復活節説教

2017年5月28日 復活節第7主日

「神の報い」
マタイによる福音書6章1~4節

マタイによる福音書五章から始まる「山上の説教」の言葉をずっと聞いております。よく知られた有名な言葉が出て来ました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」(四章十七節)と宣べ伝え始められたイエス様は、説教の始めに、天の国、つまり神のご支配の中に生きるあなたがたは、幸いだ、幸いだと八回も繰り返しておっしゃいました。特にその最後八番目には、神との正しい関係、義、に生きようとして迫害される人々は、幸いなのだと強く励まされました。何があっても神の御前に正しく生きなさいという教えです。そしてその神との関係の正しさ、義において、律法学者や、ファリサイ派にまさっていなければ、決して天の国には入れないのだ(五章二十節)とまでおっしゃったのです。実際にどう生きるかについては、腹を立ててはならない、みだらな思いで他人の妻を見てはならない、誓ってはならないと、畳み掛けるように諭されて、最後に「天の父の子となるために、敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」と、教えられました。何々と言われているが、実はそうではなく、こうなのだと対立する形で旧約聖書の言葉や伝承をぐっと深めて完成するという形で語られました。聞いた人には忘れることができない、びっくりするような全く新しい、しかし権威ある教えでした。教会外でもよく引用される山上の説教ですが、外せないポイント、すべてに共通していた大切な点は、天の国で義に生きる、神との正しい関係に生きるということです。

そして今日から六章です。「見てもらおうとして、人の前で善行(義)をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(一節)と始まりました。ここで「善行」とあるのは義です。この後、今聞きました、貧しいものへの施しについて語られ、さらに続けて祈りについて、断食についてと、具体的な良き業についての注目すべき大切な指摘が語られていきます。「施し」と「祈り」と「断食」、この三つはユダヤ人が重んじていた代表的な「善行」です。イエス様は、この三つの伝統的な良き業について、それを行うことは当然であるけれども、行うときの態度について「偽善者たちのようにしてはならない。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたの善行を人目につかせないようにしなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたがたの父が報いてくださる」とおっしゃいました。ここで語られていることもすべて、これから後、キリストに従っていく弟子たちの義、神の御前に正しく生きることに関しての具体的な話です。義であることを強調なさっております。義を意味するギリシア語「ディカイオシュネー」は、ヘブル語では、「ツェダカー」ですが、「神との関係が正しいこと」と、「その正しい関係の中での行い」、この二つの意味があります。関係性と行為です。ここで「善行」と訳されています言葉は、義と同じ言葉なのです。人に見てもらおうとして「善行」を、自分の義の行いをしないようにとおっしゃっているのです。頭の中だけで理解すればいい教えとか、精神性を問う教えとは異なります。具体的な行為に関する教えです。義に生きようとする、わたしたちがまさに耳を澄ませて聞くべき言葉なのです。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」という教えを聞きますと、あれっ、と少し引っかかります。先月の始めになりますが、「あなたがたは、地の塩、世の光なのだ」と始まる五章十四節以下の言葉を思い出すからです。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。イエス様は、人々があなた方を見るように、目立ちなさいとおっしゃいました。わたしたちは、世の光として、みんなに見える明かりのように、輝く使命があります。キリストの十字架の死を地の果てまでも堂々と告げ知らせる使命があるのです。今日の聖書箇所と矛盾するような気がいたします。さて、見せたらよいのでしょうか。それとも、見せない方が良いのでしょうか。

仮に世の光として、人々の前で輝こうとしても、これはかなりの難題です。といいますのも、こうも言っておられたからです。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ただ立派な行いをすることが難しいというのではありません。それを「見た人が、あなたがたの天の父をあがめるようになる」、そんなことが可能でしょうか。わたしたちが仮に立派な行いをしたとして、人々は「天の父をあがめるように」なりますでしょうか。おそらくそうはなりません。天の父ではなく、わたしたちを賞賛するようになるはずです。難しいことですから、往々にしてわたしたちはもうはじめから、自分の生き方や、行いによって天の父があがめられることなど求めないし、願ってもいない、ということになりがちです。

このような話をなさった上で、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とおっしゃったのです。この「見てもらおうとする」のは何のためでしょうか。天の父があがめられるためでしょうか。そこが問題となります。これに続いて、イエス様は具体的に施しをすることについて語られました。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」(二節)。かなりの額の金銭や品物を寄付することができるのは、力の象徴で、施しをした人は一目置かれます。昔は、人に見られる場所や時間に目立つようになされたこともあったようです。多額の献金をすると、「○○様、これこれの額、ご献金」といって、ラッパやドラがなったらしいのです。イエス様はそのようなやり方を批判されたのです。

「偽善者のようにするな」と言われています。ここでイエス様が使われた「偽善者」という言葉には注意が必要です。日本語では「偽善」を、「偽りの善」と書きますので、「偽善者のようにするな」と聞きますと、当然、うわべだけの中身を伴わない「偽り」がダメなのだなと考えます。「善行、つまり義には偽りがあってはならない。善行は本物でなくてはならない。純粋なものでなくてはならない。誉められたいという不純な動機で行ってはならない。隠れて行うぐらいでないといけない」。そのような戒めであると思ってしまうのです。ところがイエス様は、偽善者たちのようにしてはならない、なぜならそれは見せかけだからだ、とか、嘘っぽく不誠実だからだと言われているのではありません。ここで「偽善者」と訳されている言葉は、もともとは「役者」を意味する言葉です。この当時の役者はよく仮面をつけていました。仮面を被って自分を隠し、その仮面の表す役割を演じていました。演技の出来不出来が問われ、劇場でうまく役を演じますと、拍手喝采です。つまり、みんなから褒められるのです。役者は人に見られるために本来の自分ではないものを演じることによって報いを受けるのです。このことから「偽善者」という言葉は、語っていることとは異なることを行う人という意味で使われるようになりました。しかし、ここでも「偽り」とか「不純」という意味合いはありません。偽善者の倫理性の話ではないのです。善行による報いを誰から受けるのか、それが問題にされています。

人間には「誇り、プライド」というものがあります。このプライドはとても厄介なもので、自覚しているかどうかは別として、誰もが持っています。そして、変なプライドは捨てるほうがいいとは知っていても、なかなか捨てきれないものです。すべてのプライドが悪いわけではなく、人には必要なものですが、これがけっこうやっかいな働きをします。イエス様はそんなことは、重々ご存知ですから、ここで、善行が偽りであることや、その動機が不純であることを問題にはしてはおられません。プライドを堂々と前面に出すか、隠れたプライドで何かをやって見せるか、その違いを問題にされているのではないのです。そうではなくて、演じるな、役者になるな、とおっしゃっているのですす。なぜなら、役者として自分を演じてみせ、自分が行っていることを吹聴することによって、人から「報いを受ける」からです。「既に報いを受けている」という言葉が五節以下にも繰り返されていきます。「人々からの賞賛」という報いです。人から報いを受けている。なぜこれが問題なのでしょう。人々からの報いで一杯になっていると、もはや神から報いを受ける余地がなくなってしまうからです。報いを受けるとは、支払いを受け領収書を出したという意味です。いったん領収書を出すと、もう二度と、お金を払ってもらうことはできませんし、また、新たに払ってもらうことなど期待もしません。つまり、いったん人から報いを受けとると、はい、もういただきましたよとなりますので、それ以上の神からの報いが受けられなくなると同時に、もはや神からの報いを求めなくなるということです。ですから「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とおっしゃったのです。人からの誉れ、人からの賞賛で一杯になっていると、もうそれ以上神からの誉れ、神からの報いを求めなくなり、そしてもらえなくなります。

それにしてもイエス様の言葉は実に過激です。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(三、四節)とおっしゃいました。言い換えるならば、「自分自身にさえ見せるな、知らせるな」ということです。徹底的です。周りの人々に見せないだけではないのです。賞賛という報いをくれるのは、必ずしも周りにいる人々だけではない。自分もまたその一人なのです。わたしたちが誰も知らないところで、人目に付かないところで善いことをしたとします。それを自分自身が見ている。そして、見ている自分が行為者である自分を賞賛しているのです。「みんな知らないかもしれないけれど、これもしたぞ。あれもきちんとしてきたぞ。『わたし』って、結構やるよね。すばらしいじゃないか。みんながこの隠れた行為を知ったなら、きっとわたしを誉め称えてくれるに違いない」。ここまで露骨にささやくとは限りませんが、実際、自分を見ている人々の中にわたし自身が含まれているのは事実でしょう。左手に知らせたら、右の手のすることを左の手が賞賛するのです。これもまた人からの報いなのです。施しなどを行うとき、人は何らかの評価を期待するものですが、イエス様はその行為自体は肯定なさりながらも、隠すようにおっしゃったのです。神との関係が決定的に大事だからです。

つまり、イエス様が問題としておられるのは、単に善い行為の動機が不純かどうか、ということではないのです。善い行いは隠れたところでしましょうという謙遜の勧めでもありません。もっともっと奥にあることです。この教えもやはり、神を神とすることが根本にあります。イエス様は、わたしたちが、隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父とどのように関わり、どのように生きているのか、どのような祈りをもって生きているのかを問題にされているのです。最も深いところ、奥まったところ、隠れたところにおいて、神をまことに神として向き合い、生きた交わりの中にあるのか、その神である天の父からの報いを求めその報いこそを喜びとしているかということです。考えて見れば、神を父と呼べること自体が本当は大きな報いです。もっとも深いところで、奥まったところで、隠れたところにおいて、神との親しい交わりがある、神との間に親子の交わりがある。本当はそれ以上の報いはありません。ここで一つ注意しておきたいのは、「報いてくださる」という言葉です。報いと聞きますと、何かの行動に対するお返しという感じを受け、報いていただくために頑張らなくてはならないと思いがちですが、しなくてはならないという義務ではありません。神の報いは無条件の憐れみです。神はすべてを見ておられ、すべてを知っておられます。わたしたちは、人に見せて賞賛を求めるのではなく、自分自身の満足のためでもなく、神の御前に、世の光として、ごく自然に、当たり前に行っていけばいいのです。そのことによって、神との関係は義とされ、福音が宣べ伝えられるのです。結果的にみんなが見て、知ることになります。

わたしたちの信仰生活も教会形成も、とかく表面的なことに終止しがちで、最も奥深いところ、隠れたところにおける父との関わりをいい加減にしたままになりがちです。人の評価が先に来ます。あの人がこういった、この人は褒めてくれないという文句が出てくるのです。自分自身の深いところ、奥まったところにおける生活を見直し、隠れたところにおける父との関係がどうなっているのかを深く考えなさいと促されております。それこそがイエス様の問うておられることです。

祈ります。
父なる神、わたしどもは、どうしても人の視線が気になります。評価を求めます。正当に評価されて敬まわれ、人々からこの世的な報いを受けられるように、人の前で善行をしようとします。街中でラッパを吹くような真似をして、あなたの報いを失っています。どうか助けてください。あなたとの正しい関係の中で、ごく自然に善行を行うことができるように、そして、あなたの恵みをしっかり受け取ることができるようにしてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。

5月28日の音声

2017年5月21日 復活節第6主日

「完全な者となる」
マタイによる福音書5章43~48節

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(四十三、四十四節)。洗礼を受けた頃、今日聞きましたこの御言葉をわたしはうつろな感じで聞いていました。敵を愛せない自分に気づいたからではありません。敵を愛するどころか、自分に最も近い関係の父を愛していなかったからです。飲んだくれのおやじなんか、早く死んだらいいのにというのが正直な気持ちでした。おそらく自分を愛しているのではないかと思われる人を、愛せない自分はどういう人間だろうか、と思いました。人は、しばしば、家族・隣人をさえ愛せないのです。

ここでみんなが知っているとして取り上げられている古いほうの教え「隣人を愛し、敵を憎め」のもとになっているのは、レビ記十九章十八節にあります、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という律法です。これはイエス様も、律法の中で最も大事な教えの一つだとしておられるものです。これが「隣人を愛し、敵を憎め」という教えのもとにはなっているのですが、すぐに気づきますように、元の戒めには「敵を憎め」などという言葉はありません。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」であって、「敵を憎め」とは言われていないのです。旧約聖書を見ましても「あなたの敵の牛あるいはロバが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のロバが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」(出エジプト記二十三章四、五節)とか、「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな」(箴言二十四章十七節)や、「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ」(同二十五章二十一節)のように、むしろ敵に対しても思いやりを持つように、憐れむように言われています。しかし、実際には残念ながら「愛する」ことと「憎む」こととは、しばしば裏表の関係にあります。人は誰かを愛しもしますが、自然の感情として、誰かを憎むということもよくあることです。「隣人は愛するが敵は憎む」というあり方が心に潜んでいたので、「隣人を愛しなさい」という教えが、いつのまにか「隣人は愛し、敵は憎め」となってしまったのでしょう。

それに対しイエス様は、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃったのです。旧約聖書における「隣人」とは、「信仰を同じくする同胞」のことでした。それ以外の人、異邦人、異なった信仰を持つ人は必然的に隣人ではありません。隣人を限定してしまったせいで、付け加えられた「敵を憎め」に対して、そうではなく「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と、イエス様はおっしゃいました。迫害する者のために祈るのでなければ、隣人を愛することにはならないのだと、ぐっと踏み込んだ言い方をなさったのです。

ところで、先の戦争に無理やり駆り出された方なら、よくお分かりになるのではないかと思いますが、しばしば敵とは、自分とは関係なく、すでに決まっているものです。敵とは誰か、隣人とは誰かをイエス様は、「親切なサマリア人」の話で鮮やかに示されました。ルカによる福音書にでてきますが、あの有名なたとえは、レビ記十九章の「隣人を自分自身のように愛しなさい」という教えについて、律法の専門家が、おそらく若い人だと思いますが、「わたしの隣人とは誰ですか」と問うたのに対して答えて語られた話です。「強盗に襲われて倒れているユダヤ人を、立派なユダヤ人指導者、宗教家たちは見て見ぬふりをして通り過ぎていった。しかし敵のはずの、ユダヤ人から憎まれ蔑まれていたサマリア人が、介抱し助けてくれた」。「この人々の中で、誰が倒れている人の隣人になったと思うか」と聞き返す形で、諭されたのです。隣人になったのは、勿論サマリア人です。サマリア人は自分を憎んでいるはずのユダヤ人を助けたのです。日頃の恨みを仕返ししなかったのです。先ほどのレビ記の言葉の始めに、「復讐してはならない」とありましたが、そのことが生きています。自分に罪を犯す者、憎む者に仕返しをしないのです。ここで教えられているのは、隣人を愛するのは、「隣人とは誰だろう」と枠をはめている間は不可能だということです。「隣人とは誰か」と問い、隣人の範囲を定め、その中でだけ人を愛そうとすると、そこには結局「敵を憎む」生き方が生まれるのです。隣人とは探すものではなくて、隣人には「なる」のだ、とイエス様はおしゃったのです。目の前の自分を憎んでいる者の隣人になる、それが隣人を自分自身のように愛することです。そうでなければわたしたちは結局、「敵を憎め」という世界を抜け出すことができないのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というお言葉は、そのことを教えているのです。イエス様は旧約聖書が語っている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という戒めの本来の意味をお示しになりました。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とは、愛する対象として「隣人」の範囲を特定の人に限定するものではなかったのです。すべての人を対象とするものだったのです。

親切なサマリア人のたとえは、隣人に「なる」べきことを教えていますが、今日聞いた御言葉は、次のように続きます。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(四十五~四十八節)。わたしたちが敵を愛する者とならねばならないのは、「天の父の子となるため」だと言われています。「あなたがたは既に天の父のご支配の中に生きている。父の国はすでに来ている。あなたがたは父の子である、だから、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言われるのです。神があなたがたの父であられる、その事実が、敵を愛せという教えの根拠なのです。天の父は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」お方だからです。神は、人を分け隔てなさいません。太陽は誰の上にも昇り、雨も誰の上にも降るのです。確かに「ああ、そうだな」と簡単に思ってしまうかもしれません。天気の話としてなら確かにその通りで済みます。しかし、ここに語られていることは実は驚くべきことなのです。「神は正義の味方」というのは、何となく共通の認識になっていますが、これは裏を返して言えば、罪を犯す者、悪を行う者は神の敵ということです。ところがイエス様は、「そうではない」と言っておられます。神は「正しい者は味方として愛されるけれども、悪い者は敵として憎まれる」のではなく、「正しい者にも正しくない者にも同様に恵みを与え、それも同じだけ与えて下さる」とおっしゃるのです。だから、その天の父の子であるあなたがたも、自分の敵を愛しなさいと言われるのです。敵をも、罪人をも愛して下さる神、その子とされているのだから、恵みにこたえて敵を愛し祈る姿勢に生きなさい、ということです。

わたしたちはここをどう受け止めているでしょうか。「神は悪人をも愛して下さる」と聞いて、「善い者も悪い者も同じように神に愛されるのだとしたら、何もわざわざ努力して善人、善い者にならなくてもよいではないか」と考え、すんなり納得できないかもしれません。心のどこかで、「そんなことなら悪い者であった方が得ではないか」と思ってしまうのです。また、もしかすると「敵をも愛し、迫害する者のためにすら祈るほどの善い人間になろう、善い人間になることによって、もっと神に愛され、人に尊敬される者になろう」と思うかもしれません。努力によって自分を神の味方、正しい者として位置づけようとするのです。あるいは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」、だからわたしたちも、父と同じく自分を迫害する敵にも親切にすべきなのだと解釈するかもしれません。しかし、ちょっと立ち止まってみたいのです。わたしたちはいったい善い者の方に身を置けるでしょうか。神の味方でしょうか。自分の罪をどう認識しているでしょう。自分の立ち位置が問われます。実は、わたしたちこそ「悪人、正しくない者」ではないでしょうか。天の父は、正しくないわたしたちを、敵として憎むのではなく、愛して下さったのです。隣人となって下さったのです。イエス・キリストはそのためにこの世に来て下さいました。十字架の苦しみと死は、神が罪人であり敵であるわたしたちを愛して下さり、神の独り子がわたしたちの罪を全て背負って身代わりになって死んで下さったという恵みの出来事だったのです。神の独り子、イエス様が、罪人であるわたしたちと一つになって下さったので、わたしたちも神を父と呼べるようになったのです。神は悪人をも愛して下さるというのは、どこかの悪いやつらの話ではなくて、わたしたちのことなのです。そのことが分かれば、「悪い者であった方が得ではないか」というような事はありえません。わたしたちがその「悪い者」なのですから、「敵をも愛するほどの善い人間になろう」などという思いあがりも生まれません。わたしたちにできることは、敵であったわたしたちをも愛して下さった神に感謝することだけなのです。もしも頑張って敵を愛そうなどとしたら、無力感に襲われ悲しくなります。まじめな人なら、やがて気力が衰えていきます。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と聞きました。「完全な者になれ」とそこだけ聞きますと、「そんなことできるわけがない」と思ってしまいます。しかしそれは努力を意味しているのではなく、一方的恵みなのです。見なければならないのは、神の完全さです。罪人であるわたしたちをも愛し、その独り子の命を与えて下さり、敵であったわたしたちをご自分の子として下さる神の愛、それこそが「完全」です。罪人であり、神に敵対する者であるわたしたちを徹底的に愛して下さる、その完全であられる神が、わたしたちを子として下さり、完全さを受け継がせて下さるのです。敵をも愛する愛をわたしたちにも与えて下さるのです。

二十節でイエス様は、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。その「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」の内容が、二十一節以下で、律法の教えとまるで違う、しかし律法を完成させる、主イエスの教えとして語られてきました。そんなことできないよと言わざるを得ない驚きの教えでした。その締めくくりが本日聞きました、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」なのです。これはわたしたちにとって、とても重い求めであることは確かです。けれどもこれまで見てきたように、この求めは、イエス・キリストにおいて、神がわたしたちに与えて下さった完全な愛に基づくものなのです。この神の愛が、土台であり支えです。罪人であるわたしたちのために、キリストが死んで下さったのは、神が、わたしたち一人一人を、今あるままで、隣人を愛するどころか傷つけているそのままで、受け入れ、赦し、肯定して下さった、隣人となって下さったということです。それゆえにわたしたちも、周囲の人々の隣人となっていけるのです。そうしなければならない、という掟ではありません。そういう善い人間になれば神に愛され、味方と認めてもらえるからでもありません。自分が愛され救いにあずかった、そうして下さらなかったら、今の自分はなかった。それゆえに、わたしたちも同じようにするのです。この戒めは、命令ではなく、神の完全な愛に生きる者となりなさいとの招きなのです。深く愛されたことがない人は、他人を愛せません。イエス・キリストの愛を知らない人は、迫害するもののために祈ることはできません。

残念なことにキリスト者の歴史は、イエス様の教えを間違って理解し、自分を正しいものとした歴史であったと言わなければなりません。ユダヤ人たちが、「隣人を愛しなさい」という教えに「敵を憎め」という言葉を付け加えてしまったように、クリスチャンもまた、「敵を愛せ」という教えに範囲を設けてしまったのです。つまり、「敵を愛せ」という教えの敵は、自分たちと信仰を同じくする仲間うちでの敵であって、そういう敵は無理して愛さなければならないけれども、それ以外の、異教徒、外国人などは愛すべき敵ではない。そもそも「神の敵」なのだから、この教えは適用されないと考えてきたのです。第二次大戦時のパイロットで、戦後牧師になったある米国人が証言しております。自分が爆撃している町に人が住んでいるとは思っていなかった。悪魔が住んでいると思っていたと。だから平気で焼夷弾を落としたと。今日でも、複雑な政治的、民族的背景はあるにせよ、信仰を大義名分とする争いが続いています。戦争はいったん起こると、弁解の余地のない殺人の罪です。イエス様の教えに反します。

イエス様が「敵を愛せ」と言われたにもかかわらず、実際には「敵を憎む」ことが行われてきたのです。そういう過ちに陥らないように、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という御言葉の持つ、驚くべき意味を味わいたいのです。神は、善人は味方、悪人は敵という図式をもって人をご覧にならないのです。それなのにわたしたちが、「あいつらは神の敵だから滅ぼしてやる」と思ってしまうところに問題の根本があります。それは、誰かを神の敵にすることによって自分を神の味方として位置づけようとしていることです。神の味方になろうとするところに、大きな罪が潜んでいるのです。神は「味方になってくれ」などと言っておられません。そうではなくて、敵でしかないわたしたちを、愛して下さり、子として下さっているのです。わたしたちがなすべきことは、神の味方になることではなくて、敵であるわたしたちを愛し、肯定し、受け入れて下さった天の父なる神のもとで、子として生きることなのです。

敵なんか愛せるものか、迫害する者のために祈ることなんかできないという言い訳は、すぐに「敵は敵だ、滅ぼしてしまえ」という世界に通じます。ご自分の敵である者をも愛して下さる神のご支配の中に留まれば、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことが自然にできるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉は、白か黒か、敵か味方かがはっきりとした、愛のない世界からわたしたちを解放して、天の父なる神の愛の下に生きられるようにしてくれる福音です。

 

祈ります。
主イエス・キリストの父なる神、御子イエス様をこの世に送り、わたしたちをあなたの愛と恵みの内に生きることができるようにしてくださったことを心より感謝いたします。あなたから離れていたわたしたちを愛し、肯定し、受け入れて下さったあなたのように、わたしたちも自分の仲間や味方ではない人をも愛し、皆のために分け隔てなく祈ることができますよう力をお与えください。あなたが完全であられるように、わたしたちも完全な者となれますよう支え導いてください。
主イエス・キリストの御名によって願い祈ります。アーメン

5月21日の音声

 

2017年5月14日 復活節第5主日

「まことの言葉」
マタイによる福音書5章33~42節

先月、役員に選ばれた方々の就任式を行いました。礼拝の中で、つまり神の前でわたしたちは起立し、教会の式文にしたがって誓約をいたしました。結婚式でも一番大切なのは誓いです。ところが、いま聞きましたイエス様の教えでは、「一切誓いを立ててはならない」(三十四節)となっています。なぜ誓うなとおっしゃったのでしょうか。普通に考えますと、一切誓いをしないということでは日常生活は成り立ちませんし、教会では「誓いを立てる」というのは重要な信仰の要素でもありますから、不思議な感じがします。この「一切誓いを立ててはならない」という言葉の前には「昔の人は『偽りの誓いを立てるな、主に対して誓ったことは必ずはたせ』と命じられている」(三十三節)、とあります。これは神に誓ったことは果たせなくなると大変だから、必ず実行できること以外は一切誓うなということだと思われます。まじない的誓いや、安易な誓いはせず、かついったん誓ったら絶対実行せよと言われるのであれば、確かにわたしたちは誓いなどできません。わたしたちの誓いは決して完全ではありません。特にお正月の誓い、年初めにあたって今年は日記を書きますとか、煙草をやめますというのですが、これらの決心が三日坊主に終わってしまうことはよくあることで、みなさんも経験なさったのではないでしょうか。イエス様は「一切誓いを立ててはならない」に続けて「だからあなた方は『然り、然り』あるいは『否、否』と言いなさい。それ以上は悪いもの、つまり悪魔から出るのである」とおっしゃいましたが、これも一読しただけでは何のことか分かりません。

わたしたちは今年一月一日からマタイによる福音書を読み続けていますが、三月後半より山上の説教に差し掛かっています。山上の説教では、先週、先々週とみました「腹を立ててはならない」「情欲を抱いて女を見てはならない」という戒め、この「誓うな」のすぐ後に出てくる「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか「あなたを訴えて下着をとろうとする者には、上着をも取らせなさい」など、えっと驚く有名な言葉が続きます。有名ではありますが、決して分かり易くはありません。常識では腑に落ちない逆説や、立ちとどまらせ考えさせる言葉に満ちております。「あなたがたも聞いているとおり、何々と命じられている。しかし、わたしは言っておく」というふうに、旧約聖書の言葉や伝承を、ぐっと深めて完成するという形で語られています。日常生活上の戒めとは異なります。神の国に生きるということと深く関係します。そういう教えです。

「偽り誓うな」はレビ記からの引用です。レビ記には「わたしの名を用いて、偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」(レビ記十九章十二節)とあります。これは十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記二十章七節)に基づく規定ですから、この教えも「殺してはならない」、「姦淫してはならない」同様、やはり律法の根幹にかかわっています。人々は神の名前を引き合いにして、いろいろと誓っていたようです。古くは「主は生きておられる」という定型文を使ったり、動物を真っ二つに切り裂いて、誓いを破ればこうなると象徴したりしていました。それから、天とか地とか、エルサレムの山を指して、あるいは場合によっては神殿を指して誓うといった、いろいろな誓い方が出てきました。誓わなくてはならないということは、巧妙な嘘がはやっていたのだろうと思われます。現代と似ているかもしれません。嘘が多いと、これだけは本当ですよと力を込めて誓うことになります。そんな時、誓いを立てる人も受けとる人も両方が信頼できるものに対して誓う必要がありますから、神の名を持ち出すのです。神を見せかけに利用しているだけで、そこにはごまかしが入る余地がります。何年か前、アメリカ大統領と一緒に写った写真を見せて相手を信用させ、お金をだまし取るといった詐欺事件がありましたが、こういう例を考えるとよくわかります。権威あるものに自分を結び付けて、あやふやな実体を隠す場合もあるわけです。神の名にかけてと神を利用しながら、実は自分の言いたいことを押し通すのです。

誓いをするということは、誓ったことと、そうでないことに差ができることになります。誓ったことは必ずするが、誓わなかったことは、まったくの嘘とまでは行かなくても、まあしなくても仕方がないという、言い訳、言い逃れの手段にさえなりえます。また、誓いが頻繁に行われるようになりますと、誓いの効力は薄れていきます。ですから、みだりに誓うべきではないと言われていたようです。しかしイエス様は、「わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」(三十四節)とズバッとおっしゃいました。

神の名にかけて誓いますという時、誓っている本人は自分が中心であって、実は神をないがしろにしているとは思っていません。誓うなと言われて初めて、そもそも天も地もエルサレムも、自分の頭ですら、それらは神のものであって、人間が操作したり、自分の誓いの保証として差し出したりすることができるようなものではないことに気付きます。それは神の玉座であり、神の足台であり、神である大王の都であると言っておられます。自分の頭も、髪の毛一本すら白くも黒くもできない、神によって与えられたものだということです。神の前に立つ人間は、自分の根源的な無力を知らねばなりません。神の前での無力感は正しいものなのです。しかし、わたしたちは自分の無力感を打ち消し、限界を超えるために、神の名によって自分のものではない神の作られたものを担保にして自己主張をします。それは偽善です。誓いを立てることによって自分の思いをかなえるのは、神の前に生きるのなら越権行為です。この時代の人々は、いわゆる「信仰熱心」であり、いかにも信仰深そうに誓いを立てていたのです。

イエス様がおっしゃるように一切誓いをしないことになれば、どんなことにも誓ったのと同じ誠実さが求められることになります。神の国、神のご支配の中に生きる君たちは、もう昔のように誓いをしてはならないと命じられるのです。教会は、この聖書の言葉、イエス様の「一切誓うな」という戒めを文字通り実行しようとした時期がありました。今日でもある教会では、文字通り誓いをいたしません。裁判でも、スポーツの試合ですら、誓いません。ですから公務員にはなれません。確かにそういう生き方は聖書の言葉に忠実に見えますが、それでは、普通の生活はできません。わたしたちの生活では誓いは必要です。イエス様がおっしゃったことは、神の権限を犯してはならない、普通の言葉で誠実に人と向き合いなさいということであって、文字通り誓いをするなということではありません。神を神とせよという教えなのです。自分が神によって作られたもの、神のものであって、神のみ前に生きていることを知り、神を信頼して生きよということです。神がわたしたちを生かしてくださっていることを知るのが大切なのです。これまで繰り返し申し上げてきたことですが、イエス様の言葉は、神とわたしたちの関係性が基本になっています。

このことを理解しますと、次の有名な言葉、「然り、然り、否、否」と重ねて言う言い方の意味がよくわかります。その通りですと肯定したり、いいえ違いますと否定したりするときの典型的な言い方です。言葉を重ねることで強調されています。ここでは返答することだけが許されており、自分の主張はできません。先ほど見ましたように、誓いは自分を中心において、自分の思いや考えに基づいて事柄を主張するときのやり方で、日常生活では必要なこともあります。しかし神の国では、神のみ前に生きるという観点からは、よほど注意しないと神の主権を侵す越権行為となりかねません。誓う内容が神のご意志と一致するかどうかわかりませんし、そもそも神を引き合いに出して利用することなど人には許されていません。ですからイエス様は、厳しく戒められたのです。「それ以上のことは、悪いものから出るのである」とあるのは、訳によっては「これを超えるのは悪魔の仕業だ」とも書かれています。これは重い言葉ですね。然り、然り、否、否以上に言うことは、悪魔の仕業だと締めくくっておられます。

後にヤコブもこの教えをなぞって、同じように言います。ヤコブ書五章十二節にこうあります。「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい」。このヤコブの言葉は、イエス様の言葉より、分かりやすくなっておりますが、イエス様がおっしゃったこととは微妙に違う感じがします。つまり、本音と建前を使い分けたりしないで、口ではこう言っているが、腹の中では違うことを考えているというようなことではなく、真実に、そうであることにはそうである、違うことには違うと言いなさい、然りを然りとし、否を否としなさいという教訓に聞こえてしまうのです。イエス様の言葉はずっとパンチ力があります。神の立場に就こうとしがちな人間の思い上がりを拒否する強い言葉として「誓うな」と言われているからです。

以上のように見てきますと、わたしたちが教会でする様々な誓いは、決して自分を中心にした誓いではなく、むしろ「然り、然り、否、否」という形の誓いであることが分かります。神からの問いかけに「わたしは神と会衆の前に謹んで約束します」と言いますので、誓いのようにも聞こえますが、もし英語で言うなら「Yes, I do.」「然り」となります。

続く三十八節以下では一体何をおっしゃろうとしているのでしょうか。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」とあります。非暴力の勧めでしょうか。あるいは迫害するよりも、迫害されるほうがよいということでしょうか。あるいは、復讐は神様がなされるので、当時はよく知られていた「目には目」の同害報復さえやめなさい、ということでしょうか。いやもっと進んで、たとえ正統防衛であっても、相手を殺すよりは殺された方がいいとおっしゃっているのでしょうか。とても不思議な教えです。右のほほを打たれたとき、仕返しをせずにじっと我慢するなら、非暴力の教えで、わからないでもありませんが、左も出すという行為は、打たれても屈しないという大変強い抵抗です。もし、この戒めが、現実の社会で実行されるなら、暴力をふるう相手をもっと刺激して、さらに暴力を生みかねない危険な反応です。一マイル行かせようとする者に、一緒に二マイル行きましょうなどと言ったら、殺されかねません。この戒めは浮世離れした、非現実的なものに聞こえます。来週学びます四十三節以下の教えは、もっと極端です。「しかしわたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」。イエス様のたくさんの教えの中でも最も衝撃的です。

今までわたしたちがとってきた復讐にかわって、敵に対してまで愛し祈らねばならないというこの教えは、わたしたちに神の御心はどこにあるのだろうかと深く考えさせます。この聖書の言葉はどういう意味だろうか、何をイエス様はおっしゃっているのだろうかと、わたしたちは懸命に理解しようとします。聖書から、神様のメッセージを聞こうとするのです。しかし、実は長い間、福音書はそのようには読まれてはきませんでした。つまりわたしたちが解釈する対象ではなかったのです。聖書のみ言葉は神様からわたしたちに語りかけられる人格的な言葉だったのです。神の声に耳を傾けるという形で読まれてきました。ですから聖書を朗読する人は、神の声の代役を果たしていたわけです。朗々とゆっくりと読まれました。今この箇所を神の人格的語りかけとして、聞いてみたいのです。するとどうもイエス様は、復讐するなとか、犠牲的に寛容に振舞えとか、権力に抵抗するなとか、非暴力を貫けとか、迫害されても我慢しなさい、というふうにおっしゃっているとは聞こえないのです。もっとずっと強い言葉です。ここから聞こえてくるのは、自ら十字架の死に向かって歩まれた方の力強い声です。右の頬を打たれたら左の頬を差し出された方の言葉です。そのせいで殺されました。イエス様は十字架の上でわたしたちのために死んでくださいました。イエス様の言葉は、まことの人の、まことの言葉、嘘偽りのない、血が通った、切れば血が出る言葉です。イエス様しかお語りになれない言葉です。わたしたちは、この真の言葉の主、イエス様に従うことが許されているのです。感謝して、ただただ、イエス様に従っていきたいと願います。

 

祈ります。
わたしたちをまことに愛し、顧みてくださるイエス・キリストの父なる神、あなたの恵みの中に生きることができるようにしてくださっていることを感謝します。わたしたちが自分の言葉に真実であることができますようにお支えください。そして、空しい誓いの言葉ではなく、然り、然りという祈り、神を神とする祈りにわたしたちを導いてください。また、わたしたちのために十字架にかかってくださったイエス様に、献身の思いを持って従っていけますよう、わたしたちを強めてください。
主イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

5月14日の音声

2017年5月7日 復活節第4主日

「健やかに生きる」
マタイによる福音書5章27~32節

二十八節にこうあります。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。以前の訳では、もっとショッキングで「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」でした。口語訳の「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」は、女性に対して情欲を抱くこと、それ自体が姦淫の罪だと言っています。このイエス様の言葉を真剣に聞いた者は悩みました。そんなことは無茶だという反発もあったでしょう。特に明治・大正時代の青年はそうでした。この教えは、さらにきびしくこう続いています。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」。みだらな思いをもって女性を見る目をえぐり出し、その情欲を発散させる手を切り取って捨てなければ、地獄に投げ込まれるとまで言うのです。これを読んだ多くの人が、とてもじゃないが、自分は主イエスがお命じになっているような者ではない、地獄に投げ込まれると思ったのです。この御言葉はそのように、特に若い男性に自分の罪を意識させ、キリスト教徒になるのを妨げる働きをしてきました。ところが、新共同訳になって「女」が「他人の妻」に変わりました。「他人の妻」となりますと、ニュアンスが全く違います。聞いた時の衝撃度が下がりました。女性に思いをもつことが罪とされているのではなくて、「他人の妻」に思いを持つことが戒められていることになります。「心の中での姦淫」として戒めておられるのは、女性一般に対して性的欲望を抱くことではなくて、結婚して夫のある「他人の妻」を自分のものにしたいという欲望の目で見ることが咎められていることになります。心の中でのことであるにせよ、他人の妻を自分のものにしようとする罪が裁かれています。これなら、男は少しホッとするかもしれません。そんなことはしないぞ、と思えるからです。

では口語訳は間違いだったのでしょうか。誤訳のせいで多くの人が苦しんだのでしょうか。そうとは言い切れません。元の言葉は、ただ「女」、あるいは「妻」を意味します。女と解釈すれば口語訳のようになるでしょうが、妻と解釈すれば、自分の妻ではおかしいので、「他人の」という言葉を補わざるを得ません。しかし「他人の」という言葉は原文にはありません。新共同訳は、ここを妻と解釈して、「他人の」を加えております。そう解釈しないと、元の言葉はあまりにも非現実的で、つまずきなのです。しかし、イエス様はどちらの意味でおっしゃったのでしょう。他人の妻のことなのだと理解して、男性が女性に性的関心のまなざしを持つことを罪として断罪されたのではないのだと、簡単に納得してしまっていいのでしょうか。考えてみる必要があります。なぜなら山上の説教のイエス様の教えは、普通ではないからです。「しかし、わたしは言っておく」の後に続く言葉は、えっと思わず立ち止まるものだからです。

人が生きようとするとき、性の扱いは重大な問題です。世の小説には、恋愛や、性の抑圧、暴走、男女の不倫を描いたものが圧倒的に多いようです。人の生きざまそのものだからです。人間であることの喜び、悲しみ、みじめな思い、そして誇りさえも、しばしば男女の肉体関係を軸として経験されるものであり、文学者は好んでこれを主題とします。目をつぶって思いめぐらしますと、数えきれないほどの物語が思い浮かびます。人が生きることと、性的欲望は切っても切れない関係にあります。旧約聖書は神が人間を男と女とに創造され、一体となるように定められたと語っています。男女の結びつきを罪だとする考えは聖書にはありません。イエス様も、男と女が生きるときの欲求や、男女の結びつきそのものを罪として否定するようなことはおっしゃっていません。イエス様のなさった最初の奇跡は、カナの結婚式の披露宴で行われました。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(ヨハネによる福音書二章十一節)のです。イエス様にも男女の自然な関係を罪とするという考えは全くありません。

山上の説教について、もう一度振り返ってみたいのですが、この説教は弟子たちや、奇跡を期待してイエス様の周りに集まってきた大勢の人々に、屋外で大っぴらにお話になった説教です。律法学者も大いに興味を持って聞いていたはずです。そういう場面で、神のご支配が実現したのだから、神のみ前で生きよと、その大切さを教えられました。聞き手は、おそらくみんなユダヤ人です。彼らにとっては律法が命です。生きるとは律法の戒めを守ること、それは身に沁みこんだ民族の誇りです。そのようなところで、神の国でこの律法を守る姿勢について、イエス様は、驚くべき言葉で、権威を持って新しく教え直されたのです。聞いている人は、えーと仰天したでしょう。神の国に生きるあなた方は、これまで当然だと思っていた考えから一歩進んで、厳格な律法主義者以上に神に喜ばれる生き方をしなさい。神の前に幸いだとされている君たちは、地の塩、世の光として、皆に見えるように立派に神を証し、ファリサイ派にまさる義、神との正しい関係の中に生きなければならないとおっしゃったのでした。そしてまず初めに、十戒の第六戒、「殺してはならない」について、誰も聞いたことのない、きびしい戒めを語られたのです。この先週聞きました御言葉を理解できたかどうかが、今日の教えを理解する上でも決め手になります。

律法は、本来人を神の前に生かすためのものでした。神の慰め、神の平和、神の愛を教えるもので、人間が共に生きていくための規範でした。人が共に生きるとき、最も重要な倫理は、人を傷つけない、殺さないということでしょう。普通の人は殺人など考えませんから、「わたしは決して人殺しなんかしません。だからこの律法にかなっているし、神の前に正しい生き方をしています」と思い込んでいます。そんな人に「そうではない。それは君たちの自己義認であって、神の国に生きるなら、兄弟に腹を立てるだけで裁かれるのだ」と戒められたのです。「兄弟に腹を立てる者、バカだというもの、品性がないと批判するもの」は、人を殺したのも同然なのだとおっしゃいました。命を神との関係において捉え、神から与えられた息、霊の力として語られました。命は愛の関係にあってこそ存在するものであり、殺されて初めて無くなるものではなく、腹を立て怒り憎しみを持つことだけで奪い取られていくものなのだとおっしゃったのです。この教えに、胸を張って、わたしは大丈夫だと言える人はいないでしょう。イエス様の教えはグサッと胸をえぐるものです。山上の説教を聞いて、ああいい教えだなと思っている人は分かってないのです。大いに困惑するか、馬鹿にして無視するか、あるいは激怒してもおかしくない教えです。つまずきです。聞いている者たちの心の奥にある、自分は正しい、相手が間違っているとする心持ち、狭い律法規範主義の持つ限界がえぐり出されております。

今日のイエス様の教えでは「あなたは姦淫してはならない」という十戒の第七戒がとりあげられております。姦淫の罪とは結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と性的関係を持つことを言いました。ユダヤ人の男が、売春婦や独身女性と関係を持つことは姦淫ではありませんし、奴隷や異邦人女性も戒めの対象外です。妻は夫の所有物とみなされ、姦淫は、夫の権利を侵したと認められる場合だけに限られていたのです。ですから男から見ると、妻を持つほかの男への権利侵害であって、自分の妻に対する誠実さとは関係ありません。主イエスはこの律法をとりあげて、「しかし、わたしは言っておく」と、殺してはならないという戒めに対して語られたのと同じように、もっとずっと踏み込んで語られたのです。「姦淫」しなければ、それでいいというようなものではなく、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とおっしゃいました。人を殺してはならない、姦淫してはならないという戒めは、人間が健やかに生きることができるかできないかの極めて重要な急所です。人間の守るべき倫理の最重要項目です。女性に好意を持ってもいいでしょう。しかし、その女性をわがものにしようという欲望を持つのは、姦淫と同じなのだとイエス様は断定されたのです。これまでの理解を全く超える、新しくきびしい戒めを与えられました。「しかし、わたしは言っておく」と。

他人の妻を自分のものにしたいという思いを心の中に持つだけで、既にその罪を犯したことになる。姦淫かそうではないかという議論や、他者の目に悪いことと見えるかどうかではなく、心の中で起こる欲望が既に罪であるとおっしゃるのです。具体的な行為に及ばなくても、人間の根っこにある「心の中で」のことまで含めて、極めて厳格に男女、夫婦の関係を大切にせよと教えておられます。根底にあるのは、人としての正しい生き方と夫婦の関係を大切に守れということです。そして、みだらな思いを起させるものは、右の目であってもえぐり出して捨ててしまいなさい、右の手であっても切り取って捨ててしまいなさいとおっしゃるのです。右の目や右の手、それは無くてはならない大切なものです。決して失いたくないものです。しかしそういうものすらも、結婚相手との関係に比べれば何ほどのことはない、捨ててもよいのだと言われるのです。つまりここで主が言っておられるのは、あなたの妻は、あなたの目や手よりも大事なものではないか、ということです。妻のためには、目や手をも切り捨てよと言っておられるのです。そういう愛に生きているかと問われています。男が妻を愛する、その愛はまことに身勝手なものがあります。自分勝手な愛し方しかできないというのが、罪人であるわたしたちの現実です。自分のために、自分に都合のよい仕方でしか愛することができない、そのような罪に陥っていく男女の関係を、イエス様は、本来神が定められたものにせよとおっしゃるのです。姦淫してはならないというこの戒めも、やはり、神との関係を尊ぶことの重要性が語られているのです。

古代の教会には、「血だらけの人」と呼ばれる人がおりました。イエス様の教えを守る。それもしっかり守ろうとした厳格主義者です。女性を見ると、どうしても、みだらな思い、情欲を抱いて見てしまうというので、向こうから来ると、目をつぶるのです。見ないようにする。女性はひとりではありません。どんどん来る。するとずっと家に閉じこもるか、歩くのをやめないといけませんが、そんなことはできないので、目をつぶったまま歩きます。すると、何かにぶつかる、あるいはひっくり返って、体中傷だらけになるというわけです。オリゲネスという有名な教父は、誘惑に勝とうとして、自ら去勢しました。ずいぶん極端な話ですが、こういう人は、女性の存在そのものが男に罪を犯させると見ている点で、正しい態度とは言えません。清さを保つために悪のもとになるものから距離を置くという考えは、自分は清いのに邪悪なものと接触することによって悪が生じると考えることからきています。しかし、悪は自分自身の中に生じるのです。女性の存在が悪をもたらすのではありません。

現代は、性の問題はあけっぴろげで、性道徳などという言葉は死語になっております。このような状況は今に限らないようです。マラナ・タ講座で、アウグスティヌスの『告白』を読んでおりますが、古代ローマ社会の性道徳も、それはひどいものでした。もう全く悪い意味でのフリー・セックスの社会です。アウグスティヌスのお母さんは敬虔なクリスチャンですが、十六歳の息子に、不品行なことはしてはいけない、とりわけ人妻と姦通してはいけないと戒めております。つまり人妻でなければ、性関係は仕方がないと認めております。当時の上流の青年たちは、親の心配などは全く気にせず、禁じられるとかえって、あそこの奥さんとやったぞと自慢すらしていたと告白しております。そういうことが簡単にできる社会だったのです。しかし、神の国に生きるのなら、性の問題はとても大事な問題であり、きちんと考えていかねばならない問題なのです。

次にイエス様は、さらに男女の結びつきに関するもう一つの掟、離縁することについてとりあげられました。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(三十一、三十二節)。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」とありますが、イスラエルの社会では離婚できるのは夫の方からだけでした。夫は、妻が気に入らなければ、離縁状を渡すことによって離婚できたのです。この時代のイスラエルは家父長制社会で、女性の地位は相対的に低かったのです。離縁状は、「もうこの女はわたしの妻ではない」というもので、元妻の「独身証明書」になります。それを持っていない女性が、他の男と関係したら姦淫の罪になりますが、持っていれば問題なく再婚できました。律法によってそのような制度が立てられていたのです。それをとりあげてイエス様は、「しかし、わたしは言っておく」、「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と厳しくおっしゃいました。不法な結婚でない限り離縁することはできないし、離縁された女と再婚はできないと言われたのです。不法な結婚というのは妻が夫以外の男と関係していることを指しています。姦淫の罪によって自分の、また他人の結婚関係を破壊するのと、妻に気に入らないことがあるからといって身勝手に関係を断ち切ってしまうのとは、神の定めた結びつきを壊す点で同じことなのです。イエス様は結婚が神のもとに行われたものであるなら、普通の社会契約のように解消できないとおっしゃいます。そのように言われる時、情欲を抱いて女を見るくらいなら目や手を切り捨てよと言われるのと同じようなとまどいと恐れを感じずにはおれません。信仰を持って救われた、感謝だと思っていても、この教えに躓いて信仰のすべてを失いかねない重大な問題です。

しかし、この問題も、やはり、イエス様のおっしゃっているのは関係です。神の定められた男女関係、夫婦関係を大切にするように言われているのです。神はわたしたちを、まさにご自分の目や手以上に大切にし、愛して下さいました。イエス様の十字架の死です。神が、わたしたちを、ご自分の独り子よりも大切にして下さったのです。主イエスは、ご自分の目をえぐり出し、手を切り捨ててまで、わたしたちの罪を担って下さいました。わたしたちは、このイエス・キリストが示して下さった神の恵みの下にいます。男女の関係も、この恵みの下に置かれているのです。人の愛は、御心からはほど遠い愛です。しかし主イエス・キリストによって、本当の人としての愛の模範、目標が示されております。求めてられているのは、真実の愛に生きること、相手を大切にする交わりを、イエス・キリストの恵みの下に築いていくことです。どのような者も、主イエスの恵みの下に招かれています。神のご支配の中、イエス様は憐れんでくださっております。わたしたちは罪びとであるままに、生かされております。

 

祈ります。
父なる神、あなたはわたしたちが健やかに生きることができるように御言葉を与えてくださいますが、わたしたちは教えに従おうとしながらも、自ら正しくあろう、完璧であろうとして、疲れ果て、あなたに背いてしまっています。しかし、そんなわたしたちをさえ、あなたは憐れみ、あるがまま受け入れ生かしてくださいます。心から感謝します。どうかわたしたちがあなたを見上げ、キリストの恵みの中に留まり続けることができるようお支えください。そして、主の戒めに従いお互いに愛し合って生活していくことができますよう導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

5月7日の音声

 

2017年4月30日 復活節第3主日

「兄弟に腹を立てる者」
マタイによる福音書5章21~26節

イエス様の時代のユダヤ人にとって、律法は深く身に沁みこんだ、古くからの教えでした。誰もが大切にしていた民族の規範です。「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」と旧約聖書レビ記十八章五節にありますように、律法の本来の意図はそれを守ることによって、「神の命に生きる」ことにありました。しかし、例えばファリサイ派の人々に見られますように、神との厳格な関係を重視するあまり、人間に対する優しさを失って、律法本来の意味を見失うということが起こりがちでした。そこでイエス・キリストは、律法を廃棄するのではなく完成させるために来たとおっしゃったのです。それだけでなく、天の国、つまり神のご支配の中に生きるためには、ファリサイ派以上に、神の前に人としてあるべき姿で生きること、つまり義であることが必要なのだとも諭されたのです。ではイエス様のおっしゃった、ファリサイ派の義にまさる義、ファリサイ派以上に神との正しい関係に生きるとは、どういう生き方でしょうか。

今日朗読を聞きました二十一節以下、五章の最後までには六つのテーマが取り上げられ、具体的にどういう生き方をすべきかが、次のような形で教えられています。「昔の人々が、何々といわれていたのを、あなたがたは聞いて知っている」と言って、聖書にある戒めが取り上げられ、その後に「しかし、わたしは言っておく」と、その戒めについてのイエス様の言葉が続くのです。これまでの解釈に対して、「しかし、わたしは言っておく」という言い方はイエス様が初めてではなく、当時ユダヤ教のラビもよくしたようです。「あなたがたは律法をこう解釈しているだろう。しかしわたしはもっと十分な理解が得られるよう教えよう」というように、ラビが補足説明をして、より良い解釈を提供しようとしたのです。それに対しイエス様は神がお与えになったモーセの律法を解釈している言い伝えそのものを、あっと驚くほど言い換えておられます。別の律法などを適用して新しい解釈を持ち出すのではなく、ご自身の権威をもってはっきり真理を語られました。反論をゆるさない、疑いの入り込む余地のない、新鮮な言葉で教えられたのです。何々と言われているが、実はそうではなく、こうなのだと対立命題の形でおっしゃっています。まるで神に代わって語るこのような言い方は、まことに権威ある者にのみ許される言い方です。このお方はいったいどういうお方だろうかと思わせる言い方です。

注意したいのは、イエス様は律法の適用について、本当はこういう意味なのだとおっしゃったのであって、律法の本文そのものが間違っていると否定されたのではありません。実践の仕方を問題にされたのです。四章で読みましたが、荒れ野で悪魔と対決なさった時も、ことごとく「旧約聖書には、このように書かれている」とおっしゃいました。律法をとても尊重しておられます。これから見てまいります六つの対立命題は、最初の「殺してはならない」が十戒の第六戒であり、「姦淫してはならない」「偽証してはならない」も十戒の第七戒、九戒で、いずれも隣人との人間関係、倫理を規定する律法です。イエス様はわたしたちにも語りかけておられます。これを聴いて新約聖書のイエス様の教えに従おうとするとき、現代人の感覚や価値観で理解し、文芸雑誌の読み物のように読んでしまっては、イエス様がおっしゃった本来の意図からずれてしまいます。人の罪と、その罪を贖う救い主の行為、そしてそこに聖霊が働かれているという視点が必要です。単なる歴史的、批評的な解釈や文学的解釈ではなく、信仰のまなざしが要るのです。

では二十一節以下の御言葉を、振り返ります。「あなた方も聞いている通り、昔の人は『殺すな、人を殺したものは裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(二十一、二節)。「殺す」というのは穏やかでない言葉ですが、旧約聖書のヘブライ語には二つの異なった単語が使われます。一つは前もって計画して人を殺すときに使われる言葉です。ラーツァフ、英語ではマーダーです。本当の人殺しです。計画殺人。もうひとつは、自分や家族を守るための正当防衛や、偶然の殺人、自分はしたくないけど戦場に駆り出されての殺人、ハーラグ、英語ではキルです。ここでイエス様がおっしゃった「殺すな」は、ヘブライ語でもギリシア語でも、意図的、計画的な殺人、マーダーです。「殺してはならない」の中には、自己防衛や、裁判での死刑を含みません。ところがそれに対してイエス様は、正当であるかないかに関係なく、しかも、たとえ実際に他人を肉体的に傷つけなくても、兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受けるのだとおっしゃいました。兄弟とは同胞、仲間のことです。もちろん、仲間でなければ腹を立ててもいいなどとおっしゃったのではありません。

「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。これには困ります。ほとんどの人は、自分が人を殺すなどということをするはずがないと考えているでしょうから「人を殺すな」という戒めはあまり真剣に受け止めていません。ところが、イエス様の戒めでは、これはずっと身近なことなのです。若いころほどではありませんが、いまだにわたしは時々腹を立てます。先週もそういう場面がありました。腹を立てると、言葉や態度にどうしてもでます。結果、関係のない第三者が、今度はわたしに腹を立てるというような展開になります。しかし、腹を立てるという心の動きは、外から見えない面もありますから、いえわたしは腹など立てておりませんよという素振りをすることもできます。心の中で腹を立てるのなら外から見えませんが、腹を立てるとついバカとか愚か者と声に出して言ってしまいがちです。こうなると、ほかの人にもわかります。言い訳できません。これは本当に困ります。妻と二人きりの時にわたしはこれもよく言うからです。信徒の皆さんに対してではありません。牧師や政治屋、医者など先生といわれる人、それにジャーナリストや評論家に対してです。「バカ」というギリシア語は、日本語に似て「ラカ」ですが、能無し、頭が空っぽという意味です。「愚か者」は、バカとは違い頭ではなく品性がよろしくない、そういうケースに使われます。わたしは自分の品性に自信がないので、他人の品性についてはうんぬんしませんが、教団の指導的牧師や東京神学大学の教授については、よく頭がスカスカ、空っぽなんじゃないかと言います。神がお立てになった牧師・教師でありますのに。今日の聖書個所を読むと反省しなくてなりませんね。

「腹を立てる、バカと言う、愚か者と言う」に対して、「裁きを受ける、最高法院に引き渡される、火の地獄に投げ入れられる」が対応します。文字通りであれば、地方裁判、最高裁判、最終審判と処罰が軽いほうから重いほうに移ります。しかし主イエスは、この順に罪が重いので、腹を立てるのは仕方がないが、他人の品性を批判して愚か者とは言わないほうが良い、などとおっしゃったのではないでしょう。何の区別もつけず限定もつけずにおっしゃっています。言葉狩りのようなものではありません。兄弟を見下したり、怒りに任せて腹を立てたりすることが神の裁きの対象になると断言しておられるのです。イエス様は命を神との関係において捉えておられるのです。命を神から与えられた息、霊の力として語っておられます。実際に殺されて初めて無くなるものではなく、腹を立て、怒り憎しみを持つことだけで既に命は奪い去られていくのです。愛の関係にあってこそ、命は存在するのです。

そこでもっと踏み込んでこうおっしゃいます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい」(二十三、二十四節)。兄弟が反感を持っている、直訳すれば、「何か言いたいことがある」となります。つまり、自分が腹を立てるなどは論外で、誰かが自分に反感を持っているなと分かっただけでも、供え物をする前に、仲直りをしなさいとおっしゃいます。神に供え物をする、まず第一に、何よりも先にするはずのことなのに、その前に、供え物を横においてでも兄弟と和解せよということです。神との交わり、神のご支配の中に生きるとは、平和、和解を意味します。お互いに怒りを抱き合いながら、どうして平静に礼拝し、主の平和を期待できましょうか。神の国に生きるには、どうしても和解の努力がいります。このような和解の努力を相手が受け入れてくれるかどうかは、これは別の問題です。しかし、わたしたちキリスト者が、神の国に生きようとするとき、仲間を許すことは、してもしなくてもいいことではなく、福音の本質にかかわる、避けることのできない責務となります。

「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」(二十五、二十六節)。最後のこのたとえで、イエス様はさらに踏み込んでお話になります。自分が実際に告訴されている場合です。今の日本では、裁判にかけられた人はほとんどいないでしょう。わたしも経験がありません。しかしイエス様の時代には、人々がもめごとの調停を裁判所に持ち込むことはよくあったようです。現代でもアメリカなどでは裁判は日本よりずっと身近です。他人から訴えられたなら、早急に仲直りして、告訴を取り下げてもらうようにと教えておられます。原告と被告が同時に出廷するので、道中で出会うこともあったのでしょう。裁判がいったん始まってしまったら、判決が下りて、賠償金の額が決定するまでは、牢に留め置かれることになります。そうなりますと最後の銅貨一枚まで支払いを終えないと牢から出られない、そういう事情だったようです。クァドランスはレプタと同じく、古代ローマの一番小さな貨幣の単位です。五十円、百円という感じです。二レプタが一クァドランスです。わずかな金額でも容赦されないのです。いかなる裁判にもかかわってはいけないという意味ではありませんが、無用な法的争いを避けなさいとおっしゃいます。自分の正しさを信じて生きるとき、わたしたちは、周りの人も皆、その正しさを認めてくれるはずだと思いこみ、自分の思い通りにならないと腹を立てます。しかし、イエス様は怒りではなく愛をもって臨み、和解しなさいと言われるのです。

イエス様の言葉、新しい教えは、わたしたちに物を見る目を与えます。人が物を見るときの基本は、神をどう観るか、人間をどう観るか、世界をどう観るかです。人間観、世界観などといいます。ものを見るためには、「まなざし」が要ります。このまなざしをイエス様の教えから獲得したいものだと思います。人間同士の関係の中で一番大切なことは、相手を傷つけ殺してはならないということでしょう。わたしたちは言います。決して人を殺してなんかしませんし、そのようなことをするはずもありませんと。そういう「まなざし」で自分と他人を見ております。でもイエス様はおっしゃいました。兄弟を憎む者は、だれでも裁きをうけると。殺したのと同じなのだと。こういう言葉を聞くと、いつも問われます。お前はどうなのかと。どこにいるのかと。礼拝で聞く説教も、常にこの問いを発します。あなたはどこにいますか。何を考えていますか。よく自分を見つめてみれば、兄弟と共に生きることができない自分、兄弟を呪ってしまっている自分を発見し、人間の悲惨さを知らされることになります。わたしたちは観念的にではなく具体的に問われているのです。神との関係であなたはどこにいますか。兄弟との関係で、どこにいますかと。

少し後になりますが、二十二章でイエス様は律法の根本精神に一つの答えを与えてくださいます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(二十二章三十七~三十九節)。先週も聞きましたが、義である、ツェダカーであるとは、神がわたしたちを愛しておられ、わたしたちがその愛に応答するという関係を指す言葉です。「キリストを中心にして、わたしたちが互いに愛し合うこと」、この戒めにおいてこそ律法は完成するのです。そのように生きられるはずだと励まされております。

 

祈ります。
父なる神、自分が正しいと思い、すぐに腹を立て、怒り相手を呪ってしまう、そんなわたしたちを愛し、新しい戒めを教えてくださっていることを感謝します。どうか、わたしたちがあなたの愛の中で生かされ、あなたに従っていくことができるよう支え導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

4月30日の音声

2017年4月23日 復活節第2主日

「律法とは何か」
マタイによる福音書5章17~20節

先週はイースターで、「主の復活、ハレルヤ」と皆でイエス様のご復活を祝いました。棕櫚の主日とイースターは、十字架と復活に関する説教を聞きましたが、今日からまた、もとに戻ってマタイ福音書を順に読んでまいります。四週前、三週前と五章から七章まで続く「山上の説教」と呼ばれるイエス様の長い説教が、どのような状況で誰になされたものであるかを学び、それに続いて、「天の国、神のご支配が来た以上、あなた方、天の国の住民は幸いである」という祝福の言葉と、「あなたがたこそは地の塩である。あなたがたこそは世の光である。もう、今すでにそうなのだ」と、担うべき使命をはっきり聞きました。祝福と使命に続いて、いよいよ本題に入ります。新しい神のご支配のもとに生きる民は、これまでの律法にどう向き合うべきかという問題です。日本人であるわたしたちには、なじみがありませんから、ともすれば、面倒でどうでもいいことのように思えますが、ユダヤ人の弟子にとっては、避けて通れない重大な問題です。と同時に、旧・新約聖書を一貫した神の啓示の書であると信じるわたしたちにとっても、やはりとても大事であることに変わりはありません。

今日の御言葉は、この先の二十一節から四十八節までに出てくる六つの古い律法に対して、イエス様が六回繰り返して「こう言われているが、しかし、わたしは言っておく」と権威をもって語られた新しい教えの前書きになっています。新しい律法をお与えになったのです。ところで、律法とは何でしょう。聖書を読み始めたころ、何度も出てくるのに、何のことかいまひとつ訳が分からなかったのが「律法」です。「法律」ではないだろうとは分かったのですが、当時わたしが持っていたギデオン協会の新約聖書、無料で高校生に配ってくれた英語と日本語が並んで書かれたものですが、これには「律法」に対応する英語の言葉として「法律」を意味するlawが使われていましたので、混乱しました。やはり特殊な法律のことかなと思いました。

後になって分かりましたが、律法というのは、広い意味を持っています。旧約聖書全体を律法という場合もありますし、旧約聖書のはじめの五巻、創世記から申命記までのモーセ五書を律法という場合もあります。またもっと狭く、たとえば出エジプト記の中の十戒のような戒めや、特定の戒律をさす場合もあります。律法を守っていたのはユダヤ人たちですが、先祖がエジプトを脱出したときに神から与えられたものですから、ものすごく大切にしておりました。それに加えて、その後バビロンによって国を滅ぼされたユダヤの人々は、信仰の実践、特に神殿参りができなくなっていましたので、この律法を特別に大切に守りました。この戒めを守ることが自分たちの生きる拠り所だったのです。

捕囚からの帰還が実現した後にも戻らずバビロンに残ったユダヤ人学者たちが、異教の地にいるので帰還した人以上に律法にこだわり、先祖伝来の戒めを編集したのが、先ほど述べましたモーセ五書と呼ばれる旧約聖書の初めの五巻、そして、膨大な律法の解釈集なのです。前者はトーラーと言われ、後者はタルムードと呼ばれます。ですから、そういう特殊な事情を考えると分かりますが、律法は単なる規則というよりは、民族のアイデンティティーに深く関わるものであり、神と人間の関係を規定するものだったのです。自分たちの国は滅びてしまって、いったいこれからどうしたらいいのだろうか。仕方が無いからバビロンやペルシャの神を信じて生きていこうという人たちに対し、いや、やはり世界を造られた、唯一のまことの神を信じようではないかという人たちが、神の前に居住まいを正して生きようとした、そのときに守ろうとしたのが律法です。この人たちが目指した「神の前に正しく生きる」ことを、「義である、ツェダカーである」といいます。神が人を愛してくださる。そのご愛に応えようとするのが「義」です。正義の義、羊の下に我と書く義です。わたしたちが考える義、人の道にかなうとか、義理堅いという意味とは違います。あくまでも信仰の概念であって、神との正しい関係を指します。ですから義人とは、立派な人というよりも神との関係に生きる人のことです。

このように律法は、本来人を神の前に生かすためのものでした。神の慰め、神の平和、神の愛を教えるものだったのです。たとえば病気の人には希望を、絶望している人には回復を教えるものでした。神と正しい関係に留まろうとする人、つまり義であろうとする人は律法を守り、律法に忠実な人だったのです。しかしだんだん変化していつのまにか逆転し、イエス様の時代には、細かく律法を守る人が義なる人、神の前に正しい人になってしまったのです。似ているようですが違います。律法は「神に愛された人が、恵みとしてこれに応答しようとしたもの」から、「これさえ守っていたら義とされるのだという条件」に変質してしまったのです。後者の立場は、律法は守ろうと思ったらちゃんと守ることができるということが暗黙の前提になっております。でも実際は、それは無理だったのです。

人々はこの誤りにうすうす気がついておりました。そこで、イエス様の全く新しい教えに出会った弟子の中には、もう律法なんて守らなくてもいいし、イエス様について行きさえすればよいという理解をした人もいたようです。今日の御言葉があるマタイ五章の初めのほうに、とても有名なイエス様の教えが出てきました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。・・・・」。これは全く新しい教えでした。聞いたことのない教えです。いやむしろ聞いていたこととは反対の教えです。迫害される、苦しみということがあらかじめ見越して語られています。ですからマタイ福音書が書かれた時代の人、つまり最初の読み手たち、教会の人々も、もはやヘブライ語聖書に出てくる律法など守る必要は無いのだと解釈しがちでした。それは単なる誤解とは言えません。イエス様ご自身も、安息日を厳格に律法どおりには守られませんでした。安息日にはしてはいけない治療を行って病人を癒されました(十二章九節以下)。また弟子たちも、食事の前に手を洗わなかったり(十五章二節)、安息日に麦の穂を摘んだりしました(十二章一節)。にもかかわらず、イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃったのです。驚きです。

「律法や預言者を廃止するためでなく完成するために来た」。異なった訳では、「解消するためではなく成就するために」と書かれています。預言者の書に書かれていることが成就したというのなら分かる気がします。クリスマスには、イエス様誕生は預言の成就であるとして、必ずイザヤ書やミカ書が読まれます。しかし、律法を完成するとなるとどうでしょうか。律法を完全に実行するという意味ではないことはすぐわかります。イエス様はむしろ律法を無視したり破ったりされたからです。このことが十字架での死をもたらした原因となりました。「昔の人々に・・・何々といわれたのをあなたは聞いています。しかし、わたしは言っておく」とおっしゃるのを聞きましても、これまでの教えを否定なさったように感じますから、律法を完成するためにきたというのは、やはり奇妙な言い方です。これは明らかに、イエス様と律法の特別な関係から考える必要があります。「律法や預言者を廃止するためでなく完成するために来た」というのは、「イエス・キリストこそが、律法の本来の意図を発揮される」ということなのです。そもそも律法とは人を生かすものでした。旧約聖書のレビ記十八章四節に、「わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」(レビ記十八章四、五節)という記述があります。わたしはあなたの主、神であって、あなたの命に責任を持つから、わたしの掟を守れ、守れば命を得るのだということです。神によって生かされているという本来の人のあり方が、解消する、消えてなくなるのではなく、そこに示されていた神の御心が、イエス・キリストによって完成させられるのです。

「律法や預言者」という言葉は、この山上の説教の終わりの方、七章十二節にも出てきます。腹を立ててはならないとか、復讐してはならないと説かれた後、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」とおっしゃるのです。また、二十二章ではさらに突っ込んでおっしゃいました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(二十二章三十七~四十節)。このイエス様の命令、「愛」の教えこそが、すべての律法と預言者、つまり旧約聖書の教えの急所であって、イエス様が完成なさろうとされているものなのです。

今日の御言葉に戻ります。イエス様は続けておっしゃいます。「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(十九、二十節)。律法がやはり神との関係を規定するものであることがはっきり分かります。先ほど申しましたように、義である、ツェダカーであるとは、神がわたしたちを愛しておられ、わたしたちがその愛に応答するという関係を指す言葉なのです。言い換えますと、「わたしたちが互いに愛し合うこと」、この戒めにおいてこそ律法は完成するのです。ファリサイ派の人々はまじめでした。神に忠実であろうとしました。ですから人間に対する義務と神への義務が衝突したとき、人のことは一顧だにせず、神に対する義務を果たそうとしました。安息日を守らねばならない。ですから安息日には目の前で人が苦しんでいても助けなかったのです。律法が神と人との関係を規定するものだということは、ちゃんと正しく理解されておりました。しかしファリサイ派の人々は、自らと神との関係を問うだけで、隣人への配慮は欠けていたのです。一言でいえば、愛を失っていたのです。

とても大事なことがわかります。キリスト抜きに人と神のあり方、人と人との正しい関係を全うすることは出来ないのです。律法は人間同士の倫理に関しては、それだけでは完全とは言えません。イエス・キリストを通して考えないと、どんなに頑張っても、自己義認に陥って自分を正当化し、隣人への愛を失っていきます。ですからこの後、二十一節以下で、イエス様は弟子たちに律法のきわめて具体的な解釈を教えておられるのでしょう。「殺すな」という戒めはこういう意味だよ、「姦淫するな」という戒めはこういう意味だよ、離縁するな、誓うな、復讐するなというのはこういう意味だよと続きます。

最後にもうひとつ、わたしたちにとって律法とは何かをどうしても考えておきたいと思います。なぜなら、わたしたちはユダヤ人のように、民族のアイデンティティーとも言うべき、この身にしみこんだ律法を持っていないからです。ですから聖書の話は昔のユダヤ人の話で、わたしには関係ないなと思いがちです。実は明治期に日本に伝道にやってきた宣教師は、義ということ、神と人の関係があるべき姿にあるということを、日本語でどう表現していいかよく分からなくて、道徳の言葉で言い表しました。これは分かり易いのですが、大きな誤解の元になりました。「きちんとする」「迷惑をかけない」「人に負けない様に頑張る」という日本人らしい価値観と結びつき、信仰ですら優劣が生じました。優越感と劣等感、嫉妬と傲慢ということが出てきました。わたしはこの影響を受けていて、何人も殺したのです、心の中で。教会でよくあるでしょう。わたしは何があろうとちゃんと礼拝しているから義であるとか、わたしはこんなに奉仕しているのに、あの人はちっとも働かない。たまには何か奉仕でもしに来たらいいのに。まあ仕方ないわね、あの人はまだ信仰がよく分かってないから。といった具合です。これがわたしの、わたしたちの律法主義ではないかと思います。

わたしどもを道徳の規範から救い出すもの、道徳を無視するのではなく完成させるもの、それこそがイエス・キリストへの信仰から生まれる個性です。神の前に立つ自分です。他人との比較、あの人は幸せだがわたしは不幸という考えからの解放です。神はわたしをわたしとしてお造りになったのです。近代人が言う「われ思う、ゆえにわれあり」の個性とは違います。被造物としての個性です。このことがわかると、自分は不幸だとか、なぜわたしがとか、あの人がうらやましいとか言わなくてみます。言ってもいいのですが、後ろ向きではなく前を向いて生きることができます。もうすぐ死ぬかもという時ですら、そうです。「神様、わたしがいかに小さなものでありましても、いまこうして病の床にありましても感謝します。あなたがわたしを生かしてくださったからです」、と言えれば、横を見る必要はないのです。上を仰ぎ見ましょう。そして世界とわたしを作られた神を礼拝しましょう。その時、自分を献げて生きることができるのではないでしょうか。

 

祈ります。
父なる神、あなたの慰め、あなたの平和、あなたの愛を教え、わたしたちがあなたの方を向いて生きていけるように律法を与えてくださったことを感謝します。どうかあなたとの正しい関係の中で、あなたのご愛に応えていけますよう支え導いてください。また、イエス様の戒めに従い、あなたを愛し、隣人を愛する生き方ができますよう強めてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月23日の音声

 

2017年4月16日 復活日

「復活された」
マタイによる福音書二十八章一~十節

おはようございます。主のご復活を共に祝いましょう。

今わたしは「おはようございます」と申しました。説教を挨拶で始めることはあまりしませんので、やはり今日はイースターで特別だなと思われたかもしれませんが、実は復活なさったイエス様が、その日の朝最初におっしゃった言葉が、「おはよう」だったのです。先ほど朗読を聞きました九節をご覧ください。

「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(九節)。口語訳ですと、「平安あれ」と訳されていましたが、もとの言葉は特に宗教的な言葉ではなく、ごく普通の挨拶の言葉です。わたしたちのよく知っておりますヘブル語、シャロームに当たるギリシア語エイレーネーではなく、よくいらっしゃいましたとか、こんにちわとか、ご機嫌よう、といった普通のギリシア語です。朝ですと「おはよう」でしょう。しかしそれにしても、お甦りのキリストがなさった「やぁ、おはよう」という挨拶は意外です。この婦人たちは、先生であったイエス様の死によって失望落胆し、今後どうやって生きていけばいいのかわからない状態にあったのです。そこにイエス様が突然現れたのですから、まさに天地もひっくり返るようなことが起こったのです。もう少し強い言葉を期待する場面です。たとえば、「安心しなさい、よくごらんなさい。生きているよ」とでもいう具合にです。にもかかわらずイエス様の言葉は非常に素朴な、生活の匂いすらするものだったのです。それが復活の朝、最初の言葉であったと聖書は語ります。

復活の事実は教会にとっては最も大切な出来事です。しかも人間の経験の外にある出来事です。説明が付かない神秘です。その厳粛で神秘な出来事を伝えるのに、「やぁ、おはよう」というのは日常的過ぎるかもしれません。わたしたちなら復活を伝えるのにどう書くでしょうか。マタイは、復活のキリストをきわめて日常的な挨拶の言葉で伝えています。このことに注目したいと思います。

聖書が書かれた時代、教会にはユダヤ社会とローマ帝国から二重の迫害がありました。人々は非常に厳しい状況の中で福音書を読み、そしてこの物語を伝えていったのです。この時代、キリスト者の生活にはただでさえ様々な重荷があり苦労が多かったことでしょう。加えて、生まれたばかりの教会には絶えず論争による混乱がありました。死からの復活とは何であるのか、様々に論じられてきた跡を新約聖書の中に見ることができます。外からの迫害には耐えられても、内からもめごとで揺さぶられると、組織は弱いのが普通です。しかしそのような厳しい状況の中、復活の主の「おはよう」という素朴な挨拶が響くのです。「難しいことはさておいて、まず主の復活を喜ぼうではないか」。そんな呼び掛けが聞こえてきます。この呼びかけに、教会は動かされ変えられていったのです。

教会の教えは、高い精神性を持っておりますが、ある特別な人のみが到達できるような特別な精神性や深い黙想だけではありません。神秘を含みますが、限られた人のみが経験できる神秘体験だけでもありません。身近な出来事の中で泣いたり笑ったりしている、当たり前の日常生活をしているわたしたちにも届く語りかけなのです。主の「おはよう」という呼びかけを伝えるこの福音書に響いているのは、初期の教会の人々が聞いたのと同じ「今のこの当たり前の日常の中で、厳しく苦しいことも沢山あるかも知れないけれども、ともかく主の復活を喜んで生きていこうではないか」という勧めに他なりません。ですから、わたしたちも、まず何よりも、共に喜びたいと思うのです。この復活のメッセ-ジに耳を傾け、共に受けとめ、動かされ、変えられていくのです。

では今日読まれた御言葉の一節をご覧ください。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(一~四節)。イエス様が十字架にかけられた次の日の安息日が終わりました。安息日とは土曜日のことです。正確には金曜日の夜から土曜の夕方までです。土曜の夜から新しい週が始まります。週の初めの日です。明け方にとありますから、今のわたしたちの暦では日曜日の夜明け前にあたります。マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行きました。もう一人とは、二十七章の最後の記事から、ヨセフとヤコブの母マリアと分かります。二人のマリアは墓を自分の目で見て、主の死を納得するために墓に向かったのです。ほかの福音書では、ご遺体に油を塗るためだったと説明しておりますが、マタイはそのようには記しておりません。すると大きな地震がおこりました。当時の墓は岩に掘られた横穴式の墓です。入口は大きな石で塞がれていました。その大きな石を、主の天使が天から降ってきてわきへ転がし、その上に座ったのです。天使の出現は神の臨在を、また、石がわきに転がされたことは、死の現実が打ち破られたことを表しています。婦人たちや番兵たちは、イエス様の復活そのものを見ることはできませんでしたが、神はイエス様の復活に際して、はっきりと目に見え、知ることのできる地震を起こされたのです。イエス様の復活は確かに時間の流れの中で起こったのです。歴史的出来事です。心の中の出来事ではありません。

番兵が恐ろしさのあまり震え上がったのですから、婦人たちも相当怖かったでしょう。まだうす暗い時間帯です。天使が直接婦人たちに言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(五、六節)。「恐れることはない」と天使は語り、遺体のあった場所を見るように言います。天使が「見なさい」と言ったのですから、二人のマリアは当然見たでしょう。そこに主イエスのお体はありませんでした。墓は空だったのです。

わたしたちは、主の復活によって人間を闇の内に閉じこめていた死の空間に風穴が開いたことを知っております。そう最初から教えられてきたからです。しかしこの出来事は、まだ二人のマリアの喜びと希望にはなっておりません。彼女たちの見ている不思議な光景は、ただ恐怖をもたらしているだけです。稲妻のように輝き、真っ白な衣の天使の姿もそうでしょうが、何よりも、神の力が現された場所の只中に立ったときの「畏れ」でしょう。そこで天使はまず「恐れることはない」と言った上で、主イエスの復活を伝えます。神の御業に触れたときに恐れなくてもいいのだということは、イエス様が復活されて初めて人類に与えられたものです。彼女たちに知らされたことは単に墓が開かれ空になったということではありません。主イエスが「復活なさった」ということなのです。「復活なさった」と訳されていますが、元の言葉では復活させられた、起き上がらせられたと受け身で書かれています。神がイエス様の犠牲を受け入れられ、そうなさったのです。天使のこの言葉は、主イエスがもはや「死」の内におられないということを告げています。空っぽの墓は「死者の中から復活された」しるしとして提示されています。十字架につけられたイエス様はもはや死の中におられない。死の外に立っておられるのです。そのことが告げ知らされたのです。

「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(七節)。天使は弟子たちに二つのこと、イエス様が死者の中から復活されたことと、ガリラヤで待っておられることを急いで伝えるようにマリアたちに言い、その上で、確かに伝えましたよ、分かりましたかと念を押しております。

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(八~九節)。二人のマリアは、神の働きに触れ恐れますが、それ以上にイエス様ともう一度一緒に生きられることができることを喜び、このことを弟子たちに告げようと急いで墓を出て行きます。すると、復活されたイエス様が行く手をふさぐように立っておられたのです。「おはよう」と声をかけてくださいました。すぐにイエス様だとわかったのでしょうか。イエス様がどのようなお姿であったかについてマタイは語っていません。彼女たちは、近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏します。お甦りのキリストは亡霊ではありません。足があります。「ひれ伏した」、この言葉はマタイによる福音書に十三回も繰り返されます。最初は、幼子イエスを訪ねて東方から来た占星術の学者たちが、イエス様の前にひれ伏します。最後に出てくるのは二十八章十七節で、弟子たちが主の前にひれ伏します。この言葉は礼拝を意味しますから、二人のマリアも、死をうち破り死の外に立つ救い主を礼拝する者としてここに描かれているのです。

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(十節)。この指示は、天使がマリアたちに指示した言葉と同じですが、これは天使ではなくイエス様の命令であり、また、天使が「弟子たちに」と言ったところが、イエス様の言葉では「兄弟たちに」と変わっています。三日前イエス様が逮捕されたとき「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(二十六章五十六節)と書かれていました。その姿は、十字架につけられたイエス様を見守っていた婦人たちの姿と対照的でした。しかし今イエス様は、「兄弟たち」とおっしゃってくださったのです。もし、イエス様が、弟子たちに「お前たち、よくもわたしを見捨てて逃げたな」とおっしゃれば、それこそ弟子たちは震え上がったことでしょう。イエス様を見捨てた弟子たちに対する、赦しと憐みが現れています。

ガリラヤは、弟子たちが最初にイエス様にお会いした場所です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の招きの言葉を耳にした場所です。よーし、それならと仕事を辞めてイエス様に従い始めた原点です。そこで主が待っておられるのです。もう一度初めからやろう、わたしについてきなさいとイエス様はおっしゃってくださるのです。再びイエス様に従い共に生きることができるのです。

それはただ俗にいう「振り出しに戻る」ということではありません。ガリラヤで待っておられるのは、死者の中から復活されたイエス様なのです。彼らは復活した救い主キリストに新たに従い始めるのです。つまり、全く新しいことが始まるのです。単なる繰り返しではありません。主を見捨てた弟子たちは一度死んだものとされるのです。その上で新しい命を与えられて、イエス様に従い始めるのです。そのような彼らをもはや主は「弟子」とは呼ばれず、「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。これが「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」と語られたことの意味です。

さて、わたしたちは今、教会において復活祭を祝っています。教会の行事でそう決まっているから、毎年春になったら祝っているのではありません。弟子たち同様に、「わたしたちのガリラヤに行き、そこでキリストに会う」のです。わたしたちも罪の赦しにあずかり、新しく生まれた者としてキリストと共に生きることができます。主のご復活を祝うということは、新しくご復活のイエス様と一緒に生きることです。

「恐れるな」という言葉が心に響きます。あの日曜日に起こったことが、今日この日曜日にも起こります。死を打ち破られた方と共に生きるわたしたちは、もはや死の闇の中に閉ざされてはおりません。生活の重荷はあるかも知れません。人生の苦闘は続くでしょう。悲しみに打ちひしがれることもありえるでしょう。病気にもなるでしょう。しかし、ご復活のキリストと共にあるならば、わたしたちは死の闇に閉ざされてはおりません。わたしたちの人生に命の光が差し込みます。死の世界にぽっかり穴が開いて、天からの風が吹き込ます。そこにわたしたちの希望があります。本当の希望があります。この希望があると人生は変わります。わたしたちは何も特別な人間である必要はありません。ごく当たり前の日常を営む人間として、主の復活を喜んで生きるよう招かれているのです。イエス様が「わたしの兄弟」と呼んでくださるのです。今日は復活日です。もう恐れなくていいのです。キリスト復活。まさに復活。ハレルヤ。

 

祈ります。
父なる神、ご復活の主は、自分を捨てて逃げた弟子をわたしの兄弟たちと呼ばれ、ふるさとのガリラヤで会おうとおっしゃいました。同じようにわたしたちも罪の赦しにあずかり、新しく生まれた者としてキリストと共に生きることができるようにしてくださっています。この恵みに感謝します。どうかわたしたちの信仰を強め、主のご復活を心から祝い、日々の生活を主と共に喜んで送ることができますよう支え導いてください。一人でも多くの方たちがあなたを知り、あなたに人生を委ねて歩むことができますよう、わたしたちをお用いください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

4月16日の音声

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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