創立40周年を迎えますにあたり、9月16日(日)、通常の礼拝とは別に午後3時より『40周年記念礼拝』を献げました。
2018年9月16日 創立40周年記念礼拝の説教
「見よ、新しいことをわたしは行う」
イザヤ書43章14~21節 説教 久下倫生
今日はマラナ・タ教会創立満四十年を記念するために、このように集まっております。振り返れば、土地を購入し、宗教法人格を取得し、会堂を建て、墓地を整え、牧師館を備え、マラナ・タ教会は教会として必要なものを整えてきました。ここまでお導き下さった神の素晴らしい御業を賛美します。と同時に、今日ここにつながりのあった方々と共に礼拝できますことを心の底から感謝致します。皆さん、いろんな心持で集まり祝ってくださっていると思います。この四十年の神の導き・恵みを感謝して、また創立時から途切れることなく今も続けてこの場において神を礼拝できることが嬉しくて、あるいは五十周年に向けこれからの十年の始まりとしてという方もおられるかもしれません。いずれにせよ、新しい仲間、懐かしい仲間が共々に創立記念礼拝を守ることができる、これは本当にめでたく嬉しいことです。今日は皆さんと共に、イザヤ書の御言葉に耳を傾けながら、創立記念日を祝う意味を再確認しつつ、この喜びを共有したいと思います。
今読まれました旧約聖書の箇所は、戦争に敗れて国を失った人々が、遠い異国に捕囚となって連れて来られてから何十年か経ったときの話です。紀元前六世紀、ユダヤの国はバビロンによって滅ぼされました。王や神殿の祭司、技術者など主だった人々は捕囚となって砂漠の向こう側の地、千キロも東のバビロンまで砂漠を迂回して連れて行かれました。今のイラクです。そして都エルサレムは破壊されました。それからもう何十年もの時が立ちました。その異国の地で子供たちが生まれ育ち、又その子どもたちが生まれました。人々は神から見捨てられたのだとのあきらめの中、日々を過ごしておりました。戦争に負け、国が亡ぼされ、外国へ連れて行かれる。第二次大戦の敗北よりもずっとひどい状態です。今の平和な日本に暮らすわたしたちとはあまりにもかけ離れた状況ですが、どうか想像力を働かせてください。そういう状況の中、おそらくバビロン生まれであろう、無名の預言者の言葉がイザヤ書の四十章以下に残されております。捕囚が長く続き、精神的にも荒廃していた人々に、目には見えないけれども神のご計画は進んでいると力づけております。この預言者の言葉は、ずっと昔の特殊な時代に語られたものではありますが、教会創立四十周年を迎え、新しい歩みに入ろうとしているわたしたちにとっても、四十年を祝うこの時に読むにふさわしい言葉、聞くべき言葉です。
国が滅ぼされ、国王は殺され、エルサレムは廃墟になって、もう何十年にもなるのに何も起こりませんでした。人々は、こう言いました。「神よ、あなたは、昔は力ある方でした。ご先祖をエジプトの地から救い出してくださいました。エジプトの大軍を打ちのめし海の中に道を開いて戦ってくださいました。またダビデ王をたて国を祝福し、都エルサレムを繁栄の中においてくださいました。あの頃はすばらしかった」。これが彼らの気持ちでした。口にはしませんがこう続くはずです。「でも今は、もうだめですね。バビロンの神、ネボとマルドックの前で沈黙し、わたしたちを救うこともここから導き出してくださることもない」。
もう自分たちには本当の意味で新しいことは起こらない。神による歴史への介入などは幻想に過ぎないとあきらめ、絶望に支配されていました。希望を見出すのが難しい状況だったのです。こういう状況におかれると人は惨めです。自分の置かれている現実を忘れようとし、昔のことを思いめぐらします。はじめからのこと、過ぎ去ったことを思い出しながら、今ではなく過去の記憶に生きようとするのです。この時代の人々もそうでした。人々は安息日と割礼の習慣を守ることで、かろうじて自分たちのアイデンティティーを守っていました。昔の幸せを思い出しながら、人々は無気力の中で未来を閉ざしていたのです。
その人々に神は「わたしは、あなたたちのために バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて外し カルデア人を歓楽の船から引き下ろす」 (十四節b)とおっしゃいました。カルデア人とはバビロニア人のことです。強国ペルシアの王キュロスがバビロンを攻め、ユダヤ人たちを解放することが予告されたのです。その神は「海の中に道を通し 恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し 彼らを倒して再び立つことを許さず 灯心のように消え去らせた方」(十六、十七節)であると、エジプトから逃げる民のために、海の中に道を開かれた方であることが語られています。
たとえ過去が栄光に満ちていても、思い出に生きようとするとき、神が用意されている新しい展開、新しい恵みに気がつかないことが起こります。そんな人々に預言者は語ります、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」(十八節)と。後ろを振り返り、昔神がなしてくださった救いの奇跡、エジプトから奇跡的に脱出し国を作った栄光にしがみついてばかりいるのではなく、新しくなされることに目を向けるようにと言ったのです。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」(十九節)。いまや予想もしなかったことが起こる。その兆しが見える。神が新たに起こされることの兆しが見える、とこの預言者は言います。バビロンとユダの間は砂漠です。そこは砂の大地で水もない荒涼たる土地です。簡単には越えることはできません。今度は海ではなく、その延々と続く砂漠に、神は道を敷き、大きな川を流れさせられるとおっしゃるのです。
そして、「野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(二十、二十一節)とおっしゃいました。つまり、その道ができるとき、道の近辺は豊かな水で潤い、野の生き物もその恩恵に与るようになると言われたのです。神がなさるとおっしゃることは、期待することや信じることはもちろん、予想すらできないような新しいことでした。荒れ野に道ができ、その道を通って脱出することができる。神は再び救ってくださるというのです。このあと、驚くべきことに自分たちを拘束していたバビロンが滅びます。預言者の言葉が現実となってきたのです。しかしだからといって、祖国は遠いし、もう何十年も経っていますから、バビロン生まれのユダヤ人たちは、なかなか荒廃した祖国に帰ろうとはしませんでした。多くの人は神が用意してくださっている新しい展開、新しい恵みに、一歩を踏み出せなかったのです。
わたしたちは、過去に神がなしてくださったことだけに目を向け、こういうお方だと歴史的に捉えるだけになってはいないでしょうか。今働いてくださることに心から期待をしているでしょうか。神は生きておられます。今実際になしてくださることに目を向けなければなりません。新しいことをわたしたちになしてくださるであろうことを、本当に期待をもって待ち望まなくてはならないのです。
四十年前の一九七八年九月十七日、香里教会枚方礼拝として第一回目の礼拝が守らました。当時香里教会は現住陪餐会員が百八十名余り、年間を通じての平均礼拝出席者数が、百名を超えておりましたから、大教会と言ってもよかったと思います。香里教会七十年の歴史の中で最も数字上の教勢が強かった時代です。また有能な信徒も大勢おられました。しかし実は、教会が分裂するかも知れないという危機に曝されておりました。ちょうど新約聖書の時代の教会、例えばエフェソの教会と同じような状況にあったのです。それにもかかわらず、その困難の中で、教職・信徒は一致してこの伝道所を開設。多額の献金をして現在地を購入し、この地で礼拝を続ける基礎を造りました。ここに教会のもつ人間的脆弱さと、それにもかかわらず神がこれを支えて励まし強めてくださる霊的確かさを見ることができます。教会が創立記念を祝うときに、この二つをしっかり見ることが必要だと思わされます。
マラナ・タ教会は十七名で礼拝するところからスタートしました。すぐに二十名を超え、一時期四十名近くが礼拝しました。しかし今は元通り、二十~二十五名くらいの礼拝になっております。当時は教会学校が盛んでしたが、今は子供が一人もおりません。わたしは三年程で教会を出ましたので途中はいませんでしたが、四十年前の最初の礼拝に出た人間の一人です。昔はこうだったなと思い出すと同時に、これからどうなっていくのだろうと思います。そんなとき、この四十年の延長線上に教会の未来を考えてしまいがちです。しかし、未来があるのは延長線上ではありません。神が新しいことを為してくださるからです。
神がこれまでなさったすばらしいことをいくら知っても、今わたしたちと共におられる神に眼を向けなかったら、このイザヤ書の人々と同じで、神が用意してくださっている新しい展開、新しい恵みに気がつかないことが起こります。預言者は、砂漠の中に神の新しい世界の始まりを見ました。壮大な幻です。砂漠に水が湧き、野獣たちが神を賛美する。すごいですね。わたしたちには主イエス・キリストの内に生きる新しい生活が与えられています。わたしたちにはっきり分かる新しいことが始まっております。今わたしたちはどこに目を向けているでしょうか。ちゃんとイエス様の方に向いているでしょうか。
マラナ・タ教会にも神は共に歩んでいろんな働きをしてくださいました。みんなが喜んで賛美できるようになり、礼拝の賛美がとても元気になってきました。昨年の秋には外部の助けも借りましたが、バッハのものすごくむつかしい素晴らしいコラールを歌いました。聖餐が整えられ、典礼の在り方が変わってきました。聖書の学びが深くなってきました。説教にアーメンと応じられるようになりました。同じ御言葉を読んで祈るようになりました。何よりも牧師が二組になりました。これから教会学校も再開されるかもしれません。音楽を通じた伝道を始めるために音楽主事を置くことも検討されています。これまで想像もしなかった全く新しいことが起こる、その兆しが見えます。五十周年は全く異なった祝い方ができるでしょう。厳しい想像をするなら、日本基督教団という組織はなくなっているかもしれません。信徒が減り続けているからです。マラナ・タの場合、十年後は教会員が創立時とは完全に入れ替わるはずです。最初からのことを覚えている人間はいなくなります。過去はこうだったというわたしのような人間はもういなくなるでしょう。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」です。新しいマラナ・タ教会がそこにはある筈です。
この四十年わたしたちは感謝の内に頑張って来ました。人の努力を軽く見てはならないと思います。特に最初の十五年、土地を購入し、法人格を取得しついでこの会堂を神に献げた頃の牧師と信徒の努力です。しかし、こんなことをしたあんなに頑張ったというだけに留まってはなりません。神が何をしてくださったかということがもっと大事だからです。だからと言って神が導かれた、恵みだ、感謝だと言っているだけでも過去にとらわれてしまいます。神も「頑張って」マラナ・タ教会を導かれたのです。神が汗を流してくださった。いや血を流してくださったという方が正確でしょう。ですからそれに応えて先輩たちも頑張ることができたのです。
今新しい歩みを始めようとしていますこの時に、わたしたちには何が求められているのでしょうか。エフェソの信徒への手紙に次のように書かれています。「だから、・・・・滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソの信徒への手紙四章二十三、二十四節)。この手紙の著者は古い生き方をやめて新しい生き方を選ぶ必要を強調して「心の底から新たにされて」、「真理に基づいた(正しく清い)生活を送る」ようにと言います。口語訳聖書ではこの聖句は、「心の深みまで新たにされて」と訳されていました。もうひとつ前の聖書では、「心の霊を新たにし」となっています。この文語訳が元の言葉に一番近いと思います。新しくなるとは、霊が新しくされるのです。霊と訳されている言葉は、人間存在のすべてを表す語で、心魂、心と魂と訳してもいい言葉です。魂の深みにおいて、心の底から新しくなるということは反省などというレベルの話ではありません。今の言葉で言えばスピリチュアルなものが心身共に新しくなるということです。
新しくされるとは、完全に受身です。人間が新しくされるのは受身であって、自ら新しくなることは出来ません。この受身を先ほど交読しました詩篇五十一篇はよく現しています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください」(詩篇五十一篇、十二~十四節)。この詩人の祈りを自分たちのものにするとき、わたしたちは新しくなっていくことが出来ると思います。わたしたちはそれを願ってこの十年、毎週この詩編を唱えてまいりました。
古い人を脱いで新しい人を着る、これが可能になってこそ四十年目を祝う真の意味が満たされるでしょう。いまや「きざし」がはっきり見えます。わたしたちとマラナ・タ教会は変わっていきます。この自覚が、四十年目のわたしたちに求められております。
祈ります。
主なる神さま、マラナ・タ教会を四十年間守り導いてくださったことを感謝します。あなたのご計画の兆しを見、あなたが今働いてくださっていることにしっかりと目を向けて期待して待つことができますように強めてください。新しい歩みに踏み出そうとしていますわたしたちを新しくし、これからもあなたの呼びかけに応えることができますよう支えてください。そしてあなたを見上げて歩むことが出来るように助け励ましてください。マラナ・タ教会を祝福してください。
主のみ名によって祈ります。アーメン。
9月16日午後3時 創立40周年記念礼拝の音声