私たちの日々が神の恵みのうちにありますように。
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次週21日は信徒立証礼拝のため説教要旨の記載予定はありません。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年8月14日
聖霊降臨節第11主日
聖書 使徒言行録 16章35-40節
讃美歌21 484(主われを愛す)、210(来る朝ごとに)
「安心して行きなさい?」
フィリピの教会はパウロの活動を支えた重要な教会の一つです。フィリピの信徒への手紙の宛先でもあった教会です。
そこでまずリディアという女性が家族とともに洗礼を受けます。ついで、若い女性の奴隷がパウロによって悪霊払いをされます。彼女の主人が怒り、パウロは捕まえられてムチ打ちの刑になった後、牢に入れられます。その夜、地震が起こり、牢屋の看守の自害をパウロが止めます。そしてパウロの話を聞いた看守もまた、ローマの下級役人という立場にもかかわらず、ローマの宗教を離れて洗礼を受けます。
次の朝のことです。町の高官はパウロとシラスを釈放せよという指示を出します。一夜明けて町の人々の興奮も冷めていたことでしょう。高官たちにすれば、一番恐いのは町の治安が維持できなくなることです。昨日の騒ぎは何とか収めたし、朝のウチにコイツらを厄介払いしてしまおう。釈放すれば何処かに逃げて行くだろう。サッサと追い出してしまえ。居なくなったらこれ以上の面倒も起こらない、と考えたのでありましょう。
ところがパウロは釈放を喜ぶどころか、「自分はローマの市民権を持っているのだ、どうしてくれる」と言い出します。今風に言えば居直ってクレームをつけるわけです。看守から伝え聞いた高官たちは狼狽します。
居なくなれば暴動の種が無くなるから一安心、と思っていた高官たちにすれば、暴動と同じぐらいに自分たちの地位を危なくするスキャンダルです。パウロにしてみれば、町の高官たちの弱みを握ったわけです。「謝りに来い」と言わんばかりの物言いをするのも充分に根拠のあることでした。そしてパウロの思惑通り、高官たちはパウロを追放するのではなく、フィリピの町から出て行くように丁寧に頼むのです。
釈放されたパウロとシラスはフィリピの町を出る前にリディアの家を訪問します。パウロと一緒にフィリピに来たテモテはリディアの家に居たようです。そして、リディアの家では、テモテから事情を聞いてパウロたちの釈を祈っていたに違いありません。パウロが捕らえられた理由を聞けば、自分たちに向けた迫害が起こらないようにと祈ってもいたことでしょう。心配や、不安や、しかし神は守って下さるに違いないという期待。地震も起こります。ますます不安が募ったのではないでしょうか。ようやく夜が明け、新たな不安に襲われ始めた頃、釈放されたパウロとシラスが戻ってきます。
結局は体よくフィリピの町から追放されているわけですが、しかしリディアの家に立ち寄る余裕はあったようです。パウロにしてみれば、次の町に行くためにはリディアの家に居るであろうテモテを連れ出さす必要があります。しかしそれだけでなく、兄弟たちを励ましたというあたりがパウロらしいところです。パウロが居なくなった後の信仰生活について、なにがしか言い残しておきたいことがあり、さらには、自分たちも迫害されるのでは?と不安を持っていたリディアの家の人々を文字通り励ます意味もあったに違いありません。
徒言行録ではパウロがローマの市民権をタテにとって自分の身を守るシーンが何回か出てきます。それらのシーンと比べると、今日の物語ではとても高飛車な態度を取ったように見えます。それはなぜでしょうか?パウロ自身が手紙にむしろ誇らしげに主のために自分はムチ打たれたのだ、と書いていることを思いますと、昨日の恨みを晴らすことが目的なのではないように思えます。
フィリピの町がどんな町であったかを思い出すとパウロの意図が見えるようです。フィリピの町はユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がない町でした。ですからパウロ一行とリディアの最初の出会いは町の外にあった祈りの場でありました。以前にも申しましたが、会堂がないということはユダヤ人がほとんど住んでいないことを意味します。
リディアの家の人々にせよ、パウロの監視をしていた看守とその家族にせよ、まわりにユダヤ教徒すらほとんど居ない状況で、この先パウロという指導者が居ない中を信仰生活を送らないといけないのです。その状況で町の高官から、暴動の種を蒔いた不埒なユダヤ人の置きみやげである宗教、と見られるのか、ユダヤ人だけどローマの市民権を持つ人物が、しかも自分たちの弱みを握った人物が信じていた宗教と見られるのか、これは何か事ある時には大きな違いとなります。
パウロは、リディアの家に集まる人々や牢獄の看守とその家族を守るために、町の高官に向けて殊更に凄んでみせたのではないでしょうか。ムチ打ちに遭っている間すでにパウロの中には、この状況を活かしてやろうと考えが浮かんでいたのかも知れません。パウロがムチ打たれたことが結果としてフィリピの教会を守ることになったことは確実なようです。
先週と同じことを申しますが、わたしたちの日常生活でも、なんでこんな目に遭うんだろうかと思う出来事がしばしばあります。しかし、注意してその出来事と向き合っておりますと、何かしらそこからよいものが見えてくることがあります。神の導きや守りを感じる事柄が見えてくることがあります。信仰の目を持って日々の様々な出来事に注意深く向き合いながら毎日を重ねていきたいものです。その日々の中に主の平安があることでしょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年8月7日
聖霊降臨節第10主日 平和聖日
聖書 使徒言行録 16章22-34節
讃美歌21 507、470、81(聖餐式休止)
「真夜中のさんび」
パウロたちは、フィリピでまずリディアという女性に出会います。次には占いの霊に取り憑かれた若い女性に出会います。この占いの霊をパウロがイエスの名によって追い出します。彼女は奴隷であったのですが、彼女の持ち主が怒ってパウロを捕まえ、町の治安を担当する役人に引き渡します。
彼らに扇動された人々も一緒になって騒ぎます。受難週の出来事、イエスを十字架に付けろと叫んだ群衆を思い出します。ルカも受難週の場面を思い浮かべながらこの場面を描いたようだと言われています。また実際にローマの役人の側にしてみれば状況もよく似ていただろうと思われます。
暴動が起こったとローマに知れたら町の高官たちは責任を問われてしまいます。ですから、とりあえずパウロとシラスをムチ打ちの刑にします。追放するにせよ、他の処分を下すにせよ、興奮した群衆を押さえるためにともかく人々の前でムチ打って刑罰を下しているところを見せつけ、何でもいいからその後は牢屋に入れておけ、ということにしたわけです。
この段階ではまだパウロはローマの市民権を振りかざしておりません。次週の先回りをしますと、そのことで翌朝になってパウロが役人を恫喝することになります。
ムチ打ちの後、パウロとシラスは牢屋に入れられます。それも御丁寧に一番奥の牢に入れられます。その夜、パウロたちは賛美の詩を歌っておりました。神の守りを祈っていたことには違いありませんが、パウロたちが海を渡ってマケドニアに来たのはパウロがあのマケドニア人の幻を見たからでした。それからまだ何週間かしか経っていないのです。パウロとしては、マケドニアへ行けという神の命令を受けたばかりの時に、このまま殺されたり、アジア州にまで追放されたりすることは有り得ない、と思っていたことでしょう。自分たちは神の命令によってフィリピに来たのだから、神の守りのウチにある、と強く信じ、その上でしかし、やはり今は祈らねばならない。そんな気持ちであったのでしょう。
その最中に地震が起きて牢獄の扉が開き、囚人をつないでいた鎖も解けてしまいます。目を醒ました看守は囚人が逃げたと早とちりして自害しようとします。古代の刑罰には見せしめの要素が多分にありますから公開処刑なのです。例えば強盗をすればこんなふうに処刑されるんだぞ、ということを見せつけることで犯罪の抑止を狙ったわけです。囚人に逃げられた看守は、その逃げた囚人が受けるべき罰を代わりに受けたようです。
この看守が、公開の場で処刑されるぐらいならこの場で自害しようと考えるのもそれほど不思議なことではないでしょう。しかしその彼をパウロが大声で押しとどめます。
一番奥の牢に入れられた2人は看守の目から見てもタダモノではなかったのでしょう。パウロに声を掛けられた看守は灯りを持って牢に入り、パウロに言います。「救われるためにはどうするべきでしょうか」。この看守がこの時何をイメージして救われると言ったのかは判りません。しかしルカがこの言葉にイエスの救いを託していることは明らかです。パウロとシラスは答えます。「イエスを信じなさい」「そうすれば、あなたも家族も救われます」。
どうやら看守の家は牢屋の2階部分だったようです。看守はパウロとシラスを2階の家に連れて行き、傷の手当てをし、一緒に食事をします。おそらくパウロは夕食抜きで牢屋に入れられていたでしょうし、その一方で看守とその家族は洗礼を受けたと書いてありますから、この食事は、聖餐と愛餐を兼ねたもの、すなわち文字通りの主の晩餐であったと思われます。
朝になる前にパウロたちは牢内に戻ります。看守の一存で牢から出しっぱなしにするわけにはいきませんから、当然のことです。この看守とその家族は明らかにユダヤ人ではありません。下級の役人とはいえフィリピの役人です。とするとこれはつまり、パウロの異邦人伝道がまた一歩進んだことを意味しております。リディアは元々ユダヤの神ヤハウェを信じておりました。占いをする女性は奴隷でした。この看守はユダヤ教のシンパですらない、そして下級とはいえローマ帝国の役人でした。
一方で、リディアの時と同じように家族揃って洗礼を受けて信者になることが書かれております。当時の一般的なこととして、家族のメンバーの一人一人に信仰の自由があったわけではないです。一家のあるじの信仰がその家の信仰です。その意味ではリディアにしても看守にしても一家揃ってというのは不思議ではありません。しかし、ローマの宗教との関わりを考えますと、この看守の場合はとても難しいものを抱え込むことになります。それが判っていただろうにイエスを信じて彼は洗礼を受けます。
ルカがこの物語を記した意図を考えますと、ルカとしては福音を伝えるだけでなく、キリスト教は無害な宗教であると主張する目的がありました。難しい立場にあってもパウロの賛美と祈りの言葉を聞いて信じる役人がいた事はルカにとって書くべき事件であったのです。しかしそれだけのために看守とその家族が危ない橋を渡ったとすれば、それは少々可哀相です。わたしたちには思いも寄らない神の御計画があるのでありましょう。
私たちの日常にも、思いがけない出来事があり、またその中に思いがけない神との出会いがあります。その出会いに気付く心を持ち、賛美と祈りの日々を重ねていきましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年7月31日
聖霊降臨節第9主日
聖書 使徒言行録 16章16-24節
讃美歌21 504、240
「 神のしもべとの出会い 」
川岸にある祈りの場所にパウロたちが行く途中、彼らは一人の女性に出会います。「占いの霊に取り憑かれている女奴隷」をギリシャ語を交ぜて言いますと「ピュトーンの霊に取り憑かれているパイディスケーン」となります。ピュトーンというのは元々はデルフォイにありますアポロ神殿の神託を預かる竜のことです。その神託はデルフォイの神託として有名でありました。
また同じ16節の2回目に出てくる占いという言葉は別のギリシャ語で、未来のことを占うという意味の言葉です。
この女性を新共同訳では女奴隷と訳しますが、原語は若い女性という意味も持ちます。彼女は占いによって主人たちを儲けさせておりました。おそらく、かなりよく当たったのでありましょう。あるいは主人たち(なぜか複数)が何か上手に宣伝したのかもしれません。
そしてパウロ一行が彼女に出会います。これは取りも直さず彼女に取り憑いた占いの霊がパウロ一行に出会ったということです。彼女は「この人たちは、いと高き神の僕で、みなさんに救いの道を述べ伝えている」と叫び始めます。
パウロの事を広告してくれるようなものですから、ある意味で有り難いような気もするのですが、パウロはかなり困ったようです。パウロと出会った安息日以降、毎日毎日彼女がそのように叫びながら着いて来るものですから、パウロは「たまりかねて振り向き」彼女に取り憑いたピュトーンの霊を追い出します。
ルカ福音書4章にある奇跡物語を思い出しておられることと思います。今日の物語も同じです。パウロが神のしもべであることは、パウロ自身の語る言葉と行動によって示され証しされなければならないのであって、占いの霊によって暴露されてはならないのです。ですからパウロはピュトーンの霊に向かって「出て行け」と命じます。ただ、当然ながらパウロは自分自身の名前や力ではなく、「イエスの名によって」追い出すことになります。「すると即座に、霊が彼女から出ていった」とルカは記します。
占いの例が出て行ってしまったのですから、彼女は占い(予言)の力を失います。いつ気がついたのでしょうか。このことを彼女の主人たちはどのように知ったのでしょうか。
この女奴隷については、パウロが人々に救いをもたらすと叫んでいたにもかかわらず、彼女が救われたという記事はなく、彼女がリディアのように何かの働きをしたという記事もありません。聖書以外の伝承もありません。
おそらく彼女は、主人たちから捨てられ、放り出されたのでありましょう。ルカにとってリディアはその物語の主人公あるいは副主人公ですが、この少女は物語の脇役に過ぎないようです。この物語の主役はあくまでパウロであり、この物語は彼女が悪霊から解放される物語なのではなく、パウロが悪霊を追い出す物語なのです(もちろん影の主役は神です)。彼女のその後の人生についてはルカはまるで関心がありません。主人たちだけでなく、ルカにも使い捨てられたようで、ちょっとかわいそうな気がします。
彼女の主人たちはパウロとシラスを捕まえます。捕まえた、と簡単に書かれておりますが、彼女から話を聞いて激怒した男たちが興奮して町中を走り回り、パウロたちを探す景色が目に浮かびます。パウロとシラスは手荒い扱いを受けたような気がします。ただ、パウロにしてみれば、広場は公の裁判の場ですから彼らの屋敷に連行されるよりは助かったと思ったかもしれません。
広場で彼らはパウロたちがフィリピの町を混乱させていると主張し、パウロとシラスは鞭で打たれて牢に入れられます。
実はパウロ書簡であるフィリピ書にはリディアのことは出てきません。この若い女性もフィリピ書には出てきません。しかし彼女が占いの霊に取り憑かれて叫んでいたことは、パウロたちが神のしもべであることでした。「神の僕」という時のしもべ(ドゥーロス)には奴隷の意味もあります。この女性のことはドゥーロスの女性形ではなく先述のパイディスケーが使われます。それでも、その時に語ったことを奴隷である彼女が無意識の中にも覚えていたとすれば、彼女自身の中で「神の僕」という言葉はとても響いてくるものがあったはずです。
彼女に「神の僕」と語らせた占いの霊自身は自分が神のしもべになるつもりはありませんでした。だからこそ、17節を見ますと「みなさんに」救いを伝える神のしもべ、と他人事のように叫びます。しかし彼女の中では他人事ではなかったことでしょう。
そのように考えていきますと、彼女はパウロによって占いの霊から解放された時、パウロの持つ力やその教えに強く引かれたことでしょう。占いの霊による奴隷の境遇から神の奴隷へ、彼女にとってそれはとても自然な成り行きであるように思います。ルカは何も記しておりませんけれども、彼女もまた、救いを得たのではないでしょうか。
今日の物語でルカが示したかったのは、神は奴隷の境遇にある人をも救われる、その人にあった救いの方法を用意してくださる、ということでありましょう。わたしたちのまわりにもまだまだイエスに出会いきれない人が多くいます。しかしその一人一人にあった神との出会いを、神御自身が用意してくださっている。そのことを信じて日々の信仰生活を過ごしてまいりましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年7月24日
聖霊降臨節第8主日
聖書 使徒言行録 16章11-15節
讃美歌21 472、355
「心を開かれたリディア」
パウロ一行はトロアスの港からマケドニアに渡ります。フィリピは「ローマの植民都市」でした。ローマの植民都市は、いわばミニ・ローマです。意図的にローマ風の町を建設したのが植民都市です。日本風に言えば小京都にあたりますでしょうか。いずれローマにも行くつもりのパウロにとって、フィリピはマケドニアの中心的な都市であることと併せて、同時にローマ伝道の感触をつかめる町という思惑があったように思います。
フィリピに到着して何日目かが安息日(土曜日)でありました。13節に「町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った」とあります。これは、ユダヤ教の会堂・シナゴーグがフィリピになかったことを意味します。シナゴーグを建てるためにはユダヤ人の成人男子10名が必要とされます。フィリピに定住するユダヤ人は10家族も居なかった、ということでありましょう。その場合、川沿いに集まって祈る場所が決められたようです。流れる水、活ける水、のある場所に集まるわけです。パウロはフィリピの町中に会堂がないことを確認していたのでありましょう。安息日に歩ける距離には制限がありますから、町の門から遠くなく、安息日に歩いて行ける範囲内の場所で、水が淀んだりせずに流れており、その他にも祈りの場所として適当な諸条件の揃った場所は何処か、と下見をしていたのでありましょう。
安息日にその場所に行きますと、はたして数人の女性が居り、その女性たちに向かってフィリピ伝道の最初の言葉を語った、とルカは記します。何故この時に居たのが女性ばかりであったのか、それは謎でありますが、その女性たちの中にリディアという商人がおりました。リディアは有力な商人の妻とか娘とかではなく、彼女自身が商売をしていたようです。
リディアはティアティラ市出身で紫布を扱う商人であり、神を敬う人でありました。現代でも紫は高級感を表す色です。当時も紫は高い地位や豊かな財産を表す色でした。紫布は貝殻から採れる染料で染めますが、その貝殻がそもそも貴重品であり、染め上がった紫布は大変に高価な品物であった、と言われております。
フィリピの町は退役軍人が多く住む町であったという有力な説があります。だからこそユダヤ人が少なかったり、会堂がなかったりしたのであろうと考えられております。退役軍人であれば、その地位に応じてそれなりに金持ちな人も居たでしょうし、また軍隊に居た時の地位を退役後も誇示するために紫布のような物を身につけたがる人も多かったのかも知れません。
リディアは活動的な女性であったようです。退役軍人の町にいわばブランド物の高級品を売り込みに行くのです。持ち歩く品物も高価です。売れたら大金を持ち歩くことになります。退役軍人の町だけに町中の治安は良かったとしても、仕入れの行き帰りなどは信頼出来るボディガードを雇っていたことでしょう。
そのような場面を思えば、商売の場面場面で屈強な男たちを相手に堂々渡り合う、体力的にも精神的にもとてもタフな女性を想像します。しかしリディアは強いだけではなく神を敬う女性でもありました。神は彼女の心を開き、パウロの言葉を届かせます。
さらに15節はこう続きます。「彼女も家族の者も洗礼を受けた」。そして「どうぞ私の家に来てお泊まり下さい」と彼女は言います。家族に対してもリディアが主導権を持っております。これは当時のローマ社会ではなかなか考えられないことです。使徒言行録はローマの高級官僚らしいテオフィロ閣下に宛てて書かれています。少なくとも、そのような体裁になっております。ある意味で使徒言行録は、ローマの価値観や物の考え方の中で生活しているテオフィロに向かって、キリスト教徒あるいは初代教会の価値観を説明している文書でもありました。
もちろん、キリスト教に出会う前からリディアは活動的でありました。しかしその彼女を受け入れる価値観をキリスト教は持っている、ということをルカはここで示しているのです。
リディアの家はこの後フィリピにおけるパウロの活動拠点となっていきます。16章まで読み進みますと、パウロは体よくフィリピから追放されてしまいます。その最後にもパウロはリディアの家に立ち寄ります。フィリピ書にはリディアの名前は出て参りませんが、リディアの家がフィリピ教会となったようです。フィリピ教会はパウロの伝道旅行を支える働きをしています。その働きにもリディアが主導的に働いたように思われます。福音書に描かれたイエスの活動も多くの女性の支えがあったようです。今日の日本の教会の姿にも何処か通じるような気がします。
キリスト教の歴史を振り返りますと、ごく初期から現代に至るまで、様々な時代の限界の中にあったことが分かります。しかしそこから一歩前に出て全ての人が救われるところへ近付いていこうとする動きもまた、キリスト教会の歴史の中には常に存在し続けました。男性も女性もなく等しく救われていく、そのような社会の実現に向かって、パウロたちの歩みが進められていました。それはしかしながらパウロの計画ではなく、そこに神の計画が、神の力が、また聖霊が働いていたのです。
それから2000年経った現代においても、神の国が実現したとはとても言えない現実があります。そのこと自体は現実として受けとめつつ、全ての人の救いを、神の国の実現を祈り求め、そのためにできるわたしたちの働きを一つ一つ為してまいりましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年7月17日
聖霊降臨節第7主日
聖書 使徒言行録 16章6-10節
讃美歌21 527、458
「パウロを導く幻」
8節に名前の挙がりましたトロアスは、かつてのトロイアの歴史を受け継ぐ町であり、おそらくはそこに高い誇りを持った町でありました。そのような背景を持つ町にパウロが乗り込みます。
パウロの伝道の多くは、町の会堂・シナゴーグを足掛かりにして行われます。つまり会堂を形成する数のユダヤ人が住んで居る町を目指して移動しています。そしてこの時点まででパウロたちが訪ねましたのは、使徒言行録2章に「どうして私達はめいめいが生まれた国の言葉を聞くのだろう」と記された、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、を含む地域です。この第2回伝道旅行において、先の伝道旅行で訪れた町をめぐったあと、さらに足を延ばそうかと考えた時に、(パウロがペンテコステの出来事をどれだけ知っていたかは判りませんが)これらの地域を巡ろうと考えたことは、とても自然なことでありました。
パウロは聖霊やイエスの霊によって引き留められています。どうやらパウロには人目を憚るような持病があったようです。その持病は、当時の人が見ると悪霊が取り憑いたと理解されるような発作を起こす病気であったと考えられています。
旅の途中に疲れが出て持病が悪化した時などは誰しも弱気になります。ここで聖霊やイエスの霊によって引き留められたというのは、アジア州へ行こうとしたところで発作を起こしてパウロが弱気になったのでありましょう。結局のところ、第2回伝道旅行前半の実際は、病気を抱えながらあちらへ行き、こちらへ行き、という旅であったのかもしれません。
さて、そうこうしながらもパウロ一行はトロアスに到着いたします。先ほども申しましたように、トロアスの人々は町の歴史に誇りを持っていたことでしょう。それはトロアスの守護神(アテナ)への信仰と一体のものであったはずです。しかも現代とは異なり、ギリシャ・ローマ神話の神々への信仰がリアルに生きていた時代です。ギリシャ神話の神々への信仰とダイレクトに結びついた、有名な歴史の舞台であるトロアスは、パウロとしてはとてもやりにくい町であったことでしょう。病気のために弱気になっていたのか、それともやりにくい町だからこそ、ここで宣教するぞ、と思っていたのか、ところがトロアスに着いた途端、パウロは夢に幻を見ます。
トロアスまでの道程でも、さて次は何処に向かおうか、と祈りながら思案していたに違いありません。夢に見たその幻はパウロに対してマケドニアに来てくれ、と頼みます。
マケドニアはアレキサンダー大王の出身地です。ギリシャ本土から見れば周辺国です。しかしアレキサンダーが史上最大の帝国を遺したことで、ヘレニズムの時代が始まり、ローマ帝国もギリシャ文化の影響を強く受けています。
パウロとしては、トロアスの人々の誇り高さに手強さを感じつつも、しかしいずれはヘレニズム文化の中心地であるギリシャへも行かねばならない。それが自分の務めだ。異邦人伝道という努めは、ヘレニズム文化の中心であるギリシャにも、政治の中心であるローマにも届かねばならない、と考えていたのでありましょう。祈りつつ考えつつ迷っていたその時に、マケドニア人の幻が現れたのでした。
パウロとしては、マケドニアを足掛かりにしてギリシャへというコースをすでに考えていたことでありましょう。この時、パウロは直ちにマケドニアへ行く準備を始めた、とルカは記します。次は何処へ行こうかと迷いながらも、ギリシャあるいはマケドニアがパウロの視野にすでに入っていたからこそ、すぐに出発できたのでしょう。パウロにすれば迷いの中でのそれまでの様々なことが腑に落ちた、あるいは我が意を得た、という思いであったかもしれません。
パウロの行く手を阻んだのが聖霊でありイエスの霊であったのとは異なり、ここで現れたのはマケドニア人の幻でした。
パウロはここで幻によって行くべき道を示されました。そのためでしょうか。ルカはここで「神が我々をマケドニアに招いた」と断定せずに、そのように「確信した」と書いております。パウロは迷いつつ、なぜアジア州へ行けないのか、どういうことですか?と祈りの中で問い続けていたのでしょう。その時に、マケドニア人の幻を見るのです。あるいは、この時に振り返ってようやくあれはサタンの妨げでなどはなく聖霊がアジア行きを妨げたのだ、と判ったのかもしれません。
アジア州にせよビティニア州にせよ、時と人を得て、あらためて伝道活動が行われております。ただ、この時はパウロにとってマケドニアへ行くことの方が神によって示された道であり、結果的にそれがより大きな働きとなったのでありました。
そこには行き先を尋ね求めるパウロの必死な祈りがありました。心からの神への問い掛けを持ってこそ、道が示されるのかもしれません。わたしたちも一見、災いの中にあるような時、あるいは、行くべき道に迷うような時、示されるまで祈り求めたいものです。
またその示された道に気付く心を持ち、その示しに従う信仰をもちたいものです。そこに現代も働く聖霊の働きがあるように思えます。聖霊の働きと導きを信じて、神によって示された道を見いだして、歩みを重ねてまいりましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年7月10日
聖霊降臨節第6主日
聖書 使徒言行録 16章1-5節
讃美歌21 6、412
「こうして強められた」
第2回伝道旅行の出発に当たってパウロとバルナバの間で意見が衝突します。バルナバがマルコを連れてキプロスに渡り、パウロはシラスを連れて陸路を行き、どちらも先の第1回伝道旅行で訪ねた教会を目指して旅を始めます。おそらくはリストラの町で、パウロとシラスには、さらに同伴者としてテモテという信頼できる若者が与えられます。テモテはパウロが書いた手紙の中に、手紙の共同差出人として名前が何回か挙がっております。パウロから信頼されていた人物でした。パウロもその手紙でテモテのことを特に「同労者」(1テサロニケ3:3など)と呼んでおります。
テモテについては「ユダヤ婦人の子でギリシャ人を父に持つ」と書かれております。当時の習慣では、母親がユダヤ人であれば父親が異邦人でも、その子どもはユダヤ人として認められます。ただし男性は割礼が必要です。
パウロの伝道活動はどの町でもユダヤ教の会堂であるシナゴーグをまず最初に訪ねております。ところがやがてはイエスをメシアと認めない一部のユダヤ人達と対立して追い出され、シナゴーグの外に教会としての集まりを作ってゆきます。この時代にはまだ教会という建物はありません。有力な信徒の家が教会として、集まる場所として使われていきます。教会を意味するギリシャ語のエクレシアが元来は集会を意味する言葉であったのはそのようなところから来ています。
すると、その時にパウロが連れ歩いている人物が異邦人であるとなるとやはり何かと不都合なことが出てきます。律法の規定に厳密な人々から見れば、テモテが未割礼であるというだけで、エルサレム会議で問題になったような、異邦人とは一緒に食事出来ない、という問題が起こってくるわけです。パウロはそのような律法の規定を乗り越えていくわけですが、どうやら無用の摩擦を避けるために、テモテを文句のないユダヤ人に仕立て上げた。そのために割礼を施した、とルカは記すのです。テモテにしてみれば今更割礼ですか?ということになりますので、本当はかなり迷惑なことであったかもしれません。
ところで使徒言行録を見ておりますと、ユダヤ人の信頼を得て、シナゴーグにも出入りしている異邦人が出て参ります。中には割礼は受けていないけど、イスラエルの神を信じている、と紹介される人もいます。そのような人を「神を畏れる異邦人」と呼んでおりました。ですから、割礼を受ける前のテモテはユダヤ人のような、神を畏れる異邦人のような、微妙なところであったのです。
ところが実はテモテという名前は「神を畏れる者」「神を畏敬する者」という意味のギリシャ語なのです。原文で見ますと彼の名前はティモテオスです。 timo + theos ですからカナ文字で書いた時の3文字目のテがテオスのテです。あるいは、テモテの父親自身が神を畏れる異邦人の一人であったのかもしれません。そのテモテがパウロに出会います。そしてイスラエルの神ヤハウェを信じるだけではなく、イエスを信じる人となり、そしてパウロの重要な「同労者」になってゆくのです。
テモテを一行に加えたのはリストラの町であったようですが、既にテモテはリストラとイコニオンの教会の中でよく知られていた、「評判の良い」人物であったと書かれています。後々のテモテの活躍を先取りするような様々な良い働きをリストラの教会の中で行っていたのでありましょう。ここでテモテが一行に加わったのは偶然とかパウロの苦し紛れとかではありません。
一つにはパウロがかつて蒔いた信仰の種が育ったということでもあり、また何よりもその種を育てた神の力が背後にあります。さらに言えば、これはなかなかわたしたちが実感することが少ないのかもしれませんが、必要な時に応じて働き手が与えられる、ということでもあるでしょう。その意味では、バルナバも、パウロからすれば、必要な時に神から遣わされた人であったと言えましょう。
そして最後にもう一つ、これは直接書かれてはいませんが、見落としてはならないことがあります。それは、パウロが各地の教会を訪問する、そのこと自体が持つ力、信仰のエネルギー、でありましょう。教区や地区の集会で他の教会を訪問しますと、離れた場所に居て日常会うことのない人たち、牧師であれ信徒であれ同じことですが、その人たちとの交流によって多くの信仰的・霊的なエネルギーをいただくことができます。パウロの時代の人たちも同じでありましょう。しかも訪ねてくるのがとてもエネルギッシュなパウロなのです。
5節には「こうして教会は信仰を強められ」て人数が増えていった、と書かれています。原文では複数形ですから、諸教会は信仰を強められたのです。教会の一つ一つが、パウロの訪問によってそれぞれの場において信仰を強められた。そして一つ一つが大きくなっていった、とルカは主張します。
パウロの伝道はキプロス伝道のためにバルナバが与えられ、今度はシラスとテモテという同労者を与えられ、各地の教会に信仰のエネルギーを注ぎながら、そしてパウロ自身もまた諸教会との交流によって祈りと力を得ながら、山を越え谷を越えて、次の町へと進んでいきます。次の町ではいったい何が起こるのか、どんな人に出会っていくのか、その背後に神のどんな思いがあるのか、次週もまたパウロの伝道旅行を読み進んでまいりましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年7月3日
聖霊降臨節第5主日
聖書 使徒言行録 15章30-41節
讃美歌21 6、405、81
「主の恵みにゆだねられて」
パウロがサウロと名乗っておりました頃、彼は初代教会の迫害者として有名でありました。そのサウロが復活のイエスに出会って人生が変わります。いわゆるパウロの回心です。エルサレム教会の人々は、迫害者サウロがイエスを信じるようになったと聞いて警戒いたします。そこで、エルサレム教会の人々に対してパウロの人物保証をしたのがバルナバでありました。
その後、バルナバとパウロは第1回の伝道旅行に出かけます。ルカの書いた使徒言行録の記事を信じるかぎりは、エルサレム教会があまり異邦人伝道には熱心でなかったのに比べて、パウロの本拠地でありましたアンティオキア教会は大変に熱心に外の世界に目を向けていたようです。
ローマ社会の中に住む異邦人信徒が増えてきますと、割礼に代表される律法をどの程度守るのか?ということが大きな問題になっていきます。そこでエルサレムの使徒会議が開かれます。
その会議のためにパウロとバルナバはエルサレムに向かい、またその結果をもってアンティオキア教会に帰って参ります。会議の結論としては、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉とみだらな行いとを避けるように」ということでありました。これらの禁令は元をただせばイスラエルに住む寄留の外国人に対して言われていたことでした。つまりユダヤ人ではないが、ユダヤ人と共に生活する人達に向かって求められて生活上のルールでした。そのルールが援用されたことはパウロにせよアンティオキア教会の人々にせよ、すぐに判ったはずです。一方で、ローマ社会に住む異邦人信徒にとっては、この禁令を守ることは簡単ではなかったと考えられます。
パウロとバルナバはアンティオキア教会に帰ってきた後、ほどなくして次の伝道旅行に出ることを計画いたします。パウロの言葉に依れば、先の伝道旅行で訪問した教会、あるいはパウロたちが建てた教会をもう一度訪問しようというのです。エルサレム会議の結論は、各地の教会には手紙などで知らされていたでしょうけれども、途中経過や詳しいことなどをパウロ自身が説明することも訪問の目的に含まれていたと考えられます。
しかし、具体的な準備に入ったところでパウロとバルナバの意見の違いが表面化します。元々バルナバの方が年長者でありました。しかもエルサレム教会に対してパウロの保証人となってくれた、いわば大恩人であるわけです。ところがパウロとバルナバの間に激しい意見の衝突が起こります。
ルカが書いた事だけを見ますと、パウロとバルナバの意見が対立したのは第1回の伝道旅行に連れて行ったマルコと呼ばれるヨハネを連れて行くかどうか、であると読めます。実際にはその他にも、バルナバとパウロの間には、先のエルサレム会議で問題になった律法を守るかどうかという事についての見解にかなり温度差があったようです。
結局のところ、パウロとバルナバの間にある意見の対立は埋められず、この第2回の伝道旅行以降、2人が別々に行動したのは確かなようです。そして、バルナバはマルコを連れてキプロス島に向かいます。パウロの第1回伝道旅行は、実際にはパウロよりもバルナバが中心となって行われております。おそらくは、バルナバに土地勘がある事を頼りにして、バルナバの出身地キプロスへ向かったのでした。第2回伝道旅行は、結局のところ、先の伝道旅行の前半部分をバルナバが再訪問し、後半部分をパウロが担当するということに決まります。
パウロはシラスを相棒に選び、彼らはアンティオキア教会の人達に見送られて出発し、シリア州やキリキア州の教会を訪問します。彼らは「主の恵みにゆだねられて」出発します。第2回伝道旅行のはじまりでありました。このあと、実際には第1回の範囲を超えてもっと西まで足を延ばします。
パウロとバルナバの間に激論があったのは確かなようです。しかし2人はケンカ別れしたのではありません。ルカはこの事件以降のバルナバとキプロス島の教会の消息を記しておりません。ところが使徒言行録以外の様々な資料や伝承によれば、バルナバもキプロスの教会も、このあとも活動を続けます。パウロを中心に使徒言行録を書こうと考えたルカが、バルナバについて書かなかっただけなのです。
そう思いながらこの箇所を読んでみますと、パウロとバルナバ、2人の意見の対立が結局は二手に分かれての伝道活動に繋がったのだ、ということに気付かされます。これは何なのでしょうか。
わたしたちはやはりここに聖霊の働きを見るべきでありましょう。2人の激論のそのさなかにも働く聖霊、そして聖霊によってそれぞれの働くべき場所が示されるパウロとバルナバ。ルカによればパウロ自身このあとも伝道旅行の途中何度も聖霊から彼方へ行けとかこちらへ行けとか指示されております。バルナバに対しても同様であったことでしょう。
激論をしていたその時、彼らがその聖霊の働きに気付いていたかどうか、どちらかといえば気付いていなかった節が伺えます。わたしたちの信仰生活も同じでありましょう。その時々の聖霊の働きに気付くことなく、しかし聖霊によって見守られ導かれている。主の恵みである聖霊の導きを感じることの難しい時にも、今も続く聖霊の働きを信じて日々の歩みを重ねて参りましょう。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年6月26日
聖霊降臨節第4主日
聖書 使徒言行録 15章13-22節
讃美歌21 211、507
「ヤコブの答え」
エルサレム使徒会議の要点は異邦人信徒に割礼すなわち律法遵守を求めるのか求めないのか、でありました。議論が平行線をたどる中、ペトロはコルネリウスが聖霊を受けた出来事を語ります。エルサレム教会の人がよく知る話です。人々はあらためてパウロとバルナバの話に耳を傾けます。続いてヤコブが話し始めます。
ヤコブは10年前の出来事を預言者アモスの言葉によって追認します。アモス書9章はイスラエルへの裁きとエルサレム神殿崩壊の預言に続くイスラエル回復の預言の一部です。アモスはここで、異邦人が改宗してイスラエルの民になって主の名を呼ぶのではなく、異邦人が異邦人のままに主の名を呼ぶ、と預言しています。エルサレム会議の問題に即せば、異邦人が割礼のないままに主を礼拝する主の民となる、とアモスは語るのです。
ヤコブは続けます。「神に立ち返る異邦人を悩ませてはなりません」「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」。もっとも、これで異邦人信徒の立場が万全なものになったわけではありません。
この4つの禁令はヤコブの独創ではなく、レビ記の17~18章では、イスラエルに寄留する異邦人にほぼ同じことが求められています。つまり「イスラエルに住むかぎりは、(律法全部を守れなくても)これだけは守ってほしい」と考えられていた規定です。ヤコブはイスラエルに住む外国人に対して適用される律法の規定をここで引用しています。言い換えれば、異邦人信徒はイスラエルの寄留者と同じ立場なのだ、と判断しているのです。
このヤコブの判断に対して厳しい批判をすれば、異邦人信徒はいわば2流の信徒なのだと見るエルサレム教会の目線をヤコブが肯定したことにもなります。あるいはヤコブ自身もそのような思いから自由ではなかったのかもしれません。
一方で、ヤコブの判断を好意的に受け取るならば、次のように考えることもできます。パウロの伝道旅行の記事を読みますと、多くの町でパウロはユダヤ教の会堂に行って教えを述べています。異邦人信徒の多くは何らかの形でユダヤ教とすでに関わりを持ち、すでに部分的には律法の教えを受け入れている人たちであった可能性が高いのです。するとこれらの禁令は、すでに異邦人信徒が心掛けていた律法の一部を再確認したものなのかもしれません。
しかし、レビ記の禁令はイスラエルに住む異邦人に向けたものであり、一方で、エルサレム会議はローマ社会の異邦人信徒に向けたものです。彼らが禁令を守ることは簡単ではありません。
4つの禁令の中身から食事に関する規定を見てみましょう。これらは当時としては具体的な祭儀規定、毎日の食事に密着した規定でありました。当時も今も、ユダヤの食事は、律法の規定によって「清浄・清い」と認められた食材を、定められた方法で調理します。そして食材と同じように、集まる人自身も律法に即した生活をすることで清浄と認められた人が集まって食事します。異邦人と共に食事をすることや、異邦人の調理方法による食事ということは、ユダヤ人には考えられないことでありました。
初代教会では、それに加えて、イエスの死と復活を思い起こす食事、すなわち今で言うところの聖餐や愛餐の意味合いが含まれるようになります。彼らにとって食事を共にできるかどうかは、社交的な問題ではなく、極めて宗教的な問題だったのです。ヤコブの出した調停案は食事すなわち愛餐を共にするための規定でありました。裏返せば、今から2000年前の初代教会において、ユダヤ人信徒と異邦人信徒が愛餐を共にできないという大きな問題を抱えていたことを、この4つの禁令が物語っています。
異邦人信徒としては、住む町にユダヤ教の会堂があるくらいですからユダヤ人向けの食材は普段でも手に入るでしょう。少し無理をすれば、普段の生活でもユダヤ人向けの食材だけを使い、ユダヤ人信徒と共に食事をすることは不可能ではありません。
しかし、仕事や近所付き合いの関係でユダヤ教の会堂とは関係ない人と食事する時は「絞め殺した動物の肉」が食材になります。異邦人信徒の側からすれば、そのような会食を全面禁止されては仕事にも近所付き合いにも支障を来します。ヤコブは「神に立ち返る異邦人を悩ませてはなりません」と言っておりますけれども、悩みはなくなっておりません。自分たちはユダヤ教に改宗したのではなくイエスを信じたのだ。割礼のことだけじゃないよ、という不満はこの後も残ったように思われます。あるいはそれだけに、イエスを信じることによる救いは、ユダヤ人信徒よりも異邦人信徒の方が実感していたかもしれません。
イエスの恵みと救いと祝福を信じることの大切さを確認したエルサレム会議ですが、同時に、日々の生活の中で信じて生きることの大変さを確認した会議でもあったようです。私たちに直接向けられた禁令ではありませんけれども、それを遵守することのの大変さは現代に通じるものがあります。
イエスを主と信じて生きていく生活の中にも、わたしたち一人一人に人それぞれの困難があり、乗り越えなければならない壁があり、努力の積み重ねがあります。焦らず怠らず信仰を保ち、信仰を養っていきたい。日々の生活を積み重ねる中で、イエスの救いと恵みの福音を繰り返して何度も再確認して参りましょう。イエスの福音の祝福こそは、どのような時にあっても、わたしたちが生きていく力の源となるのです。
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年6月12日
聖霊降臨節第2主日、三位一体主日
聖書 使徒言行録 15章6-13節
讃美歌21 564、552
「イエスの恵みによって」
パウロたちの居たアンティオキア教会に、異邦人も割礼を受けるべきだと主張する人たちがエルサレムから来て混乱が起こります。議論が収まらず、エルサレムのペトロたちの意見を仰ぐことになります。いわゆるエルサレム使徒会議です。
パウロたちが異邦人には割礼不要と考えたことにはいくつかの理由があるでしょう。
ひとつには、パウロはディアスポラのユダヤ人でした。異邦人たちの中で生活しております。ギリシャ人やローマ人にすれば、割礼は奇妙な慣習であることを身に染みて知っております。子供時代に割礼をからかわれたりもしたでしょう。異邦人にイエスの救いを伝えても割礼を求めた途端にそっぽを向かれるだろう、という現実的な判断がありました。
もうひとつには、パウロは自分はファリサイ派だという意識を持ち続けています。律法を守りに守って、それでも救いに手が届いた自信がなかったのではないでしょうか。しかし、復活のイエスに出会ってこれこそ神の救いだと思い、その結果、律法という手順をスキップしてイエスを信じることを重んじるのです。
エルサレムでは双方の主張がぶつかります。現代のわたしたちもしばしば経験することですが、どちらの主張にも一理あるのです。それだけに議論は平行線をたどります。
ついにペトロが語り始めます。ペトロが「神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさった」と語るのは、その会議からおよそ10年前の出来事です。10章の記事を振り返っておきましょう。
ペトロがヤッファの町に居る時に幻を見ます。天から大きな風呂敷が降りてきます。風呂敷の中には律法では食べてはいけないとされた動物も入っています。天からの声が「これを屠って食べよ」と聞こえます。「できません」とペトロは答えます。ところが天からの声が「神が清めたものを清くないと言うな」と切り返してきます。それでもペトロが「いや、これは食べられません」と答えますと、その風呂敷は再び天に挙げられます。
その時、コルネリウスからの使いがペトロを捜し当てます。コルネリウスはローマ軍の百人隊長でした。ペトロは先ほどの幻のことがありますから、戸惑いつつも彼らと共にカイサリアに行きます。イエスについてコルネリウスたちに語っている間に彼らに聖霊が降ります。その様子を見たペトロは、神が異邦人にも聖霊をくだされたのを我々は見たと言って彼らに洗礼を授けます。
ペトロはこの出来事をただちにエルサレム教会に報告しております。ペトロはエルサレム教会の人々にその出来事を思い起こさせようとしています。
これは弟子集団のトップであるペトロの(しかも実体験に基づく)言葉であるだけにやはり大変な重みを持っておりました。ペトロ自身はパウロのように割礼不要とまで言い切るつもりはなく、しかしながら「律法の全てを守ることは難しいだろう」と考えていたように思えます。
福音書を振り返りますと、ペトロがイエスの弟子となった時、ルカ福音書だけがペトロに「わたしは罪深い者なのです」と言わせています。それはつまり律法を自分は守り切れていないという告白でもあります。自分たちは実際には律法を守りきれなかったじゃないかというペトロの指摘はエルサレム教会の人たちにとって厳しいものでした。ペトロはそんなこと言うけどオレは守ってたぞと言い切れる人は居なかったことでしょう。
その指摘に続いてペトロは「あなたがたは神を試みるのか」とたたみかけます。さらに「わたしたちは主イエスの恵みによって救われると信じている」と駄目押しをするのです。律法を守りきれなくても自分たちはイエスの恵みによって救われているではないか、それならばイエスを信じる異邦人も同じであろう。すでに10年も前から異邦人もイエスの恵みによって救われている。その事実をないがしろにするべきではない、とペトロは言うのです。このあたりはパウロも多いに賛成した部分でありましょう。
ペトロの話を聞いてしまえばパウロの話も真剣に聞かざるを得なくなります。ちゃんと聞いてみると、それはそれで筋が通っているようにも聞こえるというところであったのでしょう。その話を聞いてついにヤコブが妥協案を話し始めます。
今日のポイントは、ペトロが実際の体験に基づいて、律法よりもイエスの恵みによって自分たちは救われているのだ、と宣言したことです。イエスの直弟子集団の中でも一番弟子とされて一目置かれていたペトロの体験であり宣言です。初代教会の中ではこれは大変に重みのある発言でした。実際、この時点ではパウロが何を言ったところでさほどの重みはなく、遠くで頑張っているやつが何かややこしいことを言い出した程度のことです。ペトロの宣言によって、異邦人への割礼不要という方向性が現実のものとなります。これは教会が大きく変わる決定的な転換点でした。
わたしたちもまた、律法を通してではなく、イエスの恵みによって、全ての造り主である神との関係を確かなものとされ、人生の道筋を与えられています。主イエスの導きを信じ、いつも御名を呼び続けるものでありたい。主を信じ、主に従って、毎日を生きて参りましょう。
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