12月24日 午後7時~8時30分
今年は32名で共に御子のご降誕を喜び祝いました。
聖なる空間に歌声が響き、心に響くメッセージが語られました。
良き時間を感謝します。
「キリストの誕生」 ルカによる福音書2章1~20節
イエス・キリストの誕生の出来事が伝えられています。ミッションスクールではページェントでかわいらしく演じられます。懐かしく思われる方も大勢おられるでしょう。主役は不思議なことにヨセフとマリアではなくて天使と羊飼いです。なるほど神の御子の誕生に天使が出てくるのは、もっともな気がします。この天使に天の大軍が加わって、神を賛美したと言うのです。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」。大聖歌隊です。大軍の軍は軍隊の軍で大きな群れではなく軍勢です。ロシアの赤軍合唱団みたいなものでしょうか。いずれにせよ、天使と天の軍勢は、いかにも救い主の誕生にふさわしい感じがします。
しかし、もう一方の主役に羊飼いが出てくるのはどういうことでしょうか。「その頃皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」とあります。狙いは、もちろん税金を徴収するため、もうひとつは兵役に適した人間を把握しておくためです。この勅令のせいでヨセフたちも旅をせざるを得ませんでした。ダビデの町ベツレヘムは大混雑、「宿屋には彼らの泊まるところがなかった」とあります。そういう混雑から離れて羊飼いは野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしておりました。野宿と聞きますと、テントを張ってキャンプをしているように聞こえるかもしれませんが、ここでの野宿は「外側に住んで」という意味です。「周辺に追いやられて」と訳してもいいくらいです。登録するためにベツレヘム郊外まで来たけれども、宿泊場所がないので野宿をしていたのではありません。彼らはもともと数に入っていなかったのです。統計外の人たちです。人頭税の対象でもなければ、徴兵の対象でもありませんでした。羊飼いは、ユダヤの社会からも差別され、地の民、土の民と呼ばれていました。地面に寝るので汚れていました。もちろん風呂には入りません。羊飼いとは、羊を飼う職業の人というより、「あの汚い連中」という感じで見られていた人たち、人間扱いされていなかった人々です。
イエス・キリストの誕生は、天使によって羊飼いに告げられたと聖書は語ります。とても不思議なことです。神の御子、救い主キリストの誕生は、差別され、神による救いとは全く関係ないとされていた羊飼いに告げられたのです。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。羊飼いたちが宗教儀式を遵守することは不可能でした。清めの祭儀を守ることができなければ汚れた者と見なされます。ですから彼らにとって神はまったく縁遠い存在でした。彼らには神の救いを思い巡らす余裕はなかったでしょう。彼らの生活に神は関係ありませんでした。しかし、そのような彼らに神が介入されたのです。「彼らは非常に恐れた」と書かれています。
いつ死ぬかわからない生の恐れや、いつ破綻するか知れない暮らしの恐れ、いつやってくるかわからない大地震、津波など自然災害への恐れ、確実に進行している地球温暖化への恐れ、誰でもいいから殺したいという狂人への恐れ、戦争に突き進むかもしれないこの時代への恐れなど、わたしたちには恐れが多々あります。人によってはもっと違った恐れもあるかもしれません。適当に生きるのではなく、物事にまっすぐ向き合って真摯に生きることができるか、自分の責任をきちんと引き受けられるかという恐れです。誠実に真摯に生きる責任を負うには、自分の時間を多く費やす必要がありますし、ときに自分の利益にならないこともしなければなりません。しばしばこの世の流れに逆らう困難で狭い道を行くことになります。そんなふうに一途に生きられるのかという恐れも出てきます。
どうすればいいでしょうか。わたしたちがこういう恐れに取りつかれてしまうのは、本当に恐れるべきものを恐れていないからではないでしょうか。本当に恐れるべきもの、それは神です。必要な時だけ神を思い起こし、必要な時だけ呼び出して、魔法のランプに潜む巨人にお願いする感覚の人は、何ら恐れることはないでしょう。また年に一度、良い年であるようにと願をかけさせすれば、後はあなた任せと考えられるならば、やはり何も恐れることはありません。しかし、もし神がわたしたちの職場や家庭、つまり生活の場を照らしだし人生に介入されるお方であるならば、人は恐れざるを得ません。神がきちんと善悪を判断されるとするならば、わたしたちは果たして立っていることはできるでしょうか。
今まで神とは関係がないと思っていた羊飼いに、神は介入なさいました。羊飼いは神の介入を非常に恐れました。ですから天使が「恐れることはない」と言ったのです。恐れるなとは、聖書を読む人にとっては最も力ある言葉です。断固たる命令であり、絶対的信頼への要求でもあります。と同時に神の守りや恩恵など信じることのできなかった羊飼いに、安心しなさい、神があなたを守ってくださるのだと告げる恵みの言葉でもあります。
天使は言います、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。民全体ですからユダヤ人だけではなく、羊飼いを含めて、ローマ人にもギリシア人にもです。すべての人に何か大きな喜びを告げるときは、普通代表者に告げます。ユダヤでメシア、救い主、国を解放してくれるリーダーを待ち望んでいたのは、ユダヤ主流派の人たちでした。羊飼いではありません。にもかかわらず、キリストの誕生は、宮殿の広間にいる貴族ではなく、神殿にいる宗教家でもなく、まず羊飼いに伝えられたのです。キリストの誕生を知らされる出来事では、彼らも間違いなく数に入っていたのです。むしろ知らされる民の代表にさえなっている感じなのです。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。ユダヤの民が待ち望んできたメシアの誕生、これが「民全体に与えられる大きな喜び」の内容です。人びとは「メシアの誕生とお前たち羊飼いのような者と何の関わりがあるか」と言うかもしれません。しかし、神の使いはこう言ったのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。羊飼いも無関係ではないのです。むしろ羊飼いこそ救いの対象でした。メシアはすべての人の救い主だったのです。
生まれてくる赤ちゃんが「あなたがたのための救い主」であるなら、羊飼いにどんな素晴らしい「しるし」を神は見せてくださったでしょうか。期待とは異なり、救い主であることのしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。普通は赤ちゃんを飼い葉桶には寝かせません。あまり清潔な感じがしませんので。赤ん坊が飼い葉桶に寝かされているのは、身重なのにベツレヘムへの旅を強いられた若い女性がいたからです。ローマの権力に翻弄されたヨセフとマリアの無力さのゆえでした。人間の数に入っていなかった羊飼いに示された救い主の誕生は、汚い桶に寝かされた赤ん坊という姿で示されたのです。この事実が一体何を示しているのか、わたしたちはこの福音書を終わり近くまで読んで知ることになります。この飼い葉桶の乳飲み子は、決して安全で、行きやすい道を歩まれたのではありません。やがて成長したときに、両親がそうであったように無力な者として、十字架にかけられて殺されてしまいます。飼い葉桶に寝かされるほかなかった誕生は、十字架で終わる、その人生全体の不幸を象徴しているかのようです。
「この幼子について天使が話してくれたことを人びとに知らせた。聞いたものはみな、羊飼いたちの話を不思議に思った」。羊飼いが興奮して語るただならぬ話に、こいつらは何かを見たんだなという驚きはあったでしょうが、皆、おそらくまじめには聞かなかったでしょう。「不思議に思った」というのは、びっくりしたということですが、話の中身だけでなく、そもそも羊飼いが羊を置いて町中にやってきて、赤ん坊を探してうろうろしていることに驚いたのだと思います。いずれにせよ羊飼いの話をまともに聞いた人はほんの少しだと思います。今日世界中で何億もの人が、この物語を聞くことを思えば、世界で最初のクリスマスのさびしさが際立ちます。しかし母マリアだけは、羊飼いの語った不思議なことを心に納めて思いを巡らせました。マリアはこの後、息子のイエス様が困難に出会うたびに、この出来事を思い出したでしょう。おそらく救い主の誕生に本当の意味で出会ったのは、羊飼いとマリアだけだったのではないでしょうか。これがルカの語るクリスマスの出来事です。
さて皆さん、今夜、わたしたちはこの話をどのように聞くでしょうか。最近クリスマスというと年末の楽しい祝日、パーティーや贈り物のシーズンと連想する人が多そうですが、皆さんのクリスマスのイメージはどういうものでしょうか。一昔前、わたしたちの世代のクリスマスのイメージは、完全に近代ヨーロッパの姿でした。雪が降る静かな夜に、遠くから聞こえる鐘の音に耳を澄ませ、暖房の効いた部屋の中で、ショートケーキを食べプレゼントに囲まれて家族と過ごす。でも、そういう場所にいると見失いがちなことがあります。羊飼いに告げられた「民全体に与えられる大きな喜び」です。わたしたち世界の総ての人にあたえられた、この喜びとは何だったのでしょう。それは、神が人となってわたしたちのところに来てくださったという奇跡です。神が共におられる、その時初めて、わたしたちは本当の意味で生きることができます。神と親しい関係があれば、家族や友人との関係も正しくできます。わたしは神とも人とも仲良くする必要がないという人はクリスマスとは無関係ですが、そんな人はいらっしゃらないでしょう。
この子はイエスと名付けられました。「救い」という意味です。元のへブル語では「神は救い」を意味する名前です。当時の人はみな、ローマ支配からの救い、ローマと戦ってくれるリーダーを期待しましたが、本当は神を失った状態からの救いだったのです。聖書が語る、救い主のお名前、救い、インマ・ヌ・エール、「神がわたしと共におられる」ということを、今一度かみしめながら、祈りのうちに春を待ちたいと思います。
祈りましょう。
イエス・キリストの父なる神、わたしたちは救い主のご降誕、クリスマスの物語をよく知っているつもりです。しかし今夜もまた問われました。本当に知っているのかと。死ぬまで問い続けられることでしょう。本当にイエス・キリストを知っていますかと。元気な時だけでなく、死ぬときにも神の慰めが等しくあるということを思うことができますように。わたしの中でインマヌエル、神が共におられるという出来事が成就しますように。神をあがめ、賛美しながら帰って行った羊飼いのように、わたしたちも、今夜、賛美しながら帰って行けますように。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
説教音声