受難節説教

2019年3月24日 受難節第3主日
「キリスト来臨の徴」
マタイによる福音書24章29-35節

マタイによる福音書を学び続けておりますが、二十四章では「終末」について、イエス様が長い説教をなさっております。今日はその三回目です。こうおっしゃいました。

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(二十九~三十一節)。とても不思議な、現代人の感覚では、本当にそんなことが起こるのかなと思わされる表現です。実はイザヤ書にこのような言葉があります。「見よ、主の日が来る。残忍な、怒りと憤りの日が。大地を荒廃させ、そこから罪人を絶つために。天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かさない」(イザヤ書十三章九、十節)。イエス様はイザヤ書の言葉に基づいて世界の終りの話をなさいました。それは太陽と月や星の異変という天的な出来事として始まります。その終末の徴に地上のすべての民族が驚き悲しむ時、人の子が現れ、神がラッパの音を合図に天使を遣わして、人の子に属する人々を天の四方八方から呼び集められる。神となられたイエス様が「審判のために来られる」のです。ポイントは二つ、最後まで耐え忍ぶ者は救われる、そして偽メシアに惑わされるなです。当時の人にとっては、まさにその言葉通り起こる出来事なのです。今のわたしたちにとりましては、こういう事がその通りに起こるというよりも、聞き手の心に残るように確かな真実をしっかり伝えようとする表現だと考えられます。

終末の審判は普遍的でありすべての人に下される、教会も審判から逃れることは出来ないのだと考えますと、わたしたちは不安になります。けれども、人の子イエス様が大いなる力と栄光を帯び天の雲に乗って来られるのですから審判者はイエス様です。ですから再び来られること再臨は当然信じる者にとっては慰めと喜びであり希望なのです。主よ、来てください、マラナ・タと祈っております。わたしたちにとって大事なことは、イエス様が来てくださることを祈り願い、主の御愛に留まることです。

今、終末とか再臨という言葉を使いましたが、これは教会で出遭う不思議な言葉の最たるものかもしれません。聖書本文に出てくる言葉ではありませんが、新約聖書の中に、ペトロやパウロではなくイエス様が世の終わりとご自分が再び来られることについてはっきりと語っておられる箇所を目にしますと、なるほどそういうことが起こるのかとは思います。しかし、多くの人は自分の今の生活とうまく結びつかない、あるいはよくわからないという理由で、困惑しながらも、深くは考えず普段は忘れております。けれども、終末が来るぞと聞くと不安が持ち上がります。

誰でもそうでしょうが、何かあるのに、それがどういうことかしっかりわからないと不安です。これは病気を考えるとよくわかります。どこか調子が悪い。何か原因がある。しかし血液検査してもMRIを撮っても悪いところが見つからない。ひどくなるかもしれないと不安です。そんな時、「あなたは自律神経が乱れているのですよ」とか、ここに原因がありますよとはっきり説明されると少しは安心します。対処のしようがあるからです。体の変調が続くにしても、こういう病気ですからこんなふうになりますと予告されるだけで、何となく安心します。人は病気そのものよりも、よくわからないということで不安が増すのです。

終末についてもそうです。よくわからないので不安ですから、具体的によく知ろうと考える人が出てきました。詳しく解説をして、こうなりますよ、しかし安心しなさい、解決法があるのですと説得します。終末への対処の仕方は近代になってから詳細になりました。わたしたちがよく聞く代表的なものは、もともとアイルランド出身の英国国教会の司祭だった、ジョン・ダービという人が唱えたものです。十九世紀の人ですが、彼はこの説を作るのに人生のすべてを費やしました。彼個人の説ですから必ずしも正しいものであるとは言えませんが、広く受け入れられてしまいました。アメリカに伝わり、その後日本にも広がりました。人類の歴史を七つの時代区分(ディスペンセーション)に分割し、それぞれに神は固有の原理をもって人間を取り扱われる。キリストの死と復活から始まった今は、最後の時代が来るひとつ前の恵みの時代であり、わたしたちはこの恵みの時代に生きている。今のこの時代と最後の千年王国の時代の間に、大変困難な事態が起こるけれども、信仰があれば大丈夫だという教えです。これだけだといいのですが、この大変な災難の時、イエス様がご自分の弟子であると認めた特定の人だけは、突然地上から取り去られ、天に挙げられると言います。これを「携挙」といいます。ケイは携える、キョは挙げると書きます。携挙される人は苦しみに遭うことはないが、携挙されない人は地上に残され地獄の苦しみを味わうことになる。だから、みんな苦しまないように携挙が起こるという説明を信じ、教会に閉じこもったままの信仰を離れなさい。今なら間に合うと言うのです。誰が挙げられ、誰が挙げられないかとても気になる説です。司祭が出した説であるだけにたちが悪いと思います。どんどん脱線していって誤った信仰刷新運動になりました。地獄の火がいかに恐ろしいか、一生懸命に話します。人の不安につけこんで自説を主張するのです。人類の破局を強調します。わたしもこの教会にいるとき、二度この説に取りつかれた婦人たちの訪問を受けました。「先生、言いましたよ、お伝えしましたよ、もう後は知りませんよ、わたしたちの言うことを聞かなければ、大変な目に遭いますよ」と言い残してお帰りになりました。邪な者、つまり彼らの言う通りに信じない、悔い改めないわたしのような者はハルマゲドンの最終決戦において滅ぼされるけれども、自分たちは神の器として復興する、そして最終決戦の後キリストによる千年にわたる完全なご支配、千年王国、至福の王国がこの地上で始まるのだと言うのです。聖書の教えではありませんが、あたかもそれが聖書の教えであるかの様に語ります。信仰が大切だという点はその通りですが、おどろおどろしい説で人を脅かすと同時に、自分の主張を納得させようとする邪説です。

いま落ち着いて説明を聞きますと、なんとばかげた話かと思われるでしょう。ところが暗い時代に不安を抱えていた人には説得力がありました。十九世紀は特に信仰の危機がありましたし、大きな戦争が起こる前の不安な時代でした。熱狂しやすい背景がありました。これはものみの塔の人たちの話ではありません。この説は自分たちこそ本物だと主張する教会の中にも深く根を張っております。二十世紀になって以降も内村鑑三や中田重治が一時熱狂しました。正式な教えとして看板にしていた教団さえあります。いくつかの教団は最近になってこういう考えは間違いだったと認めましたが、いまだに洗脳されている教会もあります。わたしの周りにも、自分たちだけが突然天に挙げられるとか、千年王国の時代という言葉をあたかも聖書の教えであるかのごとく発言する牧師がおります。これは、もともと人の不安を取り除くために終末時にはこういうことが起こると詳しく説明し、それに備えようとしたことから出た考えですが行き過ぎてしまったのです。聖書をいくら調べても答えが得られないことに一見明確に答えてくれるように思えたのでしょうか、突然驚くべきことが起こると耐えられないだろうという不安を持つ人に広がりました。真面目で心配性の人が惑わされました。千年王国を主張する人は病気で不安を抱く人に怪しげなサプリメントを売りつける輩と似ています。

一方でこれとは全く逆に、終末だの、最終的な神の裁きだの、キリストの再臨だの、そんなことは起こらないのだとして、これを全く無視するか、バカにする冷めた人たちもおります。迷信に過ぎないと。この人たちは終末への希望を全く見失っております。聖書の言葉に不感症になっております。歴史を見てみろ、イエス様の死後二千年にわたって再臨はなかった。だから神の介入など何も期待はできないと投げやりになります。イエス様に直接お目にかかった人たちが生きていた時代、主の十字架を直接経験した人がまだ自分の周りにいた時代の人は再臨を真剣に待ち望んでいました。しかし弟子たちは徐々にこの世を去っていきます。イエス様のおっしゃったことが直接の証言ではなく、又聞きの情報になってくると、だんだんと終末、再臨なんてないのだ、もしあってもずっとずっと先のことで、自分とは関係ないと思う人が増えてきました。もし主が再び来られるのなら、今はどこで何を準備しておられるのか、今はどういう状況かと首を傾げます。「はっきり言っておく。これらの事が皆起こるまでは、この時代(つまりこの世代の者)は決して滅びない」(三十四節)とイエス様はおっしゃいましたが、でも滅びないと言われた人々はもうみんな死んでおります。神の目覚まし時計は鳴らなかったかのようです。あるいは神はもうお忘れになったかのように感じるのかもしれません。

最初の考えに取りつかれる人は、知的に考えることを止め、興奮し、現実を見ない人たちです。社会で何が起っていても関心がありません。どうせもうすぐ終わりが来るのですから、真面目に働くことも、勉強することもしません。当然ですね。終わりが来て携挙されるなら意味がないのです。大切なのは山に逃れ、天国への旅に備えて自分を清めることだけです。自分は大丈夫だろうか、あいつは多分だめだろうなとそういうことばかりが気になります。第二の考えの人は、現実はしっかり見るのですが、この世のことにのみこだわるので、死を超えて働く希望がありません。死んだらおしまいです。生きている時にひたすら楽しむことだけに集中します。主が再び来られることなど、これっぽっちも考えないからです。インマヌエール、主はわれらと共にというリアリティーを失います。しかし、イエス様ははっきりおっしゃいました。「イチジクの枝が柔らかくなり、葉が伸びると(六月頃のことでしょうか)、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、人の子の徴を見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(三十二、三十三節)。再臨は必ずあるのです。わたしたちがその徴にまだ気づいていないだけなのです。現実を霊的な目でしっかり見るなら、イエス様がもう戸口に近づいておられるのです。

他にも、そもそも終末など非科学的だとして、イエス様がおっしゃったと聖書に書いてあることなんて、弟子たちがでっち上げた話でしょう、キリスト教なんて嘘ばかりだという極端な人もおります。マタイは、こういった疑問が必ず起こるだろうと心に留めながら福音書を書いております。ですからイエス様ご自身も、最後の時がいつ来るのかは知らないとおっしゃったとはっきり書いております。次週そのことが語られます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」(三十六節)と。

イエス様でさえその日をはっきりいつとはご存じでなかった以上、わたしたちは、これらから起こることにびくびくして生きることはありません。逆に過去に起こらなかったからとバカにしてもいけません。終わりは必ずいつか来ます。いつか分からないだけです。だとすれば、わたしたちにできることは、今をしっかり生きること、しなければならないこと、したいことを先延ばしにせず、今この時を大切に生きることです。過去や未来ではなく、今わたしたちの周りで起こっていることに気を配るべきなのです。将来への気がかりは完全にはなくならないでしょう。過去の出来事への後悔や幻滅もなくならないかもしれません。でも、今という時から切り離されたような生き方をしてはならないのです。マラナ・タという祈りは、わたしたちをして今を生きることに導きます。

明日はもっとよく祈ろう、もっと価値ある生き方に挑戦しよう、来年収入が増えたら献金を増やそう、そんな風に言っている限り、おそらくそうならないでしょう。際限なく先延ばしにすることになり何も実行できません。今の責任から逃げずに次に起こることに備えをしながら、今祈り、今挑戦し、今勉強すべきです。時が満ち、天の国は近づいたのです。主は確実に近づいてきておられます。いつ主が雲に乗ってこられるのか、いつラッパの合図が鳴らされるのか分かりません。その時は誰も知りません。しかし、イエス様は必ず再び来られます。与えられたものに身を浸し、終末を恐れる不安症にも、無視する無気力症にも陥ることなく、主が来られる日を待ち望みつつ、今この時を生きる、人生を精いっぱい生きる、これが大事です。再臨を見ないまま、一人また一人と静かに目を閉じることになるかもしれません。でもいずれにせよ、いつか主にお会いするのです。神はこの世界をわたしたちに委ね、わたしたちが自分の命を生きるように、ご自分の御手の中に置いてくださいました。このことが分かれば、わたしたちはたとえ暗い道を歩むときも恐れることはありません。今を精いっぱい生きようではありませんか。

主の約束の言葉が今も後も限りなく地上にありますように。

祈ります。
父なる神、わたしたちをあなたの御手の中に置いてくださっていることを感謝します。それにもかかわらず、わたしたちはいろいろな不安から離れられずにいます。どうぞ、わたしたちから不安を取り除いてください。また、不信仰から救ってください。これから起こることにびくびくして、ありもしないことをまことしやかに語り、かえって不安をあおるようなことをせず、イエス様が約束してくださったことをしっかりと受け取ることができますように。そして、たとえ暗い道であっても、しっかり歩み、今を大切に精一杯生きることができますよう支え導いてください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

3月24日の音声

 

 

2019年3月17日 受難節第2主日
「時を縮める神」
マタイによる福音書24章15-28節

十字架に向かって歩まれるイエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城されて以来、祭司長たち、ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々から次々と論争を仕掛けられましたが、すべて論破なさいました。そしてファリサイ派を厳しく糾弾した後、最後にエルサレムの崩壊を預言なさいました(二十三章)。この後二十四章と二十五章は、この世の終わりに関する預言、裁きが語られます。これはオリーブ山での言葉ですから、「オリーブ山の説教」と呼ぶ人もおります。山上の説教と似ていて覚えやすい言い方です。二十四、二十五章はひとまとめの記事と読めますが、二十四章一節以下三十五節までを前半、そして三十六節以下二十五章の終わりまでを後半とみることができます。前半と後半では、内容と表現にいろいろな違いが感じられるからです。一番大きな違いは、「その日」とか「その時」という表現が後半にだけ出てくることです。この前半を、受難節第一、第二、第三主日と三回に分けて説教をいたします。先週森喜牧師が説教された前半の第一回に続き、今日受難節第二主日は、前半の二回目です。

さて、みなさんはこういう終わりの日の預言をどのようにお読みになるでしょうか。この二十四章は、マタイによる福音書の中でも最も解釈が難しく、色々な意見があり、聖書の読み方が教会、教派によってまちまちです。自分たちの考えを持ち込みやすい箇所です。異端的な信仰の人々が好んで取り上げる箇所でもあります。世の終わりが来るぞと脅して、自分たちの信条を押し付けてくる人たちが物知り顔に、聖書にこう書いてあるぞと引用する箇所です。自分の思いを密輸入して都合よく読みがちな箇所ですが、マタイの伝えようとしていることにしっかりと迫りたいと思います。

まず二十四章の初め、先週聞きました箇所で、イエス様は神殿の崩壊を預言なさいました。縦横五百メートルと三百メートルの大城壁に囲まれた壮大な神殿が潰されると言われたのです。この預言が一体何を意味するのか、わたしたちはその後の歴史を知っておりますので、これはローマによる神殿の破壊という歴史上の事実をイエス様が預言なさったと思いがちです。しかし、イエス様が後に起こるローマによる神殿破壊を預言なさったと断言はできません。又、弟子たちは目の前に大きな神殿の素晴らしい威容を見ているのですから、何のことか分からなかったでしょう。さらに、ローマによる神殿破壊はまさに世の終わりかと思われる出来事でしたが、決して真の世の終わりではありませんでした。

神殿から郊外のオリーブ山に場所が移ります。聞いているのは弟子たちです。イエス様は弟子たちの質問に対し「終末」に関して教えを語っておられます。この社会と御国の民にどのようなことが起こるのかをお話しになりました。終わりについてというよりも、終わりに至るまでの出来事です。何度か申し上げましたが、聖書の世界観は、ぐるぐる回る循環的なものではなく真っ直ぐな歴史観で、一直線の前進を語ります。従って今がとても大切です。この世は初めに神によって作られ時を刻み始め、そしてある時神によって終わりがもたらされます。時の進行があるとき止まり、世界が終わるのです。イエス様はその終末の前兆として起こる事柄、そして信仰者に襲い掛かってくる災難を予告され、最後まで信仰を持ち続ける者は救われるとおっしゃいました。それは直ぐに起こるかもしれないけれども、まず福音が至る所で宣べ伝えられ、それから終わりが来ると教えられたのです。

それに続くのが今日の聖書箇所です。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――」(十五節)と始まります。まもなく終わりが来ると言われた後も、続くのは再臨の話ではなく、終末の前に起こる大きな苦難の話です。ダニエル書に学ぶよう言われています。ダニエル書には「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる」(ダニエル書九章二十七節)、「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる」(同十一章三十一節)などとありますが、セレウコス朝シリアによって焼き尽くす献げものの祭壇が取り払われ、異教の神ゼウスの祭壇がおかれた、このような信仰が完全に踏みにじられる事件がまた起こるであろうと言われています。

「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」(十六~十九節)。イエス様は究極の困難の中、頑張って信仰をまっとうせよとも、死ぬ覚悟で抵抗せよともおっしゃってはいません。そんな時には山に逃げなさいと諭されています。それどころか屋上にいる者は家にあるものを取りだそうと下に降りてはならないとか、畑にいる者は上着を取りに帰ってはならないとか、直ちに逃げる必要があると緊急性を告げられます。今の日本に置き換えて言えば、大津波が来るかもしれない大地震の後は、必ず山に逃げろとか、貴重品を取りに家に帰ったり、家族を探して海岸に行ったりしてはいけないというのとよく似ております。また身重の女性や乳飲み子を持つ母親に言及し、その逃亡がいかに大変なものであっても逃げなさいと語られました。

続いて「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」(二十節)とあります。ここで冬と訳されている言葉は暴風雨、荒れた天気とも訳せる言葉でこちらの方がいいかもしれません。普段は乾いていて雨の時だけ川になるワジが氾濫すると逃げられません。

「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」(二十三~二十六節)。この忍耐がいる期間を、どうすればいいのか、イエス様はいろいろにおっしゃいます。そして、必ず出現する「見よ、ここにメシアがいる、いやここだ」と言う偽メシアや偽預言者に惑わされてはいけないと注意なさいました。

「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」(二十一~二十二節)。教会はこれでもう最後かという出来事を何度も経験してきました。昔信仰が盛んだったところに今は全く教会がない、信徒もいないというところがたくさんあります。滅ぼされたのです。わたしが青年時代を過ごした香里教会で、ある長老が、忘れられない入信の証をなさいました。今の北朝鮮での出来事です。敗残兵だったこの人を追ってくるロシア兵から、ある現地人の夫妻がかくまってくれたときの話でした。こうおっしゃいました。鮮明に覚えております。「彼らは今まで自分たちを支配し、いじめてきた憎き日本人であるわたし、しかもぼろぼろの服を着てシラミだらけだったわたしを助けてくれました。なぜ助けてくれたのか不思議でしたが、実はこの夫婦はキリスト者だったのです。神なんて信じられないと思っていましたが、この夫婦には無神論者だった自分にはない温かさがあるということだけははっきりわかりました」と話されました。これがきっかけになって、その方は帰国後洗礼をお受けになったのです。朝鮮半島には、熱心なキリスト者が大勢いたのです。今北朝鮮には一人も信者がおりません。大勢のキリスト者が南の韓国に逃げたからですが、それだけではなく、実に多くのキリスト者が殺されたのです。教会は壊滅させられました。見つかって拷問され、芋ずる式に仲間の居場所がばれて皆殺しにされたそうです。大勢のカトリック教徒が殺されました。まさにもうこの世の終わりではないのかという憎むべき破壊者が聖なる教会の中に入ってきたのです。

しかし、ここでイエス様は大事なことをおっしゃっております。この大きな苦難の期間を神が縮めてくださる、時が縮まるとおっしゃったのです。終わりは神のご支配が、より鮮明になります。その神が困難の時を縮めてくださるのです。そうでなければ耐えられないからです。終末は神の支配がはっきりと前面に出ます。信仰を持ち続ける人々がいなくなってしまいそうな苦難に見えても、神は時を縮め最終的に救ってくださるのです。終わることのない全く違う新しい世界が始まる前に大きな困難が襲うけれども、神がその期間を縮めてくださいます。殺された信徒もわたしたちも、共に永遠の世界で出会うのです。

ここでイエス様がお語りになっていることは、終末の前に来る大きな苦難についてですが、来週ご一緒に読みます二十九節以下につながっていることは明らかです。そこで語られているのは、この終わりの時にイエス様が再び来られるということです。わたしたちは、イエス様と顔と顔を合わせることができるのです。終末はただそれがなければよいことを願うしかない苦難の時ではありません。「最後がくる」というのは単なる脅しではなく期待が持てることでもあるのです。そこには希望があります。

わたしどもは主が再び来られることを待っております。マラナ・タと祈っております。もしそうでなければ、今のこの世だけにこだわっておれば、困難の最中(さなか)で、やがて神から与えられる義の冠を待つことはできないでしょう。主が再び来られることをずっと待ち続けることができない人は、死に直面して、なお忍耐することは難しいのではないでしょうか。人生ってこんなものだ、みんなそうでしょうとあきらめ、投げ出す以外に対処のしようがありません。マラナ・タという祈りを忘れると、だんだんと人はこの世だけを愛するようになります。すると、自分は、教会のためにコツコツと働いてきたけれどもいったい何の意味があったのだろうかと疑問を抱くようになります。結局死んだらおしまいなのだとなりがちです。自分が死んでいくその彼方に主イエスが来てくださる、主にお会いするのだという「死を超える望み」など持てなくなります。この先二十六章以下になりますと、イエス様の発言はぐっと減ります。十字架物語が始まるからです。この二十四、二十五章はイエス様の最後のまとまった教えといってもいいでしょう。どんな気持ちでお語りになったのかと思います。ご自分の死に先立って、なぜこんなにも長く、こんなにもしつこいくらいに終わりについて話をなさったのか。わたしたちにとって、これが決定的に大切なことだからではないでしょうか。

「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」(二十七、二十八節)。やがて自分は死ぬ。しかしそれで終わりではないとイエス様はおっしゃいます。再臨は、稲妻がひらめき渡るように、どこにいても誰が見てもはっきり分かるのです。死体のある所には、はげ鷹が集まります。はげ鷹が死体を見逃さないのと同じように、人がイエス様の再臨を見逃すことはないのです。たとえ山に逃げていても、イエス様が再び来られる時はわかります。

もう一度繰り返しますが、荒らす者がその振る舞いによってこの大変な時を長くしたり短くしたりするのではありません。最後の困難の時を支配するのは、神であって、悪ではありません。神が民を救うため時を縮めてくださるのです。イエス様の再臨は、誰の目にも明らかで見落とすことも、見間違うこともありません。

ご存知のようにヨーロッパの教会は、葬儀の時に鐘を鳴らします。大勢の信徒がいるので毎日のように鐘がなります。ああ、きょうは誰のために鐘がなっているのだろうか。あの人か、この人か。英国のジョン・ダン(1572年~1631年)という詩人の司祭が、「不意に発生することについての瞑想」という短い説教集である瞑想録の中で有名な言葉を残しております。「汝問うなかれ、誰がために鐘はなると。それは汝がために鳴るなれば」。その鐘の音はあなたのためだ、あなたが死ぬのだと。礼拝が始まる時に、時を知らせる鐘がなります。今礼拝五分前ですよというだけでなく、イエス様が再び来られる、準備はできているかと問いかけています。苦難の中に置かれたとき、その場から逃げてもいいのです。わたしたちに必要なのはただ礼拝し続けることのみです。

祈ります。
父なる神、終末には大きな困難が襲うけれども、その時をご支配になるのはあなたであり、あなたはわたしたちを救うため苦難の時を縮めてくださることを知りました。イエス様は、どうしようもない大きな困難を前にした時には逃げ出してもいいとおっしゃいました。イエス様がわたしたちのために十字架にかかり、いつも共にいてくださることを感謝します。わたしたちが死を超えて希望を持つことができますように、終末の後に来る終わることのない全く違う新しい世界を待ち望むことができますように、支え導いてください。
主イエス・キリストの御名によってマラナ・タと祈ります。
アーメン

3月17日の音声

 

 

2019年3月10日 受難節第1主日
「終末の徴」
マタイによる福音書24章1-14節 説教:森喜啓一

マタイによる福音書第24章1節から34節は、小黙示録と呼ばれています。これは普段の私たちの生活では馴染みの薄い言葉ですが、小黙示録の黙示と言う言葉には「隠された真理を明らかにする」という意味があります。特に、聖書の中では神様の隠されたご計画やその真理が書き記された書物とご理解をいただければ良いかと思います。新約聖書の中では、一番最後に納められたているヨハネの黙示録が有名ですが、マタイの福音書24章1節から34節までの小黙示録では、イエス様のみ言葉を通して、今まで隠されていた神様のご計画が明らかにされていきます。特に、今朝はその中の1節から14節に書き記された「終末の徴」と題されたみ言葉を皆様と共に心に刻みたいと思います。

「お前達の家は見捨てられる」。23章の終わりの38節に記されたイエス様のみ言葉は、弟子達の心を強く捉えていました。そこで、弟子たちはイエス様が神殿から出て行かれるイエス様に近寄り、神殿の建物をあえて指さしました。其処からは、実に壮麗な神殿の姿が見えたことでしょう。弟子達は、その圧倒するような神殿の姿をイエス様に見ていただいて、23章でイエス様が言われた「お前達の家は見捨てられる」の意味について、改めて聞いてみたかったのです。弟子たちの言葉に促されたイエス様は、この壮麗な建物は崩れ滅びるのだと、さらに明言されました。それを聞いた弟子たちの胸には、心をざわつかせる大きな不安の高まりがありました。

弟子たちはこう思ったのです。「もしも、この壮麗な神殿が、神に見捨てられ、崩壊するようなことがあれば、この世全体は、もう確かなものではなくなる。この世の終わりが来るのではないだろうか。なんと恐ろしいことか」と。そこで、弟子達は3節にあるように、イエス様に尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか」と。さらに弟子たちの問は続きます。「あなたが来られてこの世が終わりになるときには、どんな徴があるのですか」と。ここで、弟子たちはイエす様に「あなたが来られて」と言いました。「あなたが再び来られて」ではないのです。とても不思議な言葉遣いに聞こえます。弟子たちは、イエス様が苦難の死を遂げられた後復活し、天に昇り、やがてこの世に再臨されることをすでに聞かされていたのですから。

23章の最後にある39節でイエス様は、「人々がイエス様に対して歓喜の声をもう一度挙げる時が来る」と言われました。イエス様は、「もう一度来る」と、言われているのです。しかし、この24章3節で弟子たちは、イエス様を始めて来られる方のように、単に「来る」と言っているのです。弟子達のこの言葉からすると、イエス様の再臨は、あのクリスマスにお生まれになって、弟子達と宣教をされているイエス様と同じ使命や姿で来られるのではないのではないでしょうか。 聖書が示す意味は、イエス様は、神様から新しい使命を担い、新しいお姿をもつ新しい方として来られるのではないでしょうか。それがどのようなものなのかを、今日の聖書箇所では明らかにしていません。しかし、弟子が言うように、それは確かな事に違いありません。それはこれ以降の聖書が明らかにしてくれます。

さらに、弟子達は「イエス様が来られ世が終る」と、「この世の終わり」のことを言っています。「この世の終わり」と言う言葉は、私たちに、とても暗い、後のない、破滅や滅亡や絶望を感じさせます。この言葉が、そのような意味合いで使われていることが実際多いからなのでしょう。しかし、神のみ言葉が示す「この世の終わり」は、そのような意味とは、まったく逆で、希望に溢れた意味を持っています。と言いますのは、ここで使われている「終わり」という言葉の原語となったギリシャ語は「完成」と言う意味にも解釈できるのです。これは、とても大切なことなのです。そして、聖書が言う世の終わりとは、今の不完全な世が終わり、神様のご意志通りに、神の国が完成され、新しい世が始まることなのです。それは、私たちキリスト者の望みが実現されることなのです。

そして、イエス様は弟子の「世の終るときの徴」つまり前兆についても、はっきりとお答えになりました。第一に、「人に惑わされない様に気をつけなさい」。あなた方は、世の終わりについての間違った考えに誘われてはいけない、と言われるのです。偽メシアが現れる、偽宗教が人々を惑わすと言われるのです。戦争と戦争の噂を聞くことでしょう。それもとても身近に。人々は、どう逃れようか、生き延びようかと騒ぎ出します。このような出来事は、人の心を狂わせ、人を騙し裏切ることを何でもない事の様にしてしまいます。そして、人々を煽動しようとする者も現れます。かれらは、大声と、身勝手な理屈と扇情的な言葉で人々を圧倒し、人々の思考を停止させてしまうのです。でも、イエス様は、「慌てては行けない」と言われます。 それらのことに「惑わされるな」と言われているのです。どのように人が言っても、噂を聞いても、ただ神様のみ言葉を信じて、しっかりしていなければならないのです。

また、イエス様は「偽メシアが現れても、戦争の噂を聞いても、それは世の終わりではない」、滅びが終わりではないとも言われている。イエス様は、このことで、私たちに、楽観的になるようには教えられないのです。イエス様の言われている事は、やはり恐ろしいことです。7節から11節には、様々な恐ろしい出来事が述べ綴られています。

そして、イエス様はこのようにも言われました。「このような出来事が続く世の中では不法がはびこる」と。それは 律法が否定されることでした。つまり神様が与えてくださった掟が破られることをおっしゃっています。特に、最も大切な掟「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「自分を愛するように隣人を愛する」という掟です。終末が近づき、世の中がひどく荒れると、それらの掟が破られてしまうと言われるのです。世が滅びようとするとき、人は、生き残るためには、愛などは無力だと言うのでしょうか。愛よりも力が勝つと考えるのでしょうか。力ずくで自分だけが生き延びようとするのでしょうか。

イエス様は、そのことによって「多くの人々の愛が冷える。」とおっしゃいます。この「多くの人々」とは、私たちキリスト者、教会員のことです。教会の中にも混乱が起きるのです。教会の中に疑いがうまれ,人が人を裁き、信仰に躓く者、間違った神の言葉を語り人々を惑わす者が現れると言われるのです。そして、愛が冷えるのです。「それでも教会の愛だけは冷えないのだ」とは言われなかったのです。それは、危機が生じた時、人間は愚かになってしまうからなのでしょうか。神様を忘れ、正しい神様の言葉に基づいて事態を見ることができなくなってしまうのです。心が焦り自分を自力で守る事に必死になるからなのでしょう。そして、教会は分裂していきます。人間は、それほど罪深いものであることを、私たちは心に留めておかなければならないのでしょう。

イエス様は、そのような時に私たちがどうすれば良いかを教えてくださっています。13節です。「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」。最後まで、信仰を捨ててはいけません。人の言葉にも、噂にも、そして私たち自身の内側からの誘惑の囁きにも従ってはいけません。どんなに人を嫌いになりそうになっても、憎みそうになっても、心が破裂しそうになっても、「辛抱強く神様の愛の掟を守り続よ」とおっしゃるのです。それは、とても難しいことかもしれません。最後は、自分との戦いになるのです。あなたの心の中にいる、もう一人あなたの誘惑に勝たなければならなりません。貴方の中にいるもう一人のあなたは、百もの愛が冷めても良い理由をのべたてることでしょう。しかし貴方はたった一言でその百の理由を撃破できるのです。つまり、「それでも、私は神様を信じる」という一言です。

しかし、こんな呟きがきっとあるでしょう。「人はそんなに強いのか」。イエス様は、「神に信頼を置くものは忍耐に生き、神への信頼に生きる者は救われる」と言われているのです。イエス様はそのように苦しむ私たちを助けてくださいます。耐え忍ぶ時に、もはや自分では絶えることが出来ない、崩れて行ってしまいそうな自分自信を「神様に預けてしまいなさい」と言われのです。その祈りと忍耐は、私たちの愛を救い教会を救います。そして、そのようになさる皆様お一人お一人の生き様こそが全世界に宣べ伝えられる福音の宣教なのです。

祈り
御在天の父なる神様。
私たちが、どのような時にあっても、主のみ言葉を、私たちに注がれ、私たちが、しっかりとそのみ言葉を捉えられるよう、私たちを強めてください。

私たちは、弱く、心は揺れ動きます。私たちの中に、隠れる愛が冷めて行くような思いや、この世の滅びに恐れ、自分を見失ってしまいそうな思いを消し去ってください。

どうか、どのような時にあって、私たちが神様のみもとにあり、つぶれてしまいそうになった時には、神様に全てを御任せすることをお許しください。そして私たちを受け留めてくださいますように。

そして、終末の後、到来する、私たちの望みの実現である神の国へ私たち誘われます様に。

この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。

アーメン

 

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