待しますし、うまくいかないと原因をはっきりさせたいと思います。わたしはしっかり種を蒔いているのだけれども、ここは石地でダメ、あそこは道端でダメ。そう言って批判します。逆もあります。どうせわたしは道端だ、いばらの土地なので、うまくいかないのだと言うのです。でも、もしこの種蒔く人がイエス様だとしたら、どうでしょう。相手のせいにしたり、自分を責めたりしなくてもよくなります。神の国では、イエス様はどんなに無駄や苦労が多くても、種を蒔かれるのです。天の国は種蒔きに似ているとおっしゃるのです。

イエス様は四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石地、一つは茨の中、そして最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実は四つの異なった場所について語っておられるのではなく、一つの畑の話をしておられます。道端というのは、人が何度も通って踏み固められた畑の中に出来た道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑の中です。パレスチナの地理を学びますと、もともと石がとても多いようです。その石を一生懸命取り除きます。それが石垣の材料となったりもします。しかし、石を全部取り除くことは到底出来ません。かなり残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。 また畑には「茨」もつきものです。深い所に根をはっています。先にも申しましたように灌漑は行いませんから深く耕すこともしないのです。深く掘れば水分が蒸発してしまうからです。それゆえに深いところにある茨の根は残ります。それが麦と一緒に延びてくることは、いくらでもあったようです。道端も石地も茨の地も良い地も別の場所に離れてあるのではなくて、一つの畑の中の話なのです。ですから道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年も生えるとは限りません。どれも手を入れれば良い土地となる畑の一部なのです。蒔かれた種が百倍、六十倍、三十倍という大いなる実りをもたらす、そのような畑になり得る土地なのです。種を蒔く人はいつも収穫を信じて種を蒔きます。ですからわたしたちが、道端だ、石地だ、茨の土地だなどと決めつけてはなりません。どんな素晴らしいことがそこから起こってくるか分からないのです。

農夫の蒔く種のすべてが実るわけではなく、種の多くは無駄になります。しかし、それでもなお豊かな実りが期待されているのです。「耳のある者は聞きなさい」(九節)。「今の時代の人々」、つまり洗礼者ヨハネ、ファリサイ派、ご自分の家族、ガリラヤの人々がイエス様につまずいていった中で、イエス様はこうおっしゃいました。聞いて悟りなさいと。主に栄光がありますように。

祈ります。
父なる神、神の国では、たとえ無駄があっても、すぐに結果が出なくても、いつか必ず何十倍もの実を結ぶことを知りました。あなたの働きに目を開かれ、希望を持つことができたことを感謝します。わたしたちのこの世界にあなたの御国が来ますように。御心が天においてなるように地でもなりますように。国と力と栄えとは限りなくあなたのものだからです。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

4月8日の音声

2018年4月1日 復活日 イースター

「イエス復活する」

マタイによる福音書28章1-10節

おはようございます。主のご復活をみんなで共に祝いましょう。桜が満開を過ぎようとする春爛漫のとき、明るく暖かいイースターを迎えました。今「おはようございます」と申しました。普段説教をあいさつで始めることは、あまりありませんので、おやっ、いつもと違うなと思われた方がおられるかもしれませんが、それは、今日が主のご復活日であり、今聴きましたように、復活なさったイエス様が、その日の朝最初におっしゃった言葉が、「おはよう」だったからです。

この「おはよう」は、前の訳では「安かれ」、「平安あれ」と訳されていましたが、元の言葉は特に宗教的な言葉ではなく、「いらっしゃい」とか「こんにちは」といった感じの、ごく普通の挨拶の言葉です。朝ですと「おはよう」です。しかしそれにしても、「やぁ、おはよう」という挨拶は意外です。イエス様のご復活という、まさに天地もひっくり返るような重大なことが起こったのです。主の復活は教会にとってはもっとも大切な出来事です。人間の経験の外にある人間の理解を超えることですが、大きな喜びです。もう少し厳粛な響きを持つ言葉を期待する場面です。にもかかわらず、イエス様のお言葉は非常に素朴な、ある意味で生活の匂いのする言葉だったのです。この「おはよう、カイレテ」は不思議な響きではありますが、わたしは好きです。

マタイ福音書が書かれた時代には、ユダヤ社会とローマ帝国両方からキリスト者への迫害がありました。加えて、生まれたばかりの教会には絶えず論争があり混乱がありました。「死からの復活」とはいったい何であるのかと様々な形で論じられてきた跡を新約聖書の中に見ることができます。そのような厳しい迫害と混乱の中で、復活の主の「おはよう」という素朴な挨拶の言葉をこのマタイ福音書から聞いたのです。教会の教えとは特別な人だけが理解できる思想、哲学、あるいは高度な精神性ではありませんし、限られた人だけが経験できるような神秘についての言葉でもありません。身近な出来事の中で泣いたり笑ったりしている、その当たり前の日常の生活をしているわたしたちに対する主の「おはよう」、「こんにちは」という呼びかけを含むものなのです。「難しいことはさておいて、一緒に主の復活を喜ぼうではないか」、そんな呼び掛けが聞こえてくる気がします。

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」(一~三節)。イエス様が十字架にかけられた金曜日の翌日の安息日が終わりました。安息日とは金曜日の夜から土曜日の夕方までです。安息日が終わると、土曜の夜から新しい週が始まります。週の初めの日の明け方に、とありますから、日曜日の明け方になります。マグダラのマリアともう一人のマリアがまだ暗いうちから墓を見に行きました。墓に葬られたイエス様のもとに向かったのです。ただ墓を見に来たとあるだけで、なぜという理由は書かれていませんが、なくなった先生に彼女たちが出来ることは、ご遺体に香料を塗ることぐらいです。無力感に打ちのめされていたでしょうが、婦人たちは、せめて出来ることをと墓に向かったのでしょう。マルコをはじめ他の福音書には香料を持って行ったと説明があります。当時の墓は岩に掘られた横穴式の墓で、入口を大きな石で塞いでいますから、墓の入り口の石を誰に動かしてもらおうかと相談したでしょう。すると大きな地震がおこりました。この地震は神の介入を思わせます。墓の入り口の大きな石がずれて、そこに主の天使が座っていました。主の天使が石をわきへ転がし、その上に座ったと書かれております。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい』」(四~六節)。天使に言われたので、二人のマリアは当然遺体のあったと思われる場所を見たでしょう。そこにイエス様のお体はありませんでした。墓は空だったのです。

わたしたちは、主の復活によって人間を闇の内に閉じこめていた死の支配に風穴が開いたことを知っております。最初からそう教えられてきました。しかしこの出来事は、二人のマリアの喜びと希望にはまだなっておりません。彼女たちの見ている不思議な光景は、ただ恐怖をもたらしているだけです。稲妻のように輝き、真っ白な衣の天使の姿もそうしょうが、何よりも、神の力が現された場所に直接立ったときの恐れがあったでしょう。そこで天使はまず「恐れるな」と言いました。そしてイエス様のご復活を伝えます。知らされたのは単に墓が開かれた、そして空になったことではありません。主イエスが「お甦りになった」ことなのです。「あの方はここにはおられない」。天使のこの言葉は、イエス様がもはや「死」の内におられないことを告げているのです。「死者の中から復活なさった」のだと語っております。復活なさったと訳されていますが、「起き上がらせられた」と受け身で書かれています。神が、わたしたちために犠牲となってくださったイエス様を受け入れられ、復活させられたのです。十字架につけられたイエス様はもはや死の中におられず、死の外に立っておられる、そのことが告げ知らされました。

「『それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(七、八節)。神の力にふれたことに恐ろしさを抱きながらも、もう一度イエス様に会うことができるという喜びでいっぱいになった二人のマリアは、このことを弟子たちに告げようと急いで墓を出て弟子たちのいるところに帰って行きます。

「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(九、十節)。急いでいる婦人たちの前にイエス様がお立ちになりました。復活されたイエス様が出会ってくださったのです。「おはよう」と言って。婦人たちは、ものすごくびっくりしたでしょう。一目でイエス様と分かったのでしょうか。イエス様の復活は、時間の中で現実に起こったのです。心の中で起こったのではありません。「ひれ伏した」という表現はマタイによる福音書に十三回も繰り返されています。最初は、幼子イエスを訪ねて東方から来た占星術の学者たちが赤子のイエス様の前にひれ伏します。最後に出てくるのは二十八章十七節で、弟子たちが主の前にひれ伏します。この言葉はただびっくりして体を曲げてひれ伏したという行為だけではなく、礼拝したことをも意味します。二人のマリアも、死をうち破り死の外に立つ救い主の前でひれ伏し、礼拝する者として描かれているのです。

もう一つどうしても心に留めたいことは、ガリラヤで会うことになると七、十節で二回繰り返されていることです。一度は天使が婦人たちに「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と弟子たちに伝えるように言い、確かに伝えましたよ、分かりましたかと念を押しております。そして、もう一度はイエス様ご自身が「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、同じ指示をマリアたちにおっしゃっています。なぜガリラヤで会うことになるのでしょうか。そしてなぜ、わざわざ天使とイエス様が二重におっしゃるほど、それは重要なことなのでしょうか。ここはこの福音書の急所です。

少し前に弟子たちの姿について「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(二十六章五十六節)と、十字架につけられたイエス様をずっと見守っていた婦人たちの姿と対照的に描かれております。「見捨てて逃げた」とは厳しい言葉です。しかし、今やそのような弟子たちにも、イエス様ご復活の事実が伝えられます。「ガリラヤに行きなさい。復活したキリスト(救い主)はそこで待っておられる。そこであなたたちは主にお目にかかれるのだ」という言葉が伝えられるのです。ガリラヤは、弟子たちが最初にイエス様にお会いした場所です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の言葉を耳にした場所です。呼びかけに応じてイエス様に従い始めた、彼らの原点の場所です。そこで主が待っておられるのです。「お前ら、よくも裏切ったな。ついてくるとここで昔誓っただろう、それがなんてざまだ」と言われたら、どうしようもありません。怖いですね。しかし、そのガリラヤで主は待っていてくださるのです。そこからもう一度イエス様に従いなおし、主と共に生きることができるのです。悔い改めて再出発できるのです。主の憐れみです。

単に「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っておられるのは死者の中から復活されたイエス様なのです。彼らは復活した救い主キリストに新たに従い始めるのです。つまり全く新しいことが始まるのです。繰り返しではありません。一回目は失敗でした。主を見捨てた弟子たちは一度死んだも同然です。けれども、新しい命を与えられた者として、もう一度イエス様に従い始めることができるのです。そのような彼らを主はこれまでのように「弟子」とは呼ばれません。「兄弟」と呼ばれるのです。これが「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」と語られたことの真意です。悔い改めて再出発しよう、それができる、させてあげようという恵みの言葉です。

さて、わたしたちは今、教会において復活祭を祝っています。教会のカレンダーがそうなっているから、毎年春の行事として復活を祝っているのではありません。弟子たちと同様に、「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」というイエス様の言葉を聞いているのです。たとえ重大な失敗をしたとしてもやり直せます。わたしたちも罪の赦しにあずかり、新しく生まれた者としてキリストと共に生きることができるのです。もう一度イエス様と共に生き始める、それが、主のご復活を祝うということです。ここまで生きてきて、色々なことがありました。うまくいったり、いかなかったり。今甲子園で高校野球が行われていますが、あの戦いはよく最後に大逆転が起こります。ドラマですね。わたしたちの人生の戦いには、相手にいやな控え選手がいて、その嫌な選手が、ある時突然出てきます。その控え選手が出てくると、どんなに大量リードしていても、ノーヒットノーランで来ていても負けてしまいます。その控え選手とは「死」です。ちょっと調子が悪いので健康診断に行ったら、ある病名を告げられて、それで人生が一変するということがあります。どんなに素晴らしい仕事をしていても、いい家族がいても、最後に敵方にこの選手が出てくるとすべては終わります。でもわたしたちの側に、死に勝てる決定的な選手がいればどうでしょう。その選手は、いつも試合に出ていなくても、ベンチにいるだけで心強く、最後には必ず勝利をもたらしてくれます。それは、イエス様が示された復活の力です。この力があれば、わたしたちは決して死に負けることはないのです。わたしたちは負けません。「生きている、しかしいつか死ぬ」のではなく、「必ず死ぬ、しかし命がある」なのです。これは単に「死と命」を逆にしたレトリックではありません。イエス・キリストにおいて、実際に起こったことです。

あの日曜日に起こったことが、この日曜日にも起こります。死をうち破られた方と共にあるわたしたちは、もはや死の闇の中に閉ざされてはおりません。生活の重荷はなくならないかも知れません。人生の苦闘は続くかもしれません。悲しみに打ちひしがれることもあるでしょう。病気にもなるでしょう。しかし、キリストと共にあるならば、わたしたちは死の闇に閉ざされてはおりません。生きることに命の光が差し込みます。ぽっかり開いた死の口に、天からの風が吹き込みます。そこにわたしたちの喜びがあります。希望があります。わたしたちは何も特別な人間である必要はありません。ごく当たり前の日常を営む人間として、主の復活を喜んで生きるよう招かれております。今日はイースターです。主の御声が聞こえます、「おはよう」と。さあ大いに喜びましょう。主は死より甦られました。死をもって死を滅ぼし、墓にあるものに命をくださったのです。キリスト復活、まさに復活。ハレルーヤ。

祈ります。

父なる神、あなたはわたしたちのために犠牲となってくださったイエス様を受け入れ、復活させられました。神の国が、平和の国がすでに来ました。ご復活のイエス様が弟子たちにもう一度ついて来るようにガリラヤに招かれたように、わたしたちをも招いてくださっていることを感謝します。どうかわたしたちが、この恵みをしっかり受け取り、主のご復活を皆で一緒に喜び祝い、また新たに歩んでいくことが出来ますよう支え導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン

 

4月1日の音声

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