2021年度 復活節の礼拝説教

マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年5月16日
復活節第7主日(キリストの昇天)
聖書 ダニエル書 7章13-14節
讃美歌21 327、336
「キリストの昇天」
先週の木曜日13日はイースターから40日目、今年の昇天木曜日でした。そして昇天木曜日から10日後が聖霊降臨祭となります。御復活からの40日間について、マタイ福音書は「ガリラヤで会える」という天使の言葉を伝えます。ルカ福音書はエルサレムで復活の主に出会い、そのまま聖霊降臨までの日々をエルサレムで過ごしたと匂わせます。どちらであったにせよ、40日目の御昇天は単にイエスが見えなくなってしまうということではなく、預言者たちの伝えた言葉に始まり、誕生の予告(受胎告知)を経て、イエスの誕生、宣教活動、受難、十字架、復活、そして最後の審判へと続く、救いの完成に至るプロセスの一つなのです。
主の御昇天のあとも弟子たちはイエスに従う思いを持ち続け、その信仰によって聖霊を待ち、イエスと一緒に過ごした日々を思い返し、彼ら自身の中で咀嚼し、その日々を彼らの中で本当に息づく日々として、聖霊を受けて立ち上がります。
弟子たちは、主の御不在の中を聖霊に促されて信仰の日々を歩み続けることができました。聖霊の降臨を記念する聖霊降臨祭は来週のことですが、考えてみれば私たちは代々続く主の弟子としてすでに聖霊を受けております。主の御不在の中を聖霊を待っていた弟子たちの思いは、私たちのアドベントに通じるものがあるような気がします。弟子たちの思いに気持ちを馳せながら、私たちも聖霊降臨祭までの日々を過ごしたいものです。
ダニエル書の今日の箇所は、多くの聖書日課において昇天木曜日の箇所とされます。ダニエル書は旧約聖書の中ではかなり遅い時期に記された書物の一つであり、預言書の中に含まれます。ダニエル書の舞台となっている時代はバビロン捕囚の支配者であったバビロニア帝国の時代、舞台となった場所はバビロンの宮廷となっております。実際にはそれから300年ぐらい後に書かれた書物です。バビロン捕囚からの解放は元より、アレキサンダーの大帝国よりも後のヘレニズムの時代です。
ダニエル書の前半6章まではダニエル自身の物語が記されます。大変有名な物語が幾つも含まれます。特定の実在した人物の物語ではなく、それぞれの時代の支配者たちに仕えた有能なユダヤ人たちの事蹟がここに集められているのでありましょう。
7章に入りますとダニエルの見た幻による預言が黙示文学という手法で次々に記されます。黙示でありますからそれを読み解きますと、バビロニア帝国をはじめとする支配者たちの興亡が第1の獣から第4の獣まで獣の姿として記されています。その中で、第4の獣として記される王国が大言壮語して神の悪口を言いふらします。そこで時が至り、神の主催する法廷が開かれ、4つの獣がそれぞれに裁かれます。
神の法廷に置かれた玉座には神が座ります。神の姿は「日の老いたる者」という特別な表現で記されます。この言葉が直接に意味するところは人生の月日を重ねた人のことですが、ここでは神を指します。威厳を持った態度といでたち。髪と髭は真っ白。着ている服も純白にして光り輝いています。
その神の前で4つの獣の行状を記した書物が開かれ、判決が下されてゆきます。これはヤハウェの民の国であるユダヤを支配し、搾取し、民を殺し、それぞれ異国の神を押し付け、王によってはヤハウェへの礼拝を禁じたことに対する裁きでありましょう。もちろん有罪判決が降ります。その裁判の傍聴人あるいは判決の証人として、何千何万もの人が神の前に立っています。
判決が下され、執行された後もなおダニエルが神の法廷を見つめておりますと、神の前に「人の子のような者」が現れます。
「人の子」はエゼキエルがよく使う言葉です。元来は神や天使が啓示を受ける人を指して使います。後にはメシアを意味するようになり、新約聖書ではイエスを指します。
ダニエル書のこの場面を一つの根拠として、新約聖書は神の子イエスに全権が与えられたと語ります。ダニエルは、人の子が神から、「権威、威光、王権を受け、その支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と語ります。一昨年にメサイアを歌われた方はお気付きでありましょう。第3部の最後のコーラスは、ヨハネ黙示録の5章から取られておりましたが、黙示録のその場面はまさにこのダニエル書をふまえているのです。
ヨハネ黙示録はこう記します。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」 「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」 「アーメン」
イエスの昇天は、再臨の時でもある最後の審判を前にして天の法廷にイエスが帰っていくことを意味します。それは、イエスに従う人々にとっては、救いすなわち終末の完成へを目前にした重要なチェックポイントなのです。
私たちは、かつての弟子たちのように、リアルにイエスの声を聞き、食事を共にし、共にガリラヤ地方を歩き、奇跡を目の当たりにすることはできません。それでも、私たちはキリストに出会い、イエスに従った主の弟子です。イエスに従い、聖霊を受けた者として、主の再臨の日に備えて歩み続けて参りましょう。神が私たちの罪ではなく私たちの信仰を顧みて私たちを守り導いてくださいますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年5月9日
復活節第6主日
聖書 創世記 18章23-33節
讃美歌21 358、493
「主のとりなし」
先週のメッセージは神の民とは執り成しを祈る民のことである、でした。今日の物語も執り成しの物語として読むことができます。
いつものように、物語の大きな流れを振り返っておきましょう。
アブラハムは、神の声に従い、妻のサラ、甥のロト、羊飼いたち、家の使用人たち、そして多くの羊を連れて、カナン地方に移住します。子孫と土地を与えると神が約束しましたのに、いっこうに神はその約束を果たしてくれません。それどころか、飢饉を避けてエジプトへ逃げるようなことも起こります。やがて羊が増えますと、羊に与える水や草を巡って家族に内紛が起こります。アブラハムの羊飼いとロトの羊飼いの間で争いが起こるのです。
そこでアブラハムと話し合いのすえ、ロトは死海に近い低地に移住します。低地はヨルダン川の水と青草が手に入るからです。その後、いつの間にかロトはソドムに住み着き、他所者ではあるけれども、豊かな財産を持ち、町の中で力を持った一角の人物として扱われるようになったようです。
ところがソドムは、経済的な繁栄の一方で神の目に適わない町となっておりました。その結果、ソドムとゴモラは今日の物語のすぐ後に神によって滅ぼされます。ソドムの罪が実際には何であったのかは知らされません。かつては、それは男性同性愛のことだと言われておりました。近年では当時の遊牧民文化の研究が進みまして、ソドムの罪とは客人をもてなさなかったところに在るのではないか、とも言われております(cf.エゼキエル 16:49-50. エレミヤ 23:14. )。
いささか先走りました。時間を戻しましょう。それが何であったにせよ、ソドムの悪が神に聞こえてしまい、神は2人の天使を連れて、ソドムの調査のために、そしてあるいは処罰の実行のために、天から降って参ります。その途中、一行はアブラハムのところに立ち寄ります。アブラハムは3人の旅人を見て盛大にもてなします。そのもてなしは、じっくりと時間を掛けた食事・会食です。もてなしの会食の目的の一つは、各地の経済状況や治安情報、各国の政治情報を交換する時でもあったと考えられます。これはお互いの命に関わる情報です。もっとも、難しい話ばかりではなく、即興で謎々の掛け合いをしたり、詩を吟じたり歌を歌ったりする楽しい時でもあったことでしょう。
黙って食事をしろとか、食事の時もマスクをしろとか、昨今言われております私たちから見ると随分と羨ましい話です。人間らしい生活にとっての食事とは栄養補給だけではないですね。
その食事中に神がソドムとゴモラについて尋ね、アブラハムも知っていることを答えたりしたのでありましょう。2人の天使が出発した後、アブラハムが神に問い掛けます。「あなたは本当にソドムを滅ぼすのですか?あの町にも正しい人はいるはずです。正しい人も滅ぼすのですか?それはあなたのなさることとして間違っていませんか?」
神は答えます。「正しい人が50人いたら滅ぼすのをやめよう」。現代人である私たちは、その50人のために悪いヤツが放置されるのもマズイんじゃないの?と思います。とにかく、その答えによってアブラハムは神を交渉に引きずり込みます。50人を45人にし、40人、30人、20人、10人まで減らし、交渉が終わります。
アブラハムはソドムの正しい人の命のために神に願います。信仰的な視点からいえば、これは執り成しの祈りでもあります。執り成しの説明もいろいろできるのですが、簡単に言えば他者のために神に何かを願うことです。アブラハムは自分の命ではなく、ソドムの正しい人のために命の救いを神に願います。
ここで私たちの普段の祈りと異なるのは、その場で神が返事をくれていることです。私たちの祈りは聞かれているかどうか、すぐには分かりません。基本的には、願いであれ、感謝であれ、言い方は悪いですが祈りっぱなしです。神の返事が返ってくることはほぼありません。それでも、祈りの本質は神との対話である、と私たちは知っております。そこを踏まえますと、今日の物語のアブラハムは執り成しを祈っているのです。
今週の木曜日は昇天木曜日です。御復活の後、40日を弟子たちと共に過ごされた主が天に帰って行かれます。イエスの働きもまた執り成しであったと言えます。神の国から遠いところに居る、神の国から拒絶されている、と思われていた人々に、あなたも神の国に居るのだ、と語り掛け、罪の赦しを宣言し、病を癒やし、立ち上がることを求めます。
弟子たちは、その執り成しの業を執り成しの祈りとして受け継ぎます。私たちもまた主の弟子として、日々の祈りの中に、感謝と賛美と願いと共に、執り成しの祈りを祈り続けたいものです。
時には何を執り成したらいいのか分からないときもあるかもしれません。言葉にならない祈りの時もあるかもしれません。そのような時、私たちと共に聖霊が執り成しの祈りを祈っておられる、とパウロはローマ教会に伝えます。大胆に、そして心を込めて、執り成しを祈って参りましょう。それは主御自身の働きでもあったのですから。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年5月2日
復活節第5主日(神の民)
聖書 出エジプト 19章1-13(1-8)節
讃美歌21 355、459
「神の民として」
主の御受難と御復活は元来のユダヤ教のカレンダーでは過越祭の最中のことでした。聖霊降臨祭もユダヤ教の五旬祭の日の出来事でした。過越祭は出エジプトの過越の出来事を記念する祭です。五旬祭はユダヤ教の伝承としては、出エジプトの旅の途中、律法が与えられたことを記念する日となっております。
今日の物語では、民がヤハウェに応えて「わたしたちは、主が語られたことをすべて行います」と言います。20章に入って十戒が与えられ、引き続き律法の条文が記されます(民数記 10:10 まで)。つまり、19章は五旬祭の元の場面なのです。ところが、私たちの数える五旬祭の日程とは合いません。出発地であるレフィディムの場所も不明です。到着した山も伝承ではシナイ半島南部のシナイ山ですが、これまた明らかではありません。
それでも、そこでモーセをリーダーとするイスラエルの民が、アブラハムの子孫たちが、あらためてモーセの伝える神に出会い、先祖の神の言葉に出会ったことが重要です。私たちにとってもこれはただの昔話ではなく、どこかの国の見知らぬ人たちの物語でもなく、私たちが、神の民として、神の守りと導き、恵みと祝福、に生きていることを繰り返して意識させられる物語です。
彼らはとある山の麓に宿営します。そこでモーセは山に登り、神の語りかけを聞きます。山に登ったのは、モーセが最初に神に出会ったのがホレブの山の上だったからでしょう。モーセにすれば神に呼ばれただけでなく、モーセ自身もなにがし神に尋ねたいことがあったように思えます。とりあえずエジプトを出てきたけど、さて次の作戦はどうなりますか?といったところでしょうか。
神はモーセに伝えます。「人々にこのように言いなさい。エジプト脱出は神の働きであり、神の戦いであった。海を割り、エジプト軍を壊滅させ、飢えればウズラとマナを与え、渇けば水を与え、アマレクを打ち破り、あなたたちを様々な敵から遠いこの山の麓まで鷲の翼に載せて連れてきたのは神であるわたしヤハウェだ。ヤコブの家の者たちは神の救いを見た。これに間違いないな。」
ここまで反論や疑問の余地を与えません。さらに続きます。
「わたしの声を聞き、わたしの契約を守るならば、あなたたちはわたしの宝となる」。契約を守らなかったら宝ではなくなるのです。後のイスラエルの歴史を踏まえての言葉でありましょう。この言葉を脅しと取るか恵みと取るか、契約の内容による、と思いそうになりますけれども、ここまでの出エジプト以来の導きを考えれば、この神様について行こうと思うことでありましょう。
出エジプト物語が実際のところどれだけの歴史的事実を元にしているか、という問題は一方にありますものの、何某かの歴史的事実が物語の核にあることはほぼ間違いありません。おそらくは、モーセに率いられた脱走奴隷の小さなグループが、国境警備隊から逃げおおせ、荒れ地の中で思いがけず食べ物や水を手に入れ、カナン地方を目指して厳しい旅をする中で、モーセの伝えた神の強さをヒシヒシと感じ、「モーセさん、オレたちはヤハウェの民になるよ。神様のこともっと詳しく教えてくれよ。」と言ったのは確かでありましょう。
イスラエルがヤハウェの宝であるとは、全ての民の間にあって、つまり全ての民の中でもヤハウェの宝なのである、と神は宣言します。しかもその全ての民自体が、神の物であり、神の被造物であるにも関わらず、その中でも宝である、というのです。
ここまでの出エジプト記でも、アブラハムの民は常に神から「わたしの子」と語られていました。全ての民が被造物であるならば、全ての民が神の子であって神の宝であってもよいのですが、中でもアブラハムの子孫であるヤコブの民が神の宝であるのは、神の言葉に聞き従い、神との契約を守るからでありましょう。
考えてみれば、出エジプト物語の発端はファラオによるイスラエル絶滅計画でした(後のイスラエルもカナン定着に際して何度も聖絶を行いますけど、聖絶は神の命令による神への献げ物なので同列にはできません)。ファラオの計画はアブラハムと神の間の契約を危うくするものであるだけでなく、天地創造への反逆を意味する、と見てもいいのかもしれません。
そのように神が思えばこそ、ここで神の言葉は「世界はすべてわたしのものである」と語るように思えます。それならば、イスラエルが神の祭司の王国であるのは、被造物である全ての民のために祈り、執り成しを為し、献げ物を行う、祭司の役割を務めなさい、ということになります。全ての民は被造物なのですから、神と契約を結んでいない民のためにも祈るのです。
話のロジックが循環してしまいますが、そのためには、イスラエルは神の声を聞き続け、神との契約を守り続けなければなりません。神の言葉の「わたしの声を聞き、わたしの契約を守るならば」のところは、文法的には必ずしも継続反復を意味する活用形ではないようですが、意味するところとしては、神の声を聞き続け、神との契約を守り続け、でありましょう。
私たちも、神の民として、神の声に聞き従い続け、神の被造物である全ての民のために執り成しの祈りを祈り続けて参りましょう。私たちの祈りを神が聞き届けてくださいますように。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年4月25日
復活節第4主日(キリストの掟)
聖書 ヨハネによる福音書 13章31-35節
讃美歌21 475、342
「新しい掟を」
キリスト教では、思い起こす、記念する、という言葉を特別な意味を込めて使います。たとえば聖餐式は主の御受難と御復活を記念します。イエス自身も「私の記念としてこれを行いなさい」と語ります。「記念する」には、過去の出来事を現在のこととして再現する意味合いが強くあります。思い起こして心に刻み、それを「現在の私」の中で意味づけます。現在化する、とも言います。積極的な意味合いが含まれております。
今日は福知山線事故から16年目の記念の日に当たります。パソコンの画面で繰り返し見たその日のこと、また運行が再開いたしました6/19の朝の景色はどちらも忘れることができません。事故に巻き込まれた人の魂に平安あれ・シャロームと今も思います。
今年の復活節前半はヨハネ福音書から何箇所かを取り上げております。今日御一緒に読みました物語は、最後の晩餐の直後の出来事として描かれます。ヨハネ福音書の最後の晩餐では、後の時代の聖餐式に繋がる食事は描かれません。ヨハネ福音書では6章と21章の物語がヨハネ版の聖餐制定物語と言えます。
むしろ、ヨハネ福音書の最後の晩餐の場面では、弟子の足を洗うイエスの姿が記されます。その時、イエスは、互いに足を洗い合いなさい、互いに仕え合いなさい、と命じます。先々週、私たちはトマスの疑いの場面を読みましたが、その場面でも、前半、イエスは互いに赦し合うことを求めておりました。
今日の物語では、互いに愛し合いなさい、ということが新しい掟として示されます。しかも、それによって弟子たちがイエスの弟子であることが世に示される、と言います。
ヨハネは受難を目前にしたイエスの教えとして、互いに仕えあい、互いに赦しあい、互いに愛しあう、を並べます。相互に神の業を示すことを強調します。そこにシャロームが生まれます。当時の日常の挨拶は朝も昼も夜もシャロームでした。平和・平安があるようにという祝福の祈りが挨拶でした。
先週は良い羊飼いの物語を御一緒に読みました。羊飼いは羊のために命を捨てる。そのことによって羊は命を得る。とイエスは語ります。イエスにとっての羊は、究極的には世界のすべての人でありますけれども、イエス自身の宣教活動において、まずもって意識されたのは、一言で言えば、社会の交わりから放り出された人たちでありました。貧しさによって神殿への献げ物を用意できない人。治らない病気やその後遺症のために町や村や神殿への立ち入りを禁止された人。神殿の権力者によって罪人とされた人。神の呪いを受けたとされた人。悪霊に取り憑かれた人。
シャロームから遠い人たちがイエスの羊でありました。そして彼らはイエスによってシャロームである命を再び得るのです。
それは神の子イエスから与えられた新しい命です。死んでいた命に新しい命が神から与えられるのです。イエス御自身の御復活についても、新約聖書の多くの箇所は文法的には受動態で記します。イエス御自身も、神によって復活させられたのです。
こうして見ていきますと、互いに愛し合いなさい、という新しい掟とは、単に仲良くしなさい、という命令ではなく、イエスによって与えられた新しい命に、神の国・神の愛が具現化された新しい命に生きる者として、キリストの愛を互いに祝福し合う。神の祝福を互いに与え合い、互いの間に働かせる。ことをイエスは命じています。ひいてはそれが、弟子たちが、イエスの弟子として、神の子の弟子として、弟子たちを通した神の業として、人々に新しい命を与えることになる。それが神の栄光を表すことになり、すべての人が神を知るようになる、と福音書は語ります。
ヨハネ福音書の「知る」は「信じる」でもあり、「信仰に留まる」でもあります。今日の物語も如何にもヨハネ福音書の書き方です。ヨハネがイエスの言葉に何某かの編集をしたのは間違いないでしょう。キリストの愛を互いに祝福し合って示すことで、すべての人が神を信じるようになる、とヨハネは主張しております。
再度の緊急事態宣言が発令されて私たちが主の弟子であることを世に示す機会は強い制限を受け続けております。もっとも、ヨハネの教会は迫害下にあったといわれております。それでも、キリストの新しい掟を行うことで、全ての人が神を知る。互いを祝福し合うことで、神の栄光を表し、神の業を示すことができる。とヨハネは主張します。
私たちは主日の礼拝の後半、平和の挨拶をいたします。これはシャロームを祈る祝福の挨拶です。主の平和がありますように、と互いに挨拶を交わすことは、互いに愛し合いなさい、というイエスの命令を現実化しているのです。復活のイエスも、弟子たちに「あなたがたにシャローム」と挨拶しております。弟子たちもシャロームと返したことでありましょう。
私たちの平和の挨拶も、ただの慣習的な挨拶ではありません。祝福の祈りの挨拶であり、イエスの新しい掟を実行する挨拶なのです。主から与えられた新しい命に生きる者として、日々に平和の祝福を交わし続けましょう。

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年4月18日
復活節第3主日(まことの羊飼い)
聖書 ヨハネによる福音書 10章7-18節
讃美歌21 120、459

「羊であるならば」

今日の物語はヨハネ福音書らしい小難しい文章です。ヨハネは誰に読ませるつもりでこの福音書を書いたのであろうか、と思います。物語の最後に、「こいつは悪霊に取り憑かれている」と言う人の言い分も、「悪霊に取り憑かれていたんではこういうことは言えない」と言う人の言い分も、分かる気がいたします。
さて、イエスを羊飼い、それもよい羊飼いとして示すのは、イエスについて語るときの重要なイメージの一つです。歴史的には、3~4世紀のローマですでに羊を肩に担いだイエスの彫像が作られていたことが分かっています。
イエスに限らず、聖書の中では古くから羊飼いは群れのリーダーとして描かれてきました。アブラハムは羊飼いでした。より正確に言えば羊飼いのボスでした。一族を連れてカナンの地に移住します。一族の中には多くの羊飼いが含まれておりました。日本風に言えば一族郎党ということになりましょう。語呂合わせではありませんけど、アブラハムの甥のロトも同じです。
旧約聖書では実際の羊飼いだけではなく、イスラエルの王を示す言葉でもあり、神の最も古い称号であるとも言われます。
古代イスラエル最初の王であったサウルの一族も羊飼いでありました。ダビデ王も元々は羊飼いの一族でした。詩編でも、イスラエルを羊に譬え、神を羊飼いに例える箇所が数えて10箇所ほどあります(77:21、78:52、79:13、80:2、95:7、100:3、など)。詩編の23編はその中でも有名な詩編です。イザヤ書(40:11.44:28)、エゼキエル書(44)、創世記(48:14)などを数えることもできます。キーワードを牧者、群れ、にしますともっと増えます。併せて読みたい箇所に挙げましたエゼキエル書の34章もその一つです。
新約聖書で、イエスが羊飼いとされるのも、これらの旧約聖書のイメージを引き継いでいるのです。ところで、実際の羊飼いの仕事は牧歌的なのんびりしたものではなく、羊泥棒や野生の猛獣たちと戦う場面もしばしばでした。有名な詩編23編、これも併せて読みたい箇所として挙がっておりますが、羊飼いの杖とムチは羊泥棒や猛獣と戦うための武器でありました。
羊飼いである王の戦いということで言えば、サウルもダビデも多くの戦いを指揮しました。サウルはペリシテ人と戦って戦死します。ダビデがサウルに召し抱えられる切っ掛けはゴリアテとの戦いでした。そののち、サウルと戦い、アブサロムと戦い、ペリシテ人と戦いました。神ヤハウェも元来は出エジプトに際してエジプト軍を打ち負かした強い戦いの神という性格を持ちます。
こうしてみますと、イエスが羊飼いであるとは、見た目が優しいとか頼りがいがあるとかではないと分かります。イエスは独立運動のリーダーとなることは拒否しましたが、一方で、神の国を実演しようとして神殿の権力者と戦い、最後はローマへの反逆者とされて殺されます。貧しい人や罪人とされる人、あるいは病を得た人たちがイエスの羊でありました。イエスはその人たちを社会から排除しようとするシステムと戦い、すべての羊が命を得る神の国を実現しようとして殺されたのです。
イエスが良い羊飼いであるとは、イエスが羊のために命を捨てることによって羊が救われることです。それが羊にとっての救いです。羊にとってはイエスこそが唯一絶対な羊飼いであり、他の羊飼いと比べて良いということではない、とヨハネは主張します。それを受けて第1ペトロの著者はイエスを「大牧者」と呼びます。
羊に対して求められていることは羊飼いを知ることです。ヨハネ福音書の言葉使いでは「知る」は「信じる」であり、「信仰に留まる」でもあります。多くの初代教会がそうであったように、ヨハネの教会も世間からの逆風にさらされておりました。その中を、イエスを良い羊飼いと信じる信仰に留まるようにとヨハネは求めるのです。
ただ、現代の都市住民である私たちには、羊も羊飼いも日常のもの(表象)ではありません。画面の向こうの存在です。キリスト教用語として慣れて(馴れて)しまっておりますけれども、それが具体的に私たちの現実の中で何を意味しているのか、と考えてみますと、簡単ではありません。詩編の23編で言えば、「青草の原」とか「憩いの水のほとり」は何処にある何のことなのでしょうか。そこに休んでいるとはどのような状態なのでしょうか。
ある先輩牧師は、裏返して考えたらピンとくるよと言ってこんな言い換えをしておりました。「時計は私の支配者。決して休ませてくれることはありません」「時計は私たちの魂を弱らせます」。
厳しい現代社会批判だと思いました。それ、言う場所を間違えたら文字通り殺されるよと思いましたが、イエスも2000年前の現代社会を批判して殺されたと思うと、その先輩はイエスの戦いをよく理解していたのかもしれません。
裏返さずに考えた時に、感染症対策に神経をとがらせ、平安を乱され、人と人の繋がりが危機にさらされている今こそ、教会こそが青草の原であり、憩いの水のほとりである場所でありたいと思います。
イエスはこうも語ります。「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。イエスによって活かされていることを心に刻み、イエスの命を豊かに受け、イエスに留まり続けようではありませんか。
合わせて読みたい
詩編 23編1-6節、エゼキエル書 34章7-15節、
第1ペトロ書 5章1-11節

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年4月11日
復活節第2主日(復活顕現)
聖書 ヨハネ福音書 20章19-31節
讃美歌21 329、532

「疑いを隠すことなく」

復活節の歩みを始めております。
今日は御復活の日にイエスが弟子たちの前に現れた顕現の場面を御一緒に読みました。弟子たちの前に立たれたイエスは、まず、「あなたがたに平和があるように」と挨拶します。これは当時のごく普通の挨拶、祝福の挨拶です。弟子たちを叱ったり、「あんたたちはゲッセマネで逃げただろう」などと恨み言を言ったりはしておりません。マタイ福音書とルカ福音書の復活顕現物語でもイエスは弟子たちに祝福を与えておりますものの、ヨハネ福音書が一番はっきりと弟子たちを祝福しているように見えます。
そして、手と脇腹、つまり釘の跡と槍の跡を見せます。
喜んだ弟子たちにイエスは息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と語ります。ヘブライ語では、風、霊、息、いずれもルーアッハという単語で表されます。日本語では訳し分けますけれども、日本語でも霊と息はごく近いところにありますし、風と霊は少し遠いかもしれませんが、風と息もまた近いところにあります。その辺りの感覚は日本語とヘブライ語で案外に近いのかもしれません。そして息を吹きかけたのが他ならぬイエスだからこそ失礼にならなかったところもあるでしょう。弟子たちの創世記の知識を前提にすれば、イエスからルーアッハを吹きかけられて、「神の聖なるルーアッハを受けなさい」と言われたことになります。
そして、多少前後しますが、派遣の命令と、罪の赦しの宣言が語られます。この赦しの宣言もいかにもヨハネ福音書らしいところであると言えます。ヨハネ福音書の15章では、互いに愛し合いなさいという命令が語られます。13章の洗足の物語では、互いに足を洗い合いなさい、互いに仕えなさい、という命令が語られます。罪の赦しの宣言も、主語が「あなたがた」と複数形になっておりますから、互いに赦し合うというニュアンスを含むと考えていいでしょう。
その時、トマスがそこに居ませんでした。ヨハネ福音書の物語では、他の弟子たちがイエスに会えて喜んでいる中を一人だけ疑っておりますので、疑うトマスとかなんとか言われて悪者になっておりますけれども、他の福音書を見ますと疑ったのはトマスだけではないことが分かります。
マルコ福音書では、女性の弟子たちはおそろしくなって墓の前から逃げております。マタイ福音書は「ある者は疑った」と記します。ルカ福音書でも弟子たちが動揺して信じられないでいるものですから、イエスは魚を一切れ食べて見せます。
現代人である私たちからすれば、この時、弟子たちが疑ってくれたことは、ある意味ホッとすることです。主の御復活を信じることはキリスト教の中心にある出来事なのですけれども、ここで弟子たち全員が即座に信じて大喜びしていたら、私たちは一片の疑いも持つことができなくなります。あるいはキリスト教に初めて出会った人が、そんな馬鹿なことあるわけないだろ、と思ったときに、その人の思いを全否定しなければならなくなり、その人に繋がってゆくことが難しくなります。
とはいえ、疑いをはっきりと口にしたのは福音書の記事を見る限りトマスだけでありました。しかしながらそのトマスに対しても、「傷口を確かめてみなさい」とイエスは語り掛けます。実際にトマスが傷口を確かめたのかどうか、確かめていないような気がしますけれども、イエスはトマスに「信じる者になりなさい」と励ましの言葉を与えます。
実際のところはイエスがどのような口調で言ったと考えるかによってイメージが違ってきますが、イエスのこの言葉を叱責ではなく励ましと捉えるならば、イエスはトマスの疑いを受け入れ、その上でトマスを祝福しているのです。「見ないのに信じる人は幸いだ」とイエスは言います。これは明らかにヨハネ福音書の読者に向けられた言葉です。ヨハネ福音書の読者は、2000年前の最初の読者たちも、2000年後の私たちも、イエスの傷口に手を入れることはできません。それでもイエスの復活を信じています。その幸いをイエスは語ります。
福音書を読んでイエスに出会った人は、この2000年おそらくほぼ全員が、3日目に生き返るなんて、そんな理屈に合わないこと、と最初は思うのです。それを口に出すか出さないかの違いだけで。そして私たちは、その疑いを口に出したトマスが結局はイエスの呼び掛けに応えて「わたしの主よ、私の神よ」と告白したことを知ります。その後のトマスがどうなったのかを聖書は記しません。伝承に依れば、彼はインドに伝道し、多くの人をキリストへの信仰に導いた後、殉教したとされます。
疑いを口にしたトマスは、それでも主の弟子であることをやめておりません。主の弟子であることから追放されておりません。振り返れば、旧約聖書の信仰でも、ただひたすらに神に従う信仰だけではなく、神に立ち向かい、どこまでも不審を質してゆくような信仰も記されています。ソドムが滅ぼされようとした時にアブラハムが食い下がったのもその一つでありましょう。
疑うことを怖れず、しかしながら、主の御復活を信じて、イエスの名による命を受けたいものです。
合わせて読みたい
詩編 145編1-13節、民数記 13章1-33節
2コリント書 4章7-18節

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マラナ・タ教会主日礼拝説教 2021年4月4日
復活節第1主日 復活祭
聖書 マルコによる福音書 16章1-8節
讃美歌21 321、328、81

「約束の地へ」

主の御復活のお祝いを申し上げます。
マルコ福音書のイースター物語は、空の墓の場面で福音書が唐突に終わります。墓の蓋が開けられ、御遺体がなくなり、どうらや天使らしい若者に出会ったマリアたちは、驚き、また恐れます。「そして、誰にも何も言わなかった。おそろしかったからである」と記されてマルコ福音書は終わります。空になった墓の第一発見者が、数人の女性の弟子たちであったことは間違いないようです。当時の女性の社会的な地位がどうであったのか、これはいろいろな説明があってよく分からないところも多いのですが、現代よりも男女の格差が大きい時代であったことだけはたしかです。それにもかかわらず、福音書は女性の弟子たちが最初に墓を見たと記します。こればかりはごまかしようのない事実であり、初代教会の中で広く伝えられた出来事であったのでしょう。
時間を少し戻して見ていきましょう。木曜日の夕方、満月の夜を迎えて過越祭が始まります。過越祭の特別な夕食がイエスと弟子たちにとっての最後の晩餐となりました。そのあと一行はエルサレムの町を出てゲッセマネの園に向かいます。足元を月明かりが照らしていたことでしょう。
そこにユダの率いる群衆が現れ、イエスは捕らえられます。木曜の夜が最高法院の裁判、金曜の朝がピラトの裁判、午後には処刑されます。金曜の夕方、日没と共に安息日が始まります。過越祭期間中の特別な安息日です。遺体を十字架上に放置するわけにはいきません。大急ぎで遺体は取り下ろされ、アリマタヤのヨセフが持っていた墓にただちに納められます。マグダラのマリアとヨセの母マリアがその様子を見ておりました。ヨセの母マリアがどういう人物なのか、この記事だけではわかりません。マグダラのマリアは福音書の随所に出てくる女性です。そしてどの福音書を見ても、マグダラのマリアこそが空の墓の最初の目撃者となります。彼女はイエスの御遺体を墓に納める様子を見ていたからこそ、日曜の朝に、その墓が空になっていることを証言できたのです。
少し先走りました。金曜の午後に戻りましょう。安息日が始まる前に、と急いで遺体が墓に納められます。金曜の日没から土曜日の日中までが安息日です。弟子たちが誰の家に居たのかも明らかではありませんけれども、おそらくは最後の晩餐の家、あるいはアリマタヤのヨセフの屋敷で、安息日を守ったのでありましょう。
土曜日の日没に安息日は明けますが、日が暮れてから、さぁ墓に行きましょう、とならないのは今も昔も変わりません。ジリジリと夜明けを待つ土曜日の夜が過ぎ、日曜の早朝、おそらくまだ日の出前だと思いますが、マリアたちは墓に向かいます。金曜にはおそらく準備してもいなければ、またそのための時間もなかったのでありましょう。当時の習慣に則して香料を遺体に塗るために、マリアたちは墓に向かいます。
そして空の墓を見つけ、天使の言葉を聞くのです。天使は「弟子たちにガリラヤへ行くように伝えなさい」と語ります。イエスは弟子たちよりも先にガリラヤへ行く。ガリラヤでこそ弟子たちはイエスに出会うだろう、と天使は告げるのです。たしかに、マルコ福音書の14章(14:28)を読み返しますと、イエスはそのように語っております。
マルコはその先を記しません。マルコの物語と使徒言行録を結び付けるならば、一度はガリラヤに帰った弟子たちは、そこであらためてイエスに出会い、エルサレムに出てきて聖霊を受けた、ということになりましょう。
ガリラヤは実際には天国でもなければ神の支配の行き渡った場所でもありません。むしろ現実のガリラヤは、豊かな農業生産をエルサレムとローマによって収奪される場所でした。しかしそこはイエスが神の国を宣言した場所であり、弟子たちがイエスと共に神の救いを実現しようとした場所でした。その意味で、弟子たちにとってガリラヤは神の民が目指す約束の地でありました。
多くの日本語訳は「そこでイエスに会える」と訳しますが、原文を見ますとガリラヤで会えることがもう少し強調されているように思えます。「ガリラヤでこそ会える」と訳すべきかもしれません。そう読むならば、それは単にイエスと再会できるというだけではなく、イエスがガリラヤで行おうとしたことに弟子たちがあらためて目を開かされる、というニュアンスを含むことになります。弟子たちはガリラヤに帰り、そこでイエスの神の国宣言を思い起こし、あらためてエルサレムに出てくるのです。
私たちにとってのガリラヤはどこであろうか?と思います。私たちがイエスに会える場所とはどこか?と思います。復活の主に会える場所とはどこなのでしょうか?私たちにとっての約束の地とはどこなのでしょうか?それは私たちが主に従うものとして歩み続ける場所に他なりません。
復活の主に出会い、主の食卓を共にいたしましょう。

合わせて読みたい
詩編 118編13-29節、ローマ書 6章3-11節
創世記 3章8-13節、22-24節

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主が私たちに平安を賜りますように。

わたしたちの教会は、プロテスタント諸派が合同してできた日本基督教団の教会です。穏健で健全な福音主義に立っています。どのような信仰の立場の方でも歓迎いたします。しかし教会が二千年間守ってきた伝統には忠実な教会です。

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