受難節説教

2018年3月25日 受難節第6主日 棕櫚の主日

「エルサレムに入城する」

マタイによる福音書 21章1~11節

今日から「受難週」に入ります。イエス様が十字架についてくださったその週です。今日は、まさにイエス様の受難と復活の出来事の始まりとなったエルサレム入城の記事から御言葉を聴きたいと思います。新約聖書の初めの四巻、福音書は、どの巻もイエス様のご生涯を描いておりますが、中でも、十字架と復活の出来事は最も伝えたい第一の事柄ですから、イエス様がエルサレムにお入りになる少し前から、どの福音書も多くの頁を割いております。弟子たちにとって忘れられない経験でしたのに、同じひとつの出来事を記すにも、取り上げ方の順番や、その他記録は微妙に違っております。福音書がイエス様の死後何十年か経って記録されるまで、語り継がれるうちに細部が変わるのは当たり前です。しかし、大事なことは一貫して伝えられています。

 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ロバがつないであり、一緒に子ロバのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」(一~三節)。

エリコを出られたイエス様と弟子たちは、エルサレムに近づきました。過越の祭りを守るためです。イエス様以外の誰もがそう思っていました。エリコからエルサレムは約二十四キロあり、その間に千メートルも上ることになります (エリコは海抜マイナス二百五十メートルの低地、エルサレムは標高七百五十メートル)。一行は、エルサレムのすぐ近くにあるオリーブ山のふもとまで来ました。オリーブ山は、当時は一面オリーブで覆われていましたので、そう呼ばれます。イエス様が、エルサレムに入城されたのは日曜日で、ご復活日のちょうど一週間前にあたります。オリーブ山沿いのベトファゲという村に近づいたとき、イエス様は二人の弟子にエルサレム入城に用いるロバを、向こうの村から引いてくるよう命じられました。ロバを見つけたら、「それをほどいてわたしのところへ連れてきなさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい、すぐ渡してくれる」とおっしゃいました。ロバの所有者はイエス様の支持者の一人で、喜んで応じてくれると確信なさっていたのでしょう。すぐにという言葉はイエス様に対する従順さを印象づけます。ロバと一緒にいる子ロバがすぐ見つかるとおっしゃったことからも、神がすべてのことを支配し導かれることが強調されています。

それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って』」。弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ロバと子ロバを引いて来てその上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった(四~七節)。

イエス様はエリコからずっと山道を登ってこられたのですから、お元気です。歩いて都にお入りなってもよかったのです。子どものロバが大人の男を乗せるのは大変です。ロバに担がせる荷は大体三十キロまでですから、ロバは喘ぎ喘ぎのろのろとしか進めません。しかし、わざわざ小さなロバに乗られたのです。マタイは、イエス様がロバに乗って入城されたことを、預言者を通して言われたことの成就と見ております。その預言を実際にロバに乗って入城なさる前に記しています。このマタイの言葉はゼカリヤ書九章から引用されています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」。シオンはエルサレムのことです。「シオンの娘」とはエルサレムの住民をさす詩的な表現です。「あなたの王」、救い主、メシアが、ロバに乗って来られる、そして戦いが終わり、平和が来る。これが預言の言葉です。この預言の言葉はヘンデルの「メサイヤ(メシア)」のアリアでも有名です。

一世紀のこの時代は「ローマの平和」と言われ表面的には平和な時代でした。しかし、それはローマの軍事力によって諸国が抑え込まれていた結果に過ぎません。こういう平和はいつの日か崩れ、また戦いと混乱の日々がやってきます。世界は本当の平和を必要としていました。武力で戦う王は騎兵に囲まれ、威厳、権勢を誇示しながら馬にまたがって凱旋入場するのが普通です。ところがこの預言にあるメシアは、ロバに乗って入城されます。馬ではなくロバに乗っての入城は、軍事的勝利者ではなく、戦車や武器を廃止する平和の王、柔和な王であることを強調しています。「エルサレムから軍馬を断つ」のです。「柔和な」とは「無防備」を意味します。武力を使わないのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(十一章二十八、二十九節)という有名な言葉を少し前に(一月二十一日)聴きましたように、イエス様の本当の姿を表すためにしばしば用いられる言葉です。柔和な者こそ、地を受け継ぐのです。

イエス様に派遣された二人の弟子は命じられた通りに、ロバとロバの子を連れてきました。すると他の弟子たちは自分たちの上着をロバの上に掛けました。上着は彼らの持っていた唯一の財産です。その上着をロバの上に敷いてイエス様への献身を示しました。イエス様はそのロバに乗られたのです。「それにお乗りになった」の「それ」(アウトーン)は複数形です。ロバを指すのか服を指すのかわかりません。二頭のロバに乗られたのかもしれませんが、一人の人が同時にロバ二頭に乗るのは難しいですから、一頭のロバに乗られて、服が二頭にかかっていたのかもしれません。

「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(八~九節)。弟子たちだけでなく大勢の群衆もイエス様と共にエルサレムに入りました。彼らもまた、重要な役割を演じます。自分たちの上着を道に敷いたり、木の枝を切って道に敷いたりしたのです。この木の枝が棕櫚(おいしい実がなるなつめやし)と呼ばれる木の大きな葉っぱであったと伝わっております。古代の中近東では、勝利や平和を期待して、上着や棕櫚の葉を道に敷いて重要な人物を迎えることがよくありました。このとき群衆がダビデの子と言ったのは、ダビデのように外国の圧政から解放してくれるメシアを長い間待ち望んでいたからです。そういう時代に、ロバに乗ってイエス様は王であるかのようにエルサレムに入城なさいました。群衆はローマからの解放を願っていますから、ユダヤ王国を復興するメシアだと期待しても不思議なことではありません。ホサナは、「どうぞ救ってください」が語源ですが、日本風に言えば万歳に近い言葉です。「栄光あれ」くらいの訳が一番ふさわしいでしょう。「主の御名によって来られる方」とは、まさにメシアを指しています。「ダビデの子」と同じです。イエス様は群衆が、軍事力を司る王だと誤解していると分かっておられましたが、ご自分が違う意味での王、神の国の王であることを示すため、あえて彼らの誤解を拒否なさいませんでした。

この出来事は、過越祭を控えた時に起こったとヨハネが語っています。過越祭はエジプトからの解放を記念するユダヤ人にとっては最大の祭りで、人々がいたるところからエルサレムに集まります。わたしたちのお正月にあたります。エルサレムの人口は何倍にも膨れ上がり、町中にあふれかえった人々は民族の祝いで盛り上がります。旧約聖書の「過ぎ越し」、出エジプトの物語が繰り返し読まれます。したがって人々には、エジプト脱出のような出来事が再び起こるのではないか、起こっても不思議ではないという気分がありました。熱狂して叫びやすい高揚感です。人々は皆、旧約聖書の預言をよく知っておりましたから、ロバに乗ってこられたイエス様を見て、これは預言者を通して言われていたことが実現したのだと思った人も当然いたのです。過越祭で高揚している人々に「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という声は広がり、イエス様は王として熱狂的に迎え入れられました。

 「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った」(十、十一節)。イエス様がエルサレムに入られると都中の者がこぞって、「この方はどういう方なのか」と言いました。「都中の者が、言って騒いだ」というのは、イエス様がエルサレムに入られたことがいかに衝撃的であったかを表しています。それほど騒ぎたち震撼したのでしょう。過ぎ越しの祭りのためにエルサレム神殿にやってきた巡礼者たちも、このガリラヤから来たイエスという人物に出会うのは初めてだったからでしょうから、一緒になって「この方はどういう方なのか」と騒いだのです。イエス様のエルサレム入城は突然で異様なものでした。「いったいこのイエスという人は、メシアなのか預言者なのか、それとも何か別の者なのか。待望のメシアのようにも見えなくはないが、ローマを打ち砕きユダヤ国家を再興する人物としてはいかにも頼りなさそうだ。いったい何者なのか」。こんなふうに言ったのかもしれません。期待と疑いが混じった感情でしょう。イエス様を取り囲んでいた人々が「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。弟子たちはイエス様を預言者だと思っていたようです。

これまでイエス様はご自分がメシアであること、神の国の王であることを明らかにするのを避けておられましたが、今日の出来事では明確に、王としてエルサレムに入ろうとされています。時が来たのです。ユダの王として、預言にある通りロバに乗ってやって来られました。神に従い勝利を与える王として、平和を告げられたのです。この聖書箇所は、世界共通の聖書日課に従えば、伝統的には年二回読まれます。一度は棕櫚の日曜日ですが、実はもう一回、教会歴の一年の始まり、待降節第一主日に読まれます。クリスマス、救い主の誕生を待ち望む、その始まりの日です。ろうそくを一本点火する日に、「時が来た、王が来られた」と宣言するのです。クリスマスとイースターは、救い主の出現という意味で繋がります。

祭りの準備に忙しく何が起こっているのか気付かなかった神殿の祭司たちが報告を聞いた時には、群衆の熱狂は既に手のつけられないところまで広がっていました。一体これはどういうことか。「この男はいったい何者なのか。ひょっとしたら、王と誤解されるのではないのか。だれもがイエスのことをよく分からないまま『ダビデの子にホサナ』と叫んでいる。これは大騒動になるぞ」。エルサレムの宗教家たちは困りました。興奮状態にあり民族意識が高まっているこんな時に、うっかりイエス様を逮捕でもしたら、とんでもない暴動に発展しかねません。暴動が起こるのを警戒するため、ローマのユダヤ・サマリア長官、ポンテオ・ピラトも兵を率いて来ております。あっという間にローマの軍事介入を招きかねません。最も警戒すべき事態に緊張が走ります。

ローマを追い払ってくださるのではないかという人々の期待通り、もしイエス様の目的が、ユダヤをローマから解放することにあるのなら、戦車か軍馬に乗って、エルサレムのような宗教の中心ではなく、ローマ総督府のある町カイサリヤに向かわれたことでしょう。しかし、イエス様はエルサレムに来られました。イエス様の戦いの相手はローマではなく、ゆがんでしまった律法主義であり、宗教的エリート主義であり、人の罪だったからです。神を神としない生き方です。だからこそ、この出来事の舞台は、神の都エルサレムでなければならなかったのです。イエス様の十字架の出来事は、神の国の民に起こる出来事として、神殿のある、まさにここエルサレムで起こるのです。

旧約聖書の預言通りにロバに乗ってこられたとはいえ、王として迎えられているのに、付き従う者は勇者ではなく、旅に疲れた弟子たちです。ガリラヤからついてきた、みすぼらしい身なりの人もいたでしょう。人々は熱狂し気付いておりませんが、見てください、ロバに乗るこのお姿こそが、救い主である王の本当の姿を現していたのです。ゼカリヤはこの王を、「高ぶることなくロバに乗ってくる」と言います。「高ぶることなく」という言葉は、謙虚・謙遜というよりも、「貧しい」とか「みすぼらしい」とも訳せます。十字架を目指すイエス様の使命そのものを表す言葉、それが「高ぶることなく、ロバに乗って」なのです。「みすぼらしく、ロバに乗って」です。

ロバに乗ってユダヤの民の本拠地にのろりのろりと来られたイエス様は、「ホサナ、ホサナ」と群衆に熱狂的に迎え入れられました。この五日後には同じエルサレムの群衆が「この男を十字架につけろ」と叫び続けます。今日の群衆はガリラヤ地方から上って来た人々が中心であり、五日後の群衆はエルサレム在住の群衆が中心です。しかし、叫んでいる人々に違いはあるにしても同じエルサレムでの出来事です。重なっていた人々もたくさんいたはずです。わずか数日の間に人の心はこれほど変わってしまったのです。そして惨めにも殺されてしまいます。

さて、わたしたちは、どこに立ってこの物語を聴いたでしょうか。イエス様が入城なさるのを見て、ホサナ、ホサナと叫ぶのでしょうか。すると、期待していることと示されたことが違う、期待はずれだからと、そんな男は殺してしまえと叫ばないでしょうか。わたしたちは、どうしても目の前の出来事にだけ意識を向けがちです気が付くといつも、仕事が、親が、子供が、病気がと言います。ひとつひとつの出来事が自分の目にどう映るかで一喜一憂し、都合良く事が進むことを期待します。もちろん、わたしたちが考える都合の良い事が起こるのは悪くありません。そのために祈ります。しかし、もっと大事な事があります。人生において最も大切な事は、神のみ前に立つこと、神との正しい関係の中で歩み、神と共に生きることです。そこにイエス様の出来事が迫ってきます。イエス様はわたしたちの存在が神の前からずれてしまって、遠くなっているのを元に戻すために来てくださり、そのためにわたしたちの罪を担って十字架についてくださったのです。惨めで傷ついた姿、はっきり言えば失敗者の姿となってくださいました。栄光に輝く姿で、威風堂々と入ってこられたのではないのです。神の御子が人として低い姿になってくださったのです。貧しい姿でロバに乗って来てくださったイエス様によって、わたしたちはだれでもイエス様に近づき、神に近づき、神のみ前に生きることができるようになりました。わたしたちは、この恵みをしっかり受け取って生きているでしょうか。それが棕櫚の主日に聞くべき御言葉です。わたしたちの救い主は、みじめな姿でロバに乗って来られたのです。わたしたちもありのまま、イエス様に従いましょう。

祈ります。

主なる神、御子イエス様をこの世にお送りくださいましたことを心より感謝致します。柔和で高ぶることのない姿で来てくださった救い主を、感謝を持って受け入れることができますようお支えください。わたしたちはともすると、自分の都合よいように物事を考え、そのようにならないことに不満を覚えますが、どうかあなたに近づき、あなたの御前で生きることを第一番に考えることができますよう導いてください。特にこのご受難の一週間を、わたしたちをあなたに近づけるために十字架にかかってくださったイエス様を忘れずに過ごせるようにしてください。

主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。

 

3月25日の音声

 

 

2018年3月18日 受難節第5主日

「わたしの母、わたしの兄弟」

マタイによる福音書 12章46~50節

日曜日に教会に行くことを家族が快く思わないのですと聞かされることがあります。今はあまり聞きませんが、わたしより少し先輩の時代には、洗礼を受けたために勘当されたという人がおりました。洗礼を受けることまでは許されても、キリストに仕える奉仕の生涯を歩もうとしたり、未開の地に伝道に出かけたりするのは、人生を棒に振るからと家族から猛反対されたということも聞きました。熱心なキリスト者のご夫婦が、息子が牧師になると決心したことで、一晩泣き明かしたのをわたしは実際に知っております。人にとって最も基本的な単位である家族が、イエス様との関係で崩れるという皮肉なことを経験することがあるのです。わたしたちとは異なり、みんなが伝統的なユダヤ教を信じている社会にあった初代教会では、イエス様をキリスト、救い主であると告白すると、家族の中で孤立し絶縁されたということが、しばしばあったようです。

さて、今日の話は「イエスがなお群衆に話しておられる時、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」(四十六節)と始まります。先週聞きましたファリサイ派との論争で、イエス様が「出て行った汚れた霊が、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて戻ってきた」というたとえ話をしておられた時です。イエス様の母マリアと兄弟たちがやってきました。父親のヨセフが出てこないのは、すでに世を去っていたからだと思われます。イエス様には弟たちがいたことをマタイは伝えています。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの名前が次の十三章五十五節に出てまいります。妹たちもいてイエス様の故郷ナザレに住んでいたようです。なぜやってきたのか書いてありませんから、軽々しくは解釈できません。マルコが「身内の人たちがイエス様を連れ戻しにきた、気が狂ったという人たちがいたからだ」(マルコ三章二十一節)と言うように、イエス様が、気が狂っていると言われるような活動をなさっているので、家に連れて帰るべきだと判断したのかもしれません。あるいは、ファリサイ派が激怒しているのを聞いて、このままだとまずいと心配して危険から遠ざけようと思ってやって来たのかもしれません。しかし、マタイは理由について何も言っていませんのでわかりません。

彼らは何か話したいことがあって、やって来たに違いないのですが、イエス様の周りには人が一杯で近づけません。なお群衆に話し続けておられます。彼らは家の中には入れなかったので、外に立って待っていました。「そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った」(四十七節)のです。家族の訪問が、そんな風に伝えられました。イエス様の家族がやってきたということで、おそらく玄関ではざわめきが起こったのでしょう。誰かが大声で叫びました、お母さんが来られています。外に立っておられますよと。完了形ですから、ずっと立っておられますよ、さっきから待っておられます、そんな感じです。

しかし、イエスはその人にこんなふうにお答えになったのです。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」(四十八節)。思いがけない言葉です。印象に残ります。マルコもルカも同じ言葉を記しております。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。どうして、そんな文字通りなら決まりきったことを聞かれるのだろうと、その場の人たちは戸惑ったことでしょう。それにしても、このお言葉はちょっとショックです。これではまるで、家族を責めているような言い方にすら聞こえます。その人たちは家族じゃないと。信じられないような困難のなかで神を信じてイエス様を産んでくれたのがこの母であったにもかかわらず、感謝の気持ちがまるでない感じです。これがもしイエス様でなかったら、親に対して失礼ではないかと非難されるでしょう。しかし、そういうことではありません。イエス様は母や弟たちを家族ではないとおっしゃったのではありません。

「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(四十九、五十節)。「弟子たちの方を指さして」と訳されている言葉は、八章三節で「手を差し伸べて」と訳されているのと同じ言葉です。イエス様は弟子たちの方に手を差し伸べて、弟子たちがイエス様の家族であることを示されたのです。そして「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とおっしゃいました。天の父の御心を行うことによって生まれる新しい霊的な家族のことです。弟子であることは、イエス様に従い天の父の御心を行うことであると同時に、イエス様の兄弟姉妹と呼んでもらえる、つまりイエス様の家族であり、イエス様のもとにいる、守りの中にあるということなのです。初めに申し上げましたように、初代教会はみんなが伝統的ユダヤ教を信じて生きていた社会にありました。イエス様を救い主であると表明したことで家族との間に亀裂が生じて苦しんでいた人々にとって、教会の中に新しい家族を見出せることは、大きな慰めだったことでしょう。

振り返りますと、これまでもイエス様は普通の家族の概念を破ることをおっしゃっていました。父の葬儀に行こうとした弟子のひとりに、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(八章二十二節)とか、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。・・・わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(十章三十四節以下)とか。家族の絆が今よりずっと強かった当時のユダヤ社会においては衝撃的な言葉だったはずです。イエス様の弟子になる、神の国に生きる厳粛さが教えられております。

十二章に入ってからここまで、長いファリサイ派との論争がありました。その結末部にこの話が置かれています。しかし、悪霊論争と今日の話は直接つながらない感じがします。どうしてここに、こんな風に家族の話が出てくるのかなと思います。そこでもう少し遡ってみますと、安息日の論争がありました。イエス様は安息日であるにも関わらず病人を癒されましたが、それは神の国が来たことを示すため、その「しるし」として奇跡を見せられたのでした。ファリサイ派との論争でもはっきりそうおっしゃっています。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(二十八節)と。神の国に生きるとき、人はイエス様の兄弟、姉妹となれるのです。ファリサイ派との対立が深まり、「この時代の人」とイエス様との距離がどんどん離れていったのとは対照的に、イエス様の新しい家族が形成されていきます。新しい霊的な家族、教会です。論争の結末で、ファリサイ派との絶望的な断絶の一方で、イエス様の働きで霊的な家族が生まれたこと、教会への救いが描かれているのです。

今、人々は神の国に生きています。神の国に生きるとき、血の繋がった家族が第一ではなくなるのです。イエス様の言葉がはっきりと響きます。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である」と。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。これは宣言です。教会ができるのです。それが血縁の家族に優先するのだと、イエス様がはっきりおっしゃっています。これはわたしの体、わたしの血と宣言なさって聖餐が制定されたのと同じです。

イエス様の弟子であることは、イエス・キリストの天の父なる神の御心を行うことです。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(十一章二十八節)とおっしゃいました。この呼びかけに応えた人々が教会を形成していったのです。わたしたちもイエス様のもとに来るよう、みな招かれているのです。誰でもがイエス様の兄弟となり、姉妹となれるのです。外に立つ者ではなく、中に入りイエス様の家族になれるのです。

ところで、わたしたちには、神の国でのルール、人は信仰によってのみ救われるのであって、何らかの行為で救われるのではないという教会の教えが身に沁み込んでおります。イエス様を信じることが第一だと体の芯までそう思い、知っております。また、イエス様が「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」とおっしゃったことも知っております。そして、懸命に神の御前を生きております。一方で同時に人の前でも生きております。具体的な日常生活の中におります。夫として妻として、親として子として家族の中で生きて働いておりますし、友人との親しいかかわりも欠かせません。わたしたちは、キリスト者としてのみならず、人として生きているからです。そこには区別がなければいいのですが、神の御前に生きることと、人の前で生きることの間に分断はないでしょうか。神の御前に生きる自分と、人の前で生きる自分とが分裂してはいないでしょうか。普段は分断があるなどとは思っていません。親であり子である自分と、キリスト者である自分とを分けて考えることはありません。自分は自分です。けれども何かの拍子に、知らず知らずに壁を設けて区別していることに気づきます。よくよく自分を注意して振り返ってみると、意外にもこの両者には大きな溝があります。

ここで注意が必要です。それは信仰が第一だからといって、血肉による家族を冷たく扱ってもよいということではありません。わたし自身は、ある本を読んだとき、そうかと目を開かれる思いをしました。英国の有名な文学者、「ナルニア国物語」の作者、C.S.ルイスという人の「悪魔の手紙」という本です。とても面白い本です。この本の中で地獄庁国務次官の悪魔は、人間界に送る自分の子分、ニガヨモギ(ワームウッド)という名前の甥なのですが、彼にこう指南します。「人間どもに、信仰のことや教会のことばかりを考えさせなさい。聖なることに集中させるように。そうすると、信仰や教会のことで、だんだん家族や友人との間に分断が生じ、仲が悪くなり、やがて自分たち悪魔が勝利できる」と。実に巧妙な指導です。この悪魔の子分は、担当している若い男に、自分の母親の信仰のことばかりを心配させ、母親が患っているリューマチのことは心配しないように仕向けます。母のちょっとした言葉や行動が気にいらないと、「やっぱりおかあさんは信仰がないからだめだ」と思わせるのです。その一方で、自分が母親にいやな思いをさせているとは気づかせないようにします。そして、悪魔は甥にこう助言します。「二人が長年一緒に過ごしていれば、たいていお互いの声の調子や顔の表情に我慢できない癪に障るものが出てくるものだ。そこを捕らえなさい。それがいやでいやでたまらないと思わせるのだ」と言います。こうなりますと、男は自分こそが正しいと思い、信仰のない母親を、なじるようになります。

悪魔は別のやりかたも教えます。今のとは逆に、男にいつも母親の病気や、体のことばかりを心配させ、母親の信仰や教会なんてものは全く考えさせないように仕向けさせる方法です。男に、魂の救いなんてものはそもそも個人の勝手であって、母親固有の問題なのだから、子どもであっても関与すべきではないと思い込ませるのです。悪魔は甥に言います、「すべてを極端に向かわせるのだ」。ぬるま湯につかっている奴は一層ぐっすり眠らせる。ピリピリしている奴は、どんどんたきつけて憎悪をかき立てさせる。分断を助長するのです。こんなふうに、人を不幸にする方法を悪魔は子分に教えています。なかなか考えさせる内容です。さすがはルイスです。これ以上は、ルイスの本の宣伝になるので止めますが、実に面白い本で今でも手に入りますから、まだお読みでなかったらどこかでお読みになることをお勧めします。

信仰者として生きるとき、人は自分とはまったく考え方や信仰的立場の違う親や兄弟とどのように接するかという重大な問いにぶつかります。夫婦ならもっと深刻かも知れません。信仰のことばかりを考えて、家族の健康でさえも二の次というのは、いかにも愛のない態度ですが、いつでも子供が、子供が、孫が、孫が、あるいは母が、父が、夫がと言っているのでは、キリストと共に生きる、イン・クライストのリアリティーに欠けます。非常に難しい問題ですが、神はそれぞれの人に応じて、求めておられるのかもしれません。多くを望まれるとき、祝福も大きい分、その責任も重くなるのかも。どう応答すべきか、よく祈り求めたいものだと思います。

きょう聞きました出来事は、マタイ、マルコ、ルカは伝えていますが、ヨハネは伝えておりません。その一方で、マタイ、マルコ、ルカにはないのに、ヨハネだけが伝えているイエス様の母マリアへの言葉があります。それがマラナ・タ教会の受難節聖書日課の一昨日、十六日金曜日の御言葉です。ヨハネ福音書十九章二十六節。イエス様は十字架の上で、母マリアとそのそばにいる愛する弟子とを見て、こうおっしゃったのです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。そして弟子には「見なさい、あなたの母です」と。その時からこの弟子は母マリアを自分の家に引き取って面倒を見たのです。自分の母に、婦人よと呼びかけられたのはいかにもイエス様らしいですね。ベタベタしていません。しかし、自分の死後、マリアが困らないように、弟子に面倒を見るように命じて、配慮しておられます。

今日は、礼拝のあと教会総会を開きます。毎年三月第三日曜日に伝道牧会方針と来年度の予算とを決定します。そして役員の選出がなされます。ここ何年か、毎年考えざるを得ないのが役員にふさわしい人はだれかということです。みなさん立派な信徒ですが、多くの方が八十歳近くか、それ以上のご高齢になられました。長生きは素晴らしい神の祝福です。しかし、どうしてもいろんなことがしづらくなってきます。わたしどもはよく考えねばなりません。家族として、いつまでも高齢者に頼っていていいのかということを。一方で、神は耐えられない試練に合わせられることはありません。神が支えてくださいます。これまで通りにと簡単に考えるのではなく、ぜひよく祈って投票しましょう。神の国に生きるわたしたちの、霊の家族としての健全な交わりのために。

祈ります。
父なる神、わたしたちが神の国に生きることができることを、そして、イエス様にわたしの兄弟、姉妹と言っていただけることを感謝します。いつもあなたの御心を尋ね求め、それを行っていくことができますよう、わたしたちを強めてください。わたしたちは御前に生きると同時に、人の前でも生きています。どうかわたしたちが、自分を分裂させることなく、しっかりとあなたを見上げて歩めるよう支え導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン

3月18日の音声

 

2018年3月11日 受難節第4主日

「汚れた霊」

マタイによる福音書 12章43~45節

マタイによる福音書をずっと読み続けております。十二章に入りまして、ファリサイ派との対立、特に霊の問題について議論が続いております。神の霊か、悪の霊かという論争でした。少し振り返りますと、初めに安息日にしていいことと悪いことの論争がありました。空腹になった弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたことがきっかけになりました。ここは役員のお一人が、入念に準備をして説教を代読してくださった箇所で、いつもと礼拝風景が違っておりましたので、よく覚えておられると思います。そのあと、会堂で片手の萎えた人を癒されたことについて、安息日に病気の人を癒してもいいかどうかが重ねて論争になり、言い負かされたファリサイ派はイエス様を殺そうと相談し始めます。さらに安息日論争を離れても、悪霊にとりつかれて目が見えず口の利けない人をイエス様が癒されたことが、神の霊によってなされた奇跡なのか、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出したのかという悪霊論争に発展しました。イエス様は「神の霊を汚してはならない。それは赦されないこととだ」と厳しくファリサイ派を戒められ、「このように悪い言葉が出るのは、あなた方の腹の底にあるものが悪いからだ」と、心の底まで腐っていると、これ以上ない厳しい言葉で叱責なさいました。それに対して、そこまで言うなら証拠を見せろとファリサイ派が反論したのです。「あなた方は、よこしまで神に背くものだ」というイエス様のお言葉が響きわたりました。その続きが今日読まれた箇所です。今日の「たとえ話」もファリサイ派との対決の中でイエス様がなさったお話であります。

何年も教会生活を続けておりますと、ファリサイ派、もしくは律法学者は、頭の固い、規則ばかり気にする頑固者、いつもイエス様に叱られている悪しき律法主義者という感じがいたします。そういう思いが強くなって福音書に出てくる悪役としてのイメージが固まります。ところが実はファリサイ派はいわゆる悪役ではありません。しかし一方で、確かに深刻な問題を抱えていたのです。彼らが抱えていた問題は、気が付きにくいものですが、わたしたちにも深く関係するものです。先ほど聞きました今日の聖書箇所のイエス様のみ言葉が何を意味するのかを知るために、初めにファリサイ派についての理解を深めたいと思います。

まずファリサイ派とは、決して悪い人たち、コチコチの規則厳守主義者ではありません。むしろ逆で、人々から尊敬され、真面目で、生活態度も立派でした。旧約聖書に造詣の深い学者もたくさんおりました。イエス様もファリサイ派に近いお方であったことが窺えます。よく食事を共になさっておりますし、ファリサイ派も、「先生、あるいはラビ」とイエス様を呼んでおります。イエス様の時代にファリサイ派は約六千人いたとヨセフスの『ユダヤ古代史』に書かれております。この人たちの精神性における先祖は、イエス様の時代から二百年くらい遡った紀元前二百年頃の人々です。この時代、アレキサンダー大王の将軍たちが、大王亡き後の世界を支配しておりました。中でもエジプトのプトレマイオス家とシリアのセレウコス家がよく知られております。ユダヤの国はシリアのセレウコス王家に支配されていました。アレキサンダーはギリシア人です。そこで、ヘレニズムといいますが、なんでもかんでもギリシア風にする政策がとられ、ギリシア化が厳しく求められておりました。ヘレネーとはギリシアのことです。当然エルサレムでも、支配者の意向に従って、進歩派の人々はギリシア風の競技場や劇場を建てました。信仰もヘレニズムの影響を強く受けました。強制的にギリシアの神ゼウスの像を拝まされたのです。しかし、このような時代にありながら、あくまでもユダヤの伝統宗教や文化を守ろうとした保守派の人たちがおりました。敬虔な父祖の信仰、わたしたちがいう古ユダヤ教の信仰を貫こうとした「ハシディーム」(単数形はハシダイ)と呼ばれる人たちです。ハシディームとは「敬虔な人たち」という意味です。やがてハシディームは、自分たちと信仰を同じくするユダヤのハスモン家が指導者となってセレウコス朝シリアと戦ったユダヤ解放運動を後押しして、ついに祖国を異邦人の手から救い出したのです。旧約聖書続編のマカバイ記をお読みくださればと思います。こういう歴史上の出来事がありハシディームは国家の英雄です。この人たちがファリサイ派の先祖です。

このようにして、ユダヤにユダヤ人の王家が再び誕生したのですが、このハスモン王家の一人(ヨハネ・ヒルカヌス)が、ハシディームの指導者に「お前たちのおかげで独立できた。神のお守りがあった。だから、お前たちがやりたいなら、神を喜ばせるためなんでも実行しよう」と言ったにもかかわらず、ハシディーム指導者(エレアザル)は、(ヒルカヌス)王が、祭司の家系でもないのに宗教的権力を握り、徐々に逆戻りしてギリシア化していくのを見て強く反発し、大祭司の職から退くように要求しました。当然王と対立します。以来、彼らは国家権力とは一線を画するようになり、反権力の立場になりました。これこそがファリサイ派です。「分離された人たち」という意味です。本来なら国の中心的な役割を担ってもいいのに、権力から離れ自分たちの信仰に堅く立ったのです。ファリサイ派は分離派となって国家権力とは全く別行動をとりました。これに対し、福音書に出てくるもう一つの有名なグループ、サドカイ派は、時の権力者にすり寄り特権を維持しました。ですからファリサイ派は、ハスモン王家と距離の近い貴族、祭司階級からなるサドカイ派とは犬猿の仲です。普通なら、この後王家をバックにした権力側のサドカイ派が栄えて、ファリサイ派は徐々に歴史の舞台から消えていくはずなのですが、実際にはハスモン王家が没落していき、とうとうユダヤ王国はローマに征服されてしまいましたから、そうはなりませんでした。その後ユダヤは、ローマに巧みに取り入ったヘロデ家によって支配されるようになっていきました。ヘロデの時代になってもサドカイ派は相変わらず権力側にすり寄っていたのに対し、ファリサイ派は終始「分離派」として孤立し、高いプライドを持ち続けました。「ヘロデがあなたを殺そうとしていますよ、ここから逃げてください」とイエス様に助言したのもファリサイ派です。そういう記述が、ルカ福音書二十三章三十一節以下にあります。ユダヤの中で、彼らこそが国を守り、ユダヤ教が変質するのを防ぎ、信仰を純粋に守り抜いた良心的な人々だったのです。ですからイエス様の時代、つまりヘロデ王家による支配の時代に、人々は、数々の国難においてギリシア・ローマ風の異教文化や、国家権力の偶像化、悪霊から自分たちを救ってくれたのはファリサイ派だと尊敬していたのです。繰り返しますが、ファリサイ派は英雄であり民の恩人であり、悪霊と戦った良心的な人々だったのです。そこはよく理解しておきたいと思います。

ところが、このファリサイ派による信仰の勧め、律法遵守のもたらす救いには一つ大きな欠点がありました。三週前のベルゼブル論争の説教で聞きましたが、強いサタンの頭を神の力で縛り上げてから諸々の悪霊どもを追い出すのではなく(二十九節)、悪霊が出ていくだけで満足していたのです。当時のファリサイ派の努力は、結局人間に宿る悪と禍をいかに駆除するかという一点に集中しておりました。そのことをイエス様はユーモラスに皮肉っておられます。今日の御言葉です。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。」(四十三、四十四a節)。汚れた霊を追い出しただけですから、出て行った悪霊が、砂漠をうろうろした挙句、休むところが見つけられずに「そうだ、元の家、我が家に戻ろう」という状態を生んだと言われたのです。そして「悪霊が戻ってみると、もとの家、かつて悪霊が取りついていた人は空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで出かけていき、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込んで住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう」(四十四b、四十五節)と続けられました。悪霊が出て行った後、解放された人は空き家になっていたのです。彼らは、確かにギリシアの神々やゼウスの偶像を排除しました。しかし、そこに真の神、真の神の霊を満たしていませんでした。ギリシア文化への盲従を排除はしましたが、神の霊で満たしていなかったので空き家になってしまっていたのです。言い換えると、彼らはギリシア文化に反対すること、律法違反を防ぐこと、偶像礼拝を締め出すことには熱心でしたが、自分の心と体を、つまりユダヤ民族の心と体を、真の神礼拝と救い主を待ち望む熱き心で満たせていなかったのです。その結果、そこに生まれたのが空洞です。空き家です。空き家とは面白い表現で、仕事をしていないという意味です。心の中にポッカリ穴が開いて、本当の神がいません。お留守になっております。しかも、ただ空き家になっただけでなく「掃除をして、整えられていた」とあります。以前の訳では、「掃除がしてある上、飾り付けがしてある」とありました。掃除をして飾り付けまでしてあるというのです。汚れた霊を追い出してきれいになったぞと言って自慢していたのです。もう悪霊はいない、きれいに掃除した、花でも飾ろうかという気分です。そういう状態で、もし誰かに、実はあなたの家はシミがありますよ、こんなところが汚れていますよと言われますと、ものすごく腹が立ちます。そんな彼らにイエス様は、住み心地の良くなった元の古巣に、大勢の悪霊の仲間を連れて帰ってきて住み込むぞとおっしゃいました。なぜファリサイ派がエス様を殺そうと相談し始めたのかお分かりだと思います。すごく腹を立てたのです。ファリサイ派の本質が鋭くえぐり出されております。彼らはふたたび悪霊に支配され、しかも前より悪くなってしまったのです。なんとイエス様の奇跡、神の国のしるしを見ても分かりませんし、説教を聞いても悟りません。そして、もっとはっきりした証拠を見せろと居直ることになりました。

清潔好きの人が、あまりにも顔や手をきれいに洗ってばかりいますと、皮膚が無菌状態になってしまって、そこにたちの悪い菌がはびこることがあります。きれいに手を洗い過ぎて、善玉菌、常在の悪くない菌までなくしてしまうと、大変なことになります。でももっと悪いのは、わたしの手はこんなに清潔だと思い込むことです。そうなると、他人の手が気になって、あの人の手は汚いと言います。また、部屋の空気を入れ替えるのに、悪い空気を出して真空にしてからそこにきれいな空気を入れるのはむつかしいものです。こんなときは、まず新しい空気を入れて、その新しい空気で前からのよどんだ空気を押し出さなくてはなりません。悪霊も同じです。自分で追い出してから、善い霊を招き入れるのは無理なのです。悪霊を追い出すには、まず神の信仰、救い主を迎え入れることです。そうすれば、神が善い霊でわたしたちを満たし、正しい方向に導いてくださるのです。

わたしにとって、このみ言葉は実に痛いものです。わたしは礼拝厳守主義者です。二十歳の時から礼拝を休んだことはありません。心を掃除してきれいに飾っていたのです。ちゃんと礼拝しているぞと。不思議に、日曜日どうしても教会に行けない状態になったことは一度もありません。病気になっても日曜日の朝には熱が下がりました。マラナ・タ教会に赴任するときに簡単な手術で一度だけ入院しましたが、二日間だけでした。仕事も日曜日は必ず休める仕事でした。ですから自分を誇っておりました。これは牧師や先生に多い現象です。礼拝できる恵みに感謝するよりも人を裁くのです。口に出しては言いませんが心の中では裁いておりました。そして、そんなあなたにはシミがあるよ、ここが汚いよと言われると、ものすごく腹が立ちました。まさにファリサイ派でした。

教会の内にも外にも、この現象は多いのです。わたしが確かに知っている一つの例は新聞記者です。一流大学を出て、大きな新聞社に勤めて、いつでも正義の味方です。取材したことに基づいて、自分の正義で記事を書きます。政治家を批判し、スポーツ選手やコーチを非難し、とことん暴き出して悪者にします。まるで悪霊付きであるかのようにしつこく。ある時には逆に、メダリストなどをほめそやし、不必要にちやほやします。そして自分が正義の味方であり、正しいことをしていると思い込んでいるのです。これも典型的ファリサイ派です。自分の心を掃除して飾り付けをしているのです。これでは、すぐに悪霊が入ってきます。

悪霊を追い出すには、真の神の霊で満たさないといけません。そうでないとファリサイ派のように、ヘレニズムを追い出せても、以前よりもっと悪い七つの悪霊を連れた汚れた霊に心や体を占拠されます。つまり、潔癖主義や無信仰や自己義認に占領されてしまいます。良いお母さん病、良い子供病もあるでしょう。真の神信仰から遠ざかります。自力を頼って功徳を積むやり方に流れてしまいかねません。中世の迷信化した信仰を否定しようとして、啓蒙主義という一見よさそうな、理性尊重を取り入れたために、人類の文化は、中世の信仰に替えて、もっと悪い七つの悪霊に支配されてしまいました。ヨーロッパでは、無神論、物質崇拝、理性の絶対化などが蔓延し、信仰が単なる近代文化の一部のようになってしまいました。その結果、本来人を解放するはずだった近代の科学的考え方が、かえって戦争など、以前より悪い野蛮状態を招いてしまったのです。中心にある大事なもの、神を神として崇め神に従って生きることができてはじめて、人は善きもので満たされ、神が与えてくださったものを利用していくことができるのです。

わたしたちは毎週礼拝します。毎日聖書を読み、時を定めて祈っております。一緒に賛美します。そしてキリストのお体と血に与って、神の霊に満たされて生きております。悪しき霊は出て行ってくれました。いつも神の方を向き、イエス様に従って歩んでいく限り、ファリサイ派のように空き家になることはありません。自己義認に陥って以前よりももっと悪い霊に支配されてしまうことはないのです。イエス・キリストと共に、つまり「キリストの中に」生きましょう。「わたしはある」とおっしゃる神が共にいてくださいます。神がおられるしるしは、イエス様のお甦りという歴史の事実です。誰でもが納得いく証拠とは言えません。御言葉を信じる以外にはありません。しかし、これは信じる者にとっては、特別で決定的な意味を持ちます。ニネベの人でさえヨナの言葉を信じて悔い改めたのです。言葉を信じない人はたとえ証拠を見せても信じないでしょう。聖書の言葉に信頼して、これからも共に礼拝し続けましょう。

祈ります。

父なる神、この世に御子イエス様をお送りくださり、わたしたちをあなたの御前に立つことができるようにしてくださったこの恵みを感謝します。どうか、わたしたちの心と体をあなたの霊で満たしてください。そして、いつもわたしたちがあなたのほうを向いて歩めるよう守り支えてください。キリストと共に生きている人生を感謝します。小さなわたしたちをもキリストの働き人としてお用いください。

主のみ名によって祈ります。アーメン

3月11日の音声

 

 

2018年3月4日 受難節第3主日

「しるしを欲しがる者」

マタイによる福音書 12章38~42節

「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」(三十八節)。ここまで論争相手であったファリサイ派の人々に律法学者が加わります。そして「先生、しるしを見せてください」と言ったのです。律法学者とファリサイ派の人々は、例えば二十三章に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という形で七回出てくる他、何度も対になって使われています。律法学者とファリサイ派とはほぼ同じように見られていたのでしょう。「しるし」とは、たいていは何か目に見えるもので、それによってある事柄がはっきりとわかる証拠のことです。ここでは、イエス様のなさった奇跡が確かに神の霊によってなされたとわかる、納得できる証拠です。律法学者とファリサイ派の人々は「あなたがメシア、真に神からの救い主である証を見せてください。その証拠を見ないことには、先生のなさったことが神の霊による出来事だと信じられません」と言ったのです。

これに対しイエス様はこうお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(三十九節)。ちょっと妙な、不思議なお答えです。しるしを欲しがるなら与えてあげてもいいが、ヨナのしるしだけだよ、ほかにしるしはないのだとおっしゃいました。「しるしを欲しがることは、よこしまで神に背くことだ」と言われたのではありません。しるしを欲しがることがよこしまで神にそむくことなら、今の世の中のキリスト者であってもなくてもほとんどはよこしまな者ですし、わたしのような実験する科学者なら特にそうでしょう。現代人なら、いつも本当かなと証拠を求めております。実は、しるしを求めることは、ユダヤ人にとっても何らおかしなことではなかったのです。むしろ逆で、しるしを求めることこそユダヤの伝統だと言うことができます。パウロも「ユダヤ人はしるしを求める」(Ⅰコリント一章二十二節)と言っております。今もユダヤ人に優秀な科学者が多いのは、おそらくこの伝統精神の現れです。簡単に信じないで証拠を求める。本当にそうかと疑うことです。例えばモーセが神によって民に遣わされた時、遣わされた証として人々の前で不思議なことを行います。しるしを見せるわけです。主なる神がそうしなさいと言われたからです。そのしるしを見て人々がみな信じたということが旧約聖書に書かれております。エリヤの物語もそうです。死んだ息子を生き返らせてもらった母親は、そのゆるぎないしるしを見て言いました。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です」。当時の誰もが知っていたエピソードです。

ですから、イエス様のこのお言葉は、しるしを求めてはいけないということではなく、「よこしまで神に背いた時代の者たちは、しるしを欲しがる」ということなのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちは」と、わざわざ「時代」とおっしゃっています。今日の御言葉を全体に見直しますと、この他にも「今の時代の者たち」(四十一、四十二節)と二度出てきますし、来週の箇所にも「悪い時代の者たち」(四十五節)というように「時代」という言葉が続いて出てきます。以前「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている」(十一章十六節)とおっしゃったことを思い出します。イエス様の時代は、無関心の時代で、たとえようもないほど悪い時代だと嘆かれていました。

もう少し時代という訳語に注目して、イエス様がここで何をおっしゃっているのか考えてみたいと思います。「時代」と訳されている元の言葉ゲネアγενεὰは、人が生れてから次の時代の人が生れて活躍するまで、自分が活動する「期間」です。自分と同世代の人間が活躍する期間、これを自分たちの時代、この時代と言います。ゲネアがもとになって、英語の「時代」という言葉generationが生まれました。ですから「今の時代」と訳されているのですが、ある時代を指すというよりも、イエス様の時代に生きていた人、その世代の人を指しています。実は、γενεὰには、同じ生まれのある種族、仲間という意味もあって「よこしまで神に背いた生れの者は」という意味にもとれます。何かを生み出す、生み出された仲間といった意味です。ゲネアからゲネレーター、電気を生み出すもの、発電機などという言葉も派生します。そういう風に君たちは生まれついている、つまり身にしみ込んだ本質がそうなのだという、今目の前にいる律法学者やファリサイ派に対する厳しい批判の言葉です。しかしなぜ、そこまで厳しく律法学者・ファリサイ派を批判されたのでしょうか。生まれがよこしま、生まれつきよこしまとは厳しい言い方です。

今日の箇所は「すると」と始まっていました。つまり先週の話に続いております。悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人をイエス様は憐れに思って癒されました。群衆は喜びましたが、ファリサイ派は癒しや周りの人の喜びには関心が無く、律法厳守の観点から、そんな簡単に罪人が赦されるはずがないと考え、イエス様の力に対する疑いもあって、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者(イエス)は悪霊を追い出せはしない」と言い放ったのです。そのようなファリサイ派に向かって、イエス様は「神の霊によってなされたことを、悪の霊の働きだと言うのは、神への冒涜であって、決して赦されないことだ」とおっしゃり、「あなたたちは悪い人間だ、心にあるものが口から出て来る、神を認めない本性が腹の底にある」と厳しく批判なさったのです。そこで何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に向かって言ったのが、「先生、しるしを見せてください」という言葉なのです。意味合いは明らかでしょう。「なんで僕らが神を認めない悪い人間なのだ、そんなバカなことはない。そんなことを言うなら、しるしを見せろ」という要求です。彼らはこの時代の最も敬虔な信仰者であると自認していたからです。彼らからすれば、当然の反応かもしれません。

ここで問われているのは、イエス様との関係性です。わたしたちにとって何よりも大事なのは、神の方に正しく向くこと、そして、わたしたちが神に赦され救っていただかなくてはならない存在であることをはっきり知ることです。イエス様は、わたしたちの内に確かに罪があること、そして、わたしたちが神に赦され救っていただかなくてはならない存在であることを明らかにされます。そのとき、明らかにされた自分の罪を認めるか認めないかで、人は二通りに分かれます。自分の本性を認めて主の御前にひれ伏し、わたしの罪を赦してください、わたしを救ってくださいと祈り求めるか、それとも、あくまでも自分を正しいとし自分の罪を認めないで、もし罪があるというなら「しるしを見せろ」と居直るか、その二通りです。自分たちはしっかり律法を守っている、これでいいのだという自負があると、どんなにすごい業、癒しの奇跡を見せられてもおそらく居直ることになるのでしょう。しかし、赦しと救いを求めるならば、主が与えてくださる特別なしるしは決定的な意味を持つのです。イエス様はそのしるしを「預言者ヨナのしるし」と呼ばれました。

「預言者ヨナのしるし」とはどういうことでしょう。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(四十節)とイエス様はおっしゃいました。ヨナは巨大な魚に飲みこまれた旧約の預言者ですが、ヨナ書二章一節の「ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた」という言葉をそのまま引用されています。三日というのは特徴的なユダヤ的表現です。創世記に「ヨセフは、こうして彼ら(兄弟たち)を三日間、牢獄に監禁しておいた。三日目になって、ヨセフは彼らに言った。『こうすれば、お前たちの命を助けてやろう。わたしは神を畏れる者だ』」(創世記四十二章十七、十八節)というくだりや、ホセア書に「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、(また)いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる」(ホセア六章一、二節)というくだりがあります。神は義しい人を三日以上困難の中には放っておかれないのです。

ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた後、生還します。砂漠に近い乾燥した土地に住んでいたユダヤの人々にとって海は恐ろしい怪物の住むところ、人間には理解できない世界の象徴でしたから、ヨナが助け出されたのは奇跡的な出来事、死からの救出でした。そのヨナと同じように、人の子、イエス様も、三日三晩、大地の中にいることになるとおっしゃったのです。人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれ葬られて三日目に復活することを暗示しています。実際のご復活は三日目であって、「三日三晩」大地の中にいたのではないのですが、表現の内容に重大な差はなく、イエス様の死には終わりがあること、イエス様の死と復活を、神はヨナの出来事であらかじめ示しておかれたということに重点があります。

神から遣わされた者にはしるしが伴います。だからしるしを求めてもよいのです。しかし、メシアの到来に伴うしるしは十字架と復活だとイエス様は預言しておられるのです。そして、それが唯一のしるしなのです。実際、イエス様は様々な奇跡を行われましたが、その奇跡をもって御自分がメシアであることを証拠付けようとはなさいませんでした。むしろ癒された人には多くの場合「誰にも言ってはならない」と口止めされたのです。十字架と復活こそが本当のしるしだからです。奇跡は神の国が来たことのしるしであって、イエス様がキリストであるしるしは、十字架とご復活なのです。

「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」(四十一、四十二節)。死んだも同然であったのに生き返ったヨナは、敵地アッシリアの首都ニネベに来ました。そのヨナによって、ニネベの悪しきアッシリア人が悔い改めたのです。ヨナは奇跡など行っておりません。それでもニネベの人々は悔い改めました。ところが、ヨナより優れた者であるイエス様の奇跡を見、説教を聞いても、律法学者とファリサイ派の人々は、悔い改めようともしないで、さらにしるしを見せろと言うのです。それでイエス様は「これではニネベの人たちがお前たちを罪に定めることになる」とおっしゃいました。「今の時代の者たちと一緒に立ち上がり」というのは、少しわかりにくいですが、顔と顔を合わせるように一緒に立って裁くということです。彼らを罪に定めるであろうという「彼ら」は三人称の女性形の単数です。お話になっている相手はファリサイ派ですが、今の時代の人々を集合的に広く指しておられます。ユダヤの民です。「お前たち」と訳す方が分かり易いでしょう。ファリサイ派のことだけではありません。異邦人であるニネベの人々が悔い改めたのに、ユダヤ人であるファリサイ派、律法学者が悔い改めようともしないことを戒めて、異邦人によってお前たちと同じ仲間が裁かれるようになるとおっしゃったのです。さらに重ねて同じことをおっしゃいました。「南の国、シバの女王はソロモン王の知恵を聞くために、地の果てから旅をしてやってきた。ところがお前たちは、ソロモンよりもまさったものが目の前にいるのに、その言葉に耳を傾けようともしない。だから裁きの時には南の国の女王も一緒にお前たちを裁くことになる」と。シバの女王はソロモンの知恵を求めて、アラビア半島の南の端、今のイエメンから、二千キロもの道を歩いてやってきたのです。ここを読んで、イエス様がファリサイ派を叱られたのであって自分は違う、叱られてなんかいませんと思い込んではなりません。福音書を読むときの大事なポイントの一つは、自分はファリサイ派ではないのかという視点を持つことです。今の時代に最も敬虔な信仰者はわたしたちです。

神の国はすでに来ています。イエス様はわたしたちの罪を贖うため十字架にかかって死んでくださいました。そのイエス様を神は復活させられました。わたしたちはその事実を知っています。ご復活は、信じようとしない人でも否応なく信じざるを得ないというような客観的な「証拠」ではありません。むしろ、そんなことはあり得ないと、つまずきの原因にさえなります。いつも申し上げることですが、物語を読むとき「ファリサイ派はわかってないなあ」というように、他人事のように、第三者の側に立って読みがちです。確かにわたしたちは、ファリサイ派のように、「救い主であるならば証拠を見せろ」などとは言いません。しかし、与えられたしるしをしっかりと受け止めているでしょうか。ニネベの人たちのようにヨナの言葉に悔い改めているでしょうか。南の国の女王のように、積極的に救いを求めて、遠くても歩いていくでしょうか。

人は主が明らかにされたように「生まれながらの」と言われても仕方がないような、つまりどうしようもない根っからの罪人です。このことがわからなければ、ファリサイ派の人々のように聞いても理解せず、しるしを見てもしるしと認めることはできません。自分が罪人であると本当に分かった時、救いが必要だということがわかります。そして、自分が罪人であり、救いを必要としていることが分かったとき初めて、罪の贖いの十字架と復活はメシア、救い主の証拠となり確固たるしるしとして迫ってくるのです。

しるしはすでに与えられています。イエス様が招いてくださっています。

主の平和が皆さまと共にありますように。

祈ります。

父なる神、御子イエス様を救い主としてこの世にお送りくださいましたことを心より感謝します。イエス様の十字架と復活をわたしたちがしっかりと受け止め、悔い改めて、あなたの御前に立てますよう守り支えてください。自分を正しいとし、自分にのみより頼むのではなく、イエス様にすべてを委ね、イエス様と共に歩んでいけますよう導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

3月4日の音声

 

 

2018年2月25日 

受難節第2主日「良い実を結ぶ木」

マタイによる福音書 12章33~37節

先週、いわゆる「ベルゼブル論争」といわれるやり取りを聞きました。悪霊に取りつかれて目が見えず口のきけない人を、イエス様が癒してくださいました。この人は目が見え話せるようになったのです。ところが、こんな驚くべきことがあったと聞いたファリサイ派の人々は、「そんなバカなことはない。もしそれが事実なら、それは悪霊の頭ベルゼブルの力を使って悪霊を追い出したのだ。イエスという男は悪霊の力を使っているのだ」と批判したのです。それに対して、イエス様は断固として否定なさり、「わたしは『神の霊』で悪霊を追い出したのだ。このように神の霊で悪霊を追い出す働きができるのだから、神のご支配があなた方のところに来ていることが分かるだろう」とおっしゃいました。そして、「だから言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるかもしれないが、霊に対する冒瀆は赦されない」と続けられました。これに対してファリサイ派は何の反論もできませんでした。自分たちもそうだと思っていること、納得せざるを得ないことをイエス様はおっしゃったからです。ここで、霊と訳されている言葉に、チョンチョンと引用符のような印がついていますが、何か不思議な霊的現象の議論ではありません。もっと確かな旧約聖書の理解に関する話です。イエス様は何か不思議なむつかしい話をして、ファリサイ派を言い込められたのではなく、誰でもわかるように話をなさっております。「霊に対する冒瀆」とは、当時の人なら誰もが聞いてわかる話なのです。

創世記の記事では、天地創造の初めに、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記二章七節)とあります。神は土の塊に「ふーっ」と息を吹き入れて、それで人間ができた。命のない土の塊が命のある人間になったと書かれています。つまり、人は命のないからだ、これを肉(バーサール)というのですが、そこに息(ネシャマー)、もしくは霊(ルアッハ)、これは神の息ですが、命の源が入れられて初めて生きるものになったのだと、当時のユダヤ人は理解しておりました。この息が霊なのです。神の息は神の霊です。そして神の霊によって生かされている命とは、血が流れていることと当時の人は理解しておりました。息が抜けるか、血が止まりますと死にます。つまり、わたしたちが肉体と呼ぶこの生きている体のことを、霊体、霊の体、神の霊に満ちた体と考えていたのです。イエス様も、ファリサイ派もそう理解していたはずです。繰り返しますが、この神の息を、霊といいます。霊とは何か不思議な現象を指すのではなく、人を生かす神の息のことです。今のわたしたちには、霊と訳したのでは分からないので、特別に印をつけて、神の息であることを示しております。もちろん元のギリシア語には、こんな印はついておりません。ですからここでの論争は、イエス様のなさった奇跡や癒しは神の霊によるものか悪の霊によるものか、という論争です。

神の息である霊に対する冒瀆は、神ご自身と神の似姿である人間存在、命そのものを根底から否定することです。神の息を否定するのは、神そのものを否定することになります。当時のユダヤ人にとって、そんなことはありえないことで、問題外です。ですから、人の犯す罪はどんなものでも赦されるかもしれないが、霊に対する冒瀆はあってはならない、決して赦されないことだとイエス様がおっしゃったことにファリサイ派は何の反論もできなかったのです。イエス様はその後、人の子、つまりわたしに反対しても赦されうるが、聖なる神の霊、人を生かす神の息に逆らうものは、この世でも、後の世でも絶対に赦されないとお続けになりました。

ユダヤ人がもともと使っていたアラム語やヘブライ語では、神という言葉をさける習慣がありましたから、神と言うより天と言う方がユダヤ風です。マタイも神の霊を指すとき、「神の」という言い方を避けて、「天の」とか「聖なる」と書いていますので、聖書の日本語翻訳者は「聖霊」と訳しておりますが、はっきり言ってあまりいい訳ではありません。わたしたちが普通キリスト教の教えで知っている三位一体の父・子・聖霊なる神の聖霊と区別がつきません。確かにギリシア語では、聖霊とマタイがここでいう聖なる霊は同じ語形ですが、ここを聖霊と訳すと混乱すると思います。イエス様には逆らってもいいが、聖霊には逆らってはならないと聞こえて、どうしてか分からないなとなるからです。旧約聖書に聖霊は出てきませんし、イエス様の時代に聖霊の働きはありません。あるのは神の霊、神の息です。聖霊はイエス様の後、助け主「パラクレートス」として、この世に送られて登場します。ヨハネ福音書以降の信仰理解です。ここで霊と訳された言葉は、イエス様やファリサイ派にとってはよくわかる言葉ですが、わたしたちにはちょっとわかりにくい意味があります。

さて、今日聞きました三十三節以下は、三十二節につながっているのか、そうでないのか、新共同訳聖書の訳者は三十二節で切れる、つながっていないと理解しております。したがってここに行間を置いて小見出しをつけております。そうかもしれません。しかし、三十一節の「だから言っておく」というところから連続して三十三節以下に続いているとも考えられます。わたしは、そう解釈した方がいいのではと思っておりますが、そういたしますと、今日聞いた話も神の霊か悪の霊かという問題にかかわりがあります。

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(三十三節)。つまり、「あなた方はわたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うが、それなら悪霊に満たされているわたしは、悪い実を結ぶはずではないか。だがわたしは悪い実を結んでいない。わたしの行ったこと、目が見えず口のきけない人を癒したのは良い実ではないのか」とおっしゃったのです。そしてファリサイ派に向かって、「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(三十四節)とおっしゃいました。厳しい言葉です。あなた方は蝮の子、人間を死に追いやる毒をもった毒蛇だ。神から与えられた神の息、神の霊があれば、必ず良い実を結ぶはずであるのに、あなた方は神の霊を活かさず、与えられた霊を押しのけて悪い霊に置き換えてしまっている。毒に満たされた人間は、良いことが言えない。結局人を生かさずに殺すことになる。口からは、心に満ちていることが言葉として出てくるのだということです。それについてファリサイ派は三十八節で、どうしてそんなことが分かるか、証拠を見せてくださいと応じます。これは来週の説教箇所です。本当に口は災いのもとです。つい心にもないことを言ってしまったと言いますが、心にないことは言えません。心にあるので、言わないでおこうと思っていたことも、ついポロリと出てしまうのです。

続けてイエス様は、「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」(三十五節)と、同じことを重ねておっしゃいました。倉とあるのは、心と訳してもいいでしょう。魂でもいいかもしれません。良いものとか、悪いものは、言葉のことです。悪い人も時に良いことを言いますし、良い人もいつも良いことばかり言うわけではありません。ファリサイ派も律法を説き良いことを言ったはずですが、悪しき心から出てくると、どんなに良いことを言っても自己義認と悪い意味での律法主義になって、悪しきものしか生まないことになります。たとえば、人の命は大切です。平和が大事です、とまっとうで良いことを言っていても、戦争を起こしたり、奥さんや子供に暴力をふるったりする人は、悪い倉から、悪いものを出しているのです。

そしてイエス様はこう結論なさいました。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪あるものとされる」(三十六、三十七節)。人はいつの日にか神の裁きを受けねばなりません。行ったすべてのことに申し開きをすることになるでしょう。中でも自分の語った言葉については、責任を負わねばなりません。「つまらない言葉」は、「根拠のない、実体のない言葉」という意味です。うっかり口にした不注意な言葉、思慮に欠けた軽口、根拠のない噂話、こういう言葉についても弁明せねばなりません。「口には税金はかからない」とか「何を言っても大丈夫」などとよく言いますが、本当ではありません。ちょっとした一言が人を傷つけ、自分を殺すことさえあります。最後の日の審判で人が正しいとされるのは言葉によります。七章に同じように実によって木を知るという話がでてきましたが、このときは行動が問われておりました。ここではイエス様は行動ではなく言葉を問題にされています。しかし、語られていることは同じです。言葉は息に乗って人の内から出てくる霊の働きだからです。ユダヤの考えでは言葉は実に重く、一度口に出すとそれは行ったことと同じなのです。先週学んだ三十二節は「人の子に言い逆らう者」とありましたが、直訳すると「言い逆らう言葉を話す者」です。ユダヤ社会では誓いをするのは極めて慎重でした。命がけだったのです。単なる言葉ではなく、神の霊の働きだからです。

わたしは中年になってから、どうも自分の言葉が時に人を傷つけているようだと気づくようになりました。四十歳過ぎで気づいてその程度かと言われそうですが、これでも以前よりはましになったのです。若い頃は、そんなにいちいちしゃべることに気を使っていたら何もしゃべれない、傷つくのは相手の勝手でしょと思っておりました。でも、四十三歳のころから毎週、礼拝で詩編五十一篇を唱えるようになりました。そういう教会に転入したのです。「主よ、わたしの唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」と交読文にある一節として何も考えずにずっと毎週唱えておりましたが、ある時、ふと気が付いたのです、「そうか、口は神を賛美するためにあるのか」と。「恵みの御業をこの舌は喜び歌います」。「そうなっていないな、食べるのと人の悪口を言うだけではだめだ」と思わされました。皆さんもなんとなくお気づきでしょう。ある人は、どうも言葉にとげがある。チクチクと嫌味に聞こえることを言う。教会に多いのです。自分は神を信じている。正しいのだと自負しているからではないでしょうか。あの人は口が悪いけれどもいい人だと言います。でもイエス様のお言葉では、悪い言葉が出るのは、その人の心にあるものが悪いのです。悪い心から悪い言葉が出ると、はっきりおっしゃっております。人はつい本音がちらりと出ます。ああ、言わなければよかったと思っても、いったん口から出て音になった言葉は、相手に聞こえます。取り返しがつかないことも起こり得るのです。「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と祈るほかありません。

ファリサイ派は人々から尊敬される立派な信仰者でした。宗教活動に熱心であり自制心もあり、よく勉強もしておりました。何年も何年も変わらずに旧約聖書の言葉に打ち込み、飽くことなく継続して善行に励んでいたのです。でもイエス様に向かって、悪霊の頭により頼んでいる、ベルゼブルの力を利用していると非難しました。人の口からは心にあふれていることが出てきます。自分はこんなにしっかりやっていると思っていたファリサイ派の口からは、イエス様を非難する言葉が出ました。

わたしは十年近くほぼ毎週説教をしてきました。毎回まず何を説教で語るべきかと祈って考えます。そして心に浮かぶことを話します。神が思いを与えてくださった、導いてくださっていると信じて、心にあることを話すのです。逆に言うと、心にあることしか話せません。そういう意味で、説教するのは怖いことです。今日の聖書箇所も説教するのにもずいぶん悩み、祈りました。霊にいい逆らう者とはだれなのか、どういうことを言えば、聖なる霊にいい逆らうことになるのか。

皆さんは説教をなさいませんが、言葉がみつからないことがあるかもしれません。悲しいことや怒りで言葉を失い、何を言っても無駄な気がする。祈る言葉さえ出てこないというときもあるでしょう。でも、そんなときに忘れてはならないのが「主の祈り」であり、聖書の言葉、たとえば詩編五十一篇の祈りです。祈りの言葉を口にするとき、心の中にある神の息が、沸き上がってくるのではないでしょうか。言葉を失った時こそ心から祈る。祈れない時こそ御言葉を口に出して祈る。そうすれば、神の霊に対する冒瀆は避けられるし、言い逆らうことも避けられます。この十年間、教会を去った人が何人も出ました。いろいろな理由があり仕方がなかったとも言えます。ただお互いに祈ってから別れたかったのですが、多くの場合そうはならなかったことがとても残念です。わたしたちは、無意識に呼吸しておりますが、神に与えられた息をしております。わたしたちの体は単なる肉体ではなく霊体です。心の底から祈りあって共に生きていきましょう。主よ、どうかわたしたちを清くしてください。

祈ります。
父なる神、「木が良ければその実は良い、木が悪ければその実も悪い、そう思いなさい」とイエス様がおっしゃいました。「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのだ」ともおっしゃいました。どうかわたしたちの心を清めて良きもので満たし、わたしたちの口から出る言葉を義なる者が話すのにふさわしいものに変えてください。そして、常に恵みの御業を語り、感謝して生きていけますよう支えてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

25日の音声

 

2018年2月18日 受難節第1主日

「イエスにつまずく」

マタイによる福音書 12章22~32節

先々週の説教で、安息日は「仕事」をすべて止め休むべき日だったにもかかわらず、イエス様が片手の萎えた人を癒された話を聞きました。掟を守ることだけに気を取られ、律法に示されている神の憐れみを見失ってしまったファリサイ派の人々は、イエス様に激しい憎しみを抱くようになり、どのようにしてイエス様を殺そうかと相談を始めました。やがて十字架の道へと繋がっていくことになります。

さて、交換講壇を挟んで、今日は目が見えず口の利けない人が癒されて、目が見え、ものが言えるようになった話を聞きました。「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」(二十二節)と、癒しそのものは極めて簡潔に書かれています。「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言」いました(二十三節)。群衆は、イエス様がこういう不思議な癒しをなさるのを見て、この先生はひょっとしてダビデの子ではないのか、わたしたちの救い主ではないのかと都合よく単純に期待したのです。大喜びでした。「驚いて」と訳された言葉は、気が狂うほど興奮して言い続けたというニュアンスです。映画のヒーローを見て喜ぶ子供と似ています。

この群衆の興奮に対し、そこにいなかったファリサイ派の人々は、奇跡的な癒しを聞いて、「『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言」いました(二十四節)。そんな馬鹿なことがあるか、あったとすれば、それは悪霊の頭ベルゼブルの力で、悪霊を追い出したのだと言ったのです。この当時、病気の人、特に障害のある人は、悪霊に取りつかれた人、穢れた人とみなされておりました。目が見えないだけでもそうなのに、この人は口も利けないのですから(おそらく耳も聞こえないでしょう)、二重、三重に悪霊に支配されている、大そう穢れているとされていたのです。ところがイエス様は、この悪霊に取りつかれたとされていた人、つまり罪びとと思われていた人を癒されました。たとえ罪ある人とされていても神の御業が及ぶことを示されたのです。これは、ファリサイ派の人々の理解とは全く異なっていました。ファリサイ派の人々にとって、神は絶対的な存在であり、神のご支配は、律法による神との正しい関係の中でのみ表わされるはずだったのです。イエス様のおっしゃる神の国と、ファリサイ派の期待した神の国との違いがはっきり表れています。つまり、ここに見られるのは、神の国、神のご支配とは何かについての、イエス様とファリサイ派の理解の違いです。

ファリサイ派はこんな穢れた人が見えるようになるなんて、この男は神の霊ではなく悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだと言い張りました。神のご支配は律法による神との正しい関係の中でのみ表わされる、という彼らの考えからすると、神がこういう悪霊つきの人を癒されるはずはなかったので、そうとしか理解できなかったのです。ねたみもあったでしょう。ですから「悪霊が出て行ったと言って喜ぶなんて愚の骨頂。悪霊の頭ベルゼブルがやってきて、今までの下端の悪霊を追い出したのだ」と主張したのです。ひどい話ですが、当時の人にとっては、それ程おかしいと思わなかったのです。

現代もイエス様の時代と人の本質はそんなに変わりません。事柄を信仰的に理解するのではなく、聞きかじりの科学的知識で割り切るか、不思議な現象を丸呑み式に信じるか、どちらかになりがちです。イエス・キリストに出会ったとき、その御業を見聞きしたとき、ある人は興奮して「救い主だ、救い主だ、すごい、奇跡だ」と騒ぎ立て、ある人は「神への冒涜だ」とか、「人を惑わすものだ」と反発するのです。

イエス様はファリサイ派の考えを見抜いて、ここで、ファリサイ派が言うベルゼブル、悪霊の頭ではなく、サタンという言葉をお使いになって反論されました。サタンは悪霊と違って、神に敵対するもの、イエス様を邪魔するもののことです。「サタンがサタンを追い出すのは内輪もめで、それではサタンの国、すなわちサタンの支配が成り立たない、全くおかしな話だ」とおっしゃったのです。国は神の国と言う時と同じ「バシレイア」ですが、ここではサタンの国です。つまり、国という言葉が、あるときは神の国と使われ、あるときはサタンの国と使われております。神が王としてご支配になる世界なのか、サタンが王として支配する国か。そして続けて「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」(二十七節)とおっしゃいました。ファリサイ派の人たちの仲間に属する祓魔師(フツマシ)、悪魔祓いをする人もいましたから、自分たち自身の仲間を否認することなしに、イエス様をベルゼブルの力で悪霊を追い出していると非難できないことに言及されました。

サタンの力でなければ、イエス様は神の力で悪霊を追い出されたのだということになります。そこで、今日のキーワード「神の国は、あなたたちのところにきているのだ」(二十八節)が出てきます。イエス様はそう宣言されたのです。これは完了形ですから、少しニュアンスを補って訳しますと「もうすでに、神の国は来ている」となります。「神の国はあなたたちの所に現に来ているのだ」とおっしゃったのです。癒しは「神の国が来た」ことを指し示す「しるし」であったのです。

マタイによる福音書では、神の国のことが「天の国」と書かれていることが多いのですが、ここでは神の国となっています。もともとのアラム語やヘブライ語では、神という言葉をさけて、天と言い表す習慣がありましたので、天の国と言う方がユダヤ風ですが、神の国と言っても同じことです。神のご支配が及んでいる王国です。天の国も、神の国も、旧約聖書には出てこない表現で、これは新約聖書独特の、つまりイエス様がおっしゃった言葉です(「天の国」は三十三回全てマタイによる福音書。「神の国」は七十回、ほとんどがルカ三十四回とマルコ十四回。使徒六回、マタイ五回、Ⅰコリ四回、ヨハネ二回、Ⅱテサ二回、後はローマ、ガラ、コロ各一回)。国語大辞典で「天国」をひくと、「キリスト教で天国とは、死者の霊が行くところ」となっております。間違いです。これはヨーロッパ社会で生み出された概念で、イエス様がおっしゃる「天の国」とは全く違います。天の国とは、死者の霊が行くところではありません。国は「バシレイア」ですが、町とか家と並んで、支配がおよぶ範囲のことです。神の国とは神のご支配が及ぶ所です。

クリスチャンであるわたしたちも「神の国が来た」と聞きましても、宗教的表現のようにしか聞こえません。もし神の国が本当に来たのなら、一体この世の戦争や災害、不幸はどう理解したらいいだろうかと思います。これは、わたしたちにも「神の国とは平和で、災害も死もない世界である」という漠然とした理解があるからでしょう。聖書の言う「天の国」と、「いわゆる天国」の混同です。これは、オルガニストで、アフリカで医者としても大活躍した、誰でも名前を知っているアルベルト・シュバイツァーの主張に一因があります。シュバイツァーは、神学者としてもイエス伝研究で大きな業績を残した人ですが、この人が神の国とは終末のもの、つまりこの世界が終わる時に突然神のご支配がやってくる、それが神の国だと言いました。今の世の中ではなく、ずっと先に突然やってくるということです。とても有名な主張で、神の国を終末論的に解釈したのです。一種の理想社会です。なるほど近代人の頭では理解しやすい考えですし、確かに神の国は世の進歩によって実現するようなものではなく、外からやってくることは確かなのですが、しかし、シュバイツァーの考えはイエス様がおっしゃったこととは異なります。

ややこしそうなベルゼブル論争に惑わされず、既にわたしたちの間に来ているとイエス様がおっしゃった「神の国」とは何かを正しく捉えることが、今日の御言葉を理解する急所です。山上の説教でイエス様はおっしゃいました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。・・・義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(五章三、十節)。イエス様がおっしゃる天の国は、「いつか、やがて来るもの」でも、「今その兆だけがあって、やがてイエス様のご復活の後、完成するもの」でも、もしくは、「今ではなく終末には完成するもの」でもありません。今既に来ているものなのです。神が支配される世、神との交わりに生きる世界は、まさしく神の国です。イエス様と共にいて、その愛に包まれて生きているわたしたちは、神の国にいるのです。エン・クリストー、イン・クライスト、キリストの中で生きるのが神の国です。

続いてイエス様は、「誰かの家から家財道具を奪うには、まずその家の強い人を縛っておかないと出来ない。神の支配が既に来ている以上、どんなに強いサタンの支配があったとしても、そのサタンを縛っておけば、サタンの家に閉じ込められている悪霊に憑かれた人を神の国へと救い出すことができる」とおっしゃっています。イエス様が目の見えない口の利けない人を癒されたのは、単なる奇跡ではなく「すでに神様のご支配が現実のものになっている」からできるのだということです。今すでに悪霊の力に打ち勝つ神の力がここにあるのです。イエス様が活動を始められたとき、荒野でサタンから試みをお受けになりましたが、その時すでに「退け、サタン」(四章十節)と叫ばれたことを前に聞きました。サタンに勝利されてから、主の働きが始まっているのです。

イエス様は「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(三十節)とおっしゃいました。味方しない者は敵対する、つまり味方でもない敵でもないという中途半端はありません。非常に強い言い方です。イエス様に対する態度を決めないで中立でいることは敵対することになるのです。まだ決断していない人に向かって、決断するように促されています。自分の全生活をかけて、イエス様に従うことが求められているのです。聖霊に言い逆らっているのだ、赦されることがないとまで言い切っておられます。これは敵対するファリサイ派に対する言葉です。もともと近しい関係にあり、間違ってはいたにしろ、神との関係を熱心に考えていたファリサイ派の人々の悔い改めを強く願っておられたからこそ、こんなに強い調子で迫られたのでしょう。

先ほど触れました、山上の説教を思い出していただきたいのですが、はっきり味方ではなかったけれども、貧しい人、悲しむ人については、敵ではなく「幸いである」という言葉が繰り返されております。ファリサイ派におっしゃったこととは全く違います。山上の説教の各節の二行目は、訳されてはいませんが、「なぜなら」という接続詞で始まり、幸いである理由が書かれております。なぜなら「慰められるであろう、受け継ぐだろう、満たされるだろう、憐れみを受けるだろう、見るだろう、呼ばれるだろう」とあります。誰がそうしてくださるのでしょう。勿論主なる神、イエス・キリストが父と呼ばれた神です。父である神が慰め、受け継がせ、満たしてくださるから幸いなのです。

罪人と呼ばれる人は、神との関係が正しくない、つまり義ではないと思われておりましたが、その人に向かって、お前たちはその神の子だよ、と呼んでくださいます。義で満たしてくださるのです。義がなくて、義に飢え渇く者は、義で満たされるのです。これが神の国の姿です。わたしたちは神の国に生きております。そう見えないかもしれませんが、イエス様ははっきりそうおっしゃっています。

信仰は心に信じていたらよいというものではありません。死んだら天国に行くというものでもありません。信仰とは、イエス様が今、共におられて、神の国がわたしたちの間にある、その神のご支配のもとに生きるということです。神がわたしたちを受け入れてくださっているということを受け入れることです。また、信仰は心の持ちようではありません。イエス様の信仰に与ること、イエスと共にいることです。天国と天の国を混同せず、はっきり区別して理解したいものです。

マラナ・タ教会は今日の役員会で、総会に提出する来年度の予算案と、年度計画、伝道牧会方針を話し合います。人とお金のことが議題です。これほど具体的でわたしたちの信仰が問われることはありません。わたしたちがどういう実を結んでいくか、それを見れば、わたしたちが良い木か悪い木か、悪霊に支配されているかいないかが分かると聖書は言います。計算の上に成り立つ損得ではなく、熱狂して出来ないことを出来ると信じ込むのでもなく、何が御心にかなうことか、神の国のありようはどういうものか、信仰的に判断をすることが求められます。そこにわたしたちの信仰の姿がはっきり表されるでしょう。イエス様が、悪霊に取りつかれた人を癒されたのは、すでに神の国がそこにあったからなのです。マラナ・タ教会の現実の中に、神の国がすでに来ていることを喜びましょう。

祈ります。
父なる神様、すでに神の国、神のご支配が来ていることに感謝します。どうかわたしたちがそのことをはっきりと知ることができますように。イエス様の信仰に与り、主を信じ、主の愛うちに生きられますよう、わたしたちを強めてください。そして、人生をかけて主に従うことができますよう支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月18日の音声

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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