受難節説教

2019年4月14日 受難節第6主日 棕梠の主日
「エルサレムに入城する」
マタイによる福音書21章1-11節

今年は三月六日が灰の水曜日でした。灰の水曜日から復活祭までの日曜日を除いた四十日間は四旬節、あるいは受難節と呼ばれます。わたしたちは今まさにイエス様が十字架に向かわれ、苦しみをお受けになった記念の時を過ごしております。イエス様の苦難を思って、昔の習慣に倣い肉を食べない生活をする方もおられます。マラナ・タ教会ではこの期間、毎朝それぞれのご家庭で日課に従っておなじ聖書箇所を読んで祈っております。昨日はまさに十字架の場面でした。今日はイースターの一週間前、イエス様がエルサレムに入城された日曜日です。人々は棕櫚の葉、正しくはナツメヤシですが、その枝を道に敷いてイエス様にホサナと叫んで歓迎しましたので、棕櫚の主日と呼ばれます。今週の金曜日が受難日です。ここ数年、棕櫚の主日にはわたしはマタイ福音書二十一章のこの箇所を説教してきました。ところで、ヨーロッパの伝統的な教会である聖公会やルーテル教会では、この聖書箇所は、毎年もう一回別の時にも読まれます。年二回説教されるのです。それがいつなのか、以前お話したことがありますのでご記憶の方もおられるでしょう。待降節第一主日です。クリスマスを準備するときです。十一月三十日に一番近い日曜日です。この日から教会の暦では新しい年が始まります。昨年は十二月二日でした。一般社会ではクリスマスの一週間後バタバタと新年を迎えますが、教会ではまず年が改まってからゆっくりクリスマスを迎えます。ろうそくを一本点火する日に、「時が来た、王が来られた」と宣言します。どのようにイエス様をお迎えするのかを問う意味で、待降節第一主日にはこの記事が読まれるのです。それが一年の始まりの聖書箇所となっております。エルサレム入城の記事は、イエス様とはどなたか、わたしたちはイエス様を本当に正しくお迎えしているだろうかと問いかけてきます。神学の言葉で言いますと受肉と復活が本当にわたしたちの命になっているかどうかです。受難節と待降節は救い主がわたしたちのところに来られた、さてわたしたちは恵みに生きているのかという問いで繋がっています。今日もしっかりと読みたいと思います。そしてダビデの子、救い主にホサナ、栄光あれと声高らかに歌いましょう。

イエス様は弟子たちと共に、旅の目的地である聖なる都、エルサレムのすぐ近くにあるオリーブ山のふもとまで来られました。オリーブ山は、当時は一面オリーブで覆われていましたので、そう呼ばれます。過越祭を控えた時期でしたので、イエス様以外の誰もがこれから祭りに参加するのだと思っていました。このお祭りで何か大きな出来事が起こるぞという期待があったでしょう。ひょっとしたら打倒ローマの幕開けとなるかもしれない。とうとうエルサレムに来たのですから。ところで、わたしたちは当然のこととしてほとんど考えもしないことが多いのですが、イエス様はなぜエルサレムに来られたのでしょうか。なぜ最後の過ぎ越しの祭りをエルサレムでお迎えになったのでしょうか。そしてなぜエルサレムで十字架におかかりになったのでしょうか。エルサレムは言うまでもなくユダヤの中心です。当時の人々にとってはまさに大神殿のあるここに神がおられたのです。人々はローマ人なんて、威張ってはいても神の前に出れば、しょせんゴミみたいなものだと思っていました。もちろんそんなことは口には出せませんが。自分たちこそが神に愛され、神を愛していると信じておりました。しかしイエス様は、このエルサレムで人々の手によって十字架につけられたのです。エルサレムにお入りになった時には熱狂して歓迎した人たちの手によって殺されたのです。神に愛されてきたはずの人々が、実は神の子を理解できませんでした。ファリサイ派もサドカイ派も民の長老も民衆でさえもそうです。アブラハム、モーセ、ダビデの家系に守られ、イザヤやエレミヤといった偉大な預言者を生んだ民族、素晴らしい律法と詩編や箴言などの音楽と教養を持った民が、神の御子を殺したのです。イエス様は、この偉大な民族を裁くために来られました。だからこそエルサレムだったのです。他の町ではなく、ユダヤの神信仰の本拠地、ダビデ以来の神の都です。

この事実は決して軽くは考えられません。わたしたちには関係ないと言えません。わたしたちはキリスト者です。イエス様を愛し愛されてきたと信じております。二千年にわたって立派な神の使者、また説教者を生み出してきました。バッハなど素晴らしいキリスト教音楽家も生み出してきました。神はまさに教会にこそおられる。わたしたちは神の子であると思っております。マラナ・タと祈っております。主よ、来てくださいという意味です。しかし、もしわたしたちが当時その場に居合わせたとしたらどうでしょう。エルサレムに入城されるお姿に万歳と叫ぶかもしれません。では、わたしたちはイエス様を殺さないでしょうか。十字架につけろと叫ばないでしょうか。わたしは福音書を深く読むようになって、自分がもしこの時エルサレムにいたら、きっとイエス様にイライラして躓いただろうと思います。こんな男は十字架につけろと叫んでいたに違いないと思います。イエス様はご自分を神に等しいものと宣言なさいました。厳しい裁きを語られました。旧約聖書の深い知識がたとえあっても、人であるイエス様が神と同じ本質を持つ神の子であるということは、どう考えても理解できるとは思えません。聖書の世界に身を置いて読んでいますと、イエス様を本当には理解できない自分を見出します。

わたしたちは、イエス様がエルサレムの現状にどれほど深く悲しまれたのか、どれほど深く憤られたのかを知らなくてはなりません。がそれ以上に、それは信仰のないローマ人に対してではなく、信仰のないものは結局だめだと思っている、他でもないわたしたちに対してであることを知らなくてはならないのです。イエス様の対決はわたしたちの外、ローマ人やユダヤ人にだけあるのではなく、内であるキリスト教会にも向かっているのです。

一世紀、この時代は「ローマの平和」が謳歌され表面的には平和な時代でした。しかし、それはローマの軍事力によって諸国が抑え込まれていた結果に過ぎません。こういう平和はいつの日か崩れ、また戦いと混乱の日々がやってきます。世界は本当の平和を必要としていました。過越祭を前にした日曜日、イエス様はゼカリヤが預言したメシアのイメージ通り、ロバに乗ってエルサレムに入城されます。それまでイエス様はご自分がメシアであること、神の国の王であることを弟子以外に明らかにするのを避けておられましたが、この時は明確に、王としてエルサレムに入ろうとされています。時が来たのです。ユダの王として、神に従い民に勝利を与える王として、預言にある通りロバに乗ってやって来られました。武器を持って戦う王なら兵に囲まれ、威厳、権勢を誇示しながら馬にまたがって入場するのが普通です。馬ではなくロバに乗っての入城は、軍事的勝利者ではなく、戦車や武器を廃止する平和の王、柔和な王であることを強調しています。「エルサレムから軍馬を断つ」のです。「柔和な」とは「無防備」を意味します。武力に訴えないのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(十一章二十八、二十九節)とありますように、イエス様の本当の姿を表すためにしばしば用いられる言葉が「柔和な」です。柔和な者こそ地を受け継ぐのです。ちょっと脱線ですが、先週役員任職式の勧告の言葉で、あなた方はいつも柔和であれと申し上げましたが、覚えておられるでしょうか。式文の中にありましたので、印象に残ってないかもしれません。

「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ」という声は広がり、過越祭で高揚している人々の間でイエス様は熱狂的に迎え入れられました。都中の者がこぞって、「この方はどういう方なのか」と言って騒いだとありますが、イエス様がエルサレムに入られたことがいかに衝撃的であったかを表しています。過ぎ越しの祭りのためにエルサレム神殿にやってきた巡礼者たちも一緒になって「この方はどういう方なのか」と騒ぎました。イエス様のエルサレム入城は突然で異様なものでした。「いったいこのイエスという人は、メシアなのか預言者なのか、それとも何か別の者なのか。待望のメシアのようにも見えなくはないが、ローマを打ち砕きユダヤ国家を再興する人物としてはいかにも頼りなさそうだ。いったい何者なのか」。期待と疑いが混じった感情だったかもしれませんが、熱狂的興奮の中にあった群衆の脳裏に、期待は膨らんでいったのです。

祭りの準備に忙しく何が起こっているのか気付かなかった神殿の祭司たちが報告を聞いた時には、群衆の熱狂は既に手のつけられないところまで広がっていました。「一体これはどういうことか。この男はいったい何者なのか。ひょっとしたら、王と誤解されるのではないのか。だれもがイエスのことをよく分からないまま『ダビデの子にホサナ』と叫んでいる。これは大騒動になるぞ」。エルサレムの宗教家たちは衝撃を受けました。大勢が興奮状態にあり民族意識が高まっているこんな時に、うっかりイエス様を逮捕でもしたら、とんでもない暴動に発展しかねません。祭りで暴動が起こるのを警戒するため、ローマのユダヤ・サマリア長官、ポンテオ・ピラトも兵を率いて来ております。あっという間にローマの軍事介入を招きかねません。最も警戒すべき騒動の予感に緊張が走ります。

ローマを追い払ってくださるのではないかという人々の期待通り、もしイエス様の目的がユダヤを軍事的に解放することにあるのなら、ロバではなく戦車か軍馬に乗って、またエルサレムのような神殿のある民族宗教の中心ではなく、ローマ総督府のある町カイサリヤに向かわれたことでしょう。しかし、イエス様はエルサレムに来られました。イエス様の戦いの相手はローマではなく、書かれた文字にこだわる、歪んでしまった律法主義であり、宗教的エリート主義であり、わたしたち人の罪だったからです。神をまことに神としない生き方です。だからこそ舞台は神の都エルサレムでなければならなかったのです。イエス様の十字架の出来事は、神の国の民に起こる出来事として、まさにここエルサレムで起こるのです。

旧約聖書の預言通りにロバに乗ってこられ、王として迎えられているのに、付き従う者は勇者ではなく旅に疲れた弟子たちです。ガリラヤから付いてきたみすぼらしい身なりの人もいたでしょう。人々は熱狂し気付いておりませんが、ロバに乗るこのお姿こそが救い主の本当の姿を現していたのです。ゼカリヤはこの王を「高ぶることなくロバに乗ってくる」と言います。「高ぶることなく」とは、謙虚・謙遜というよりも「貧しい」とか「みすぼらしい」というニュアンスです。十字架に向かうイエス様の使命をズバリ表す言葉、それが「みすぼらしくロバに乗って」なのです。宗教改革者ルターはこの場面で、イエス様のことを実に興味深い言葉で言い表しております。それは「物乞いする王」です。 乞食の姿をした王です。これは当時の托鉢(物乞い)修道士から連想した言葉かもしれません。でもキリストの装いは、物乞いの姿ではありましたが罪の姿ではなかったのです。

ロバに乗ってユダヤの民の本拠地にのろりのろりと来られたイエス様は、「ホサナ、ホサナ」と群衆に熱狂的に迎え入れられました。しかし、この五日後には同じエルサレムの群衆が「この男を十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。今日の群衆はガリラヤ地方から上って来た人々が中心であり、五日後の群衆はエルサレム在住の群衆が中心だと思われますが、叫んでいる人々に違いはあるにしても同じエルサレムでの出来事です。重なっていた人々もたくさんいたはずです。わずか数日の間に人の心はこれほど変わってしまったのです。そしてイエス様は殺されます。

わたしたちは、ひとつひとつの出来事が都合良く進むことを期待し、そのために祈ります。けれども期待している事と実現した事が違うと、がっかりし、時には腹立たしくさえ感じるのは珍しいことではありません。都合良く事が進むことを期待するのは悪いことではありませんが、もっと大事なことがあります。イエス様との正しい関係の中で神と共に生きることです。人生において最も大切な事は、誰と共に生きるか、誰に看取られて死ぬかです。神様ありがとうと言って生き、そして死ぬことです。わたしたちは、わたしたちにとって最も大切なそのイエス様を毎週礼拝しているのです。ですから礼拝前に、あまりに日常的に過ぎるのは控えるべきだと思います。お互いの健康を気遣ってのことでしょうが、「あんた先週どうしてたん」みたいな挨拶は礼拝が始まる直前は避け、祈って奏楽を待つ霊的な緊張感は必ず要るでしょう。すると礼拝が終わった時、静かな喜びがはじけます。

イエス様はわたしたちが神の前からずれてしまって、遠くなっているのを元に戻すために来てくださり、わたしたちの罪を担って十字架についてくださいました。正しいお方、義なるお方でありましたが、その義に応じてお前たちも義であれとわたしたちに迫られたのではありません。もちろん、どうせ無理だから義はどうでもよいとおっしゃったのでもありません。そうではなくて、ご自身の義で、わたしたちを許してくださるために来られたのです。そのために惨めで傷ついた姿、はっきり言えば失敗者の姿となってくださったのです。神の御子が人として低い姿になってくださいました。みすぼらしい姿でロバに乗って来てくださったイエス様によって、わたしたちはだれでもイエス様に近づき、神に近づき、神のみ前に生きることができるようになったのです。神が共にいてくださることが分かるようになりました。人が神に近づくことができる、イエス様の存在こそわたしたちの救いです。みじめな姿でロバに乗って来てくださいました。このことによって、わたしたちはありのまま、たとえみすぼらしくても堂々と生きることができるのです。

わたしたちは、この恵みをしっかり受け取り、新しい命に生きていくのです。受難週を迎えるわたしたちに恵みを下さる主に感謝します。主イエスの平和があなた方とともに!

祈ります。
主なる神、御子イエス様をこの世にお送りくださいましたことを心より感謝致します。主イエスは、あなたの前から遠く離れてしまっているわたしたちを元に戻すために、柔和で高ぶることのない姿で来てくださり、わたしたちの罪を担って十字架についてくださいました。どうかこの恵みを受け取り、あなたの御前をイエス様と共に歩んでいくことができるよう支え導いてください。
主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

4月14日の音声

 

 

2019年4月7日 受難節第5主日
「主の帰りを待つ僕」
マタイによる福音書24章45-51節

マタイによる福音書二十四章では「終末」について、イエス様が長い説教をなさっております。今日はその五回目です。ただ世の終わりが来るというのではなく、その時に裁きがなされるということ、またその時は突然やってくる、しっかり備えなさいということを繰り返して教えておられます。終わりと裁きの話ですから、五回も続きますと、さすがに説教をするのも聞くのも、重い感じのする箇所です。

説教塾の指導者である加藤常昭先生が、この箇所の説教で面白い話を紹介しておられます。三百年程前、ヨーロッパの優れた神学者であり伝道者であった人の説教についてです。この神学者はもともと弁護士だったのですが、その彼がどのように信仰を与えられたかという話です。弁護士として活躍していた頃、ある村を訪れ道を歩いていたところ、農家の人が自分の飼っている豚を豚小屋に入れようとしているのを見かけます。一生懸命入れようとしているのですが豚はなかなか言うことを聞きません。腹を立てたこの農民は豚に突然こう言いました。「ぐずぐずして言うことを聞かないと、悪魔が弁護士を地獄に連れて行くように、お前たちも地獄に連れて行かれるぞ」。そうしますと豚がびっくりして、すぐ小屋の中に入ったというのです。一部始終を見聞きしておりましたこの先生、あまりの偶然にびっくりして改めて教会に行くようになり、やがて伝道者になったのです。この説教は最後に「自分は豚小屋に導かれた豚を見て、神の羊小屋に導かれたのです。アーメン」と落ちがありまして落語のように終わります。ヨーロッパはさすがに教会の歴史が長く、こういう面白い説教をたくさん集めた説教集もあるようです。

この元弁護士だった牧師さん、よく腹を立てないで自分が滅びに向かっているのではないかと気づいたなと思います。こういう偶然はだれにでも起こりえます。学校の先生、あるいは医者が道を歩いていたら、誰かが「学校の先生や医者のように地獄にいくぞ」と叫んでいるのをたまたま耳にする。政治家や官僚なら仕方ないでしょうが、教師や医者がこういうことを聞かされたら腹を立てるかもしれません。ましてや豚に言うことを聞かせるために引合いにするなんてけしからんと思わないでしょうか。豚飼いに羊小屋に導かれた、などとしゃれて言っておりますが、本当は神が導かれたのでしょう。この弁護士は豚飼いの言葉に神の言葉を聞きました。わたしたちはどうでしょう。何気ない日常生活の中で、例えば道を歩いている時に神の警告を聞いても全く気付かない、そういうことがないでしょうか。この元弁護士がした説教は、警告にも聞こえます。

先週聞きました三十八節以下で、イエス様の説教はこうでした。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり、嫁いだりしていた。そして洪水が襲ってきて一人残さずさらうまで、何も気が付かなかった」。創世記のノアの箱舟の話はだれもが知っていた物語です。ノアは、内緒で箱舟を作ったのではありありません。みんなの目の前で大きな船を造ったのですが、人々はあざ笑いました。彼らは滅びを恐れて備えをするノアをバカにするだけで、神の裁きなど全く考えずに生活していたのです。自分たちが滅びる可能性について考えませんでした。元弁護士とは大違いです。

先々週の説教ではっきりと申し上げましたが、イエス様は世の終わりについて、わたしどもを脅かされたわけではありません。しかし、歴史を振り返りますと、実際に世の終わりがいつ来るかわからないのだからと快楽に明け暮れる人々や、逆に緊張して世の終わりに備えたので、びくびくして飲み食いもそこそこに、勉強も結婚もできなくなってしまった人たちもいました。しかしイエス様は、だからだめだと責められたのでも、明日はもっとしっかり祈り、もっと価値ある生き方に挑戦しなさいとおっしゃったのでもありません。先週もこう聞きました。「その日、その時は、だれも知らない。だから、目を覚ましていなさい。いつ自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と、最後の時をご存じなのはわたしたちの父だけなのだから、ただ目を覚ましていなさいと強調なさっております。今をしっかり生きるのだと励まされたのです。ご自分の最後をしっかり認識しておられたにもかかわらず、そこには何か人生のむなしさを嘆くような響きはありません。三十五節では「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃっていました。太陽はいつか燃え尽きますから、その前には、地球はどんどん冷えて人類は滅亡します。やがては細菌でさえ生きられない極寒の時代となって、地球が死の世界になることは確実です。そのずっと前に、どんどん温暖化するか、人間の数が増えすぎて食糧危機となって人類は滅亡するかもしれませんね。でもそんなこととは関係なく、わたしたちは飲み食いします。結婚もします。大事なことなのですから。ただし飲み食いする中でも、天地の滅びがまもなく来ることは知っているべきです。「いつかは天地の滅びが来る。しかし、わたしの言葉、つまり聖書の言葉は滅びない」というイエス様のこのお言葉がいかに大切かは、十字架の死を前にして、遺言としてそう語っておられることからも分かります。死の直前に丁寧に弟子や周りの者にお話しになったのは、それがとっても大事なことだからです。正しさが問われる裁きの日が来ることを考え、主の帰りを待つ者として生きることが大切だと教えられたのです。

今日聞きました四十五節以下の僕のたとえでは、イエス様はこのことをもう一度教えておられます。いつかはわからないけれども、主が来られようとしている。それに備えて生きるわたしたちに、真実の生き方が求められています。

「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間通り彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」(四十五節)。またしても食べたり飲んだりの話をしておられます。大勢いる使用人を束ねるリーダーとして、特別に上に立てられている賢い使用人がいる。時間通りに食事を食べさせることができる、人を世話し、生かすことができる、そういう忠実で賢い僕とは、いったい誰であろうか。もちろん、それはお前たちであるべきだとおっしゃっているのです。わたしたちは自分自身の生活をもう一度見直さなくてはなりません。時間通りに食事をさせると、時を有効に使い、主人の帰りに備えることができるのです。何かバタバタとしてただ忙しくしておりますと、一生懸命のようでいて、主人の帰宅を見失います。わたしも、ある時期、必死に勉強したり働いたりした時期がありました。若かったので睡眠時間を削っておりました。自分は頑張っている、こんなにやっているのだとその時は思いこんでいましたが、後になって振り返ると、周りが見えていなかったのがよくわかります。効率も悪かったのです。一方で決まった時間に寝て、早く起きて、授業や仕事に備えていた人は、成績もよく仕事の質も高かったようです。ずいぶん後になって四十歳代後半になってやっと気づきました。でもなかなか実行するのはむつかしいです。わたしの親友の息子さんは、地方教会の牧師をしながら、毎日夜は八時過ぎに寝て、朝は三時に起きて、七年間学び続けて、とうとう神学博士号を取りました。ラテン語を学び続けて古代教父に関する独創的な研究論文を完成させました、見事なものです。今年から東京神学大学の歴史神学の先生になりました。

「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(四十六節)。いつ主人が帰って来るのかとびくびくするのではなく、忠実に委ねられた勤めに励んでいる僕は幸いだとおっしゃいました。「幸いです、このような僕は」と山上の説教と同じ言い方をなさっています。世の終わりを知っている人は、準備ができております。人を生かします。自由でのびのびと与えられた勤めを果たし、賢いと言われます。自分はちゃんとやっているだろうかと自分のことばかり気にして、どうもそういう気がしないなどとぐずぐず言うことはないのです。

「はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない」(四十七節)。「はっきり言っておくが」というのは、まことに汝らに告げんという、イエス様が重要なことを話されるときの言い方です。旅から帰ってきた主人は自分の任せたことを、しっかりやっている僕を見て、忠実であったその僕に全財産を任せられます。ここで話されているのは地上の報酬、ボーナスや特別休暇と違って天の国のことなのだと推測できます。責任が重くなって、御国の全財産を管理するようになるのです。海外の子会社にこっそり送金して、後で自分の口座に一部を振り込ませるような不正なトップは神の国にはおりません。

そのことを四十八節以下で悪い僕を例にして語られます。「しかし、それが悪い僕で、主人はどうせ遅いだろうと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想もしない日、思いがけない時に帰ってきて彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(四十八~五十一節)。「もし」と仮定の話です。自分は主人をよく知っている。あの人は、まだまだ帰るまい、遅くなるだろうと心の中でつぶやくのです。すると仲間であり、家来でもあるほかの僕たちをぶん殴ることさえする。僕は主人の僕であって自分の僕ではないのですが、主人の帰りが遅いと思っていると仲間を支配下に置くのです。終末の時を待つ、必ず来る裁きを待っている厳粛なこの時でさえ、極めて不適切な生き方をする僕がいるとおっしゃいます。もしそうなら、予想もしない日、思いがけない時に主人がかえって来るぞとおっしゃいました。厳しく罰せられて、泣きわめくことになります。これは忠実で賢い僕と全く違う、別の僕とも読めますが、わたしは一人の僕が悪くも良くもなると読むほうが自然であると思います。

これはイエス様がオリーブ山で説教なさったことで、終わりの日に備えなさいという例話なのですが、今のわたしたちの生き方にぴったり当てはまる話です。先週の説教でも、最後は四十四節、思いがけない時に人の子が来るとおっしゃいましたが、決定的なときは思いがけない時に来るのです。今日の説教題は「主人の帰りを待つ僕」です。主人が一緒にいた。そしているのが当然の状態です。ところが今は目に見えない。出かけて留守であるという状況が想定された話をイエス様はなさっています。もうすぐ十字架におかかりになることが分かっていたからです。しかしそういうことがあって、わたしたちの目の前から去られても、再び戸口に近づいておられて、今にも帰ってこられる。備えをしなさいという話です。わたしたちの信仰は、主人のいないことが前提の信仰です。なぜ主人がいないか、それはわたしたちの罪のせいだと教えられてきました。だから何よりも大切なのは、罪を悔い改める、十字架の贖いを信じて義とされる、信じて義とされるというのが信仰の中心になっております。信仰義認と言います。義認論とも呼ばれます。この考えにずっと浸かっておりますので、信仰者は強迫観念に取りつかれがちです。自分はちゃんと信じているのだろうか。義とされているのだろうか、つまり神との関係は正しいのだろうか。イエス様が再び来られた時に、良い僕と認めてもらえるのだろうか。でも、イエス様は人となって罪あるわたしたちのところに来てくださいました。難しく言うと受肉なさったのです。イエス様はお生まれになった。神が人となってわたしたちのところに来てくださった。良かった。クリスマスを祝います。でもその時だけです。イエス様が人としてわたしたちと共に生きてくださった、その喜びが教会にあふれておりません。これが本当に喜びになっていたら、わたしたちはそのイエス様がお甦りになって再び来てくださることが心からの希望となるでしょう。復活を喜び、再臨を待ち望むことでしょう。でもわたしたちにとってイースターも一日だけのお祝いの日です。今十字架を目前にした受難節を過ごしております。この時に、十字架を挟んだ受肉と復活の喜びを持っているでしょうか。マラナ・タと祈っているでしょうか。それよりもあなたは信じて救われているか、義とされているか、そんなことばかり話しているのではありませんか。個人個人の信仰ですとあの人は分かってない、完全に義とされてないという裁きあいが起こります。

大事なのは、わたしたちが救われているのは、わたしの信仰によるのではなく、イエス様がわたしたちの信仰を認めてくださったからだということを知ることです。親がキリスト者でない場合、初めは自分で選んで神を信じます。そうでないと信仰はスタートできません。だから、自分が選んだ信仰は、いつか自分の気分でやめることもできるし、中身も変えることができると思います。でも、わたしたちが選んだのではありません。「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様がおっしゃったのは、全く信仰のなかった異邦人に対してです。あるいは寝たきりのまま、友人にイエス様のところに運んでもらった人です。イエス様が共にいて声をかけてくださったからこそ、わたしたちは信仰を持てたのです。神の御子が自らわたしたちとの関係を良くしてくださったからです。神学の言葉でいうと、和解させられたからです。だからあなたも神と和解していただきなさい、あなたも信じなさいと言えるのです。

終わりの日、裁きの日は、イエス様の再臨の日でもあります。たとえでは主人が帰って来る日です。どうしてびくびくせねばならないのでしょう。どうして救われる人は世界に十万人しかいない、あなたはその中に入っているかなどと言って、他人を脅かさなければならないのでしょうか。イエス様が再び来られるのです、もっとのびのびしていていいのです。イエス様が来られた時、泣きわめいて歯ぎしりするのは悪い僕です。忠実で賢い僕とは、務めを与えてくださった主を重んじ、仲間を大切にし、愛する僕です。主を愛し、その願われることを行いながら、主を見上げて歩み、いつも主を待っている僕なのです。

最後に、主人が帰って来るのを心して待つ賢明な僕が得ることになる、この世的特典を一つ上げておきます。それは知性が鍛えられ、判断力が鋭くなることです。これがキリスト教信仰の特徴です。なぜなら終わりを見据えていますから、終わりの時点から今のわたしを見ることができる。ある意味でわたしの過去がしっかり見えてきます。極めて若い時に洗礼を受けた方がおられる一方で、九十歳を過ぎてから洗礼を受けた方もおられます。あんなことをした、こんな失敗もした。いろいろあった。でも、母の胎内にある時から、わたしを聖別し、恵みをもってわたしを召してくださったお方がおられる、そのことが分かってきます。自分を僕として用いてくださった。そして今日にいたっている。今を生きている。すると人生が明るくなります。これからどう生きるかも見えてきます。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしのために、御子、イエス様をおつかわし下さったのです。ここに本当の愛があります。キリスト者として終末を生きることは、なんと幸いなことでしょう。

祈ります。

父なる神、イエス様が再び来られる日を待ち望みます。マラナ・タと祈ります。天も地もあなたが作られました。その天も地も、やがてあなたによって終わりを迎えるでしょう。終わりがあること、正しい裁きの日が来ることをしっかりと認識し、今をしっかり生きることができますように、また家族、友人、仲間、周りの人々を愛し、日々自分の務めを果たしていけますように、どうぞお支えください。
受難節の今、主がわたしたちを贖って下さったことを思い感謝します。
主の御名によって祈ります。アーメン。

 

4月7日の音声

 

 

2019年3月31日 受難節第4主日
「主は突然来られる」
マタイによる福音書24章36-44節 森喜啓一

マラナ・タ教会担任牧師としての、森喜啓一牧師最後の説教です

マタイによる福音書第24章で、イエス様は、ご自分の苦難の死と復活に先立ち、やがて起る「終末」についての長い説教をされています。それは、イエス様は、最後に弟子達に伝えておきたい最後のみ言葉でした。

今日お読み頂いた聖書箇所では、イエス様が再びこの世に来られる徴をお話しになりました。世の中に厳しい苦難があり、天変地異が起こる時「人の子の徴が天に現れる」と言われるのです。「地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」と言われます。「人の子が、私達を裁くために、
戸口に近づいていると悟りなさい」と言われます。

私達はどうすべきなのでしょうか。私達は、イエス様が再臨される前に、この世に起る様々な苦難や天変地異に、どのように心に留め準備をすべきなのでしょうか。それがいつ起るかはわかりません。イエス様は、「その日、その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ父だけがご存知である」と言われます。イエス様が、どのように再臨されることも神様のみ旨に隠されているというのです。

今日の聖書箇所では、イエス様がいつ来られても良い様に、私達が、どのように備えておくかを知る手懸りを与えてくださっていました。38節です。「人の子が来るのは、ノアのときと同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合もこのようである」と書かれています。

一方、創世記第6章には、ノアの箱舟の記事が書き記されていますが、その5節には主なる神がなぜ洪水を起こし、人間を消し去ったのかが語られています。「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことをばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」 と。神様が創られた人間が、日々をどのように暮らし、神様に対してどのようであったかが述べられています。

多くの人間が日々の暮らしを当たり前のことことのように思うようになり、神様を忘れてしまっていたのです。そこに、悪魔の入り込む隙がありました。「もっと豊かに」、「もっと快楽を」という生活への貪欲さが頭をもたげてくるのです。人間社会が豊かで快適になる為には、悪いことにも無感覚になり、それへの疑問をももたなくなったのです。「誰でもやっていることだ」と、悪を悪とも感じなくなっていたのです。神の力よりも、人々は、人々自身の力を信じる様になっていました。「この人生は、この繁栄は、自分たちが造り上げてきたものだ。そして、これからも自分たち自身で豊になっていくのだ」と。

神様は、この有様をじっと見ておられました。そして、決断なさったのです。「裁きの時が来た」と。ノアの時、神のご決断によって全ての人間の傲慢さや欺瞞は洪水と共に洗い流されました。イエス様は、再びこの世に来られる時も、人間の姿はそのようなノアの時代のようであろうと言われるのです。イエス様は、そのことにおいて、人間を裁くと言われるのです。教会さえも裁かれると言われるのです。

それでは、私達自身のことを少し考えてみましょう。私達には、離れて住んでいるかもしれませんが家族があります。家族は、良いものです。時には不仲でも、互いを思い、心配し、共に生きてきた歴史という大きな財産を創っています。私達には、必ずしも労働ではないかもしれませんが、何らかの仕事があります。それは、家計のための仕事、家族のための仕事、世の中のための仕事であっても、やはり自分のための仕事でもあり、私達が社会で存在する意味を与えてくれます。私達には人との出会いがあります。それは、私達をより豊かにしてくれます。 私達は、食事をし、おやつも食べるでしょう。それは、私達の体を元気にしてくれます。私達は夜は眠って疲れた体を休め、朝には目覚めて元気に新しい一日を迎えます。そして、私達はこの世で命を得て生きています。そのほか、私達の日々の営みを数え上げればきりがないかもしれせん。それらは、全てが神様の恵みなのです。

決して、私達が自力で勝ち取ったものでも、自然になったことでもありません。でも、そのことに、気づかない人は多いのです。全てが、自分で手に入れたもの、自然な成り行きでなったこと思ってしまっているのです。私達は、日々の営みの全てが神の恩恵であることをもっと知るべきなのです。私達はその恩恵において神に感謝し、祈り、礼拝をするのです。神様の恩恵に無感覚な者は、神様に罪を犯すことにも無感覚です。たとえ後ろめたくても、悪を犯しても良い理由をいくらでも並べ立てることは出来るでしょう。そして「しかたがないのだ」とか「みんなやっていることだから」と言って片付けてしまうのです。しかし、神様は彼等を裁かれることでしょう。ノアと家族達が残され、その他の者が消し去られたように。畑に居る男の一人は連れて行かれ、臼を挽く女の一人も連れて行かれるのです。

「だから目を覚ましていなさい」とイエス様は言われます。「しっかりしていなさい」と言われるのです。それはしっかりした冷静な気持ちで信仰を守ることです。でも、感情にあおられた極端な信心をしたり狂信的であることではありません。自然な気持ち、毎日の暮らしの中に、神様を思い、祈り、感謝し、礼拝することに心を注ぐことが肝要なのです。それは、終末の徴として起る戦争の噂や、偽宗教や天変地異や、社会不安の中で試されることを心配するよりも大切なのです。

イエス様の再臨は突然予期しない時にあると言われています。その突然さは、いつも「主よ、来てください」と祈る私達には素晴らしい出来事です。イエス様は「ほら来たよ」とはおっしゃらないでしょう。もしかすると、イエス様は、もう来ておられるかも知れません。そのイエス様は、絵画にあるような美しい姿形ではなくみすぼらしい姿で「食べ物をください」と言って教会の戸口に立たれるかもしれません。 このマラナ・タ教会に信徒のお一人として、現れるかもしれません。もしかすると、目には見えないが霊的な力として再臨されるのかもしれません。どのように再臨されても、私達は、それを心の目でしっかりと感じ取ることができるはずです。主の再臨は、私達の祈りへの主の答えなのです。その時、私達も、このマラナ・タ教会も、神の国で新しい時代を迎えることになるのでしょう。私達に、新しい永遠の命が与えられるときなのです。

祈り
御在天の父なる神様

「主よきてください」。どうか私たちのこの祈りに答えてください。
私達は、主の再臨を、そして神の国に向かい、主と共に永遠の新しい命に生きることを待ち望みます。
そのために、私達は、いよいよ信仰を堅くし、毎日をしっかりと目を覚まして生きるのです。
そして、正しく生きることの難しいこの時代にあっても、主の救いと、神の国へ希望によって私達は生きています。
終末の徴、主の再臨、終末そして神の国が、神の御心にそってなされ、私達をもその中に包み込まれていきますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

アーメン

 

 

 

 

2019年3月24日 受難節第3主日
「キリスト来臨の徴」
マタイによる福音書24章29-35節

マタイによる福音書を学び続けておりますが、二十四章では「終末」について、イエス様が長い説教をなさっております。今日はその三回目です。こうおっしゃいました。

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(二十九~三十一節)。とても不思議な、現代人の感覚では、本当にそんなことが起こるのかなと思わされる表現です。実はイザヤ書にこのような言葉があります。「見よ、主の日が来る。残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない」(イザヤ書十三章九、十節)。イエス様はイザヤ書の言葉に基づいて世界の終りの話をなさいました。それは太陽と月や星の異変という天的な出来事として始まります。その終末の徴に地上のすべての民族が驚き悲しむ時、人の子が現れ、神がラッパの音を合図に天使を遣わして、人の子に属する人々を天の四方八方から呼び集められる。神となられたイエス様が「審判のために来られる」のです。ポイントは二つ、最後まで耐え忍ぶ者は救われる、そして偽メシアに惑わされるなです。当時の人にとっては、まさにその言葉通り起こる出来事なのです。今のわたしたちにとりましては、こういう事がその通りに起こるというよりも、聞き手の心に残るように確かな真実をしっかり伝えようとする表現だと考えられます。

終末の審判は普遍的でありすべての人に下される、教会も審判から逃れることは出来ないのだと考えますと、わたしたちは不安になります。けれども、人の子イエス様が大いなる力と栄光を帯び天の雲に乗って来られるのですから審判者はイエス様です。ですから再び来られること再臨は当然信じる者にとっては慰めと喜びであり希望なのです。主よ、来てください、マラナ・タと祈っております。わたしたちにとって大事なことは、イエス様が来てくださることを祈り願い、主の御愛に留まることです。

今、終末とか再臨という言葉を使いましたが、これは教会で出遭う不思議な言葉の最たるものかもしれません。聖書本文に出てくる言葉ではありませんが、新約聖書の中に、ペトロやパウロではなくイエス様が世の終わりとご自分が再び来られることについてはっきりと語っておられる箇所を目にしますと、なるほどそういうことが起こるのかとは思います。しかし、多くの人は自分の今の生活とうまく結びつかない、あるいはよくわからないという理由で、困惑しながらも、深くは考えず普段は忘れております。けれども、終末が来るぞと聞くと不安が持ち上がります。

誰でもそうでしょうが、何かあるのに、それがどういうことかしっかりわからないと不安です。これは病気を考えるとよくわかります。どこか調子が悪い。何か原因がある。しかし血液検査してもMRIを撮っても悪いところが見つからない。ひどくなるかもしれないと不安です。そんな時、「あなたは自律神経が乱れているのですよ」とか、ここに原因がありますよとはっきり説明されると少しは安心します。対処のしようがあるからです。体の変調が続くにしても、こういう病気ですからこんなふうになりますと予告されるだけで、何となく安心します。人は病気そのものよりも、よくわからないということで不安が増すのです。

終末についてもそうです。よくわからないので不安ですから、具体的によく知ろうと考える人が出てきました。詳しく解説をして、こうなりますよ、しかし安心しなさい、解決法があるのですと説得します。終末への対処の仕方は近代になってから詳細になりました。わたしたちがよく聞く代表的なものは、もともとアイルランド出身の英国国教会の司祭だった、ジョン・ダービという人が唱えたものです。十九世紀の人ですが、彼はこの説を作るのに人生のすべてを費やしました。彼個人の説ですから必ずしも正しいものであるとは言えませんが、広く受け入れられてしまいました。アメリカに伝わり、その後日本にも広がりました。人類の歴史を七つの時代区分(ディスペンセーション)に分割し、それぞれに神は固有の原理をもって人間を取り扱われる。キリストの死と復活から始まった今は、最後の時代が来るひとつ前の恵みの時代であり、わたしたちはこの恵みの時代に生きている。今のこの時代と最後の千年王国の時代の間に、大変困難な事態が起こるけれども、信仰があれば大丈夫だという教えです。これだけだといいのですが、この大変な災難の時、イエス様がご自分の弟子であると認めた特定の人だけは、突然地上から取り去られ、天に挙げられると言います。これを「携挙」といいます。ケイは携える、キョは挙げると書きます。携挙される人は苦しみに遭うことはないが、携挙されない人は地上に残され地獄の苦しみを味わうことになる。だから、みんな苦しまないように携挙が起こるという説明を信じ、教会に閉じこもったままの信仰を離れなさい。今なら間に合うと言うのです。誰が挙げられ、誰が挙げられないかとても気になる説です。司祭が出した説であるだけにたちが悪いと思います。どんどん脱線していって誤った信仰刷新運動になりました。地獄の火がいかに恐ろしいか、一生懸命に話します。人の不安につけこんで自説を主張するのです。人類の破局を強調します。わたしもこの教会にいるとき、二度この説に取りつかれた婦人たちの訪問を受けました。「先生、言いましたよ、お伝えしましたよ、もう後は知りませんよ、わたしたちの言うことを聞かなければ、大変な目に遭いますよ」と言い残してお帰りになりました。邪な者、つまり彼らの言う通りに信じない、悔い改めないわたしのような者はハルマゲドンの最終決戦において滅ぼされるけれども、自分たちは神の器として復興する、そして最終決戦の後キリストによる千年にわたる完全なご支配、千年王国、至福の王国がこの地上で始まるのだと言うのです。聖書の教えではありませんが、あたかもそれが聖書の教えであるかの様に語ります。信仰が大切だという点はその通りですが、おどろおどろしい説で人を脅かすと同時に、自分の主張を納得させようとする邪説です。

いま落ち着いて説明を聞きますと、なんとばかげた話かと思われるでしょう。ところが暗い時代に不安を抱えていた人には説得力がありました。十九世紀は特に信仰の危機がありましたし、大きな戦争が起こる前の不安な時代でした。熱狂しやすい背景がありました。これはものみの塔の人たちの話ではありません。この説は自分たちこそ本物だと主張する教会の中にも深く根を張っております。二十世紀になって以降も内村鑑三や中田重治が一時熱狂しました。正式な教えとして看板にしていた教団さえあります。いくつかの教団は最近になってこういう考えは間違いだったと認めましたが、いまだに洗脳されている教会もあります。わたしの周りにも、自分たちだけが突然天に挙げられるとか、千年王国の時代という言葉をあたかも聖書の教えであるかのごとく発言する牧師がおります。これは、もともと人の不安を取り除くために終末時にはこういうことが起こると詳しく説明し、それに備えようとしたことから出た考えですが行き過ぎてしまったのです。聖書をいくら調べても答えが得られないことに一見明確に答えてくれるように思えたのでしょうか、突然驚くべきことが起こると耐えられないだろうという不安を持つ人に広がりました。真面目で心配性の人が惑わされました。千年王国を主張する人は病気で不安を抱く人に怪しげなサプリメントを売りつける輩と似ています。

一方でこれとは全く逆に、終末だの、最終的な神の裁きだの、キリストの再臨だの、そんなことは起こらないのだとして、これを全く無視するか、バカにする冷めた人たちもおります。迷信に過ぎないと。この人たちは終末への希望を全く見失っております。聖書の言葉に不感症になっております。歴史を見てみろ、イエス様の死後二千年にわたって再臨はなかった。だから神の介入など何も期待はできないと投げやりになります。イエス様に直接お目にかかった人たちが生きていた時代、主の十字架を直接経験した人がまだ自分の周りにいた時代の人は再臨を真剣に待ち望んでいました。しかし弟子たちは徐々にこの世を去っていきます。イエス様のおっしゃったことが直接の証言ではなく、又聞きの情報になってくると、だんだんと終末、再臨なんてないのだ、もしあってもずっとずっと先のことで、自分とは関係ないと思う人が増えてきました。もし主が再び来られるのなら、今はどこで何を準備しておられるのか、今はどういう状況かと首を傾げます。「はっきり言っておく。これらの事が皆起こるまでは、この時代(つまりこの世代の者)は決して滅びない」(三十四節)とイエス様はおっしゃいましたが、でも滅びないと言われた人々はもうみんな死んでおります。神の目覚まし時計は鳴らなかったかのようです。あるいは神はもうお忘れになったかのように感じるのかもしれません。

最初の考えに取りつかれる人は、知的に考えることを止め、興奮し、現実を見ない人たちです。社会で何が起っていても関心がありません。どうせもうすぐ終わりが来るのですから、真面目に働くことも、勉強することもしません。当然ですね。終わりが来て携挙されるなら意味がないのです。大切なのは山に逃れ、天国への旅に備えて自分を清めることだけです。自分は大丈夫だろうか、あいつは多分だめだろうなとそういうことばかりが気になります。第二の考えの人は、現実はしっかり見るのですが、この世のことにのみこだわるので、死を超えて働く希望がありません。死んだらおしまいです。生きている時にひたすら楽しむことだけに集中します。主が再び来られることなど、これっぽっちも考えないからです。インマヌエール、主はわれらと共にというリアリティーを失います。しかし、イエス様ははっきりおっしゃいました。「イチジクの枝が柔らかくなり、葉が伸びると(六月頃のことでしょうか)、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、人の子の徴を見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(三十二、三十三節)。再臨は必ずあるのです。わたしたちがその徴にまだ気づいていないだけなのです。現実を霊的な目でしっかり見るなら、イエス様がもう戸口に近づいておられるのです。

他にも、そもそも終末など非科学的だとして、イエス様がおっしゃったと聖書に書いてあることなんて、弟子たちがでっち上げた話でしょう、キリスト教なんて嘘ばかりだという極端な人もおります。マタイは、こういった疑問が必ず起こるだろうと心に留めながら福音書を書いております。ですからイエス様ご自身も、最後の時がいつ来るのかは知らないとおっしゃったとはっきり書いております。次週そのことが語られます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」(三十六節)と。

イエス様でさえその日をはっきりいつとはご存じでなかった以上、わたしたちは、これらから起こることにびくびくして生きることはありません。逆に過去に起こらなかったからとバカにしてもいけません。終わりは必ずいつか来ます。いつか分からないだけです。だとすれば、わたしたちにできることは、今をしっかり生きること、しなければならないこと、したいことを先延ばしにせず、今この時を大切に生きることです。過去や未来ではなく、今わたしたちの周りで起こっていることに気を配るべきなのです。将来への気がかりは完全にはなくならないでしょう。過去の出来事への後悔や幻滅もなくならないかもしれません。でも、今という時から切り離されたような生き方をしてはならないのです。マラナ・タという祈りは、わたしたちをして今を生きることに導きます。

明日はもっとよく祈ろう、もっと価値ある生き方に挑戦しよう、来年収入が増えたら献金を増やそう、そんな風に言っている限り、おそらくそうならないでしょう。際限なく先延ばしにすることになり何も実行できません。今の責任から逃げずに次に起こることに備えをしながら、今祈り、今挑戦し、今勉強すべきです。時が満ち、天の国は近づいたのです。主は確実に近づいてきておられます。いつ主が雲に乗ってこられるのか、いつラッパの合図が鳴らされるのか分かりません。その時は誰も知りません。しかし、イエス様は必ず再び来られます。与えられたものに身を浸し、終末を恐れる不安症にも、無視する無気力症にも陥ることなく、主が来られる日を待ち望みつつ、今この時を生きる、人生を精いっぱい生きる、これが大事です。再臨を見ないまま、一人また一人と静かに目を閉じることになるかもしれません。でもいずれにせよ、いつか主にお会いするのです。神はこの世界をわたしたちに委ね、わたしたちが自分の命を生きるように、ご自分の御手の中に置いてくださいました。このことが分かれば、わたしたちはたとえ暗い道を歩むときも恐れることはありません。今を精いっぱい生きようではありませんか。

主の約束の言葉が今も後も限りなく地上にありますように。

祈ります。
父なる神、わたしたちをあなたの御手の中に置いてくださっていることを感謝します。それにもかかわらず、わたしたちはいろいろな不安から離れられずにいます。どうぞ、わたしたちから不安を取り除いてください。また、不信仰から救ってください。これから起こることにびくびくして、ありもしないことをまことしやかに語り、かえって不安をあおるようなことをせず、イエス様が約束してくださったことをしっかりと受け取ることができますように。そして、たとえ暗い道であっても、しっかり歩み、今を大切に精一杯生きることができますよう支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

3月24日の音声

 

 

2019年3月17日 受難節第2主日
「時を縮める神」
マタイによる福音書24章15-28節

十字架に向かって歩まれるイエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城されて以来、祭司長たち、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々から次々と論争を仕掛けられましたが、すべて論破なさいました。そしてファリサイ派を厳しく糾弾した後、最後にエルサレムの崩壊を預言なさいました(二十三章)。この後二十四章と二十五章は、この世の終わりに関する預言、裁きが語られます。これはオリーブ山での言葉ですから、「オリーブ山の説教」と呼ぶ人もおります。山上の説教と似ていて覚えやすい言い方です。二十四、二十五章はひとまとめの記事と読めますが、二十四章一節以下三十五節までを前半、そして三十六節以下二十五章の終わりまでを後半とみることができます。前半と後半では、内容と表現にいろいろな違いが感じられるからです。一番大きな違いは、「その日」とか「その時」という表現が後半にだけ出てくることです。この前半を、受難節第一、第二、第三主日と三回に分けて説教をいたします。先週森喜牧師が説教された前半の第一回に続き、今日受難節第二主日は、前半の二回目です。

さて、みなさんはこういう終わりの日の預言をどのようにお読みになるでしょうか。この二十四章は、マタイによる福音書の中でも最も解釈が難しく、色々な意見があり、聖書の読み方が教会、教派によってまちまちです。自分たちの考えを持ち込みやすい箇所です。異端的な信仰の人々が好んで取り上げる箇所でもあります。世の終わりが来るぞと脅して、自分たちの信条を押し付けてくる人たちが物知り顔に、聖書にこう書いてあるぞと引用する箇所です。自分の思いを密輸入して都合よく読みがちな箇所ですが、マタイの伝えようとしていることにしっかりと迫りたいと思います。

まず二十四章の初め、先週聞きました箇所で、イエス様は神殿の崩壊を預言なさいました。縦横五百メートルと三百メートルの大城壁に囲まれた壮大な神殿が潰されると言われたのです。この預言が一体何を意味するのか、わたしたちはその後の歴史を知っておりますので、これはローマによる神殿の破壊という歴史上の事実をイエス様が預言なさったと思いがちです。しかし、イエス様が後に起こるローマによる神殿破壊を預言なさったと断言はできません。又、弟子たちは目の前に大きな神殿の素晴らしい威容を見ているのですから、何のことか分からなかったでしょう。さらに、ローマによる神殿破壊はまさに世の終わりかと思われる出来事でしたが、決して真の世の終わりではありませんでした。

神殿から郊外のオリーブ山に場所が移ります。聞いているのは弟子たちです。イエス様は弟子たちの質問に対し「終末」に関して教えを語っておられます。この社会と御国の民にどのようなことが起こるのかをお話しになりました。終わりについてというよりも、終わりに至るまでの出来事です。何度か申し上げましたが、聖書の世界観は、ぐるぐる回る循環的なものではなく真っ直ぐな歴史観で、一直線の前進を語ります。従って今がとても大切です。この世は初めに神によって作られ時を刻み始め、そしてある時神によって終わりがもたらされます。時の進行があるとき止まり、世界が終わるのです。イエス様はその終末の前兆として起こる事柄、そして信仰者に襲い掛かってくる災難を予告され、最後まで信仰を持ち続ける者は救われるとおっしゃいました。それは直ぐに起こるかもしれないけれども、まず福音が至る所で宣べ伝えられ、それから終わりが来ると教えられたのです。

それに続くのが今日の聖書箇所です。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――」(十五節)と始まります。まもなく終わりが来ると言われた後も、続くのは再臨の話ではなく、終末の前に起こる大きな苦難の話です。ダニエル書に学ぶよう言われています。ダニエル書には「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる」(ダニエル書九章二十七節)、「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる」(同十一章三十一節)などとありますが、セレウコス朝シリアによって焼き尽くす献げものの祭壇が取り払われ、異教の神ゼウスの祭壇がおかれた、このような信仰が完全に踏みにじられる事件がまた起こるであろうと言われています。

「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」(十六~十九節)。イエス様は究極の困難の中、頑張って信仰をまっとうせよとも、死ぬ覚悟で抵抗せよともおっしゃってはいません。そんな時には山に逃げなさいと諭されています。それどころか屋上にいる者は家にあるものを取りだそうと下に降りてはならないとか、畑にいる者は上着を取りに帰ってはならないとか、直ちに逃げる必要があると緊急性を告げられます。今の日本に置き換えて言えば、大津波が来るかもしれない大地震の後は、必ず山に逃げろとか、貴重品を取りに家に帰ったり、家族を探して海岸に行ったりしてはいけないというのとよく似ております。また身重の女性や乳飲み子を持つ母親に言及し、その逃亡がいかに大変なものであっても逃げなさいと語られました。

続いて「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」(二十節)とあります。ここで冬と訳されている言葉は暴風雨、荒れた天気とも訳せる言葉でこちらの方がいいかもしれません。普段は乾いていて雨の時だけ川になるワジが氾濫すると逃げられません。

「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」(二十三~二十六節)。この忍耐がいる期間を、どうすればいいのか、イエス様はいろいろにおっしゃいます。そして、必ず出現する「見よ、ここにメシアがいる、いやここだ」と言う偽メシアや偽預言者に惑わされてはいけないと注意なさいました。

「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」(二十一~二十二節)。教会はこれでもう最後かという出来事を何度も経験してきました。昔信仰が盛んだったところに今は全く教会がない、信徒もいないというところがたくさんあります。滅ぼされたのです。わたしが青年時代を過ごした香里教会で、ある長老が、忘れられない入信の証をなさいました。今の北朝鮮での出来事です。敗残兵だったこの人を追ってくるロシア兵から、ある現地人の夫妻がかくまってくれたときの話でした。こうおっしゃいました。鮮明に覚えております。「彼らは今まで自分たちを支配し、いじめてきた憎き日本人であるわたし、しかもぼろぼろの服を着てシラミだらけだったわたしを助けてくれました。なぜ助けてくれたのか不思議でしたが、実はこの夫婦はキリスト者だったのです。神なんて信じられないと思っていましたが、この夫婦には無神論者だった自分にはない温かさがあるということだけははっきりわかりました」と話されました。これがきっかけになって、その方は帰国後洗礼をお受けになったのです。朝鮮半島には、熱心なキリスト者が大勢いたのです。今北朝鮮には一人も信者がおりません。大勢のキリスト者が南の韓国に逃げたからですが、それだけではなく、実に多くのキリスト者が殺されたのです。教会は壊滅させられました。見つかって拷問され、芋ずる式に仲間の居場所がばれて皆殺しにされたそうです。大勢のカトリック教徒が殺されました。まさにもうこの世の終わりではないのかという憎むべき破壊者が聖なる教会の中に入ってきたのです。

しかし、ここでイエス様は大事なことをおっしゃっております。この大きな苦難の期間を神が縮めてくださる、時が縮まるとおっしゃったのです。終わりは神のご支配が、より鮮明になります。その神が困難の時を縮めてくださるのです。そうでなければ耐えられないからです。終末は神の支配がはっきりと前面に出ます。信仰を持ち続ける人々がいなくなってしまいそうな苦難に見えても、神は時を縮め最終的に救ってくださるのです。終わることのない全く違う新しい世界が始まる前に大きな困難が襲うけれども、神がその期間を縮めてくださいます。殺された信徒もわたしたちも、共に永遠の世界で出会うのです。

ここでイエス様がお語りになっていることは、終末の前に来る大きな苦難についてですが、来週ご一緒に読みます二十九節以下につながっていることは明らかです。そこで語られているのは、この終わりの時にイエス様が再び来られるということです。わたしたちは、イエス様と顔と顔を合わせることができるのです。終末はただそれがなければよいことを願うしかない苦難の時ではありません。「最後がくる」というのは単なる脅しではなく期待が持てることでもあるのです。そこには希望があります。

わたしどもは主が再び来られることを待っております。マラナ・タと祈っております。もしそうでなければ、今のこの世だけにこだわっておれば、困難の最中(さなか)で、やがて神から与えられる義の冠を待つことはできないでしょう。主が再び来られることをずっと待ち続けることができない人は、死に直面して、なお忍耐することは難しいのではないでしょうか。人生ってこんなものだ、みんなそうでしょうとあきらめ、投げ出す以外に対処のしようがありません。マラナ・タという祈りを忘れると、だんだんと人はこの世だけを愛するようになります。すると、自分は、教会のためにコツコツと働いてきたけれどもいったい何の意味があったのだろうかと疑問を抱くようになります。結局死んだらおしまいなのだとなりがちです。自分が死んでいくその彼方に主イエスが来てくださる、主にお会いするのだという「死を超える望み」など持てなくなります。この先二十六章以下になりますと、イエス様の発言はぐっと減ります。十字架物語が始まるからです。この二十四、二十五章はイエス様の最後のまとまった教えといってもいいでしょう。どんな気持ちでお語りになったのかと思います。ご自分の死に先立って、なぜこんなにも長く、こんなにもしつこいくらいに終わりについて話をなさったのか。わたしたちにとって、これが決定的に大切なことだからではないでしょうか。

「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」(二十七、二十八節)。やがて自分は死ぬ。しかしそれで終わりではないとイエス様はおっしゃいます。再臨は、稲妻がひらめき渡るように、どこにいても誰が見てもはっきり分かるのです。死体のある所には、はげ鷹が集まります。はげ鷹が死体を見逃さないのと同じように、人がイエス様の再臨を見逃すことはないのです。たとえ山に逃げていても、イエス様が再び来られる時はわかります。

もう一度繰り返しますが、荒らす者がその振る舞いによってこの大変な時を長くしたり短くしたりするのではありません。最後の困難の時を支配するのは、神であって、悪ではありません。神が民を救うため時を縮めてくださるのです。イエス様の再臨は、誰の目にも明らかで見落とすことも、見間違うこともありません。

ご存知のようにヨーロッパの教会は、葬儀の時に鐘を鳴らします。大勢の信徒がいるので毎日のように鐘がなります。ああ、きょうは誰のために鐘がなっているのだろうか。あの人か、この人か。英国のジョン・ダン(1572年~1631年)という詩人の司祭が、「不意に発生することについての瞑想」という短い説教集である瞑想録の中で有名な言葉を残しております。「汝問うなかれ、誰がために鐘はなると。それは汝がために鳴るなれば」。その鐘の音はあなたのためだ、あなたが死ぬのだと。礼拝が始まる時に、時を知らせる鐘がなります。今礼拝五分前ですよというだけでなく、イエス様が再び来られる、準備はできているかと問いかけています。苦難の中に置かれたとき、その場から逃げてもいいのです。わたしたちに必要なのはただ礼拝し続けることのみです。

祈ります。
父なる神、終末には大きな困難が襲うけれども、その時をご支配になるのはあなたであり、あなたはわたしたちを救うため苦難の時を縮めてくださることを知りました。イエス様は、どうしようもない大きな困難を前にした時には逃げ出してもいいとおっしゃいました。イエス様がわたしたちのために十字架にかかり、いつも共にいてくださることを感謝します。わたしたちが死を超えて希望を持つことができますように、終末の後に来る終わることのない全く違う新しい世界を待ち望むことができますように、支え導いてください。
主イエス・キリストの御名によってマラナ・タと祈ります。
アーメン

3月17日の音声

 

 

2019年3月10日 受難節第1主日
「終末の徴」
マタイによる福音書24章1-14節 説教:森喜啓一

マタイによる福音書第24章1節から34節は、小黙示録と呼ばれています。これは普段の私たちの生活では馴染みの薄い言葉ですが、小黙示録の黙示と言う言葉には「隠された真理を明らかにする」という意味があります。特に、聖書の中では神様の隠されたご計画やその真理が書き記された書物とご理解をいただければ良いかと思います。新約聖書の中では、一番最後に納められたているヨハネの黙示録が有名ですが、マタイの福音書24章1節から34節までの小黙示録では、イエス様のみ言葉を通して、今まで隠されていた神様のご計画が明らかにされていきます。特に、今朝はその中の1節から14節に書き記された「終末の徴」と題されたみ言葉を皆様と共に心に刻みたいと思います。

「お前達の家は見捨てられる」。23章の終わりの38節に記されたイエス様のみ言葉は、弟子達の心を強く捉えていました。そこで、弟子たちはイエス様が神殿から出て行かれるイエス様に近寄り、神殿の建物をあえて指さしました。其処からは、実に壮麗な神殿の姿が見えたことでしょう。弟子達は、その圧倒するような神殿の姿をイエス様に見ていただいて、23章でイエス様が言われた「お前達の家は見捨てられる」の意味について、改めて聞いてみたかったのです。弟子たちの言葉に促されたイエス様は、この壮麗な建物は崩れ滅びるのだと、さらに明言されました。それを聞いた弟子たちの胸には、心をざわつかせる大きな不安の高まりがありました。

弟子たちはこう思ったのです。「もしも、この壮麗な神殿が、神に見捨てられ、崩壊するようなことがあれば、この世全体は、もう確かなものではなくなる。この世の終わりが来るのではないだろうか。なんと恐ろしいことか」と。そこで、弟子達は3節にあるように、イエス様に尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか」と。さらに弟子たちの問は続きます。「あなたが来られてこの世が終わりになるときには、どんな徴があるのですか」と。ここで、弟子たちはイエす様に「あなたが来られて」と言いました。「あなたが再び来られて」ではないのです。とても不思議な言葉遣いに聞こえます。弟子たちは、イエス様が苦難の死を遂げられた後復活し、天に昇り、やがてこの世に再臨されることをすでに聞かされていたのですから。

23章の最後にある39節でイエス様は、「人々がイエス様に対して歓喜の声をもう一度挙げる時が来る」と言われました。イエス様は、「もう一度来る」と、言われているのです。しかし、この24章3節で弟子たちは、イエス様を始めて来られる方のように、単に「来る」と言っているのです。弟子達のこの言葉からすると、イエス様の再臨は、あのクリスマスにお生まれになって、弟子達と宣教をされているイエス様と同じ使命や姿で来られるのではないのではないでしょうか。 聖書が示す意味は、イエス様は、神様から新しい使命を担い、新しいお姿をもつ新しい方として来られるのではないでしょうか。それがどのようなものなのかを、今日の聖書箇所では明らかにしていません。しかし、弟子が言うように、それは確かな事に違いありません。それはこれ以降の聖書が明らかにしてくれます。

さらに、弟子達は「イエス様が来られ世が終る」と、「この世の終わり」のことを言っています。「この世の終わり」と言う言葉は、私たちに、とても暗い、後のない、破滅や滅亡や絶望を感じさせます。この言葉が、そのような意味合いで使われていることが実際多いからなのでしょう。しかし、神のみ言葉が示す「この世の終わり」は、そのような意味とは、まったく逆で、希望に溢れた意味を持っています。と言いますのは、ここで使われている「終わり」という言葉の原語となったギリシャ語は「完成」と言う意味にも解釈できるのです。これは、とても大切なことなのです。そして、聖書が言う世の終わりとは、今の不完全な世が終わり、神様のご意志通りに、神の国が完成され、新しい世が始まることなのです。それは、私たちキリスト者の望みが実現されることなのです。

そして、イエス様は弟子の「世の終るときの徴」つまり前兆についても、はっきりとお答えになりました。第一に、「人に惑わされない様に気をつけなさい」。あなた方は、世の終わりについての間違った考えに誘われてはいけない、と言われるのです。偽メシアが現れる、偽宗教が人々を惑わすと言われるのです。戦争と戦争の噂を聞くことでしょう。それもとても身近に。人々は、どう逃れようか、生き延びようかと騒ぎ出します。このような出来事は、人の心を狂わせ、人を騙し裏切ることを何でもない事の様にしてしまいます。そして、人々を煽動しようとする者も現れます。かれらは、大声と、身勝手な理屈と扇情的な言葉で人々を圧倒し、人々の思考を停止させてしまうのです。でも、イエス様は、「慌てては行けない」と言われます。 それらのことに「惑わされるな」と言われているのです。どのように人が言っても、噂を聞いても、ただ神様のみ言葉を信じて、しっかりしていなければならないのです。

また、イエス様は「偽メシアが現れても、戦争の噂を聞いても、それは世の終わりではない」、滅びが終わりではないとも言われている。イエス様は、このことで、私たちに、楽観的になるようには教えられないのです。イエス様の言われている事は、やはり恐ろしいことです。7節から11節には、様々な恐ろしい出来事が述べ綴られています。

そして、イエス様はこのようにも言われました。「このような出来事が続く世の中では不法がはびこる」と。それは 律法が否定されることでした。つまり神様が与えてくださった掟が破られることをおっしゃっています。特に、最も大切な掟「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「自分を愛するように隣人を愛する」という掟です。終末が近づき、世の中がひどく荒れると、それらの掟が破られてしまうと言われるのです。世が滅びようとするとき、人は、生き残るためには、愛などは無力だと言うのでしょうか。愛よりも力が勝つと考えるのでしょうか。力ずくで自分だけが生き延びようとするのでしょうか。

イエス様は、そのことによって「多くの人々の愛が冷える。」とおっしゃいます。この「多くの人々」とは、私たちキリスト者、教会員のことです。教会の中にも混乱が起きるのです。教会の中に疑いがうまれ,人が人を裁き、信仰に躓く者、間違った神の言葉を語り人々を惑わす者が現れると言われるのです。そして、愛が冷えるのです。「それでも教会の愛だけは冷えないのだ」とは言われなかったのです。それは、危機が生じた時、人間は愚かになってしまうからなのでしょうか。神様を忘れ、正しい神様の言葉に基づいて事態を見ることができなくなってしまうのです。心が焦り自分を自力で守る事に必死になるからなのでしょう。そして、教会は分裂していきます。人間は、それほど罪深いものであることを、私たちは心に留めておかなければならないのでしょう。

イエス様は、そのような時に私たちがどうすれば良いかを教えてくださっています。13節です。「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」。最後まで、信仰を捨ててはいけません。人の言葉にも、噂にも、そして私たち自身の内側からの誘惑の囁きにも従ってはいけません。どんなに人を嫌いになりそうになっても、憎みそうになっても、心が破裂しそうになっても、「辛抱強く神様の愛の掟を守り続よ」とおっしゃるのです。それは、とても難しいことかもしれません。最後は、自分との戦いになるのです。あなたの心の中にいる、もう一人あなたの誘惑に勝たなければならなりません。貴方の中にいるもう一人のあなたは、百もの愛が冷めても良い理由をのべたてることでしょう。しかし貴方はたった一言でその百の理由を撃破できるのです。つまり、「それでも、私は神様を信じる」という一言です。

しかし、こんな呟きがきっとあるでしょう。「人はそんなに強いのか」。イエス様は、「神に信頼を置くものは忍耐に生き、神への信頼に生きる者は救われる」と言われているのです。イエス様はそのように苦しむ私たちを助けてくださいます。耐え忍ぶ時に、もはや自分では絶えることが出来ない、崩れて行ってしまいそうな自分自信を「神様に預けてしまいなさい」と言われのです。その祈りと忍耐は、私たちの愛を救い教会を救います。そして、そのようになさる皆様お一人お一人の生き様こそが全世界に宣べ伝えられる福音の宣教なのです。

祈り
御在天の父なる神様。
私たちが、どのような時にあっても、主のみ言葉を、私たちに注がれ、私たちが、しっかりとそのみ言葉を捉えられるよう、私たちを強めてください。

私たちは、弱く、心は揺れ動きます。私たちの中に、隠れる愛が冷めて行くような思いや、この世の滅びに恐れ、自分を見失ってしまいそうな思いを消し去ってください。

どうか、どのような時にあって、私たちが神様のみもとにあり、つぶれてしまいそうになった時には、神様に全てを御任せすることをお許しください。そして私たちを受け留めてくださいますように。

そして、終末の後、到来する、私たちの望みの実現である神の国へ私たち誘われます様に。

この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。

アーメン

 

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