待降節 2019

2019年12月1日 待降節第1主日
「主の来臨の希望」
イザヤ書 52章1~10節

今日から待・降・節です。主のご降誕を待ち望むときです。目で見てわかるようにろうそくの明かりがともりました。教会の暦ではこの日から新しい年が始まります。待降節には旧約聖書が読まれますが、必ずイザヤ書の四十章から五十五章までのどこかが入っています。なぜ、どういう意味があってクリスマス前にこの箇所が読まれるのでしょう。今日はそういうことも考えながら、イザヤ書の御言葉に聞きたいと思います。

イザヤ書の四十章以下五十五章までは、ユダの国がバビロンに滅ぼされ、指導者層が皆捕囚となってバビロンに連れて行かれてから何十年もたった後の預言です。連れてこられたとき若者だった者も既に白髪になっています。初めの内はすぐにでも故郷に帰り、自由を回復できるのではないかと望みを持っておりました。しかし、四、五十年が経っても状況は変わりません。いったい神はご自分の民なのに遠く祖国を離れた異郷の地において捕囚のままにしておかれるのだろうか。ご自分の民が滅びるのを望んでおられるのだろうか。なぜ自分たちはそんな悲惨な目に遭うのだろうか。こういう出口の見えない状況に置かれて、おそらく多くの人々はあきらめムードだったのではないでしょうか。自分たちの先祖が拝んでいた神がいて神の約束というものもあったらしいけれども、そんなことはもはや信じられない、もう何も聞きたくないと耳をふさいだだけではなく、支配者であるバビロンに迎合し、名前までバビロニア風に変えた人さえたくさんいたようです。こういう状況のとき、一人の預言者が現れました。無名の若者です。重労働の後で、河のほとりでほっとして休んでいるユダヤの民に向かって呼びかけました。「団結して立ちあがれ、戦え」ではありません。「主を尋ね求めよ」(五十五章五節)と言ったのです。

今日聞きました箇所は「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」という預言者の力強い呼びかけで始まります。そしてもはやエジプトや、アッシリアやバビロンなど無割礼の外国人から攻められることはない、「立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ」と足かせから自由になれと説きます。「捕らわれのエルサレム」「捕らわれの娘シオン」と呼んでいるのはもちろん、自分の国を滅ぼしたバビロンによって奴隷にされたことを指しているのでしょう。エルサレムはシオンの山の頂きにあるのでシオンとも呼ばれます。その囚われの人々に「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」という主の言葉が告げられます。捕囚からの救済の預言です。そして、「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られているが、わたしの民はわたしの名を知り、わたしが神であることを知るようになる」とも告げて、神がご自身の名のために働かれることをみんなが知るようになると宣言しました。

それに続くのが、クリスマスによく読まれる次の箇所です。神による罪の赦しが告げられます。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」(八~十節)。神が王となって帰って来られる。この素晴らしいニュースを、王が帰ってこられる前に、先ぶれの使者が触れ回ります。喜びが爆発するニュースが山々を行き巡って伝えられます。先ぶれの使者の足は、今のような靴はありませんから、おそらく泥だらけでしょう。山道を歩き回りますから血だらけかもしれません、でも彼の足は輝いて美しい。あなたの神が王となられた。もはや支配者はバビロンの王でないのは勿論、ペルシャの王ですらありません。神が王として即位された。世界の主である神が王として御自分のものとされた町に帰ってこられるのです。もちろん、そのことが起こるのは未だ先のことです。現実には、次にエルサレムを支配することになるのはペルシャです。また故郷エルサレムは美しく建て直された城壁の町ではなく、まだ廃墟の町、がれきの山の惨めな姿のままです。それにもかかわらず、預言者は「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」と呼びかけます。爆発する喜び、大地を揺るがすような大合唱を思わせる、そのような大きな喜びへと招きます。

いったいどうしてでしょうか。この呼びかけには続きがあります。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。この直前に、日本語ではわかりませんが、「なぜなら」という一言が元のへブル語にはあります。つまり、なぜ「共に喜び歌え」と語られているのかというと、主なる神が民を「慰めて」くださったからだ、町を「贖われた」からだと言うのです。「慰め」と聞くと、ホッとしたり嬉しくなったりはしても気休めに過ぎないだろうという印象を持つことがあります。しかし、ここで預言者が語る「慰め」は「気休め」ではありません。「歓声」や「喜びの歌」に繋がる、もっと力強い、決定的な変革、問題の解決をもたらすものとして語られています。ユダヤの罪への怒りで国を滅ぼし、エルサレムを廃墟となさった主なる神が、今度は「慰める者」として、エルサレムに臨み、力強い働きでかつての都を回復すると言われます。怒りが赦しに変わり、罪が赦されるのです。罪の赦しこそ慰めです。ですから「慰める」ではなく「強くする」と訳している聖書もあります。気休めではない真の慰めは、人を生かす主なる神が働いて罪から解放してくださることなのです。神が民を慰められる。強くしてくださる。それゆえエルサレムの廃墟は歓声をあげ喜び歌うことができるのです。

預言者はさらに、「(主なる神は)エルサレムを贖われた」とも言っております。「贖う」という言葉を、わたしたちはよく知っております。イザヤ書に繰り返されている重要語の一つです。同じ言葉が三節では「買い戻す」と訳されていました。この「贖う」あるいは「買い戻す」という言葉は、身内の不始末に関する用語です。土地や人などを買い戻す、取り返すことを「贖う」と言います。神が「エルサレムを贖われた」という言葉は、それまであるべきでない、いわば売られた状態にあったことを意味します。

ところで、預言者の言葉を注意深く読みますと、この人は過去のことを言っているのか、将来のことを言っているのか、少し迷います。バビロンにいながら語っているのですが、まるでエルサレムにいるかのようにも聞こえます。何度か申し上げましたが、ヘブル語には過去、現在、未来という言い方がありません。○○だった、○○である、○○となるだろうではなくて、すでにそうなったか、未だなってないか、つまり完了か、未完了かなのです。ですから、未来のことなのに、過去のことのように訳される場合があります。預言者の目には、神が怒りを捨て慰めてくださる姿が見えているのです。将来のことではあるが、既に起こっている、必ずそうなる、間違いなく実現するという言い方をしています。

エルサレムはいまだに廃墟のままです。目に見える状態は何ら変わってはいません。しかし事は既に起こったのです。神と民との関係には、決定的な転換が既に起こっています。主はエルサレムを贖われました。それゆえに、エルサレムの廃墟はもはや嘆きの中に座り込んでいる必要はないのです。「歓声をあげ、共に喜び歌う」ことができるのです。満州から引き揚げるのに、帰国が決まると、未だ大連にいても、引き上げ船に乗っていなくても、故郷の山が見えたという話と同じです。

預言者は、ユダの民にとって本当に大切なことは政治的解放、エルサレムへの帰還ではなく、主なる神との関係が正しくされることだと言います。主が民を贖い、エルサレムを贖われるという事実です。捕囚の民は、買い戻され自由になってシオンに帰るのです。エルサレムが廃墟となったのは、神の怒りであり裁きでした。売られて奴隷となったのは民の罪のゆえでした。ですから本当ならエルサレムは買い戻す価値のない町なのですが、主なる神は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。御自分のものとなさいました。しかし、これを聞いた民は喜びにあふれたでしょうか。ご想像どおり、そうはなりませんでした。この言葉は無視されました。何をいまさら、そんな馬鹿なという感じでしょう。この預言者だけが、そう理解していたのです。ですから当然孤立します。そもそも自分たちは解放されると言うなら、それはバビロンがつぶれない限り無理でしょうから、ユダヤの人だけでなくバビロンの人からも嫌われ憎まれたはずです。誰からも信じられなかった悲劇の人、この人はまさにイエス様を想い起こさせる人物です。この預言者の語った「苦難の僕」の姿は、イエス様を表した預言として旧約聖書の預言の中でも最も有名です。

かつて預言者を通して語られた主の民への慰めとエルサレムの贖いは、事実、後の日に御子なるイエス様のご生涯を通して、その死とご復活をもって、はっきりと現されました。このお方が神の慰めを示されました。神の怒りは取り除かれたのです。イエス様が神の「憤りの大杯」を飲み干されることによって、わたしたちの頭上にあった憤りの杯は空になりました。神による買い戻しはまさに銀によらずに、御子の命によってなされました。その流された血によって、わたしたちは罪の支配から買い戻され、再び神のものとされたのです。今日聞きました預言者の言葉を当時聞いた人は誰一人そうだとは信じませんでしたが、そうなりました。わたしたちがイエス・キリストの御降誕を待ち望み、そしてイエス様がわたしたちの罪のために十字架にかかってくださったことを思い出す待降節の時、この預言者の言葉は新たな響きをもって迫ってきます。良き知らせが、わたしたちのところにも伝えられています。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」という言葉は、まさにわたしたちへの呼びかけなのです。そしてこれこそが今日の聖書箇所がクリスマス前に読まれる理由です。「主の来臨の希望」なのです。

マラナ・タ教会の皆さん、二〇〇八年四月六日「いまや、きざしが見える」と題して、イザヤ書四十三章の説教でわたしの牧会はスタートしました。同じ預言者の言葉でした。わたしがこの教会を離れるまであと三か月余りです。イザヤ書からの説教はこれが最後です。遺言ではありませんがよく聞いていただきたいのです。いま日本は、津波、地震、原子力発電所の事故、火山の噴火、超大型の台風、異常な大雨による被害と災害が絶えません。グローバルな温暖化の影響もあるでしょう。また格差の広がり、人口減少や少子高齢化、親による子供の虐待と多くの問題が横たわり、信じられない犯罪が起こっています。政治家は○○ファーストを問います。○○に入るのは国の名前に限りません。自分の名前も入ります。自己実現、自己成就を神とする位置においています。公的な権力を持つ人間は皆、神ならぬ神に忖度して、嘘と丸わかりのことを白々しく答弁しております。記録は在りません。知りません。記憶にございません。こういう時、人は必ず神はいったいどうしておられるのか、どうしてこんなことが起きるのかと問います。この預言者の時代と変わりません。しかし、いくら神になぜ、どうしてですかと問うても答えは得られません。なぜかというと、神を問う、神に問うという問いは本当の問いになっていないからです。神に問えるのは、わたしたちが生ける神と真にかかわりを持っている時だけです。神との正しい交わりにあるとき、実は神がわたしたちに問うておられるということがよくわかるでしょう。このことがよく分かって初めて、神への意味のある問いが生まれます。神を問うためには神がわたしたちに何を求めておられるのか、それをまず問わねばなりません。

「歓声をあげ、共に喜び歌え」。この呼びかけに、わたしたちは今、応えます。先ほども礼拝への招きを聞きました。「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王」(詩編九十五篇一~三節)と。今年もクリスマスを祝います。世の中が不況であろうとも、災害の爪痕が残っていようとも、災いに満ちていると思おうとも、どんな状況にあろうとわたしたちはクリスマスを祝い、歓声をあげ喜び歌います。間違ってはなりません。喜び歌うのは、一時的に廃墟から目を背け、惨めな自分の姿に対して目を閉ざすためではありません。また、思考を一時的に麻痺させて別世界に身を置くことによってでも、酔っぱらいのように興奮した歓声をあげるのでもありません。そのような気休めではなく、主が王となってくださったことを心の底から喜び祝うのです。救い主が来られることを確信して喜び歌います。わからないこともあるでしょうが、だからと言ってそのうちにいつかと構えて居れば時を失します。預言者の声に真剣に聞き、神が何を求めておられるのかをしっかり聞いて、今応えるのです。

もう一度繰り返します。「歓声をあげ、共に喜び歌え」という呼びかけは、エルサレムの廃墟に対してなされました。「真の王が贖う者として来られ、正しく世を治めてくださる」と、まだ実現しておりませんが既に実現したことの様に預言者は語りました。確実な希望があれば廃墟の中でも歌えます。イエス様は、罪によって荒廃したこの世界の中に、真の人として生まれてくださいました。一見神によって裁かれたように見える者に希望をくださいました。既にわたしたちの運命を変える決定的なことが起ったのです。それゆえに、わたしたちは現実と向き合えます。たとえ廃墟のような状態にあったとしても、傷ついた世界、病気のわが身、また問題を抱えた自分の家族にも向き合えるのです。イエス様の誕生を想い起こし、再び来られるのを待ち望みましょう。神が王となって、こちらに向かって歩いてこられます。主なる王が帰ってこられるのです。「歓声をあげ、共に喜び歌い」ましょう。

祈ります。

イエス・キリストの父なる御神、この世に御子イエス様をお送りくださり、わたしたちを贖ってくださったことを感謝します。待降節の今、イエス様のご降誕を記念して祝うクリスマスをわくわくしながら待つと同時に、あなたの慰めと贖いを思い、悔い改めのときとして過ごすことができますよう、このときを祝してください。たとえどのような状態にあっても、共に喜び歌いつつ、常にあなたを見上げて生きていくことができますよう支え導いてください。

主の御名によって祈ります。アーメン。

 

12月1日の音声

 

 

 

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