待降節 2018

原則として 各月最終週の説教を 森喜啓一牧師が担当します
その他は 久下倫生牧師が担当です

 

2018年12月16日 待降節第3主日
「恐れるな」
ゼファニヤ書 第3章14~20節

待降節第三主日になりました。待降節に入ってわたしたちは旧約聖書から救い主を待ち望む信仰を連続して聞いております。今日はゼファニヤ書三章から御言葉を聞きましたが、やはり回復の預言がなされており、先々週のエレミヤ書三十三章、先週のイザヤ書五十五章の言葉と伝えようとする中身がよく似ております。

このゼファニヤという預言者にはあまりなじみのない方が多いのではないかと思いますので、ゼファニヤ書とはどういう書物か、ゼファニヤはどういう時代に生きた人であったかを、この機会に見ておきましょう。「主の言葉があった。ゼファニヤに。ヒズキヤの子であるアマルヤの子であるゲダルヤの子であるクシの子であるゼファニヤ。それはユダの王アモンの子ヨシヤの時」。これがこの預言書の出だしの直訳です。今から聞くのは主なる神の言葉だと始まり、これがゼファニヤに向かって語られた言葉であること、またゼファニヤは、どういう血筋の人であるかということ、そしてこの神の言葉はヨシヤ王の時代に与えられたのだと簡潔に語られています。

カタカナの先祖の名前は忘れても結構ですが、「南王国ユダの王であるアモンの子ヨシヤの時」という王の名前には目を止めたいと思います。ヨシヤの父アモン王の時代は、まだアッシリア帝国が強大でした。イスラエル北王国がこの国に滅ぼされてから、南ユダ王国は、長年アッシリアの支配に屈し、朝貢を続け、かれらの宗教も受け入れざるを得ない状態でした。北の大国に苦しめられていたのです。アッシリアの信仰は、日本古代のそれに似て、自然の中にたくさんの神がいるという信仰です。アモンの時代は、あらゆるところに異教の像が立ち、主なる神ヤハウェを礼拝する場所に、別の宗教が同居しておりました。エルサレムの神殿にさえアッシリアの神が祭られている有様だったのです。

アモンの子ヨシヤは、八歳の子供だった時に王になりました。ゼファニヤが最初に主の言葉を聞いたのは、アモン王の時代の雰囲気がそっくり残っていた、ヨシヤ王がまだ幼かった頃でした。「わたしは地の面からすべての者を一掃する、と主は言われる。神に逆らう者をつまずかせ、人を地の面から断つ、と主は言われる」(一章二、三節)。ゼファニヤ書の最初の言葉は衝撃的です。神の厳しい裁きを告げております。しかし、エルサレムの人々はこの神の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。この主なる神を軽視する態度はその後も続きました。そこで、審判の言葉が繰り返されます。ここから三章です。「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は。この都は神の声を聞かず、戒めを受け入れなかった。主に信頼せず、神に近づこうとはしなかった」(三章一節)。それでもやはり、人々は主に信頼を置かず、神に近づこうとはしなかったのです。主を求めよという呼びかけを無視しました。なぜならこの時、アッシリアの国力が衰え始め、ユダ王国の状態が、以前よりよくなったからです。今でもそうですが、外交、経済面が安定していると、人々は信仰より繁栄を求めます。

ところが、そういった信仰が弛緩していた時、ヨシヤ王の治世第十八年に、修理中の神殿から今わたしたちが申命記と呼んでいる書物が発見されたのです。この書には「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記六章四、五節)と始まる有名な戒めがありますが、まさに信仰が正される書です。この書物に触発された人たちが、信仰復興運動いわゆる宗教改革を起こし、申命記革命と言われるほどの大変革が起こりました。今でも伝統的なユダヤ人の間では、「聞け、イスラエル」「シェマー、イスラエル」で始まる言葉が毎日読まれています。

この頃、アッシリアがますます弱ってきていましたので、アッシリアの神像を取り除くことができました。ですから人々は改革によって信仰が取り戻せたと思っていたのです。しかし、役人や裁判官たち上に立つ者が、神に従うよりも権力に媚びて、王やその周辺の者たちに都合のよいことを語り、弱者を食い物にする体質はかえってひどくなりました(三節)。祭司たちも、聖なるものと俗なるものを区別する最も大切な働きよりも(四節)、改革で地方聖所が閉鎖されたことによるリストラをどう乗り切るかが一番の関心事でした。こんな状況では、ヨシヤ王が成長し、申命記による宗教改革が断行されて偶像を排除したにもかかわらず、結局この改革は見かけほど成功しなかったことは容易に想像できます。

そういう国家の秩序が乱れた時代、ちょうどエレミヤと同じ時代に、ゼファニヤは生きていたのです。たとえ社会が乱れていても、その中に神が来てくだされば、神が「朝ごとに裁きを与え、それを光とし、誤りをなさることはない」のですが、実際は、不正を行う者が平気で悪事を行ったのです(五節)。朝には必ず陽が昇ります。昇らなかった日は一度もありません。神は無秩序を好まれません。必ず正義の秩序がなります。この時代、彼らの目の前でアッシリアの都ニネベがついに陥落しました。「わたしは諸国の民を滅ぼした。彼らの城壁の塔は破壊された。わたしは彼らの街路を荒れるにまかせた。もはや、通り過ぎる者もない。彼らの町々は捨てられ、人影もなく、住む者もない」(六節)。これを見たらユダの人々は「必ず神を畏れ、戒めを受け入れる」はずでした。しかし、エルサレムの人々は神の主権を悟らず、「彼らはますます堕落を重ね、あらゆる悪事を行った」(七節)のです。外敵から解放された、アッシリアの神はいなくなった。にもかかわらず、正しい礼拝はなされませんでした。そうなりますと、主なる神はもはやこの国をそのまま放置はできません。この後、この国の運命は、二週間前エレミヤ書三十三章で学んだ通りに進んだのです。ヨシヤ王はエジプト軍によって殺され、その子ヨヤキムが新しく台頭してきたバビロンに滅ぼされ、国は滅亡への坂を転がり落ちて行きました。「必ず、地上はくまなく、わたしの熱情の火に焼き尽くされる」(八節)。最終的な神の宣告です。そして、この預言通りエルサレムは焼き尽くされてしまったのです。三章八節までに、そういう描写があります。

ここで終わってはもう絶望するしかありません。しかし、これは終わりではありませんでした。神の目的は人を滅ぼすことではなく、神の民を確立することだからです。「諸国民は清い唇を与えられ」、つまり偶像を拝まないで「主の名を唱え、一つになって、主に仕える」(九節)、そんな日が来るのです。「クシュの川の向こうから、わたしを礼拝する者、かつてわたしが散らした民が、わたしのもとに献げ物を携えて来る」(十節)。クシュとは今のエチオピアのことですから、クシュの川の向こうとはこの世の果てです。ゼファニヤは、やがて世界中の諸国民が偶像を拝まず、主の御名を唱え、一つになって、主に仕えるようになるぞと言ったのです。本来のあるべき姿の回復を預言しました。預言者は罪を悔い改めよ、そうでないと国は滅びるぞと語りましたが、それだけでなく「残ったものは回復する」とも語ったのです。残ったものは回復するという、この主題は、わたしたちの教会において、まさに実現することです。神は全地に対する「審き」を、本来審かれるはずのわたしたちではなく、イエス様の上に下されました。十字架の死です。そして死なずに生き残ったわたしたちに回復をもたらされたのです。わたしたちは審判を一時延長してもらったわけです。やがてキリストが再び来られるとき、再臨の時に、わたしたちも最終的に神の審判を見ることになります。

キリストの教会では、聖霊の働きによって偶像から清められ、主の御名を共に称え、一つになって主に仕えることが始まっています。ある具体的な歴史状況の中で語られた神の言葉は、特殊なものではありますが、わたしたちにも通じる普遍性があります。ゼファニヤがエルサレムの住民に語ったことは、わたしたちに語られたことでもあるのです。やがてこういう日が来るのです。「その日には、お前はもはやわたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも辱められることはない。そのとき、わたしはお前のうちから勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で驕り高ぶることはない。わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はない」(十一~十三節)。

そして先ほど読まれた十四節以下が続きます。ここでは回復させられた神の民の喜びが、お祭りのイメージで描かれます。この喜びの言葉は讃美歌です。お祭りのときに喜んで歌う歌です。「娘シオンよ、喜び叫べ、イスラエルよ、歓呼の声を挙げよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」(十四節)。今年クリスマス・イブの燭火礼拝で、聖歌隊が歌う予定のハレルヤ・コーラスは、ヘンデル作曲のメサイヤというオラトリオの中にある曲ですが、その中の第一部「預言と降誕物語」で、この御言葉も歌われています。これはゼカリヤ書九章九節の有名な言葉「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」とほとんど同じです。こんな風にお祭りで讃美歌が歌えるのは、国が滅びてしまった姿ではなく、神の民が回復した姿です。

「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていたものを集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた」(十八節)。祭りを祝えなかった人々が帰ってくる。捕虜になって遠くへ連れていかれた民が帰ってくる。そんな未来の姿が語られます。これは彼らの世界を神が支配なさっている姿です。神以外のものに支配されたり災いをもたらされたりしていない世界でのお祭りです。「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」(十五節)。裁きを退け、敵を追い払ってくださる神が傍にいてくださる、これほど心強いことはありません。ガリラヤ湖の上で、弟子たちが嵐に悩まされていた時、イエス様が嵐の中、湖を歩いて弟子たちの船に近づかれたときのことを思い出します。イエス様だとは気付かず「幽霊だ」と言っておびえる弟子たちに、イエス様は「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」とおっしゃいました。「わたしだ」「わたしが共にいる。だから恐れることはない」と励まされたのです。お前はもはや、災いを恐れることはない」。そうです、恐れることはないのです。主が共におられるからです。みんな歓呼して喜び祝います。

しかももっと驚くのは、王である主が祭りのただ中にいて、誰よりも喜んで楽しんでおられることです。「その日、人々はエルサレムに向かって言う。シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌を以て楽しまれる」(十六、十七節)。

聖書を注意して読んでおられる方なら、すぐにピンと来るのではありませんか。これはイエス様が、たとえで教えられたことです(ルカ十五章)。なくなっていたものが見つかったとき、失われたものが帰ってきたとき、主なる神がどんなに喜ばれるか。たとえば迷子になった一匹の羊を見つけたときの羊飼いの狂喜する姿。なくなった一枚の銀貨が見つかったので、近所の人をみな集めて、見つかった、一緒に喜んでくださいと言う女。家出して行方不明になっていた息子が帰ってきたとき、ものすごく喜び、走っていって首を抱き、祝宴を開いた父親。実際には考えられない異常な喜びが語られます。イエス様は、ゼファニヤの預言のイメージをもとに語られたのでしょう。預言者の言葉を知っていると、イエス様の教えがより深く理解できます。

「見よ、そのときわたしはお前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると主は言われる」(十九、二十節)。ゼファニヤ書は、ほとんど想像しがたいような喜びを語って終わっています。

さてこの説教では何度も回復という言葉を語りました。一体回復するとはどういうことでしょうか。元に戻ると言うことでしょうか。もしそうならいつの時代、どういう状態に戻るのでしょう。「回復する」と旧約聖書が言いますとき、それは「帰る、シューブ」という単語が使われますが、ギリシア語やラテン語に訳されると、ぐるりと向きを変える、英語ならturn aroundという言葉になっています。ぐるりと向きを変えるとは、わたしたちがよく知っている翻訳では、「悔い改める」です。回復は、わたしたちにとってただ都合がよい原状回復ではないのです。たとえば、歳を取って体の機能が衰えた。目がよく見えない、もう走ったり飛んだりできない、心臓や血管が弱っている。このようなときの回復とはどういうことを言うのでしょう。若い時の状態に戻るのではありません。それならまたいつか衰えます。死んだ家族が生き返るのでもありません。そうではなく神とわたしたちの関係が、本来の関係、わたしたちが悔い改めた状態、正しい関係に戻ることです。専門用語で「義とされる」と言います。わたしたちに罪があるにも関わらず、神との関係が回復する、それを繁栄、栄えた状態と聖書は呼んでいます。

ゼファニヤの預言はイエス・キリストにおいて成就したと見られています。ですからゼファニヤ書の三章十四節以下が、待降節に読まれるのです。ゼファニヤの言葉がキリストにおいて成就したのなら、預言者のこの言葉は、単に遠い昔の外国の話ではありません。わたしたちにも大切な話です。わたしたちがこうして礼拝するとき、主の食卓の周りに集まるとき、祭りの時、キリストは王としてわたしたちのただ中におられます。そして王自らが喜び踊のです。キリストが十字架の上で打たれた傷によって、わたしたちは神の裁きを免れ、神との間に平和を取り戻せました。だから恐れることはないのです。「恐れるな」と言われます。

ゼファニヤの語った希望がイエス様のご降誕によって完成したように、わたしたちは皆、イエス様が再び来られるのを待っております。今この礼拝の中にイエス様が見えなくてもおられるとわたしは確信しておりますが、それでもなお最終的に神の下に完全に回復するとき、帰る時が来るのです。そこでは約束された最善がなされるはずです。ですからわたしたちは歌います。マラナ・タと。主よ、来てくださいと。教会は、大きな喜びがその前途にあることを知っているがゆえに、恐れずに自分たちのたどるべき道を、走り続けることができるのです。明らかな希望がある。幸いなことではありませんか。

 

祈ります。
父なる神、御子イエス様をこの世にお送りくださり、預言者ゼファニヤを通して語られた回復の希望を成就して下さいましたことを、心より感謝します。どうかわたしたちがイエス様によって与えられた救いの恵みをしっかりと受けとり、常にあなたを見上げて御前を歩むことができますよう支え導いてください。示された道を、恐れずに歩んでいくことができますように。皆でクリスマスを喜び祝うことができますように。
主の御名によって願い、祈ります。アーメン。

 

12月16日の音声

 

 

2018年12月9日 待降節第2主日
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」
イザヤ書 第55章1~11節

「神が恵みの約束をはたされる日が来る、その日が必ず来る」。先週、預言者エレミヤのこの切実な言葉を聞きました。イザヤ書にも同じ約束が少し違った形で出てきます。今日聞きましたイザヤ書五十五章は、エレミヤ書のひとつ前に置かれていますけれども、エレミヤより後の時代に語られた預言です。これを聞いたのは、バビロンに連れてこられた捕囚の民です。もう神を尋ね求めることなど、ほとんど忘れた重苦しい気分の人々です。かつては信仰を持っていました。しかし、今は失いました。どうやって信仰を取り戻せばいいのか、全く分かりません。神を信頼してみようとしては、幻滅してきました。何の答えもないのです。今では神なしの生活に慣れきってしまいました。そんな彼らになお力強く預言者は語ったのです。でもやっぱり多くの人は真剣には聞きませんでした。自分たちは国を失った捕囚の民です。どうせ誰も何も答えてくれないとすっかりあきらめていたからです。自分にとって意味のある言葉が聞けるとは思ってなかったのです。心を頑なにし、柔軟性を失い動きが取れなくなっております。

語りました預言者自身も、何度か「わたしの道は主に隠されている。わたしの訴えは神に忘れられた」(参:四十章二十七節)とか、「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」(四十九章十四節)と嘆いておりました。これはバビロンに連れて来られた捕囚の民、みじめにも国を失った人、ひとりひとりが歌った嘆きの歌です。「隣国のイスラエル北王国がアッシリヤに滅ぼされた時、神は何もなさらなかった。神は眠っておられるのだろうか。今回もわたしたちユダ南王国の都、ダビデの町エルサレムが破壊されても黙っておられた。わたしたちの先祖アブラハムと契約を立てられたのに一体どうされたのだ。神は正しいお方なのか。わたしたちは約束の土地を失い、都を失い、歴史を失い、国の名前もなくなってしまった。神よ、あなたはなぜ助けてくださらないのか」。

民の嘆きは深刻でした。「バビロンの流れのほとりに座り、(故郷の)シオンを思ってわたしたちは泣いた」(詩編百三十七篇)とある通りです。どこにおられるのですか、神よ、あなたはいつも傍にいてくださるのではないのですか。そんな風につぶやき、絶望的なあきらめの中に過ごしていました。そんな彼らに主の僕の苦難と死が一方的に語られ、新しい祝福が告げられました。すぐ前の五十三、五十四章に記されている聖書を代表する有名な言葉です。「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられてかがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」(イザヤ書五十三章六~八節)。それに続けてなお神は語られたのです。今日の御言葉です。渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。・・・・・聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(一節、三節)。

預言者は励ましに加えて、もう一つ重要なことも語ります。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(六節)。預言者は二つのことを言っております。一つは辛抱強く尋ね求めよ。そうでなければ何も見つけられないだろう。扉を激しく叩かないと扉は開かないだろう。なお主を尋ね求めよ、です。それに加え預言者はもう一つ別の重要なことも語ります。我々は信仰を誤解しているのではないか。神は永遠であり、神はいつでも存在する。だから呼びかければ答えがあるはずだと。しかし、祈ってもなんの手ごたえもないときがありうる。たとえ人が呼び求め、真剣に問い、苦しみの中で叫んでも、何も答えが得られないときがある。だからこそ、見出しうるときに神を尋ね求めよと言うのです。恵みを持って接してくださる今こそ、近くにいますうちにこそ、神に呼びかけなくてはならないと言うのです。

かつては、神は見出し得たり見出し得なかったりすることがあるなどとは考えていませんでした。神はいつでも傍にいて願いを聞き救ってくださる、そんな風に思っていたのです。神は永遠である、神はいつでも存在する。神を信じる気持ちさえあれば、神はすぐに見つけられる。神を見いだせないのは信仰がないからだ。献げ物を献上し、小銭を木箱に投げ入れて礼拝すれば、いつでも神は応えてくださり、国は繁栄し豊かな収穫が得られ、願いは叶う、そう思っていました。神がおられるのは当然のこと。しかし、これは勘違いでした。捕囚の民となって身にしみて分かったことです。預言者は言います。神は生きておられる。単に「わたしたちに都合のよい超越的存在」ではない。いつでも何かいいことをしてくださるとは限らない。わたしたちが見いだしえない時もある。だからこそ見いだしうる時に神を求めよ、と呼びかけます。捕囚が終わり、「とこしえの契約を結ぶ」と新しい契約を示してくださった今こそ、神ご自身が近づいてくださり、神を見出せるときなのです。今この時こそ尋ね求め、壁を突破して神に出会うのです。「呼び求めよ、近くにいますうちに」主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」。神が定められた時を見逃すなと言っているのです。預言者の叫びです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる」(七節)のです。神との崩れた関係も、回復が可能だと語ります。

 神が近づいて来られ、まず鋭い反論を投げかけられます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(八、九節)。捕囚の民は、自分たちは捨てられたのだと思っていました。神に裁かれ忘れられた。もう将来はないとつぶやいていたのです。しかし、神の思いは異なると預言者は反論します。あなたたちは、もう終わりだ、二度と元には戻らない、この運命を受け入れるしかないのだとあきらめている。しかし、神はあなた方を赦し解放しようと思っておられる。関係を正しくしようとしておられる。神の思いはわたしたちの思いとは異なると。神は決して人間の思いを果たすための存在ではありません。人間の願望を保証するのが神ではないのです。律法の教えからすると罪のゆえに裁かれたとしか思えなかった人々に、神の赦し、豊かな恵みが語られたのです。もう終わりだと自分で判決を下した人々に、いやそうではない、わたしは今でもあなたを大切に思っている、決して見捨てはしないと、神は赦しを語られるのです。価値なき者を愛して、その存在を喜んでくださるのです。これは苦難の僕であるイエス様の死による神の救済計画が語られているようにも思えます。

神は「わたしの道、つまり神の御心に沿う道は、あなたたちの道、人が考える終わりに向かう方向とは異なる」とはっきりおっしゃいました。神がもう一度新しくことを始められるのです。神の言葉が新しい秩序を造る。ここに真の希望があります。この秩序回復の幻を、この預言者と同じ信仰を持つ少数の人が書き残しています。「初めに、神が天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記一章一~三節)。

預言者は言います。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える」(十節)。全くその通りです。雨や雪は、枯れ果てて死んだように見える大地にも潤いを与え、命を与えます。荒野が実りあるところになります。渇いている者は水を得て、飢えている者は糧を得ます。新しい創造が起こります。新しい秩序が出来ます。そこに目を向けると違った世界が見えてきます。枯れた大地がサァーッと緑の草原に変わります。初めに神が混沌の世界を命ある世界に変えられたように、今のこの破壊された世界にも、また新しい命がもたらされるのです。暗闇の中にいた人々は、どれほど力づけられたでしょう。「そのように(雨が大地を潤し変えるように)、わたしの口から出るわたしの言葉も、虚しくはわたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(十一節)。神の御言葉は、新しいものを生み出し、人を生かします。

勘違いしてはならないのは、神が語られる言葉は、神の望まれることを成し遂げ、神がお与えになった使命を果たす力だということです。わたしたちの願望がことごとく成るのではありません。しかも、新しい秩序は、わたしたちがこうなったらいいな、こうなるだろうと期待する以上のことです。ですから過ぎ去ったものをあきらめ、将来をあきらめ、もうこんなものだろうという虚無感の中に生きることはないのです。自分の置かれているところが厳しくても、投げやりになることなく、自分を否定することもありません。わたしたちは、神の言葉を待ち望み、夢を持って生きることができるのです。

今日は読まれませんでしたが、この後十二、十三節には預言者が見た夢が語られています。囚われていた人々が故郷に帰って行きます。自分たちの国ユダです。喜びが満ち平和が溢れます。帰り道の周りにある山と丘が笑います。歓声をあげて喜び歌い、山の木々が手を叩いて迎えてくれます。はびこっていた茨が枯れて、糸杉、もみの木、豊かな木が育ち、木陰を作ります。そこにいい香りがするミルトスの木が生えます。囚われからの解放は、歯を食いしばって戦うような生き方ではありません。喜びが大変な勢いで伝わって行きます。大地が躍り、喜びがあふれます。これは単なる詩的「象徴表現」ではありません。もっと現実味のあるものです。人が神のご意志を生きる時に、自分自身とも、隣人とも、自然とも調和して生きていけるのだと目に見えるように豊かに描かれております。

今日聞きましたイザヤ書五十五章の御言葉は、バビロン捕囚からの解放を語った預言者の言葉の結論部分に当たります。この預言者の名前は分かりませんが、イザヤ書の四十章から五十五章に彼の預言が納められていますので、第二イザヤといささか暗号の様な名前で呼ばれます。この世の囚われの状態からの脱出はこの時が初めてではありません。昔には出エジプトとして知られる脱出物語がありましたし、後にはイエス様の弟子が律法の束縛から解放され、全く新しい秩序の下に生きるようになりました。今わたしたち信仰者の目の前にもその生き方があります。キリスト者の生き方です。教会共同体の生き方です。わたしたちはさらなる夢を持っています。誰一人排除されることなくすべての人が救いの道に至る、そういう神との豊かな交わりをこの社会に築き上げることです。わずかのキリスト者だけでなく、家族、友人、すべての人々が、歓声を上げて喜び歌う山と丘の中を歩む世界です。誰もが聖餐に与る世界です。みんなが悔い改めて信仰を告白し、洗礼を受けて共に「同じ一つの聖なる食卓を囲む世界」をわたしたちは夢見ているのです。

そういう夢を実現するために、今どう生きればいいのでしょうか。預言者はなんと言うのでしょう。初めに「主を尋ね求め、主を呼び求める」(六節)という言葉が目に留まります。神を呼び求めるとは、神に祈ることです。自分に与えられた知性を持って問うことです。祈りとは自己満足を得るための精神安定剤ではありません。思考をストップさせた念仏ではないのです。近くに来てくださった神に応答することです。神の呼びかけに耳を突きだすように聞き、応えようではありませんか。第二に、「神に逆らうものは、その道を離れよ」(七節)です。逆らうとは背を向けていることですから、その道を離れるには、くるりと向きを変えて、進む方向を変えればいいのです。するとその背を向けていた道から離れます。神に捨てられたと思って背を向け続けていては、闇の中から手探りで脱出しようとするようなものです。神が近くに来てくださっているのです。新しい可能性が開かれています。あきらめの中を生きるのをやめ、神の方を向きましょう。第三は、「主に立ち帰れ」(七節)です。これは進む方向を変えればおのずと出来ます。神が近くに来て、わたしたちにも分かるようにしてくださっているからです。神は来ておられます。今のままの状態に留まらず、神を迎えに飛び出しましょう。

先ほど申し上げましたように、この預言者の言葉は四十章から始まりますが、その最初にも今日聞きました最後の部分の五十五章と同じことが語られております。呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(四十章三節以下)。イエス・キリストがお生まれになる少し前に洗礼者ヨハネが生まれますが、ルカによる福音書では、このヨハネのことをまさにイザヤの預言で証ししております。「預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」 (ルカ三章四-六節)。

教会はこの希望に溢れる言葉を、イエス・キリストの到来を告げる言葉として聞いてきました。荒野、それは砂漠ですが、そこにまっすぐな大きな道を通せと語られております。主が通られるからです。谷は埋められて浅くなります。山は削られて低くなります。谷は高く丘は低くなります。そして人は皆主の救いに与るのです。わたしたちの直面する困難にも必ず答えが出ます。待降節のこの時期にこの歌を歌います。今日も歌いました。「聞け、荒れ野から届く声を。『道を備えよ、主が来られる。谷間は高く丘は低く、でこぼこの道は平らになれ』」(讃美歌21、237番)。クリスマスは単なる行事ではありません。神の救いを経験する時です。

 

祈ります。
父なる神、深い淵の底からわたしたちはあなたの名を呼び求めます。こんなわたしたちに、わたしのもとに来るがよいとなお招き、新しい契約を約束してくださる恵みに感謝します。どうかあなたとの正しい関係、義に立ち帰らせてください。あなたの御国を待ち望みます。あなたのみ言葉を待ちます。あなたに信頼をおきます。あなたの思い、あなたの御言葉が現実になり、人が救われ、世界に平和と喜びが満ち溢れますように。すべての人々が御名を賛美しますように。
主の御名によって祈ります。アーメン

12月9日の音声

 

 

2018年12月2日 待降節第1主日
「約束の日は必ず来る」
エレミヤ書 33章14~17節

神が「恵みの約束を果たされる日」が来る、それはダビデのために「正義の若枝を生え出でさせる日」である。これが今日聞きましたエレミヤの預言です。エレミヤはこの預言を繰り返しています。三十一章三十一節にもありましたし、二十三章五節にも出てきます。エレミヤが最も伝えたかったことの一つです。若枝とはもちろん人のことです。その若者は国を正しく治め、ユダの国と都エルサレムは安らかに人が住まうところとなる。その王の名は、「主はわれらの救い」と呼ばれるであろう。そして、ダビデのために王座に就く者は、絶えることなく永遠に続く。

「主はわれらの救い」と聞きますと、主なる神がわたしたちを救ってくださる、そういう意味に聞こえます。いつも教会で聞く言葉です。「主」も「救い」も耳にタコができるほど聞いてきました。今日も同じような話が説教されるのだろう。教会だから仕方がない。しばらく寝て説教が終わりそうになったら起きようかという気分が出てきます。でも、「主は我らの救い」とは日本語の訳であって、もとの言葉は少し違っていて、「ヤハウェはわたしたちの正義」です。主はわたしたちの正義、あるいは主なる神ヤハウェがわたしたちを義とする、と訳せます。正義、義とする、正しくするは、旧約聖書の最も重要な言葉です。創世記十五章に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた」という有名な言葉があります。義は双方向であって一方通行ではありません。救いと聞きますと一方的に聞こえますが義は関係概念です。いつもわたくしが申し上げる「ツェダク」です。関係が正しいという意味です。主なる神と人の関係を正しくする王が来るというのです。誰かが救ってくれるのとは少しニュアンスが違います。神とわたしの関係を正しくしてくださる王が来られる。その約束の日が必ず来るとエレミヤは預言したのです。

今日は一番目のろうそくに火がともりました。わたしたちは教会の新しい一年を迎えております。「わたしたち一人一人のためにこの世に来てくださったイエス・キリストのご降誕」を覚え、クリスマスを祝おうとしています。今日から始まる待降節、アドベントは「待つ」と同時に「悔改める」時でもあります。神とわたしたちの関係を正す時、自分たちの信仰を振り返る時でもあります。毎年クリスマス前夜の燭火礼拝で朗読されるイザヤ書十一章の言葉、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」(イザヤ書十一章一~三節)は、誰もがご存知の言葉です。クリスマスに読まれるこの終末的希望と、今日聞いた御言葉はよく似ています。ダビデの家系から「真の王」が出るという事は同じですが、エレミヤの預言は、イザヤ以上に切実な感じがします。信じられないほどの困難な時代に生きた預言者エレミヤが語った希望の言葉は、今のわたしたちにも直接迫ります。

時間の関係で詳しくはお話しできませんが、三十三章の前後からエレミヤの生きた時代背景への理解をある程度深めておきたいと思います。この預言者が活躍したのは、国が滅びに向かう王国末期の紀元前六百年代の終わりごろ四十年ほどの間です。危機の時代でした。活動し始めたころ、今日聞きました場面から何十年も前、ヨシヤ王の時代、若いエレミヤは王が進める宗教改革運動に身をおいていました。しかし、ヨシヤ王の子ヨヤキムがエジプトの後ろ盾で王になってからは、国王や取巻き貴族の政策に対して一貫して批判的になりました。なぜなら政策の大転換があり、改革が頓挫し、新しい政策に潜む偶像礼拝がはっきりしたからです。人々は周りの大きな国にびくびくしていました。国が危険な状況に置かれますと人はいろんなものを頼りにします。ヤハウェなる神だけでは頼りないと、万一に備えてまるで保険をかけるかのように、こっちの神もあっちの神も拝んでおいた方がいいだろうとなったのです。特にエジプトは頼りになるかもしれないのでエジプトの神はぜひ拝んでおこうというあり様でした。エルサレム神殿の中に、外国の神の像を立てるようなことまでしたのです。せっかくの宗教改革が骨抜きになって逆戻りしてしまいました。ヨヤキム王も周辺の大国に対抗するため、国内勢力を統一して挙国一致体制を作りたいものですから、先代の王とは違って反宗教改革政策を取り、どんな宗教を信じている者も団結せよと呼びかけました。そして父ヨシヤ王の時代に一度完全に排除した偶像を再び取り入れたのです。ですからこんな時にこそ真の神に立ち帰るべきだと主張したエレミヤとは厳しく対立したのです。

エレミヤにとって神に仕えることは、まさに国を愛することでした。彼は本当の意味で愛国者だったのですが、王をはじめとする人々にはそうは見えませんでした。バビロンがエルサレムに迫って来たとき、エレミヤは敵であるバビロン王を、「主なる神の僕であって国民を悔い改めさせるための神の道具」だと言いました。そして敵と戦おうとする王に対して降伏を勧めたのです。敵に降伏した方がいいなどという、非国民としか言いようがない者が受け入れられるはずがありません。全く理解されず、国家を裏切る者、敵のスパイとみなされ命を狙われました。それでもエレミヤは王に対して批判を強めます。この王は神の前に正しくないとまで言うのです。その時彼が預言した言葉が二十三章に記載されています。「見よ、このような日が来ると、主は言われる。わたしはダビデのために、正しい若枝を起こす」(二十三章五節)。正しい若枝が生える日が来るというのです。今日聞いた言葉と同じです。分かり易く言えば、今の王は偽物だ、偽物は滅びて本物の王が与えられるのだと言ったのです。この言葉は希望の言葉ではありますが、現在まで続いてきたダビデ王家の終焉が前提になっています。今の王に対する厳しい裁きの言葉です。同じような預言をしたもう一人別の預言者は王によって切り殺され死体は葬られることなく墓地に捨てられました。エレミヤは幸いにも王の高官に助けられ殺されなかったのですが、牢に閉じ込められました。ヨシヤ王の宗教改革に参加していた昔、エレミヤは、子どもであった今の王の律法の先生、皇太子付きの教師をしていたのではないかと言われています。そういう事情で王といえども、自分の律法の先生を簡単には殺せなかったのでしょう。エレミヤの言葉遣いから何となく王に対する教師としての権威が感じられます。

神がバビロンを用いて国を正しい方向に導こうとしておられるのだから、悔い改め「バビロンに従え」と極端なことを言ったエレミヤは、たびたび命を狙われました。この時も幸い殺されはしませんでしたが、再び牢に閉じ込められた挙句(三十三章一節)、水ために投げ込まれ泥の中で、もう少しで死ぬというところまで追い込まれました。エレミヤの時代、人々は神殿を偶像化して、神殿には神がおられるのだから、神殿がある限り国は滅びないと頑なに信じ込もうとしておりました。「主の神殿、主の神殿、主の神殿」とまじないのように唱えておりました。しかし、この混乱に次ぐ混乱の中、国が今まさに滅びようとしている、神殿が破壊される、人々が全く絶望的になる、そういう未来がエレミヤには見えていたのです。結局ユダは征服されます。その後人々は征服者に反旗を翻したのですが、すぐ反撃され、再びエルサレムは包囲されて、とうとう完全に滅びます。

エレミヤは国家の滅亡を神が下された裁き、主に立ち帰ろうとしない民への罰だと見ていました。ですから牢の中で語ったのは、「違うぞ、ノー」という叫びだったのです。形式化した信仰への批判です。ですからわたしたちはエレミヤ書を読むのがしんどいのです。わたしたちも聞くべき言葉です。神との関係が正しくないから裁きが降るのだと、「怒り、憤り、激怒してご自分の民を追い散ら」される神を(三十二章三十七節)代弁して語りました。ここで預言が終われば厳しい裁きの前に人はなす術がありません。しかし神の言葉はここで終わらなかったのです。「約束の日は必ず来る」という希望の言葉が続いたのです。今日読まれた回復の預言をもう一度お読みします。エレミヤが語った神の言葉です。

「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われエルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」。

これは先ほど紹介しました十年前、最初の包囲のときにエレミヤが語った二十三章五、六節の言葉とほとんど同じです。「恵みの約束を果たす日が来る」「正義の若枝を生え出でさせる」。厳しく裁かれる、その同じ神が回復と救いをもたらされると言われるのです。敵に包囲され、これはもう駄目だなという時、ダビデの王座がまさに無くなろうとしている時に、主はその王座を継ぐものが必ず現れると約束なさったのです。その日が来る。恵みの約束が果たされる。神は大いなる力を持って災いを下すお方であると同時に、希望を与え、大いなる力を持って民を救ってくださるお方です。

その日が来る。その日には「公平と正義を持って国を治める王が来られ、ユダは救われエルサレムは安らかに人の住まう都となる」、これがエレミヤの語ったことです。わたしたちはよく知っております。ダビデの子イエス・キリストが来られたのです。預言は成就しました。旧約聖書のいうユダ、エルサレムを超えて成就したのです。イエス様は「公平と正義をもって神の国を治める王である」というのが新約聖書の中心となるメッセージです。

偽預言者ハナンヤは「主なる神はこう言われる」とエレミヤと同じように語り始め、大丈夫だよ、こんな事態は終わり、みんなすぐに帰ってくると楽観的に励ましを語りました。人々は、我々の目の前にあるのは神殿だ、神の神殿があるではないか、神が油注がれた王がいると叫びました。しかし、神の約束される解放は、安易な熱狂主義や、国粋主義からくる幻想とは違います。自らの罪を徹底的に悔い改めるところで語られるのが慰めの預言です。神は罪を裁くお方であるからこそ、罪を許すことがおできになるのです。神が罪を裁くお方であることがわからないで、罪を許すお方であることだけを強調することはできないでしょう。大いなる力を持って災いを下すお方であることを知って初めて、同じ大いなる力を持ってわたしたちを救ってくださることを理解し信じることができるのです。いまわたしたちがエレミヤの言葉を聞いて分かるのは、この解放が人間の努力ではなく、神が与えられる解放だということです。すべては神の恵みによるものなのです。それが分かれば待ち望むことができます。罪の赦しも神の御業です。キリストの十字架を仰ぎ見る時に自分の罪が裁かれているのだと分かります。そこで初めて人は十字架による罪の許しを信じることができるのです。

 今日読まれた御言葉のすぐ後、二十節で「わたしが昼と結んだ契約、夜と結んだ契約」という珍しい表現があります。エルサレムはこの後、完全に滅びました。主だった人々はバビロンに連れていかれました。すべてが崩壊してしまった、何もかも終わったなという捕囚時代、連れて行かれたバビロンでも、目を挙げて空を見れば何も変わらないものがありました。毎日朝が来て、また夜が来ました。今も朝が来て、夜が来ます。自然界の秩序は何も変わっていません。神がお造りになったこの世界の秩序は何も変わらなかったのです。神がお造りになったものがすべて台無しになった、すべてが変わってしまったと思うのは人間の錯覚です。絶対に変わらないものがあるのです。人が最終的により頼めるのは、この変わらざるものです。お金でも家族でも健康でも信仰ですらありません。それらはみな変化します。変わらないのは「主なる神が共におられる」という事実です。わたしたちは神のお造りになった秩序の中に置かれています。「わたしがいる、わたしは確かにいるのだ」、これが神の名であり決して変わらないものなのです。やがて人々はまことにこのことを経験します。イエス様は溺れそうなペトロにこうおっしゃったのです。「わたしだ、わたしがいる、恐れることはない」。イエス・キリストのこの言葉を今年マタイによる福音書十四章で聞きました。もうすぐクリスマスです。マリアも聞きます。「恐れるな。あなたは神から恵みをいただいた。」

エルサレム崩壊後に、「恵みの約束を果たすその日、ダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」というエレミヤの預言を思い出し、そこに希望を見いだせた人が、本当に一握りですがいたのです。その人たちは、「神が天と地を造られた。この世は混沌であったが、そこに神の秩序が現れた。だから、神のご支配は必ずいつか回復し成就する」と信じました。そして創世記一章を書き残しました。主は我らの救い、主は我らの正義というのが来るべき真の王、メシアの名前です。エレミヤが預言した正義の若枝、ダビデの子、救い主イエス様が、わたしたちの所に来られたのは、エレミヤの預言から約六百年後でしたが、その間、約束の日が必ず来るのだとずっと語り続けられ、メシアを待ち望む希望は消えることはなかったのです。わたしたちが最近学んだゼカリヤもマラキもそうです。そして約束通り来られたのです。待降節の今、わたしたちの主イエス・キリストが人として赤ちゃんとして来てくださった記念日を待ち望んでいます。思い出しましょう、この言葉を、「主はわれらを義とされる」、そういう名前のお方が誕生する。その約束を果たす日が必ず来る。そして来られたのです。神とわたしの関係が回復したのです。救われたのです。だから安心していいのです。

主は皆さんとともに。

 

祈ります。
父なる神、エレミヤの預言から六百年後「恵みの約束を果たす日が来る」という約束どおり、あなたは御子イエス様をこの世にお送りくださいました。そしてイエス様はわたしたちがあなたの御前で生きることができるように、わたしたちの罪を担って十字架についてくださいました。感謝します。どうかわたしたちがこの恵みをしっかりと受け取り、これから先もずっとイエス様に従って歩んでいけますよう支え導いてください。
イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 

12月2日の音声

 

 

 

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