マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年5月29日
復活節第7主日 主日主題:キリストの昇天
聖書 ルカによる福音書 24章44-53節
讃美歌21 18、352
「主の証し人として」
先週木曜日は今年の昇天木曜日でした。そして来週は今年度のペンテコステです。御復活と御昇天と聖霊の降臨は密接に繋がる一連の出来事です。物語の時間を一度戻しましょう。
イースターの日の午後、エルサレムからエマオに向かう2人の弟子の前に復活のイエスが現れます。2人の弟子は急いでエルサレムに戻ります。エルサレムではあらためて食事の準備が成されます。それが焼き魚の夕食でありました。魚だけということはないでしょう。パンも用意されたと見る方が自然です。パンはトーストしたのでしょうか。だとすると、その場にはトーストの匂いと魚を焼く匂いがただよいます。その時、一同の中にイエスが現れ、亡霊かと思っておののく弟子たちに向かってイエスは食べ物を要求します。焼いた魚から一切れを取ってイエスに渡しますと、イエスはそれを食べます。
新約聖書では「パンを裂く」という言葉は聖餐式に繋がる特別な用語として使われています。弟子たちが魚を裂いたとは書いていないのですが、「魚を一切れ」と書くところにルカはそのあたりを意識しているような気がします。一方で、ここでは弟子たちがパンを裂いたとは書かれません。これは聖霊降臨の前と後をルカが意識しているようにも思えます。
その時なのでしょうか、それとは別の時なのでしょうか。
イエスが弟子たちに言います。御自分について「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は全て実現する」。律法と預言書と詩編とは、わたしたちの言うところの旧約聖書のことですが、当時の人々にはそれが聖書でありました。
聖書がイエスについて書いていることは全て実現する、とイエス自身が語るのです。旧約聖書全体の大きな流れは、創造者である神が御自分の作品である人間に向き合ってきた歴史です。ちょっと気を許すとすぐに神の事を忘れてしまう人間を、繰り返し繰り返し神が自分の方に向き直させようとしてきた物語です。その大きな流れの一つの頂点として、イエスが神の子としてこの世に現れるのです。主の御受難も人間が神の事を忘れてしまう姿を描きます。主の御復活は神が人間を自分の方に向き直させようとした出来事でありました。
そして原文を見ますと、先々週のザアカイ物語のキーワードがここでも使われております。イエスについて書かれた事は実現しなければならない、実現するのは神の御心である、というニュアンスを持つ言葉が使われています。
弟子たちはこれらのことの証人となる、とイエスは言います。弟子たちの果たすべき務め、担うべき使命がここで語られています。その弟子たちの使命についての二重カギ括弧の掛かり方をよく見てください。主の御受難と御復活の証人となる事はもちろんなのですが、興味深いのは後半です。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられ」ていることの証人となるように命じられています。宣べ伝えなさい、ではなく、宣べ伝えられていることの証人となりなさい、なのです。
もちろん、目に見える宣教の働きは弟子たちが行います。そのことを互いに証言しなさい、ということもあるでしょう。しかし、それと同時に、その働きは聖霊の後押しによって成るものであり、究極的には神御自身の働きである、神御自身の働きを証言しなさい、ということでありましょう。
来週に読みます聖霊降臨の物語を先回りいたしますと、聖霊降臨のその日、弟子たちが聖霊に満たされて、聖霊の促しに依って、力を得て語り始めるのは、これは確かに神御自身が働いておられることなのです。
2000年後の弟子であり、神の民であるわたしたちも、聖霊に押し出されて派遣されていきます。その点では古の弟子たちと変わりません。
すでにイザヤはそのことを預言しています。(49:6-9)
神の招きあってこそ、神の働きかけあってこそ、神に立ち帰ることができる。とイザヤは語ります。ルカはもちろんイザヤの預言を思い起こしていたことでありましょう。
弟子たちが、そしてわたしたちが、語り継がねばならないのは、主の御受難と御復活であり、そのことを含めた、神御自身のわたしたちへの働きかけです。すぐに神を忘れてしまう人間に働きかけ続ける、全ての人を救いへと導こうとする神の思いを、語り継がねばなりません。主の御復活はその働きかけの重要なひとつでありました。
主の宣教命令と祝福を受けた弟子たちは、エルサレムに戻り、神を絶えずほめたたえ、聖霊の降臨を待ちます。
わたしたちは、2000年前の弟子たちのような劇的な形で聖霊を受ける事はないかもしれません。それでもわたしたちは、主によって祝福された神の民であり、イエスの出来事の証人です。日々、聖霊に押し出されて、心を高く上げて主の証人としての歩みを重ねて参りましょう。
合わせて読みたい
ダニエル書 7:13-14、使徒言行録 1:1-11、詩編 47:2-10
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年5月22日
復活節第6主日 主日主題:信仰に報いる主
聖書 ルカによる福音書 7章1-10節
讃美歌21 505、560
「イエスを主と呼ぶ歩みを」
カファルナウムに帰ってきたイエスの前に町の長老たちが現れ、ひとつの頼み事をします。長老たちの熱心な言葉を聞いたイエスは彼らと一緒に百人隊長の家に向かいます。ところが途中で、その百人隊長の友人たちが一行を出迎えます。友人というからにはローマ人かギリシャ人でありましょう。イエスの一行を目指して近づいてくるのが彼の友人たちであることは、一緒に歩いていた長老たちがすぐに気付きます。その友人たちも、長老たちを見て、それがイエスの一行であることに気付きます。
最初に友人ではなく町の長老を送っていやしを願うことからは、百人隊長自身が、異邦人であり支配者であるローマ人の頼みは聞いてもらえないかもしれないと思っていたことが窺えます。しかし、すでに気持ちを動かしてくれた後でなら、ローマ人の話しも聞いてくれるだろう、と思ったのでありましょう。
ルカ福音書の奇跡物語を見ていきますと、いやしの奇跡を求める人とイエスとの間に、いやされる人を助ける誰かが入ってくることがあります。その誰かの役割が実はけっこう大きく描かれます。ルカ福音書5章「中風の人のいやし」奇跡物語で、運んできた人たちの思いを書き記しているのはルカ福音書だけです。
今日の物語でもマタイ福音書には町の長老たちやローマ人とおぼしき友人たちは登場しません。ルカ福音書では、長老たちの働きかけがあり、友人たちの仲立ちがあります。友人たちは百人隊長の言葉を伝えます。長老たちがイエスに語ったのは、もっぱら自分たちの目から見た百人隊長でした。
ところが、次に現れた友人たちは百人隊長自身の言葉を詳しく伝えます。それは厳しい規律を重んじる有能なローマの軍人らしい言葉であり、それが同時にイエスへの信頼を表す言葉でありました。
彼はこういう事を言うわけです。
自分はローマの軍人として権威とは何であるかを充分に承知しています。自分には上官が居て、その命令は絶対です。自分には部下の兵隊や家の奴隷が居て、兵隊や奴隷にとって、わたしの命令は絶対です。それが権威というものだと承知しています。
あなたの言葉にも権威があります。一言、その権威ある言葉をいただければ、その言葉によってわたしの僕はいやされます。
原文を見ますと、この最後の部分は命令形になっています。そこだけ直訳しますと、「あなたが言葉で語れ。そして、わたしの僕がいやされよ」となります。
わたしたちの感覚では、イエスに対して命令形で語るのか?と思いますが、そのあたりが日本語とはいささか感覚の違うところです。むしろその命令形の表現が、あなたの言葉によってわたしの僕がいやされます、という絶対的な信頼と信仰を表す表現となっているのです。
そう考えていきますと、伝えられた百人隊長の言葉の冒頭、彼が「主よ」と呼び掛けていることの重大さも見えてきます。百人隊長にとって、本来は「主」すなわちキュリオスは、ローマ軍の上官のことであり、究極的にはローマにいる皇帝のことです。皇帝が活き神様として祀られていくのはもう少し後の時代のことですけれども、それにしてもローマの軍人としては、ローマから見れば世界の果ての一歩手前みたいなユダヤ地方の神の預言者をキュリオスと呼んではいけないわけです。
しかし彼はイエスをキュリオスと呼んで、イエスの言葉に絶対的な権威を見、絶大な信頼を示します。彼がどのような切っ掛けでユダヤの神ヤハウェに出会っていったのか、どのような切っ掛けでイエスの評判を聞き、イエスを信頼するに至ったのか、福音書はそのあたりの事情を何も伝えません。しかしながら、神との出会いの結果、彼が得た神への信頼と信仰、そして、イエスを驚かせたイエスに対する彼の深い信頼は、彼の言葉から充分に伝わって参ります。彼自身も彼の僕もイエスに直接会うことなく奇跡が起こり、彼の僕はいやされます。
ルカ福音書の最初の読者たちも、そして現代を生きるわたしたちも、この百人隊長と同じところがあります。わたしたちも聖書の世界の人々から見れば異邦人です。そして、イエスの言葉には出会っていますけれども生身のイエスには会っていません。しかし、イエスの言葉が持つ力については、聞いていますし、信じているわけです。そう考えるならば彼はすべてのキリスト者の信仰を先取りしております。わたしたちも、神の言葉が、そして主の言葉が、力を持っていることを知っています。
現代に於いては、いやしの奇跡はなかなか起こらないかもしれません。わたしたちがいやしの奇跡の起こることを求めても、それは聞き届けられないかもしれません。しかしながら、わたしたちは今日の物語から、この百人隊長が、彼にとっては元来は異国の神に過ぎなかったであろう聖書の神とすてきな出会いを果たしたことを知ります。その出会いに思いを馳せます。わたしたちは一人一人、すでに聖書の神に出会っているのですけれども、神とのさらに素晴らしい出会いを求め、そして彼のように、深い信頼を主に寄せるものとして歩み続けて参りましょう。
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ダニエル書 6:10-23、2テサロニケ書 3:1-5、詩編 34:2-11
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年5月15日
復活節第5主日 主日主題:アブラハムの子
聖書 ルカによる福音書 19章1-10節
讃美歌21 412(昔主イエスの)、520(真実に清く生きたい)
「探し物」
徴税人は神から祝福される仕事とは思われておりません。その税はローマ帝国に納める税金であり、つまりは彼はローマによる支配の手先でありました。いわば民族の裏切り者です。仕事柄ローマ人つまり異邦人に接する機会が多いことも宗教的な清浄の問題につながります。ザアカイ自身はエリコの街中に住んでおりますけど、それでもマチの人からは地域社会の仲間だとは思われていなかったはずです。むしろ、徴税人の頭であるということからは罪人の頭だと思われていたことでありましょう。
町の外で癒しの奇跡を起こしたイエスの一行がエリコの町に入ります。ザアカイもまたナザレのイエスのうわさをすでに聞き込んでおりました。ザアカイの持っていたイエスのイメージを想像すれば、こんな具合になりましょう。
神の国は近づいたと語り、癒しの奇跡を起こし、型破りなメッセージで人々を魅了し、堅苦しい律法学者を言い負かし、それでいて、あいつは罪人の仲間だ、大酒飲みの大飯喰らいだ、と陰口を叩かれたりもする破天荒な預言者、ナザレのイエス。
おそらく、様々なうわさの中でも「あいつは罪人の仲間だ」という陰口がザアカイの心に引っ掛かっております。癒しの奇跡を起こした時に「あなたの罪は赦された」と言ったらしい、なんてこともザアカイの耳に入っていたかもしれません。罪人の頭扱いされているザアカイとしては気になります。見に行こうとします。これが洗礼者ヨハネの一行であったなら、ザアカイは見に行こうと思わなかったことでしょう。
しかし、イエスを見ることは簡単ではありませんでした。町の人たちはザアカイのことを快く思っていません。人垣となった群衆は、この時とばかりザアカイの邪魔をします。人垣に邪魔されたザアカイはイエスの一行に先回りして木に登ります。
やがてイエスが近づくにつれてザアカイの登った木の回りも人だらけになります。ところが、嫌われ者のザアカイがいる、と気付いた人が群衆の中に居たのでしょう。「おい、あの木を見ろ」「ザアカイじゃないか。ザアカイの登った木の下になんか立ちたくないぞ」。そんな遣り取りがいくつもあり、ザアカイの登った木の下だけ人影がまばらになったのでありましょう。その木に誰か嫌われ者が登っていることにイエスが気付きます。そして群衆のつぶやきの中からザアカイの名前を聞き取ります。
木の上に目をやったイエスがザアカイを見つけます。「ザアカイよ、降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まりたい」。
ザアカイは大喜びでイエスを家に迎えます。夕食の席上、ザアカイは律法の定め以上の施しを行うと宣言します。それを聞いたイエスは「この家に救いが来た。ザアカイもまたアブラハムの子なのだから」と言ってザアカイの救いの成立を宣言します。
ザアカイの物語は地域社会から弾き出されていた人が共同体に戻ってくる話です。18章にある盲人の癒しの奇跡と同じです。ザアカイ物語もある種の奇跡物語であると読んでよいのでしょう。
この物語の中心は「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉です。「ぜひ泊まりたい」の部分を直訳しますと、「あなたの家に泊まらなければならない」となります。イエスの一行がザアカイの家に泊まることは神の御心である。神の思いとしてそれは必然的に起こる出来事である。変えることのできない、必ず実現されなければならない出来事である。というニュアンスを持っています。
その言葉を真ん中に挟んで、後ろには「人の子は失われたものを捜して救うために来た」と語るイエスの言葉があります。そして前には、イエスがどんな人かを見ようとしたザアカイが居ます。この部分の原文を直訳しますと、ザアカイはイエスがどんな人かを「見ることを捜した」となります。「泊まらなければならない」を中心において、前と後ろに「捜す」という単語が配置されているのです。
この「捜す」は「熱心に捜す」ニュアンスを含んでいます。イエスを見たいと思うザアカイの気持ちが一通りのものでなかったことを示しております。同時に、イエスが失われたものを捜す思いも一通りではないことを示しております。イエスにとってザアカイは失われた羊でした。なんとしても探し出さなければならない1匹でありました。
こうして見ていきますと「泊まることになっている」というイエスの言葉こそが救いの宣言であることがはっきりします。律法の規定以上の施しによって救いが引き寄せられるのではなく、救われたことの喜びが施しの行いへと結びついていることがわかります。
救いのために必要なのはイエスを探す(熱心に捜す)ことであるとルカは主張します。今日の物語はイエスを探すザアカイとザアカイを探すイエスとの出会いの物語といえるかもしれません。わたしたちもまた、日々にイエスを探し続けたいものです。イエス御自身も、ことあるごとに罪人と言われているわたしたちを今もなお探し続けておられるに違いありません。
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創世記 17:1-10、ローマ書 4:1-12、詩編 37:1-6
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年5月8日
復活節第4主日 主日主題:生命の回復
聖書 ルカによる福音書 7章11-17節
讃美歌21 327、514
「新しいいのちへ」
福音書には死者が生き返る奇跡物語は3つあります。会堂長ヤイロの娘の話はマルコ・マタイ・ルカが記します。ナインの若者の物語はルカだけが記します。ヨハネ福音書ではマルタとマリアの兄弟であるラザロが生き返ります。ラザロの物語と今日の物語は、どちらもイエスの御復活を御受難に先んじて暗示する物語です。一方で、ヤイロの娘の奇跡は癒やしの奇跡の延長線上にあるような印象があります。
その他に聖書全体で探しますと、使徒言行録に2つ。旧約では預言者エリヤやエリシャの物語にあります。
エリヤの物語を振り返って見ましょう。エリヤが王の行いを批判して干ばつを預言します。逆恨みした王はエリヤを指名手配します。エリヤは隣国の町サレプタに逃げ込みます。干ばつは隣国のシドンも襲いました。サレプタで一人のやもめがエリヤと出会います。彼女は手持ちの最後の麦と油で最後のパンを焼き、あとは親子で飢死するのを待つだけと考えていました。その時にエリヤが現れ、水とパンを求めます。彼女はエリヤの無茶な要求を聞き入れ、エリヤをかくまい、彼にパンを提供します。
そこで奇跡が起こります。小麦も油も必要な分だけ毎日与えられたのです。ところがある時、彼女の子どもが病気になり看病の甲斐無く死んでしまいます。リスクを負いながらエリヤをかくまっていたことが無駄になったと思い、彼女はエリヤを責め立てます。エリヤは子どもを抱えて自分に与えられた部屋に入り「この子の命を戻してください」と神に祈ります。
当時読まれていたギリシャ語聖書では、生き返った子どもをエリヤが母親に渡したと書く部分は、ルカ福音書でイエスが若者を母親に返した、と書くところと同じ言葉が使われています。ルカ自身も最初の読者たちも、ナインの町での出来事にエリヤの物語を重ね合わせていたのは間違いないでしょう。
ルカ福音書の物語に戻りましょう。
今日の奇跡物語の特徴の一つは、それがイエスの一方的な働きかけによるものだ、ということです。この点はエリヤの物語とは異なり、誰かがイエスに奇跡を頼み込んだりしてはいません。一方で、それはラザロの物語との共通点の一つとなっています。
ナインという町に入りかけたところでイエスと弟子たちの一行は若者の葬列に出会います。集まっている人も若かったのでしょう。イエスは亡くなったのが若者であると気付きます。母親がやもめであることにも気付きます。
イエスは葬列を見て憐れに思います。奇跡物語にある「憐れに思う」は特別な意味を持ちます。ニュアンスを汲んで日本語に訳すなら、断腸の思い、となりますでしょう。内蔵が揺さぶられるような大きな感情の動きをイエスは感じ、若者に声を掛け、生き返らせます。イエスの言葉が奇跡を起こします。
奇跡を目の当たりにした人々は神を賛美し始めます。人々の賛美の言葉として2つの言葉が記されます。
ひとつには「偉大な預言者がわたしたちの間に現れた」と讃美します。「現れた」は「起こされた」です。日本語にしますと、眠りから起きた、座った状態から立ち上がった、復活した、全てを含む単語です。つまり、そこでイエスが起こした奇跡だけではなく、イエスの復活にも使われる言葉なのです。
ルカはイエスの御復活を暗示しているとみていいでしょう。また、当時の人々がイエスの御受難と御復活までを見通していたわけではないにしても、誰か有名な預言者が生き返ったのがイエスである、と実際に考えていた可能性を伺わせます。それはわたしたちが思う意味でのキリストではないにしても、イエスをメシアあるいはメシアに先立つ預言者と考えていたこと、そして最後の審判の日が近いと考えていたことを意味します。
もうひとつには「神はその民を心にかけてくださった」と賛美します。「民をかえりみてくださった」「民の苦しみに目を留めてくださった」とも訳せましょう。「偉大な預言者が現れた」と同じように最後の審判の信仰につながる言葉です。ローマ帝国という異民族の支配による苦しみをかえりみて、民を解放してくださる、最後の審判が始まって神の国を実現してくださる、その時が近づいた、という賛美の声です。
ですから、人々はこの時、イエスではなく神を賛美するのです。さらには、最後の審判の信仰は、その日、全ての人が生き返り、新しい命が与えられる、と告げます。
この賛美の言葉を記すことは、ルカにとってはとても大切なことでありました。ルカ福音書のクリスマス物語では、洗礼者ヨハネの父ザカリアが「神はその民をかえりみてくださる」と預言します。その預言が成就したことをルカは記すのです。そして、ザカリアの預言も、今日の人々の賛美も、イスラエルに限定されない神の民の救いを語ります。預言者によって語られ、また、イエスによって語られた神の言葉が神の民を救います。それは最後の審判につながる新しい命であり、それと同時に、日々に与えられる、今日という一日を生き抜く命でもあります。
神の言葉をいただき、日々新しい生命をいただき、神を賛美して、日々の歩みを重ねていきましょう。
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エレミヤ書 38:1-13、使徒 20:7-12、詩編 35:1-10
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年5月1日
復活節第3主日 主日主題:復活顕現(2)
聖書 ルカ福音書 24章33-43節
讃美歌21 57、329
「神の平安を」
日曜日の早朝、弟子たちは主の御復活を知らされます。その日の午後、エルサレムからエマオに向かう2人の弟子の前にイエスが現れます。夕暮れになって2人は復活の主であると気付かぬままにイエスを引き止めます。食事をしようとした時に、その人が祝福の祈りを唱えてパンを裂くその様子から彼らの同行者がイエスであったことに気付きます。
2人は急いでエルサレムに引き返します。エルサレムに残っていた他の弟子たちに事の次第を伝えようとしますと、エルサレムの弟子たちも復活した主がペトロに現れた、と言ってざわついておりました。過越祭が終わったから家に帰る、と言ってエルサレムを出たはずの2人の仲間が夜になって戻ってきたのです。しかも、歩いて6時間のエマオ往復の疲れを吹き飛ばすような興奮した様子で帰ってくるのです。エルサレムに残っていた弟子たちはさぞかし驚いたことでありましょう。
夕暮れのエマオから引き返しているのですから、すでに夜です。満月の月明かりを頼りに歩く時刻になります。エルサレムに到着するのは、今の時刻で言えば夜の8時とか9時になっております。彼らが灯りを囲んで熱く語り合っておりますと、そこにイエスが現れ「あなたがたに平和があるように」と語り掛けます。これは当時のごく普通の挨拶の言葉でありました。直訳すれば「平安あれ」という意味です。この時はまだイースターの日の夜です。心騒ぐ弟子たちに必要なのは文字通り平安でありました。ところがその一言が弟子たちの心に届き、弟子たちが平安を得たかと言えば、そうでもないようです。聞き慣れたいつもの挨拶を聞いたのにも関わらず、まだ「恐れおののいた」わけです。やはり弟子たちの心の中の何処かに、主の御復活を信じ切れないものが何某あったのでありましょう。
もっとも、だからこそ、わたしたちは安心できる部分もあります。ここで弟子たちがあっさりとイエスの出現に大喜びしていたら、どうでしょうか。復活ということをなかなかリアルに想像できないわたしたちは本当に途方に暮れてしまうところです。しかし実際には弟子たちですら何度聞かされても信じ切れなかった。しかも目の前にイエスが現れたら、こともあろうに恐れおののいた。幽霊か亡霊だと思った。そんな現実があったのです。そこにこそ、わたしたちは自分自身の姿をこの弟子たちに重ね合わせていけるような気がします。
それにしても、せっかく現れたイエスを見て「亡霊」扱いというのもひどい話しです。イエスも呆れたようです。「わたしの手や足を見なさい。触ってみなさい。亡霊には肉も骨もないが、わたしにはある」と言い始めます。そう言われて弟子たちがイエスを触ろうとしたのかどうか、これはなかなかに興味深いところでありましょう。
イエスは「ここに食べ物があるか」と言い出します。そこで弟子の1人が焼いた魚を差し出すとイエスはそれを食べてみせます。元来のヘブル語には「魚」という単語しかありません。日本語だと鯛とか鮎とか言いたいところですが、そのような種類名がないのです。それは彼らが海の民ではなく陸の民であったことを示します。農業や遊牧を生業とする民であり、ひいては漁師の社会的地位を表しているようでもあります。そこにイエスが漁師を弟子にした強いメッセージを読み取ることができます。
話を焼き魚に戻しますと、焼き魚の匂いがすればこそ、イエスも「なにか食べる物はないのか」と言ったように思えます。エマオから慌てて帰ってきた2人のために、あらためて用意された焼き魚であったのかもしれません。
ただ、その一方で、イエスが食べ物を求めたのは空腹のためであったとは思えません。思い起こせばイエスと弟子たちの集団にとって、共に食事をすることはとても重要なことでありました。最後の晩餐の場面だけではなく、福音書にはイエスが弟子たちと食事をする場面がいくつも書かれております。さらには、イエスの譬え話を見ていきますと、食事の場面や宴会の場面がいくつも出て参ります。御復活のこの時、イエスは共に食事をすることの大切さをあらためて弟子たちに伝えようとしたのでありましょう。それゆえに、最後の晩餐が聖餐式となって今に伝えられているのです。
聖餐式の開式の言葉にはいくつかのバリエーションがありますが、その中に「今から神の民の祝宴が開かれます」という言葉があります。今月は聖餐式を行うことができました。でも来月はどうなるか分かりません。このような状況はしばらくまだ続くことでありましょう。しかしながら、聖餐式のパンと杯に限らず、日常の食事においても、何かを食べることは、神の祝福をいただき、神の平安を受け取り、日々新たに命を与えられ、神の民として、神の国の祝宴につらなることだと言えます。
神の祝福と平安を確かに受け取って復活節の日々を重ねて参りましょう。
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イザヤ書 51:1-6、第1コリント書 15:50-58、詩編 4:2-9
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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2022年4月24日
復活節第2主日 主日主題:復活顕現(1)
聖書 ルカ福音書 24章13-35節
讃美歌21 334、326
「その姿は見えなくなった」
エマオはエルサレムから西に歩いて3時間ぐらいの所にあります。2人の弟子が西の方へと帰るのであれば、ガリラヤ出身ではないように思えます。すると、イエスと、いつ、どこで、出会って弟子になったのか、不思議な2人ではあります。
さて、日曜日の朝早く、御復活が弟子たちに知らされます。そして同じ日の午後、2人の弟子がエルサレムを出てエマオへと歩いております。過越祭は御存知のように巡礼祭です。国中から人が集まりますから、祭が終わりますと帰り道が大混雑します。わたしたちの感覚で言えば、コロナ以来変わりましたけど、GWなどに新幹線や高速道路が大混雑するようなものです。
エマオまで歩いて3時間なのにエマオですでに夕暮れということは、彼らは午後になって、おそらく2時か3時頃になってエルサレムを出ています。中途半端な時間にエルサレムを出て、いささか近すぎるエマオに泊まります。混雑を避けたのでしょうか、あるいは御復活の話題を話し込んでいて出発が遅れたのでしょうか。
その道すがら、エルサレムを出るまでに見聞きした出来事を話題にします。そこに復活のイエスが近付いて一緒に歩き始めます。しかし、彼らの目は遮られておりました。遮られていたとしか言いようがなかったのでありましょう。彼らがイエスの弟子であるならば、過越祭を前にした1週間の間にエルサレムで何度もイエスに会っているはずなのです。それなのに、彼らは一緒に歩いているのがイエスだと気付かなかったのです。
道連れになった人から「何の話をしているのですか?」と問われた2人は、その数日間の出来事を交々話し始めます。どれぐらいの時間、その話を続けたのでありましょうか。ついに彼らは出来事の核心に辿り着きます。23節の後半が物語の核心です。
「そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」と彼らは語ります。翻訳の関係で若干分かり難くなっておりますが、ルカは23節後半の核心部分を中心に、前後対称に言葉や出来事を配置しております。
主の御復活を告げるこの天使の言葉の前後を読み比べますと、直後の24節にある興味深い言葉に気付きます。24節の原文を直訳するとこうなります。「われわれの仲間たちが墓に出て行った、そして女性たちが言ったとおりであることを見出した、しかし彼らは彼に会わなかった。」天使のお告げの前後で、墓へ行った、見出した、の2つの言葉が共通します。
そこに、彼らは彼に会わなかった、と付け加えられているのです。墓に走ったのはペトロだけではなく数人の男の弟子でありました。彼らは空になった墓を確認しようとしただけではなく、復活したイエスに会えるかもしれないと思って墓に向かったことが強く想像できるのです。御復活を確信することができていなくても、「イエスは生きておられる」という天使の言葉に居ても立ってもいられなくなったのでありましょう。
しかしながら、彼らは墓の前で復活したイエスに会うことはできませんでした。弟子たちが復活の主に出会う場所は、墓の前や墓の中なのではなく、聖書の言葉の中であり、共に食卓について、彼らが受け取った裂かれたパンの中でありました。
結局なんだか抽象的な出会い方ではないか、と思われるかもしれませんが、一方で、だからこそ御復活から2000年後のわたしたちもまた御復活の主に出会うことができるのです。
物語の途中部分をもう少し見ていきましょう。
彼に会わなかったと語る2人に対して、イエスは聖書の解き明かしを始めます。イエスの話に耳を傾けていた2人は少しずつ変えられていきます。イエス自身からメシアについて聖書の語るところを聞かされた2人は、エマオに着いた時イエスを無理に引き止めます。イエスが生きているかもしれない、復活は本当かもしれない、と思い始めていたのです。
彼らの揺れる思いが確信に変わる時が来ます。イエスがパンを裂く様子を見、その裂かれたパンを受け取った時、彼らは気付きます。これはイエスと共にした食卓の光景である、前にもこれと全く同じように、祝福されたパンをいただいたではないか。
その時、イエスの姿が見えなくなった、というのは2人の弟子が復活の主とどこで出会うかを悟ったからでありましょう。彼らが導かれる方向がハッキリしたからでありましょう。
2人の弟子のうち名前が残されているのはクレオパだけです。ルカ福音書の最初の読者たちには、クレオパともう1人というだけですぐに分かる2人であったのかもしれません。そしてもうひとつ考えられることには、名前すら残っていないからこそ、彼は2000年後のわたしたち自身でもありえるのです。
わたしたちは、彼と同じように、聖書の言葉の中で、また、裂かれたパンの中で、御復活の主に出会ってゆくのです。弟子たちと御復活の主との出会いを思い起こす主の食卓によって、わたしたち一人一人が、御復活の主との出会いに気付くことができますように。
合わせて読みたい
列王記 下 7:1-16、黙示録 19:6-9、詩編 16:1-11
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主が私たちに平安を賜りますように。